45-1
黒板を走っていたチョークが止まり、白い線の先に新しい文字が加わった。千綴は教師の声を聞きながらそれを写していった。
斜め前で消しゴムが床へ落ち、椅子の脚が小さく鳴った。教師は振り返ることなく説明を続けている。
千綴はページをめくり、左手の指で紙の端を押さえながら、右手のペンを次の行へ滑らせた。今では何でもないその動きに、学校へ戻ったばかりの頃の感触が重なった。
千綴は鞄の口を開き、一限目の教科書とノートを取り出した。次の教科の分も出そうとして、鞄の奥へ右手を伸ばす。
「ちづる」
「ん?」
顔を上げると、前の席の綾乃が身体をひねっていた。
「休んでたけど、どうしたの?」
「ああ。ちょっと体調崩してただけ。もう平気」
「ほんと?」
「うん」
綾乃はまだ何か言いたそうだったが、別の席から名前を呼ばれて前を向いた。
千綴も鞄へ視線を戻す。底に横向きになっていた筆箱へ左手を伸ばしかけたが、途中でやめ、鞄を少し引き寄せて右手で筆箱を取る。
その動きに、自分でも一拍遅れて気づいた。
千綴は茶碗を机へ置いたまま何口か食べたあと、左手を添えて持ち上げようとする。ほんの少し頼りなさを感じて机へ戻すと、茶碗の底が小さく音を立て、千綴は手を離した。
「ちづる」
綾乃が箸を止めた。
「今の、痛かった?」
「痛くはないよ。ちょっと違和感あっただけ」
横から環が顔を上げる。
「朝から左腕、あんまり使ってないよね」
千綴は一瞬だけ言葉に詰まった。ヴァシリオスも手を止める。
「そういや、右手ばっか使ってたな」
「……ちょっと転んだだけ。もう大丈夫」
「ほんとに?」
「うん」
綾乃はすぐには食事へ戻らなかった。環も何も言わず千綴を見る。ヴァシリオスが口を開きかけたところで、環が先に言った。
「今日はもういいんじゃない」
少し間を置いて、綾乃が箸を持ち直す。
「無理はしないでね」
「分かってる」
千綴も右手で茶碗を持ち上げた。
千綴は左手で教室の戸を押さえ、環が出るのを待ってから手を離した。廊下へ出たところで、向こうから歩いてきた一年生の集団の中に、頬に小さな絆創膏を貼ったエレディトがいた。
「あれ」
環が足を緩める。
「エレディトも怪我してない?」
少し先で、隣を歩いていた生徒がエレディトへ声をかけた。
「休んでたけど、もう大丈夫?」
「はい。もう問題ありません」
ヴァシリオスがエレディトの背中を見たあと、千綴へ目を向ける。環も何も言わずにこちらを見る。
「……たまたまだから」
聞かれる前に言った。ヴァシリオスの眉が上がる。
「まだ何も言ってないぞ」
環がエレディトの方をもう一度見る。
「前にも、こういうのあったよね」
千綴は返事をしなかった。ヴァシリオスも、それ以上は聞かなかった。
昇降口で靴を履き替え、千綴は鞄を右肩へ掛け直した。そこへ、悠司が隣に来る。
「千綴」
「なに?」
「まだ左腕、気になるのか?」
千綴の手が止まる。悠司はそれ以上近づかず、声を落とした。
「言えないなら、無理に聞かない。ただ、本当に大丈夫なんだな?」
「うん。大丈夫」
「ならいい」
悠司はそれだけ言って、自分の靴へ視線を落とした。千綴も紐を結び直す。
「ありがと」
「別に」
外へ出ると、先に出ていた生徒たちの声が坂の方へ流れていた。
黒板を軽く叩く音がした。
「――ここ、試験に出すからな」
教師の声に続いて、教室のあちこちでペンが走る。
千綴は現在へ意識を戻し、ノートを見る。
左手はページの端を押さえたまま、もう気にも留めていない。
そのまま右手で、書きかけだった一行の続きを埋めた。
教師が次の項目へ移り、黒板にまた文字を書き始める。
チャイムが鳴り終わるより先に、教室のあちこちで椅子が引かれた。教師が最後に一言だけ付け足して教室を出ていく。千綴もノートを閉じ、教科書と一緒に机の中へ入れた。
「ちづる、食堂行こ」
前の席で綾乃が振り返る。
「うん」
環も席を立ち、窓側からこちらへやってくる。教室を出るころには、机の上にあったノートを一冊、小脇に抱えたヴァシリオスも追いついた。昼休みの廊下は、食堂や購買へ向かう生徒で混み始めている。
食堂へ入ると、話し声と食器の音が一気に近くなる。四人で列に並び、それぞれ昼食を受け取った。空いている席を探して進んでいると、奥の方で悠司が手を上げる。
「こっち、空いてるぞ」
