朝から降り続く雨は、まだやむ気配がなかった。
傘を伝う雨粒が、布地を細く叩いている。千綴はその音に耳を寄せながら、坂道を上っていった。
肌寒さは、昨日よりも増している気がする。カーディガンの袖口を、指先で軽く引いた。
濡れたアスファルトの匂いが、坂道いっぱいに満ちている。その上を、生徒たちの傘が、途切れながらも列をなしていた。
雨音に紛れて、傘同士がぶつかる小さな音がする。
その響きに、ふと足が緩んだ。
傘の布を、雨が叩く音。
似ている、と思った瞬間、記憶が勝手に動き出す。
あの日も、雨だった。悠司と別れた分かれ道。大通り沿いの、軒の深い建物。そのすぐ脇にあった、小さな公園。金属を擦り合わせたような、あの音。
千綴は傘の柄を持ち直した。もう、随分前のことだ。
今はもう、思い出しても身体が竦むことはない。ただ、指先の奥に、あの夜の重さだけがうっすらと残っている気がした。
けれど、それだけだった。
終わった話。
そう区切りをつけて、千綴は前を向いた。あのときの自分と、今の自分は違う。どこがどう違うのか、うまく言葉にはできない。それでも、雨に濡れた坂道を、迷わず一歩ずつ踏みしめて上っていけることが、その答えのひとつのような気がした。
「ちづる」
声に振り返ると、綾乃が傘を傾けながら小走りに近づいてくるところだった。
「おはよう」
「おはよう。今日、なかなか止まないね」
「うん」
綾乃が隣に並び、二人で坂を上っていく。
「文芸部の部誌、鞄の中で濡れてないか気になってきた」
綾乃が鞄の持ち手を持ち上げ、中を覗き込む。
「大丈夫そう?」
千綴が聞くと、綾乃は鞄の中を覗いたまま答えた。
「たぶん。ビニール袋には入れたし」
それでも心配そうに何度か確かめる仕草に、千綴は小さく笑った。
「風出てきたら、この坂危ないかも」
「今日はまだ平気そう」
綾乃は傘の縁から覗く空を見上げ、小さく肩をすくめた。
「一気に寒くなった気がする」
「今日はそうだね」
坂を上り切り、昇降口へ入ると、傘立ての前にはすでに濡れた傘が何本も並んでいた。畳んだ傘から滴る水が、床のあちこちに小さな水たまりを作っている。
千綴も自分の傘を畳み、傘立てへ差し込んだ。
上履きに履き替えながら顔を上げると、廊下の奥に悠司の姿が見えた。目が合うと、悠司は軽く手を挙げる。千綴も同じように返した。
昇降口には、次々と生徒が入ってくる。傘を畳む音、濡れた靴音が重なり合っていた。
千綴は綾乃と並んで、自分たちの教室へ向かって歩き出した。
教室に入ると、窓の外はまだ雨に霞んでいた。
ガラスを叩く雨音に混じって、少し離れた席から大きな声が聞こえてくる。
「最悪だ。今日、サッカー部の朝練休みだ」
ヴァシリオスが机に突っ伏すようにして言った。
「グラウンド、水浸しなんでしょ」
千綴が席へ向かいながら聞くと、ヴァシリオスは顔を上げないまま頷いた。
「走ることもできない」
「かわいそうに」
環が眠そうな声で返す。抑揚のない声だったが、同情しているようには聞こえなかった。
「お前、他人事だな」
「他人事だから」
ヴァシリオスは唸るような声を上げ、また机に突っ伏した。
「せっかく走り込みたい気分だったのに」
「雨の日くらい、休めばいいのに」
「休むと調子が狂う」
「元気だね、そういうところ」
環がため息交じりに言うと、周囲から小さな笑いが起きた。
千綴は自分の席に着き、鞄の中身を机へ移しながら、その様子を横目に見た。
教室のあちこちで、傘やレインコートの話、濡れた靴下の話が交わされている。誰かが「今日、寒くない?」とこぼす声も聞こえた。
やがて予鈴が鳴り、生徒たちがそれぞれの席へ戻っていく。少し遅れて前の扉が開き、山田先生が入ってきた。
「おはよう」
声に合わせて、教室の話し声が収まっていく。教壇に立って出席簿を開き、いつも通り一人ずつ名前を呼んでいった。
千綴も自分の名前に短く返事をする。その途中、一人分だけ返事がなかった。
特に表情を変えず、出席簿へ何かを書き込んだ。確認を終えて出席簿を閉じると、そのまま教室を見回す。
