千綴は、坂の途中で足を止めた。
朝の空は、昨日と同じようによく晴れている。
高いところには薄い雲があり、その下には夏の青が広がっていた。坂の上では綾丘高校の白い校舎が朝日を返し、住宅の屋根の向こうには、霞んだ山の輪郭が見えている。
蝉の声も、肌へまとわりつく暑さも、昨日と変わらない。
それなのに、何かが違っていた。
千綴は目を細めた。
空の色が違うわけではない。雲が不自然に動いているわけでも、見慣れないものが浮かんでいるわけでもなかった。
坂を上っていく生徒たちも、いつもどおりだ。友人を待つ者がいて、眠そうに欠伸をする者がいる。横を通り過ぎた自転車の男子生徒は、坂の勾配に負けそうになりながら懸命にペダルを踏んでいた。
見えるものは、昨日と同じ場所にある。
けれど、それらがひとつの朝として、うまく重なっていないような気がした。
千綴は鞄の持ち手を握り直した。
寝不足ではない。朝食も食べた。熱もなければ、頭痛もしない。
気のせいだと片づけるには、胸の奥へ残る引っかかりが妙にはっきりしていた。
「ちづる!」
背後から呼ばれ、千綴は振り返った。
坂を駆け上がってきた綾乃が、数歩手前で速度を落とす。今日は転びかけることもなく、千綴の隣へ並んだ。
「おはよう。今日も空を見てた?」
「おはよう。今日は見てたというか……」
言葉を探しながら、もう一度だけ頭上を見る。
やはり、よく晴れた空だった。
「何かある?」
綾乃もつられて見上げる。
「ううん。何もない」
「何もないのに見てたの?」
「そうみたい」
自分でも要領を得ない返事だった。
綾乃は空から千綴へ視線を戻す。いつものように笑ってはいたが、その目が少しだけ細くなった。
「ちづる、眠い?」
「眠くないよ」
「じゃあ、具合悪い?」
「それも大丈夫」
「本当に?」
「本当に。ちょっと考え事してただけ」
何を考えていたのかと聞かれたら、答えられそうになかった。
けれど綾乃は、それ以上追及しなかった。
「ならいいけど。駄目になったら早めに言ってね」
「駄目になる前提なの?」
「ちづるは大丈夫って言いながら動くから」
「それ、昨日も似たようなこと言われた」
「誰に?」
「バイト先の店長」
「じゃあ間違ってないね」
迷いなく断定され、千綴は小さく息を吐いた。
二人で坂を上り始める。
綾乃は文芸部で読む本の話をして、夏休みに入る前に借りた分を返せるだろうかと真剣に悩んだ。千綴は相槌を打ちながら、ときどき坂の下へ目を向けた。
住宅街の向こうを、幹線道路が走っている。
車の列も、遠くの信号も、いつもと変わらない。
「ちづる?」
「聞いてるよ。残り二冊でしょ」
「三冊」
「増えてる」
「昨日、一冊借りたから」
「返す話をしてる途中で借りないで」
ようやくいつもの調子で返すと、綾乃が安心したように笑った。
その笑顔を見ているあいだだけ、朝の違和感は少し遠のいた。
坂を上り切る。
校門のそばには、見慣れない位置に教師が立っていた。登校してくる生徒へ挨拶をしながら、ときどき道路の先へ視線を向けている。
生活指導か何かだろうか。
千綴は気になったが、教師の前を通る頃には、後ろから来た綾乃に背中を押されていた。
「止まるとぶつかるよ」
「止まってない」
「今日は遅くなってる」
昨日とは少し違う言葉に、千綴は反論できなかった。
昇降口へ入ると、蝉の声が遠のいた。
靴底が床を擦る音と朝の挨拶が重なり、開け放たれた扉から、熱を含んだ風が流れ込んでいる。そこまでは昨日と同じだった。
違っていたのは、足を止めたままスマートフォンを見ている生徒が多いことだった。
画面を見せ合い、声を潜める。教師が近くを通ると会話は一度途切れ、その背中が離れれば、また小さく繋がっていく。
千綴が下駄箱を開けると、隣で綾乃も靴を脱いだ。今日は片足で立たず、最初から腰を下ろしている。
「学習したね」
「昨日はたまたまだから」
「何がたまたまなんだ?」
聞き覚えのある声がして、二人で振り返る。
悠司が上履きを片手に立っていた。
「おはよう、守屋くん」
「おはよう。今日は大丈夫」
綾乃が座ったまま胸を張る。
「靴を履き替えるだけで報告が必要なのか」
「昨日、助けてもらったから」
「助けたっていうほどじゃないけどな」
悠司は呆れたように言いながら、上履きへ履き替えた。
「千綴も、おはよう」
「おはよう」
「……どうかした?」
悠司の視線が、千綴の顔で止まる。
「何が?」
「いや。綾乃だけじゃなくて、千綴まで静かだから」
「私はいつも静かでしょ」
「自分で言う?」
綾乃がすぐに口を挟む。
悠司は二人を見比べ、それ以上は何も言わなかった。
「じゃあ、また」
「うん。また」
廊下の分かれ道で別れ、悠司は自分の教室へ向かう。
千綴と綾乃が階段へ進むあいだにも、教師が早足で横を通り過ぎた。手には書類の束を抱えている。職員室の方角から呼び止める声が飛び、教師は返事だけを残して角を曲がった。
「朝から忙しそうだね」
綾乃の言葉に、千綴は頷いた。
教室へ入る前から、中のざわめきが廊下まで届いていた。
「遅い」
ヴァシリオスが、千綴たちの姿を見るなり声を上げる。
昨日と同じようにスマートフォンを手にしていた。けれど今日は、得意げに話題を持ってきた顔ではない。
環は自分の席へ座り、机へ頬杖をついている。眠そうな目は開いていた。
「おはよう。何かあったの?」
「あった。昨日の夜、まただ」
ヴァシリオスが差し出した画面を、千綴と綾乃が覗き込む。
表示されていたのは、報道記事を引用した投稿だった。
昨夜、継見市内で女子生徒が事件に巻き込まれたこと。被害者は、綾丘高校から遠くない別の高校に通っていたこと。警察が、これまでの事件との関連も含めて捜査していること。
短い文章を読み終えても、千綴はすぐに顔を上げられなかった。
「近くの学校って……」
綾乃の声から、いつもの明るさが薄れる。
「電車なら二駅。向こうの生徒と知り合いのやつもいる」
ヴァシリオスが画面を送る。
記事の下には、すでに多くの言葉が連なっていた。
前の事件と同じ犯人だと断定する投稿。被害者を知っていると名乗る者の書き込み。警察が隠していることがあるという話。現場の写真だと称する、暗く不鮮明な画像。
「これ、本物なの?」
綾乃が画像を指す。
「分からない。別の場所の写真だって言ってるやつもいる」
「なら、見せない方がいいよ」
千綴が言うと、ヴァシリオスは指を止めた。
「でも、知っておいた方が――」
「何を?」
声が少しだけ強くなった。
ヴァシリオスが黙る。
千綴は画面を見たまま、息を整えた。
「事件が起きたことと、近くの学校の生徒が被害に遭ったことは、記事に書いてある。前の事件との関連は捜査中。そこまでは分かる。でも、その写真が本物かも、書いた人が本当に被害者を知ってるかも分からないでしょ」
「……そうだな」
「ごめん。ヴァシリオスが悪いって言いたいんじゃない」
「分かってる」
ヴァシリオスは画面を消した。
環が頬杖をついたまま、窓の外を見る。
「でも、近くまで来た」
その一言に、誰もすぐには返さなかった。
昨日まで、事件は画面の向こう側にあった。
知らない街。見覚えのない倉庫街。自分たちとは違う場所で起きた、怖い出来事。
いまも被害者の顔も名前も知らない。
それでも、同じ制服を着て学校へ通っていたと知っただけで、遠さの測り方が変わってしまった。
廊下を教師が通り過ぎる。
開いた扉の向こうで別の教師に呼び止められ、二言三言を交わしてから、今度は職員室の方へ戻っていった。
教室の前方では、クラスメイトたちが似たような話をしている。
「うちも休校になるって」