「早かったね」
「今日は少し早く終わった」
五人はトレーを置き、席についた。千綴は箸を取り、茶碗へ左手を添え、そのまま持ち上げた。向かいに座った綾乃が、それを見て少し笑う。
「もう大丈夫そうだね」
「うん」
それだけで、話は食事の方へ戻った。しばらくして、ヴァシリオスが箸を止める。
「そういや、補習になったら修学旅行行けないって本当か?」
「何それ」
綾乃が顔を上げた。
「環が言ってた」
視線が環へ集まる。
「部活の先輩が言ってただけ」
「本当なのか?」
「知らない」
「知らないのかよ」
「聞いただけだから」
環はそのまま食事を続ける。悠司がみそ汁の椀を置いた。
「それ、毎年出る噂じゃないか?」
「去年も聞いた気がする」
綾乃が言う。
「補習と日程が被るとか、そういうやつ」
「実際に行けなくなった人は聞いたことないし、たぶん噂じゃない?」
千綴もそう返す。
ヴァシリオスの肩から、少し力が抜けた。
「なんだ。びっくりした」
「そんなに危ないの?」
綾乃が笑う。
「国語と社会がある」
「自覚あるんだ」
環が言う。
「あるから困ってるんだよ」
「数学と理科はできるのにね」
千綴が言うと、ヴァシリオスはすぐに頷いた。
「そっちは分かる」
「国語も分かって」
綾乃が返す。
「読むのは分かる」
「試験は読むだけじゃないでしょ」
「そこが面倒なんだよ」
ヴァシリオスが箸を動かしながら言う。綾乃も少しだけ顔を曇らせた。
「人のこと言えないけど。私も数学はちゃんとやらないと」
「綾乃はそこだよね」
「赤点取るほどじゃないよ」
「まだ誰も赤点って言ってない」
環の一言に、綾乃は少しだけ口を閉じた。
悠司は気にした様子もなく食事を続けている。ヴァシリオスがそちらを見る。
「悠司は余裕そうだな」
「いつも通りだ」
「そういうところだぞ」
「何がだ」
千綴は二人のやり取りを聞きながら、みそ汁を一口飲んだ。
「ちづるは?」
綾乃に聞かれ、千綴は少し考える。
「私も、いつも通りかな。英語は前よりちゃんとやろうと思ってるけど」
「英語?」
「苦手ってほどじゃないよ」
あの日、目の前で交わされていた英語を、自分だけ追えなかった。内容を理解できないまま会話だけが先へ進んでいった感覚は、まだ残っている。
「できるに越したことないかなって」
「それはそうだね」
綾乃が頷く。
「まあ、補習にならなければいいんだし」
「なら問題ないな」
ヴァシリオスの言葉につられて、環がそちらを見る。
「そんなに行きたいんだ」
「当たり前だろ」
返事だけは早かった。
「沖縄だぞ」
「知ってる」
「二日目は自由行動だぞ」
「それも知ってる」
「なら楽しみだろ?」
「私は普通に楽しみ」
「じゃあ同じじゃないか」
「テンションが違う」
環が言うと、綾乃が笑った。
「でも中村くん、前からずっと調べてるよね」
「当然だ」
ヴァシリオスはそう言って、トレーの脇に置いていた一冊のノートへ手を伸ばした。
「もうまとめてる」
「何を?」
「行きたい場所と、食いたいもの」
ヴァシリオスがノートを表へ返すと、黒い表紙いっぱいに金色の線が走り、中央には文字とも模様ともつかない形が描かれていた。千綴は思わず手を止めた。
「……それ」
環もノートを見る。
「変なノート」
「いいだろ、これ」
「そこは好み」
ヴァシリオスは気にせず、表紙を千綴へ向けた。
「千綴、知ってるのか?」
「文化祭のときに見たよ」
「売ってたやつ?」
「うん。店員に勧められた」
「買わなかったのか?」
「買わなかった」
「なんで?」
千綴は表紙を見た。
「見たままかな」
環が頷く。
「分かる」
「分かるな」
「分かるよ」
ヴァシリオスは不満そうだったが、すぐにノートを開いた。
「中は普通だぞ」
「余計変じゃない?」
綾乃が笑う。
「で、何書いたの?」
「これだ」
ヴァシリオスがめくったページには、場所の名前と食べ物が縦に並んでいる。それが次のページにも、さらにその次にも続いていた。
「多くない?」
綾乃が目を丸くする。
「まだ増える」
「増やすんだ」
「沖縄そば、タコライス、ステーキ、サーターアンダギー、海ぶどう――」
「食べ物ばっかり」
環が言う。
「場所もある」
ヴァシリオスが別の列を指した。
「水族館、海、買い物できるところ、食べ歩きできるところ――」
