直嗣は倒れた女のそばから離れず、落ちた刃と本人の両方を視界に収めている。トンファーも下げていない。エレディトも少し距離を取ったところでナイフを構えたまま、暗がりへ何度も目を向けていた。
千綴も、フィンのところへ行きたい気持ちを押さえた。
離れた場所に倒れた身体は、まだ動いていない。今すぐ駆け寄りたかったが、また何か飛んでくるなら、自分が動くことで状況を悪くする。
左腕を押さえた右手の下で、傷が熱を持って脈打った。
「朝倉さん」
直嗣が視線だけを向ける。
「少し、確認してみます。あの人たちを追えるか」
「無理はするな」
「はい」
千綴は倒れた女へ意識を向けた。
以前、離れたエレディトを追った時と同じように、そこにいる相手を意識の中へ置く。
すぐに、あの引っかかりが返ってきた。
目の前にいる女へは辿れる。
次に、左腕の痛みに意識を寄せた。自分を撃ち抜いた、離れた場所からの攻撃。その向こうにいたはずの相手を思い浮かべ、同じように辿ろうとする。
けれど、今度はうまく掴めなかった。
どこか別の方向へ引かれるような感覚が来ない。もう一度試しても、はっきりするものはなかった。
「……分からない」
「この人には辿れます。でも、私を撃った方は……うまく掴めません」
直嗣は倒れた女から目を外さないまま聞いていた。
「分かった。もういい」
「はい」
それ以上は聞かなかった。
直嗣は周囲を見回し、エレディトへ短く声を飛ばした。
「周囲への警戒は怠るな。こいつは俺が見る」
「はい」
エレディトが位置を変え、周囲と暗がりへ視線を向ける。
しばらく待っても、新しい攻撃は来なかった。
千綴はフィンを見る。
「朝倉さん。フィンさんのところ、行ってもいいですか」
直嗣は一度だけこちらを見た。
「ゆっくり行け。何かあったらすぐ伏せろ」
「はい」
千綴は左腕を押さえたまま歩き出した。
足を出すたび、腕の奥へ痛みが響く。急ぎたいのに、自然と歩幅が小さくなった。
フィンのそばまで来ると、千綴は右膝をついた。
「フィンさん」
返事はない。
顔を近づけすぎないようにしながら呼吸を確かめる。胸は動いている。
千綴は右手を伸ばし、肩へ軽く触れた。
「フィンさん。聞こえますか」
少し間があって、フィンの眉が動いた。
「……ん」
千綴は息を止めたまま、もう一度呼ぶ。
「フィンさん」
ゆっくりと目が開く。
何度か瞬きをしたあと、フィンの視線が千綴へ合った。
「……千綴さん」
「はい」
声が出た。
それだけで、胸の奥に張りついていたものが少しほどける。
フィンは周囲へ目を動かそうとして、すぐに顔をしかめた。
「……終わりました?」
「まだ、朝倉さんたちが警戒してます」
「そうですか」
フィンが小さく息を吐いた。
起き上がろうと肩へ力を入れ、すぐに動きを止める。
「……痛いですね、これ」
その言い方が、いつものフィンに近かった。
千綴の肩から、力が抜けた。
ほっとしたと思った時には、身体の方が先に緩んでいた。左腕を押さえていた右手にも力が入らない。
「千綴さん?」
フィンの声が近くなる。
返事をしようとして、口を開く。
けれど、ひどく眠かった。
これまで押し込めていた重さが、急に全身へ落ちてくる。痛みも疲れも遠くなる代わりに、瞼だけが持ち上がらなくなった。
身体が傾いた。
「っと……」
フィンの腕が回ってくる。
「いたたた……」
その声に、悪いと思った。
謝ろうとしたところで、直嗣の声が遠くから飛んだ。
「エレディト、そっちを頼む」
「はい!」
足音が近づき、フィンごと支えられるように身体が持ち上がる。
「千綴先輩」
エレディトの声が聞こえた。
もう大丈夫だと思ったのか、それともただ眠かっただけなのか、自分でも分からなかった。
千綴は目を開け直せないまま、その声からゆっくり遠ざかっていった。
エレディトが千綴とフィンを支えたのを確認して、直嗣は女から目を離さなかった。
「千綴は」
「気を失ったみたいです」
フィンが続ける。
「僕が起きたあと、急に力が抜けました。緊張が切れたんだと思います」
直嗣は短く頷いた。
警戒アラートは、まだ鳴り続けていた。
ほどなくして、警備要員と医療班がこちらへ近づいてくるのが見えた。先頭の警備要員が直嗣の前で足を止める。
