空の結び目   作:夕花

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 千綴は、坂の途中で足を止めた。

 

 朝の空は、昨日と同じようによく晴れている。

 

 高いところには薄い雲があり、その下には夏の青が広がっていた。坂の上では綾丘高校の白い校舎が朝日を返し、住宅の屋根の向こうには、霞んだ山の輪郭が見えている。

 

 蝉の声も、肌へまとわりつく暑さも、昨日と変わらない。

 

 それなのに、何かが違っていた。

 

 千綴は目を細めた。

 

 空の色が違うわけではない。雲が不自然に動いているわけでも、見慣れないものが浮かんでいるわけでもなかった。

 

 坂を上っていく生徒たちも、いつもどおりだ。友人を待つ者がいて、眠そうに欠伸をする者がいる。横を通り過ぎた自転車の男子生徒は、坂の勾配に負けそうになりながら懸命にペダルを踏んでいた。

 

 見えるものは、昨日と同じ場所にある。

 

 けれど、それらがひとつの朝として、うまく重なっていないような気がした。

 

 千綴は鞄の持ち手を握り直した。

 

 寝不足ではない。朝食も食べた。熱もなければ、頭痛もしない。

 

 気のせいだと片づけるには、胸の奥へ残る引っかかりが妙にはっきりしていた。

 

「ちづる!」

 

 背後から呼ばれ、千綴は振り返った。

 

 坂を駆け上がってきた綾乃が、数歩手前で速度を落とす。今日は転びかけることもなく、千綴の隣へ並んだ。

 

「おはよう。今日も空を見てた?」

 

「おはよう。今日は見てたというか……」

 

 言葉を探しながら、もう一度だけ頭上を見る。

 

 やはり、よく晴れた空だった。

 

「何かある?」

 

 綾乃もつられて見上げる。

 

「ううん。何もない」

 

「何もないのに見てたの?」

 

「そうみたい」

 

 自分でも要領を得ない返事だった。

 

 綾乃は空から千綴へ視線を戻す。いつものように笑ってはいたが、その目が少しだけ細くなった。

 

「ちづる、眠い?」

 

「眠くないよ」

 

「じゃあ、具合悪い?」

 

「それも大丈夫」

 

「本当に?」

 

「本当に。ちょっと考え事してただけ」

 

 何を考えていたのかと聞かれたら、答えられそうになかった。

 

 けれど綾乃は、それ以上追及しなかった。

 

「ならいいけど。駄目になったら早めに言ってね」

 

「駄目になる前提なの?」

 

「ちづるは大丈夫って言いながら動くから」

 

「それ、昨日も似たようなこと言われた」

 

「誰に?」

 

「バイト先の店長」

 

「じゃあ間違ってないね」

 

 迷いなく断定され、千綴は小さく息を吐いた。

 

 二人で坂を上り始める。

 

 綾乃は文芸部で読む本の話をして、夏休みに入る前に借りた分を返せるだろうかと真剣に悩んだ。千綴は相槌を打ちながら、ときどき坂の下へ目を向けた。

 

 住宅街の向こうを、幹線道路が走っている。

 

 車の列も、遠くの信号も、いつもと変わらない。

 

「ちづる?」

 

「聞いてるよ。残り二冊でしょ」

 

「三冊」

 

「増えてる」

 

「昨日、一冊借りたから」

 

「返す話をしてる途中で借りないで」

 

 ようやくいつもの調子で返すと、綾乃が安心したように笑った。

 

 その笑顔を見ているあいだだけ、朝の違和感は少し遠のいた。

 

 坂を上り切る。

 

 校門のそばには、見慣れない位置に教師が立っていた。登校してくる生徒へ挨拶をしながら、ときどき道路の先へ視線を向けている。

 

 生活指導か何かだろうか。

 

 千綴は気になったが、教師の前を通る頃には、後ろから来た綾乃に背中を押されていた。

 

「止まるとぶつかるよ」

 

「止まってない」

 

「今日は遅くなってる」

 

 昨日とは少し違う言葉に、千綴は反論できなかった。

 

 昇降口へ入ると、蝉の声が遠のいた。

 

 靴底が床を擦る音と朝の挨拶が重なり、開け放たれた扉から、熱を含んだ風が流れ込んでいる。そこまでは昨日と同じだった。

 

 違っていたのは、足を止めたままスマートフォンを見ている生徒が多いことだった。

 

 画面を見せ合い、声を潜める。教師が近くを通ると会話は一度途切れ、その背中が離れれば、また小さく繋がっていく。

 

 千綴が下駄箱を開けると、隣で綾乃も靴を脱いだ。今日は片足で立たず、最初から腰を下ろしている。

 

「学習したね」

 

「昨日はたまたまだから」

 

「何がたまたまなんだ?」

 

 聞き覚えのある声がして、二人で振り返る。

 

 悠司が上履きを片手に立っていた。

 

「おはよう、守屋くん」

 

「おはよう。今日は大丈夫」

 

 綾乃が座ったまま胸を張る。

 

「靴を履き替えるだけで報告が必要なのか」

 

「昨日、助けてもらったから」

 

「助けたっていうほどじゃないけどな」

 

 悠司は呆れたように言いながら、上履きへ履き替えた。

 

「千綴も、おはよう」

 

「おはよう」

 

「……どうかした?」

 

 悠司の視線が、千綴の顔で止まる。

 

「何が?」

 

「いや。綾乃だけじゃなくて、千綴まで静かだから」

 

「私はいつも静かでしょ」

 

「自分で言う?」

 

 綾乃がすぐに口を挟む。

 

 悠司は二人を見比べ、それ以上は何も言わなかった。

 

「じゃあ、また」

 

「うん。また」

 

 廊下の分かれ道で別れ、悠司は自分の教室へ向かう。

 

 千綴と綾乃が階段へ進むあいだにも、教師が早足で横を通り過ぎた。手には書類の束を抱えている。職員室の方角から呼び止める声が飛び、教師は返事だけを残して角を曲がった。

 

「朝から忙しそうだね」

 

 綾乃の言葉に、千綴は頷いた。

 

 教室へ入る前から、中のざわめきが廊下まで届いていた。

 

「遅い」

 

 ヴァシリオスが、千綴たちの姿を見るなり声を上げる。

 

 昨日と同じようにスマートフォンを手にしていた。けれど今日は、得意げに話題を持ってきた顔ではない。

 

 環は自分の席へ座り、机へ頬杖をついている。眠そうな目は開いていた。

 

「おはよう。何かあったの?」

 

「あった。昨日の夜、まただ」

 

 ヴァシリオスが差し出した画面を、千綴と綾乃が覗き込む。

 

 表示されていたのは、報道記事を引用した投稿だった。

 

 昨夜、継見市内で女子生徒が事件に巻き込まれたこと。被害者は、綾丘高校から遠くない別の高校に通っていたこと。警察が、これまでの事件との関連も含めて捜査していること。

 

 短い文章を読み終えても、千綴はすぐに顔を上げられなかった。

 

「近くの学校って……」

 

 綾乃の声から、いつもの明るさが薄れる。

 

「電車なら二駅。向こうの生徒と知り合いのやつもいる」

 

 ヴァシリオスが画面を送る。

 

 記事の下には、すでに多くの言葉が連なっていた。

 

 前の事件と同じ犯人だと断定する投稿。被害者を知っていると名乗る者の書き込み。警察が隠していることがあるという話。現場の写真だと称する、暗く不鮮明な画像。

 

「これ、本物なの?」

 

 綾乃が画像を指す。

 

「分からない。別の場所の写真だって言ってるやつもいる」

 

「なら、見せない方がいいよ」

 

 千綴が言うと、ヴァシリオスは指を止めた。

 

「でも、知っておいた方が――」

 

「何を?」

 

 声が少しだけ強くなった。

 

 ヴァシリオスが黙る。

 

 千綴は画面を見たまま、息を整えた。

 

「事件が起きたことと、近くの学校の生徒が被害に遭ったことは、記事に書いてある。前の事件との関連は捜査中。そこまでは分かる。でも、その写真が本物かも、書いた人が本当に被害者を知ってるかも分からないでしょ」

 

「……そうだな」

 

「ごめん。ヴァシリオスが悪いって言いたいんじゃない」

 

「分かってる」

 

 ヴァシリオスは画面を消した。

 

 環が頬杖をついたまま、窓の外を見る。

 

「でも、近くまで来た」

 

 その一言に、誰もすぐには返さなかった。

 

 昨日まで、事件は画面の向こう側にあった。

 

 知らない街。見覚えのない倉庫街。自分たちとは違う場所で起きた、怖い出来事。

 

 いまも被害者の顔も名前も知らない。

 

 それでも、同じ制服を着て学校へ通っていたと知っただけで、遠さの測り方が変わってしまった。

 

 廊下を教師が通り過ぎる。

 

 開いた扉の向こうで別の教師に呼び止められ、二言三言を交わしてから、今度は職員室の方へ戻っていった。

 

 教室の前方では、クラスメイトたちが似たような話をしている。

 

「うちも休校になるって」

 

「それ、誰が言ってたの?」

 

