休日の朝にしては、部屋の中が少しだけ片づいていた。
千綴は低いテーブルの端へ積んでいた雑誌を持ち上げ、机の上へ移す。空いたところを布巾で拭いてから、床に置いた鞄から英語の教科書と問題集、ノート、筆箱を取り出した。自分の分だけなら、いつもの机で足りるが、今日はそうはいかない。
千綴はテーブルの周りを見渡した。五人も入れば、普段一人で使っている部屋は狭くなりそうだった。上着も重なるだろうから、壁際へ寄せたものをもう少し詰め、荷物を置けそうな場所を空ける。
スマートフォンを見ると、十時まではまだ少しある。千綴は暖房の効いた部屋から、窓の外へ一度目をやる。ここ最近、朝の冷え込みが急に厳しくなり、窓越しに見る外は、出かける気が少し削がれるくらい寒そうだった。
インターホンが鳴った。
「早い」
思わず呟いてから、千綴は玄関へ向かう。扉を開けると、綾乃と悠司が並んで立っていた。
「おはよ」
「おはよう」
「おう」
綾乃が肩へ掛けていた鞄を持ち直す。
「途中で会った」
「そこから一緒に来た」
悠司が続けた。
「二人とも近いもんね。入って」
千綴が身体を壁際へ寄せると、二人が順に玄関へ入る。靴が二足増えただけで、入口が急に狭く見えた。
「五人来たら、結構すごそう」
綾乃も同じことを思ったらしく、靴を揃えながら言う。
「たぶん狭いよ」
「今さら?」
「今さら」
千綴は笑って、二人を部屋へ通した。悠司が壁際の空いたところへ鞄を置く。
「ここでいいか?」
「うん。上着もその辺でいいよ」
綾乃も鞄をその隣へ置き、テーブルを見る。
「もう始めてた?」
「まだ。今片づけてたところ」
「じゃあ先にやろっか」
「そうだね」
全員が来るまで待つ理由もないので、千綴は自分の教材を取り、テーブルについた。綾乃もその隣へ腰を下ろし、悠司は向かい側へ座った。
「そっち狭くない?」
綾乃が聞く。
「別に」
「あと一人来るよ」
「分かってる」
悠司は気にせず教科書を開いた。千綴も英語の問題集を広げ、ノートへ答えを書き込んだ。
綾乃が数学の教科書と問題集を交互に見ていた。しばらくすると、シャープペンシルの動きが止まる。
「ねえ、これ」
綾乃が問題集を千綴の方へ少し寄せた。
「どれ?」
「途中までは分かるんだけど、ここから何でこうなるの?」
千綴も式を見る。
「これ、先にこっちまとめるんじゃない?」
「そこ?」
「たぶん」
向かいから悠司が覗き込んだ。
「その前だな」
「え?」
「ここで符号変わってる」
悠司が指先で一つ上の式を示す。綾乃が示された式を見直した。
「あ」
「そこじゃない?」
千綴が言う。
「……ほんとだ」
綾乃は消しゴムを取り出した。
「こんなところで間違えてた」
「早めに気づけてよかったでしょ」
「そうだけど」
消しゴムのかすを手で集めながら、綾乃が息を吐く。
そのとき、もう一度インターホンが鳴った。
「来たかな」
玄関の扉を開けると、ヴァシリオスが両手に袋を持って立っていた。片方は大きく膨らんでおり、もう片方からはペットボトルが何本か覗いている。
「お、やってる?」
妙に気軽な声だった。部屋の奥から悠司が返す。
「やってるも何も、遅いぞ」
「まだ十時だろ」
「過ぎてる」
ヴァシリオスがスマートフォンを見る。
「五分じゃねえか」
「遅いのは遅い」
「悪い悪い」
そう言いながら、ヴァシリオスは靴を脱いだ。千綴はヴァシリオスが持つ袋を見る。
「それ、何?」
「差し入れ」
「多くない?」
「五人いるんだぞ」
「だからって、その量?」
袋の中には、小さな菓子の袋や箱がいくつも詰まっていた。もう片方には炭酸飲料とお茶、ジュースが入っている。
「足りないよりいいだろ」
「勉強しに来たんだよね?」
「そのために選んできたんだよ」
部屋へ入ると、綾乃が袋を覗き込んだ。
「ほんとにいっぱいある」