「こいつを拘束。意識はないが、一度致命状態へ入ったあとに動き出している。通常の昏倒として扱うな」
「了解」
直嗣は落ちた武器へ目を向けた。
「短刃一本、細身の刃が二本。線状の装備あり。まとめて回収」
「了解」
「それから、別の場所からの遠距離攻撃あり。位置は不明」
警備要員はすぐに後ろへ指示を飛ばした。
「外周確認。単独行動はするな」
数人がその場を離れていく。
残った要員が女の拘束と武器の回収に入るのを見ながら、直嗣は警戒を解かなかった。
その間に医療班が千綴たちのところへ入る。
「左上腕に貫通創。ほかに目立つ外傷はありません」
千綴を確認していた一人がそう告げる。
「僕もお願いします。全身、結構痛いので」
フィンが手を上げかけ、すぐに顔をしかめた。
「僕は動けます。切り傷と打撲くらいです」
エレディトも続ける。
「三人とも中へ」
直嗣が言うと、医療班が頷いた。
女の拘束が終わり、武器も回収される。
「搬送します」
「何があっても拘束は解くな」
「了解」
フィンが職員に肩を借りながら、直嗣を見る。
「ナオ。あとは任せた」
「ああ」
千綴は担架へ移され、エレディトも医療班とともに建物へ向かう。フィンもその後へ続いた。
直嗣は三人を見送ると、駐車区画の外へ視線を巡らせた。
遠距離攻撃をしていた相手は、まだ見つかっていない。
外周へ散った警備要員の動きを確認してから、直嗣も建物へ戻った。
中へ戻る頃には、三人とも処置へ回されていた。
直嗣自身も傷を確認され、必要な手当てを受ける。動けないほどではない。
千綴の左腕は処置が進み、命に関わる状態ではないと聞いた。フィンも骨に異常はなく、エレディトの傷も深くはない。
ひと通り状況が落ち着いたところで、直嗣は携帯を取り出した。
時間を確認してから、榊へ連絡を入れる。
「榊さん、朝倉です。遅い時間にすみません」
短く前置きして、必要なことだけを伝えた。
「こちらで問題がありましたが、今は落ち着いてます」
少し間を置く。
「千綴が怪我をしました。処置は終わっていて、命に関わる状態ではありません」
電話の向こうの返事を聞き、直嗣は続ける。
「今夜は千綴とエレディトをこちらで休ませます。学校にはこちらから連絡を入れます」
もう一度、短く間を置いた。
「明日、二人を送ります。その時に改めて説明させてください」
通話を終える。
今夜はこのまま施設に残る。
直嗣はもう一度、処置室の方へ視線を向けた。
目を開けて最初に見えたのは、見慣れない天井だった。
一瞬、どこにいるのか分からなかった。部屋の明るさや、カーテンの隙間から差し込む昼の光をぼんやり眺めているうちに、少しずつ意識がはっきりしてくる。
身体を起こそうとして、左腕に力を入れた。
「っ……」
痛みが走った瞬間、昨夜のことが鮮明に戻ってきた。
暗がりから飛んできた攻撃。腕を貫いた痛み。倒れたフィン。それから、目を開けた顔。
千綴は息を吐き、左腕を見る。
処置の跡が残っていた。まだ少し痛むものの、ゆっくり動かす程度なら、どうにかなりそうだった。
ベッド脇の時計へ目を向ける。
昼はとっくに過ぎている。
千綴はしばらく時計を見たあと、ゆっくり身体を起こした。
着替えには少し手間取った。左腕を上げるたびに痛みが走り、袖を通す時だけはどうしても動きが遅くなる。
それでも身支度を済ませ、部屋を出た。
宿泊区画を抜けた先で、人の話し声が聞こえた。
そちらへ向かうと、直嗣とフィンがいた。
「あ」
先に気づいたのはフィンだった。
「千綴さん。起きました?」
「はい」
昨日と同じ声が返ってきたことに、胸の奥が少し緩む。
フィンは椅子に座ったまま、こちらへ顔を向ける。
「大丈夫ですか」
「全身痛いですけど、まあ」
「……よかった」
それだけ言うと、千綴の方が少しだけ肩の力を抜いた。
直嗣がこちらを見る。
「もう大丈夫か?」
「はい。まだ力を入れると痛いですけど」
「無理するな」
「はい」
千綴は周囲を見た。
「エレディトは?」
「訓練場だ」
「……どうして?」
「無理はするなとは言ってある」
千綴は少し眉を寄せた。
「見てきます」
「お前も無理するな」
「はい」
訓練場へ向かう。
中を覗くと、エレディトは一人で、足運びや構えを確かめるようにゆっくり動いていた。
「エレディト」
呼ぶと、動きが止まった。
「千綴先輩」
