空の結び目   作:夕花

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 千綴は車体の陰から、駆けつけた直嗣の後ろへ目を向けた。フィンも入口から出てきて、こちらとエレディトたちのほぼ中間で足を止める。女の視線も、直嗣からその後ろへ動いていた。

 

「フィン。千綴を頼む」

 

「分かった」

 

 フィンの返事とほとんど同時に、直嗣は女へ向き直った。

 

 さっきまでエレディトを追っていた足が止まっている。刃は下ろしていない。ただ、すぐに間合いを詰めることもなく、増えた人間を順に見るように視線だけが動いていた。

 

 その間にフィンが千綴の方へ走る。

 

「千綴さん、大丈夫?」

 

「はい。私は大丈夫です」

 

 前にいた直嗣が、一度だけこちらを振り返る。

 

 千綴は車体の陰から少し身を出し、煤のついた服へ目を落とした。足へ力を入れ直すと、靴底にはいつも通り地面の感触があった。

 

「何があったの?」

 

「急にあの人がエレディトに襲いかかって……それから、どこからか何か飛んできて、それが車に当たって、そのあと――」

 

 千綴が炎上している車へ目を向ける。

 

 黒い煙はまだ上がっていた。火勢は先ほどより広がっている。周囲へ燃え移るほどではないが、このまま放置できる状態でもない。

 

「別のところから?」

 

「はい。あの人とは違う方向です。何だったのかまでは見えませんでした」

 

「分かった。そこから動かないで」

 

 フィンがそう言って、燃えている車へ顔を向けた。

 

 車体の脇、炎の届いていない地面から、透明に近いものがせり上がる。

 

 外灯を受けた縁だけが白く見えた。

 

 結晶は地面から伸び、そのまま車体の側面へ沿うように形を変える。反対側にも同じものが立ち上がり、上へ伸びた面同士が折れ曲がるように近づいていった。

 

 炎が一瞬、内側で大きく揺れた。

 

 それから、少しずつ低くなっていく。

 

 フィンは結晶の形を保ったまま、千綴のそばへ戻った。

 

 前では、直嗣がすでにエレディトの横へ入っていた。

 

「大丈夫か」

 

「なんとか。助かりました」

 

 短い返事だった。

 

 女はまだ動かない。

 

 直嗣は腰の装備へ手を伸ばした。

 

 予備のナイフを抜き、柄をエレディトへ向ける。

 

「使えるか」

 

 エレディトは一度だけナイフを見た。

 

「はい」

 

 受け取る動きに迷いはなかった。

 

 握りを確かめ、刃先を下げる。さっきまで空いていた右手に武器が入ったことで構えは変わったが、前へ出ようとはしない。

 

 直嗣は女から視線を外さないまま言った。

 

「もう一人いる」

 

 エレディトの目がわずかに動く。

 

「ヴァイパーは二人組だと見られてる。もう一人の場所は分からない。気をつけろ」

 

「さっき、車に当たったものですか」

 

「その可能性がある」

 

 直嗣の返事は短かった。

 

 小さく何かが砕ける音がした。

 

 車を覆う結晶の内側では、火の勢いが落ち、煙の量も減っていた。

 

「ナオ」

 

 フィンの声が飛ぶ。

 

「千綴さんは怪我してない。こっちは大丈夫」

 

「ああ」

 

 直嗣は短く返す。

 

 正面では、女が直嗣、エレディト、フィンの三人を見ていた。

 

 右手の短い刃はそのまま。

 

 外灯の光の下で、表情はほとんど変わらない。

 

 ただ、視線だけが直嗣、エレディト、その後ろのフィンへと順に移る。

 

 その動きが止まった。

 

 直嗣はトンファーへ手をかける。

 

 隣で、エレディトもわずかに腰を落とした。

 

 さっきまでとは人数が違う。

 

 それでも、女が引く様子はなかった。

 

 

 

 

