乾いた葉を踏むたび、足元で小さな音がした。
歩道の端に寄っていた落ち葉は、風に押されてあちこちへ散っている。千綴が坂を上っているあいだにも、茶色く丸まった葉が何枚か、舗装の上を擦るように転がっていった。
コートの襟元へ少し顎を寄せる。
吐いた息が白い。
朝日はもう出ているのに、頬に触れる空気は冷たいままだった。少し先を歩く生徒の中にも、マフラーを巻いた者や、両手をポケットへ入れたまま歩く者が目立つ。
坂の上まで来たところで、千綴は足を止めて振り返った。
今上ってきた道が、丘平の街の方へ長く下っている。家々の屋根が朝の光を受け、その向こうまで視線を伸ばすと、遠くに山の稜線が見えた。
山肌には赤や黄がまだ残っている。ただ、少し前のような鮮やかさはなく、茶色の混じる場所が増えていた。葉を落とした木がまとまっているのか、ところどころ色の薄い斜面も見える。
千綴は山から目を離し、校門へ向かった。
あの夜のあと、警察で事情を聞かれたのは一度だけだった。環を探しに出たこと、見つけた時の状況、分かる範囲の経緯。それだけを確認され、あとの処理は直嗣たちの側で進められている。
数日前には、直嗣から短い連絡も来ていた。
環の拉致と監禁については、西園寺家への説明も済み、それで一区切りになるらしい。
昇降口へ近づくと、入口脇の掲示板に文化祭のポスターが増えていた。校内へ入ってからも、廊下の壁には色紙や模造紙が貼られ、階段の踊り場には作りかけの看板が立てかけてある。
千綴は上履きへ履き替え、教室へ向かった。
扉を開けると、綾乃がすでに来ていた。
自分の席でノートを広げ、そこへ何か書き込んでいる。
「おはよう」
「おはよ。今日はちづるより早かった」
「珍しいね」
「失礼だなあ」
綾乃は笑いながらペンを止めた。
「昨日の続き?」
「うん。導入の台詞を少し直してた」
ノートには文章が何段かに分けて書かれ、その横に間を取る場所や、札を渡すタイミングらしい印が入っている。
「今日、実際に読むんだよね」
「そのつもり。聞きづらいところがないか見たいし」
「分かった。放課後は生徒会から戻ったら合流する」
「じゃあ、それまでに床の線は引いとくね」
「お願い」
千綴が鞄を置くと、綾乃はノートを少し持ち上げた。
「昨日言ってたやつ、これでいくつもり」
「
「そう。今日は一回通して、誰が読んでも変にならないように調整したい」
「じゃあ客側で聞いてる」
「お願い」
千綴が返すと、綾乃は満足そうにノートへ視線を戻した。
少しして予鈴が鳴り、教室の中に散っていた話し声が落ち着いていく。
千綴も教科書を出した。
休み時間になると、模造紙を抱えた生徒が廊下を通り、別の教室からは段ボールを切る音がする。昼休みには、廊下の端で看板へ色を塗っている生徒もいた。
それでもチャイムが鳴れば席へ戻り、授業が始まる。
最後の授業が終わる頃には、窓から差し込む光がずいぶん低くなっていた。
終礼が済むと、教室の空気が一気に動き出す。
机を動かす者。廊下へ材料を取りに行く者。部活へ向かうため急いで鞄をまとめる者。
千綴は鞄を持ち上げ、綾乃へ声をかけた。
「先に生徒会行ってくるね」
「うん。こっちは始めてる」
「戻ったら呼んで」
「ちゃんと働いてもらうから」
「客役でしょ」
「最初はね」
近くで環が狐面を手にしていた。
「私は先に寝る場所見とく」
「まだ寝ないでよ」
「死体役なんだから必要でしょ」
「位置だけね」
綾乃が言うと、環は「分かってる」と気の抜けた返事をした。
ヴァシリオスはその横で、別の面を顔へ当てている。
「それ見える?」
千綴が聞く。
「正面はな」
「横は?」
「ちょっと狭い」
「じゃあ飛び出す位置、あとで見た方がいいね」
「俺は大丈夫だ」
「客が大丈夫じゃないかもしれないでしょ」
綾乃がすぐに返す。
千綴は二人のやり取りを聞きながら教室を出た。
生徒会室へ向かう途中、連絡通路の窓から差し込む夕方の光が床へ長く伸びていた。
別館へ入ると、廊下の先から何かを運ぶ音が聞こえた。
生徒会室の扉を開ける。
「お疲れさまです」
鈴が机の向こうから顔を上げた。
「お疲れ」
悠司は届いた箱のそばに立ち、一覧表と中身を見比べている。
「そっちは?」
千綴が聞く。