「隣のクラス。保護者に連絡が来たらしい」

 

「俺のところには何も来てないけど」

 

 話は広がるたびに形を変えていた。

 

 休校になる。授業は午前で終わる。部活動だけがなくなる。犯人はもう市内にいる。いや、捕まったらしい。

 

 互いに矛盾する話が、どれも同じ確かさで囁かれている。

 

 千綴は窓の外へ目を向けた。

 

 校門には、さきほど見た教師がまだ立っている。その近くへ別の教師が加わり、登校してくる生徒と、その向こうの道路を交互に見ていた。

 

 空は変わらず晴れていた。

 

 けれど、坂の途中で感じたものは、もう気のせいとは思えなかった。

 

 変わっていたのは、空ではない。

 

 その下にいる人たちだった。

 

 始業を知らせるチャイムが鳴った。

 

 教室のあちこちで会話が途切れ、生徒たちは反射的に自分の席へ戻る。ヴァシリオスもスマートフォンをしまい、環は頬杖を解いた。

 

 けれど、担任は来なかった。

 

 一分が過ぎても、教室の扉は開かない。

 

 静かになりかけた教室へ、また少しずつ声が戻ってくる。

 

「本当に休校なんじゃない?」

 

「だったら先に放送するだろ」

 

「職員会議、長引いてるって」

 

「誰情報?」

 

「さっき先生が話してるの聞いた」

 

 今度の話には、少なくとも出どころがあった。

 

 千綴は前方の時計を見る。

 

 一限の開始時刻を過ぎている。

 

 廊下では、別の教室の扉もまだ開いたままだった。教師の声は聞こえず、代わりに生徒たちのざわめきだけが校舎の中へ薄く広がっている。

 

 数分後、ようやく足音が近づいてきた。

 

 教室の扉が開く。

 

「遅くなって悪い」

 

 担任が出席簿と何枚かの紙を抱えて入ってきた。いつもより歩調が速く、教卓へ置いた書類の端も揃っていない。

 

「臨時の職員会議が長引いた。先にホームルームをやる」

 

 教室の空気が、ひとつに集まる。

 

 担任は全員の顔を見渡してから、手元の紙へ目を落とした。

 

「もう知っている者も多いと思うが、昨夜、市内で近隣校の生徒が被害に遭う事件があった。学校からも保護者へ順次連絡を出している」

 

 誰かが小さく息を呑んだ。

 

「当面のあいだ、部活動はすべて中止。再開の時期は、状況を見て改めて連絡する。放課後は用事がなければ速やかに下校すること。できるだけ一人では帰らず、複数で帰るか、可能なら保護者に迎えを頼むように」

 

 担任は一度言葉を切った。

 

「寄り道もしないこと。不審な人物や、何かおかしなものを見つけても、自分で確かめようとするな。安全な場所から警察か学校、近くの大人へ連絡しろ。友達同士でも、面白半分で見に行くことは絶対にしないように」

 

 千綴は、昨夜の巴の言葉を思い出した。

 

 助けを呼ぶ。人のいる方へ逃げる。まず自分が無事でいる。

 

 順番を間違えないこと。

 

 同じ注意を二日続けて聞くことになるとは思わなかった。

 

「細かい下校方法は、今日中に改めて連絡する。保護者から迎えについて連絡が来た場合も、各自で勝手に帰らず、担任か学年の先生へ確認してから動くこと」

 

 担任は手元の紙を教卓へ置いた。

 

「質問はあるか」

 

 いくつか手が上がった。

 

山田(やまだ)先生、授業は通常どおりですか」

 

 一人が尋ねると、続けて、部室へ荷物を取りに行ってもいいのか、迎えを頼めない場合はどうするのかと質問が飛んだ。

 

 担任は、現時点で決まっていることだけを答えた。授業は通常どおり。部室への立ち入りは放課後に改めて指示する。迎えがなくても、できるだけ同じ方向の生徒と帰ること。

 

 分からないことは分からないままにせず、その一方で、決まっていないことを決まったようにも言わなかった。

 

 最後の質問が終わると、担任は時計を見る。

 

「一限はもう始まってる。遅れた分、少し急ぐぞ」

 

 教卓の脇へ置いていた教材を開きかけて、ふと思い出したように顔を上げた。

 

「それと弥生」

 

「はい」

 

「生徒会に連絡がある。授業が終わったら、職員室へ来るように」

 

 教室の何人かが千綴を見る。

 

「分かりました」

 

 答えながら、千綴は教卓の紙へ目を向けた。

 

 部活動の中止。下校方法の確認。保護者への連絡。

 

 生徒会へ回ってくる仕事が、何もないとは思えなかった。

 

 担任は頷き、黒板へ向き直った。

 

 チョークが、白い線を引く。

 

 遅れて始まった一限の板書が、昨日までと同じ黒板の上へ並び始める。

 

 千綴はノートを開いた。

 

 窓の外には、夏の空が広がっていた。

 

 変わらない青さだけを、教室の上に残したまま。

 

 

 

 

 

 黒板の隅に書かれた式を写し終えたところで、千綴はシャープペンシルを止めた。

 

 窓の外が、朝より暗くなっている。

 

 午前のあいだに薄い雲は空全体へ広がり、校庭へ落ちる影を消していた。窓は開いているのに風はほとんど入らない。湿気を含んだ空気が教室にこもり、回り続ける扇風機が、紙の端だけをかすかに揺らしている。

 

 教師の声に促され、千綴は視線を教科書へ戻した。

 

 授業そのものは、いつもと変わらなかった。

 

 朝の遅れは二限が始まる頃には埋まり、それからは時間割どおりに進んでいる。教師が板書をし、指名された生徒が答え、分からなかった者が隣のノートを覗き込む。

 

 ただ、廊下を通る足音だけは、いつもより多かった。

 

 授業中にも教師が何度か教室の前を横切った。職員室の方角から内線の呼び出しが聞こえ、休み時間になるたび、保護者へ連絡した生徒が担任のところへ集まった。

 

 千綴も、一限のあとに職員室へ呼ばれている。

 

 渡されたのは、放課後の臨時対応をまとめた紙だった。

 

 生徒会は教師の補助に入り、下校する生徒と校内へ残る生徒を確認する。迎えを待つ者は指定された教室へ集め、保護者が到着した順に校門まで誘導する。校門での声掛けや校内の見回りについては、終礼後に担当を分ける。

 

 仕事の内容は難しくない。

 

 けれど、紙の下には、今朝までなかった名簿が何枚も綴じられていた。

 

 視界の端で、時計の長針がひとつ進む。

 

 昼までは、あと二分だった。

 

 前の席では、ヴァシリオスがさっきから落ち着かない。教科書の陰へスマートフォンを隠すようなことはしていないが、伏せて置いた端末へ何度も視線を落としている。

 

 その斜め前では、環が頬杖をついたまま目を閉じていた。

 

 眠っているように見える。

 

 けれど教師が黒板へ新しい式を書くたび、ノートを取る手だけは動いていた。

 

 やがて、午前の授業の終了を告げるチャイムが鳴った。

 

 教師が説明を切り上げ、日直の号令に合わせて教室中の椅子が鳴る。礼が終わるより早く、あちこちで話し声が戻った。

 

 朝から何度も繰り返されてきた事件の話。

 

 迎えが来るかどうか。

 

 帰りに誰と一緒になるか。

 

 部活動が、いつから再開されるのか。

 

 いつもなら弁当や購買の話で埋まる時間に、今日の放課後だけがいくつもの形で語られていた。

 

「ちづる、今日はこっちで食べるよね」

 

 綾乃が自分の机を寄せながら確認する。

 

「うん。放課後の対応は、終礼のあとに昇降口へ集まることになったから」

 

「よかった。昨日は取られたから」

 

「取ってないよ」

 

「生徒会に取られた」

 

 生徒会も千綴の一部なのだから、取られたという言い方はおかしい気がする。

 

 そう返す前に、ヴァシリオスが椅子ごとこちらへ向き直った。

 

「今日は五人そろわないのか」

 

「守屋くんは別の教室でしょ」

 

「呼べば来る」

 

「呼んだら食べる場所がないよ」

 

 四つの机を寄せただけでも、通路はかなり狭くなる。そこへもう一人増えれば、隣の列まで塞いでしまう。

 

 綾乃が空いた椅子へ弁当を置こうとして、先に環が座った。

 

「猫、そこ俺の席」

 

「今は私の席」

 

「椅子まで持ってきただろ」

 

「早い者勝ち」

 

 環はそう言って、机の上へ小さな弁当箱を置いた。

 

 朝から教室に残っていた固い空気が、二人のやり取りで少しだけ緩む。

 

「ヴァシリオス、椅子なら後ろにあるよ」

 

「千綴は猫に甘い」

 

「環が先に座ったのは本当でしょ」

 

「ほら」

 

 環がわずかに顎を上げる。

 

 ヴァシリオスは納得していない顔のまま、教室の後ろから別の椅子を運んできた。

 

 四人で弁当を広げる。

 

 窓の外からは蝉の声が聞こえていたが、昨日まで混じっていた部活動の掛け声はない。昼休みの練習も止められているらしく、校庭には誰も出ていなかった。

 

