坂を上る途中から、いつもの朝とは違う荷物が目についた。
紙袋を抱えた生徒や、段ボールを二人がかりで運ぶ生徒に混じって、長い筒を肩に掛け、坂の途中で持ち替えている生徒もいた。
校門の前では、教師が案内板の向きを直していた。その横を、立て札や荷物を抱えた生徒が行き来していた。
千綴はその脇を抜け、昇降口へ入った。
校舎の中には、机を引く音や呼び合う声が重なっていた。廊下の壁には色とりどりの案内が並び、階段の手前には上り下りを分ける矢印が貼られている。
紙や布の匂いに混じって、どこかから食べ物の匂いも流れてきた。
三階の廊下へ出ると、自分たちの教室の前には《名残の社》の看板が掛かっていた。
教室へ入ると、受付用の机と待機スペースがあり、その奥に黒布で仕切られた企画入口が見える。千綴はそこを抜け、導入を行う場所へ向かった。
「おはよ、ちづる」
導入用の机では、綾乃が台本を広げていた。
「おはよう。もう見てるの?」
「仮名札の準備と、あと受付の声。ここで読んでる時にどのくらい聞こえるか」
机の上には、仮名札と筆記具がまとめて置かれていた。綾乃の横では、クラスメイトが仮名札の束を揃えている。
千綴も鞄を置いた。
二つの教室を使った《名残の社》は、昨日までに形になっている。企画入口の先では窓が黒布で覆われ、赤みを帯びた弱い足元灯だけが残っていた。隣の教室へ続く通路も暗がりの中へ沈んでいる。
窓際を見ると、黒布の端から細い光が差し込んでいた。
「ここ、光漏れてる」
千綴が近づき、布を確かめる。
「上、緩んでるね。下は押さえてるから、上お願い」
「分かった」
クラスメイトが椅子へ上がり、留め直す。光の筋が消えると、足元灯だけが残った。
通路を一度歩いた別のクラスメイトが、肩に触れた布をつまんだ。
「この布、肩に当たるから、もう少し上げた方がいいかも」
布の端を持ち上げ、留める位置を少し変える。
送風機の電源を入れると、布の裾がわずかに揺れた。
大きく直すところはない。細かな確認を終えたところで、環が教室へ顔を出した。
「おはよ。もう合わせる?」
「うん、これ終わったら」
環は荷物を教室の端へ置き、自分の位置を確かめる。
「じゃあ一回合わせたら、私は行くね」
「うん」
その少しあとにヴァシリオスも来た。
「おはよう」
「おう」
ヴァシリオスは教室に置いてあった面を手に取り、そのまま確認に加わった。
受付から中の演者までそれぞれが位置につき、客役の生徒を一度通す。途中で大きく止まるところはなく、最後まで流れを確認できた。
「これなら大丈夫そうだね」
千綴が言うと、綾乃も頷いて台本を閉じた。
環は荷物を取り、皆に軽く手を振って教室を出た。ヴァシリオスも面を元の場所へ戻し、少し遅れて教室を出る。
残った生徒たちは、それぞれの持ち場へ戻っていった。
千綴は受付の机へ回り、案内に必要なものを整える。綾乃も台本を導入用の机へ置き、位置についた。
廊下のざわめきが少しだけ小さくなったところで、校内放送のチャイムが鳴った。
『皆さん、おはようございます。お待たせしました。ただいまより、本年度の文化祭を開始します。本日は保護者の皆様、地域の皆様にもご来校いただいています。校内では各クラス、部活動による展示や企画を行っています。どうぞ最後までお楽しみください。生徒の皆さんも、準備してきた成果を思いきり発揮してください。それでは、文化祭スタートです!』
放送が終わるのと前後して、廊下の向こうから足音と話し声が近づいてくる。
千綴は受付の椅子に腰を下ろした。
少しして、最初の客がやって来た。
看板の前で足を止めた客を、千綴が受付から迎える。
「こちらからどうぞ。足元、暗いので気をつけてください」
二人は待機スペースを抜け、黒布の向こうへ入っていく。
少しして、企画入口の向こうから綾乃の低い声がかすかに届いた。導入が始まったのだと分かる。
やがて、声の合間に客の短い返事が混じった。
中から合図が来る。
その頃には、廊下を歩いていた別の二人が看板の前で足を止めていた。
「ここ、ホラーハウス?」
「そうみたい」
「今、入れます?」
「どうぞ、お入りください」
二人を中へ送り出す。
しばらくは、ぽつぽつ客が来る程度だった。
先に出てきた客が「思ったより怖かった」と連れに話している。聞いた方は半信半疑の顔をしながら、そのまま入口へ向かってきた。
