目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。
千綴は布団の中でしばらく天井を見てから、ゆっくり起き上がった。窓の外はまだ薄暗い。いつもより早い時間だった。
体操服に着替え、鏡の前で襟元を整える。洗いたてのジャージは、まだ少し生地が硬かった。千綴は小さく息を吐く。
今日は、体育祭だ。
種目を決め、障害物競走と借り物・借り人競争の中身を詰め、会長に報告し、種目表を仕上げた。
あの日々が、ようやくこの日に繋がっている。
実感が追いつかないような、それでいて確かに始まるのだという感覚が、同時にある。
朝食を手早く済ませ、水筒、タオル、着替え、生徒会の腕章を鞄へ入れる。忘れ物がないことを確かめてから、いつもより早い時間に部屋を出た。
外の空気は、肌に張り付くように冷たい。十月に入ってから、朝の冷え込みは急に本格的になっていた。吐く息はまだ白くならないものの、坂を上るうちに頬が強張り、千綴はジャージの前を無意識に引き寄せた。
学校へ向かう坂道はまだ人通りが少なく、空は白みかけているのに太陽は低い。
校門をくぐると、いつもとは違う空気が校内に満ちていた。
グラウンドには、すでに数人の生徒と教員の姿がある。
テントの骨組みが組み上がりかけ、白線を引くための石灰の袋が積まれていた。
「おはようございます」
千綴が声をかけると、作業をしていた体育教師が顔を上げた。
「おう、守屋ならもう用具置き場にいるぞ」
「生徒会の分は、こちらで運びます」
千綴が用具置き場へ向かうと、そこにはすでに悠司の姿があった。
「おはよう」
「おはよう、悠司」
「テント、あと二張り」
悠司が短く言って、支柱を担ぎ上げる。
千綴もポールの束を抱え、後に続いた。
テントを立て、用具を確認し、放送用の機材を運ぶ。
一つ一つの作業に大きな意味があるわけではないが、それが積み重なって、この一日の輪郭を作っていく。
千綴は石灰のライン引きを押しながら、ふと空を見上げた。
雲は薄く、青がよく見える。
天気は保ちそうだった。
「準備、順調そうだな」
悠司が机を運びながら言う。
「うん。あとは、時間通りに進むかどうかだね」
「それは、なるようにしかならない」
悠司の言葉に、千綴は小さく笑った。
そんな会話を挟みながら、テントの設営、机の配置、放送機材の確認と、やるべきことをひとつずつ片付けていった。
準備を終えたころには、校門の方から生徒たちの声が聞こえ始めていた。
いつものジャージ姿の生徒たちが、三々五々グラウンドへ入ってくる。
本部前ではクラスごとの色違いのゼッケンが配られ、受け取った生徒たちの間から歓声混じりの声が上がった。
グラウンドの雰囲気が、少しずつ色づいていく。
千綴は本部席の脇で、種目表と進行表を見比べた。
自分たちが決めた種目が、正式な進行表の中に組み込まれている。
その事実に、あらためて実感が湧いた。
開会式が始まった。
全校生徒がグラウンドに整列し、校長の短い挨拶が続く。
準備体操の号令に合わせて、生徒たちが体を伸ばす。
冷えた身体に、伸びの動きがじわりと効いた。
やがて司会の放送が、選手宣誓を告げる。
壇上に上がったのは、会長だった。いつも神出鬼没で、生徒会室にいる時間の方が少ない人物が、こういう場では堂々と前へ出る。千綴は、その張りのある揺るぎない声に思わず見入った。
誓いの言葉は定型のものだったが、会長が言うと、どこか重みが違って聞こえた。
整列していた生徒たちの間から拍手が湧く。会長は壇を下りると、いつもの調子に戻ったように軽く肩をすくめてみせた。千綴はその様子に小さく苦笑した。
相変わらず、食えない人だ。
