坂の途中まで来たところで、背後から足音が近づいてきた。
朝の冷え込みは昨日より少し強く、吐いた息が薄く白む。千綴は振り返るより先に、その足音の軽さで誰か分かった。
「おはよ」
綾乃が追いつき、並ぶように歩幅を緩めた。肩にかけた鞄を直しながら千綴の顔を一度見て、それから前へ視線を戻す。
「今日はちゃんと起きてるね」
「昨日も起きてたよ」
「保健室で寝てた人が言ってもね」
からかうような調子だった。千綴も言い返そうとして、やめる。昨日は実際、まともに授業を受けられる状態ではなかった。
昨夜は帰宅してから早めに布団へ入り、途中で目を覚ますこともなく朝まで眠った。身体の重さはまだ少し残っているが、昨日のような頭の鈍さはない。坂を上る足も、普段と大きくは変わらなかった。
「もう大丈夫?」
綾乃が、今度は少しだけ声を落として聞いた。
「うん。寝たらだいぶ戻った」
「ならいいけど」
それ以上、綾乃は踏み込まなかった。
歩道の端には、乾いた葉がいくつも寄っていた。少し前まで緑の濃かった生垣も色を失い始め、朝の光は低いところから校舎の窓を白く照らしている。
「そういえば、ホラーハウスの話、昨日ちょっと考えてたんだけど」
綾乃が話題を変えた。
「もう考えてるんだ」
「脚本書くって言ったからにはね。まだ最初のところだけだけど」
「前振りの部屋?」
「そこ。最初から怖くするより、何か変だなって思わせてから中に入れたいんだよね」
話しながら、綾乃は指先で空中に順番を描くような仕草をした。
出し物が決まってから、まだ数日しか経っていない。クラスでも、必要なものを挙げたり役割を考えたりし始めたところだ。まだ、はっきりした形にはなっていない。
「そこは任せるよ。私は怖い話詳しくないし」
「ちづるは配置考える方が向いてそう」
「それはそうかも」
そんな話をしながら校門を抜ける。
昇降口にはすでに何人か生徒がいて、靴箱の前を行き交っていた。少し離れたところでは、休んでいた誰かが久しぶりに来たらしく、友人に囲まれている。
数えたわけではない。ただ、ここしばらくより人の動きが少し多いように見えた。
千綴は上履きへ履き替え、綾乃と並んで階段を上った。
教室の扉を開けると、いくつかの話し声に混じってヴァシリオスの声が聞こえた。千綴は自分の席へ鞄を置き、その声の方へ目を向けた。
「違う。もっと力抜けるだろ」
「抜いてる」
「まだ生きてる」
「難しい注文だね」
環は教室の後ろで、机へ上半身を預けるようにしてぐったりしていた。片腕を力なく垂らし、顔を横へ向けている。傍らに立ったヴァシリオスが、腕を組んでその姿勢を見ていた。
「……朝から何してるの」
千綴が聞くと、環は顔だけこちらへ向けた。
「死体」
「見れば分かるけど」
「文化祭の練習」
綾乃が後ろから覗き込み、呆れたように息を吐いた。
「まだ何も作ってないのに、そこだけ練習するの?」
「できるところから」
環はそう言って、また机へ力を抜いて伏せた。
千綴はその姿を見ながら、昨日の朝、病室のベッドで眠っていた顔を思い出した。今は顔色も普段と大きく変わらない。声にもいつもの気怠さが戻っている。
「環、もう大丈夫?」
聞くと、環は身体を起こした。
「うん。平気だよ。ありがと」
「本当に?」
今度は綾乃が聞く。
「病院でも大丈夫って言われたし。昨日ずっと寝てたから、今日はむしろ元気」
そう言って立ち上がる。
ヴァシリオスはその横で、まだ何か納得していない顔をしている。
「でも前より上手くなってるんだよな」
「何が?」
「死体」
千綴が聞き返すと、環が肩をすくめた。
「昨日まで疲れてたからじゃない?」
「それだ」
「それで納得するんだ」
綾乃が眉を寄せる。
「力の抜け方が自然なんだよ」
「褒めていいの、それ」
「役としては褒めてる」
環は面白がるように、もう一度机へぐったりと身体を預けた。今度は腕の垂らし方まで変えている。
周囲の何人かが気づいて笑い、ヴァシリオスが「それ」と指を鳴らした。
千綴はそのやり取りを見ながら、自分でも少し笑った。少なくとも、環がここでこんなことをしていられる程度には戻っている。それが分かれば十分だった。