そんな中、見覚えのある姿がこちらへ向かってきた。
「あ、弥生先輩」
「鈴」
鈴の隣には、制服姿の女子生徒がいる。
「いらっしゃい」
「はい。かなり雰囲気出てますね」
鈴が看板から入口へ視線を移す。
「中はもっと暗いよ」
「それ、安心していい情報ですか?」
「どうだろう」
隣の女子生徒が小さく笑った。
「鈴、こういうの苦手だった?」
「苦手ではないです。得意でもないですけど」
「じゃあ、ちょうどいいかも」
「何がちょうどいいのか分からないです」
鈴たちの前の組が奥へ進む。
「今なら入れるよ」
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
二人の背中が暗がりへ消えていった。
客足は、そこから少しずつ途切れにくくなった。
案内している間にも次の客が来て、受付の奥の待機スペースに人が残るようになった。
四人で来た客には、千綴が入口で声を掛けた。
「中の通路が狭いので、二人ずつでお願いします」
四人は顔を見合わせ、その場で短く相談を始めた。じゃんけんまで挟んで、ようやく先に入る二人が決まる。
「では、先のお二人からどうぞ。お二人は少しだけこちらで待ってください」
「はい」
後の二人は受付の奥の待機スペースへ移り、順番を待つ。
パンフレットを手にした一般の来場者も、廊下を行き来していた。
案内を終えて受付へ戻ると、腕章をつけた悠司が前まで来ていた。
「お疲れ」
「お疲れ。もうこっちまで来たんだ」
「ああ」
悠司は受付の奥と、廊下側の様子を軽く見渡した。
「今のところ大丈夫そうだな」
「うん。特に問題ないよ」
悠司は《名残の社》の入口へ目を向ける。
「俺もあとで入ってみようかな」
「その頃には今より混んでるかもよ」
「まあ、その時はその時だな」
千綴が笑うと、悠司も肩をすくめた。
「じゃあ、また後で」
「いってらっしゃい」
悠司はそのまま廊下の先へ向かった。
入れ替わるように、また新しい客が受付へ来る。
「三人です」
「順番になったら案内しますので、奥の待機スペースでお待ちください」
三人に待機スペースへ入ってもらう。前には、すでに一組が待っていた。
少しして、中から合図が来る。
「お待たせしました。どうぞ」
先に待っていた一組を送り出す。
もう一度合図が来たところで、千綴は三人へ声を掛けた。
「お待たせしました。三名様、どうぞ」
三人が企画入口の奥へ入っていく。
そのあとも受付へ来る人は途切れなかった。
やがて、次の担当が教室へ戻ってくる。
「交代しようか」
「お願い。今待ってる組を案内したら、次からお願い」
「分かった」
次の合図を待ち、千綴は待機していた客を送り出した。
「じゃあ、お願い」
「うん」
受付を譲り、千綴は羽織を外して荷物をまとめる。
その間にも、企画入口の向こうから綾乃の声が聞こえていた。しばらくしてその声が止まり、客が奥へ進んでいく。
少し間を置いて、綾乃が導入側から出てきた。台本は導入用の机に置いたまま、荷物だけを手に取る。
「思ったより喋るね、これ」
喉元へ手を当てる綾乃に、千綴が笑う。
「お疲れ」
「ちづるも」
二人で教室を出る。
「じゃあね」
「うん」
綾乃と別れ、千綴は階段へ向かった。
校門では、会長が受付の脇で来場者へパンフレットを渡していた。
「お疲れ。人、増えてきたね」
「そうですね」
千綴は差し出された腕章を受け取り、腕に通した。
昇降口へ向かうと、パンフレットを開いた女性が千綴の腕章を見て声を掛ける。
「すみません、文芸部の展示ってどちらですか?」
「別館の二階です。ここから別館に入って、階段を上がればありますよ」
「ありがとうございます」
「いえ、楽しんでいってください」
女性を見送って歩き出したところで、購買のカウンターに置かれた黒いノートが目に入った。
表紙いっぱいに金色の線が走り、中央には文字とも模様ともつかないものが描かれている。
「……これ、ノートですか?」
カウンターの向こうにいた店員が笑った。
「そうヨ。中、普通」
開かれたページには、ごく普通の罫線が並んでいる。
「外だけすごいですね」
「文化祭限定。名状シ難イ《ただの》ノート」
「その『ただの』、なんか含みがありますね」
「そこ大事ヨ」
千綴は店員の顔を見た。
――ヴァシリオスが言ってた店員、この人かな。
「副会長サン、一冊ドウ?」
「今は巡回中なので」