開会式が終わると、生徒たちはそれぞれの持ち場、あるいは観戦位置へ散っていく。
午前の種目が、いよいよ始まろうとしていた。
まず、100m走から始まる。
学年ごとにレースが組まれ、二年生の中でも、千綴の出走は前半に回ってきた。
自分の番が近づくにつれ、呼吸が少しずつ浅くなっていく。この感覚には何度経験しても慣れない。周囲の声や日差し、土の匂いまでが、いつもより鮮明に感じられた。
スタートラインに立つ。石灰の白線の向こうで、朝露を吸った土がわずかに湿っている。隣には同じレースを走る生徒たちが並んでいた。
観客の列から、綾乃たちの声が届いた。
「ちづるー! がんばれー!」
綾乃の声に、千綴は視線を向けず小さく頷いた。集中はもう前だけに向いている。ピストルの合図を待つあいだ、周囲の音が一段遠くなった。風はほとんどない。
合図と同時に、身体が反射的に前へ跳んだ。地面を蹴る足と腕の振り、呼吸のリズムがすぐに噛み合う。
ただ前へ。
視界の端で他の走者が後ろへ流れていく。ゴールのテープが一気に近づき、千綴はそのまま駆け抜けた。息を切らしながら速度を落とし、振り返る。
正式な記録が発表されるまでもなく、周囲の反応で分かった。
「よっしゃ、1位!」
誰かの声が上がる。
千綴は膝に手をつき、呼吸を整えながら小さく笑った。額を伝う汗に、冷たい朝の空気が心地よかった。
観客の列に戻ると、綾乃が待ち構えていた。
「おかえり、めちゃくちゃ速かったね」
「まあまあだよ」
「謙遜しなくていいのに、本当に速かったよ!」
綾乃が笑いながら肩を小突いてくる。
千綴はタオルで汗を拭いながら、記録の掲示を横目で確認した。
今日一日はまだ長い。
100m走に続けて200m走のレースが進む間、千綴たちは観戦位置で次の種目を待った。
やがて二人三脚の順番になった。友人グループの誰かが出ているわけではないため、千綴たちは少し離れた場所から見守る。
スタートの合図とともに、組ごとに息の合わない足取りで駆け出す組もあれば、練習の成果がうかがえる安定した走りを見せる組もあった。
「うわ、あの組転んだ」
綾乃が声を上げる。
転んだ組がすぐに立ち上がり、笑いながら再びタイミングを合わせ直す様子に、周囲から笑いと拍手が起こった。
千綴たちのクラスの組も、大きく崩れることなく中盤から上位につけたまま、ゴールへ滑り込んだ。
「結構いいとこいったな」
ヴァシリオスが言う。
「うん。練習してたみたいだし」
千綴はゴール付近で健闘を称え合う生徒たちの姿を眺めながら、そう答えた。
パン食い競争は、午前の種目の中でもひときわ声援が大きかった。
吊るされたパンに向かって走り、手を使わず口だけで奪い取る競技に、観客の笑いが絶えない。
環がその一組に選ばれていた。
「タマ、いけー!」
ヴァシリオスが両手を口に当てて叫ぶ。
環は普段の気怠さを崩さないまま、それでいて着実にパンとの距離を詰めていく。跳ねるでも慌てるでもなく、必要な分だけ跳んであっさりとパンをくわえ取ると、そのままゴールまで走り抜けた。
「……勝った」
千綴がつぶやく。
環は表彰台代わりの位置でパンをくわえたまま、片手だけをひらひらと振ってみせた。
その飄々とした様子に、見物していた生徒たちからどっと笑いが起きる。
「あいつ、こういうとこは絶対外さないよな」
ヴァシリオスが感心したように言った。
「集中すると、ああなるんだね」
千綴もそう返しながら、環がパンを口から離し、いつもの気怠い表情に戻るのを見て小さく笑った。
綱引きダッシュの出番が回ってきた。
スタートの合図で走り、離れた位置に置かれた綱を取り合ってから引き合う、変則ルールの種目である。
千綴たちのクラスの出番も、じきに回ってきた。
「行くぞ、絶対勝つ」