「人多了(レン・ドゥオ・ラ)」

 

 千綴には意味が分からない。

 

 女は短く間を置いた。

 

「没关系(メイ・グワンシ)」

 

 その直後、女の右手がわずかに動いた。

 

 短い刃を握ったまま、左手が服の脇へ回る。

 

 何を取り出したのか、千綴には最初分からなかった。

 

 外灯の下で、小さく光るものが一つ落ちる。

 

 いや、落ちたように見えただけだった。

 

 地面に触れる前に、その軌道が横へ変わる。

 

「……何?」

 

 思わず声が漏れる。

 

 次に見えた時には、刃だった。

 

 最初から持っていたものとは別の、細身の刃。さらにもう一つ。その二つが女の手元から離れたまま、弧を描いて左右へ広がっていく。

 

 何かで繋がっている。

 

 そう気づいたのは、刃の向きが同時に変わったからだった。

 

 直嗣が一歩前へ出ると、エレディトも同時に動いた。二人が女へ近づこうとした、その間へ刃が走る。直嗣が身体を沈め、その頭の上を一本が抜けた。もう一本は低い位置からエレディトの足元へ回り込む。

 

 エレディトは踏み込む足を止め、ナイフを下から当てた。硬い音が響く。弾かれた刃は地面へ落ちず、そのまま横へ流れ、次の瞬間には女の側へ引き戻されていった。

 

 千綴は目を凝らした。

 

 刃と女の間に、何かある。

 

 けれど、黒い夜の中ではほとんど見えない。外灯の光が当たっても、細い線のようなものが一瞬だけ浮いた気がしただけだった。

 

「線……?」

 

 隣でフィンも前を見ている。

 

「見えた?」

 

「少しだけ。刃と繋がってるみたいです」

 

 言っている間にも、女の腕が動く。

 

 今度は二本が別々の方向へ走った。

 

 一つは直嗣の正面。

 

 もう一つは大きく外へ膨らみ、エレディトの横へ回る。

 

 二人とも同じ場所にはいない。

 

 それでも、女の正面だけを見ていれば済む動きではなくなっていた。

 

 直嗣が一本をトンファーで受けると、金属同士がぶつかり、刃が跳ねた。そのまま半歩、横へ踏む。直後、さっきまで肩があった場所を何かが通り抜け、後ろの舗装面が弾けた。小さな欠片が飛び、遅れて乾いた音が届く。

 

 千綴の背中に冷たいものが走った。

 

 同じだ。

 

 車に穴を開けた、あの攻撃。

 

 どこから来たのかは、やはり見えない。

 

 その一瞬に、女が距離を詰めた。

 

 手元へ戻った刃を掴むことはない。

 

 腕を引く動きに合わせて、二本の刃が左右から直嗣へ寄る。

 

 直嗣は前へ出かけた足を止め、片方をトンファーで払い、身体を捻ってもう片方を避けた。

 

 エレディトがその隙へ入る。

 

 ナイフが女の短い刃とぶつかる。

 

 一度。

 

 二度。

 

 三度目は続かなかった。

 

 女の左側へ回っていた別の刃が、エレディトの脇腹へ戻ってくる。

 

 エレディトは上体を引き、ナイフで軌道を逸らした。

 

 女から距離が開く。

 

 また、詰め切れない。

 

 千綴にもそれだけは分かった。

 

 直嗣とエレディトが前へ出ようとするたび、見えにくい刃が角度を変え、その間にどこからか別の攻撃が差し込んでくる。

 

 女一人を相手にしているはずなのに、攻撃の方向が一つではない。

 

 フィンが小さく息を吐いた。

 

「これは、見てるだけじゃ厳しいかな」

 

 そう言っても、すぐには前へ出なかった。

 

 代わりに千綴の前へ半歩だけ位置をずらす。

 

「千綴さん。ここから動かないで」

 

「……はい」

 