「それ、誰が言ってたの?」
「隣のクラス。保護者に連絡が来たらしい」
「俺のところには何も来てないけど」
話は広がるたびに形を変えていた。
休校になる。授業は午前で終わる。部活動だけがなくなる。犯人はもう市内にいる。いや、捕まったらしい。
互いに矛盾する話が、どれも同じ確かさで囁かれている。
千綴は窓の外へ目を向けた。
校門には、さきほど見た教師がまだ立っている。その近くへ別の教師が加わり、登校してくる生徒と、その向こうの道路を交互に見ていた。
空は変わらず晴れていた。
けれど、坂の途中で感じたものは、もう気のせいとは思えなかった。
変わっていたのは、空ではない。
その下にいる人たちだった。
始業を知らせるチャイムが鳴った。
教室のあちこちで会話が途切れ、生徒たちは反射的に自分の席へ戻る。ヴァシリオスもスマートフォンをしまい、環は頬杖を解いた。
けれど、担任は来なかった。
一分が過ぎても、教室の扉は開かない。
静かになりかけた教室へ、また少しずつ声が戻ってくる。
「本当に休校なんじゃない?」
「だったら先に放送するだろ」
「職員会議、長引いてるって」
「誰情報?」
「さっき先生が話してるの聞いた」
今度の話には、少なくとも出どころがあった。
千綴は前方の時計を見る。
一限の開始時刻を過ぎている。
廊下では、別の教室の扉もまだ開いたままだった。教師の声は聞こえず、代わりに生徒たちのざわめきだけが校舎の中へ薄く広がっている。
数分後、ようやく足音が近づいてきた。
教室の扉が開く。
「遅くなって悪い」
担任が出席簿と何枚かの紙を抱えて入ってきた。いつもより歩調が速く、教卓へ置いた書類の端も揃っていない。
「臨時の職員会議が長引いた。先にホームルームをやる」
教室の空気が、ひとつに集まる。
担任は全員の顔を見渡してから、手元の紙へ目を落とした。
「もう知っている者も多いと思うが、昨夜、市内で近隣校の生徒が被害に遭う事件があった。学校からも保護者へ順次連絡を出している」
誰かが小さく息を呑んだ。
「当面のあいだ、部活動はすべて中止。再開の時期は、状況を見て改めて連絡する。放課後は用事がなければ速やかに下校すること。できるだけ一人では帰らず、複数で帰るか、可能なら保護者に迎えを頼むように」
担任は一度言葉を切った。
「寄り道もしないこと。不審な人物や、何かおかしなものを見つけても、自分で確かめようとするな。安全な場所から警察か学校、近くの大人へ連絡しろ。友達同士でも、面白半分で見に行くことは絶対にしないように」
千綴は、昨夜の巴の言葉を思い出した。
助けを呼ぶ。人のいる方へ逃げる。まず自分が無事でいる。
順番を間違えないこと。
同じ注意を二日続けて聞くことになるとは思わなかった。
「細かい下校方法は、今日中に改めて連絡する。保護者から迎えについて連絡が来た場合も、各自で勝手に帰らず、担任か学年の先生へ確認してから動くこと」
担任は手元の紙を教卓へ置いた。
「質問はあるか」
いくつか手が上がった。
「
一人が尋ねると、続けて、部室へ荷物を取りに行ってもいいのか、迎えを頼めない場合はどうするのかと質問が飛んだ。
担任は、現時点で決まっていることだけを答えた。授業は通常どおり。部室への立ち入りは放課後に改めて指示する。迎えがなくても、できるだけ同じ方向の生徒と帰ること。
分からないことは分からないままにせず、その一方で、決まっていないことを決まったようにも言わなかった。
最後の質問が終わると、担任は時計を見る。
「一限はもう始まってる。遅れた分、少し急ぐぞ」
教卓の脇へ置いていた教材を開きかけて、ふと思い出したように顔を上げた。
「それと弥生」
「はい」
「生徒会に連絡がある。授業が終わったら、職員室へ来るように」
教室の何人かが千綴を見る。
「分かりました」
答えながら、千綴は教卓の紙へ目を向けた。
部活動の中止。下校方法の確認。保護者への連絡。
生徒会へ回ってくる仕事が、何もないとは思えなかった。
担任は頷き、黒板へ向き直った。
チョークが、白い線を引く。
遅れて始まった一限の板書が、昨日までと同じ黒板の上へ並び始める。
千綴はノートを開いた。
窓の外には、夏の空が広がっていた。
変わらない青さだけを、教室の上に残したまま。
黒板の隅に書かれた式を写し終えたところで、千綴はシャープペンシルを止めた。
窓の外が、朝より暗くなっている。
午前のあいだに薄い雲は空全体へ広がり、校庭へ落ちる影を消していた。窓は開いているのに風はほとんど入らない。湿気を含んだ空気が教室にこもり、回り続ける扇風機が、紙の端だけをかすかに揺らしている。
教師の声に促され、千綴は視線を教科書へ戻した。
授業そのものは、いつもと変わらなかった。
朝の遅れは二限が始まる頃には埋まり、それからは時間割どおりに進んでいる。教師が板書をし、指名された生徒が答え、分からなかった者が隣のノートを覗き込む。
ただ、廊下を通る足音だけは、いつもより多かった。
授業中にも教師が何度か教室の前を横切った。職員室の方角から内線の呼び出しが聞こえ、休み時間になるたび、保護者へ連絡した生徒が担任のところへ集まった。
千綴も、一限のあとに職員室へ呼ばれている。
渡されたのは、放課後の臨時対応をまとめた紙だった。
生徒会は教師の補助に入り、下校する生徒と校内へ残る生徒を確認する。迎えを待つ者は指定された教室へ集め、保護者が到着した順に校門まで誘導する。校門での声掛けや校内の見回りについては、終礼後に担当を分ける。
仕事の内容は難しくない。
けれど、紙の下には、今朝までなかった名簿が何枚も綴じられていた。
視界の端で、時計の長針がひとつ進む。
昼までは、あと二分だった。
前の席では、ヴァシリオスがさっきから落ち着かない。教科書の陰へスマートフォンを隠すようなことはしていないが、伏せて置いた端末へ何度も視線を落としている。
その斜め前では、環が頬杖をついたまま目を閉じていた。
眠っているように見える。
けれど教師が黒板へ新しい式を書くたび、ノートを取る手だけは動いていた。
やがて、午前の授業の終了を告げるチャイムが鳴った。
教師が説明を切り上げ、日直の号令に合わせて教室中の椅子が鳴る。礼が終わるより早く、あちこちで話し声が戻った。
朝から何度も繰り返されてきた事件の話。
迎えが来るかどうか。
帰りに誰と一緒になるか。
部活動が、いつから再開されるのか。
いつもなら弁当や購買の話で埋まる時間に、今日の放課後だけがいくつもの形で語られていた。
「ちづる、今日はこっちで食べるよね」
綾乃が自分の机を寄せながら確認する。
「うん。放課後の対応は、終礼のあとに昇降口へ集まることになったから」
「よかった。昨日は取られたから」
「取ってないよ」
「生徒会に取られた」
生徒会も千綴の一部なのだから、取られたという言い方はおかしい気がする。
そう返す前に、ヴァシリオスが椅子ごとこちらへ向き直った。
「今日は五人そろわないのか」
「守屋くんは別の教室でしょ」
「呼べば来る」
「呼んだら食べる場所がないよ」
四つの机を寄せただけでも、通路はかなり狭くなる。そこへもう一人増えれば、隣の列まで塞いでしまう。
綾乃が空いた椅子へ弁当を置こうとして、先に環が座った。
「猫、そこ俺の席」
「今は私の席」
「椅子まで持ってきただろ」
「早い者勝ち」
環はそう言って、机の上へ小さな弁当箱を置いた。
朝から教室に残っていた固い空気が、二人のやり取りで少しだけ緩む。
「ヴァシリオス、椅子なら後ろにあるよ」
「千綴は猫に甘い」
「環が先に座ったのは本当でしょ」
「ほら」
環がわずかに顎を上げる。