「当面って、どのくらいだと思う?」

 

 弁当の蓋を開けながら、ヴァシリオスが言った。

 

「分からないから当面なんじゃない?」

 

 綾乃が答える。

 

「週末、練習試合だったんだけど」

 

「相手の学校も中止じゃないの」

 

「まだ連絡来てない。大会前なのに、一週間止まったらきつい」

 

 言いながら、ヴァシリオスは卵焼きを口へ運んだ。事件を軽く見ているわけではない。ただ、夏の大会までの残り日数も、彼にとっては同じように現実だった。

 

「環のところは?」

 

 千綴が尋ねる。

 

「弓を引けない」

 

「それは分かる」

 

「一日なら休み。続いたら鈍る」

 

 環は箸先で弁当の隅の豆を追いながら、いつもと変わらない声で言った。

 

「家でできないの?」

 

 綾乃の問いに、環が顔を上げる。

 

「綾乃の家でなら」

 

「うちでも駄目だよ」

 

「広いのに」

 

「広さの問題じゃないから」

 

「じゃあ、バカを的にする」

 

「危ないだろ!」

 

「動くから練習になる」

 

「ならないよ、環」

 

 千綴が止めると、環は冗談だと言う代わりに豆を口へ入れた。

 

 ヴァシリオスが椅子をわずかに遠ざける。

 

 綾乃は笑っていたが、すぐに校庭へ視線を向けた。

 

「文芸部は、本を返すくらいならできると思ってたんだけどな」

 

「朝、返せるか心配してた本?」

 

「うん。部室に置いたままのもあるし」

 

「しばらく立ち入りも駄目だって」

 

「やっぱり?」

 

「放課後は、迎えを待つ教室と生徒会室以外、残らないようにするって」

 

「よし。この話は終わり」

 

 ヴァシリオスが、急に箸を置いた。

 

「終わりなの?」

 

「昼休みまで暗い話をしてたら、飯がまずくなる」

 

 そう言って、机の脇から紙袋を持ち上げる。

 

 購買の名前が印刷された袋は、弁当とは別に用意したにしては大きかった。

 

「というわけで、今日の新作」

 

 ヴァシリオスは中から、ひとつずつパンを取り出した。

 

「ダゴンパン。黒い子山羊パン。シャンタク鳥の唐揚げパン」

 

 三つ目を机へ置いたところで、綾乃が瞬きをした。

 

「待って。何の話?」

 

「購買の新作パン」

 

「名前を聞いても、パンの話だと思えなかったんだけど」

 

「名状しがたいパンフェアらしい」

 

「全部、名状してる」

 

 環が即座に言った。

 

 千綴も、並べられたパンを見る。

 

 ダゴンパンは、カニパンのように手足が分かれていた。ただし中央には魚のような顔がつき、丸い目が二つ、こちらを向いている。

 

 黒い子山羊パンは、竹炭を練り込んだらしい黒いパンに、黒い焼きそばが挟まっていた。色の境目がほとんどなく、どこからが具なのか分かりにくい。

 

 最後のパンには、大きな唐揚げが二つ挟まっている。シャンタク鳥が何なのかは分からなかったが、少なくとも鶏肉だと信じたい見た目だった。

 

「どれが一番まとも?」

 

 綾乃に聞かれ、ヴァシリオスは迷わず黒いパンを指した。

 

「黒い子山羊」

 

「それが一番嫌」

 

「焼きそばパンだぞ」

 

「見た目が焼きそばパンじゃない」

 

 環は机へ身を寄せ、三つを順に眺めた。

 

「これ、バカが考えたの?」

 

九頭龍(くずりゅう)さん」

 

「誰?」

 

「購買の人」

 

 あまりにも普通の答えに、千綴はもう一度パンを見た。

 

「九頭龍さんが考えたの?」

 

「本人は偶然だって言ってた」

 

「三つとも?」

 

「九頭龍さんだからな」

 

「説明になってないよ、ヴァシリオス」

 

「深海に本体がいるって噂もある」

 

「購買にいるのは何?」

 

「地上勤務用」

 

 ヴァシリオスは真顔で答えた。

 

 綾乃が箸を持ったまま、小さく首を傾げる。

 

「それ、九頭龍さん本人が言ったの?」

 

「そこまでは聞いてない。未来から来たって話もあるし」

 

「未来の人が、どうして購買でパンを売ってるの」

 

「まだ発売されてないパンを先に売るため」

 

「今日の新作、未来でも売ってるんだ……」

 

 千綴がつぶやくと、環がダゴンパンを指で押した。

 

 魚人の顔が、ゆっくりへこんだ。

 

「雨の日は、黄色いレインコート」

 

「それは普通の雨具じゃない?」

 

「九頭龍さんが着ると、普通じゃないらしい」

 

「誰が言ったの」

 

「俺」

 

「今できた噂だ」

 

 環はそう言いながら、黒い子山羊パンへ手を伸ばした。

 

「猫、それ俺の」

 

「三つも食べるの?」

 

「一個は予備」

 

「何の」

 

「新作が予想より名状しがたかったときの」

 

「もう手遅れ」

 

 環は黒いパンを取り上げ、綾乃の方へ差し出した。

 

「半分」

 

「私も食べるの?」

 

「一人では怖い」

 

「さっき一番嫌って言ったの、聞いてたよね?」

 

 そう言いながらも、綾乃はパンを受け取った。

 

 二人で割ると、中から見慣れた焼きそばの匂いがする。

 

 それだけで、急に普通の食べ物へ戻ったように見えた。

 

「味は?」

 

 千綴が尋ねる。

 

 環と綾乃はひと口ずつ食べ、少しだけ考えた。

 

「普通」

 

「おいしいけど、すごく普通」

 

「九頭龍さん、やるな」

 

「見た目を普通にすればいいだけじゃない?」

 

 ヴァシリオスは、なぜか自分が褒められたような顔をしている。

 

 千綴はダゴンパンと目が合わないよう、弁当箱へ視線を戻した。

 

 朝から教室のどこにいても聞こえていた事件の話は、いつの間にか途切れている。

 

 四人の机の上にあるのは、帰り道への不安ではなく、どこから食べるべきか分からない魚人型のパンだった。

 

「そういえば、ちづる」

 

 黒い子山羊パンを置いた綾乃が、思い出したように言った。

 

「職員室で、生徒会のことを聞いてきたの?」

 

「うん」

 

 千綴は箸を置き、午前中に渡された紙の内容を思い返した。

 

「生徒会は放課後、先生たちの手伝い。迎えを待つ人の対応や、校内に残ってる人がいないかの確認を、担当を分けてやることになってる。私は終礼のあと、昇降口に行くよ」

 

「ちづるも残るの?」

 

「副会長だから」

 

 綾乃の眉が下がった。

 

「残る人を早く帰すために、ちづるが帰るの遅くなるんだ」

 

「私だけじゃないよ。会長も悠司も鈴もいるし、先生も一緒」

 

「帰りは?」

 

 今度はヴァシリオスが聞いた。

 

「まだ決めてない。終わる時間が分かったら連絡する」

 

「一人は駄目だって、山田先生が言ってた」

 

 環が箸を止めている。

 

「分かってる。誰かと一緒に帰るよ」

 

「誰かって誰」

 

「そこまでは、まだ」

 

 三人とも黙った。

 

 責められているわけではない。

 

 それでも千綴は、曖昧な返事をしたことが急に落ち着かなくなった。

 

 名前のない予定は、決まっていないこととよく似ている。

 

「生徒会の中で帰る方向が同じ人を確認する。それで合わなかったら、店長に相談する」

 

 言葉にすると、帰るまでの道筋が少しだけ形を持った。

 

「丘平商店の?」

 

 綾乃が聞く。

 

「うん。今日はバイトじゃないけど、店長なら近くにいるから」

 

「それなら、決まったら教えて」

 

「綾乃に?」

 

「私たちに」

 

 ヴァシリオスが自分と環を順に指す。

 

「帰ったら全員、グループに一言送れ。五人分そろうまでが帰宅確認だ」

 

「全員って、悠司も?」

 

「当然」

 

「悠司を勝手に入れないで」

 

「もう入ってる」

 

 ヴァシリオスが見せた画面には、いつの間にか作られた五人のグループが表示されていた。

 

 名前は『無事に帰る』。

 

「そのまますぎる」

 

 千綴が言うと、環が画面を覗き込んだ。

 

「バカにしては分かりやすい」

 

「ほめてないだろ」

 

「名前は大事」

 

 環は淡々と言い、千綴を見た。

 

 朝の「近くまで来た」という言葉より、その一言の方が胸の奥へ静かに残った。

 

「……うん。大事だよ」

 

 千綴が答えると、環はそれ以上何も言わず、残っていたおかずへ箸を伸ばした。

 

 窓の外が、また少し暗くなる。

 

 廊下では、迎えに来る保護者の名前を教師へ伝える生徒がいた。教室の後ろでは、帰る方向が同じ者同士で集まる約束をしている。

 

 事件の話は消えていない。

 

