吐く息が、朝の空気の中で白くほどけた。
千綴は坂を上りながら、コートの襟元へ指をかけた。ここ数日で、朝の冷え込みがまた一段深くなった気がする。
坂の途中まで来たところで、足がわずかに緩んだ。
理由はなかった。
視線だけが、坂の上ではなく、その向こうへ抜けていく。屋根の連なりの先、丘の向こうまで見える空は高く澄んでいた。薄い雲が流れている。いつもと変わらない景色だった。
それでも数秒だけ、千綴はそこを見ていた。
自転車のブレーキが後ろで軋んだ。横を通り過ぎる気配に、ようやく歩き出す。
「ちづるー!」
聞き慣れた声が追いついてきた。
振り向くと、綾乃が鞄を押さえながら小走りで坂を上ってくる。
「おはよう」
「おはよ。寒くなったね」
隣に並んだ綾乃が、白い息を吐いて笑う。
「朝、布団から出るのつらくなってきた」
「まだ十月なのに」
「もう十月でしょ」
そんな話をしながら、二人は坂を上った。
校門が近づくにつれ、人の声が増えていく。脚立を運ぶ生徒、丸めた模造紙を抱えた生徒、何かの板を二人がかりで運んでいる生徒もいる。少し前まで体育祭一色だった校内は、もう完全に文化祭の準備へ切り替わっていた。
昇降口で上履きへ履き替え、廊下へ出る。
教室へ向かう途中、前を歩いていた二人組の声が耳に入った。
「今日も休みだって」
「長くない?」
「風邪こじらせたんじゃない?」
それだけの会話だった。
千綴は追い越しながら、ほんの少しだけ歩調を落とした。
誰の話かも分からない。
最近は、似たような話を聞くこと自体が珍しくなくなっていた。そのせいだろうと思い、すぐに前を向く。
教室に入ると、後ろの黒板にホラーハウスの配置図が途中まで描かれていた。誰かが定規を当てて線を引き、その横で別の生徒が段ボールを開けている。古い紙と絵の具の匂いが混じっていた。
「ちづる、聞いて」
環が机に頬杖をついたまま、こちらを見る。
「ヴァシリオスがまた変なこと言い出した」
「おはよう。今度は何」
鞄を席へ置きながら聞くと、ヴァシリオスがすぐに反応した。
「変じゃない。演技の話だ」
「死体役なんて動かなければいいだけでしょって言ったら、違うんだって」
環が面倒そうに説明する。
「違うだろ。動かないまま見せるのにも技術がいる」
「死体に?」
「死体でも」
ヴァシリオスは妙に真剣だった。
「じゃあやってみてよ」
環が言うと、ヴァシリオスは椅子から立ち、教科書を胸に抱えたまま真顔で固まった。
数秒。
綾乃が耐えきれず吹き出した。
「……だめ、普通に面白い」
「ほら、演技になってる」
「笑われてるだけでしょ」
環が呆れたように返す。
千綴も笑いながら席についた。
そのまま朝の時間が過ぎていく。
黒板の配置図について話す声。段ボールを引きずる音。誰かが机を動かす音。
その合間に、少し離れた席からまた小さな声が聞こえた。
「文化祭までには来られるかな」
千綴の手が、教科書を机へ入れる途中で一拍だけ止まった。
すぐに押し込み、何事もなかったようにノートを取り出す。
誰についての話なのか、やはり分からない。
チャイムが鳴るまで、あと数分だった。
昼休みのチャイムが鳴ると、教室の空気が一気に緩んだ。
「今日はお昼、生徒会ないんだっけ?」
綾乃が千綴の席へ来る。
「放課後だけ」
「じゃあ食堂行こ」
千綴は財布を取り出し、立ち上がった。
食堂はいつも通り混んでいた。トレーの触れ合う音や椅子を引く音が重なり、窓際の席まで途切れずざわめきが届いている。
四人で席につき、しばらく食べていると、ヴァシリオスが思い出したように顔を上げた。
「そういえば、新辺でまた変な噂あるぞ」
「また?」
綾乃がすぐに食いつく。
「今度は何。青い犬?」
「違う。廃墟」
環がスプーンを止めた。
「急に普通の怪談になった」
「夜だけ明かりがつくらしい。誰も使ってないはずなのに」
その言葉を聞いた瞬間、千綴の箸が止まった。
ほんの一瞬だった。
「どの辺?」
自分でも、なぜ聞いたのかは分からなかった。
ヴァシリオスが少し考える。
「新辺駅からは外れてる。倉庫とか工場がある方だったと思う。写真も回ってたけど、場所までは載ってなかった」
「誰か入ってるだけじゃないの」
環が言った。
「管理してる人とか」
「俺もそれは考えた。でも、使ってない建物だって書いてあった」
「ネットの『使ってない』ほど信用できない言葉ないでしょ」
「夢がないなあ」
「廃墟に夢を求めないで」
綾乃が笑う。
話はそこで終わり、すぐに文化祭の飾りつけへ移った。
色画用紙が足りないとか、黒布をどこまで使うとか、前の教室を暗くしすぎると危ないとか。聞き慣れた話が続く。
千綴も相槌を打ちながら食事を進めた。
けれど途中で一度だけ、先ほどの言葉が頭に浮かんだ。
新辺。廃墟。夜だけ明かり。
