目が覚めたとき、部屋はまだ薄暗かった。
枕元へ手を伸ばして時刻を確かめる。いつも起きる時間より、かなり早い。
千綴はしばらく仰向けのまま天井を見ていた。眠気が残っていないわけではない。それでも、もう一度目を閉じたところで、すぐには眠れそうになかった。
昨夜はちゃんと寝たつもりだった。ただ、眠りが浅かったのだと思う。途中で何度か目を覚ました気もするし、夢を見ていたような気もする。
内容はほとんど残っていない。それよりも、昨日、理由もなく足が止まったことと、昼に聞いた「新辺の誰も使っていない建物に夜だけ明かりがつく」という話が、妙に頭の隅へ引っかかったままだった。
どちらも、それだけなら考え込むようなことではない。
「……寝れないか」
小さく呟き、千綴は布団を出た。
カーテンを開けると、外はようやく朝になり始めたところだった。空の色はまだ薄く、建物の輪郭だけが少しずつ浮かび上がっている。
少し迷ってから、ジャージへ着替えた。考えていても仕方がないなら、走った方がいい。
外へ出ると、冷えた空気が頬に触れた。
ひと息吸い込むだけで、頭の奥に残っていた眠気が少し引いていく。
千綴は軽く身体をほぐし、そのまま走り出した。
平日のこの時間に走ることはほとんどない。休日とは違って人通りも少なく、通学路として見慣れている道も、朝の早い時間では別の場所のように静かだった。
靴底が一定の間隔で路面を叩く。呼吸を整え、足を前へ出すうちに、昨日から残っていたものも少しずつ薄れていった。
それでも、ときどき頭をよぎる。帰り道で、何もないのに振り返ったこと。あのときも何かを見たり聞いたりしたわけではなく、ただ、そうした方がいいような気がしただけだった。
千綴は息を吐き、少しだけ速度を上げた。今考えても答えは出ない。走っている間くらいは別のことを考えようとしたところで、前方の坂に人影が見えた。
一定のリズムで走っている。見覚えのあるフォームだった。
「エレディト?」
呼びかけると、その背中が振り返った。
「あ、千綴さん」
エレディトは速度を落とし、千綴が追いつくのを待った。
「おはようございます」
「おはよう。早いね」
「今日は少し早く出ました」
並んで走り始める。
エレディトはしばらく前を向いていたが、やがて千綴の方へ視線を寄こした。
「千綴さん、平日の朝も走るんですね」
「いや、今日はたまたま」
「珍しいですね」
「自分でもそう思う」
答えると、エレディトが少し笑った。
「早く目が覚めちゃって。寝直せそうになかったから」
「眠れなかったんですか?」
「ちょっとだけ。たぶん眠りが浅かったんだと思う」
それ以上は言わなかった。
昨日のことを話そうとしても、何をどう説明すればいいのか分からない。何も起きていないのに、なんとなく気になった。それだけでは、自分でも話にしづらかった。
「それで走ろうと思ったんですか?」
「うん。寝転がったまま考えてるよりはいいかなって」
「千綴さんらしいですね」
「そう?」
「はい」
即答されて、千綴は少しだけ首を傾げた。
二人で坂を上る。
会話が途切れても、気まずさはなかった。靴音と呼吸だけがしばらく並ぶ。
エレディトは以前よりも走り方が安定していた。力任せに速度を出すのではなく、身体の動きを確かめるように一定のペースを保っている。
千綴もそれに合わせた。
坂を越えたところで、エレディトが進行方向を指した。
「僕は今日は、この先をもう少し走ります」
「じゃあ、私はここで戻る」
「はい。気をつけて」
「エレディトもね」
エレディトは軽く手を上げ、そのまま先へ走っていった。
千綴は遠ざかる背中を少し見送ってから、来た道を引き返した。