ヴァシリオスは納得していない顔のまま、教室の後ろから別の椅子を運んできた。
四人で弁当を広げる。
窓の外からは蝉の声が聞こえていたが、昨日まで混じっていた部活動の掛け声はない。昼休みの練習も止められているらしく、校庭には誰も出ていなかった。
「当面って、どのくらいだと思う?」
弁当の蓋を開けながら、ヴァシリオスが言った。
「分からないから当面なんじゃない?」
綾乃が答える。
「週末、練習試合だったんだけど」
「相手の学校も中止じゃないの」
「まだ連絡来てない。大会前なのに、一週間止まったらきつい」
言いながら、ヴァシリオスは卵焼きを口へ運んだ。事件を軽く見ているわけではない。ただ、夏の大会までの残り日数も、彼にとっては同じように現実だった。
「環のところは?」
千綴が尋ねる。
「弓を引けない」
「それは分かる」
「一日なら休み。続いたら鈍る」
環は箸先で弁当の隅の豆を追いながら、いつもと変わらない声で言った。
「家でできないの?」
綾乃の問いに、環が顔を上げる。
「綾乃の家でなら」
「うちでも駄目だよ」
「広いのに」
「広さの問題じゃないから」
「じゃあ、バカを的にする」
「危ないだろ!」
「動くから練習になる」
「ならないよ、環」
千綴が止めると、環は冗談だと言う代わりに豆を口へ入れた。
ヴァシリオスが椅子をわずかに遠ざける。
綾乃は笑っていたが、すぐに校庭へ視線を向けた。
「文芸部は、本を返すくらいならできると思ってたんだけどな」
「朝、返せるか心配してた本?」
「うん。部室に置いたままのもあるし」
「しばらく立ち入りも駄目だって」
「やっぱり?」
「放課後は、迎えを待つ教室と生徒会室以外、残らないようにするって」
「よし。この話は終わり」
ヴァシリオスが、急に箸を置いた。
「終わりなの?」
「昼休みまで暗い話をしてたら、飯がまずくなる」
そう言って、机の脇から紙袋を持ち上げる。
購買の名前が印刷された袋は、弁当とは別に用意したにしては大きかった。
「というわけで、今日の新作」
ヴァシリオスは中から、ひとつずつパンを取り出した。
「ダゴンパン。黒い子山羊パン。シャンタク鳥の唐揚げパン」
三つ目を机へ置いたところで、綾乃が瞬きをした。
「待って。何の話?」
「購買の新作パン」
「名前を聞いても、パンの話だと思えなかったんだけど」
「名状しがたいパンフェアらしい」
「全部、名状してる」
環が即座に言った。
千綴も、並べられたパンを見る。
ダゴンパンは、カニパンのように手足が分かれていた。ただし中央には魚のような顔がつき、丸い目が二つ、こちらを向いている。
黒い子山羊パンは、竹炭を練り込んだらしい黒いパンに、黒い焼きそばが挟まっていた。色の境目がほとんどなく、どこからが具なのか分かりにくい。
最後のパンには、大きな唐揚げが二つ挟まっている。シャンタク鳥が何なのかは分からなかったが、少なくとも鶏肉だと信じたい見た目だった。
「どれが一番まとも?」
綾乃に聞かれ、ヴァシリオスは迷わず黒いパンを指した。
「黒い子山羊」
「それが一番嫌」
「焼きそばパンだぞ」
「見た目が焼きそばパンじゃない」
環は机へ身を寄せ、三つを順に眺めた。
「これ、バカが考えたの?」
「
「誰?」
「購買の人」
あまりにも普通の答えに、千綴はもう一度パンを見た。
「九頭龍さんが考えたの?」
「本人は偶然だって言ってた」
「三つとも?」
「九頭龍さんだからな」
「説明になってないよ、ヴァシリオス」
「深海に本体がいるって噂もある」
「購買にいるのは何?」
「地上勤務用」
ヴァシリオスは真顔で答えた。
綾乃が箸を持ったまま、小さく首を傾げる。
「それ、九頭龍さん本人が言ったの?」
「そこまでは聞いてない。未来から来たって話もあるし」
「未来の人が、どうして購買でパンを売ってるの」
「まだ発売されてないパンを先に売るため」
「今日の新作、未来でも売ってるんだ……」
千綴がつぶやくと、環がダゴンパンを指で押した。
魚人の顔が、ゆっくりへこんだ。
「雨の日は、黄色いレインコート」
「それは普通の雨具じゃない?」
「九頭龍さんが着ると、普通じゃないらしい」
「誰が言ったの」
「俺」
「今できた噂だ」
環はそう言いながら、黒い子山羊パンへ手を伸ばした。
「猫、それ俺の」
「三つも食べるの?」
「一個は予備」
「何の」
「新作が予想より名状しがたかったときの」
「もう手遅れ」
環は黒いパンを取り上げ、綾乃の方へ差し出した。
「半分」
「私も食べるの?」
「一人では怖い」
「さっき一番嫌って言ったの、聞いてたよね?」
そう言いながらも、綾乃はパンを受け取った。
二人で割ると、中から見慣れた焼きそばの匂いがする。
それだけで、急に普通の食べ物へ戻ったように見えた。
「味は?」
千綴が尋ねる。
環と綾乃はひと口ずつ食べ、少しだけ考えた。
「普通」
「おいしいけど、すごく普通」
「九頭龍さん、やるな」
「見た目を普通にすればいいだけじゃない?」
ヴァシリオスは、なぜか自分が褒められたような顔をしている。
千綴はダゴンパンと目が合わないよう、弁当箱へ視線を戻した。
朝から教室のどこにいても聞こえていた事件の話は、いつの間にか途切れている。
四人の机の上にあるのは、帰り道への不安ではなく、どこから食べるべきか分からない魚人型のパンだった。
「そういえば、ちづる」
黒い子山羊パンを置いた綾乃が、思い出したように言った。
「職員室で、生徒会のことを聞いてきたの?」
「うん」
千綴は箸を置き、午前中に渡された紙の内容を思い返した。
「生徒会は放課後、先生たちの手伝い。迎えを待つ人の対応や、校内に残ってる人がいないかの確認を、担当を分けてやることになってる。私は終礼のあと、昇降口に行くよ」
「ちづるも残るの?」
「副会長だから」
綾乃の眉が下がった。
「残る人を早く帰すために、ちづるが帰るの遅くなるんだ」
「私だけじゃないよ。会長も悠司も鈴もいるし、先生も一緒」
「帰りは?」
今度はヴァシリオスが聞いた。
「まだ決めてない。終わる時間が分かったら連絡する」
「一人は駄目だって、山田先生が言ってた」
環が箸を止めている。
「分かってる。誰かと一緒に帰るよ」
「誰かって誰」
「そこまでは、まだ」
三人とも黙った。
責められているわけではない。
それでも千綴は、曖昧な返事をしたことが急に落ち着かなくなった。
名前のない予定は、決まっていないこととよく似ている。
「生徒会の中で帰る方向が同じ人を確認する。それで合わなかったら、店長に相談する」
言葉にすると、帰るまでの道筋が少しだけ形を持った。
「丘平商店の?」
綾乃が聞く。
「うん。今日はバイトじゃないけど、店長なら近くにいるから」
「それなら、決まったら教えて」
「綾乃に?」
「私たちに」
ヴァシリオスが自分と環を順に指す。
「帰ったら全員、グループに一言送れ。五人分そろうまでが帰宅確認だ」
「全員って、悠司も?」
「当然」
「悠司を勝手に入れないで」
「もう入ってる」
ヴァシリオスが見せた画面には、いつの間にか作られた五人のグループが表示されていた。
名前は『無事に帰る』。
「そのまますぎる」
千綴が言うと、環が画面を覗き込んだ。
「バカにしては分かりやすい」
「ほめてないだろ」
「名前は大事」
環は淡々と言い、千綴を見た。
朝の「近くまで来た」という言葉より、その一言の方が胸の奥へ静かに残った。
「……うん。大事だよ」
千綴が答えると、環はそれ以上何も言わず、残っていたおかずへ箸を伸ばした。
窓の外が、また少し暗くなる。
廊下では、迎えに来る保護者の名前を教師へ伝える生徒がいた。教室の後ろでは、帰る方向が同じ者同士で集まる約束をしている。