環は身体を起こす途中で、ふと思い出したように千綴を見た。
「そういえばさ」
「何?」
「なんでエレディトと一緒だったの?」
千綴は一瞬、返事に詰まった。
「え?」
綾乃も反応した。
「エレディト?」
「うん。千綴と一緒に来た」
環は当然のことのように言った。
千綴はそこで初めて、説明していなかったことに気づいた。
環を探しに行ったことも、見つけたことも、病院にいることも伝わっている。けれど、その間を誰と動いていたかまでは話していない。
「一緒に探してくれたの」
「エレディトが?」
綾乃の表情には、単純な驚きが浮かんでいた。
「うん」
「なんでエレディト?」
すぐに続いた問いに、千綴は返事を探した。
頼んだ経緯だけなら話せる。けれど、そこから先を説明しようとすれば、話せないことの方が多くなる。
「近くにいて、それで――」
「エレディトもいたのか」
ヴァシリオスが先に口を挟んだ。
声そのものは普段と変わらなかった。ただ、その反応だけが妙に早かった。
千綴がそちらを見る。
「何、その納得したみたいな顔」
「してない」
「今したでしょ」
「してないって」
ヴァシリオスは視線を逸らし、環の方へ向き直った。
「それより、さっきのもう一回やってみろ」
「どれ?」
「最後のやつ。目もう少し閉じて」
「話逸らした」
綾乃がすぐに言った。
「逸らしてない。文化祭の準備だ」
「朝からそこだけ進めなくていいから」
環は面白がってそのままヴァシリオスに付き合い始めた。
千綴はもう一度何か聞こうとしたが、その前に予鈴が鳴った。
教室の空気が一斉に動く。立っていた生徒たちが席へ戻り、机の間にできていた小さな輪も崩れていった。
「続き、あとでね」
環が自分の席へ向かいながら言う。
「何の?」
「エレディトの話」
「忘れていいよ」
「無理」
環は笑っていた。
前の扉が開き、出席簿を手にした山田先生が入ってくる。教室の話し声が少しずつ収まり、生徒たちが前を向いた。
朝のホームルームが始まった。
午前の授業の合間、廊下へ出ると、向こうから何人かの生徒が連れ立って歩いてきた。最近しばらく姿を見なかった顔も混じっている。
教室へ戻れば、今日も空席はいくつか残っていた。それでも、休み時間の話し声や人の行き来は、ここ数日より少しだけ増えているように感じられた。
昼休みになると、ヴァシリオスは財布だけ持って教室を出ていった。
「購買?」
環が聞く。
「今日は弁当だけじゃ足りない」
「最初から足りる量持ってくればいいのに」
「朝練したから予定より減った」
「何が減ったの」
「俺の中の何か」
意味の分からないことを言い残し、そのまま廊下へ消えていく。
千綴と綾乃は机を寄せ、環もそこへ椅子を引いてきた。少し遅れて、別のクラスから悠司が顔を出す。
「環、もう来て平気なのか?」
椅子を借りてきながら聞く。
「それ今日何回目だろ」
「俺は初めて聞いた」
「大丈夫。元気」
悠司は環の顔を見て、それ以上は続けなかった。
机の上へ弁当が並び始めた頃、ヴァシリオスが戻ってきた。片手にはパンの入った袋を提げている。
綾乃が袋を見て眉を上げた。
「それ全部食べるの?」
「食べる」
「弁当もあるよね」
「ある」
「購買で止められなかった?」
「むしろ勧められた」
ヴァシリオスは袋を机へ置き、椅子へ腰を下ろした。
「最近いる
「グー・イー?」
環が首を傾げる。
「グー・イー。中国の人らしい」
「らしい?」
「本人はそう言ってる」
悠司が袋の中身を見ながら、少し呆れたように言った。
「お前が毎回それだけ買うから覚えられてるんじゃないのか」
「たぶん顔覚えられてる。今日も『今日モ来タネ』って言われた」
「購買にそんな人いたっけ」
綾乃が考えるように言う。
「最近入ったんじゃない?」
「昼だけいるのかもな」
ヴァシリオスはあまり気にした様子もなく、パンの包装を開けた。
「今度見に行こうかな」
環が言う。
「買えよ。見に行くだけは駄目だろ」
「ヴァシリオスが買いすぎるから大丈夫じゃない?」
「俺で売上支えてるみたいに言うな」
