吐く息が、思っていたより白かった。
坂の途中で立ち止まり、千綴はコートの前をもう一段きつく閉じた。空気の匂いが変わっている。土や落ち葉の匂いに、どこかひやりとしたものが混じるようになった。体育祭の頃はまだ半袖でも平気だった生徒が、今はブレザーの下に一枚多く着込んでいる。
通学路の生垣は色を失いかけ、朝の光もやけに薄い。坂を上りきると、いつもより人通りが少ないような気がした。数えたわけではない。ただ、下駄箱の前で「今日もあいつ休みらしいよ」という声を、最近はそれほど珍しくもなく聞くようになっただけだ。
深刻な響きはない。誰かが大袈裟に心配する様子もなく、風邪が長引いている、それだけの話としてみんな流している。体育祭の頃より少し多いような気はするけれど、そこからさらに増えている感じはしない。相変わらず、というのが一番近い言葉だった。
昇降口で靴を履き替えていると、後ろから声をかけられた。
「ちづる、おはよう」
振り向くと、綾乃が鞄を肩にかけ直しながら小走りに近づいてくるところだった。頬が少し赤い。
「おはよう。今日、寒くない?」
「うん、なんか急に冬っぽくない?」
綾乃はそう言って、大袈裟に肩を縮めてみせた。それから思い出したように、少しだけ声を弾ませる。
「あ、そうだ。今日、文化祭の出し物決めるんだよね」
「だね」
千綴は上履きに足を入れながら、今日の予定を思い出す。午前のLHRが一コマ、まるごとそれに充てられていた。
教室の方から、誰かの笑い声が廊下まで漏れてきていた。
二限目が始まると、教室の空気が変わった。
山田先生が黒板の隅に「文化祭 出し物」と書き、「予定通り、今日は文化祭の出し物を決めるぞ」と告げる。その一言で、教室のあちこちから声が上がり始めた。
カフェはすでに他のクラスと被っているらしく、早々に候補から外れた。その後も輪投げや射的、クイズ大会といった案が出ては、地味だ、無難だと好き勝手な声が飛ぶ。先生が黒板の端へ候補を書き並べる間にも、誰かの案へ誰かが突っ込み、それにまた別の誰かが乗っかっていった。
千綴も机に肘をつき、そのまとまりのない賑やかさを眺めていた。
その中で、ヴァシリオスが勢いよく手を挙げた。
「肉を回す屋台」
「まだ言ってたんだ」
環が机に頬杖をついたまま、間髪入れずに返す。
「あきらめてなかったんだ、それ」
綾乃も呆れたように笑った。
「機材、結局どうするの?」
千綴が聞くと、ヴァシリオスは少し考えるように腕を組んだ。
「じいちゃんに言えば、業者とか知ってそうな気がする」
「海外の人でしょ、たしか」
「そうだけど」
「間に合うの、それ」
「……わかんない」
あっさりとした調子だった。本人はそれ以上の含みもなく言っているようだったが、周囲は一瞬、動きを止めた。
「業者て」
近くの席から、誰かがぼそっと突っ込む。
「うちの規模でやることじゃないでしょ」
環が気だるげに言う。
「先生に絶対止められる」
「工夫すれば」
「工夫の問題じゃない」
ヴァシリオスはそれでもしばらく食い下がっていたが、先生に「教室でやる規模の話じゃないだろ、それは」とあっさり切られると、黒板の候補からも外れていった。
「……仕方ない」
ヴァシリオスは肩を落としたが、それ以上は食い下がらなかった。
ヴァシリオスの案が消えると、黒板に残ったのは縁日系やクイズ大会といった無難な候補ばかりだった。
「なんか、無難なのばっかりだな」
「じゃあ、なんかある?」
千綴が振ると、ヴァシリオスは腕を組んで唸った。
「……ない」
「屋台の代案は用意してこいよ」
環の突っ込みに教室から笑いが起き、その流れの中で綾乃がすっと手を挙げた。
「ホラーハウス、やりたい」
声に、いつもより張りがあった。
「お化け屋敷ってこと?」
千綴が聞くと、綾乃は勢いよく頷く。
「ただのお化け屋敷じゃなくて、ちゃんとストーリーがあるやつ。最初に前振りの部屋があって、そこで話を聞いてから本番に入る感じの」
「詳しいな」
ヴァシリオスが感心したように言った。
「こういうの、結構読んでるから」
綾乃はそう言って、少し得意げに胸を張った。
「脚本は、文芸部だから書ける。怖い話を考えるのも好きだし」
「好きなんだ」
千綴が言うと、綾乃は自信満々に頷く。
「得意分野」
その様子に、環がふと目を細めた。
「綾乃、お化け屋敷とか入れるの?」
「え」
「入るの、無理でしょ」
綾乃の表情が、一瞬だけ止まった。
「……作る方は、好きだから」
「体験する方は?」
「それは……別問題」
小さな声で答えると、教室のあちこちから小さな笑いが起きた。