事件の話は消えていない。
けれど四人の机の上には、空になりかけた弁当箱があり、ヴァシリオスが買いすぎたパンがあり、環がいつの間にか取ったひとつを綾乃が半分に分けていた。
いつもと違う一日の中にも、いつもの昼休みは残っていた。
予鈴が鳴る。
教室のあちこちで机が戻され、廊下に出ていた生徒たちが席へ急ぐ。千綴たちも弁当を片づけ、借りた椅子を教室の後ろへ戻した。
「決まったら連絡してね」
自分の席へ戻る前に、綾乃がもう一度言った。
「分かった」
「帰ったら、ちゃんと送れよ」
「分かってる、ヴァシリオス」
「絶対だぞ」
「絶対」
千綴が答えると、ようやくヴァシリオスは前を向いた。
環も自分の椅子へ戻り、何事もなかったように机へ頬杖をつく。
ほどなく五限の開始を告げるチャイムが鳴った。
扉が開き、教科書を抱えた教師が入ってくる。
千綴はノートを開いた。
窓から入り込んだ湿った風が、その端を小さく揺らした。
終礼の終わり際、担任は教卓に片手をついたまま、教室を見渡した。
「もう一度だけ言っておく。今日は寄り道をせず、できるだけ複数人で帰ること。部活動は原則中止だ。学校から連絡が入る可能性もある。各自、連絡を確認できるようにしておけ」
朝にも聞いた注意だった。
それでも担任は、言葉を区切りながら念を押した。
窓の外では、昼よりも雲が低くなっていた。
校舎から見える街並みは薄い影に沈み、遠くの山は輪郭を失いかけている。開けた窓から入る風には、朝にはなかった湿った冷たさが混じっていた。
雨の匂いが、校舎の中まで入り込んでいる。
事件の話題そのものは、昼休みまでにひととおり消費されている。
それでも学校側がここまで慎重になると、ただの噂として笑い飛ばすには現実味がありすぎた。
「生徒会は、このあと昇降口へ。先生たちの指示に従ってくれ」
担任の視線が千綴へ向く。
「分かりました」
「弥生も、仕事が終わったらすぐ帰れよ」
「はい」
最後にもう一度念を押して、担任は終礼を終えた。
号令のあと、椅子を引く音が一斉に重なる。
教室を出ていく生徒たちは、いつもよりまとまっていた。誰と帰るかを確認し合う声や、迎えに来る家族へ連絡する声が、あちこちで交わされている。
千綴は鞄を持ち上げ、廊下へ出た。
昇降口へ向かう途中、窓ガラスの向こうで木々の葉が裏返った。
空は朝よりも暗い。
雲は街の上へ低く広がり、丘の向こうまで続いていた。
昇降口には、すでに数人の教師と生徒会役員が集まっていた。
会長は校門側に立つ教師と話している。
鈴は他の役員へ何かを伝えていたが、千綴たちに気づくと軽く手を上げた。
「弥生先輩、守屋先輩。お疲れさまです」
「お疲れさま。もう担当は決まった?」
「はい。会長たちは校門側です。迎えを待つ生徒の対応と、校内の確認にも人を回しています」
鈴は昇降口の一角を指した。
「二人は、ここで下校する生徒への声掛けをお願いします。先生からも、それでいいそうです」
「分かった」
千綴が答えると、守屋も頷いた。
少し離れた場所にいた会長がこちらを見て、短く頭を下げる。
千綴も会釈を返した。
二人は担当の教師から補足だけを聞き、それぞれの位置についた。
特別な作業があるわけではなかった。
教師たちの補助に入り、靴を履き替えた生徒が昇降口に留まらないよう促していく。
「友達を待つ人は、昇降口に立ち止まらないでください」
「迎えを待つ人は、先生の指示した教室へお願いします」
「一人の人は、できれば誰かと一緒に帰ってください」
校門の外には、迎えの車が少しずつ増えていた。
道路では車列が途切れにくくなり、普段なら聞こえない場所からクラクションが鳴った。
空が暗くなるにつれ、昇降口の照明が妙に白く見えた。
いつもの放課後なら、部活動へ向かう生徒たちの声で騒がしい時間だった。
今日は靴を履き替える音と、早足で外へ出ていく足音ばかりが目立つ。
その途中で、最初の雨粒が窓を叩いた。
一つ。
少し間を置いて、もう一つ。
誰かが外を見て、「降ってきた」と呟いた。
昇降口にいた生徒たちが、揃って空を見た。
天気予報では、雨の話など出ていなかったはずだ。
鞄から折り畳み傘を取り出す者がいる一方で、何も持っていない生徒は友人に入れてもらえないか相談し始める。迎えを頼むため、慌ててスマートフォンを取り出す者もいた。
雨粒は細く、地面の色をゆっくりと変えていった。
やがて下校する生徒の数が減り、校内のざわめきも少しずつ遠のいていった。
校門側に立っていた教師が、肩についた雨粒を払いながら戻ってくる。
「生徒会はもういいぞ。残りは先生たちで対応する」
担当の教師も頷いた。
「二人とも、手伝ってくれてありがとう。一緒に帰れるか?」
「途中までは一緒です」
守屋が答える。
千綴も頷いた。
「それならいい。足元に気をつけて、人通りの多い道を使いなさい」
「はい」
役員たちはそれぞれ挨拶を交わし、帰り支度へ散っていく。
千綴は靴を履き替え、守屋とともに昇降口の外へ出た。
屋根の下で傘を開く前に、スマートフォンを取り出す。
「店長に連絡する」
「迎え、頼めそう?」
「聞いてみる」
巴との画面を開き、学校での対応が終わったことと、これから守屋と一緒に出ること、それから途中まで迎えに来られないかを送る。
返事はすぐに届いた。
『分かった。いつものところまで迎えに行く』
続けて、もう一通。
『道が混んでる。少し遅れるかもしれないから、悠司くんと一緒に来な』
千綴は画面を守屋へ向けた。
「だって」
「俺の予定まで決められてるな」
「嫌なら断るけど」
「この状況で断るほど薄情じゃない」
守屋はそう言って、自分の鞄を肩へ掛けた。
「店長さん、千綴のことになると本当に心配性だよな」
「普段はそうでもないよ」
「千綴が気づいてないだけじゃないか?」
返す言葉を探しているあいだにも、細い雨は途切れずに落ちていた。
昇降口の屋根から、雫が一定の間隔で落ちている。
守屋が鞄から折り畳み傘を取り出した。
「持ってたの?」
「朝、母親に入れられた。千綴は?」
千綴も鞄の底へ手を入れ、折り畳み傘を取り出す。
「普段は持ってないんだけど。今日は、なんとなく」
「朝は晴れてたのに?」
「うん」
それ以上の理由は、自分でも思いつかなかった。
二人が外へ出ると、湿った風が制服の裾を揺らした。
校門の向こうでは、車の赤いランプが濡れ始めた路面に細く映っている。
朝から空に残っていた違和感は、いつの間にか街全体へ降りてきたようだった。
千綴は一度だけ空を見上げる。
雲の奥に、明るさは残っていなかった。
「帰ろうか」
「うん」
二人は並んで、校門へ向かって歩き出した。
校門を出ると、雨は傘の布を細く叩いた。
強くはない。けれど途切れる様子もなく、坂道の舗装を少しずつ濃い色へ変えている。下校する生徒たちは二人か三人でまとまり、迎えの車を見つけるたびに足早に列を離れていった。
千綴と守屋も、人の流れに混じって坂を下り始めた。
「思ったより混んでるな」
守屋が車道へ目を向ける。
学校へ上がってくる車と、校門前から出ようとする車が短い列を作っていた。雨を予想していなかったのか、傘を持たない生徒を乗せるため、道路脇へ無理に停まっている車もある。
「店長、来るの大変かも」
「少し遅れるって言ってたしな。待つなら屋根のあるところにしろよ」
「分かってる」
「本当に?」
「悠司まで店長みたいなこと言わないで」
守屋は笑い、傘を少し持ち上げた。
坂を下り切る頃には、背後の校舎は低い雲と雨の向こうへ半分ほど隠れていた。普段なら部活動の声が丘の上から追いかけてくる道も、今日は車の走る音ばかりが残っている。