「逃ゲタネ」
「逃げてません」
何とも言えない顔のまま、千綴は購買を離れた。
階段を上っていく間にも、下りてくる人が次々と横を通り過ぎる。
何段か上ったところで、ふいに足の裏から支えが消えたような感覚がした。
反射的に手すりへ手を伸ばして足元を見る。けれど、足はきちんと段を踏んでいて、そこには何もなかった。
受付で長く座っていたせいかもしれない。
千綴はそのまま流れに戻った。
四階では展示の様子を見ながら廊下を進み、三階へ下りる。《名残の社》の前にはまだ人がいたが、足を止めるほどではない。
二階で鈴の教室の前を通ると、受付に立っていた鈴と目が合った。
「あ、弥生先輩」
「お疲れ。どう?」
「最初は大変でしたけど、少し慣れました」
鈴が笑う。
「そっか。頑張ってね」
「弥生先輩も」
千綴は手を上げ、その場を離れた。
そのあとも巡回を続けたが、特に問題はなかった。途中で立ち止まっていた来場者に道を教えた程度で、予定していた範囲を一通り回って校門へ向かう。
「おかえり。どうだった?」
「特に問題ありませんでした」
「了解。ありがとう」
千綴は腕章を外して会長へ返した。
エレディトは教室を出ると、廊下の明るさに目を細めた。
「エレディト、飯行こうぜ」
隣を歩くクラスメイトが声を掛ける。
「はい」
もう一人がパンフレットを開いた。
「食堂、混んでるだろうな」
「空いてなかったら、その時考えよう」
三人で廊下を進む。教室の前も階段の近くも人が多く、歩みは自然と遅くなった。
階段の手前で、エレディトは無意識に歩調を落とした。
人の流れの中に、妙な空白がある気がした。
目を向ける。
少し先を、一人の女性が歩いていた。
その女性が、ふいにこちらを見た。
「エレディト」
少し先から声がした。
二人はもう数歩先まで進んでいる。片方が振り返り、手を上げていた。
「置いてくぞ」
「あ、はい」
そちらへ顔を向け、すぐにもう一度女性のいた方を見る。
姿はなく、人の流れだけが続いていた。
「どうした?」
「……いえ。何でもないです」
「なら行こう」
「はい」
エレディトは二人に追いついた。
千綴が自分たちの教室へ戻ると、《名残の社》の受付の奥には、まだ何組か人が待っていた。
「どう?」
「大丈夫。朝より増えたけど、今のところ順調だよ」
「よかった。引き続きお願いね」
廊下へ出たところで空腹を覚え、まだ昼を食べていなかったことを思い出した。
悠司のクラスへ向かうと、入口には手書きの看板が出ている。「いらっしゃいませ」と声を掛けられ、千綴は空いている席へ案内された。
席について周囲を見ると、壁際に設けられた撮影スペースで、生徒たちが友人同士で写真を撮っていた。メニューへ目を戻したところで、トレーを持った悠司がこちらに気づいた。
「いらっしゃい。昼まだ?」
「うん。軽く食べたいんだけど、おすすめある?」
「ならこれかな」
悠司がメニューの一つを指したので、千綴はそのまま注文した。
運ばれてきた軽食を食べていると、仕事の合間に悠司が近くを通った。
「巡回、どうだった?」
「特に問題なかったよ」
「そっか。こっちは写真の方が人気ある」
悠司が壁際へ目をやる。何度も角度を変えながら撮っている生徒たちを見て、千綴もそちらを見た。
「大変そう」
「俺には分からん」
そう言って悠司はまた仕事へ戻っていった。
千綴はそのまま食事を終え、席を立つ。出口へ向かう途中で悠司と目が合ったので、軽く手を上げた。
「ごちそうさま」
「どうも」
そのまま教室を出て、別館へ向かう。
文芸部の展示では部誌が机いっぱいに並んでいて、千綴はその中から一冊を手に取った。
「これ、一冊ください」
「ありがとうございます」
代金を渡すと、薄い紙袋へ入れて渡された。
そのまま校舎を出て弓道場へ向かう。入口には見学する人と体験を待つ人が並び、環はちょうど体験を終えた参加者から弓を受け取ったところだった。
「ちづる、来たんだ」
「うん。ちょっと見に」
「ちょうど空いたよ。やってく?」
「私が?」
「体験会なんだからいいでしょ」
環の隣にいた女子生徒がこちらを見る。
「あ、副会長」
「ちづる、こっち穂乃香」
「芳賀穂乃香です」
――この子か。
「ああ、環から聞いてる。よろしくね」
穂乃香は軽く笑い、すぐに次の参加者から声を掛けられてそちらへ向き直った。
「じゃ、こっち」