「借りた備品。今、数だけ確認してる」
「足りてる?」
「今のところは」
「じゃあ、そのままお願い」
「了解」
千綴は机の中央へ置かれたポスターの束へ目を向けた。
「鈴、こっち一緒に見てもらえる?」
「はい」
二人で向かい合い、束の上から順番に確認していく。
「これは送る方です」
「うん。そっちで」
「こっちは手渡しですね」
「じゃあ、そっちへ」
鈴が横の束へ移した。
「丘平商店の分、あった?」
「あります。これです」
鈴が一枚差し出す。
「ありがとう。次に行く時、私が持っていく」
千綴は丘平商店の分だけ、自分の鞄の脇へ置いた。
残りも同じように確認していく。
悠司が箱を閉じた。
「こっちは全部あった」
「じゃあ一覧、そこに置いといて」
「はいよ」
千綴は最後の数枚を確認し、鈴と一緒に配布先ごとの束を揃えた。
机の上が片づいたところで時計を見る。
「私、そろそろクラス戻るね」
「はい。こっちは片づけておきます」
「ありがとう」
悠司も手を上げる。
「じゃあ、また明日」
「うん。お疲れ」
千綴は丘平商店分のポスターを持ち、教室へ戻った。
教室では、すでに机と椅子の多くが壁際へ寄せられていた。
床には養生テープで何本か線が引かれている。
入口側から伸びた線は途中で曲がり、その先に少し広い場所を作っていた。別の線は壁沿いを回り、客が通る場所とは分けられている。
数人のクラスメイトが床へテープを貼り、別の生徒たちは段ボール板を立てていた。黒い布を掛ける位置を確認している者もいる。
「おかえり」
綾乃がノートを片手に近づいてくる。
「ただいま。結構進んだね」
「とりあえず導入側だけ。奥はあとで組み直す」
「じゃあ、どこから見る?」
「まず歩いてみてほしい」
「分かった」
千綴は鞄とポスターを邪魔にならない場所へ置き、入口側へ回った。
まだ教室は明るく、段ボールの向こうまで見通せる。
最初の曲がり角を抜け、導入を聞くために広く取った場所へ入る。
千綴は一度止まった。
「ここ、狭くない?」
「だよね」
綾乃も客側の線と、その外を通るスタッフ用の線へ目を落とした。
「二、三人止まると、外側と近くなりそう」
「じゃあ、二、三人入ってみて」
綾乃が周りへ声をかける。
近くにいたクラスメイトが二人入り、客役として並んだ。別の一人が外側の線を歩く。
「ちょっと当たりそう」
「だね」
線を引いていた生徒が、その場でテープを剥がした。
「こっち広げる?」
「少し広げよう」
千綴も一歩ずつ位置を確認する。
段ボール板も合わせて少し動かされた。
もう一度歩いてみる。
「今の方がいい」
「外側は?」
スタッフ役の生徒が通ってみる。
「これなら大丈夫」
「じゃあ、ここはこれでいこう」
綾乃がノートのラフ図へ印をつけると、次の角を見ていたクラスメイトへ声をかけた。
「そっちの角、少しだけこっちへ寄せてみて。今の幅に合わせたい」
「このくらい?」
「うん、一回それで見よう」
床のテープが貼り直され、その横で段ボール板の位置も少し動く。
導入側の幅が決まると、綾乃がノートを閉じた。
「じゃあ、次は導入を一回通してみようか」
千綴へ小さな台を示す。
そこには試作用の札とペンが置かれていた。
「最初から名前を書くところまで、客役でやってみてくれる?」
「うん」
千綴が椅子へ座る。
厚紙を切っただけの札には、
綾乃は少し離れたところへ立ち、息を整えた。
普段より低い声になる。
「みなさん、ようこそいらっしゃいました」
教室の話し声が、周りで少しずつ静かになった。
「この先にあるのは、地図には載っていない小さな社です」
綾乃は急がず、言葉の間を取る。
「昔からこの土地には、こんな言い伝えがあります――」
一拍置く。
「行き場を失った魂は、自分の名前を思い出せなくなる。名前を失った魂は、この世からもあの世からも弾かれて、ただそこに留まり続けるしかない」
千綴は手元の札へ視線を落とした。
作り話だと分かっている。
それでも、名前を失う、という言葉だけは少し耳に残った。
「けれど、この社に来れば、しばらくの間だけ誰かの名前を借りることができる。名前を借りた魂は、ようやく人の形を保って、社の奥へと進むことができるのです」
綾乃が札へ視線を向ける。
