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機内の照明は落とされていた。
窓の外には暗い空と、月明かりを受けた雲の広がりが見え、翼端の灯りが一定の間隔で瞬いている。
画面には、ライカー・スレイドの記録が表示されている。顔も骨格も覚えていた。写真だけで判断する必要もない。名前の下には、日本国内――継見市周辺で確認された断片的な目撃情報と、その後の死亡確認が並んでいた。
ライカー・スレイドは、私が殺した。あの傷で生きていられる人間など存在しないと判断したし、今でもその判断自体を軽率だったとは思っていない。それでも男は、その後も活動していた。
仕留め損ねたのなら、自分の失敗だ。そうでないのなら、あの時に何かを見落とした。苛立ちは残るが、それを引きずっても答えは出ない。
手元へ届いた情報だけでは判断できない。自分の目で確かめる必要があった。
隣の席では、乗客が毛布を肩まで引き上げて眠っている。双影は一度だけそちらへ視線をやり、そのまま端末へ戻して表示を切り替えた。
空港から新辺方面へ向かい、そこを拠点に現地を調べる。
今回調べていたのは、土地そのものではなく、自分が殺したと判断した後のライカーの足取りだった。いつ、どこで確認されたのか。継見市へ至るまでの経路には抜けが多く、拾えた記録だけでは繋がらない。
目を閉じると、最後に対峙した時の姿と、日本で確認された記録が順に浮かんだ。
繋がっていない部分は、現地で確かめる。
空港を出た頃には、空が白み始めていた。
双影は迎車の番号を確かめ、歩道脇に停まっている車へ向かった。運転手は予約画面を一度見てから顔を上げ、たどたどしい英語で名前を確認した。
「Sharon Lin?」
「Yes.」
今回使っている名前だった。
小さな荷物を持って後部座席へ乗り込むと、車はほどなく走り出した。双影は窓の外へ視線を向け、車線数や交差点、防犯カメラ、歩道と車道の間隔、路地へ抜けられる位置を順に拾っていく。知らない土地へ入る時には、そうしたものが自然と目に入った。
運転手はその後、特に話しかけてこなかった。双影も必要のない会話はしない。日本語は簡単なやり取りなら分かるが、細かな会話を続けるほどではなく、必要なら英語を使えばよかった。
進むにつれて住宅が増え、やがて駅周辺らしい建物が見え始めた。通勤途中らしい人間や制服姿の学生が歩き、店先では開店準備が進んでいる。事前に確認していた範囲から、大きく外れるものは見当たらない。
この街で、ライカーが確認されている。
双影は窓の外を見たまま、新辺へ入っていく道を頭に入れていった。
ホテルの部屋へ入ると、双影は施錠を確かめ、荷物を机の脇へ置いてからカーテンを開けた。
窓の向こうには新辺駅周辺の建物が広がっている。空港を出た頃より日は高く、駅前の道路では車が途切れず、歩道にも通勤客や学生の流れができていた。
道路の幅や交差点、裏道へ入る位置、防犯カメラの向きまで一通り確認すると、双影は机へ戻り、鞄から端末と薄い資料ケースだけを取り出した。
現地へ来るまでに集めた記録の大半は端末に入っており、自分が殺したと判断した後のライカーがいつ、どこで確認されたのかを、目撃位置や時刻、遠距離から撮られた写真、断片的な映像と重ねている。それでも情報は途切れていたため、まずは人の出入りが多く記録も残りやすい新辺駅周辺を拡大した。
双影は一枚の写真を開いた。距離と角度のせいで顔から本人だと断定するのは難しいが、肩の位置や重心の置き方には覚えがあり、過去に直接向かい合った時と同じ癖が粗い画像の中にも残っているぶん、文字情報だけで追うよりは使えた。
いくつかの地点を地図へ残し、双影は端末から目を上げた。