千綴は並んだ項目を追って、途中で指を止めた。
「これ、学校で行く予定のところまで入ってない?」
ヴァシリオスもそこを見る。
「行きたい場所には変わらないだろ」
「そこまで候補に入れるの?」
綾乃が笑う。
「行くなら入る」
ヴァシリオスは当然のように言った。環が少しだけノートを覗き込む。
「二日目、一日しかないよ」
「分かってる」
「全部は無理」
「タクシー使えば結構回れるだろ」
「距離見た?」
「まだ」
「先に見なよ」
「これから見る」
「逆」
短く言われ、ヴァシリオスが環を見る。
「何がだ?」
「順番」
綾乃が吹き出した。
「まず場所決めてから調べるの、中村くんらしいね」
「行きたい場所がなきゃ調べようがないだろ」
「それはそうだけど」
千綴もノートへ目を落とす。班が決まる前の今なら、まだ好き勝手に候補を増やせる。悠司がページを眺めながら言った。
「班が決まったら、他のやつの希望も入るぞ」
「全部入れればいい」
「一日しかないだろ」
「朝から動く」
「帰着時間もある」
悠司に言われ、ヴァシリオスが止まった。
「……何時だ?」
「まだ正式には聞いてない」
「なら確認だな」
ヴァシリオスはすぐにノートへ書き足した。環がその手元を見る。
「そこからなんだ」
「大事だろ」
「今さらだけどね」
綾乃が笑う。
ヴァシリオスは気にせずノートを閉じ、そのまま横に置いたスマートフォンへ手を伸ばした。
「そういや」
画面を何度か送ったところで、指が止まった。
「この人、また出てるな」
「誰?」
綾乃が覗き込む。
「医療の記事だ」
ヴァシリオスがスマートフォンをテーブルの中央へ寄せた。画面には、一人の男性の写真と、
「あ、この人」
「知ってるの?」
千綴が聞く。
「前に見たよね。テレビにも出てた人」
ヴァシリオスも写真を見直した。
「ああ。じいちゃんと一緒に写ってた人だ」
そこで千綴の記憶も繋がる。前にこの食堂でヴァシリオスが見ていた、世界の金持ちを並べた記事。その関連写真に、彼の祖父と何人かが並んでいた。
「発明とか、新しい研究とかで出てた人だっけ」
「たぶん」
綾乃が画面を覗き込み、悠司も少し身を乗り出した。
「今回は何だ?」
ヴァシリオスが記事を下へ送る。
「自分の細胞から、移植に使う臓器を作る技術らしい」
「臓器を?」
千綴も画面を見る。
「まだ普通の病院で使える段階じゃないみたい」
綾乃が記事を追いながら言う。
「でも、かなり実用化に近いって」
「自分の細胞なら、拒絶反応も減らせるってことか?」
悠司が聞く。
「そうみたいだね」
「すごいな」
悠司が短く言い、環も画面を見た。
「待ってる人、減るならいいね」
「そうだね」
千綴も頷き、研究発表の壇上で穏やかに笑う天原の写真を見た。記事には、移植を待つ期間を短くできる可能性や、提供者不足を改善できるかもしれないことが並んでいた。
「じいちゃん、何でこの人と知り合いなんだろうな」
ヴァシリオスが言う。
綾乃が笑う。
「それ、前も言ってなかった?」
「言ったか?」
「言ってたよ」
「覚えてない」
「そこは覚えててよ」
ヴァシリオスは肩をすくめ、スマートフォンを置いた。その横には、金色の線が走る黒いノートがあり、環がそちらを見た。
「やっぱりノートの方が気になる」
「まだ言うのか」
「見た目が強い」
「かっこいいだろ」
「それは分かんない」
綾乃が笑い、千綴も残っていたご飯を口へ運んだ。
少し離れた席で椅子が引かれ、返却口から食器の重なる音が聞こえる。
千綴は壁の時計を見た。
「そろそろ戻ろっか」
「もうそんな時間?」
綾乃も時計を見る。五人は残りを食べ終え、トレーを持って席を立った。
午後の授業が終わるころには、窓の外は朝より少し暗く見えた。最後のチャイムが鳴ると、教室のあちこちで教科書を閉じる音が重なる。
いつもなら生徒がそのまま部活へ向かって廊下へ飛び出していく時間だが、期末試験前で放課後の部活動は原則休止になっており、校舎の中はいつもより静かだった。
「なんか静かだね」
綾乃が鞄へノートをしまいながら言った。
「いつもならもう走ってる人いるもんね」
千綴も机の中を確認する。窓側では、ヴァシリオスがつまらなそうに外を見ていた。
「ボール触るくらいはいいだろ」
「だめじゃない?」
環が言う。
「部活じゃなければ」
「そういう問題?」
