空の結び目   作:夕花

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 聞き慣れない言葉だった。

 

 千綴は女の顔を見たまま、隣のエレディトへ意識を向ける。意味を尋ねようとしたものの、エレディトもすぐには答えなかった。

 

 先ほどまでとは立ち方が違っていた。肩に力が入っているようには見えない。それでも重心はわずかに落ち、女との間にある距離を測るように立っている。

 

「……今、なんて?」

 

「分かりません」

 

 返事は短かった。

 

 エレディトは女から視線を外さないまま、数秒の間を置いて口を開く。

 

〔昨日、学校にもいましたね〕

 

 女は動かなかった。

 

 外灯の白い光が横顔を照らしている。さっきのエレディトの反応から、昨日見た相手らしいことだけは分かっていた。けれど、千綴にはやはり見覚えがない。

 

〔僕を知っているんですか〕

 

 返事はない。

 

 女はエレディトだけを見ている。

 

〔どうしてここに?〕

 

 エレディトが続けた。

 

〔何が目的ですか〕

 

 そこで初めて、女の視線が千綴へ移った。

 

 ほんの一度、確かめるようにこちらを見る。その視線が戻るまで、千綴は動けなかった。

 

〔異能者なら、殺すのみ〕

 

 千綴には内容までは分からない。

 

 ただ、その言葉を聞いた直後、エレディトの足がわずかに開いた。女から目を離さないまま、片足を少し後ろへ引く。その立ち方を見て、千綴も身体を強張らせた。

 

「千綴先輩。下がってください」

 

「え?」

 

「早く」

 

 声は普段と大きく変わらない。

 

 だからこそ、千綴は問い返さなかった。エレディトが女から目を離していないことの方が、言葉よりはっきりしている。

 

 一歩下がる。

 

 さらにもう一歩。

 

 すぐ脇には、施設前の駐車区画に停められた車があった。千綴は女から距離を取りながら、その車体の近くまで移動する。

 

 女の視線がもう一度こちらへ向いた。

 

〔その人は?〕

 

〔関係ありません〕

 

 エレディトがすぐに答える。

 

 女は少しだけ間を置いた。

 

〔何もしないなら、手は出さない〕

 

 それ以上、千綴を見ることはなかった。

 

 何を言われたのか分からないまま、千綴はエレディトの背中を見る。いつの間にか、二人の間にはさっきより距離ができていた。エレディトが半歩前へ出た分だけ、千綴は後ろへ置かれている。

 

 女の右手がゆっくりと下がった。

 

 服の内側へ差し入れた右手が戻った時、その手には短い刃が握られていた。

 

 外灯を受けた刃先が、わずかに光る。

 

 その動きに合わせるように、エレディトの重心も変わった。

 

 次の瞬間、女が地面を蹴った。

 

 

 

 

 女の姿が、一気に近づいた。

 

 女が間合いへ入るより先に、右手の刃が動く。エレディトは半歩だけ横へずれながら身体を引き、胸元を薙ぐ刃をすれすれでかわした。

 

 女は振り抜いた右手を返し、下から切り上げる。エレディトが切っ先の届く直前で足を引くと、女はすぐに踏み込み、開いた距離を詰めた。エレディトも続けて下がり、二人の位置が千綴から離れていく。

 

 速い。

 

 千綴がそう思った時には、二人はさっきまで立っていた場所からすでに数歩ずれていた。

 

 横へ走った刃を、エレディトが上体を沈めてかわす。そのまま女の腕へ手を伸ばしたが、掴むより早く、女の手首が返った。

 

 切っ先が指先へ向き、エレディトは触れる直前で手を引いた。そこへ女の足が低く入り、今度は脚を引いてかわす。蹴りが空を切っても女は崩れず、地面へ足が着いた瞬間には次の踏み込みへ体重が移っていた。

 

 千綴は息をのんだ。一つ一つの動きなら見えるのに、途切れない。刃をかわしたと思えば蹴りが来て、距離を取ればすぐに詰められる。エレディトは身体の向きや足の位置を変えながら、正面から刃を受けることだけは避け続けていた。

 

 何度目かの斬撃をかわしたところで、エレディトの手が女の手首の外側へ触れた。掴まずに横へ押し流すと刃の軌道がずれ、身体の前にわずかな空間ができる。エレディトはそこへ一歩だけ踏み込み、女の胸元へ肩を入れた。

 

 女の身体がわずかに後ろへ流れたが、倒れはしなかった。女はすぐに足を引いて踏みとどまり、二人の間に距離が開いた。

 