「学校全体で、休む生徒が少し増えてるみたいだな」
教室に、ぽつぽつと頷く姿が見えた。
「今日みたいな日は体調崩しやすいから、気をつけろよ」
「風邪、流行ってるんですかね」
前の方の席から声が上がる。
「かもな。この時期は寒暖差もきついし」
そこで話を切るように、出席簿を教卓へ置いた。
「それより、文化祭の出し物、そろそろクラスで話し合っておくように。決めるのは今度のホームルームになるから、それまでに考えといてくれ」
教室を軽く見回してから付け加える。
「一般開放もあるらしいから、そのつもりでな」
その一言に、教室のあちこちで小さな声が上がる。
「地域の人が来るってやつだよね」
「らしいね」
それ以上、大きな話題にはならなかった。
千綴はその会話を聞きながら、これまで生徒会で聞いていた文化祭の話を思い出していた。まだ具体的なことは、何も決まっていない。
「それじゃ、一限目、始めるぞ」
教科書が開かれ、教室にはまた雨音とざわめきが戻ってきた。窓の外の雨は、まだ止みそうになかった。
黒板に書かれた文字を、千綴はノートへ写していく。教師の声と、窓を叩く雨の音が、同じくらいの大きさで耳に届いていた。
ペン先を止めないまま、ふと意識だけが逸れる。
雨の匂い。
濡れた土と青く伸びた草。水を含んだ地面の柔らかさや、軒先から落ちる雫の規則正しい音。子どもの頃、こんな匂いのする朝に長靴を履いて外へ出たことがあった気がする。
遠くで、誰かが呼ぶ声まで浮かんだ。
どこの誰だったかは、もう思い出せない。景色だけが輪郭のぼやけたまま浮かんで、また消えていく。
「弥生」
名前を呼ばれ、千綴は顔を上げた。教師がこちらを見ている。
「この続き、やってみろ」
黒板の途中を示される。
「あ、はい」
千綴はペンを置いて椅子を引いた。窓の外では、雨がまだ降り続いていた。
昼休みになっても、雨はまだ降り続いていた。
窓の外に出る気配のないまま、教室では机をいくつか寄せて昼食をとる生徒たちの姿が目立つ。
千綴は椅子を持って、綾乃、環、ヴァシリオスの机の近くへ移動した。
「今日、外出れないの地味にきつい」
ヴァシリオスが弁当箱を開けながら言う。
「朝から言ってるよね、それ」
綾乃が笑いながら返した。
「一日中、その調子で言ってそう」
そう言って、綾乃はくすりと笑う。
「よく飽きないね」
環が箸を止めずに言った。
千綴は自分の弁当箱を開けながら、窓の外へ目をやった。
グラウンドはところどころ水たまりができ、鈍い色の空を映している。
「こういう日って、なんか気分も上がらないよね」
綾乃が窓の外を見ながら言った。
「分かる」
千綴も頷く。
湿った空気のせいか、教室全体がいつもより静かに感じられた。話し声も、いつもより少しだけ小さい。
「私、今日一番の被害者なんだけど」
環がふと、自分の前髪を摘まみながら言った。
「何が?」
千綴が聞くと、環は前髪を軽く引っ張ってみせる。いつもより明らかに膨らんでいた。
「雨の日、髪がまとまらない」
「ああ……」
綾乃が納得したように頷く。
「くせ毛だもんね、環」
「うん。湿気吸うと、もう手に負えない」
環は諦めたように前髪から手を離した。
「ヴァシリオスとは違うタイプの文句だね」
千綴が言うと、環は箸で卵焼きを摘まみながら小さく頷いた。
「あっちは大声で騒ぐだけ。こっちは実害」
「実害て」
ヴァシリオスが心外そうな顔をする。
「髪が膨らむのと、部活できないのと、どっちが実害だと思う?」
「両方じゃないか」
「私の勝ち」
環はそう言い切って、また食事に戻った。その様子に綾乃が小さく笑う。
「まあ、今日はみんな何かしら文句言いたくなる天気だよね」
「だな」
ヴァシリオスも同意するように頷いた。
しばらく他愛のない話が続いたあと、綾乃がふと箸を止めた。
「そういえば、環の部活の子、最近どう?」
「穂乃香?」
環が顔を上げる。
「うん」
「相変わらずだよ」
環は特に表情を変えず、答えた。