「作る側の綾乃と、体験する側の綾乃が、まったくの別人みたいだな」
ヴァシリオスが面白そうに言う。
「うるさい」
綾乃は顔を赤くしながらも、それ以上は取り合わなかった。むしろ、話をそのまま前へ進める。
「とにかく、私はこれ推したい」
「私もそれ、いいと思う」
千綴が言った。
「教室の可動壁、使えば隣の教室を前振り部屋にできるし。順番待ちの行列対策にもなる」
その一言に、ヴァシリオスが目を輝かせた。
「変わり種でいいじゃん、それ」
「賛成するんだ」
環が意外そうに言う。
「肉の屋台がダメなら、次は目立つやつがいい」
ヴァシリオスはあっさりとそう言って、それきり自分の案には触れなかった。
千綴はその様子を横目に見ながら、少しだけおかしくなった。
環がふと、机に頬杖をついたまま口を開く。
「死体の役なら、任せて」
「環がやんの、それ」
「得意」
環はそう言い切った。表情はいつもと変わらず、気怠げなままだった。
「得意なんだ」
「動かないの、得意」
その返しに、周囲からまた笑いが起きた。
黒板へ「ホラーハウス」と書き足す。他に新しい案は出ず、最後は縁日系との二択になった。
綾乃が真っ先に手を挙げ、ヴァシリオスと環、千綴も続く。大きな反対もないまま、教室の大半がホラーハウスを選んだ。
「決まりだな」
黒板の文字に丸が付き、教室のあちこちから拍手混じりの声が上がった。
「よっしゃ」
ヴァシリオスが拳を握る。
「脚本、頑張る」
綾乃が意気込むように言った。
続けて、必要になりそうな備品も簡単に挙げていくことになった。暗幕、音響機材、お面。学校にある物や数が足りるかどうかは、生徒会側で確認することになる。
千綴は黒板へ増えていく文字を眺めながら、これからの準備の量を頭の中でぼんやりと計算し始めていた。
教室の空気は、いつもより浮ついていた。
昼休み、千綴はパンの袋を片手に生徒会室へ向かった。
扉を開けると、机の上には他クラスや部活から届いた申請用紙が何枚か並んでいた。内容自体はすでに決まっており、今は貸出や購入の希望に無理がないかを確認する段階だった。
「お疲れさまです、弥生先輩」
先に来ていた鈴が顔を上げた。用紙を一枚ずつ見比べながら、何かをメモしている。
「お疲れさま、鈴。それ、どこの分?」
「弓道部と、あと三年の展示系です。借りたいパーテーションの数が、二つ合わせると学校にある分を超えちゃってて」
「去年とか、こういうのどうしてたんだろう」
千綴が言うと、鈴は過去の資料を検索してみる。
「あ、ありました。去年も同じようなことがあったみたいで、近くの公民館から借りてます」
「今年も、同じところに借りられるか聞いてみたいね」
「そうですね」
「それ、会長にお願いする分だね。外部への問い合わせだし」
千綴が言うと、鈴は頷いて、確認したい内容を短くまとめた紙を別のクリアファイルへ挟んだ。
少し遅れて、悠司も弁当箱を手に入ってきた。
「お疲れ」
「お疲れさま」
三人は、それぞれの椅子に腰を下ろす。机の端を少し空けて、パンと弁当を広げた。
仕事をしながらの昼食は、いつの間にか当たり前になっていた。
「そういえば、うちのクラス決まったよ」
千綴が言うと、鈴が顔を上げた。
「何になったんですか?」
「ホラーハウス。ストーリーがある系の」
「本格的ですね」
鈴が感心したように言う。
「一年は、そういうのはあんまりないんですけど」
「一年は何が多いの?」
「輪投げとか射的とか、定番のものが多いです」
「一年らしいっちゃらしいな」
悠司がそう言いながら、箸を進めた。
「悠司のクラスは?」
「カフェになった」
「あ、それ、うちの方でも噂になってた」
「そうなのか」
「うん。それで、候補が一個消えた」
悠司は特に驚いた様子もなく、頷いた。
「二年はみんな、わりと気合い入ってるみたいですね」
鈴が言う。
「一年はこう、無理せずやろうって空気があるんですけど」
「三年はほとんど展示だしな」
悠司が言う。
千綴はそう相槌を打ちながら、机の上の申請用紙へ目を戻した。
先に出ていた申請は、思ったより手間がかからなかった。
「これくらいなら、思ったより楽ですね」
「うん、内容決めるのに比べたら」
それでも、三人の間には忙しさとは違う、どこか浮ついた空気があった。決まったばかりの出し物を話す声には、作業への面倒くささより楽しみの方が滲んでいる。
「じゃあ、片付けちゃおう」
千綴たちは申請内容を管理表へ移し、問題のないものはそのままファイルへ、外部の手配が必要なものだけ会長へ回していった。昼休みの残り時間、生徒会室にはしばらくキーボードを叩く音と紙をめくる音が続いた。