 返事をしながら、千綴は前を見た。

 

 女の周囲で、二本の刃がまた軌道を変える。

 

 その向こうで、直嗣とエレディトが同時に動いた。

 

 

 

 

 直嗣が先に踏み込み、正面から振り下ろされた短い刃を左のトンファーで外へ流した。女の身体がわずかに開き、そこへエレディトが入る。低い位置からナイフが走ると、女は半歩引いた。その背後へ回っていた一本がすぐに向きを変え、エレディトの肩口へ戻ってくる。

 

 その途中で透明なものが横から伸び、硬い音とともに刃の軌道が逸れた。千綴がフィンを見ると、前を向いたまま右手をわずかに上げている。地面から斜めに伸びた結晶が、刃を押し上げていた。

 

「前だけ見て」

 

 フィンの声が飛ぶ。

 

 エレディトは返事をしなかった。

 

 そのまま一歩入る。

 

 女の短い刃とナイフがぶつかる。

 

 直嗣が反対側から距離を詰める。

 

 二人の間に、また別の刃が滑り込んだ。

 

 今度は直嗣の膝を狙うような低さだった。

 

 刃の下の地面から、細い結晶が伸びる。

 

 そのまま刃を下から持ち上げた。

 

 直嗣は止まらない。

 

 トンファーの先端が女の脇腹へ向かう。

 

 女は身体を捻り、ぎりぎりでかわした。

 

 その瞬間、直嗣の肩の横を何かが抜けた。

 

 背後の舗装面が弾け、細かな欠片が跳ねる。

 

 遅れて、乾いた音が耳に届いた。

 

 千綴の身体が強張る。

 

 直嗣はすでに横へずれ、エレディトも一歩下がっていた。

 

 それでも、今度は二人とも大きく距離を取らなかった。

 

 フィンの結晶が、そのまま前へ伸びていた。

 

 低い壁のように立ち上がり、女の右側へ回り込む。

 

 完全に塞ぐほど大きくはない。

 

 けれど、女がそちらへ動こうとした足を一度止めるには十分だった。

 

 直嗣がその隙を使う。

 

 トンファーが短い刃とぶつかる。

 

 女の腕が外へ流れた。

 

 エレディトが反対側から踏み込む。

 

 ナイフが横へ走る。

 

 女が身体を沈めてかわす。

 

 その頭上を、外へ回っていた刃が一つ戻ってくる。

 

 フィンの結晶がまた割り込んだ。

 

 今度は薄い板ではなく、短く太い柱のような形だった。

 

 刃がそこへ当たり、甲高い音を立てる。

 

 結晶の先端が欠けた。

 

 けれど、刃もその場で跳ねた。

 

 千綴は息を止める。

 

 さっきまでとは違う。

 

 直嗣とエレディトが前へ出るたびに止められていた流れが、少しずつ変わっている。

 

 フィンが間に入ることで、二人の動きが止まらなくなっていた。

 

 ただ、フィン自身は前へ出ていない。

 

 千綴のすぐ近くに立ったまま、必要な場所へだけ結晶を伸ばしている。

 

 女の左足の横から、新しい結晶がまた一つ生える。

 

 踏み込もうとした先を塞ぐように、低くせり上がる。

 

 女が足を引く。

 

 その退いた先から、今度は細い結晶が斜めに伸びた。

 

 女の身体を狙うような角度だった。

 

 上体を捻った女の服すれすれを、結晶の先端が抜ける。

 

 千綴の手に力が入った。

 

 守るための壁だけではない。

 

 直嗣が追い、肩口へ伸びるトンファーを女が短い刃で受けた。その間にエレディトが距離を詰め、下からナイフを入れる。女は身体をずらしたが、浅く、服が裂けた。

 

 初めてだった。

 

 千綴にも、それまでとは違うことが分かった。

 

 女の足が一歩分、後ろへ下がる。

 