「ポテチないんだ」
千綴も中を見る。
「手、べたべたするだろ。ノート汚れるし」
「勉強しながら食べやすいやつにしたんだ」
「なるほど」
ラムネや飴、グミ、小袋のせんべい。量は多いが、確かに手を汚しにくいものが多かった。
ヴァシリオスは飲み物の袋を台所側へ置いた。
「冷たい方がいいやつ、入れていいか?」
「いいよ。適当に入れといて」
「了解」
戻ってくると、悠司の隣へ座る。向かい側は、二人並ぶだけで目に見えて狭くなった。
「狭いな」
「だからそっち、二人だときついと思うよ」
千綴が言う。
「おまえ、もうちょいそっち行けるだろ」
「無理だ」
「即答かよ」
「そっちがでかいんだろ」
ヴァシリオスは一度黙り、自分と悠司の間を見た。
「……まあいいか」
「いいんだ」
綾乃が小さく笑う。
ヴァシリオスも鞄から国語と社会の教科書を出した。
「最初からそこなんだ」
千綴が言う。
「苦手から潰す」
「やっぱりそこなんだ」
綾乃が言う。
「後に残したくないからな」
四人分の教科書とノートでテーブルの空いていたところはほとんどなくなった。だが、まだ環が来ていない。スマートフォンを見ても、連絡はなかった。
「環、まだだね」
「寝てるんじゃない?」
綾乃が何気なく言う。
「ありそう」
ヴァシリオスも頷いた。
悠司だけは気にした様子もなく、問題集のページをめくる。
「来たら始めるだろ」
「もう私たちは始めてるけどね」
千綴も英語の問題へ視線を戻した。部屋の中には紙をめくる音が増えていた。ときどきヴァシリオスが小さく唸り、綾乃のシャープペンシルが止まり、悠司が短く答える。千綴も分からない単語へ印をつけ、辞書を開いた。
インターホンが鳴ったのは、それからしばらくしてからだった。
「やっと来た」
ヴァシリオスが顔を上げる。
千綴は玄関へ向かった。扉の向こうにいた環は、いつもとほとんど変わらない顔をしていた。
「おはよう」
「おはよう」
千綴は少しだけ間を置く。
「遅かったね」
「寝てた」
「やっぱり」
「寝坊?」
「うん。起きたらもう出る時間だった」
環はそれだけ言って靴を脱ぐ。部屋へ入ると、ヴァシリオスがすぐに言った。
「遅いぞ」
「寝てた」
「理由になってねえだろ」
「でも来た」
「そういう問題か?」
「たぶん」
環は気にせず壁際へ鞄を置き、綾乃が笑いながら少し場所を空ける。
「ここ座れるよ」
「ありがと」
環は綾乃が空けた場所へ座った。五人揃ったところで千綴は改めて部屋を見渡した。鞄と上着が壁際に重なり、テーブルいっぱいの教科書とノートの隙間にはヴァシリオスの持ってきた菓子も少し置かれ、一人のときには気にならない広さがずいぶん違って見えた。
「じゃ、やるか」
ヴァシリオスが社会の教科書を開き直す。
「もうやってたでしょ」
環が言う。
「今から全員揃ったって意味だよ」
「そういうことにしとく」
千綴も問題集へ目を戻した。五人分のページをめくる音が、狭い部屋の中で重なった。
紙をめくる音や、シャープペンシルの芯が走る音が聞こえる。ときどき誰かが小さく息を吐くが、五人揃ってからもしばらく話し声は上がらなかった。
千綴は英語の問題集を一ページ進め、丸をつけた単語をノートの端へ書き出した。次の英文を読み始めると、単語の意味も文の形も分かるのに、長い文の途中で目が戻る。千綴はもう一度、最初から読み直した。
「そこ、何でそれになるんだ?」
向かいからヴァシリオスの声がする。顔を上げると、社会の資料集を開いたまま、悠司の方へ問題集を寄せていた。
「どこだ」
「ここ。答えはこれで合ってると思うんだけど、この説明がいまいち繋がらない」
悠司は少しだけ身を乗り出し、問題集を見る。
「この制度の前提、分かってるか?」
「そこが怪しい」
「じゃあ先にこっち」