そんな話をしながら、五人は昼食を始めた。
しばらくは文化祭の話が続いた。
綾乃は脚本の導入を考え始めているらしく、最初の部屋で何を見せるか迷っている。環は死体役の場所だけは妙に具体的に気にし、ヴァシリオスは音を大きくすれば怖くなると雑な提案をする。そのたびに綾乃が却下した。
千綴は弁当を食べながら、実際の教室配置を頭の中で思い浮かべていた。
まだ必要な物も、役割も、細かい流れも決まっていない。
決まったばかりなのだから、それで普通だった。
「そういや」
パンを一つ食べ終えたところで、ヴァシリオスがスマートフォンを取り出した。
「昨日の火事、これ見たか?」
「新辺の?」
悠司が聞く。
「そう。前に言ってた廃墟のやつ」
画面を操作し、机の中央へ向ける。
映っていたのは夜の街並みだった。遠くの建物らしき影の向こうで、一瞬だけ白っぽい光が走る。撮影している側が驚いたらしく、すぐに映像が大きく揺れ、そのまま切れた。
「これ何?」
環が顔を寄せる。
「謎の発光」
「本物?」
「知らん」
「知らないんだ」
綾乃が画面から顔を上げる。
「SNSに上がってた。こっちは火事の少し前にドンって音聞いたってやつ」
ヴァシリオスが別の投稿を開く。
短い文章の下に、暗い空を撮った写真が添えられている。その次には、別の角度から撮られたらしい動画。そのさらに下には、雷だった、変電設備だ、爆発だと、書いてあることがばらばらだった。
「というか、SNSの話を全部そのまま信じない方がいいでしょ」
綾乃が画面を見ながら言う。
「本当の目撃もあるかもしれないけど、違う動画とか、適当に言ってる人も混ざってるだろうし」
悠司も画面から目を離し、自分の弁当に視線を戻した。
ヴァシリオスは気にした様子もなく、投稿をいくつか見比べている。
「でも、廃墟だぞ」
「うん」
「火事だろ」
「うん」
「その前に爆発みたいな音がして、空も光った」
指を折りながら数え、最後に顔を上げた。
「これはもう霊的存在だろ」
「どうして全部足したらそこに行くの」
綾乃が即座に言う。
「条件が揃ってる」
「何の条件?」
「怪奇現象の」
「幽霊って爆発するの?」
環が真顔で聞いた。
「するかもしれない」
「知らないんじゃん」
悠司が小さく息を吐いた。
「火事なら何か破裂することくらいあるだろ。光だって、電気かもしれないし」
「夢がないな、悠司」
「現実の話してるからな」
千綴は会話を聞きながら、もう一度スマートフォンの画面を見た。
映像が本当にあの建物を撮ったものなのかは分からない。時刻も、場所も、投稿者の説明だけでは確かめようがない。
ただ、あの夜、大きな音がしたことも、強い光が走ったことも知っている。
SNSに流れている話の全部が嘘とは限らない。
同じように、全部が本当であるはずもなかった。
「最近、新辺ほんと色々あるね」
環が言った。
「体調崩した人も多かったし、今度は火事だし」
「人の出入りも多いからな、あの辺」
ヴァシリオスが言う。
「駅前も前より人増えてるし」
「市も大変そうだな」
悠司がそれだけ返した。
そこで話は途切れた。
原因を考えるような空気にはならなかった。ヴァシリオスはすぐに次のパンを開け、綾乃はその量にまた何か言い始める。
千綴も箸を進めた。
午後の授業が終わると、教室の後ろで何人かが机を寄せ始めた。
文化祭の準備といっても、まだ大きく何かを作る段階ではない。黒板の端には必要になりそうな物を書いた紙が貼られ、別の机では役割分担をどうするか話している。
環も席を立って綾乃のところへ移り、広げたノートを二人で覗き込んでいた。
「ここで一回、客を止めたいんだよね」
「前振りの部屋?」
「うん。説明を聞いてから次に行く感じ」
千綴は鞄を肩へ掛けながら、その横からノートを覗いた。
文章というより、まだ場面の順番と簡単なメモが並んでいる段階だった。
「可動壁の位置、先に見た方がよくない?」
「やっぱりそう思う?」
「使える幅で話変わるでしょ」
「じゃあ明日見ようかな」
教室の隅では、ヴァシリオスが余った段ボールを持ち上げ、何か作れないかと勝手に試している。