「これは『仮名札』と呼ばれるものです。どうぞ、ご自身の名前をここに書いてください」
千綴はペンを取った。
弥生千綴、と書く。
綾乃は、千綴が書き終えるまで黙って待った。
「――ただし、これはあなたの名前であると同時に、今日だけ誰かに借りられる名前でもあります」
千綴がペンを置く。
「社の中では、名前を失ったものたちが、あなたの名を頼りに近づいてくるかもしれません」
少し離れたところで、面をつけたヴァシリオスがこちらを向いた。
明るい教室の中では作り物だと分かる。それでも、表情のない面がこちらを向くだけで、さっきまでより話の雰囲気が出る。
「怖がらず、ただそのお札を大切に持っていてください。それさえあれば、あなたは『帰る場所のある者』として、最後まで進むことができます」
綾乃は面をつけた生徒たちの方へ手を向けた。
「案内をするのは、社に仕える者たち。彼らは既に名前を失った身ですので、お顔を見せることができません。どうぞ、彼らの案内に従って、奥へお進みください」
最後に少し間を置く。
「――さて、あなたの名前は、今夜だけ誰かの役に立つかもしれません。それでは、社の中へどうぞ」
綾乃が声を戻した。
「どうだった?」
「ちょうどいいと思う。名前を書く時間もあるし、これ以上長いと少し間延びしそう」
「じゃあ、この長さでよさそう?」
「うん。書くのを急かさなければ大丈夫そう」
「分かった」
近くで時間を見ていたクラスメイトも頷き、何かをメモした。
綾乃は次の確認へ移る。
「じゃあ今度は、札を使うところまでやってみよう」
面をつけた案内役が所定の場所へ入る。
千綴は仮名札を持ったまま、テープの線に沿って進んだ。
最初のところで立ち止まり、札を差し出す。
案内役は一度札を受け取り、名前へ目を落としてから千綴へ返した。
「このくらい止まる?」
綾乃が聞く。
「一人なら気にならない」
「もう少し人数入れてみようか」
環と、近くにいたクラスメイトが客役へ加わった。
三人で同じ場所へ入る。
導入を聞いている間は気にならなかったが、名前を書こうとすると、腕の動きが少し窮屈になる。
「ここ、もう少し離した方がよさそう」
千綴が言う。
「椅子?」
「うん。横の人と肘が当たりそう」
近くのクラスメイトが椅子を少しずらす。
「これくらい?」
「もう一回座ってみる」
三人で座り直す。
「今なら大丈夫」
「三人でこれなら大丈夫そうだね。四人以上は分けるし」
「うん」
「じゃあ、その位置控えといて」
綾乃が言うと、床の位置を見ていた生徒が寸法を確かめ、手元のメモへ書き込んだ。
導入側の確認が済むと、試作用の札をまとめる。
千綴も加わって床のテープを剥がし、段ボール板をいったん壁際へ戻した。
綾乃がラフ図を開く。今度は後半側の配置に合わせて、何人かで線を引き直し、段ボール板を立て直していく。
作業を終える頃には、窓から差し込む光がさっきより低くなっていた。
後半側には、導入側より多くの曲がり角が作られた。
客が歩く線の外を、スタッフ用の線が回っている。
千綴はまず明るいまま一周した。
スタッフ用の通路へヴァシリオスが入った。
「通れるぞ」
「横向いてるじゃん」
環が言う。
「通れればいいだろ」
「面つけて、その向きで毎回通るの?」
千綴が聞く。
「……少し狭いな」
「やっと認めた」
近くにいた生徒が段ボール板へ手を掛ける。
「ここ、少し動かす?」
「客の通る方が狭くならないなら」
千綴も客側へ戻り、幅を確認する。
板を少し寄せたところで、両方から歩いてみた。
「これならいいと思う」
スタッフ側にいた生徒も頷く。
位置が決まると、床のテープが貼り直された。
次に窓側へ黒い布を掛ける。
教室の中が少しずつ暗くなった。
完全な暗闇にはならない。布の端や扉の隙間から、夕方の光が細く入っている。
床近くには、小型の照明がいくつか置かれた。
赤みのある弱い光が、通路だけをぼんやり照らす。
「一回、これで歩いてみて」
綾乃に言われ、千綴は入口へ戻った。
仕切りの向こうで小さな扇風機が回り始める。
数歩進むと、足首へ弱い風が触れた。
さらに奥へ入ると、空気にわずかな香りが混じる。
香を思わせる匂いだった。
「匂い、分かる?」
仕切りの向こうから綾乃の声がする。