悠司が資料集の一か所を指すと、ヴァシリオスはそちらへ目を落とした。
「ああ。だからこれになるのか」
「そういうこと」
ヴァシリオスは一度頷いてから、自分の問題集へ戻った。千綴もまた英文へ視線を戻す。
しばらくして、隣の綾乃がノートを見直しながら小さく唸った。
「今度は合ってると思う」
「さっきより丁寧に書いてるね」
「同じとこで間違えたくないし」
綾乃は答えを確認して、ようやく丸をつけた。その横で、環は教科書を閉じ、別の問題集へ取り替えていた。
「もう次?」
千綴が聞く。
「ここ終わったから」
「早いね」
「普通」
「環ってそういうとこ淡々としてるよね」
「止まっても終わらないし」
「正論」
綾乃が苦笑する。
千綴は自分のノートへ目を戻す。まだ途中のページを見ると、少しだけ急ぎたくなった。
向かいでヴァシリオスがテーブルの端へ手を伸ばし、置いてあったラムネの袋を取った。
「もう食べるの?」
「頭使ってるからな」
「まだ午前中だよ」
「午前中だからいいんだろ」
袋を開ける音が、妙に大きく響いた。ヴァシリオスは一粒口に放り込むと、そのまま袋を中央へ置く。
「食う?」
「もらう」
環が最初に手を伸ばした。
「早いね」
「甘いの欲しかった」
「じゃあ私も」
綾乃に続いて千綴も少し迷ってから一粒取り、口に入れると、粉っぽい甘さがすぐに広がった。
「これ、結構いいかも」
「だろ?」
ヴァシリオスが少し得意げに言う。
「集中切れたときにちょうどいい」
「勉強中にはちょうどいいね」
綾乃が言う。
「選んだ甲斐あったな」
「量以外はね」
千綴が言うと、ヴァシリオスが袋の山を見る。
「五人ならこれくらいだろ」
「絶対多い」
「余ったら置いとけばいい」
「なんでうちに置く前提なの」
「また食えるだろ」
「誰が?」
「みんな」
「毎回来るつもり?」
「いいじゃん」
「よくないとは言ってないけど」
千綴はそう返してから、もう一粒だけラムネを取った。
その後も、勉強は思ったより順調に進んだ。誰かが詰まれば、別の誰かが少し見る。ヴァシリオスが国語の記述で唸り、綾乃が数学の式を何度も書き直し、環は科目を切り替えながら淡々と進める。悠司は自分の問題を解きながら、聞かれれば短く答える。千綴も英語の長文を一つ終え、間違えたところだけもう一度確認した。
時計を見たときには、思っていたより時間が進んでいた。
「そろそろ昼にしない?」
千綴が言う。綾乃が顔を上げ、壁の時計を見る。
「ちょうどいいかも」
「ここまでやったら一区切り」
悠司も問題集を閉じ、環は途中のページへ付箋を貼った。
「お腹すいた」
「さっきラムネ食ってたじゃん」
ヴァシリオスが言う。
「ラムネはご飯じゃない」
「正しい」
千綴は自分のノートを閉じる。ヴァシリオスの持ってきた菓子は、最初の見た目ほど減っていなかった。
「だから言ったでしょ。多いって」
「午後がある」
「昼ご飯もあるよ」
「軽めにすればいい」
「最初からそのつもり」
綾乃が立ち上がり、伸びをする。
「外出たら寒そう」
「近いから大丈夫でしょ」
千綴も立ち上がり、各自の教材を重ねてテーブルの端へ寄せる。五人分をまとめると、それだけでかなりの高さになった。ヴァシリオスは開けたラムネの袋を閉じ、残りの菓子と一緒に寄せた。
「どこ行く?」
環が聞く。
「
千綴が答える。
「近いし、ランチあるよ」
「いいんじゃない?」
綾乃が頷く。
「軽いやつある?」
ヴァシリオスが聞く。
「あるよ。サンドとか、ドッグとか」
「じゃあそこ」
「決まるの早いな」
悠司が言う。
「腹減ってんだよ」
「さっき軽めにするって言ってなかった?」
「軽めと腹減ってるは両立するだろ」
千綴は笑いながら上着を取り、部屋の暖かさから離れるのを少し惜しく思いつつ玄関へ向かった。並んだ五人分の靴を見て、改めて狭いと思う。