窓際へ戻ると、空港を出た頃より高くなった日差しが窓から斜めに入り、床へ落ちる光も朝方ほど長くは伸びていなかった。双影は窓に向いたまま、その光で背後の室内側へ伸びている自分の影へ目を落とす。
日の高さを考えれば、少し長い。
片足をわずかに動かすと影も動いたが、輪郭の端だけが身体とは違う方向へ伸び、すぐに元の形へ戻った。
双影はしばらくそれを見てから窓の外へ視線を戻した。ちょうど新辺駅へ電車が入り、ホームから吐き出された人の流れが歩道へ広がっていく。
確認する場所は決まった。
新辺に着いてからの数日、双影は駅前と大通りを起点に少しずつ範囲を広げ、手元の記録に残る目撃位置と現地の地形を照らし合わせていた。
記録の上では近く見える場所でも、実際に歩けば人の流れや死角は違う。駅前から一本外れただけで通行人が減る道もあれば、建物の出入口や防犯カメラの向き次第で、人目を避けやすい区間もある。写真に残っていた建物の看板や外壁が変わっていても、出入口の位置や隣接する建物との間隔までは大きく変わっていなかった。
ライカーらしき人物が確認された地点も、その一つだった。
双影は信号待ちの人波に混じり、道路の反対側から周辺を見た。目撃位置から駅へ戻る経路、裏道へ抜ける角、車を短時間停めても不自然ではない場所を確認し、信号が変わるとそのまま人の流れに沿って渡る。記録だけを見直すより、現地で動線を確かめる方が得られるものは多かった。
いくつかの地点を回るうち、出所の曖昧な情報と、少なくとも現地の状況には噛み合っている情報との差も見え始めていた。
別の日、駅から離れた倉庫や事業所の並ぶ一角へ入ったところで、焼けた建物が目に入った。
火災があったことは現地で知った。すでに消火は終わり、建物の周囲には立ち入りを制限する表示が残っているものの、消防車や人だかりはない。双影は歩調を変えずに前を通りながら、黒く煤けた外壁と塞がれた出入口を視界へ入れた。
手元にあるライカーの目撃記録とは結びつかない場所だったが、通り過ぎる途中で足元の影の輪郭がわずかに崩れた。
双影はそのまま進み、少し離れた自動販売機の前で立ち止まった。距離が開くにつれて影は元へ戻っていく。その変化だけで、影が反応する範囲は把握できた。
改めて建物の方を見る。外から分かるのは、ここで火災があったということだけだった。
それとは別に、足元の影はこの場所で何らかの異能が使われたことを示している。ただ、それ以上は分からない。
双影は端末を取り出し、位置だけを地図へ残した。ライカーと結びつける材料はないため、今は彼の足取りとは切り分けておく。
新辺で追っていた足取りとは別に、街の中へもう一つ気になる地点が増えた。
調査範囲を丘平へ広げた時、双影は手元に残っていた襲撃記録の場所へ向かった。
大きな通りから一本脇へ入った道だった。曲がって数歩進むだけで、背後の車の音が少し遠くなる。住宅は続いているが、道路に面した入口は少なく、通り抜ける車もほとんどない。少し進めばまた人の多い道へ出るため、その短い区間だけが周囲から切り離されたように人目が薄くなる。
記録では、ここで学生二人がライカーらしき男と遭遇し、一人が倒された。もう一人へ向かったところで第三者が駆けつけ、警察を呼ぶような声が上がった直後、男は姿を消している。
双影は記録に残る位置を過ぎても歩みを止めず、道幅と見通しを確かめた。前から来る人影はなく、背後を車が抜ける音もしない。数歩進んでから視線だけを先へ送り、どこまで相手を見通せるかを測る。
二人が大通り側から入ってきたなら、少し先で待つ位置はいくつかある。正面に立てば早く気づかれるが、進行方向からわずかに外れれば視界には入りながら、すぐには進路を塞がない。そこから二人のうち一人が視線を外した瞬間に距離を詰めるには、十分な幅があった。
過去に直接向かい合った時も、ライカーは相手の意識が外れる瞬間を逃さなかった。