 けれど四人の机の上には、空になりかけた弁当箱があり、ヴァシリオスが買いすぎたパンがあり、環がいつの間にか取ったひとつを綾乃が半分に分けていた。

 

 いつもと違う一日の中にも、いつもの昼休みは残っていた。

 

 予鈴が鳴る。

 

 教室のあちこちで机が戻され、廊下に出ていた生徒たちが席へ急ぐ。千綴たちも弁当を片づけ、借りた椅子を教室の後ろへ戻した。

 

「決まったら連絡してね」

 

 自分の席へ戻る前に、綾乃がもう一度言った。

 

「分かった」

 

「帰ったら、ちゃんと送れよ」

 

「分かってる、ヴァシリオス」

 

「絶対だぞ」

 

「絶対」

 

 千綴が答えると、ようやくヴァシリオスは前を向いた。

 

 環も自分の椅子へ戻り、何事もなかったように机へ頬杖をつく。

 

 ほどなく五限の開始を告げるチャイムが鳴った。

 

 扉が開き、教科書を抱えた教師が入ってくる。

 

 千綴はノートを開いた。

 

 窓から入り込んだ湿った風が、その端を小さく揺らした。

 

 

 

 

 終礼の終わり際、担任は教卓に片手をついたまま、教室を見渡した。

 

「もう一度だけ言っておく。今日は寄り道をせず、できるだけ複数人で帰ること。部活動は原則中止だ。学校から連絡が入る可能性もある。各自、連絡を確認できるようにしておけ」

 

 朝にも聞いた注意だった。

 

 それでも担任は、言葉を区切りながら念を押した。

 

 窓の外では、昼よりも雲が低くなっていた。

 

 校舎から見える街並みは薄い影に沈み、遠くの山は輪郭を失いかけている。開けた窓から入る風には、朝にはなかった湿った冷たさが混じっていた。

 

 雨の匂いが、校舎の中まで入り込んでいる。

 

 事件の話題そのものは、昼休みまでにひととおり消費されている。

 

 それでも学校側がここまで慎重になると、ただの噂として笑い飛ばすには現実味がありすぎた。

 

「生徒会は、このあと昇降口へ。先生たちの指示に従ってくれ」

 

 担任の視線が千綴へ向く。

 

「分かりました」

 

「弥生も、仕事が終わったらすぐ帰れよ」

 

「はい」

 

 最後にもう一度念を押して、担任は終礼を終えた。

 

 号令のあと、椅子を引く音が一斉に重なる。

 

 教室を出ていく生徒たちは、いつもよりまとまっていた。誰と帰るかを確認し合う声や、迎えに来る家族へ連絡する声が、あちこちで交わされている。

 

 千綴は鞄を持ち上げ、廊下へ出た。

 

 昇降口へ向かう途中、窓ガラスの向こうで木々の葉が裏返った。

 

 空は朝よりも暗い。

 

 雲は街の上へ低く広がり、丘の向こうまで続いていた。

 

 昇降口には、すでに数人の教師と生徒会役員が集まっていた。

 

 会長は校門側に立つ教師と話している。

 

 鈴は他の役員へ何かを伝えていたが、千綴たちに気づくと軽く手を上げた。

 

「弥生先輩、守屋先輩。お疲れさまです」

 

「お疲れさま。もう担当は決まった?」

 

「はい。会長たちは校門側です。迎えを待つ生徒の対応と、校内の確認にも人を回しています」

 

 鈴は昇降口の一角を指した。

 

「二人は、ここで下校する生徒への声掛けをお願いします。先生からも、それでいいそうです」

 

「分かった」

 

 千綴が答えると、守屋も頷いた。

 

 少し離れた場所にいた会長がこちらを見て、短く頭を下げる。

 

 千綴も会釈を返した。

 

 二人は担当の教師から補足だけを聞き、それぞれの位置についた。

 

 特別な作業があるわけではなかった。

 

 教師たちの補助に入り、靴を履き替えた生徒が昇降口に留まらないよう促していく。

 

「友達を待つ人は、昇降口に立ち止まらないでください」

 

「迎えを待つ人は、先生の指示した教室へお願いします」

 

「一人の人は、できれば誰かと一緒に帰ってください」

 

 校門の外には、迎えの車が少しずつ増えていた。

 

 道路では車列が途切れにくくなり、普段なら聞こえない場所からクラクションが鳴った。

 

 空が暗くなるにつれ、昇降口の照明が妙に白く見えた。

 

 いつもの放課後なら、部活動へ向かう生徒たちの声で騒がしい時間だった。

 

 今日は靴を履き替える音と、早足で外へ出ていく足音ばかりが目立つ。

 

 その途中で、最初の雨粒が窓を叩いた。

 

 一つ。

 

 少し間を置いて、もう一つ。

 

 誰かが外を見て、「降ってきた」と呟いた。

 

 昇降口にいた生徒たちが、揃って空を見た。

 

 天気予報では、雨の話など出ていなかったはずだ。

 

 鞄から折り畳み傘を取り出す者がいる一方で、何も持っていない生徒は友人に入れてもらえないか相談し始める。迎えを頼むため、慌ててスマートフォンを取り出す者もいた。

 

 雨粒は細く、地面の色をゆっくりと変えていった。

 

 やがて下校する生徒の数が減り、校内のざわめきも少しずつ遠のいていった。

 

 校門側に立っていた教師が、肩についた雨粒を払いながら戻ってくる。

 

「生徒会はもういいぞ。残りは先生たちで対応する」

 

 担当の教師も頷いた。

 

「二人とも、手伝ってくれてありがとう。一緒に帰れるか?」

 

「途中までは一緒です」

 

 守屋が答える。

 

 千綴も頷いた。

 

「それならいい。足元に気をつけて、人通りの多い道を使いなさい」

 

「はい」

 

 役員たちはそれぞれ挨拶を交わし、帰り支度へ散っていく。

 

 千綴は靴を履き替え、守屋とともに昇降口の外へ出た。

 

 屋根の下で傘を開く前に、スマートフォンを取り出す。

 

「店長に連絡する」

 

「迎え、頼めそう?」

 

「聞いてみる」

 

 巴との画面を開き、学校での対応が終わったことと、これから守屋と一緒に出ること、それから途中まで迎えに来られないかを送る。

 

 返事はすぐに届いた。

 

『分かった。いつものところまで迎えに行く』

 

 続けて、もう一通。

 

『道が混んでる。少し遅れるかもしれないから、悠司くんと一緒に来な』

 

 千綴は画面を守屋へ向けた。

 

「だって」

 

「俺の予定まで決められてるな」

 

「嫌なら断るけど」

 

「この状況で断るほど薄情じゃない」

 

 守屋はそう言って、自分の鞄を肩へ掛けた。

 

「店長さん、千綴のことになると本当に心配性だよな」

 

「普段はそうでもないよ」

 

「千綴が気づいてないだけじゃないか?」

 

 返す言葉を探しているあいだにも、細い雨は途切れずに落ちていた。

 

 昇降口の屋根から、雫が一定の間隔で落ちている。

 

 守屋が鞄から折り畳み傘を取り出した。

 

「持ってたの?」

 

「朝、母親に入れられた。千綴は?」

 

 千綴も鞄の底へ手を入れ、折り畳み傘を取り出す。

 

「普段は持ってないんだけど。今日は、なんとなく」

 

「朝は晴れてたのに?」

 

「うん」

 

 それ以上の理由は、自分でも思いつかなかった。

 

 二人が外へ出ると、湿った風が制服の裾を揺らした。

 

 校門の向こうでは、車の赤いランプが濡れ始めた路面に細く映っている。

 

 朝から空に残っていた違和感は、いつの間にか街全体へ降りてきたようだった。

 

 千綴は一度だけ空を見上げる。

 

 雲の奥に、明るさは残っていなかった。

 

「帰ろうか」

 

「うん」

 

 二人は並んで、校門へ向かって歩き出した。

 

 

 

 

 校門を出ると、雨は傘の布を細く叩いた。

 

 強くはない。けれど途切れる様子もなく、坂道の舗装を少しずつ濃い色へ変えている。下校する生徒たちは二人か三人でまとまり、迎えの車を見つけるたびに足早に列を離れていった。

 

 千綴と守屋も、人の流れに混じって坂を下り始めた。

 

「思ったより混んでるな」

 

 守屋が車道へ目を向ける。

 

 学校へ上がってくる車と、校門前から出ようとする車が短い列を作っていた。雨を予想していなかったのか、傘を持たない生徒を乗せるため、道路脇へ無理に停まっている車もある。

 

「店長、来るの大変かも」

 

「少し遅れるって言ってたしな。待つなら屋根のあるところにしろよ」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

「悠司まで店長みたいなこと言わないで」

 

 守屋は笑い、傘を少し持ち上げた。

 

 坂を下り切る頃には、背後の校舎は低い雲と雨の向こうへ半分ほど隠れていた。普段なら部活動の声が丘の上から追いかけてくる道も、今日は車の走る音ばかりが残っている。

 

 住宅街へ入ると、学校から一緒だった生徒の数も減っていった。

 

 軒下で迎えを待つ者。一本の傘へ二人で入り、肩を濡らしながら歩く者。スマートフォンを耳に当て、家族へ現在地を伝えている者。

 

