坂を上る足に、少し前より力がいるようになっていた。
朝の空気は、涼しさを通り越して、わずかに冷たさを帯びるようになっている。頬に触れる風のたびに、千綴は小さく肩をすくめた。
道の端を、誰かがジャージ姿で走り抜けていった。振り返る間もなく、その背中は坂の上へ消えていく。
朝から走っている生徒を見かけることが、以前より増えた気がした。体育祭が近づいているせいかもしれない。種目が決まってからというもの、教室でも廊下でも、その話題を耳にする機会が増えていた。
虫の声も少し前とは変わっている。蝉の声が主だったころは遠くなり、今は足元の草むらから細く途切れない音が聞こえてきた。
「ちづる」
後ろから声がした。
振り返ると、綾乃が小走りに坂を上ってくるところだった。
「おはよう、綾乃」
「おはよう」
綾乃が追いつき、千綴の隣に並ぶ。そのまま二人で坂を上っていった。
「今日、放課後は生徒会だっけ」
「うん。障害物競走と借り物・借り人の中身、まだ決めてなくて」
「大変そう」
「かもね」
そんな話をしているうちに、二人は昇降口の前へたどり着いた。
靴を履き替えていると、横合いから声がかかる。
「千綴」
振り返ると、悠司だった。
「おはよう、悠司」
「おはよう」
「おはよう、守屋くん」
綾乃も軽く手を挙げる。
悠司は小さく頷き返してから、千綴に向き直った。
「今日、放課後、集まれそうか」
「うん。今日中に終わらせたい」
「だな」
悠司はそれ以上の説明を求めることもなく、短く頷いた。
昇降口には、次々と生徒が入ってくる。
挨拶を交わす声、上履きに履き替える音、そうした音の合間を縫うように、体育祭の話題がいくつも聞こえてきた。
「じゃあ、また放課後」
「うん、また」
悠司はそう言って、別の教室がある方向へ歩いていった。
「相変わらず、真面目だね」
その背中を見送りながら綾乃が言う。
「そうだね」
千綴も苦笑し、二人はそのまま自分たちの教室へ向かった。
教室に入ると、生徒たちの話し声は、もう体育祭一色になっていた。
種目が決まってから数日が経ち、話題は「誰が出るか」から「どう練習するか」へ移りつつある。
千綴は自分の席へ向かい、鞄を机の横に置いた。
少し離れた席では、ヴァシリオスが身振り手振りを交えて何かを力説している。
「いいか、リレーはバトンの受け渡しが命だ。今のうちから練習しておかないと」
「今日から?」
環が机に頬杖をついたまま、気のない返事をする。
「善は急げと言うだろう」
「言葉は合ってるけど、使い方が合ってない気がする」
ヴァシリオスは気にする様子もなく、なおも身振りを続けている。
千綴は自分の席に着きながら、その様子を横目に見た。
教室に流れる空気は、この数日ですっかり体育祭寄りに変わっている。
やがて予鈴が鳴り、生徒たちがそれぞれの席へ戻っていった。少し遅れて教室の前の扉が開き、山田先生が入ってくる。
「おはよう」
声に合わせて、教室の話し声が少しずつ収まっていった。
教壇に立つと、出席簿を開いた。
いつもと同じように、一人ずつ名前が呼ばれていく。
千綴は自分の名前が呼ばれたところで、短く返事をした。
出欠確認が終わると、出席簿を閉じたが、すぐには教壇を離れなかった。
「今日は、ひとつ伝えておくことがある」
出席簿へ目を落としてから、教室を見回した。
「学校全体で、休む生徒が少し増えてきてるらしい」
教室のあちこちで、何人かが顔を見合わせる。
「体育祭も近いからな。体調が悪いときは無理せず休むこと。睡眠もちゃんと取っておけ」
「先生、リレーの練習はしていいんですよね」
ヴァシリオスがすぐに声を上げる。
「授業と部活に支障が出ない範囲でな」
「分かった」
「そこだけ返事いいね」
環が横から言い、教室に小さな笑いが起きた。
千綴は自分の机に目を落としながら、先生の言葉を思い返した。
(学校全体で、か)
自分のクラスには、今のところ目立った欠席者はいない。それでも、どこかでは少しずつ増えているらしい。そのことだけが、わずかに引っかかった。