特に気にするような話ではない。
そう思ったところで、隣のテーブルから別の会話が聞こえてきた。
「また保健室?」
「朝から頭痛いって」
千綴の意識が、そちらへ向いた。
振り返るほどではなかった。
食堂には何百人もいる。体調の悪い生徒が一人や二人いたところで不思議ではない。
「ちづる、黒布どうする?」
環に呼ばれて、千綴は視線を戻した。
「去年の残り、使えるならそれでいいんじゃない?」
「私もそう思う」
会話はそのまま続いていった。
放課後、生徒会室へ入ると、鈴が机の上に申請書を広げていた。
「弥生先輩、お疲れさまです」
「お疲れ。今日は少なそう?」
「追加分がちょっとだけです」
千綴は鞄を机の端へ置いた。
少し遅れて悠司もやってくる。
三人で席につき、文化祭で使う備品の申請を順番に確認していった。
「このクラス、看板一枚減ってる」
千綴が申請書を見ながら言う。
「代わりに椅子を増やしたいって連絡来てた」
悠司が在庫表を確認する。
「当番の人数も変わってるな」
「欠席が出て、組み直したみたいです」
鈴が横から付け加えた。
千綴の指が紙の上で止まった。
朝、廊下で聞いた会話が一瞬だけ浮かぶ。
今日も休み。
けれど、それだけだった。
「椅子は足りる?」
「今の数ならぎりぎり」
悠司が答える。
千綴は頷き、申請書の端に印をつけた。
次の紙をめくる。
さらに二枚ほど進めたところで、鈴が首をかしげた。
「こっちも人数変更ですね」
「最近多いな」
悠司が何気なく言う。
「文化祭前で忙しいからじゃないか。体調崩してるやつもいるし」
「そうかも」
千綴は答え、次の申請書へ手を伸ばした。
指先が紙の端に触れたところで、ほんの一拍だけ止まる。
そのまま紙をめくった。
申請は予定より早く片づいた。
最後の一枚を束へ戻すと、悠司がゴムでまとめて戸棚へしまった。
「今日はこれで終わりでいいだろ」
「うん」
鈴が大きく伸びをする。
千綴も椅子の背へもたれ、窓の外を見た。
夕方の光の中で、校庭の木の影が長く伸びている。
風に揺れた枝が、ガラス越しに音もなく動いていた。
校門を出ると、乾いた風が坂を吹き上がってきた。
落ち葉が足元を転がっていく。
千綴はコートのポケットへ手を入れ、そのまま坂を下った。
丘平の街並みが少しずつ近づいてくる。屋根の向こうには鏡峰の木々が見え、反対側へ目を向ければ、新辺のある方角へ夕方の明るさがまだ残っていた。
足が、ほんの少しだけ遅くなった。
昼に聞いた廃墟の話を思い出したのだろうか。
夜だけ明かりがつく建物。
千綴は数秒だけそちらを見て、それから前へ向き直った。
丘平商店へ着く頃には、店先の照明が点いていた。
「今日は遅かったわね」
ガラス戸を開けると、巴が品出しの箱を抱えたまま振り返る。
「生徒会」
「文化祭?」
「うん。備品の確認」
エプロンをつけ、千綴も店へ入る。
夕方の客足はいつも通りだった。
近所の老人が牛乳を一本買い、仕事帰りらしい女性が総菜と飲み物を持ってくる。ラジオから古い曲が流れ、冷蔵棚の低い音が続いていた。
「そういえば文化祭、何やるの?」
客が途切れたところで巴が聞いた。
「ホラーハウス」
「あんた出るの?」
「たぶん何かはやる。環は死体役やるって」
「環ちゃんって、西園寺さんちの娘さんでしょ?」
「うん」
「あの子が死体役ねえ」
「動かないだけで演技になるかって朝から揉めてた」
巴が呆れたように笑った。
「楽しそうで何より」
千綴も少し笑う。
そのあとは、しばらくいつも通りの仕事が続いた。
棚の商品を前へ出し、届いた品の数を確認し、伝票へ数字を書き込んでいく。
途中、ペン先が止まった。
昼に聞いた廃墟の話が、ふいに頭へ浮かんだ。
新辺。
千綴は一度だけ瞬きをして、すぐに続きを書いた。
店の時計は、いつもと同じ速さで進んでいた。
バイトを終えて外へ出ると、空はすっかり暗くなっていた。
アパートまでの道を歩く。
街灯の下を通るたび、足元の影が伸びたり縮んだりした。冷えた空気を吸うと、鼻の奥が少し痛い。
途中で、ふと足が止まった。
何か音がしたわけではない。
誰かに呼ばれたわけでもない。
それでも千綴は振り返った。
暗い道の向こうに、車のライトが一つ見える。家々の窓には明かりが点き、どこかから夕食の匂いが流れてきていた。
何もない。
「……何だろ」
小さく呟いて、また歩き出す。
部屋へ戻り、着替えを済ませた。
湯を沸かし、簡単に食事を取る。明日の教科書を鞄へ入れ、机の上に出したままだったノートを閉じた。
いつもと変わらない夜だった。
布団に入り、灯りを消す。
目を閉じてしばらくしたところで、昼に聞いた話がふと浮かんだ。
夜だけ明かりがつく、誰も使っていない建物。
なぜ今になって思い出したのかまでは考えなかった。
そのまま眠気に引かれ、意識が沈んでいった。