身体が温まったせいか、家を出たときより頭はすっきりしていた。昨日から残っていた引っかかりも、消えたわけではないが、今すぐ考えなくてもいいくらいには遠ざかっている。
部屋へ戻る頃には、空はすっかり明るくなっていた。
玄関で靴を脱ぐと、額に薄く汗が浮いているのが分かる。
時計を見る。
普段より早く起きた分、まだ余裕はあった。
「……眠くなるかな」
走ったあとの身体は軽かったが、睡眠時間そのものが増えたわけではない。
少しだけ不安になりながら、千綴は着替えを持って浴室へ向かった。
シャワーの湯を頭から浴びる。
冷えた朝の空気も、走って火照った身体も、昨日から残っていた曖昧な感覚も、一度まとめて流してしまうつもりで目を閉じた。
シャワーを浴び終える頃には、身体の熱も落ち着いていた。
髪を乾かし、制服へ着替える。朝食を済ませ、鞄の中身を確認してから部屋を出た。
外はもうすっかり朝だった。通学路にはいつもの時間帯の人通りが戻り、さっき走ったときとは同じ道とは思えないほど、駅へ向かう人や登校中の生徒が途切れず行き交っていた。
坂の手前まで来たところで、後ろから足音が近づいてくる。
「ちづるー」
振り返ると、綾乃が少し急ぎ足で追いついてきた。
「おはよう」
「おはよ」
そのまま並んで歩き出す。
何歩か進んだところで、綾乃が横から千綴の顔を覗き込んだ。
「なんか疲れてない?」
「そう見える?」
「ちょっと」
千綴は自分の頬へ手を当てた。走ったあとにシャワーも浴びたし、頭もだいぶすっきりしているつもりだった。
「朝、早く起きちゃって」
「何時?」
「いつもよりだいぶ早い」
「で、そのまま起きてたの?」
「寝直せなさそうだったから、走ってきた」
綾乃が一度足を止めかけた。
「朝から?」
「うん」
「平日に?」
「平日に」
確認するように繰り返され、千綴は苦笑した。
「自分でも珍しいとは思ってる」
「そりゃ疲れるでしょ」
「走ったら逆に目は覚めたよ」
「今はね」
含みのある言い方だった。
「何」
「昼前くらいに眠くなりそう」
「そこまでじゃないと思うけど」
「どうだか」
綾乃はそう言って笑った。
坂を上りきる頃には、学校へ向かう生徒の数も増えていた。
千綴はいつもの流れに戻っていく感覚に、少しだけ肩の力を抜いた。
教室へ入ると、昨日より少しだけ物が増えていた。
窓際には黒い布が畳まれて置かれ、後ろの棚の横には段ボールが積まれている。机の上には紙で作った札や、何に使うのか分からない細長い板まで置かれていた。
まだ雑然としているだけにも見える。
それでも少しずつ、教室が文化祭へ向かって変わっているのは分かった。
「おはよー」
近くの席から声が飛ぶ。
「おはよう」
返しながら自分の席へ向かう。
すると、教室の後ろから環の声が聞こえた。
「だから、やらないって言ってるでしょ」
「いや、これは必要な練習だ」
ヴァシリオスだった。
見ると、環が腕を組んで立っていて、その正面でヴァシリオスが妙に真剣な顔をしている。
「死体役に練習なんていらない」
「必要だ。動かないだけでは死体には見えない」
「動かなかったら十分でしょ」
「違う。死体にも説得力がいる」
「何の説得力よ」
綾乃が隣で小さく吹き出した。
「まだやってる」
「昨日から?」
「たぶん」
ヴァシリオスは周囲へ向けて手を広げた。
「例えばだ。倒れ方一つでも――」
「ちょっと待って」
環が止めるより先に、近くにいた男子生徒が床へ倒れた。
「こう?」
「おお、悪くない」
「何参加してるの」
別の生徒も面白がって机へ突っ伏す。
「こっちは?」
「それは寝てるだけだな」
「死体の判定厳しくない?」
さらに一人、椅子の背にもたれたまま首を傾けた。
「これなら?」
「それはかなりいい」