ヴァシリオスが気合いを入れる。
「勝つ、以外の選択肢は?」
千綴が笑いながら返す。
クラスの列がスタートラインに並び、合図とともに両クラスの生徒が一斉に走り出した。綱へ殺到して掴み取ると、体勢を整える間もなく引き合いが始まる。
千綴は足を滑らせないよう踏ん張り、綱を握る手に力を込めた。周囲の声援と、手のひらを擦る綱の感触だけが強く残る。そうした攻防を何度か繰り返したが、三試合を終えた時点で、千綴たちのクラスは相手を上回れなかった。
「負けた……」
ヴァシリオスが膝に手をついて肩を落とす。
「全体としては、接戦ではあったけどね」
千綴が言う。
「次は絶対」
「次はもう、学年の総当たりも終わりだけどね」
千綴が笑いながら返すと、ヴァシリオスは「そうだけど!」と食い下がった。
悔しさを隠さないその様子に、周囲から笑いが漏れる。
千綴は息を整えながら、グラウンドの時計を見た。
もうすぐ正午だった。
お昼休みの放送が入ると、生徒たちはそれぞれ校舎の日陰やグラウンドのあちこちへ散っていく。
千綴はヴァシリオスと連れ立って、購買の臨時売店へ向かった。
「腹減った」
「午前だけでもう疲れたね」
購買の前には長い列ができていた。
二人は列に並びながら、順番を待つ。
「タマも悠司も綾乃も、弁当なんだよな」
千綴が言うと、ヴァシリオスが頷く。
「三人とも、実家住まいだから」
「じゃあ、買う派は俺たちだけか」
ヴァシリオスが言う。
「そういうことになるね」
千綴が笑って返した。
千綴はおにぎりを、ヴァシリオスはパンとおにぎりをそれぞれ買い、二人は集合場所へ向かった。
渡り廊下前の日陰には、すでに綾乃、悠司、環が座っていた。
「遅い」
環が眠そうな目のまま言う。
「列、並んでたんだよ」
千綴はそう言いながら腰を下ろした。
ヴァシリオスも隣に座り、買ってきたパンとおにぎりを広げる。
「環、お前それだけ?」
ヴァシリオスが環の弁当を覗き込んだ。
小さめのおにぎりが二つと、卵焼き、少しの野菜が詰まっているだけの、いつもより控えめな中身だった。
「パン食い競争で、もう一個食べたから」
環が答える。
「そういう理由か」
「胃に優しくしてる」
環が澄まし顔で言うのに、綾乃が噴き出した。
「それ、狙って少なめにしたってこと?」
「結果的に」
千綴もその会話に笑いながら、自分のおにぎりにかじりついた。
「午前、みんなどうだった」
悠司が話を向ける。
「綱引き、負けはやっぱり悔しい」
ヴァシリオスがまだ引きずっている様子で言う。
「うちのクラス、全体的に接戦が多いよね」
綾乃が言った。
「まあ、100mは千綴が持っていったから」
ヴァシリオスが言う。
「たまたまだよ」
千綴が苦笑しながら返した。
午前の種目を振り返る話はしばらく続いた。二人三脚の健闘、パン食い競争での環の活躍、綱引きの僅差の連敗。クラス全体としては悪くない滑り出しだった。
「そういえば」
綾乃がふと口を開く。
「最近、休む人増えてるって言ってたけど、今日はみんな来れてよかったね」
「ああ」
千綴も先日のHRで聞いた話を思い出した。学校全体では、休む生徒が少し増えているらしい。
「今のところ、うちのクラスから欠席者は出てないしね」
「うん」
千綴が頷く。
その流れで、環がふと箸を止めた。
「そういえば、部活の子がまた休みなんだよね」
「部活の子って?」
綾乃が聞く。
「
環の口調は、いつもの気怠さの中に、わずかな心配の色を滲ませていた。
「大丈夫なの、それ」
千綴が尋ねる。
「分かんない。頭痛いとか、そんな感じらしいんだけど」
環は視線を少し落とした。
「季節の変わり目だから、体調崩す子は多いもんな」
ヴァシリオスが言う。