「ここまで来ると分かる」
「強すぎない?」
「今くらいなら」
「了解」
そのまま角へ近づく。
曲がる前に、赤い光の端へ白いものが見えた。
千綴は足を止めた。
「ヴァシリオス」
「何だ?」
「面が見えてる」
「まだ出てないぞ」
「出る前から見えてるってこと」
仕切りの向こうで何人かが動く。
照明の向きを少し変え、ヴァシリオスも立つ位置を下げた。
「もう一回、同じところまで戻って」
「分かった」
千綴は数歩戻る。
同じところまで進む。
今度は、角の手前では何も見えない。
曲がった瞬間、横から狐面が現れた。
「わっ」
身体が反射的に止まる。
「今のはどうだ?」
ヴァシリオスがすぐ聞く。
「びっくりした」
「だろ」
「でも近いから、大声はいらないと思う」
綾乃が横から言う。
「声はなし?」
「まずは出るだけで十分じゃない?」
「分かったよ」
ヴァシリオスは少し不満そうだったが、今度は素直に位置へ戻った。
さらに進む。
次の区画では、環が壁際に横たわっていた。
赤い光が身体の一部だけを照らし、顔の上側は影に沈んでいる。
以前、教室で何度か見た姿勢なのに、暗さの中では印象が変わった。
千綴は近くまで進み、そこで止まる。
「……これは結構怖い」
環は動かない。
そのまま数秒。
「環、もういいよ」
綾乃が声をかける。
環が目を開いた。
「どうだった?」
「動かない方がいい」
「動かないのは得意」
「前にも練習してたもんね」
ヴァシリオスが言う。
「まだ言う?」
環が起き上がる。
その後も、人数や歩く速さを変えながら何度か通り直した。
「さっきの導入、一分半くらいだった」
時間を見ていたクラスメイトが言う。
「じゃあ、前の組がヴァシリオスのところを抜けたら、次を導入に入れる感じ?」
「そのくらいを基準にしてみよう」
前の組が止まる場所では、次を入れる間隔も少し広げてみる。時間を見ていたクラスメイトが、その差を記録した。
「ここは無理に広げなくてもいいかも」
千綴が言う。
「交代するときだけ、すれ違わないように順番決める?」
「それなら客の方を狭くしなくて済むね」
「じゃあそれで試そう」
綾乃は近くの担当へ伝え、ノートへ小さく印をつけた。
照明の向きは別の生徒が調整し、風の位置は扇風機を置いていた二人が少しずつ変える。
最後に出口側まで抜けると、時間を見ていた生徒が綾乃へ何か伝えた。
綾乃はそれをノートへ書き込み、その日の確認を切り上げた。
窓の布を外した頃には、外はすっかり暗くなっていた。
照明を箱へ戻し、扇風機の電源を切る。
段ボール板を壁際へ寄せ、養生テープを床から剥がしていく。
何人かで机と椅子を元へ戻すと、さっきまで迷路の形をしていた教室が、少しずつ普段の姿へ戻っていった。
「これ、こっちでいい?」
環が机を押しながら聞く。
「もう少しそっち」
近くにいたクラスメイトが答える。
「ここ?」
「うん、そこ」
ヴァシリオスは面を外し、使った段ボールを重ねている。
「俺の場所、次もあそこでいいだろ」
「今の位置なら先に見えないし、そこでいいと思う」
綾乃が答える。
「ほら」
「最初は丸見えだったけどね」
環が言う。
「灯りのせいだ」
「まだ言ってる」
千綴は最後の椅子を戻し、壁際に置いた鞄を取った。
その時、机の端に置いたままの試作用の仮名札に気づく。
「あ」
「どうしたの?」
綾乃が振り向く。
「これ、持って帰っていい?」
千綴は札を見せた。
自分の名前がそのまま残っている。
「いいよ。本番も持って帰ってもらうつもりだし」
「じゃあ、もらってく」
千綴は札を鞄へしまった。
教室を出る頃には、廊下の窓も黒くなっていた。
昇降口で靴を履き替え、外へ出る。
朝よりさらに冷たい空気が頬へ当たった。
「寒い」
綾乃がコートの前を閉じる。
「朝より冷えてるね」
「手袋、そろそろ出そうかな」
「もう手袋かあ」
「朝も寒かったしね」
少し後ろでは、環とヴァシリオスがまださっきの演出について言い合っている。
千綴もコートの前を閉じた。
校門を出ると、坂の下に街の灯りが見えた。
朝には色まで見えていた山は、今は遠くに暗い輪郭だけを残している。
風が抜ける。
歩道の端に集まっていた落ち葉が、乾いた音を立てて一斉に転がった。