「なんで私の練習なのに、みんな死んでるの」
環の声に、周囲から笑いが起きた。
「環もやってみれば?」
「やらない」
「本番どうするの」
「そのとき考える」
「絶対考えないやつじゃん」
綾乃が言うと、環が不満そうに振り返った。
「綾乃までそっち側?」
「私は見てる側」
「一番たち悪い」
千綴もつられて笑った。
朝から騒がしい。
けれど、昨日と何も変わらない騒がしさだった。
少しして前の扉が開き、教室へ入ってきた山田先生が足を止める。
床に倒れている生徒たちを見て、数秒黙った。
「……朝から何してる」
「死体の練習です」
ヴァシリオスが堂々と答える。
「ホームルーム始めるから生き返れ」
一斉に笑い声が上がった。
倒れていた生徒たちが立ち上がり、それぞれ自分の席へ戻っていく。
環だけが深く息を吐いていた。
一時間目が始まってしばらくすると、綾乃の言った通りになった。
強烈というほどではないが、黒板からノートへ視線を落とすたび、瞼が少し重くなる。千綴は一度瞬きをしてシャープペンを持ち直し、板書を写しながら先生の説明へ意識を戻した。
内容は頭に入っている。それでも、しばらくするとまた視線が下がりそうになる。
朝走った直後はすっきりしていたのに、身体が落ち着いてから睡眠不足の方が追いついてきたらしい。
千綴は背筋を伸ばした。
前の席から、小さく折った紙が後ろへ回されてきた。開くと、短く書かれている。
『やっぱ眠そう』
綾乃の字だった。
千綴が顔を上げると、前の席の綾乃が少しだけ顔を横へ向け、口元だけで笑っていた。
千綴は紙の下へ『大丈夫』と書き足して前へ返した。
数秒後、また返ってくる。
『ほんとに?』
千綴は返事を書かず、そのままノートの下へ挟んだ。
授業へ意識を戻す。
今度はさっきより少し強めに姿勢を正した。
寝るほどではない。
少なくとも、今のところは。
その後の休み時間、千綴は昼用に購買へ寄り、パンと飲み物を買って鞄へ入れておいた。
午前最後の授業が終わる頃には、朝より少しだけ眠気がましになっていた。完全に抜けたわけではないが、授業中に何度も姿勢を直すほどではなくなっている。
昼休みを知らせるチャイムが鳴ると、教室の空気が一気に緩む。椅子を引く音や弁当箱を開く音が重なり、あちこちで会話が始まった。
千綴も机の上を片づける。
今日は生徒会へ寄る用事もない。
いつものように机を寄せると、綾乃が先に椅子を動かしてきた。
「結局寝なかったね」
「だから寝ないって言ったでしょ」
「午前中かなり危なかったけど」
「見てたの?」
「前だから分かるよ」
綾乃は笑いながら弁当の蓋を開けた。千綴も、午前の休み時間に購買で買っておいたパンと飲み物を机へ出す。
少し遅れて環とヴァシリオスも加わる。
「今日は静かだったね」
環が座りながら言う。
「何が?」
「午前中。朝みたいに床に転がる人がいなかった」
「それを基準にするな」
ヴァシリオスが当然のように返した。
「だいたい、あれは練習だ」
「まだ言ってる」
「本番で後悔しても知らないぞ」
「死体役で後悔することある?」
綾乃が聞く。
「あるだろ。もっと死ねたはずなのに、とか」
「ない」
環が即答し、自分の昼食へ戻る。千綴もパンの袋を開けながら笑った。朝と変わらないやり取りだった。
しばらくは文化祭の準備の話が続く。
教室の後ろに積まれていた段ボールをどう使うのか、誰が黒布を持ってきたのか、壁の仕切りを作るにはまだ材料が足りないらしい、といった話だった。
ひと区切りついたところで、綾乃がヴァシリオスを見た。
「そういえば今日はないの?」
「何が?」
「新しいニュース」
「ニュース?」
「昨日みたいなやつ。変な噂」
ヴァシリオスが箸を止めた。