 ほんの一瞬だけ、攻防が止まる。

 

 エレディトは追わなかった。

 

 肩を上下させるほど息が乱れているわけではない。けれど、視線は女の手元と足元を行き来し、次の動きを待っているように見えた。

 

 女も動かない。

 

 刃を下ろしたわけでもなく、ただエレディトを見ている。

 

 千綴は車体の陰から、その様子を窺った。

 

 金属の車体が視界の一部を塞いでいる。少し身体を出せば二人は見えるが、その分だけ自分も外へ出ることになる。

 

 施設の入口までは近い。

 

 中には直嗣もいる。

 

 呼びに走った方がいいのか、一瞬迷った。

 

 それでも、エレディトは下がれと言った。今ここで車体の陰から飛び出せば、女との位置関係がまた変わる。

 

 千綴は動かなかった。

 

 女が再び踏み込んだ。今度は刃を持った右手より先に左手が伸び、エレディトの視線がそちらへ向く。その直後、低い位置から右手の刃が走った。腰を捻ってかわすと、女の左手が肩へ伸びる。エレディトは身体を沈め、その手の下を抜けた。

 

 女が追うと、エレディトは真後ろへは下がらず、斜めに位置をずらした。駐車区画の中央寄りへ。千綴が隠れている車から、少しずつ離れる方向だった。

 

 刃が再び閃き、エレディトは一歩外へかわす。女が向きを変えて追えば、さらに一歩ずれる。千綴のいる車との間には、さっきより広い空間ができていた。

 

 女はなお距離を詰めてくるが、エレディトは大きく崩れない。刃をかわした後も追い返すようには踏み込まず、触れられる時だけ腕や身体を押して、また位置を変えていた。

 

 千綴にも、少しずつ意図が見えてきた気がした。

 

 ここは施設の敷地内だ。

 

 このまま何かが続けば、いつまでも誰にも気づかれないはずがない。

 

 エレディトは勝負を急いでいるのではなく、時間を稼いでいるように見える。

 

 女の刃が、またエレディトへ伸びた。

 

 

 

 

 エレディトは身体を半歩ずらし、脇を抜ける刃に合わせて女の手首へ手を添えた。外へ押し流すと刃の向きが逸れ、女の身体がわずかに開く。けれど、そこへは踏み込まず、すぐに元の間合いまで下がった。女も追わず、そこで一度止まる。

 

 ほんの短い間だった。

 

 千綴には、二人が互いの次の動きを見ているようにしか見えない。

 

 女の右手にはまだ刃がある。

 

 エレディトも、その正面から目を離していない。

 

 次の瞬間。

 

 何かが、視界の端を走った。

 

 千綴が顔を向けるより先に、音が遅れて届く。

 

 硬いものを強く打ち抜いたような、短く鋭い音だった。

 

 エレディトが振り向き、千綴も反射的にそちらを見る。二人が見ていた方向とは別の位置で、少し離れた車の側面が大きく抉れ、その中心に穴が開いていた。

 

 何が当たったのかは見えず、地面に何かが落ちた様子もない。壊れた車体の穴の周囲から、白い煙が細く上がり始める。

 

 千綴は女へ目を戻した。その場から動いておらず、右手にはまだ短い刃がある。さっきの一撃を放つような動きもしていなかった。

 

 エレディトも車から女へ視線を戻した。表情が変わり、今度は女の手元を離れ、駐車区画や建物の影へと素早く目を走らせる。外灯の届かない暗がりまで見ていたが、千綴の位置から見える範囲に人影はなかった。

 

 目の前の女が何かを隠し持っていたのか。それとも、別の場所から何かが飛んできたのか。千綴には分からない。さっきまでの近接戦とは違うものが加わったことだけは分かった。

 

 車体の陰にいる自分も、安全とは限らない。

 

 そう思った途端、背中に触れている金属の感触まで急に頼りなく思えた。

 

 エレディトは女から目を離さずに一歩だけ位置を変え、千綴との間へさっきより深く入った。

 

 その時だった。

 

 損傷した車体の奥で、小さな光が弾けた。

 

 白かった煙の奥に、赤いものが混じる。

 

 千綴が目を見開く。

 

 次の瞬間――

 

 

 

 

 その少し前。

 

 

 扉が閉まる音が、背後で小さく響いた。

 

 直嗣は室内へ足を踏み入れる。

 