「まあ、そうなんだろうけど」
環はそれ以上深くは言わず、パンの最後の一口を口に運んだ。
その場の空気が、少しだけ静かになる。
誰も詳しい事情を知らないまま、心配の気配だけが場に残った。
千綴もそれ以上は踏み込まず、話が別の話題へ移っていくのに任せた。
「午後は、みんな何があるんだっけ」
綾乃が話題を変える。
千綴は進行表に目を落とした。
「大縄跳びに障害物競走、借り物借り人、それからリレーだね」
「俺はリレー、アンカーな」
ヴァシリオスが胸を張った。
「悠司も、アンカーだよね」
「ああ」
悠司が短く頷く。
ヴァシリオスがその答えに、にやりと笑った。
「絶対負けねえからな」
「気合いだけは十分だな」
悠司が涼しい顔で返す。
「気合いだけじゃない、今年は本気だ」
「さっきから、その調子で言ってるな」
悠司の突っ込みに、周囲から笑いが起きる。
千綴は二人のやり取りを眺めながら、午後のリレーがどんな展開になるのか、少し楽しみになった。
「借り物借り人、綾乃だったよね」
千綴が確認する。
「うん、頑張る」
綾乃が意気込むように言った。
「障害物競走は、エレディトだっけ」
千綴が確認する。
「おう、応援行かなきゃな」
ヴァシリオスが乗り気で言った。
その場にいた全員が頷いた。
午後の予定を確認し合ううちに、昼休みの終わりを告げるアナウンスが放送で流れた。
「そろそろ移動しなきゃ」
綾乃が立ち上がりながら言う。
千綴も立ち上がり、身体をひとつ伸ばした。
太陽はすでに高く昇り、午前の冷え込みが嘘のように、日差しが肌を焼き始めている。
それぞれの荷物をまとめながら、五人はグラウンドへ向かって歩き出した。
午後の種目が、もうすぐ始まろうとしていた。
大縄跳びは、クラス全員が参加する種目である。
縄が地面を叩く音に合わせて生徒たちが列を作り、千綴もその中ほどに並んだ。
「タイミング、遅れないでよ」
綾乃が前の方から声をかけてくる。
「分かってる」
縄が回り始めると、先頭の生徒から順に縄の中へ入っていった。
自分の番が近づくにつれ、縄の回転音がはっきりと聞こえてくる。
千綴は縄の頂点を見極め、駆け込むようにして列へ加わった。
着地の感触、次の跳躍への呼吸、隣の生徒との間合い。
考えるより先に、身体が動く。
跳び続けるうちに、クラス全体の呼吸が揃っていくのが分かった。
数字が読み上げられるたびに、周囲からどよめきが上がる。
誰かが縄に引っかかりそうになりながらも、隣の生徒が咄嗟に支え、跳躍を繋いだ。
最終的な回数が読み上げられると、クラスから歓声が上がった。
「今年一番いいんじゃない、これ」
綾乃が息を弾ませながら言う。
「かもね」
千綴も汗を拭いながら、達成感に頬を緩めた。
大縄跳びを終えると、千綴たちは競技エリアの端へ移動した。
次の障害物競走に、エレディトが出走する。
「応援行こう」
千綴が言うと、綾乃、環、ヴァシリオスもそれに続いた。
観客の列の隙間から、スタートラインに並ぶエレディトの姿が見えた。
一年生の列の中、ゼッケンをつけたエレディトが他の生徒に紛れて並んでいる。二学期が始まった頃にはどこか硬さの残っていた立ち姿も、今は周囲の一年生たちと変わらない自然さで、スタートの合図を待っていた。
「エレディト、意外とやる気満々な顔してるな」
ヴァシリオスが言う。
「見えないところで、結構練習してたのかもね」
千綴がそう答えたとき、号砲が鳴った。
最初のネットくぐりを危なげなく抜け、続く麻袋ジャンプでも、他の走者がバランスを崩す中でエレディトの跳躍は安定していた。
その中盤に差しかかったところで。
その跳び方が、ほんの一瞬だけ変わった。
着地の角度が、一つ前の跳躍とわずかに違う。