「それ捨てるやつじゃない?」
環が聞く。
「使える」
「何に」
「まだ分からん」
千綴は笑いながら時計を確認した。
「私、生徒会行ってくる」
「いってらっしゃい」
綾乃がノートから顔を上げる。
教室を出ると、廊下の向こうでも同じように何人かが集まっていた。文化祭の話が、少しずつ放課後の校舎へ入り込み始めている。
決めるだけだった段階から、少しずつ手を動かす段階へ移りつつあった。
生徒会室では、鈴が机の上に申請書を広げていた。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
千綴が席へ着くと、鈴は手元の紙を一度揃えた。
「今日は大丈夫ですか?」
「うん。昨日ちゃんと寝たから」
「ならよかったです」
確認はそれだけだった。
千綴も鞄を置き、机の上の申請書へ目を向けた。
「昨日、何か変わったことあった?」
「特には。会長にも確認してもらいながら、いつもどおりです」
「そっか」
鈴から書類を受け取り、備品貸出の希望数と教室使用の申請を見比べる。必要なところへ印をつけていると、少しして悠司も入ってきた。
「お疲れ」
「お疲れ」
悠司は自分の席へ鞄を置き、そのまま机の上の書類を取った。
千綴も手元の申請書へ目を戻し、いつものように確認を進めていった。
気づけば窓の外の光が傾き始めていた。
千綴は時計を見て、手元の一枚をファイルへ戻す。
「じゃあ、今日はこの辺で上がるね」
「はい。お疲れさまです」
机を整え、鞄を持つ。
丘平商店へ入ると、いつもの店内放送と冷蔵棚の低い駆動音が耳に入った。
「お疲れさまです」
「来たか」
レジにいた巴が顔を上げる。
千綴がバックヤードへ向かおうとすると、短く呼び止められた。
「その前に」
「はい」
「今日は大丈夫なんだな」
「大丈夫です」
「寝たか」
「寝ました。ちゃんと」
巴は数秒、千綴の顔を見た。
「ならいい」
それからレジ横へ身体を預け、少しだけ眉を寄せる。
「この前のことだけどな」
千綴も立ったまま向き直った。
「似たようなこと、これで三回目だろ」
「……はい」
「最初の一回は仕方ない。何が起きてるのかも分からなかったしな」
巴はそこで一度言葉を切った。
「それに、前よりはましになってる。連絡もするようになったし、何でも一人でやろうとはしてない。それは分かってる」
「はい」
「でも、少しずつましになってるからって、無茶していいわけじゃない」
千綴は黙って聞いた。
「必要なら動け。そこまで止める気はない。ただ、『また無茶した』で済ませるのを当たり前にするな」
「……はい」
「心配する側のことも、少しは考えろ」
千綴が素直に頷くと、巴もそれ以上は言わず、店の奥を指した。
「分かったなら着替えてこい。飲料の棚、補充残ってる」
「分かりました」
「返事はいいな」
「ちゃんとやります」
「なら働け」
千綴はバックヤードへ入り、制服の上からエプロンを着けた。
戻ると、いつもの仕事が待っていた。
空いた棚へ商品を補充し、レジへ入り、常連客に新商品の場所を聞かれる。段ボールを開けて在庫を確認し、足りなくなった袋を補う。
「千綴ちゃん、これ新しいやつ?」
「今日入ったみたいです」
「じゃあ一個もらおうかな」
「ありがとうございます」
客が出入りするたび、外の冷えた空気が一瞬だけ店内へ入り、入口近くの小さな値札が揺れた。
閉店までの時間は、いつものように過ぎていった。
「お疲れ」
「お疲れさまでした」
店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
千綴は上着の前を閉じ、商店街を歩き出す。昼間より冷え込みが強くなり、道路を走る車の音もどこか遠く感じられた。
店の明かりはところどころ残っているが、すでにシャッターを下ろした店も多い。
交差点まで来たところで、千綴はふと歩みを止めた。
新辺の方角へ目を向ける。
遠くに街の明かりが重なり、その上に夜空が広がっている。
冷たい風が頬を撫でた。
千綴はしばらく眺めてから、視線を前へ戻した。
そして、家へ向かって歩き出した。