「来たり休んだりの繰り返し。今日もいないし」
「今日も?」
「うん」
千綴も箸を止める。
「大丈夫なの、それ」
「分かんない」
環は小さく肩をすくめた。
「この雨だしね」
綾乃が言う。
「寒暖差もきついし、体調崩しても仕方ないっていうか」
「かもね」
環はそう返しながら、それ以上は続けなかった。
深く心配している様子でも、軽く流している様子でもない。ただ、いつものことのように受け止めているだけに見えた。
千綴もそれ以上は踏み込まず、話がまた別の方向へ移っていくのに任せた。
「そういえば、文化祭の出し物、何がいいかな」
綾乃が思い出したように言う。
「今度のホームルームで決めるんだよね」
千綴が返すと、ヴァシリオスが弁当箱を片手に身を乗り出した。
「肉の塊をぐるぐる回しながら焼く屋台があるんだ。あれ、いいと思わないか」
ヴァシリオスが身振りで、縦に回転する動きをやってみせる。箸を持ったままの手が、危うく綾乃の弁当箱をかすめた。
「危ない」
綾乃が弁当箱を引き寄せながら、軽く睨む。
「悪い悪い」
「回すやつ?」
千綴が聞き返すと、ヴァシリオスは得意げに頷いた。
「表面だけ薄く削ぎ落として、また回す。ずっと焼きたてが出せる」
力説する声に、隣の机の生徒がちらりとこちらを見た。
「ケバブ的なやつ?」
綾乃が言うと、ヴァシリオスは満足そうに頷いた。
「そうそう、それ」
窓ガラスを雨が叩く音が、また少し強くなった気がした。
「学校の文化祭でやる規模じゃなくない、それ」
環が箸を止めて言う。
「工夫すればいけるだろ」
「回転する機械、どこから調達するの」
「……それは、これから考える」
「無理だと思う」
いつもの調子で始まったやり取りに、千綴は小さく笑いながら、窓の外へもう一度目をやった。
雨は、まだ止む気配がなかった。
放課後、千綴は教室を出ると、生徒会室へ寄った。
雨は昼過ぎよりも少し弱まっていたが、窓の外はまだ灰色に沈んでいる。
扉を開けると、鈴が机の上の申請用紙を数えていた。
「鈴、早いね」
「お疲れさまです」
「今日、バイトだから」
「そうなんですね」
そこへ、資料を手にした悠司が入ってくる。
「あ、悠司。今日はバイトなんで、生徒会出れなくて」
「今日は量少ないし、問題ないぞ」
悠司はそう言いながら、机の上の用紙を一枚ずつ確認していく。
「出し物の申請、まだこれだけか」
「クラスも部活も、これからって感じみたいです」
鈴が答える。
「一般開放の分は?」
「受付と案内の当番、あと安全確認のチェック項目を今作ってるところです」
「三年は?」
「規模と当番、軽めでいいってことになってるので、そこは楽そうです」
「ごめんね。二人ともよろしくね」
「バイト、頑張ってください」
鈴が笑って言った。
千綴は鞄を持ち直し、生徒会室を出た。
廊下は、部活動へ向かう生徒たちの声で少しにぎやかになっている。
体育館の方向を通りかかると、渡り廊下の隅で、腕立て伏せをしているヴァシリオスの姿があった。
「懲りないね、雨の日まで」
千綴が声をかけると、ヴァシリオスは動きを止めずに顔だけ上げた。
「雨でグラウンド使えないから、こっちで自主練」
ヴァシリオスは最後の一回を勢いよくこなすと、その場に座り込んだ。
「千綴、今から帰りか?」
「バイト」
「お、頑張れ」
千綴は軽く手を振って、その場を離れた。
昇降口へ向かう途中、窓の外を見ると、雨はまだ細く降り続いている。
千綴は傘を持ち直し、丘平商店へ向かって歩き出した。
傘を打つ雨音は、行きよりも小さくなっていた。
千綴は坂を下りながら、濡れた道の先へ目をやる。
この道をしばらく進めば、大通りへ出る分かれ道がある。その先には、あの小さな公園があった。
意識がそちらへ向きかけ、千綴は傘の柄を持ち直した。
朝にも思い出したばかりだ。今はそこへ向かうわけではない。
小さく息を吐いて視線を前へ戻す。水たまりを避けながら歩くうちに、頭の中の引っかかりは薄れていった。