環に促されて体験用の位置へ立ち、弓を受け取る。
「足、もう少し開いて。肩は上げないで」
「こう?」
「そう。無理に強く引かなくていいから」
千綴は言われた通りに構えた。足の向き、肩の高さ、腕の伸ばし方。そのどれかが少しずれるだけで、手の中の弓が落ち着かない。
「ゆっくり引いて」
弦を引くと、腕に力が掛かる。
的を見る。自分の立つ位置、手の中の弓、その先の矢と的。それぞれの位置が自然に意識へ収まった。
千綴は少しだけ腕の位置を直した。
――ここなら、当たる。
指を離すと、弦が鳴り、矢は的の中心へ突き立った。
「……当たった」
「ほんとに初めて?」
「初めてだよ」
環は的を見てから、千綴へ視線を戻した。
「初めてにしてはいいじゃん。センスあるんじゃない? 練習したら上手くなるかも」
「それ褒めてる?」
「褒めてる。もう何本かやってく?」
「せっかくだし」
そのあとも何本か試してみる。最初ほどきれいには決まらなかったが、何本かは的に当たった。
「弓道部入る?」
「生徒会あるし、そこまでは無理かな」
「そっか」
環は軽く頷いた。
次の参加者が待っているのを見て、千綴は弓を返す。
「じゃあ、行くね」
「うん」
紙袋を持ち直して弓道場を離れる。
グラウンドではキックターゲットが続いており、サッカー部員が参加者へ声を掛けていた。千綴は少しだけその様子を見てから、校舎へ戻る。
《名残の社》の前には、まだ客が途切れずに並んでいた。
校内放送で一般公開の終了が告げられると、廊下の来場者が出口へ向かい、《名残の社》でも片づけが始まった。
借りていた隣の教室では、黒布や仕切りが外され、机と椅子が元へ戻されていく。床を掃く音が続くうち、薄暗かった教室にも少しずついつもの明るさが戻ってきた。
ひと通り片づいたところで、体育館へ移動するよう声が掛かる。
体育館には、すでに多くの生徒が集まっていた。
「疲れた?」
千綴が隣の綾乃へ声を掛けると、綾乃は喉元へ手をやった。
「喉がちょっと。思ったより声使った」
「あれだけ喋れば疲れるよね」
「受付も結構喋ってたじゃん」
「まあね」
近くでは、環も肩を回していた。
「あの役、じっとしてる方が疲れた」
「それはありそう」
やがて前方が静かになり、短い挨拶のあと、司会の生徒が少し間を置いて教員有志を呼び込んだ。
先生たちが前へ並ぶと、体育館がざわつく。
「先生たちもやるんだ」
綾乃が小さく言った。
歌が始まると、普段とは違う先生たちの姿に生徒たちの間から小さなどよめきが起こった。曲が終わると今度は別の先生たちが前へ出て、ギターの音に手拍子が重なる。
最後の音が止まると、拍手が広がった。
教室へ戻ったあとは、残っていた小物を片づけ、忘れ物がないかを確認する。ひと通り終わったところで、山田が教卓の前に立った。
「大きな問題もなく終わった。準備から今日まで、よくやったと思う。隣の教室まで使った分、片づけも大変だっただろうけど、最後までちゃんと戻せてる。お疲れ」
教室のあちこちから、力の抜けた返事が返る。
「明日は休みだ。今日はちゃんと休め。月曜に忘れ物したとか、文化祭の疲れで寝坊したとか言うなよ」
笑いが起きた。
「じゃあ、解散」
教室を出る頃には、綾乃たちも帰り支度を終えていた。四人で昇降口へ向かうと、そこで悠司と合流する。
「そっちも終わった?」
「ああ。やっとな」
五人で校門へ向かう頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「先生たち、意外だったね」
綾乃が振り返る。
「あれはちょっとずるい」
環が笑う。
「何が?」
「普段あんな感じじゃない人まで前出てたじゃん」
「まあ、文化祭だからな」
悠司がそう返すと、綾乃が「それで済ませるんだ」と笑った。
「でも盛り上がってたよね」
千綴が言うと、ヴァシリオスも頷く。
「最後にあれはアリだな」
街灯の明かりが続く坂を、そんな話をしながら五人で下っていく。
途中で綾乃と悠司が別れ、少し先で環も手を振った。
残ったヴァシリオスとしばらく歩き、さらに道が分かれるところで足を止める。
ヴァシリオスが片手を上げた。
「じゃあまた月曜」
「うん。お疲れ」
「おう」
そこでヴァシリオスと別れ、千綴も一人になる。
家へ向かう道には、文化祭のざわめきとは違う、いつもの夜の音が戻っていた。
連鎖・共鳴《サプリ》編 完