先に倒されたのが標的ではなかったのなら、その一撃はもう一人へ向かうためのものだったと考えた方が自然だった。
双影は足を止めず、そのまま先へ進む。道の終わりに近づけば人通りのある場所へ戻り、反対側へ抜ける道もある。第三者が声を上げた時点で離脱を選んだとしても、不自然ではない。
その区間を抜ける頃、足元の影が一度だけわずかに形を崩した。古い異能痕跡が残っているが、それ以上のことは拾えない。
双影は歩調を変えなかった。ライカーがここにいた可能性は高く、残るのは、倒された方ではなくもう一人の学生を狙っていた理由だった。
そのまま人の流れへ戻った。
調査範囲を鏡峰方面へ広げた時、双影はライカーが最後に確認された場所の一つへ向かった。
道を進むにつれて建物と人の気配が減り、その先に木材置き場がある。近づくにつれ、乾いた木の匂いが風に混じった。規則的に積まれた材木の間には作業用の空間が残され、中央近くは広く開けている。風が材木の隙間を抜けるたび、木の匂いの濃さがわずかに変わった。敷地の一部にはコンクリートが打たれ、屋根だけの上屋の下にも木材が置かれている。
双影は敷地へ近づく前に歩調を落とした。
車両の出入りはなく、作業音も人の声も聞こえない。出入口と周囲の道を確かめてから、敷地外を歩きながら中を見た。
表面上は、すでに使える状態へ戻されている。
それでも、中央の開けた場所に近い地面には、周囲と馴染みきっていない部分が残っていた。表面は均されているが、削れた地面をあとから整えたように見える。
双影は歩きながら位置関係を拾った。
中央の開けた空間。材木の間に残る通路。外へ抜けられる方向。複数人が動いても互いの進路を完全には塞がないだけの幅がある。
中央の広さと抜けられる方向は、過去に直接見た男の動きと噛み合っていた。
足元の影がわずかに形を崩した。
異能が使われた痕跡は残っている。だが、影から分かるのはそこまでだった。
双影は地面へ視線を戻した。整えられた地面と開けた空間、手元にある最後の目撃記録を重ねる。ここで戦闘があったことは間違いない。そして、ライカーがここにいたと考える材料も揃っている。影の反応だけで判断したのではない。記録に残る場所と地面や周囲の状態、そして過去に直接見た彼の動きが一致していた。
死んだはずの男が、この街で生きていた。その事実はもう、記録の上だけのものではなかった。
敷地へもう一度目を向ける。外見は整えられていても、修復の跡までは消えていない。
双影はその場を離れた。
後日、丘平方面を改めて見ていた時、双影は学校のある方角へ向かう途中で足を緩めた。
手元のライカーの記録にある場所ではない。だが、道路沿いの小さな公園は、正面から中を見通せるわりに、植え込みと樹木の位置で奥側の視線が切れている。入口は限られているが、裏手には細い路地が通り、周辺道路を使えば別方向へ回ることもできる。
双影はそのまま通り過ぎず、歩道から中を見た。
滑り台、ブランコ、砂場、ベンチ。低い植え込みの向こうに樹木があり、その先は公園の外を通る路地へ続いている。規模は小さいが、道路側から見えにくい位置を作りやすく、短時間の待機や離脱にも使いやすい。
入口と奥側、周囲の道を一度確認して歩き出したところで、足元の影がわずかに揺れた。
反応と呼ぶには弱い。数歩離れると消えた。
双影は少し先まで進んでから、自然に振り返った。異能が使われた痕跡は残っている。
新辺の火災跡、丘平の襲撃地点、鏡峰の木材置き場、そして今の公園。
来日の目的は、死んだはずのライカーがこの街で活動していた事実を自分の目で確かめることだった。木材置き場まで調べたことで、その点はほぼ確かめられた。一方で、ここまで拾った異能痕跡のすべてを彼一人へ結びつける根拠はない。