「お前、結構楽しみにしてるだろ」
「別に信じてるわけじゃないけど、話としては面白いし」
「素直じゃないな」
綾乃が飲み物へ手を伸ばしながら、「で、あるの?」と催促する。ヴァシリオスは少し考えてから口を開いた。
「新しいのとは違うけど、前のやつなら続報がある」
「前の?」
「新辺で軍人みたいな男がいるって話」
千綴の手が、ほんの一瞬だけ止まった。パンを持ったまま、指先だけが動きを止める。
「いたね、そんなの」
綾乃は普通に続きを促した。
「最近、全然見なくなったらしい」
「それだけ?」
「いや。見なくなったから、逆に変な話が増えてる」
ヴァシリオスは少し楽しそうだった。
「実はどこかの秘密組織に捕まったとか、そういうやつ」
「急に話が大きくなったね」
「新辺ではよくある」
「絶対よくないでしょ」
環が呆れたように言う。
「でも、目撃談そのものは消えたんでしょ?」
綾乃が聞く。
「らしい。前はたまに見たって話があったのに、最近はぱったり」
「じゃあ普通に引っ越したとかじゃないの」
「それじゃ面白くない」
「面白さで決めないで」
環がため息をつく。
千綴は黙ったまま、止まっていた手を動かした。
実際はそんな単純な話ではない。それでも、完全に外れているとも言い切れないのが妙だった。
「ちづる?」
綾乃の声で顔を上げる。
「何?」
「また止まってた」
「……そう?」
「朝からちょいちょいぼーっとしてない?」
千綴は一度瞬きをした。
考えていたことをそのまま話すわけにはいかない。
「ちょっと眠いかも」
「ああ、やっぱり」
綾乃が納得したように頷く。
「朝走るからだよ」
「もうだいぶ目は覚めてるんだけど」
「今も止まってたじゃん」
「それは……」
千綴は少しだけ言葉に詰まった。
環が横から口を挟む。
「午後、寝そう」
「寝ないよ。午前も寝てないでしょ」
「ぎりぎりだったけどね」
綾乃が笑い、環もどこか面白そうに千綴を見る。千綴は飲み物を一口飲んでから、二人へ視線を返した。
「午後も寝ないから」
「じゃあ頑張って」
「絶対面白がってるでしょ」
そんな話をしているうちに、昼休みの残り時間も少なくなっていった。
ヴァシリオスの話はそれ以上大きく広がらず、昼休みの雑談の一つとして流れていった。
午後最初の授業が始まる。
昼食後の教室には、午前よりも少し重い空気が流れていた。
暖房が入っているわけでもないのに、窓を閉めた教室は妙にこもっている。
千綴は教科書を開いた。眠気は残っていたが、午前ほどではない。先生の声を聞きながらノートへ必要なところを書き写し、途中で一度だけ出そうになった欠伸を手で隠した。
そのまま授業は何事もなく進み、チャイムが鳴ると、椅子を引く音と一緒に教室の空気が緩んだ。
「寝なかったね」
綾乃がすぐに言った。
「だから言ったでしょ」
千綴は机の上のノートを閉じ、軽く肩を回した。綾乃も笑いながら席を立つ。
千綴は次の授業の準備を始めた。少し眠いことを除けば、いつも通りの午後だった。
休み時間が終わり、次の授業が始まった。
千綴は教科書を開き、黒板へ視線を向ける。さっきより眠気は薄く、今すぐ目を閉じてしまいそうなほどではない。
先生の声を聞きながらノートへ文字を書いていく。窓の外では校庭の端にある木の葉が風に揺れ、教室の中には紙をめくる音やシャープペンの先が走る音が小さく重なっていた。
いつもの授業だった。
千綴は一行書き終え、次の説明へ目を移した。
そのときだった。
視界が、ずれた。
そう感じた。
黒板の文字が消えたわけではない。
目を閉じた覚えもない。
なのに、そこへ別のものが重なった。
白い天井。揺れる吊り革。誰かの手の中にあるスマートフォン。