「順番に出ないと無理だね」
「そりゃそうだろ」
千綴は部屋側へ一歩下がった。悠司が靴を履いて外へ出ると、綾乃と環も順に続いた。ヴァシリオスは上着のポケットへスマートフォンをしまい、空いた玄関で靴を履く。
「鍵持った?」
「持った」
「確認早いね」
「閉め出されたら困るだろ」
「私の家なんだけど」
ヴァシリオスを見送ってから、千綴は部屋を振り返った。テーブルの端には、重ねた教科書とノート、まとめた菓子が残っている。照明と暖房を消し、千綴も玄関を出た。
外へ出ると、部屋の中との温度差が思ったより大きかった。
「寒っ」
綾乃が肩をすくめる。
「寒いって言っただろ」
ヴァシリオスがポケットに手を入れた。
「言ってないよ」
「言ってなくても分かるだろ、この寒さなんだから」
「後付けじゃん」
千綴は二人のやり取りを聞きながら玄関の鍵を確認し、遠くない商店街へ向けて歩き出した。歩道が狭く、五人は少し前後に分かれて歩いた。
「環、ほんとに寝てたんだ」
綾乃が隣で言う。
「うん」
「起きたらもう出る時間だった?」
「そんな感じ」
環は特に悪びれた様子もない。千綴は笑いながら前を見る。
「でも来たからいいんじゃない?」
「ちづるが甘い」
「そうかな」
「たぶん」
環が自分で言って、少しだけ口元を緩めた。
休日の昼前らしく人通りの増えた商店街で、千綴たちは買い物袋を持つ人の間を抜け、見慣れた店先をいくつか通り過ぎる。ヒンメルス・クノーテンの前まで来ると、綾乃が先に扉を開け、中から暖かい空気と珈琲の匂いが流れてきた。
五人なので少し待つかと思ったが、奥の席へ案内され、上着を脱いで腰を下ろした。千綴は椅子の背へ身体を預け、ひと息ついた。
「何にする?」
綾乃が開いたメニューを、千綴も一緒に覗き込んだ。
「私はタマゴサンドかな」
「じゃあ私もそれ」
「環は?」
「ドッグ」
「早い」
「もう決めた」
向かいでは、ヴァシリオスがメニューをじっと見ている。
「ナポリタンあるじゃん」
「あるよ」
「でも重いか」
「午後もやるなら、軽い方がいいんじゃない?」
千綴が言う。
「だよな」
悠司がメニューを閉じる。
「俺はドッグでいい」
「じゃあ俺もそれ」
ヴァシリオスも続けた。
「結局そっちなんだ」
「軽い方が午後も動ける」
「まだ国語残ってるもんね」
綾乃が言う。
「あれは今日のうちにもう少しやる」
ヴァシリオスはメニューを閉じた。注文を済ませると、一気に手持ち無沙汰になった。さっきまで問題集を開いていたせいか、何もテーブルの上にないだけで妙に広く感じる。
「午前だけで結構進んだよね」
綾乃が言う。
「思ったよりは」
千綴も水へ手を伸ばす。
「午後も続き?」
「俺は国語」
ヴァシリオスが言う。
「社会は?」
「午前でだいぶやった。次は記述」
「そこ苦手そう」
綾乃が言う。
「苦手そうじゃなくて苦手なんだよ」
環が小さく笑ったところで、料理が運ばれてきた。
千綴がタマゴサンドを持ち上げると、厚めのパンと挟まれた卵が、思ったよりずっしりと手に重みを伝えた。
「いただきます」
隣で綾乃も続いた。向かいでは、ヴァシリオスが注文したドッグを見ている。
「パン、普通のじゃないんだな」
「そこが売りなんじゃない?」
悠司が先に一口食べ、ヴァシリオスも続いた。
「うまい」
「早いね」
「分かるだろ、一口で」
環も無言で食べ進めている。
「どう?」
千綴が聞く。
「おいしい」
「それだけ?」
「十分でしょ」
「まあ、そうだけど」
綾乃が笑う。
食事の間は、勉強の話ばかりにはならなかった。
「朝より寒くなってない?」
綾乃が窓の方を見る。
「帰る頃はもっと寒いだろうな」
悠司が言う。
「その頃には腹も減ってる」
ヴァシリオスが続け、環が「今食べてる」と返した。