誰が何をしたのかまでは分からない。だが、すべての痕跡をライカー一人へ結びつけるより、別の異能関与も視野に入れるべきだ。
双影は公園の位置を端末へ残し、歩き出した。
調べるべき対象は、もうライカー一人ではなかった。
ホテルへ戻ったあと、双影は端末で継見市内の事件報道を数か月前まで遡った。
七月の記事の中に、市内で起きた事件について、警察が一連の事件との関連を調べているという短い報道があった。
詳しい状況は公表されていない。記事だけでは、異能との関係も分からなかった。
双影は日付と地域、記事の内容をまとめ、自分の情報筋へ照会を送った。
すぐに返事が来るとは思っていない。
画面を閉じると、その件はいったん脇へ置いた。
照会を送ってから数日後、短い返答が届いた。
七月に報じられた一連の事件は、表向きに伏せられている部分こそ多いが、異能が関わっていた可能性が高いという。
中心にいた人物についても、断片的な情報が残っていた。
〈標本家〉。
関係者の間では、そう呼ばれていたらしい。
詳しい能力や事件の全体像までは拾えない。ただ、少なくとも七月にも、この街ではライカーとは別の異能事件が起きていた。
双影は画面を閉じた。
丘平を歩いている間、双影は何度か同じ文化祭の告知を目にしていた。
学校名と開催日、地域向けの一般公開について書かれている。最初に見た時はそのまま通り過ぎたが、別の場所でも同じ告知を見かけたことで、内容だけは頭に残った。
新辺のホテルへ戻ると、双影は机に端末を置き、改めて公開情報を開いた。私立綾丘高等学校の文化祭は、告知にあった通り地域向けに一般公開される予定になっている。
窓の外では、駅前を行き交う人の流れが途切れずに続いていた。
学校そのものに用はない。だが、外部の人間が自然に校内へ入れ、生徒や地域住民が一か所へ集まる機会なら使える。
双影は一般客として入れることを確かめた。全員を調べるつもりはない。人の流れの中で引っかかるものがあれば、その時に見ればいい。
開催日を確認すると、双影は画面を閉じた。
文化祭当日、双影は一般の来場者に混じって校門を通った。
受付でパンフレットを受け取り、周囲と同じように一度だけ開く。校内には生徒だけでなく、家族連れや地域の住民らしい人間も多かった。教室の前では呼び込みの声が重なり、立ち止まってパンフレットを見直す来場者を、後ろから来た人間が避けて流れていく。
双影はその流れに合わせて校舎を歩く。特定の生徒を探しているわけではなく、人の動きの中で気になるものがあれば拾うだけだった。
何人か、身体の使い方に慣れている者はいた。運動部らしい生徒や、周囲へよく目を配る者もいるが、それだけで足を止める理由にはならない。
階段へ差しかかると、上る者と下りる者で人の流れが詰まっていた。
前から制服姿の女子生徒が上ってくる。すれ違う直前、足元の影がわずかに乱れ、女子生徒が一瞬だけ足を止めて手すりへ触れた。
双影はそのまま人の流れに乗って階段を下りた。
その後も校内を歩いた。教室の前で足を止める来場者を避け、呼び込みの声が重なる廊下を抜けながら、いくつかの場所を見て回った。
昼時になり、校内の人の流れはさらに増えていた。
双影は二階の廊下を、人の流れに合わせて歩いていた。階段の手前へ差しかかったところで、何気なく後ろへ視線を向ける。
少し離れたところで、一人の男子生徒が歩調を落とし、こちらを見ていた。
目が合う。
ほんの一瞬だったが、偶然に向けられた視線ではないと分かった。
同時に、双影の側にも引っかかるものがあった。周囲に馴染んでいるのに、そこだけ水に落とした油の雫のように薄く質が違って見える。
「エレディト」
少し先から声が飛び、少年の視線が外れた。
双影はその瞬間に進路を変え、来場者の流れへ紛れた。
エレディト。
名前だけが残った。