 直嗣はさらに前へ出た。

 

 エレディトも離れない。

 

 フィンの結晶が、今度は女の右側へ伸びる。

 

 逃げ道を狭めるように。

 

 その時、女の手元が大きく引かれた。

 

 二本の刃が同時に戻る。

 

 一本は直嗣へ。

 

 もう一本はエレディトへ。

 

 直嗣がトンファーを上げる。

 

 エレディトもナイフを構える。

 

 フィンが不意に腕を動かした。

 

 直嗣たちの前へ、透明な板が一気にせり上がる。

 

 次の瞬間、その表面が激しく弾けた。

 

 遅れて乾いた音が届き、結晶の表面に亀裂が走る。

 

 そこへ戻ってきた二本の刃がぶつかり、さらにひびが広がる。

 

 それでも、壁は残った。

 

 直嗣とエレディトがその陰で体勢を立て直す。

 

 女も一度、距離を取った。

 

 ほんの数秒。

 

 それだけだった。

 

 けれど、さっきまで一方的に攻撃を差し込まれていた時とは違う。

 

 三人の動きが、初めて一つに噛み合ったように見えた。

 

 フィンが小さく息を吐く。

 

「……よし」

 

 その声は、千綴に聞かせるには少し小さかった。

 

 

 

 

 ひびの入った結晶が、音を立てて縮んでいく。

 

 その向こうで、直嗣とエレディトがほとんど同時に前へ出た。

 

 女も下がらない。

 

 右手の短い刃が直嗣へ向き、左側へ流れていた二本の刃が大きく弧を描く。

 

 直嗣が一本をトンファーで受け、エレディトはもう一本をナイフで外へ弾いた。その瞬間、女の足元から透明な結晶がせり上がる。膝ほどの高さしかないが、下がろうとした足がそこで止まり、身体がわずかに傾いた。直嗣のトンファーが肩口をかすめ、鈍い音がする。女はすぐに身体を引いた。

 

 追うようにエレディトが入る。

 

 短い刃とナイフがぶつかり、火花のような光が一瞬散った。

 

 女の手元から離れていた刃が、今度はエレディトの背後へ回る。

 

 千綴には、黒い線そのものはほとんど見えない。

 

 それでも、刃の向きが変わるたび、どこかに繋がれていることだけは分かった。

 

 刃がエレディトの背中へ戻る。

 

 その途中に、細い結晶が伸びた。

 

 真正面から止めるのではなく、横から押し出す。

 

 刃先がわずかに逸れる。

 

 エレディトは振り返らない。

 

 女だけを見たまま、もう一歩入った。

 

 直嗣も離れない。

 

 二人とも、女との距離をさらに詰める。

 

 女が腕を引いた。

 

 二本の刃が一度に戻る。

 

 その瞬間、直嗣が身体を捻り、服の肩口が裂けた。すぐ後ろの舗装面が弾け、乾いた音はそのあとから来る。

 

 千綴の喉が詰まった。一瞬だけ、肩口へ目が吸われる。

 

 けれど、直嗣は止まらなかった。

 

 女の短い刃をトンファーで外へ押し、空いたところへ身体を入れる。

 

 エレディトが反対側へ回る。

 

 女がそちらへ向こうとした瞬間、透明な壁が斜めに伸びた。

 

 フィンの結晶だった。

 

 進路を完全に塞ぐほど広くはない。

 

 それでも、女は一度足を引くしかなかった。

 

 直嗣の肘が女の腕へ入る。

 

 短い刃が手元から落ちた。

 

 同時に、外へ流れていた刃が一気に戻ってくる。

 

 フィンの結晶がまた間へ割り込んだ。

 

 一本が結晶へぶつかり、欠片が散る。

 

 もう一本をエレディトがナイフで受けた。

 

 甲高い音が重なった。

 

 女の身体がわずかに沈む。

 

 その一瞬だった。

 