道路を横切る白線。棚に並んだ商品。知らない部屋のカーテン。蛍光灯。窓の外の空。
どれも一瞬だった。
つながりがない。
場所も違う。
見たことがあるのかどうかさえ分からない。
次々と切り替わって、重なって、すぐ消える。
音もあった気がした。
電車が走るような低い響き。
誰かの話し声。
ドアが閉まる音。
けれど、言葉としては何も残らなかった。
千綴はびくりと肩を揺らした。
「……え」
顔を上げる。
黒板。
先生。
教科書。
いつもの教室。
何も変わっていない。
手にはシャープペンを持ったままだった。
ノートを見ると、途中まで書いていた文字の先で線が少しだけ乱れている。
千綴は瞬きをした。時間が飛んだような感覚はなかった。
けれど、今のは。
「……寝た?」
声には出さず、口の中だけで呟く。
ほんの一瞬、意識が落ちたのだろうか。
朝から眠かったし、昼にも散々言われた。そのまま一瞬だけ寝落ちして、変な夢を見た。そう考えれば説明はつく。
千綴は小さく息を吐き、授業中に寝るところだったと思いながらノートへ視線を戻した。
その数秒後。
「先生」
教室の後ろから声が上がった。
先生が振り返る。
「どうした?」
「ちょっと……気持ち悪いです」
声を出した生徒は机に手をついたまま、顔をしかめていた。
周囲の生徒がそちらを見る。
「吐きそうか?」
「そこまでは……でも、なんか急に」
「立てるか?」
「はい」
生徒が椅子を引いて立ち上がる。
少しふらついた。
近くの生徒が反射的に腕を伸ばす。
「大丈夫?」
「うん、たぶん」
先生が教卓から離れた。
「無理するな。保健室行ってこい。誰か一人ついて――」
「あの」
今度は別の場所から声がした。
前の方の席にいた生徒だった。
「俺も、ちょっと頭痛いです」
教室の空気が少しだけ変わる。
「お前もか?」
「さっきから急に」
その生徒はこめかみに手を当てていた。
先生が一瞬だけ黙る。
「……とりあえず二人とも保健室だな」
近くの生徒が付き添いに立つ。
教室の中に小さなざわめきが広がった。
「何か食べた?」
「風邪じゃない?」
「二人同時?」
そんな声が聞こえる。
千綴は、立ち上がった二人を見ていた。
さっきの。
知らない場所がいくつも重なった、あの一瞬。
ただの夢だったはずだ。寝落ちしただけ。
そう思った直後に、二人が具合を悪くした。偶然なら、それだけで何もおかしくはない。
千綴は自分にそう言い聞かせるように、シャープペンを持ち直した。
けれど。
胸の奥に、小さな引っかかりが残った。
夢にしては、妙だった。
内容ではない。見ていないはずのものが一瞬だけ分かったような感覚に、かすかな覚えがある。
千綴はそこまで考えて、思考を止めた。
今は授業中だ。先生も、二人を送り出したあと教卓へ戻ろうとしている。
「少し休憩するぞ」
そう言って、先生が教室を見回した。
「ほかに具合悪いやついるか?」
何人かが顔を見合わせたが、手を上げる者はいなかった。千綴も動かない。
自分は具合が悪いわけではない。ただ一瞬だけ、妙なものを見たような気がしただけだった。
授業は、その後少しだけ予定を変えて進んだ。
先生は何度か教室を見回しながら、体調が悪くなったらすぐ言うように、と念を押した。
千綴はノートを取り続けたが、さっきの一瞬は考えないようにしても完全には消えてくれなかった。知らない天井や電車、道路、手の中のスマートフォン。思い出そうとすると、どれも輪郭が曖昧になる。
千綴は一度止まったシャープペンを動かした。今考えても分からないし、自分まで具合が悪くなったわけではない。
放課後、千綴は荷物をまとめて生徒会室へ向かった。