まるで、今まで見ていた動きとは別の跳び方が、一瞬だけ混ざったような――。
千綴の意識の奥で、何かがちりっと引っかかった。
それは音や光としてではなく、感覚として届く違和感だった。
視界の端で、綾乃たちはそのまま応援を続けている。
「あ、今ちょっとよろけた?」
環が首をかしげたが、それ以上気にする様子はなかった。
エレディトはすぐに体勢を立て直し、次のカード引きへ向かって走っていく。
千綴は、その一瞬を胸の内で反芻していた。
前も、こんな感じだっただろうか。
新辺のバッティングセンターで見た、あの二球目の崩れと三球目の戻り方。
似ている、ような気がする。
だが、それが何を意味するのかは、千綴にも分からない。
その後は大きく崩れることなくカードのお題をこなし、最後のぐるぐるバットでふらつきながらも、エレディトは勢いを殺さずゴールへ飛び込んだ。
「――ゴール! エレディト選手、1位です!」
放送席のアナウンスが響く。
観客の列から拍手と歓声が上がった。
「やった、勝った!」
綾乃が飛び跳ねるように喜ぶ。
千綴もその輪の中で拍手を送りながら、先ほどの違和感を、ひとまず胸の奥へしまい込んだ。
今はまだ、深く考えるときではない。
「あたし、そろそろ行かなきゃ」
綾乃が時計を確認しながら言う。
次の借り物・借り人競争の準備の時間が近づいていた。
「がんばって」
千綴が声をかけると、綾乃は軽く手を振って競技エリアの受付側へ駆けていった。
残った三人は、そのまま次の競技の観覧エリアへ向かって移動を始めた。
借り物・借り人競争のスタート地点付近には、すでに綾乃と鈴が選手として並んでいた。
スタート地点のすぐそばに観客の列があり、千綴たちはそこに加わった。
列の中に千綴たちを見つけると、鈴が小さく会釈した。
「弥生先輩、応援ですか」
「うん、綾乃と鈴の出番だしね」
千綴が答えると、鈴は少し緊張した面持ちで頷いた。
合図とともに、選手たちがカードの箱へ走る。
鈴が引いたカードを開くと、そこには「生徒会役員」と書かれていた。
鈴は一瞬立ち止まって周囲へ視線を走らせ、競技エリアの隅で運営の合間に一息ついていた悠司を見つけると、まっすぐそちらへ駆け寄った。
「守屋先輩、すみません、お借りします!」
「え、俺?」
悠司が戸惑いながらも、鈴に腕を引かれるまま一緒に走り出す。
「柄じゃないんだけどな、こういうの」
「生徒会役員って言われて、真っ先に思い浮かんだので」
鈴が澄まし顔で答えると、周りから笑い声が起きた。
二人はそのままゴールへ向かって走り、中ほどの順位でゴールラインを越えた。
「ありがとうございました!」
鈴が息を切らしながら頭を下げる。
「急に引っ張って、すみません」
鈴が言い添えると、悠司は笑って首を振った。
「気にするな、面白かった」
そう言ったところで、放送席から次の招集がかかった。
「学年対抗リレー、選手はコースへ集合してください」
「――今から招集なんだが」
悠司はそう言いながらも、鈴と別れると、そのまま反転してリレーのコースへ走っていった。
その慌ただしい背中を見送りながら、千綴たちは思わず笑ってしまった。
「忙しない人」
環が言う。
続いて、綾乃のレースが始まった。
綾乃が引いたカードには「メガネ」と書かれている。
「メガネ……メガネ……」
綾乃は観客の列を見回しながら走り出した。千綴たちの友人グループにはメガネをかけている人物がおらず、焦った様子で列の間を縫っても、なかなか見つからない。
やがて時間切れを告げる合図が鳴り、綾乃はその場に立ち止まった。
「間に合わなかった……」
肩を落として戻ってきた綾乃に、千綴は苦笑しながら声をかけた。
「お疲れさま。次頑張ろう」