「それじゃ、一時間目、始めるぞ」
そう言って教壇を離れた。
教室には、また体育祭の話し声が戻ってくる。
ただ、その中に、さっきまでとは少しだけ違う響きが混じっているように、千綴には感じられた。
昼休みになると、千綴は購買でパンを買い、生徒会室へ向かった。
放課後だけでは終わらない仕事が増えていた。体育祭の準備と並行して文化祭に向けた資料整理も進んでいることは、千綴も承知している。
自分の席に座り、パンの袋を開けながら机の上へ目をやると、種目表の隣には文化祭関連と思われる別の紙束が積まれていた。
パンを半分ほど食べ終えたころ、扉が開いて悠司が入ってきた。
「お疲れ」
「お疲れさま」
悠司は弁当箱を片手に、自分の席へ着く。
二人で机を挟んで昼食を取っていると、扉が開いた。
「あ」
顔を出したのは、会長だった。
「忘れ物、取りに来ただけなんだけど」
そう言いながら、机の隅に置きっぱなしだったらしいファイルを手に取る。
その拍子に、種目表が目に入ったらしい。
「これ、まだだったのか」
「あ、はい。放課後に決めようと思ってます」
「なるべく早めにな。印刷とか、色々あるから」
「分かりました」
千綴が答えると、会長は軽く頷いた。
「借り物のお題は、危ないものや際どいものが混ざらないよう気をつけてくれ。人を借りる方も、当日いない人を挙げられても困るから、そのあたりも考えておいてくれると助かる」
「気をつけます」
会長はファイルを抱え直すと、「じゃあ」とだけ言って生徒会室を出ていった。扉が閉まるのを見て、千綴は残りのパンを口に運びながら悠司と顔を見合わせた。
「ちゃんと見てるんだね、ああいうところ」
「まあな」
しばらくして、鈴が入ってきた。
「お疲れさまです、弥生先輩」
「お疲れさま、鈴」
鈴は自分の椅子に座り、机の上の書類へ手を伸ばす。
「これ、増えてますね」
「文化祭の分だって」
「なるほど」
三人で机を囲む形になった。
鈴が種目表の一部を指しながら、確認を進めていく。
「障害物競走と借り物・借り人、中身、まだ空欄なんですよね」
「うん。放課後に決めよう」
「時間、足りるといいけどな」
「足りなくても、終わらせる」
千綴が言うと、鈴が小さく笑った。
「弥生先輩らしいです」
書類をめくる音と、ペン先が紙をこする音が、しばらく続いた。
ふと、今朝のHRで聞いた話が頭をよぎる。
「そういえば、うちのクラスも、朝のHRで先生から言われたよ。休む生徒が増えてるって」
「ああ、それ」
悠司が頷く。
「うちの担任も、似たようなこと言ってた」
「学校全体の話みたいですね」
鈴が言う。
深く考えるほどのことでもない気がしたし、今は他にやるべきことがある。
「季節の変わり目だから、仕方ないんじゃないですか」
鈴がそう言って、話はそれ以上広がらなかった。
話はそこで途切れ、三人はそれぞれの作業へ戻った。昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴るまで、生徒会室にはペンと紙の音だけが続いた。
放課後、三人は再び生徒会室に集まった。
机の上には、まだ中身の決まっていない二つの欄が残っている。障害物競走と、借り物・借り人競争だった。
「じゃあ、決めよっか」
千綴がそう言うと、鈴がペンを構えた。
「まずは障害物競走からでいいですか」
「うん」
鈴が候補を書き出していく。ネットくぐり、ハードルまたぎ、麻袋ジャンプ、キャタピラー、カード引き、ぐるぐるバット、風船割り。紙の上へ名前が増えるたび、悠司が腕を組んで眺めた。
「全部は無理だな」
「ですね。枠が四十分しかないので」
準備と片付けを考えると、実際に走れるのは二十分ほどになる。三人で過去の資料と照らし合わせた結果、一レース三分前後、全体で六、七レース程度を目安にすることになった。
「なら、障害物は四つくらいか」
「五つ以上だと、詰まる人が出た時に厳しいと思います」
時間の読みにくい風船割りや、準備に手間のかかる案を外し、残った候補を順番まで含めて詰めていく。