廊下には、部活へ向かう生徒や友人同士で階段を下りる生徒、文化祭の準備で段ボールを運ぶ生徒が行き交っている。見た目はいつも通りだったが、歩いているうちに、ところどころから同じような話が耳へ入った。
「そっちも?」
前を歩いていた二人組の声だった。
「うん。二人。急に気持ち悪いって」
「うちは三人」
千綴の足が少しだけ遅くなる。聞こうとしたわけではないが、そのまま続きが耳に入った。
「保健室いっぱいだったらしいよ」
「マジで?」
「三年でも何人か出たって」
千綴は視線だけを前へ向けたまま歩いた。自分のクラスだけではなく、別のクラスでも似たことが起きていて、三年にも出ているらしい。
階段を下りたところで、今度は別の方向から声が聞こえた。
「午後の授業中だったよね」
「うちもそのくらい」
偶然で片づけるには、少し重なりすぎている気がした。
千綴は生徒会室の前まで来て、扉を開けた。
中にはまだ誰もいなかった。
「……早かったか」
鞄をいつもの場所へ置くと、机の上には前日に途中まで進めた文化祭関係の書類が残っていた。千綴は椅子を引き、まずはやることをやろうと一枚手に取る。
クラスごとの貸出希望や使用教室、備品を順に確認し、必要な項目へ印をつけていった。
数分ほど作業したところで、扉が開いた。
「お疲れさまです」
小森だった。
「お疲れ。今日は早いね」
「弥生先輩の方が早いじゃないですか」
「今日はたまたま」
小森は鞄を置き、自分の席へ向かう。
千綴は少し迷ってから口を開いた。
「鈴」
「はい?」
「来る途中で聞いたんだけど」
小森が振り返る。
「他のクラスでも、今日具合悪くなった人いたみたい」
「やっぱり二年でもですか?」
思ったより早い反応に、千綴は書類から顔を上げた。
「一年も?」
「はい。クラスによって違いますけど、どこも何人かずついたみたいです。頭痛とか吐き気とか、ふらつく人もいたって」
小森は鞄を置きながら、自分のクラスでも午後の授業中だったと続けた。
「何かあったんですかね」
「分からない。食堂とか?」
「でも、お弁当の人もいましたよ」
それなら、食堂だけが原因とは考えにくい。一年でも複数出ていて、二年でも、三年でも似た話がある。少なくとも、千綴たちが聞いた範囲では午後に集中していた。
そこでまた扉が開いた。
「お疲れ」
悠司が入ってくる。
「お疲れ」
「お疲れさまです」
悠司は二人の顔を見て、少し首を傾げた。
「何の話?」
千綴が答える。
「今日、具合悪くなった人の話」
「その話か」
悠司もすぐに分かったようだった。
「そっちも?」
「うちにもいた。他のクラスでも何人かずつ出てたみたいだ」
「一年も似た感じです」
小森の言葉に、悠司は鞄を置く手を止めた。
「同じ時間だった?」
「たぶん。私のクラスは午後の授業中」
「うちもだ」
三人の間に短い沈黙が落ちる。悠司は机へ手をつき、千綴はさっきまで確認していた書類の端を指で揃えた。
「食べ物なら、もっと偏りそうだけど」
「食堂使ってない人もいるんですよね。私はお弁当です」
「俺は食堂。千綴は?」
「購買」
昼食の取り方まで揃っていない。悠司が「風邪とか?」と口にしたものの、同じくらいの時間に何人も具合を崩すのは妙だという話になり、結局そこで答えは止まった。
千綴は、そこで口を閉じた。
頭の中に、午後の一瞬が浮かぶ。
知らない場所がいくつも重なった、あれ。
けれど。
今の話と結びつける理由はない。
少なくとも、説明できるものは何もなかった。
小森が少し重くなった空気を払うように笑った。
「ヴァシリオス先輩なら、絶対変なこと言いそうですね」
小森の言葉に、千綴も少し笑った。悠司は「新辺の廃墟から変な電波が出てる、とか」と肩をすくめる。
「ありそう」
「いや、あいつならもっと雑だろ」