住宅街へ入ると、学校から一緒だった生徒の数も減っていった。
軒下で迎えを待つ者。一本の傘へ二人で入り、肩を濡らしながら歩く者。スマートフォンを耳に当て、家族へ現在地を伝えている者。
普段と同じ帰り道のはずなのに、誰もが家へ戻ることだけを考えているように見えた。
「グループ、もう誰か送ってる?」
守屋に聞かれ、千綴は歩きながら画面を確認した。
綾乃からは、家族の迎えで帰宅したという連絡が来ている。環も短く『着いた』とだけ送っていた。ヴァシリオスはまだ移動中らしく、車内から撮ったらしい雨粒のついた窓の写真を載せている。
「綾乃と環は帰ったみたい。ヴァシリオスはまだ」
「俺たちが最後になりそうだな」
「悠司は家に着いてから送ってね」
「千綴もな」
念を押し合うような会話が少しおかしくて、千綴は小さく笑った。
やがて道は、大通りへ向かう方角と、もう一方へ続く道に分かれた。
巴との待ち合わせ場所までは、千綴一人でも数分とかからない。
守屋は分かれ道で立ち止まり、大通りの方を見た。
「ここから本当に一人で平気か?」
「すぐそこだよ。店長も向かってるし」
「着くまで一緒に行ってもいいけど」
「それだと悠司が遠回りになるでしょ。雨も降ってるし、早く帰った方がいいよ」
守屋はすぐには頷かなかった。
その反応が、昼休みに曖昧な帰宅予定を話したときの三人と重なる。
千綴はスマートフォンを取り出し、巴との画面を開いた。
『もうすぐ待ち合わせ場所に着くよ』
送信すると、間を置かずに既読がついた。
『あと少し。道路が動かないから、屋根のあるところで待ってな』
返信を守屋へ見せる。
「ほら。あと少しだって」
「……分かった。店長さんが来るまで、変なところに行くなよ」
「行かないよ」
「何かあっても自分で見に行くな」
朝から何度も聞いた注意と同じだった。
「分かってる」
今度は少しだけ強く答えると、守屋はようやく傘を持ち直した。
「じゃあ、帰ったらグループに」
「悠司もね」
「ああ。また明日」
「また明日」
守屋は分かれ道から別の道へ歩き出した。
千綴はその背中が角を曲がるまで見送り、それから大通りへ向かった。
待ち合わせ場所は、交差点近くに店舗が並ぶ一角だった。軒の深い建物があり、雨を避けながら車を待つには都合がいい。その脇には、滑り台とベンチが一つずつ置かれた、小さな公園がある。
子どもが走り回るには狭く、通り抜けに使うような道もない。昼間でも人の姿はまばらで、雨の今は入口から見える範囲に誰もいなかった。
千綴は軒下へ入り、傘の水滴を軽く払った。
車道には赤いブレーキランプが連なっている。遠くから聞こえるクラクションも、学校の前で聞いたときより近かった。
巴の車が来る方向へ目を向ける。
まだ、それらしい車は見えない。
スマートフォンの時刻を確認してから、千綴はグループへ短く打った。
『悠司と別れた。今、店長待ち』
送信した直後だった。
雨音に混じって、硬いもの同士が触れたような音がした。
千綴は顔を上げた。
車道からではない。
店舗の中から聞こえた音とも違う。
もう一度、同じ音がした。
細い金属を何本か束ね、その先をゆっくり擦り合わせたような音だった。高くはないのに耳へ残り、雨の音が一瞬だけ遠ざかったように感じられる。
千綴は公園へ目を向けた。
入口の先には濡れた砂場があり、その向こうで滑り台の金属が鈍く光っている。街灯はまだ点いておらず、奥の植え込みは低い雲の影を集めたように暗かった。
猫が何かを倒したのかもしれない。
風で遊具の部品が動いた可能性もある。
そう考えたものの、枝はほとんど揺れていなかった。音の間隔も、風に押されて偶然鳴ったものとは少し違う。
守屋に言われたばかりの言葉を思い出す。
何かあっても、自分で見に行くな。
千綴は公園へ入らず、軒下から入口の奥を見た。
「誰かいますか?」
声を掛けても返事はない。
車が一台、濡れた路面を水しぶきとともに通り過ぎた。その音が消えるのを待つように、千綴は耳を澄ませる。
しばらく何も聞こえなかった。
気のせいだったのかもしれない。
そう思いかけたとき、公園の奥から、短く擦れる音が返ってきた。
今度は位置が分かった。
滑り台の向こう。
植え込みと、古い倉庫の壁が作る暗がり。
音は、そこからしていた。
暗がりの奥で、何かが動いた。
植え込みの枝が揺れたわけではない。倉庫の壁へ重なっていた影の一部が、形を変えるように前へ出た。
人だった。
千綴は息を止めた。
男は傘を差していなかった。雨に濡れた髪が額へ張りついているのに、歩みは急いでいない。濃い色の上着にも水が染みていたが、寒そうに肩をすくめる様子もなかった。
右手に、細いものを何本か持っている。
街灯のない薄暗さの中で、それだけが鈍く光った。
「こんばんは」
男は、道で知人へ声を掛けるような調子で言った。
千綴は返事をしなかった。
顔には見覚えがない。
公園の奥から出てきたことも、手にしているものも、普通ではなかった。
後ろには車の走る大通りがある。声を上げれば、誰かには届く距離だった。
千綴は公園へ背を向けないまま、一歩だけ後ろへ下がった。
「何をしていたんですか」
「確認だよ」
「何を?」
「音を聞いても、近づかなかった」
男の視線が、千綴の足元から顔までゆっくり動いた。
「慎重だ。けれど、見捨てることもできなかった。だから声を掛けた」
その言い方に、背中が冷えた。
音は偶然ではなかった。
自分がどう反応するか、見られていた。
千綴はスマートフォンを握り直した。画面はまだグループの会話を表示している。緊急通報を開くなら、数回触れるだけでいい。
「そこで止まってください」
できるだけ声を乱さずに言う。
男は従わなかった。
一歩。
靴の下で、濡れた砂がわずかに鳴った。
「近づかないで」
「怖い?」
「警察を呼びます」
「それは困るな」
男の声には、困った様子がなかった。
千綴は画面へ親指を伸ばした。
光が走った。
何かが右手の甲へ触れた。
ちくりとした痛みが走る。
手を引こうとした。
けれど、右手は動かなかった。
握っていたスマートフォンだけが指の間からこぼれ、硬い舗装へ角から当たって、画面を上にしたまま滑っていく。
千綴は動かない右手へ視線を落とした。
手の甲には、縫い針より長い黒い針が立っている。
血がにじんでいた。
抜かなければ。
そう思って左手を伸ばしたが、右手は指一本動かなかった。
痛みはある。雨粒が皮膚へ当たる感覚もある。
それなのに、手だけが自分から切り離されたように、命令を受けつけない。
「最初は手だ」
男が言った。
千綴は左手でスマートフォンを拾おうとした。
二度目の光が、手首の近くへ落ちる。
小さな痛みが走った直後、左腕が沈み、指先が舗装へ触れる直前で止まった。
両手が動かない。
千綴は顔を上げた。
男の手元には、まだ針がある。
投げたようには見えなかった。腕を振る動きすら、ほとんどなかった。
「何をしたの」
「君の手を預かった」
意味が分からなかった。
けれど、その言い方だけがひどく気持ち悪かった。
「……私の手でしょ」
男は少し目を細めた。
「まだ自分のものだと思っているんだね」
千綴は答えず、踵を返した。
大通りまで走ればいい。両手が使えなくても、足は動く。
濡れた地面を蹴った瞬間、右の太腿に針先で刺されたような感触があった。
次の瞬間、膝から力が抜ける。
身体が傾き、肩から地面へ落ちかけた。左足だけで踏みとどまり、どうにか転倒を避ける。
右脚が動かない。
痛みはあるのに、足を着くことも、膝を曲げることもできなかった。
「次は足だ」