綾乃が笑う。ヴァシリオスは少し考えたあと、諦めたように鞄を肩へ掛けた。
「じゃあ帰るか」
環も鞄を持ち、二人は先に教室を出ていった。
「ちづるは今日バイト?」
「うん」
「じゃあ、また明日ね」
「また明日」
綾乃と別れ、千綴も鞄を持って教室を出た。廊下には帰る生徒が多く、部室棟へ向かう人影はほとんどない。昇降口へ向かう途中、教室の方からまだ笑い声が聞こえていた。
丘平商店の扉を開けると、入口の鈴が小さく鳴った。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
巴はレジの奥で伝票を見ていた。顔を上げると、千綴を頭から足元まで一度見る。
「今日は顔色いいね」
「もう普通ですよ」
「そうみたいだね」
千綴は奥へ入り、制服の上からエプロンをつけた。
売り場へ戻ると、店内にはラジオが低く流れている。
レジ横の商品を整えてから、棚の補充へ回る。
いつもの位置にある菓子を前へ出し、減っている日用品を確認する。
作業を進めていると、巴が奥から声をかけた。
「千綴」
「はい?」
「そっち終わったら、レジお願い」
「分かりました」
千綴は残っていた商品を並べ、レジへ戻った。夕方の早い時間は、学校帰りの制服姿の中学生や高校生が続いた。
「袋いりますか?」
「大丈夫です」
「ありがとうございます」
会計を終えるたび、千綴は売り場を見て回り、乱れた商品を整えながら、必要なところだけ補充する。レジへ戻れば、今度は夕食前の買い物に来た常連客が待っている。
「あら、今日はいるのね」
「はい。お久しぶりです」
「もう元気?」
「もう大丈夫です」
それだけ話して、惣菜と調味料を袋へ入れる。
客が一度途切れると、店の中にはラジオの音が戻った。
千綴はレジ下のメモを確認し、次に補充する棚を見に行く。
外が少しずつ暗くなるにつれて、今度は仕事帰りらしい客が増えてきた。
飲み物、惣菜、日用品。
同じ会計でも、夕方前とは籠の中身が少し違う。
入口の鈴が鳴るたびにレジへ戻り、客を見送ればまた売り場へ出る。
何度かそれを繰り返したあと、ようやく店内が静かになった。
千綴は空いているうちに補充を進めようと、レジ横に置かれていた箱へ手を伸ばした。
「それはいいよ」
奥から巴の声が飛んでくる。千綴の手が止まった。
「これくらい持てますよ」
「持てるのと、持たせるのは別」
「もうほとんど平気です」
「そう言う子ほど分かってないんだよ」
巴は伝票を置いて立ち上がった。
「レジと棚はいつも通りでいい。重いのはまだやらなくていいから」
「でも――」
「でもじゃない」
千綴は、飲料のまとまって入った箱を見た。持てない重さではなかったが、ここで押し問答しても巴が折れないのは分かっていた。
「……分かりました」
「最初からそう言えばいいの」
巴は箱を奥へ寄せる。
千綴は少しだけ口を尖らせたが、すぐに別の棚へ回った。
その後も、客が来ればレジへ入り、空いた時間には軽い商品の補充を続けた。
ラジオの番組が一度変わり、外の通りに灯りが目立つようになる。
夜の客足が落ち着くころには、店内の客も少なくなっていた。
「千綴、今日はここまででいいよ」
「はい」
「帰ったら勉強するんでしょ」
「一応」
「一応じゃなくて、学生はそっちが本業」
「店長がそれ言います?」
「言うよ。ほら、上がりな」
千綴は笑いながらエプロンを外した。
「お先に失礼します」
「お疲れ。またね」
「お疲れさまでした」
店を出ると、外の空気は店内よりずっと冷たかった。千綴は鞄を持ち直し、家へ向かった。
帰宅してから始めた勉強も後半に入り、机の上には開いたノートと教科書が広がっていた。千綴は椅子に座ったまま、書き終えた行へ線を引く。
ページをめくる。
昼に話した修学旅行のことが少し頭へ浮かんだが、すぐに目の前へ意識を戻した。
今はその前に試験がある。
次の範囲へ進み、ノートへ短く書き足す。
しばらくして、ちょうど区切りのいいところまで進んだ千綴は、書いたところを上から見直した。
ノートを閉じ、教科書へ挟んでいた付箋を整えて机の端へ重ねた。椅子の背へ身体を預けると、部屋の中が少し静かになる。
千綴は立ち上がり、明日使う教科書とノートを鞄へ入れた。机の端に置いたスマートフォンで目覚ましを確認し、最後に机の明かりを消した。