昼休みの喧騒が遠のき、午後最初のチャイムが鳴る。窓の外の日差しは、まだ高い位置にあった。
ノートへペンを走らせ、黒板を擦るチョークの音を聞きながら午後の授業を過ごす。教壇に立つ顔ぶれが変わるたび、窓の外の光も少しずつ角度を落としていった。
気づけば、窓の外の光がずいぶん傾いていた。机の上に残っているのは、外注が絡む数件だけだった。
千綴はそれを一つのファイルにまとめ、机の端へ置く。
ちょうどそこへ、会長が顔を出した。
「お疲れさまです」
「お疲れ。進んでるか」
「はい、これ、外注が絡む分です。お願いします」
千綴がファイルを差し出すと、会長はそれを受け取り、中身にざっと目を通した。
「了解。あとはこっちでやっとくから、上がっていいぞ。今日はもう遅いしな」
「すみません、ありがとうございます」
「会長も、無理しないでくださいね」
千綴がそう言うと、会長は少し意外そうな顔をしてから、軽く笑った。
「ん、ありがとう」
会長がファイルを持って自分の席へ戻ると、千綴たちも机の上を片付け、鞄を持った。
「お疲れさまでした」
「お疲れ」
三人は生徒会室を出た。
廊下の奥、まだ電気のついている教室があった。中から、机を動かす音と話し声が漏れてくる。
「もう始めてるとこあるんだ」
千綴がつぶやくと、悠司も廊下の奥へ目をやった。
「準備できるとこから始めてるんだろうな」
「気が早いですね」
鈴が言う。
その声にも、どこか楽しそうな響きがあった。
靴を履き替え、三人で薄暗くなり始めた校舎の外へ出る。
「今日、思ったよりすんなり片付いたな」
「うん、助かった」
「まあ、この先もあるだろうけどな」
そんな話をしながら坂を下り、分かれ道まで来たところで悠司が足を止めた。
「じゃあ、俺はこっちだから」
「うん、お疲れさま」
「お疲れさまでした」
悠司が軽く手を挙げて鏡峰地区の方へ曲がり、千綴と鈴はそのまま丘平地区へ向かった。
「二人で帰るの、なんか久しぶりな気がします」
鈴が言った。
「そうかも」
千綴も頷く。
「ホラーハウス、当日見に行きたいです」
鈴がそう言うと、千綴は小さく笑った。
「楽しみにしてて」
しばらく歩くうち、通りの向こうから軽い足音が近づいてきた。ジャージ姿で走ってくる人影に、千綴はすぐ気づく。
「あ」
声を上げたのは鈴の方だった。
走ってきたのは、エレディトだった。千綴たちに気づくと、速度を緩めながら近づいてくる。
「千綴先輩。……小森さんも」
「お疲れさま」
千綴が声をかけると、エレディトは軽く息を整えながら頷いた。
「こんな時間まで走ってるんですか」
鈴が少し驚いたように言う。
「いつものことだ」
エレディトは短く答えた。
「知らなかったです」
「夜も走るんだ、そういえば」
千綴がそう言葉を添えると、エレディトは小さく頷いた。
「時々」
それだけの返事だったが、鈴はまだ意外そうな顔をしていた。
「体力ありますね……」
「慣れてる」
エレディトはそう言うと、視線を少し先へ向けた。
「じゃあ、また」
「うん、また」
「お疲れさまです」
エレディトは軽く会釈すると、再び走り出した。その背中が、夕暮れの道の先へ小さくなっていく。
鈴はしばらく、その後ろ姿を見送っていた。
「エレディトくん、意外と知らないこと多いです」
「そうだね」
千綴はそう返し、鈴とまた歩き出した。ほどなく見慣れたアパートの角が見えてくる。
「私、ここで」
「はい、お疲れさまでした」
「気をつけて帰ってね」
「弥生先輩も」
鈴は小さく手を振ると、駅の方角へ向かって歩いていった。その背中を少し見送ってから、千綴もアパートへの道を折れる。
空はすでに、藍色に近い色へ変わり始めていた。
宿題を終え、明日の準備も済ませると、千綴は寝る前にベランダの窓を少しだけ開けた。
夜の空気が、部屋の中へ流れ込んでくる。昼間よりも、ずっと冷たい。
外からは、秋の虫の声が届いていた。細く、途切れずに続く音。
故郷でも、こんな音を聞いていた。
実家の庭先だったか、田んぼのあぜ道だったか。場所までははっきりしない。それでも、耳に残っている音だけは妙に確かだった。
懐かしいと思う一方で、今いる場所との距離をふと意識する。似た音なのに、同じではない。それが少しだけ不思議だった。
千綴はしばらく窓辺で耳を澄ませてから、小さく息を吐いて窓を閉めた。
部屋の灯りを落とし、布団に入った。
虫の声だけが、しばらく壁の外から聞こえていた。