 普段と同じ帰り道のはずなのに、誰もが家へ戻ることだけを考えているように見えた。

 

「グループ、もう誰か送ってる?」

 

 守屋に聞かれ、千綴は歩きながら画面を確認した。

 

 綾乃からは、家族の迎えで帰宅したという連絡が来ている。環も短く『着いた』とだけ送っていた。ヴァシリオスはまだ移動中らしく、車内から撮ったらしい雨粒のついた窓の写真を載せている。

 

「綾乃と環は帰ったみたい。ヴァシリオスはまだ」

 

「俺たちが最後になりそうだな」

 

「悠司は家に着いてから送ってね」

 

「千綴もな」

 

 念を押し合うような会話が少しおかしくて、千綴は小さく笑った。

 

 やがて道は、大通りへ向かう方角と、もう一方へ続く道に分かれた。

 

 巴との待ち合わせ場所までは、千綴一人でも数分とかからない。

 

 守屋は分かれ道で立ち止まり、大通りの方を見た。

 

「ここから本当に一人で平気か?」

 

「すぐそこだよ。店長も向かってるし」

 

「着くまで一緒に行ってもいいけど」

 

「それだと悠司が遠回りになるでしょ。雨も降ってるし、早く帰った方がいいよ」

 

 守屋はすぐには頷かなかった。

 

 その反応が、昼休みに曖昧な帰宅予定を話したときの三人と重なる。

 

 千綴はスマートフォンを取り出し、巴との画面を開いた。

 

『もうすぐ待ち合わせ場所に着くよ』

 

 送信すると、間を置かずに既読がついた。

 

『あと少し。道路が動かないから、屋根のあるところで待ってな』

 

 返信を守屋へ見せる。

 

「ほら。あと少しだって」

 

「……分かった。店長さんが来るまで、変なところに行くなよ」

 

「行かないよ」

 

「何かあっても自分で見に行くな」

 

 朝から何度も聞いた注意と同じだった。

 

「分かってる」

 

 今度は少しだけ強く答えると、守屋はようやく傘を持ち直した。

 

「じゃあ、帰ったらグループに」

 

「悠司もね」

 

「ああ。また明日」

 

「また明日」

 

 守屋は分かれ道から別の道へ歩き出した。

 

 千綴はその背中が角を曲がるまで見送り、それから大通りへ向かった。

 

 待ち合わせ場所は、交差点近くに店舗が並ぶ一角だった。軒の深い建物があり、雨を避けながら車を待つには都合がいい。その脇には、滑り台とベンチが一つずつ置かれた、小さな公園がある。

 

 子どもが走り回るには狭く、通り抜けに使うような道もない。昼間でも人の姿はまばらで、雨の今は入口から見える範囲に誰もいなかった。

 

 千綴は軒下へ入り、傘の水滴を軽く払った。

 

 車道には赤いブレーキランプが連なっている。遠くから聞こえるクラクションも、学校の前で聞いたときより近かった。

 

 巴の車が来る方向へ目を向ける。

 

 まだ、それらしい車は見えない。

 

 スマートフォンの時刻を確認してから、千綴はグループへ短く打った。

 

『悠司と別れた。今、店長待ち』

 

 送信した直後だった。

 

 雨音に混じって、硬いもの同士が触れたような音がした。

 

 千綴は顔を上げた。

 

 車道からではない。

 

 店舗の中から聞こえた音とも違う。

 

 もう一度、同じ音がした。

 

 細い金属を何本か束ね、その先をゆっくり擦り合わせたような音だった。高くはないのに耳へ残り、雨の音が一瞬だけ遠ざかったように感じられる。

 

 千綴は公園へ目を向けた。

 

 入口の先には濡れた砂場があり、その向こうで滑り台の金属が鈍く光っている。街灯はまだ点いておらず、奥の植え込みは低い雲の影を集めたように暗かった。

 

 猫が何かを倒したのかもしれない。

 

 風で遊具の部品が動いた可能性もある。

 

 そう考えたものの、枝はほとんど揺れていなかった。音の間隔も、風に押されて偶然鳴ったものとは少し違う。

 

 守屋に言われたばかりの言葉を思い出す。

 

 何かあっても、自分で見に行くな。

 

 千綴は公園へ入らず、軒下から入口の奥を見た。

 

「誰かいますか?」

 

 声を掛けても返事はない。

 

 車が一台、濡れた路面を水しぶきとともに通り過ぎた。その音が消えるのを待つように、千綴は耳を澄ませる。

 

 しばらく何も聞こえなかった。

 

 気のせいだったのかもしれない。

 

 そう思いかけたとき、公園の奥から、短く擦れる音が返ってきた。

 

 今度は位置が分かった。

 

 滑り台の向こう。

 

 植え込みと、古い倉庫の壁が作る暗がり。

 

 音は、そこからしていた。

 

 

 

 

 暗がりの奥で、何かが動いた。

 

 植え込みの枝が揺れたわけではない。倉庫の壁へ重なっていた影の一部が、形を変えるように前へ出た。

 

 人だった。

 

 千綴は息を止めた。

 

 男は傘を差していなかった。雨に濡れた髪が額へ張りついているのに、歩みは急いでいない。濃い色の上着にも水が染みていたが、寒そうに肩をすくめる様子もなかった。

 

 右手に、細いものを何本か持っている。

 

 街灯のない薄暗さの中で、それだけが鈍く光った。

 

「こんばんは」

 

 男は、道で知人へ声を掛けるような調子で言った。

 

 千綴は返事をしなかった。

 

 顔には見覚えがない。

 

 公園の奥から出てきたことも、手にしているものも、普通ではなかった。

 

 後ろには車の走る大通りがある。声を上げれば、誰かには届く距離だった。

 

 千綴は公園へ背を向けないまま、一歩だけ後ろへ下がった。

 

「何をしていたんですか」

 

「確認だよ」

 

「何を?」

 

「音を聞いても、近づかなかった」

 

 男の視線が、千綴の足元から顔までゆっくり動いた。

 

「慎重だ。けれど、見捨てることもできなかった。だから声を掛けた」

 

 その言い方に、背中が冷えた。

 

 音は偶然ではなかった。

 

 自分がどう反応するか、見られていた。

 

 千綴はスマートフォンを握り直した。画面はまだグループの会話を表示している。緊急通報を開くなら、数回触れるだけでいい。

 

「そこで止まってください」

 

 できるだけ声を乱さずに言う。

 

 男は従わなかった。

 

 一歩。

 

 靴の下で、濡れた砂がわずかに鳴った。

 

「近づかないで」

 

「怖い?」

 

「警察を呼びます」

 

「それは困るな」

 

 男の声には、困った様子がなかった。

 

 千綴は画面へ親指を伸ばした。

 

 光が走った。

 

 何かが右手の甲へ触れた。

 

 ちくりとした痛みが走る。

 

 手を引こうとした。

 

 けれど、右手は動かなかった。

 

 握っていたスマートフォンだけが指の間からこぼれ、硬い舗装へ角から当たって、画面を上にしたまま滑っていく。

 

 千綴は動かない右手へ視線を落とした。

 

 手の甲には、縫い針より長い黒い針が立っている。

 

 血がにじんでいた。

 

 抜かなければ。

 

 そう思って左手を伸ばしたが、右手は指一本動かなかった。

 

 痛みはある。雨粒が皮膚へ当たる感覚もある。

 

 それなのに、手だけが自分から切り離されたように、命令を受けつけない。

 

「最初は手だ」

 

 男が言った。

 

 千綴は左手でスマートフォンを拾おうとした。

 

 二度目の光が、手首の近くへ落ちる。

 

 小さな痛みが走った直後、左腕が沈み、指先が舗装へ触れる直前で止まった。

 

 両手が動かない。

 

 千綴は顔を上げた。

 

 男の手元には、まだ針がある。

 

 投げたようには見えなかった。腕を振る動きすら、ほとんどなかった。

 

「何をしたの」

 

「君の手を預かった」

 

 意味が分からなかった。

 

 けれど、その言い方だけがひどく気持ち悪かった。

 

「……私の手でしょ」

 

 男は少し目を細めた。

 

「まだ自分のものだと思っているんだね」

 

 千綴は答えず、踵を返した。

 

 大通りまで走ればいい。両手が使えなくても、足は動く。

 

 濡れた地面を蹴った瞬間、右の太腿に針先で刺されたような感触があった。

 

 次の瞬間、膝から力が抜ける。

 

 身体が傾き、肩から地面へ落ちかけた。左足だけで踏みとどまり、どうにか転倒を避ける。

 

 右脚が動かない。

 

 痛みはあるのに、足を着くことも、膝を曲げることもできなかった。

 

「次は足だ」

 

 その声が近づいてくる。

 

 千綴は左足で地面を蹴った。跳ねるように前へ進み、スマートフォンのある場所へ身体を寄せようとする。

 

 左のふくらはぎが、かすかに痛んだ。

 

 支えを失い、今度こそ倒れた。

 

 膝も手も使えない。頬と肩が濡れた舗装へ当たり、口の中に鉄の味が広がった。

 