そこから話題は修学旅行や学校帰りに寄る店へ移り、午前に開けた菓子の話になったときだけ、ヴァシリオスが「ラムネが一番だろ」と妙に自信ありげに言っていた。千綴は笑いながら最後の一切れを食べ、午前中に菓子をつまんでいた分、これくらいがちょうどよかったと思った。
食後の飲み物までゆっくり飲んでから、五人は店を出た。外の空気は、入ったときより少しだけ冷たく感じる。
「戻るか」
悠司が言う。
「うん」
「午後、寝たら起こして」
綾乃が言う。
「寝る前提なんだ」
千綴が笑う。
「言っといた方がいいかなって」
「俺は寝ねえぞ」
ヴァシリオスが言う。
「昼食後だし、みんな危ないんじゃない?」
千綴が笑う。
「それなら分かる」
ヴァシリオスも頷いた。
商店街を抜けて来た道を戻り、千綴の部屋へ着くと、朝よりも玄関の狭さに慣れていた。靴を脱いで千綴は自分の上着を戻し、四人も壁際へ上着を重ね、暖房を入れ直してからまた同じ場所へ座った。
「さて」
綾乃が座りながら言う。
「やりますか」
「その言い方、やる気なさそう」
環が言う。
「あるよ。今のところは」
「今のところって言った」
「午後長いから」
千綴も自分の教材を引き寄せ、午前中に付けた印のあるページを開いた。
「じゃ、続きやろう」
千綴はシャープペンシルを持ち、午前中の続きへ取りかかった。
午後は、午前ほど素直には進まなかった。最初のうちは千綴も英語の問題集を開いて午前の間違いを解き直せていたし、綾乃は数学へ戻り、悠司は別のページを進め、ヴァシリオスも宣言どおり国語を開いていた。
「これ、長くないか?」
「長文なんだから長いでしょ」
綾乃が言う。
「長文って言っても限度あるだろ」
「試験範囲なんだから仕方ないよ」
千綴も問題集から目を上げずに返した。
環は少し前から同じページを見ていた。手が止まっているわけではないが、午前よりページをめくる間隔が長い。千綴も似たようなものだった。
一文を読んで意味を取り、次へ進むはずなのに、途中で一度視線が戻る。さっき読んだところをもう一度追っていることに気づき、千綴は小さく息を吐いた。
「眠い?」
綾乃が横から覗く。
「ちょっと」
「私も」
「さっき寝たら起こしてって言ってたね」
「まだ寝てないからセーフ」
「そういう問題?」
向かいでヴァシリオスが欠伸を噛み殺した。
「休憩するか?」
環が見る。
「いや、ここまで終わらせる」
ヴァシリオスは開いているページへ目を戻した。悠司はペンを置き、肩を回した。
「じゃあ、それが終わったら一回休むか」
「賛成」
綾乃がすぐに答える。
「早いね」
「ちづるも眠いって言ったじゃん」
「言ったけど」
千綴もシャープペンシルを置いた。
テーブルの上は、教材と菓子でまた狭くなっている。
しばらくして、ヴァシリオスもペンを置き、立ち上がって腰を伸ばした。
「ちょっと動きてえな」
「外行く?」
「いや、寒い」
「それはそう」
綾乃が言う。
ヴァシリオスは、そのまま壁際の棚やテレビの周りへ視線を巡らせた。テレビ台の近くで目を止める。
「あれ」
「何?」
千綴もそちらを見る。ヴァシリオスが指した先に、Alter 2が置いてある。
「それ、Alter 2?」
「うん」
「持ってたのかよ」
「持ってるよ」
ヴァシリオスが少し近づく。
「普通に買えた?」
「普通に売ってたけど」
「こっちはそうなのか」
「向こうだと違うの?」
「全然見なかった。入ってもすぐなくなるし」
「そんなに?」
綾乃も興味を向ける。
「人気なんだ」
「人気っていうか、数が足りてない感じだったな」
ヴァシリオスは本体を眺めてから、千綴を見る。
「これ、やっていい?」
「いいよ」
返事をすると、ヴァシリオスの顔が少し明るくなった。
「何入ってる?」
「何個か。レースのならすぐできるよ」
「それやろうぜ」
「休憩の範囲でね」