 白い照明の下、奥の検査台には一人の遺体が横たえられ、全身を覆うように布がかけられていた。

 

 その傍らにいたフィンが、直嗣へ軽く手を上げる。

 

「ナオ、悪いね」

 

「それで、どういう状態だ?」

 

 直嗣は足を止めずに訊いた。

 

 フィンの表情から、普段の軽さは少し薄れていた。

 

「倉田(くらた)祐介(ゆうすけ)。今日、ここへ来る予定だった人だ」

 

「手続きは?」

 

「まだ。記録上は、施設には入ってない」

 

 直嗣は検査台へ目を向け、布に覆われた身体の前で足を止めた。

 

「発見時には?」

 

「もう死亡してた。こっちへ運び込んでからも確認は取ってる」

 

「死因は」

 

「まだ確定してない」

 

 フィンは一度、遺体の方へ視線をやった。

 

「ただ、急病や事故で片づけられる状態じゃない。誰かに殺されたと見て調べてる」

 

「死亡時刻は?」

 

「そこもまだ。今、絞ってるところ」

 

 直嗣は布のかけられた遺体からフィンへ視線を戻した。来館前に狙われたのなら、ここへ向かっていたことも相手に知られていたのかもしれない。

 

「身元は間違いないんだな」

 

「確認済み。倉田祐介本人で間違いない」

 

「来館前に何者かと接触した可能性は?」

 

「そこはまだ追えてない。発見までの動きも確認中」

 

 直嗣は短く息を吐いた。発見までの動きが分からなければ、施設へ向かう途中で狙われたのか、それ以前に何かあったのかも絞れない。検査台へもう一度目を向け、続けて訊こうとした。

 

「他に――」

 

 続けかけたところで、室内に短い電子音が鳴った。

 

 二人とも同時に顔を上げる。

 

 一度だけでは終わらない。

 

 間を置かず、警戒を知らせる音が室内に流れた。

 

 直嗣は入口脇の表示へ視線を向ける。

 

 正面玄関前、駐車区画。

 

 その表示を認識した瞬間、頭に浮かんだのは外で待たせている二人だった。

 

 直嗣は踵を返した。

 

「ナオ?」

 

「外に二人いる」

 

 それだけ言って扉へ向かう。

 

 フィンもすぐに後を追った。

 

 

 

 

 直嗣は廊下へ飛び出した。

 

 警戒音は途切れず、さっきまでとは施設内の空気が変わっていた。職員が足早に行き交い、いくつかの扉が閉じられていく。

 

「正面玄関って、千綴さんたちがいる方だよね」

 

 後ろからフィンの声がする。

 

「ああ」

 

 直嗣は速度を落とさずに角を曲がった。その先で低い振動が床を伝い、足裏から身体へ上がってくる。続いて遠くから鈍い破裂音が響き、背後のフィンの足音が一瞬だけ乱れた。

 

「今の――」

 

「急ぐぞ」

 

 二人はそのまま走った。

 

 正面玄関へ近づくにつれ、空気に焦げたような匂いが混じり始める。

 

 入口付近では職員が慌ただしく動き、外へ向かう者と、来訪者を奥へ誘導する者に分かれていた。直嗣はその流れを縫うようにして前へ出る。

 

 自動扉が開くと、外の冷えた空気が頬に触れた。

 

 まず見えたのは火だった。

 

 駐車区画の一角で、車が燃えている。炎が車体の一部を包み、黒い煙が外灯の光を遮るように上へ伸びていた。

 

 直嗣は走りながら火元から手前へ視線を動かした。エレディトが、右手に短い刃を持った女と向き合っている。距離を取りながら攻撃をかわし、大きく崩れてはいない。

 

 さらに視線を外へ振ると、少し離れた車の陰に千綴がいた。身体を起こし、外の様子を窺っている。倒れてはいないと分かり、直嗣はわずかに息を吐いた。足は緩めず、そのまま声をかける。

 

「千綴!」

 

 呼びかけに、千綴がこちらを見る。

 

 その瞬間にも女が踏み込み、エレディトは横へずれて刃をかわした。直嗣は二人との距離を詰めながら、女の顔、体格、動きを記憶の中の記録と重ねる。

 

 足が、わずかに止まった。

 

 直接会ったことはない。だが、記録では見ている。

 

 単独とは限らない。

 

 そういう扱いをされている相手だった。

 

 女もこちらへ視線を向けた。

 

 直嗣は低く呟く。

 

「……異能狩り(ヴァイパー)か」

 

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