 地面から伸びた結晶が女の右足の外側を塞ぎ、エレディトが正面の刃を押し上げた。直嗣が踏み込む。今度は女の方が間に合わず、トンファーの一撃が脇腹へ入った。横へ流れた身体の先にも結晶があり、肩が透明な面へぶつかる。

 

 逃げる方向が、一度だけなくなった。

 

 直嗣がさらに距離を詰める。

 

 女は落とした短い刃へ手を伸ばさない。

 

 代わりに、外へ飛ばしていた刃を強く引き戻した。

 

 一本が直嗣の背へ向かう。

 

 もう一本がエレディトの足元へ走る。

 

 フィンが腕を動かす。

 

 直嗣の後ろに短い結晶柱が伸び、戻ってきた刃を横へ弾いた。

 

 エレディトは自分へ来た刃をナイフで受け流す。

 

 二人とも止まらない。

 

 千綴は息をするのも忘れて見ていた。女が足を引いた先にも結晶が残り、向きを変えれば直嗣とエレディトがいる。落ちた短い刃へ手を伸ばす間もなく、動ける場所が少しずつ狭くなっていた。

 

 

 

 

 直嗣が踏み込むと、女の右手が上がった。短い刃は落ちたまま。それでも、外へ流れていた二本が同時に戻ってくる。直嗣は引かず、一本を左のトンファーで外へ弾いた。もう一本が脇から回る途中へ透明な結晶が斜めに伸び、刃がぶつかる。表面にひびが走ったが、軌道はずれた。

 

 直嗣の右手が動く。

 

 トンファーの先端が女の腹部へ向かう。

 

 女は身体を横へ流した。

 

 完全には避けきれない。

 

 鈍い音がして、身体がわずかに折れる。

 

 そこへエレディトが入る。

 

 女が左腕を振る。

 

 戻った刃がエレディトの顔の高さを横切った。

 

 エレディトは頭を下げる。

 

 ナイフが下から上へ走る。

 

 女の服が裂けた。

 

 今度は浅くない。

 

 暗い色が布地へ広がる。

 

 千綴は思わず息を呑んだ。

 

 女の動きが止まったわけではない。

 

 けれど、さっきまでと同じ速さではなかった。

 

 女の右足が下がると、そこへ結晶が伸び、透明な塊が踵の外側を塞いだ。進路を変えた女を、直嗣が追う。

 

 その時、女の視線が一瞬だけ外れた。

 

 どこを見たのか、千綴には分からない。

 

 直嗣が身体を沈めると、その脇を何かが抜け、背後の舗装面が弾けた。遅れて、乾いた音が届く。

 

 それでも動きは止まらない。

 

 女の刃が戻る。

 

 直嗣が受ける。

 

 エレディトが横から入る。

 

 フィンの結晶が逃げ道を塞ぐ。

 

 三人の動きが重なる。

 

 女の身体が一度だけ大きく揺れた。

 

 直嗣が間合いへ入る。

 

 距離が詰まり、外を回っていた刃を戻す余地が狭くなる。

 

 女が腕を引こうとする。

 

 その手首の横へ、結晶が伸びた。

 

 ほんの一瞬だった。

 

 動きが止まる。

 

 直嗣の右腕が深く引かれた。

 

 次の瞬間、トンファーの先端が女の左胸へ叩き込まれる。

 

 音がした。

 

 打撃音とは思えなかった。

 

 乾いた破裂音に近い、短く重い音だった。

 

 千綴の身体が強張る。

 

 女の身体が大きく折れ、そのまま後ろへ弾かれた。

 

 足が地面を離れる。

 

 背中から舗装面へ落ちる。

 

 それきり、動かなくなった。

 

 エレディトがすぐに距離を取った。

 

 直嗣も追撃せず、倒れた女から視線を外して周囲を見回す。

 

 エレディトも暗い駐車区画の先へ目を向けていた。

 