「次はもうないよ。これで最後だったし」
綾乃がそう言いながらも、悔しさよりどこか吹っ切れたような表情を見せる。
千綴たちも、つられて小さく笑った。
午後の日差しは、いつの間にか傾き始めていた。
風がわずかに冷たさを含み、校庭のあちこちで、脱いでいた上着へ再び手を伸ばす生徒の姿が見え始める。
いよいよ、学年対抗リレーの時間になった。
放送のアナウンスが進行を告げる。一年の部から始まり、二年、三年と続く順番だった。一年の部ではエレディトのクラスの声援がひときわ大きく、千綴たちもそれを眺めながら、やがて始まる二年の部に備えてコース終盤が見える位置へ移動した。
号砲とともに第一走者たちが飛び出し、バトンが渡るたびに順位が入れ替わっていく。歓声に追われるようにレースが進み、最終走者への引き継ぎが近づくころには、千綴たちのクラスと悠司のクラスがほぼ横並びになっていた。
バトンを受け取ったヴァシリオスと悠司が、ほぼ同時にコースへ飛び出す。
「行けー!」
千綴も思わず声を張り上げた。
二人は最後の直線で並走したまま、互いに一歩も譲らない。足音と歓声が重なり、ゴールが近づくほど周囲の声が一つに集まっていく。
ゴールライン直前で、わずかにヴァシリオスの身体が前へ出た。
「――中村選手のクラス、僅差で一着!」
放送のアナウンスが響くと、千綴たちのクラスの観客席から歓声が沸き上がった。
ゴールを過ぎたところで膝に手をついたヴァシリオスの隣で、悠司も肩で息をしながら苦笑していた。
「有言実行ってやつだな」
ヴァシリオスが得意げに言う。
「言ってたもんな、さっき」
悠司が苦笑しながら返した。
三年の部が始まる頃には、千綴たちも自分たちのレースの興奮からようやく落ち着きを取り戻し、最後のレースを見届けようとコース沿いへ移動した。
三年生にとって最後の体育祭ということもあってか、周囲からも一段と大きな声援が飛ぶ。
その熱気に、千綴たちも自然と声を張り上げた。
閉会式の放送が入り、生徒たちは再びグラウンドへ整列した。
西の空はまだ明るいが、影は長く伸び始めている。
冷たさを取り戻し始めた風が、火照った身体に心地よかった。
校長の講評に続いて、成績発表と表彰が行われる。
クラス対抗の総合順位が読み上げられ、上位クラスに拍手が送られた。
その後、個人記録の発表に移る。
「続いて、100m走、学年別の最速タイムです」
放送席の声が響いた。
読み上げられたタイムと名前に、千綴は一瞬、反応が遅れた。
自分の名前だった。
学年内で、最も速いタイムだったらしい。
「え、千綴、それ……」
綾乃が驚いた顔で振り向く。
「知らなかった……」
千綴自身、実感が湧かないまま、周囲から向けられる拍手を受け止めた。
「やるじゃん」
環が眠そうな目のまま、ぼそりと言う。
「まぐれだよ、まぐれ」
千綴がそう返すと、隣でヴァシリオスが噴き出した。
「まぐれで学年一位にはならないと思うけどな」
閉会式が終わると、生徒たちはそれぞれ荷物をまとめ始めた。グラウンドの土は一日を通して踏み固められ、白線の一部はもうほとんど消えかけている。朝よりずっと長くなった影の中で、千綴は伸びをしながら空を見上げた。
「今日、疲れたけど、楽しかったね」
綾乃が言う。
「うん」
千綴も素直に頷いた。
準備の日々から始まって、今日の一日を、みんなで無事に終えられた。
その事実だけで、今は十分だった。
「クラス、そろそろ戻らないと」
環が眠そうな声で言う。
「片付けもあるしね」
千綴も頷きながら、生徒会の後片付けを思い浮かべた。
それぞれの持ち場へ戻るため、四人はグラウンドで一旦別れた。
千綴は本部席へ向かって、一人歩き出した。
長く伸びた影が、グラウンドいっぱいに広がっていた。