「最初はネットくぐりでいいんじゃないか。スタート直後なら、少しバラけるだろ」
「設置もしやすいです」
「じゃあ、それで」
二つ目には麻袋ジャンプが入った。
「ヴァシリオスとかがやったら面白そうだな」
「想像つきます」
鈴が小さく笑う。
三つ目はカード引き。引いた内容に応じて、その場で縄跳びを十回する、後ろ向きに十メートル進む、といった簡単な指示を入れる。最後は、ゴール前のぐるぐるバットに決まった。
「フラフラのままゴールに行く形ですね」
「見てる方は面白そう」
「自分がやるところ想像すると、ちょっと嫌だけどな」
「先輩は出場しないので大丈夫です」
「そういう問題じゃない」
鈴が澄まし顔で返し、千綴は小さく笑った。
ネットくぐり、麻袋ジャンプ、カード引き、ぐるぐるバット。鈴が決まった順番を紙へ書き込む。
「じゃあ、次は借り物・借り人ですね」
こちらは三十分枠だった。準備は短く済むが、借りた物を返す時間が必要になる。片付けまで考えると、実際に競技へ使えるのは十七分ほど。四レースを基本にすることでまとまった。
「問題は、探す時間だな」
「マイクを使うのはどうでしょう」
鈴が顔を上げる。
「引いたお題を会場に向けて言ってもらえば、観客の方から協力してくれると思います」
「それなら早そう」
探す時間には二分半程度の上限を設け、見つからなければその場で打ち切る。珍しすぎる物は避け、貸してもらえない場合は無理強いしない。そのあたりまで決めると、ようやくお題そのものの話になった。
「靴下とか、腕時計、水筒。そのへんは定番でいいと思う」
「スマホとメガネも入れよっか」
「ハンカチもよさそうです」
鈴が次々にメモしていく。
「あと、一万円札とかは?」
悠司が思いつきで言うと、鈴がすぐに首を振った。
「それはやめた方がいいと思います。落としたり破れたりしたら責任問題になりますし」
「さっき会長にも言われたしな。危ないのとか際どいのはなしで」
「うん、それは外そう」
借り人は、先生、部活の人、歴史の先生、一番足が速い人、といった会場内で探しやすいものを中心にする。
「『生徒会役員』を入れるのはどうでしょう」
「それ、私たちが走らされる側になるやつじゃない」
「はい」
鈴は悪びれずに頷いた。
「まあ、それくらいならいいんじゃない」
千綴が苦笑する。
「あと、こういうのも見たんですけど」
鈴が一瞬だけ言葉を選んだ。
「『今、気になっている人』、みたいなお題も、盛り上がるとは思うんですが」
「うーん」
千綴は少し考えて、首を横に振った。
「それは、ちょっと際どいかな」
「ですよね。やめておきます」
人を借りるお題については、当日その場にいることが前提になる。先生や部活動の生徒には事前に協力を頼み、生徒会役員も待機場所を決めておくことになった。
定番のものに、ひとつふたつ遊び心のあるお題を混ぜる。そこまでまとまったところで、鈴が書き上がった内容を最初から読み上げた。
「これで、いいと思います」
「うん、いいと思う」
「あとは、当日の運営を詰めるだけだな」
悠司が大きく伸びをする。窓の外は、いつの間にか西日の色が濃くなっていた。三人とも、しばらく無言で肩や首を回す。
ちょうどそこへ、会長が戻ってきた。
「終わった?」
「はい、なんとか」
千綴が種目表を差し出すと、会長はざっと目を通す。
「うん、いいんじゃないか」
「ならよかったです」
「あとは任せる」
会長はそう言って種目表を千綴へ返すと、忙しそうにまた出ていった。
千綴は書き終えたばかりの表を眺めた。
空欄だった二つの欄が、今は文字で埋まっている。
それだけのことが、少しだけ達成感のようなものを連れてきた。
「今日はここまでにしよう」
「はい」
「お疲れさま」
三人はそれぞれ帰り支度を始める。
窓の外では、西日が校庭を橙色に染めていた。
千綴は鞄を持ち直し、生徒会室を出た。
廊下の向こうから、部活動帰りらしい生徒たちの声が聞こえてくる。
体育祭まで、まだ少し時間がある。
それでも、決めるべきことはひとつずつ、確かに形になっていた。