 傘が離れた場所へ転がっていく。

 

 細い雨が、髪と制服へ直接落ち始めた。

 

 千綴は起き上がろうとした。

 

 腕は動かない。脚も動かない。

 

 腹と背中へ力を入れれば、身体を捻ることはできる。肩を揺らし、少しずつ向きを変えようとした。

 

 男の靴が視界へ入った。

 

 千綴の前で止まる。

 

「よく動く」

 

 見下ろす声は、感心しているようにも聞こえた。

 

「手が駄目なら足を使う。足が駄目なら、残ったところで動こうとする」

 

「……何、言ってるの」

 

 息が上がり、声が掠れた。

 

「君のことだよ」

 

 男は千綴の反応を確かめるように、わずかに首を傾けた。

 

 意味が分からない。

 

 分かりたくもなかった。

 

 右手はすぐ目の前にある。

 

 雨に濡れ、黒い針を刺されたまま、地面へ投げ出されている。感覚は残っているのに、指一本、自分の思うようにはならない。

 

 自分の手なのに。

 

 この男のものではない。

 

 返してほしいと思った。

 

 違う。

 

 返してもらうものではない。

 

 最初から、これは自分の手だ。

 

 右の人差し指が、舗装を擦った。

 

 千綴は息を止めた。

 

 今、動いた。

 

 どうしてかは分からない。

 

 試すように力を入れると、指がもう一度曲がった。続いて中指が動き、手のひらが濡れた地面を掴む。

 

 男の表情が止まった。

 

「……何をした」

 

 千綴にも分からなかった。

 

 答える代わりに、動くようになった右腕を引き寄せた。肩まで重かったが、命令は届いている。

 

 右手のすぐ先に、傘の柄が転がっていた。

 

 千綴は動くようになった腕を地面へ押しつけ、肩と腰を僅かにずらした。脚は動かない。それでも身体を引きずるようにして、指先を柄へ届かせる。

 

 男が手の中の針を持ち直した。

 

「動くはずがない」

 

 その声が近づくより先に、千綴は傘を振った。

 

 開いたままの傘が男の腕へぶつかり、黒い針がいくつか宙へ散った。地面へ触れた先から輪郭を失い、濡れた舗装へ沈んでいく。男が身を引く。

 

 千綴は傘を支えに身体を起こそうとした。脚は動かない。それでも腕さえ使えれば、地面を這ってでも公園の外へ近づける。

 

 柄を握り直した瞬間、右手の甲に小さな痛みが重なった。

 

 指が開く。

 

 傘が落ちた。

 

 もう一度。

 

 動いたはずの右手が、再び地面へ沈んだ。

 

「今のは何だ」

 

 男の声から、先ほどまでの余裕が消えていた。

 

 千綴は答えられない。

 

 自分でも、何をしたのか分からない。ただ嫌だと思った。自分の手を、この男のもののように扱われることが。

 

 左手にも、もう一度小さな痛みが触れた。

 

 両腕が完全に沈む。

 

 男は千綴を見下ろしていた。呼吸がわずかに速くなっている。

 

「違う」

 

 何が違うのか、千綴には分からなかった。

 

 男は自分へ言い聞かせるように、もう一度呟いた。

 

「取得できていた。間違いなく」

 

 その目が、千綴の腕から顔へ移る。

 

 驚きの奥に、別のものが浮かんでいた。

 

 期待だった。

 

 それがすぐに、焦りへ変わる。

 

「もう一度だ」

 

 男が針を選ぶ。

 

 千綴は身体を少しでも後ろへずらそうと、腰へ力を入れた。

 

 脇腹に、ちくりとした感触があった。

 

 直後、腹に入れていた力が抜けた。

 

 背中も腰も、自分の身体を支えることをやめる。肩が地面へ落ち、胸が押しつぶされるように傾いた。

 

 息を吸おうとした。

 

 胸はわずかに動いたが、空気が足りない。

 

 もう一度、もっと深く吸おうとしても、身体は応えなかった。喉の奥だけがひくつき、浅い息が途切れ途切れに漏れる。

 

 咳をしたかった。

 

 唾を飲み込みたかった。

 

 けれど、どちらも自分ではできない。

 

 肺の中に残った空気だけが、少しずつ失われていく。

 

 苦しい。

 

 そう思った瞬間にも、胸は次の呼吸を始めてくれなかった。

 

 千綴は口を開いた。空気を求めるように顎だけが僅かに動く。それでも入ってくるのは、細く冷たい一息だけだった。

 

 視界の端が暗くなり、耳の奥で血の音が鳴り始める。

 

 首から下が、自分の身体ではない重い塊になっていた。

 

「これで、静かに見られる」

 

 男がしゃがみ込む。

 

 濡れた地面へ膝をつくことを気にする様子はない。

 

 千綴の顔を覗き込み、呼吸の間隔を数えるように見ていた。

 

「やめ……」

 

 声になりきらなかった。

 

「まだ声は出る」

 

 男は千綴の口元を見た。

 

「怖い?」

 

 答えようとして、息だけが漏れた。

 

 怖いに決まっている。

 

 店長に連絡したい。守屋を呼び戻したい。誰でもいいから、ここへ来てほしかった。

 

 男は、そんな千綴の顔を待っていたように見えた。

 

「その顔になるまでが長かった」

 

 ぞっとした。

 

 この男は、自分の言葉を聞いているのではない。

 

 痛がるところも、逃げようとするところも、最初から決めた順番に当てはめて見ているだけだ。

 

「……ちがう」

 

 掠れた音が、ようやく喉を抜けた。

 

「何が?」

 

 千綴自身にも、うまく説明できなかった。

 

「しら……ない」

 

 それ以上、息が続かなかった。

 

 男の目がわずかに細くなる。

 

「何を?」

 

 千綴は唇を動かした。

 

「……わたし」

 

 声にはならない。

 

 それでも、男が何かを分かったように話すことだけは、ひどく気持ちが悪かった。

 

「身体は分かる」

 

 千綴は僅かに首を振ろうとした。

 

 動かなかった。

 

「動かなくなった。なら、それで十分だ」

 

 違う。

 

 そう思った。

 

 けれど、もう言葉にはできなかった。

 

 男の口元から、薄い笑みが消えた。

 

 千綴は息を吐こうとして、浅い空気だけを漏らした。

 

 何も知らない。

 

 千綴はそう思った。

 

 けれど、喉から漏れたのは浅い息だけだった。

 

 男の指が、手の中の針を強く握った。

 

 手の中の黒い針が触れ合い、かすかな音を立てる。

 

「違う」

 

 それまでの穏やかな声ではなかった。

 

 男は千綴の顔を見たまま、浅く息を吸った。目だけが落ち着きなく動き、何かを探すように頬や唇、濡れた髪へ順に向けられる。

 

「一度、外した」

 

 誰に言うでもなく、言葉がこぼれた。

 

「だったら、もっと出るはずなんだ。逃げられないと分かれば、もっと――」

 

 途中で声が止まる。

 

 千綴には、その先が分からなかった。ただ、男が自分の顔にないものを探し続けていることだけは分かった。

 

 男の眉が歪んだ。

 

「君には関係ない」

 

 吐き捨てるような声だった。

 

 立ち上がろうとして膝が滑り、男は濡れた地面へ一度手をついた。すぐに身体を起こしたが、乱れた呼吸は戻らなかった。

 

「違う。これも違う」

 

 手の中の針を選び直す。

 

 一度取ったものを戻し、別の一本へ触れ、それも払い捨てる。黒い輪郭は地面へ届く前に薄れた。

 

「何も知らないくせに、そんな目で見るな」

 

 千綴がどんな顔をしているのか、自分では分からなかった。

 

 男はそれ以上見ていられないように、わずかに顔を逸らした。

 

「君は、標本には向かない」

 

 言い聞かせるような声だった。

 

 なりたくない。

 

 千綴はそう返そうとした。

 

 けれど、喉から漏れたのは掠れた息だけだった。

 

 それでも、千綴は男から目を逸らさなかった。

 

「黙れ」

 

 初めて、怒鳴り声に近い音が混じった。

 

 男は一本の針を掴む。指先が震えていた。

 

「残す価値もない」

 

 千綴は針の先を見た。

 

 次に何が起きるかを、身体が先に理解した。

 

 声を上げようとする。

 

 助けを呼ぼうとする。

 

 けれど、男の指が動く方が早かった。

 

 首の付け根に、小さな痛みが触れた。

 

 喉が閉じ、声が消える。

 

 視線を動かそうとしても、瞼も眼球も命令を受けつけない。耳へ届いていた雨音が遠ざかり、胸の動きが一度、浅く途切れた。

 

 もう一度吸おうとしても、身体は応えなかった。

 

 濡れた舗装の冷たさだけが、頬に残っていた。

 

 それも、少しずつ遠のいていく。

 

 胸は、もう動かなかった。

 

 

 

 

 胸は、もう動かなかった。

 

 雨の音も、頬に触れていた冷たさも、遠くなっていく。

 

 暗くなるのではなかった。

 

 何も見えなくなるより先に、別の景色が浮かんだ。

 