 けれど、千綴には何も見えなかった。

 

 数秒。

 

 誰も動かない。

 

 フィンだけが千綴の前へ半歩出た。

 

「動かないで」

 

 小さな声だった。

 

「……どうなったんですか?」

 

 千綴が尋ねる。

 

 直嗣はすぐには答えず、倒れた女へ近づいた。

 

 しゃがみ込み、首元へ手を当てる。

 

 次に胸元を見る。

 

 顔を寄せる。

 

 長くはかからなかった。

 

 直嗣が立ち上がる。

 

 フィンが倒れた女を見たまま、小さく言った。

 

「倒したみたいだね」

 

 千綴の喉が詰まる。

 

 目の前で、さっきまで動いていた人間が倒れている。

 

 頭では理解できても、すぐには言葉にならなかった。

 

 エレディトも何も言わない。

 

 ただ、ナイフを下ろしてはいなかった。

 

「まだ終わってない」

 

 直嗣が言う。

 

 視線は倒れた女ではなく、その向こうへ向いていた。

 

「もう一人いる」

 

 フィンも前を見る。

 

 結晶は消していない。

 

 千綴は車の陰に残ったまま、息を整えようとした。

 

 手が冷たい。

 

 煤の匂いと、焦げた空気がまだ残っている。

 

 誰も気を抜いていない。

 

 それでも、一度だけ。

 

 千綴の視線が、倒れた女へ戻った。

 

 動かない。

 

 胸も上下していないように見える。

 

 さっきまであれほど速く動いていたのに。

 

 その事実だけが、妙に現実味を持たなかった。

 

 

 

 

 直嗣が倒れた女から一歩離れ、エレディトも位置を変えた。二人の視線を追って、千綴も暗い駐車区画の先へ目を向ける。車の隙間や低い塀の向こうには、誰の姿も見えなかった。

 

 千綴の前には薄い結晶の板が一枚と、足元近くに短く太い柱が二つ残っていた。前線へ伸びていたものの一部は消え、焦げた車からは細い煙だけが上がっている。

 

 施設の中から響く警戒音を聞きながら、千綴は暗がりへ目を凝らした。

 

 その時、すぐ前にいたフィンの肩が動いた。

 

 フィンが振り返る。

 

 視線の先は暗がりではなく、倒れた女だった。

 

「ナオ!」

 

 千綴もつられて視線を戻す。

 

 倒れていた女の指が動いていた。

 

 ほんの少し。

 

 見間違いかと思うほど小さな動きだった。

 

 続いて、手首が動く。

 

 千綴は息を止めた。

 

 直嗣が反応する。

 

 同時に、倒れていた女の手前から結晶が伸びた。

 

 細く、鋭く。

 

 女へ向かう。

 

 その途中が突然砕けた。

 

 白い欠片が散る。

 

 攻撃へ伸ばしていた結晶を諦めるように、フィンが腕を引く。

 

 ほとんど同時に、千綴の前へ別の結晶が一気にせり上がった。

 

 遅れて、乾いた音が届く。

 

 直嗣とエレディトもそちらへ身体を向けていた。

 

 その一瞬。

 

 倒れていた女が上体を起こした。

 

 ゆっくりではない。

 

 けれど、ついさっきまで動かなかった人間とは思えない動きだった。

 

 片手を地面につき、膝を立てる。もう片方の手が舗装面を走り、落ちていた短い刃を拾った。

 

 直嗣が振り返り、エレディトも続く。二人の動きが止まったところで、女は刃を握ったまま立ち上がった。

 

 服は裂けている。

 

 血も残っている。

 

 さっき受けた傷が消えたわけではない。

 

 それでも、立っていた。

 

 千綴は何も言えなかった。

 

 直嗣が確かめたあとも、女は動かなかった。

 

 フィンも「倒したみたいだね」と言った。

 

 それなのに。

 

 女は、もう一度こちらを見た。

 

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