その声が近づいてくる。
千綴は左足で地面を蹴った。跳ねるように前へ進み、スマートフォンのある場所へ身体を寄せようとする。
左のふくらはぎが、かすかに痛んだ。
支えを失い、今度こそ倒れた。
膝も手も使えない。頬と肩が濡れた舗装へ当たり、口の中に鉄の味が広がった。
傘が離れた場所へ転がっていく。
細い雨が、髪と制服へ直接落ち始めた。
千綴は起き上がろうとした。
腕は動かない。脚も動かない。
腹と背中へ力を入れれば、身体を捻ることはできる。肩を揺らし、少しずつ向きを変えようとした。
男の靴が視界へ入った。
千綴の前で止まる。
「よく動く」
見下ろす声は、感心しているようにも聞こえた。
「手が駄目なら足を使う。足が駄目なら、残ったところで動こうとする」
「……何、言ってるの」
息が上がり、声が掠れた。
「君のことだよ」
男は千綴の反応を確かめるように、わずかに首を傾けた。
意味が分からない。
分かりたくもなかった。
右手はすぐ目の前にある。
雨に濡れ、黒い針を刺されたまま、地面へ投げ出されている。感覚は残っているのに、指一本、自分の思うようにはならない。
自分の手なのに。
この男のものではない。
返してほしいと思った。
違う。
返してもらうものではない。
最初から、これは自分の手だ。
右の人差し指が、舗装を擦った。
千綴は息を止めた。
今、動いた。
どうしてかは分からない。
試すように力を入れると、指がもう一度曲がった。続いて中指が動き、手のひらが濡れた地面を掴む。
男の表情が止まった。
「……何をした」
千綴にも分からなかった。
答える代わりに、動くようになった右腕を引き寄せた。肩まで重かったが、命令は届いている。
右手のすぐ先に、傘の柄が転がっていた。
千綴は動くようになった腕を地面へ押しつけ、肩と腰を僅かにずらした。脚は動かない。それでも身体を引きずるようにして、指先を柄へ届かせる。
男が手の中の針を持ち直した。
「動くはずがない」
その声が近づくより先に、千綴は傘を振った。
開いたままの傘が男の腕へぶつかり、黒い針がいくつか宙へ散った。地面へ触れた先から輪郭を失い、濡れた舗装へ沈んでいく。男が身を引く。
千綴は傘を支えに身体を起こそうとした。脚は動かない。それでも腕さえ使えれば、地面を這ってでも公園の外へ近づける。
柄を握り直した瞬間、右手の甲に小さな痛みが重なった。
指が開く。
傘が落ちた。
もう一度。
動いたはずの右手が、再び地面へ沈んだ。
「今のは何だ」
男の声から、先ほどまでの余裕が消えていた。
千綴は答えられない。
自分でも、何をしたのか分からない。ただ嫌だと思った。自分の手を、この男のもののように扱われることが。
左手にも、もう一度小さな痛みが触れた。
両腕が完全に沈む。
男は千綴を見下ろしていた。呼吸がわずかに速くなっている。
「違う」
何が違うのか、千綴には分からなかった。
男は自分へ言い聞かせるように、もう一度呟いた。
「取得できていた。間違いなく」
その目が、千綴の腕から顔へ移る。
驚きの奥に、別のものが浮かんでいた。
期待だった。
それがすぐに、焦りへ変わる。
「もう一度だ」
男が針を選ぶ。
千綴は身体を少しでも後ろへずらそうと、腰へ力を入れた。
脇腹に、ちくりとした感触があった。
直後、腹に入れていた力が抜けた。
背中も腰も、自分の身体を支えることをやめる。肩が地面へ落ち、胸が押しつぶされるように傾いた。
息を吸おうとした。
胸はわずかに動いたが、空気が足りない。
もう一度、もっと深く吸おうとしても、身体は応えなかった。喉の奥だけがひくつき、浅い息が途切れ途切れに漏れる。
咳をしたかった。
唾を飲み込みたかった。
けれど、どちらも自分ではできない。
肺の中に残った空気だけが、少しずつ失われていく。
苦しい。
そう思った瞬間にも、胸は次の呼吸を始めてくれなかった。
千綴は口を開いた。空気を求めるように顎だけが僅かに動く。それでも入ってくるのは、細く冷たい一息だけだった。
視界の端が暗くなり、耳の奥で血の音が鳴り始める。
首から下が、自分の身体ではない重い塊になっていた。
「これで、静かに見られる」
男がしゃがみ込む。
濡れた地面へ膝をつくことを気にする様子はない。
千綴の顔を覗き込み、呼吸の間隔を数えるように見ていた。
「やめ……」
声になりきらなかった。
「まだ声は出る」
男は千綴の口元を見た。
「怖い?」
答えようとして、息だけが漏れた。
怖いに決まっている。
店長に連絡したい。守屋を呼び戻したい。誰でもいいから、ここへ来てほしかった。
男は、そんな千綴の顔を待っていたように見えた。
「その顔になるまでが長かった」
ぞっとした。
この男は、自分の言葉を聞いているのではない。
痛がるところも、逃げようとするところも、最初から決めた順番に当てはめて見ているだけだ。
「……ちがう」
掠れた音が、ようやく喉を抜けた。
「何が?」
千綴自身にも、うまく説明できなかった。
「しら……ない」
それ以上、息が続かなかった。
男の目がわずかに細くなる。
「何を?」
千綴は唇を動かした。
「……わたし」
声にはならない。
それでも、男が何かを分かったように話すことだけは、ひどく気持ちが悪かった。
「身体は分かる」
千綴は僅かに首を振ろうとした。
動かなかった。
「動かなくなった。なら、それで十分だ」
違う。
そう思った。
けれど、もう言葉にはできなかった。
男の口元から、薄い笑みが消えた。
千綴は息を吐こうとして、浅い空気だけを漏らした。
何も知らない。
千綴はそう思った。
けれど、喉から漏れたのは浅い息だけだった。
男の指が、手の中の針を強く握った。
手の中の黒い針が触れ合い、かすかな音を立てる。
「違う」
それまでの穏やかな声ではなかった。
男は千綴の顔を見たまま、浅く息を吸った。目だけが落ち着きなく動き、何かを探すように頬や唇、濡れた髪へ順に向けられる。
「一度、外した」
誰に言うでもなく、言葉がこぼれた。
「だったら、もっと出るはずなんだ。逃げられないと分かれば、もっと――」
途中で声が止まる。
千綴には、その先が分からなかった。ただ、男が自分の顔にないものを探し続けていることだけは分かった。
男の眉が歪んだ。
「君には関係ない」
吐き捨てるような声だった。
立ち上がろうとして膝が滑り、男は濡れた地面へ一度手をついた。すぐに身体を起こしたが、乱れた呼吸は戻らなかった。
「違う。これも違う」
手の中の針を選び直す。
一度取ったものを戻し、別の一本へ触れ、それも払い捨てる。黒い輪郭は地面へ届く前に薄れた。
「何も知らないくせに、そんな目で見るな」
千綴がどんな顔をしているのか、自分では分からなかった。
男はそれ以上見ていられないように、わずかに顔を逸らした。
「君は、標本には向かない」
言い聞かせるような声だった。
なりたくない。
千綴はそう返そうとした。
けれど、喉から漏れたのは掠れた息だけだった。
それでも、千綴は男から目を逸らさなかった。
「黙れ」
初めて、怒鳴り声に近い音が混じった。
男は一本の針を掴む。指先が震えていた。
「残す価値もない」
千綴は針の先を見た。
次に何が起きるかを、身体が先に理解した。
声を上げようとする。
助けを呼ぼうとする。
けれど、男の指が動く方が早かった。
首の付け根に、小さな痛みが触れた。
喉が閉じ、声が消える。
視線を動かそうとしても、瞼も眼球も命令を受けつけない。耳へ届いていた雨音が遠ざかり、胸の動きが一度、浅く途切れた。
もう一度吸おうとしても、身体は応えなかった。
濡れた舗装の冷たさだけが、頬に残っていた。