 雨の中、守屋が傘を少し持ち上げている。

 

「着いたら送れよ」

 

「悠司もね」

 

 ついさっき交わしたばかりの言葉だった。

 

 分かれ道の向こうへ歩いていく背中を見送り、自分は大通りの方へ向かった。

 

 店長が迎えに来る。

 

 だから大丈夫だと答えた。

 

 場面が途切れる。

 

 昼休みの教室だった。

 

 机の上には空になりかけた弁当箱と、ヴァシリオスが買ってきた奇妙なパンが並んでいる。

 

「帰ったら、ちゃんと送れよ」

 

「分かってる、ヴァシリオス」

 

「絶対だぞ」

 

「絶対」

 

 自分の声が、ひどく近くに聞こえた。

 

 まだ送っていない。

 

 そのことだけが、胸のない場所へ重く残った。

 

 次に見えたのは、今よりずっと低いところにあった空だった。

 

 故郷の夏祭り。

 

 提灯の灯り。人の声。遠くで鳴る太鼓。浴衣の袖を気にしながら、人の間を縫うように歩いていた幼い自分。

 

 誰かとはぐれないように、祖父の手を握っていた。

 

 夜空には星が少なく、代わりに祭りの明かりが低く浮かんでいる。

 

 境内の端で、千綴は何かを見上げていた。

 

 何を見ていたのかは、もう思い出せない。

 

 ただ、あのとき自分が言ったことだけが残っていた。

 

 あれは、きっとそうだ。

 

 根拠もなく、幼い千綴はそう言った。

 

 祖父は否定しなかった。

 

「そう思うなら、それでいい」

 

 その言葉の意味が、当時は分からなかった。

 

 正しいとも、間違っているとも言わなかった。

 

 ただ、自分がそう思ったことを、そのまま受け取ってくれた。

 

 今になって、言葉が別のものへ繋がった。

 

 守屋と別れた道。

 

 昼休みに交わした約束。

 

 迎えに来ると言った巴。

 

 故郷の祭りで握っていた祖父の手。

 

 離れているのに、なくなってはいない。

 

 ここで自分が終わったとしても、最初から何もなかったことにはならない。

 

 そう思うなら、それでいい。

 

 祖父の声が、もう一度聞こえた。

 

 死んだんだと思う。

 

 それでも、帰りたいと思った。

 

 約束を返したいと思った。

 

 店長に会いたい。

 

 悠司に、ちゃんと着いたと伝えたい。

 

 明日の朝も、あの坂を上りたい。

 

 それが正しいのかは分からない。

 

 できることなのかも分からない。

 

 それでも、千綴はそう思った。

 

 その瞬間、それまで別々だったものが一つに重なった。

 

 雨。

 

 地面。

 

 遠くを走る車。

 

 自分を待っている人。

 

 もう動かない身体。

 

 帰りたいと思う自分。

 

 どれも離れているはずなのに、完全には切れていない。

 

 どこまでが自分で、どこからが自分ではないのか。

 

 境目が、ほんの一瞬だけ分からなくなった。

 

 言葉にはできなかった。

 

 けれど、それまで見えなかったものが、ほんの一瞬だけ繋がった。

 

 切れたと思っていたものの向こうに、まだ何かが残っている。

 

 動かない身体と、帰りたいと思う自分のあいだにも。

 

 何かが触れた。

 

 次の瞬間、冷たさが戻った。

 

 濡れた舗装が、頬へ触れている。

 

 雨粒が瞼を打つ。

 

 胸の奥が強く縮んだ。

 

 空気が喉へ流れ込み、千綴は大きく息を吸った。

 

 吸い込んだ空気が肺を刺す。

 

 身体が痙攣し、喉の奥から掠れた音が漏れた。

 

 息が続かない。

 

 胸が何度も不規則に跳ね、そのたびに空気が途切れ途切れに入ってくる。

 

 千綴は咳き込み、濡れた地面へ額をつけた。

 

 指先が震えた。

 

 右手が動く。

 

 左手も、遅れて地面を掴んだ。

 

 脚の感覚が戻り、腹と背中へ力が入る。

 

 何が起きたのかは分からなかった。

 

 考えようとすると、さっきまでそこにあったはずの記憶が崩れていく。

 

 祭りの灯り。

 

 祖父の声。

 

 誰かと交わした約束。

 

 どれも掴もうとするほど遠ざかった。

 

 ただ、ここから離れなければならないという感覚だけが残っていた。

 

 千綴は両手を地面へつき、膝を引き寄せた。

 

 一度では立てなかった。

 

 腕が震え、足が滑る。

 

 それでも、もう一度力を入れる。

 

 何度かよろめきながら、どうにか立ち上がった。

 

 男が、すぐ近くにいた。

 

 先ほどまでとは違い、何もせずに千綴を見ている。

 

 その顔に浮かんでいるものを、千綴は読み取れなかった。

 

「何を……」

 

 男の声が途切れる。

 

 千綴はそちらを見た。

 

 誰なのか。

 

 何をされたのか。

 

 どうして自分が倒れていたのか。

 

 どれも、すぐには形にならなかった。

 

 男のすぐ脇を通り過ぎる。

 

「待て」

 

 声がした。

 

 千綴は止まらなかった。

 

 少し離れた場所に、鞄が落ちている。

 

 傘も転がっていた。

 

 スマートフォンは、舗装の上で画面を光らせている。

 

 通知がいくつも重なり、名前と短い言葉が画面を埋めている。内容までは読めなかった。ただ、誰かが何度も自分を呼んでいることだけは分かった。

 

 拾わなければならない。

 

 そう思ったはずなのに、身体はそちらへ向かなかった。

 

 公園の入口を抜ける。

 

 車の音が戻ってくる。

 

 信号の光が濡れた路面へ滲み、人の話し声が遠くから聞こえた。

 

 どこへ向かえばいいのか、はっきりとは分からない。

 

 それでも足は、帰る道を知っていた。

 

 千綴は振り返らず、その場を離れた。

 

 

 

 

 動かなくなった胸を、男はしばらく見下ろしていた。

 

 雨粒が制服の背へ落ちている。

 

 肩は上下しない。

 

 喉も動かない。

 

 先ほどまで男を睨んでいた目は閉じられ、そこに意志の残りは見えなかった。

 

 男は千綴の首筋へ指を当てた。

 

 脈はない。

 

 口元へ手をかざしても、息は触れなかった。

 

 終わった。

 

 そう確かめた瞬間、張りつめていたものが僅かに緩んだ。

 

 手順は崩れた。

 

 一度、奪ったはずの手を取り戻された。

 

 理由は分からない。

 

 それでも最後には、すべてを奪った。

 

 動きも、声も、呼吸も。

 

 自分から目を逸らさなかった少女は、もう何も返さない。

 

 男はその顔を見つめた。

 

 求めていたものとは違う。

 

 恐怖はあった。抵抗もあった。最後には逃げられないことも分かったはずだ。

 

 それなのに、足りなかった。

 

 縋らなかった。

 

 認めなかった。

 

 最後まで、自分の内側へ入ることを拒んだ。

 

「違う」

 

 声にすると、胸の奥に残っていた渇きがかえって強くなった。

 

 これではない。

 

 こんな終わり方では、何も満たされない。

 

 男は千綴の頬へ手を伸ばしかけた。

 

 そのとき、舗装の上でスマートフォンが震えた。

 

 短い振動が止まり、すぐにまた震える。

 

 光った画面には、いくつもの通知が重なっていた。

 

 誰かが、この少女を探している。

 

 このまま応答がなければ、周囲を探し始める者もいるだろう。

 

 男は大通りへ目を向けた。

 

 雨音の向こうから車の走る音が続いている。公園の入口を通り過ぎる人影はまだない。だが、ここにいられる時間は長くなかった。

 

 男は立ち上がり、公園の入口へ向かった。

 

 ここを離れなければならない。

 

 そう思って数歩進んだ、そのときだった。

 

 背後で、喉の奥から掠れた息が漏れた。

 

 男は振り返った。

 

 少女の胸が大きく持ち上がり、指先が濡れた舗装を掻いた。

 

 男は動けなかった。

 

 脈はなかった。

 

 息もなかった。

 

 確かに終わっていた。

 

 それを、自分の指で確かめた。

 

「何を……」

 

 声が途中で消えた。

 

 少女は咳き込みながら両手を地面へつき、ゆっくりと身体を起こしていく。

 

 奪ったはずの手も、脚も、胴体も、すべてが動いている。

 

 解除されたのではない。

 

 あれは一度、完全に止まった。

 

 男の中で、積み重ねてきた手順が音を立てて崩れた。

 

 針が外れたからではない。

 

 取得が浅かったわけでもない。

 

 死んだ者は動かない。

 

 それだけは、これまで一度も違わなかった。

 

 少女が立ち上がる。

 

 何度も足を滑らせ、腕を震わせながら、それでも立った。

 

 男は手の中の針を握った。

 

 刺せばいい。

 

 もう一度、手から奪えばいい。

 

 そう考えたのに、指が動かなかった。

 

 先ほど一度だけ、支配を外された感覚が蘇る。

 