エレディトがこちらへ来る。
「大丈夫ですか」
「私は平気。エレディトは?」
「僕も大丈夫です。傷も浅いですし」
「ならよかった」
ところどころに処置の跡が残っている。それでも、動きそのものに大きな支障はなさそうだった。
千綴は訓練場の中へ入った。
「まだ休んでなくていいの?」
「激しいことはしてません。少し、動きを確認したくて」
その言い方に、千綴はすぐには返さなかった。
「昨日のこと?」
「……はい」
エレディトは少し視線を落とした。
「前は、もう少しできると思ってました」
「環の時?」
「はい」
あの時は、エレディト一人で相手を抑えていた。
「でも昨日は、朝倉さんに何度も助けてもらいました」
声は落ち着いていた。
「思ってたより、何もできませんでした」
千綴は少し考える。
「でも、昨日の相手は環の時とは全然違ったでしょ」
エレディトが顔を上げる。
「朝倉さんもフィンさんも、余裕があったわけじゃないし」
「……はい」
「エレディト一人の問題じゃないよ」
エレディトは何も言わなかった。
少しだけ目を伏せる。
「でも、助けてもらってばかりでした」
「一人で全部やる必要ないでしょ」
千綴はそう言って、少しだけ左腕を見た。
「私だって、フィンさんのところに行きたくても行けなかったし」
「千綴先輩は怪我してました」
「うん。でも、私があの中に入って何かできたわけじゃないよ」
エレディトが黙る。
「昨日うまくできなかったことだけで、全部決めなくてもいいと思う」
千綴はエレディトを見る。
「できることからでいいでしょ」
エレディトの表情が止まった。
ほんの少しだけ、驚いたように目が開く。
「……はい」
少し間を置いて、エレディトが息を吐いた。
「そう、ですね」
まだ完全に納得したわけではなさそうだった。
それでも、さっきまでより肩の力は抜けていた。
「今日は、もう少しだけ確認したら終わります」
「ほんとに無理しないでね」
「はい」
千綴は入口の方へ向き直る。
「終わったら上に戻ろ。私も、まだ聞いてないことあるし」
「分かりました」
背後で、エレディトがもう一度ゆっくり構えを作る気配がした。
訓練場を出て戻ると、直嗣とフィンはまだ同じ場所にいた。
フィンは椅子に座ったまま、背もたれへ身体を預けている。千綴が戻ってきたのを見ると、片手だけを軽く上げた。
「エレディトは?」
「もう少ししたら戻るって」
「そうですか」
千綴は直嗣の方を見る。
「朝倉さん。昨日の人は?」
「まだ意識は戻ってない。今はここの管理下だ」
それだけ聞いて、千綴は少し間を置いた。
「もう一人は?」
「見つかってない。敷地の外周と近隣も確認した」
千綴は眉を寄せた。
直嗣が続ける。
「学校には欠席の連絡を入れてある。榊さんにも昨夜連絡した」
「店長にも?」
「ああ。今日はこのまま二人を送る。その時に俺から説明する」
「分かりました」
そのあとは、言われた通り休むことにした。
食事を取り、しばらく横になる。眠るほどではなかったが、何もしないでいると身体の重さが少しずつ戻ってくる。
フィンも無理に動かず、エレディトも少しして訓練を切り上げて戻ってきた。直嗣は何度か席を外していたが、千綴には何をしているのかまでは分からない。
外の光が傾き始めた頃、直嗣が戻ってきた。
「帰るぞ」
その一言で、千綴はようやく今日が終わる気がした。
荷物をまとめ、施設を出る。
外はすっかり夕方の空気になっていた。
駐車区画へ出ると、昨日燃えていた車はもうなかった。周囲もすでに片づけられている。それでも、舗装には黒い焦げ跡や細かな傷が残っていた。
千綴はそこを一度見てから、直嗣の車へ向かった。
車が走り出してからも、会話はほとんどなかった。
エレディトは窓の外を見ている。直嗣も前を向いたまま運転していた。
千綴も流れていく景色を眺める。
左腕はまだ少し痛む。
それでも、昨日のような緊張はなかった。
帰れる。
そう思うと、張っていた気持ちが緩んだ。
車の揺れに合わせて、頭がわずかに傾く。
一度だけ姿勢を直した。
まだ眠るつもりはなかった。
しばらく窓の外を見ていたはずなのに、気づけば、さっきまでどこを走っていたのか分からなくなっていた。
千綴はもう一度目を開けようとしたが、すぐに諦めた。
そのまま、車の揺れに身を任せた。