重くなりかけていた空気が、少しだけ緩んだ。
「とりあえず」
千綴は机の上の書類を指で叩いた。
「考えても今は分からないし、仕事しよう」
「はい」
「了解」
それぞれ席につき、止まっていた文化祭の作業を再開する。千綴も書類へ視線を戻したが、さっきより文字が少しだけ頭へ入りにくかった。
しばらくして、机の上の書類も予定していたところまで片づいた。
ふと手が止まりそうになることはあったが、千綴はそのたびに意識を仕事へ戻した。考えても今は分からない。三人で残りを確認し、その日の作業を終えた。
生徒会室を出る頃には、校内の人影もだいぶ減っていた。
千綴はそのまま丘平商店へ向かう。
店へ入ると、店長が棚の奥から顔を出した。
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
「今日は学校どうだった?」
いつもの調子だった。
千綴は制服の上からエプロンをつける。
「普通でした」
そこまで言って、千綴はエプロンの紐を結ぶ手を少しだけ止めた。
「……途中までは」
「何かあった?」
「午後、具合悪くなった人が何人かいて。同じくらいの時間に、他のクラスでもいたみたいです」
店長は少し眉を寄せた。
「そういえば、今日そんな話聞いたね。配達先のところで、中学生の子が急に気持ち悪くなったって」
「中学生?」
「うん。別のお客さんも、高校生の子が寝込んだとか言ってたし」
「同じ時間ですか?」
「そこまでは聞いてないよ。でも、聞くのは中高生くらいの子の話が多いね。たまたまかもしれないけど」
そう言って、店長はレジ横の伝票へ視線を戻した。
千綴も作業へ戻り、棚を整えて商品を補充し、レジへ立った。いつもの仕事はいつも通り進んでいく。
ただ、学校の外でも似た話が出ていることだけは、頭の隅に残った。
バイトを終えて帰宅する頃には、空はすっかり暗くなっていた。
部屋へ戻って着替え、簡単に食事を済ませると、千綴は机へ向かった。画面を見るためではなく、いつものように部屋が静かすぎないようテレビでニュースを流しながら、教科書とノートを開く。
問題を解いてページをめくっているうちに、テレビでは天気の話が終わり、次のニュースへ移った。
『続いて、継見市内で相次いでいる体調不良についてです』
千綴の手が止まる。顔は上げなかったが、意識だけがテレビへ向いた。
『本日午後、市内の複数の学校や施設などで、頭痛や吐き気、めまいなどの症状を訴える人が相次ぎました』
画面の向こうで、アナウンサーの声が続く。
『現在までに重篤な症状は確認されていませんが、発症者には十代を中心とした若年層が多く、特に中学生、高校生からの報告が目立っています』
千綴はシャープペンを置いた。
『市内では新辺地区周辺での報告が比較的多く確認されており、保健当局などが原因を調べています』
「新辺……」
声が小さく漏れた。
夜だけ明かりがつく、誰も使っていない建物。学校で具合を悪くした生徒たち。店長が聞いた、中学生や高校生の話。
いくつかの情報が頭に浮かぶが、結びつけるには何も足りない。そもそも、同じものだという根拠がなかった。
ニュースは感染症や食中毒、環境要因など複数の可能性を調べていると伝えていた。千綴も、それが自然だと思う。
ただ、午後に知らない場所や景色が一瞬だけ重なった、あの感覚だけはまだ引っかかっていた。覚えがあるような気はしても、結局それが何なのかは分からない。
千綴はノートへ視線を戻した。
宿題へ戻ろうとシャープペンを持ち直した、そのとき。
机の上に置いていたスマートフォンが、短く鳴った。
千綴がそちらを見ると、点灯した画面に、しばらく動いていなかったグループチャットの通知が表示されていた。