それも、少しずつ遠のいていく。
胸は、もう動かなかった。
胸は、もう動かなかった。
雨の音も、頬に触れていた冷たさも、遠くなっていく。
暗くなるのではなかった。
何も見えなくなるより先に、別の景色が浮かんだ。
雨の中、守屋が傘を少し持ち上げている。
「着いたら送れよ」
「悠司もね」
ついさっき交わしたばかりの言葉だった。
分かれ道の向こうへ歩いていく背中を見送り、自分は大通りの方へ向かった。
店長が迎えに来る。
だから大丈夫だと答えた。
場面が途切れる。
昼休みの教室だった。
机の上には空になりかけた弁当箱と、ヴァシリオスが買ってきた奇妙なパンが並んでいる。
「帰ったら、ちゃんと送れよ」
「分かってる、ヴァシリオス」
「絶対だぞ」
「絶対」
自分の声が、ひどく近くに聞こえた。
まだ送っていない。
そのことだけが、胸のない場所へ重く残った。
次に見えたのは、今よりずっと低いところにあった空だった。
故郷の夏祭り。
提灯の灯り。人の声。遠くで鳴る太鼓。浴衣の袖を気にしながら、人の間を縫うように歩いていた幼い自分。
誰かとはぐれないように、祖父の手を握っていた。
夜空には星が少なく、代わりに祭りの明かりが低く浮かんでいる。
境内の端で、千綴は何かを見上げていた。
何を見ていたのかは、もう思い出せない。
ただ、あのとき自分が言ったことだけが残っていた。
あれは、きっとそうだ。
根拠もなく、幼い千綴はそう言った。
祖父は否定しなかった。
「そう思うなら、それでいい」
その言葉の意味が、当時は分からなかった。
正しいとも、間違っているとも言わなかった。
ただ、自分がそう思ったことを、そのまま受け取ってくれた。
今になって、言葉が別のものへ繋がった。
守屋と別れた道。
昼休みに交わした約束。
迎えに来ると言った巴。
故郷の祭りで握っていた祖父の手。
離れているのに、なくなってはいない。
ここで自分が終わったとしても、最初から何もなかったことにはならない。
そう思うなら、それでいい。
祖父の声が、もう一度聞こえた。
死んだんだと思う。
それでも、帰りたいと思った。
約束を返したいと思った。
店長に会いたい。
悠司に、ちゃんと着いたと伝えたい。
明日の朝も、あの坂を上りたい。
それが正しいのかは分からない。
できることなのかも分からない。
それでも、千綴はそう思った。
その瞬間、それまで別々だったものが一つに重なった。
雨。
地面。
遠くを走る車。
自分を待っている人。
もう動かない身体。
帰りたいと思う自分。
どれも離れているはずなのに、完全には切れていない。
どこまでが自分で、どこからが自分ではないのか。
境目が、ほんの一瞬だけ分からなくなった。
言葉にはできなかった。
けれど、それまで見えなかったものが、ほんの一瞬だけ繋がった。
切れたと思っていたものの向こうに、まだ何かが残っている。
動かない身体と、帰りたいと思う自分のあいだにも。
何かが触れた。
次の瞬間、冷たさが戻った。
濡れた舗装が、頬へ触れている。
雨粒が瞼を打つ。
胸の奥が強く縮んだ。
空気が喉へ流れ込み、千綴は大きく息を吸った。
吸い込んだ空気が肺を刺す。
身体が痙攣し、喉の奥から掠れた音が漏れた。
息が続かない。
胸が何度も不規則に跳ね、そのたびに空気が途切れ途切れに入ってくる。
千綴は咳き込み、濡れた地面へ額をつけた。
指先が震えた。
右手が動く。
左手も、遅れて地面を掴んだ。
脚の感覚が戻り、腹と背中へ力が入る。
何が起きたのかは分からなかった。
考えようとすると、さっきまでそこにあったはずの記憶が崩れていく。
祭りの灯り。
祖父の声。
誰かと交わした約束。
どれも掴もうとするほど遠ざかった。
ただ、ここから離れなければならないという感覚だけが残っていた。
千綴は両手を地面へつき、膝を引き寄せた。
一度では立てなかった。
腕が震え、足が滑る。
それでも、もう一度力を入れる。
何度かよろめきながら、どうにか立ち上がった。
男が、すぐ近くにいた。
先ほどまでとは違い、何もせずに千綴を見ている。
その顔に浮かんでいるものを、千綴は読み取れなかった。
「何を……」
男の声が途切れる。
千綴はそちらを見た。
誰なのか。
何をされたのか。
どうして自分が倒れていたのか。
どれも、すぐには形にならなかった。
男のすぐ脇を通り過ぎる。
「待て」
声がした。
千綴は止まらなかった。
少し離れた場所に、鞄が落ちている。
傘も転がっていた。
スマートフォンは、舗装の上で画面を光らせている。
通知がいくつも重なり、名前と短い言葉が画面を埋めている。内容までは読めなかった。ただ、誰かが何度も自分を呼んでいることだけは分かった。
拾わなければならない。
そう思ったはずなのに、身体はそちらへ向かなかった。
公園の入口を抜ける。
車の音が戻ってくる。
信号の光が濡れた路面へ滲み、人の話し声が遠くから聞こえた。
どこへ向かえばいいのか、はっきりとは分からない。
それでも足は、帰る道を知っていた。
千綴は振り返らず、その場を離れた。
動かなくなった胸を、男はしばらく見下ろしていた。
雨粒が制服の背へ落ちている。
肩は上下しない。
喉も動かない。
先ほどまで男を睨んでいた目は閉じられ、そこに意志の残りは見えなかった。
男は千綴の首筋へ指を当てた。
脈はない。
口元へ手をかざしても、息は触れなかった。
終わった。
そう確かめた瞬間、張りつめていたものが僅かに緩んだ。
手順は崩れた。
一度、奪ったはずの手を取り戻された。
理由は分からない。
それでも最後には、すべてを奪った。
動きも、声も、呼吸も。
自分から目を逸らさなかった少女は、もう何も返さない。
男はその顔を見つめた。
求めていたものとは違う。
恐怖はあった。抵抗もあった。最後には逃げられないことも分かったはずだ。
それなのに、足りなかった。
縋らなかった。
認めなかった。
最後まで、自分の内側へ入ることを拒んだ。
「違う」
声にすると、胸の奥に残っていた渇きがかえって強くなった。
これではない。
こんな終わり方では、何も満たされない。
男は千綴の頬へ手を伸ばしかけた。
そのとき、舗装の上でスマートフォンが震えた。
短い振動が止まり、すぐにまた震える。
光った画面には、いくつもの通知が重なっていた。
誰かが、この少女を探している。
このまま応答がなければ、周囲を探し始める者もいるだろう。
男は大通りへ目を向けた。
雨音の向こうから車の走る音が続いている。公園の入口を通り過ぎる人影はまだない。だが、ここにいられる時間は長くなかった。
男は立ち上がり、公園の入口へ向かった。
ここを離れなければならない。
そう思って数歩進んだ、そのときだった。
背後で、喉の奥から掠れた息が漏れた。
男は振り返った。
少女の胸が大きく持ち上がり、指先が濡れた舗装を掻いた。
男は動けなかった。
脈はなかった。
息もなかった。
確かに終わっていた。
それを、自分の指で確かめた。
「何を……」
声が途中で消えた。
少女は咳き込みながら両手を地面へつき、ゆっくりと身体を起こしていく。
奪ったはずの手も、脚も、胴体も、すべてが動いている。
解除されたのではない。
あれは一度、完全に止まった。
男の中で、積み重ねてきた手順が音を立てて崩れた。
針が外れたからではない。
取得が浅かったわけでもない。
死んだ者は動かない。
それだけは、これまで一度も違わなかった。
少女が立ち上がる。
何度も足を滑らせ、腕を震わせながら、それでも立った。
男は手の中の針を握った。
刺せばいい。
もう一度、手から奪えばいい。
そう考えたのに、指が動かなかった。