 何をされたのか分からなかった。

 

 今も分からない。

 

 自分が奪ったものを、この少女は、自分には理由も分からないまま取り戻した。

 

 そして今度は、死そのものから戻ってきた。

 

 少女がこちらを見た。

 

 焦点の合わない目だった。

 

 怒りも、恐怖もない。

 

 男を見ているのに、男の存在を捉えていない。

 

 そのことが、怒鳴られるよりも恐ろしかった。

 

 少女は一歩踏み出した。

 

 男の方へ来る。

 

 反射的に針を構えた。

 

 だが、少女は手を伸ばさなかった。

 

 男のすぐ脇を、そのまま通り過ぎる。

 

「待て」

 

 絞り出した声に、少女は反応しない。

 

 濡れた歩道へ向かい、公園の入口を抜けていく。

 

 男は追えなかった。

 

 背中が遠ざかっても、足は地面に縫いつけられたように動かなかった。

 

 生き返った。

 

 その言葉を考えただけで、喉の奥がひどく乾いた。

 

 あり得ない。

 

 けれど、あり得ないものが目の前を歩いていった。

 

 理解できない。

 

 自分が。

 

 男は強く奥歯を噛んだ。

 

 その事実が、死者が歩き出したこと以上に耐え難かった。

 

 またスマートフォンが震えた。

 

 男は我に返った。

 

 公園の外で、車が速度を落とす音がする。

 

 大通り側から、人の話し声が聞こえた。

 

 ここにいてはいけない。

 

 少女はすでに公園を出ていたが、鞄と傘、スマートフォンはその場に残されている。

 

 足元に落ちていた黒い針は、すでに輪郭を失い始めていた。雨に濡れた舗装へ沈むように細くなり、やがて暗がりへ紛れていく。

 

「違う」

 

 何に対する言葉なのか、自分でも分からなかった。

 

 あれは失敗ではない。

 

 確かに殺した。

 

 間違えていない。

 

 間違っているのは、戻ってきた少女の方だ。

 

 そう言い聞かせても、指の震えは止まらなかった。

 

 男は鞄と傘、何度も震えるスマートフォンへ一度だけ目を向け、植え込みの奥へ視線を移した。

 

 来た道を戻るべきではない。

 

 大通り側には人がいる。

 

 反対側の低い柵を越えれば、建物の裏手へ抜けられる。

 

 少女を追うという考えが、一瞬だけ浮かんだ。

 

 確かめなければならない。

 

 何をしたのか。

 

 どうして戻ったのか。

 

 今度こそ理解しなければならない。

 

 だが、足は少女の後を選ばなかった。

 

 今追えば、見つかる。

 

 捕まれば、もう確かめることもできない。

 

 男は公園の奥へ走った。

 

 濡れた土を踏み、植え込みを押し分ける。枝が頬を掠めても止まらない。

 

 背後で、またスマートフォンが震えた。

 

 誰かが少女を呼び続けている。

 

 男は振り返らなかった。

 

 低い柵へ手を掛け、雨に滑りながら向こう側へ身体を落とす。

 

 着地した足がもつれた。

 

 壁へ手をつき、息を整える間もなく路地の暗がりへ入った。

 

 逃げなければならない。

 

 今は、それだけだった。

 

 

 

 

 目を開けたとき、最初に見えたのは、知らない天井だった。

 

 薄い色の壁紙。見覚えのない照明。カーテンの隙間から差し込む朝の光。

 

 千綴はしばらく瞬きを繰り返した。

 

 身体を起こそうとして、肩に掛けられていた毛布がずれる。着ているものも、自分の服ではなかった。少し大きめの長袖と、柔らかい生地のズボン。

 

 そこでようやく、部屋の隅に置かれた棚と、窓際の小さな観葉植物に見覚えがあることへ気づいた。

 

 巴の家だった。

 

「……なんで」

 

 声は掠れていた。

 

 喉が乾いている。

 

 枕元には水の入ったコップが置かれていた。手を伸ばし、一口飲む。冷たい水が喉を通る。

 

 昨夜のことを考えようとした。

 

 学校を出たこと。

 

 守屋と別れたこと。

 

 そこまでは覚えている。

 

 その先へ進もうとすると、頭の中に白い空白が広がった。

 

 次に残っているのは、自分の部屋の前だった。

 

 巴の声を聞いた。

 

 振り向いた。

 

 そこから先は、また何もない。

 

 千綴は毛布の上で手を握った。

 

 指は動く。

 

 痛みも、目立った傷もない。

 

 それなのに、何か大切な部分だけが抜け落ちている感覚があった。

 

 部屋の外から、食器の触れ合う音がした。

 

 千綴は毛布を退け、ゆっくり立ち上がった。

 

 足元は少し頼りなかったが、歩けないほどではない。

 

 扉を開けると、台所にいた巴がすぐに顔を上げた。

 

「起きた?」

 

「……うん」

 

 巴は手を止めたまま、千綴の顔を見つめた。

 

「気分は」

 

「大丈夫。たぶん」

 

「たぶんは禁止」

 

 いつもの調子に近い声だった。

 

 けれど、その目の下には薄く疲れが残っていた。

 

「頭は痛くない? 吐き気は?」

 

「ない」

 

「身体のどこか、痛いところは」

 

「ないと思う」

 

 巴はすぐには答えなかった。

 

 それから、ようやく小さく息を吐いた。

 

「よかった」

 

 その一言に、千綴は顔を上げた。

 

 巴は視線を逸らし、コンロの火を弱めた。

 

「本当に、よかった」

 

 声は静かだった。

 

 千綴は何も言えなかった。

 

 昨日、巴がどれだけ探したのか。

 

 自分がどんな状態で見つかったのか。

 

 まだ詳しくは分からない。

 

 それでも、巴がほとんど眠っていないことだけは分かった。

 

「ごめん」

 

「謝らなくていい」

 

 返事はすぐだった。

 

「今は座って」

 

 椅子を引かれ、千綴は言われた通りに腰を下ろした。

 

 目の前に、湯気の立つカップと、柔らかく煮たおかゆが置かれる。

 

「食べられそう?」

 

「少しなら」

 

「少しでいい」

 

 巴は向かい側へ座った。

 

 千綴がひと口食べるまで、何も聞かなかった。

 

 温かいものが胃へ落ちていく。

 

 それだけで、張りつめていたものが少し緩んだ。

 

「昨日のこと」

 

 千綴が口を開くと、巴はすぐに首を振った。

 

「今は思い出さなくていい」

 

「でも」

 

「無理に思い出して、また倒れたら意味がないでしょう」

 

 強い言い方ではなかった。

 

 けれど、譲るつもりがないことは分かった。

 

「今日は病院に行く」

 

「学校は」

 

「休み」

 

「でも、生徒会も」

 

「休み」

 

 巴は言い切った。

 

「明日も、必要なら休ませる。警察の話も、学校の話も、千綴が落ち着いてから」

 

「警察?」

 

 千綴の手が止まった。

 

 巴は少し迷ったあと、必要なことだけを選ぶように口を開いた。

 

「鞄とスマートフォンと傘が見つかった」

 

「どこで」

 

「公園」

 

 胸の奥が冷えた。

 

 千綴は反射的に足元を見た。

 

 鞄はない。

 

 スマートフォンもない。

 

 傘もない。

 

「制服は洗ってる。泥だらけだったから」

 

「私、どうやって帰ったの」

 

「分からない」

 

 巴は正直に答えた。

 

「待ち合わせ場所にいなかった。電話にも出なかった。悠司に別れた場所を聞いて、帰り道を探した」

 

 そこで一度言葉を切る。

 

「最後に部屋を見に行ったら、千綴が立ってた」

 

「部屋の前に?」

 

「ずぶ濡れで、手ぶらで」

 

 千綴は何も言えなかった。

 

「名前を呼べば反応はした。でも、ほとんど何も話せなかった。ひとりにはできなかったから、うちに連れてきた」

 

 巴は千綴の手元へ視線を落とした。

 

「警察からは連絡が来てる。学校にも確認が入ると思う。でも、今日すぐ話す必要はない」

 

「いいの?」

 

「よくない状態の人に無理に話させる方が、もっとよくない」

 

 千綴はカップを両手で包んだ。

 

 何があったのかは分からない。

 

 ただ、持ち物だけが公園に残り、自分はそこから離れた場所で見つかった。

 

 そのあいだの記憶がない。

 

 夢ではない。

 

 何もなかったわけでもない。

 

 けれど、今すぐ答えを出さなくていいと、巴は言っている。

 

「今日は、ここにいていい?」

 

 口にしてから、自分でも少し驚いた。

 

 巴はすぐに頷いた。

 

「最初から、そのつもり」

 

 その返事を聞いた瞬間、肩の力が抜けた。

 

 窓の外では、昨日の雨が嘘のように空が明るい。

 

 昨日までと同じ朝に見える。

 

 けれど、千綴の中には、まだ名前のつかない空白が残っていた。

 

 今は、それを無理に埋めなくていい。

 

 千綴はもう一度、おかゆを口へ運んだ。

 

 温かさだけを確かめるように、ゆっくりと飲み込んだ。

 

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