丘平商店の看板が見えてくる。軒先には、雨よけのビニールシートが張られ、その下に傘立てが出されていた。
千綴は傘の水滴を軽く払い、店の中へ入った。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
巴はレジの奥で、伝票を整理しているところだった。顔を上げ、千綴を一度見る。
「今日から、また普通にお願いね」
「はい」
体育祭まで減らしてもらっていたシフトも、今日から元に戻る。
千綴は奥へ入り、エプロンに着替えた。売り場へ戻ると、店内にはラジオが低く流れている。聞き覚えのある、少し古い曲だった。
「今日、寒いね」
「はい。雨のせいか、余計に」
外の空気は、傘をさしていても肌に刺さるような冷たさだった。店の中は、それに比べるとずっと暖かい。奥の暖房が、かすかに温風の音を立てていた。
「文化祭、また忙しくなるんじゃない?」
巴が伝票を一枚めくりながら続けた。
「まあ、そうですね」
千綴は棚の商品を整えながら答える。
「今日、生徒会の方はちょっと抜けてきちゃいましたけど」
「それは平気なの」
「今日はまだ、量が少ないからって言われて」
巴はそれ以上追及せず、伝票へ視線を戻した。
そうしているうちに、入口の鈴が鳴った。
傘を畳みながら入ってきたのは、近所の常連客だった。
「あら、いらっしゃい」
「今日は寒いね、また」
「そうなんですよ」
巴が応対に出る間、千綴も別の客の対応に回った。
雨のせいか、客足はいつもよりまばらだった。それでも、途切れることはない。傘を持ったまま入ってくる客が、思い出したように一人、また一人と現れる。
濡れた傘から落ちた水が、入口の床にいくつも小さな跡を作っていた。
棚の商品を整理する合間、千綴はふと外へ目をやった。
通りを歩く人の傘が、灰色の空の下でいくつも重なって見える。
店の中の暖かさと、外の冷たい空気。その差が、この時期らしい季節の輪郭を作っていた。
「千綴、そっちの棚、補充終わった?」
巴の声に、千綴は我に返る。飲料の入った箱を抱えたまま、少しの間手が止まっていたらしい。
「あ、はい、もうすぐ」
「重いの、無理に一人で運ばなくていいからね」
「してません」
軽く返しながら、千綴は残りの商品を棚へ並べていった。
ラジオからは、また別の曲が流れ始めている。
いつもと変わらない、丘平商店の午後だった。
アパートへ着く頃には、雨はほとんど霧のように細くなっていた。
外階段を上り、鍵を開ける。
「ただいま」
誰もいない部屋へ、いつもの言葉が返ってくることはなかった。
濡れた傘を玄関の隅に立てかけ、靴を揃える。制服のまま台所に立ち、簡単な夕食を用意した。
食事を終え、洗い物を済ませると、千綴はテレビをつけた。鞄から教科書とノートを取り出して宿題を広げ、画面を見ないままペンを動かす。ニュース番組の声が、部屋の空気に混ざっていった。
天気予報のコーナーが終わり、キャスターの声が次の話題へ移る。
『――続いて、季節の変わり目の体調管理についてです。朝晩の冷え込みが強くなり、体調を崩す人も増えています』
千綴の手は止まらなかった。ノートの数式を、そのまま埋めていく。
『寒暖差の大きい日が続いています。十分な睡眠と、手洗いうがいなど基本的な対策を心がけてください』
ありふれた話題だった。学校でも、似たような話は何度か聞いている。
それでも、ほんの一瞬だけペン先が紙の上で止まった。
理由は、自分でも分からない。
画面には、いつも通りのキャスターの顔と、下に流れるテロップが映っている。特別なことは何も言われていなかった。
次の話題へ切り替わる音がして、千綴はもう一度ノートへ目を落とす。途中だった問題の続きを、そのまま解き始めた。
宿題を終え、明日の準備をする。教科書を鞄へ収め、目覚ましを確かめた。
最後にカーテンを閉じる前、千綴は窓の外を見る。
雲の切れ間から、わずかに星が覗いていた。
それだけのことが、今日という一日が確かに終わったのだと教えてくれる。
千綴はテレビを消し、部屋の灯りを落とした。