先ほど一度だけ、支配を外された感覚が蘇る。
何をされたのか分からなかった。
今も分からない。
自分が奪ったものを、この少女は、自分には理由も分からないまま取り戻した。
そして今度は、死そのものから戻ってきた。
少女がこちらを見た。
焦点の合わない目だった。
怒りも、恐怖もない。
男を見ているのに、男の存在を捉えていない。
そのことが、怒鳴られるよりも恐ろしかった。
少女は一歩踏み出した。
男の方へ来る。
反射的に針を構えた。
だが、少女は手を伸ばさなかった。
男のすぐ脇を、そのまま通り過ぎる。
「待て」
絞り出した声に、少女は反応しない。
濡れた歩道へ向かい、公園の入口を抜けていく。
男は追えなかった。
背中が遠ざかっても、足は地面に縫いつけられたように動かなかった。
生き返った。
その言葉を考えただけで、喉の奥がひどく乾いた。
あり得ない。
けれど、あり得ないものが目の前を歩いていった。
理解できない。
自分が。
男は強く奥歯を噛んだ。
その事実が、死者が歩き出したこと以上に耐え難かった。
またスマートフォンが震えた。
男は我に返った。
公園の外で、車が速度を落とす音がする。
大通り側から、人の話し声が聞こえた。
ここにいてはいけない。
少女はすでに公園を出ていたが、鞄と傘、スマートフォンはその場に残されている。
足元に落ちていた黒い針は、すでに輪郭を失い始めていた。雨に濡れた舗装へ沈むように細くなり、やがて暗がりへ紛れていく。
「違う」
何に対する言葉なのか、自分でも分からなかった。
あれは失敗ではない。
確かに殺した。
間違えていない。
間違っているのは、戻ってきた少女の方だ。
そう言い聞かせても、指の震えは止まらなかった。
男は鞄と傘、何度も震えるスマートフォンへ一度だけ目を向け、植え込みの奥へ視線を移した。
来た道を戻るべきではない。
大通り側には人がいる。
反対側の低い柵を越えれば、建物の裏手へ抜けられる。
少女を追うという考えが、一瞬だけ浮かんだ。
確かめなければならない。
何をしたのか。
どうして戻ったのか。
今度こそ理解しなければならない。
だが、足は少女の後を選ばなかった。
今追えば、見つかる。
捕まれば、もう確かめることもできない。
男は公園の奥へ走った。
濡れた土を踏み、植え込みを押し分ける。枝が頬を掠めても止まらない。
背後で、またスマートフォンが震えた。
誰かが少女を呼び続けている。
男は振り返らなかった。
低い柵へ手を掛け、雨に滑りながら向こう側へ身体を落とす。
着地した足がもつれた。
壁へ手をつき、息を整える間もなく路地の暗がりへ入った。
逃げなければならない。
今は、それだけだった。
目を開けたとき、最初に見えたのは、知らない天井だった。
薄い色の壁紙。見覚えのない照明。カーテンの隙間から差し込む朝の光。
千綴はしばらく瞬きを繰り返した。
身体を起こそうとして、肩に掛けられていた毛布がずれる。着ているものも、自分の服ではなかった。少し大きめの長袖と、柔らかい生地のズボン。
そこでようやく、部屋の隅に置かれた棚と、窓際の小さな観葉植物に見覚えがあることへ気づいた。
巴の家だった。
「……なんで」
声は掠れていた。
喉が乾いている。
枕元には水の入ったコップが置かれていた。手を伸ばし、一口飲む。冷たい水が喉を通る。
昨夜のことを考えようとした。
学校を出たこと。
守屋と別れたこと。
そこまでは覚えている。
その先へ進もうとすると、頭の中に白い空白が広がった。
次に残っているのは、自分の部屋の前だった。
巴の声を聞いた。
振り向いた。
そこから先は、また何もない。
千綴は毛布の上で手を握った。
指は動く。
痛みも、目立った傷もない。
それなのに、何か大切な部分だけが抜け落ちている感覚があった。
部屋の外から、食器の触れ合う音がした。
千綴は毛布を退け、ゆっくり立ち上がった。
足元は少し頼りなかったが、歩けないほどではない。
扉を開けると、台所にいた巴がすぐに顔を上げた。
「起きた?」
「……うん」
巴は手を止めたまま、千綴の顔を見つめた。
「気分は」
「大丈夫。たぶん」
「たぶんは禁止」
いつもの調子に近い声だった。
けれど、その目の下には薄く疲れが残っていた。
「頭は痛くない? 吐き気は?」
「ない」
「身体のどこか、痛いところは」
「ないと思う」
巴はすぐには答えなかった。
それから、ようやく小さく息を吐いた。
「よかった」
その一言に、千綴は顔を上げた。
巴は視線を逸らし、コンロの火を弱めた。
「本当に、よかった」
声は静かだった。
千綴は何も言えなかった。
昨日、巴がどれだけ探したのか。
自分がどんな状態で見つかったのか。
まだ詳しくは分からない。
それでも、巴がほとんど眠っていないことだけは分かった。
「ごめん」
「謝らなくていい」
返事はすぐだった。
「今は座って」
椅子を引かれ、千綴は言われた通りに腰を下ろした。
目の前に、湯気の立つカップと、柔らかく煮たおかゆが置かれる。
「食べられそう?」
「少しなら」
「少しでいい」
巴は向かい側へ座った。
千綴がひと口食べるまで、何も聞かなかった。
温かいものが胃へ落ちていく。
それだけで、張りつめていたものが少し緩んだ。
「昨日のこと」
千綴が口を開くと、巴はすぐに首を振った。
「今は思い出さなくていい」
「でも」
「無理に思い出して、また倒れたら意味がないでしょう」
強い言い方ではなかった。
けれど、譲るつもりがないことは分かった。
「今日は病院に行く」
「学校は」
「休み」
「でも、生徒会も」
「休み」
巴は言い切った。
「明日も、必要なら休ませる。警察の話も、学校の話も、千綴が落ち着いてから」
「警察?」
千綴の手が止まった。
巴は少し迷ったあと、必要なことだけを選ぶように口を開いた。
「鞄とスマートフォンと傘が見つかった」
「どこで」
「公園」
胸の奥が冷えた。
千綴は反射的に足元を見た。
鞄はない。
スマートフォンもない。
傘もない。
「制服は洗ってる。泥だらけだったから」
「私、どうやって帰ったの」
「分からない」
巴は正直に答えた。
「待ち合わせ場所にいなかった。電話にも出なかった。悠司に別れた場所を聞いて、帰り道を探した」
そこで一度言葉を切る。
「最後に部屋を見に行ったら、千綴が立ってた」
「部屋の前に?」
「ずぶ濡れで、手ぶらで」
千綴は何も言えなかった。
「名前を呼べば反応はした。でも、ほとんど何も話せなかった。ひとりにはできなかったから、うちに連れてきた」
巴は千綴の手元へ視線を落とした。
「警察からは連絡が来てる。学校にも確認が入ると思う。でも、今日すぐ話す必要はない」
「いいの?」
「よくない状態の人に無理に話させる方が、もっとよくない」
千綴はカップを両手で包んだ。
何があったのかは分からない。
ただ、持ち物だけが公園に残り、自分はそこから離れた場所で見つかった。
そのあいだの記憶がない。
夢ではない。
何もなかったわけでもない。
けれど、今すぐ答えを出さなくていいと、巴は言っている。
「今日は、ここにいていい?」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
巴はすぐに頷いた。
「最初から、そのつもり」
その返事を聞いた瞬間、肩の力が抜けた。
窓の外では、昨日の雨が嘘のように空が明るい。
昨日までと同じ朝に見える。
けれど、千綴の中には、まだ名前のつかない空白が残っていた。
今は、それを無理に埋めなくていい。
千綴はもう一度、おかゆを口へ運んだ。
温かさだけを確かめるように、ゆっくりと飲み込んだ。