千綴が言う。
「分かってるって」
悠司が教材を少し端へ寄せる。休憩の範囲で何戦か回すことにして、千綴は立ち上がり、テレビの電源を入れた。棚から四人分のコントローラーを出して、手の届くところへ置く。起動画面が映る。久しぶりに見る画面だった。
「ちづる、最初やらないの?」
綾乃が聞く。
「私は後でいいよ。先やって」
「持ち主なのに?」
「いつでもできるし」
「じゃ、遠慮なく」
ヴァシリオスが一番早くコントローラーへ手を伸ばした。
「おまえは遠慮しろ」
悠司が言う。
「何でだよ」
「早すぎる」
「早い者勝ちだろ」
「誰もそう言ってない」
環が別のコントローラーを取る。
「じゃあ私も」
「環も早いじゃん」
綾乃が笑う。
千綴は少し離れたところに座り、コントローラーを持った四人と一緒に画面を見ていた。
「操作分かる?」
「だいたい」
悠司が答える。
「俺もいける」
ヴァシリオスはすでにボタンを押している。
「始める前に説明見た方がいいよ」
「レースだろ?」
「そうだけど」
「走ればいい」
「雑」
綾乃が笑う。
コース選択が終わり、画面が切り替わる。開始の合図と同時に、四台が一斉に飛び出した。
「おい、押すな!」
「レースなんだから当たり前でしょ」
「今の環か?」
「違う」
「俺じゃねえぞ」
「じゃあ誰だよ」
「悠司じゃない?」
「知らん」
千綴は笑いながら画面を見る。誰が上手いというより、全員がまだ操作に慣れていない。曲がりきれずに壁へぶつかる者もいれば、アイテムを使う場所を間違える者もいる。
「これ何だ?」
「使ってみれば?」
「今?」
「知らない」
「千綴、持ち主だろ!」
「私もそんなにやってないよ」
「マジかよ」
ヴァシリオスが言った直後、画面の中で大きくコースを外れた。
「あ」
「落ちた」
環が言う。
「見れば分かる!」
綾乃が声を上げて笑った。一戦終わる頃には、さっきまでの眠気はかなり薄れていた。
「もう一回」
ヴァシリオスが言う。
「今度コース変えよ」
「次、ちづる入る?」
綾乃が振り返る。
「まだいいよ。もう一回やって」
「ほんとに?」
「うん」
千綴はテーブルの端にあったラムネを一粒取る。見ているだけでも退屈しなかった。途中で順番を入れ替えながら、二戦目、三戦目と続けた。綾乃が抜けたところで、今度は自分もコントローラーを持った。
「操作忘れてない?」
悠司が聞く。
「たぶん大丈夫」
「たぶんか」
「久しぶりだから」
「持ってる意味あるのか?」
ヴァシリオスが言う。
「一人ではあんまりやらないんだよ」
「もったいねえ」
「こういうとき使うからいいの」
千綴はスタートの合図に合わせてアクセルを押した。見ていたときより操作が忙しく、隣から飛んでくるヴァシリオスの声を聞きながら画面を追う。綾乃が後ろから笑い、環が淡々と順位を読み上げていた。
何戦か回したところで、全員が一度はコントローラーを持っていた。
「次、別のやつやる?」
綾乃が言う。
千綴は時計を見る。
「それはまた今度かな」
「もうそんな時間?」
「一時間近いよ」
「マジか」
ヴァシリオスも時計を見た。
「早かったな」
「休憩としては十分でしょ」
悠司がコントローラーを置く。
「戻るか」
「だね」
千綴もコントローラーを戻し、テレビの画面を消した。部屋が少し静かになり、テーブルにはさっきまでと変わらず問題集が残っていた。
「現実に戻された感じする」
綾乃が言う。
「最初から現実だよ」
環が返す。
「分かってるけど」
「次やるなら試験終わってからだな」
ヴァシリオスが言う。
「それならいいよ」
自分の席へ戻り、さっきまで止まっていた英語のページを開き直した。少なくとも、眠気はなくなっていた。
ゲームを終えたあとは、思ったよりすんなり勉強へ戻れた。さっきまでの眠気が飛んだせいか、千綴は英語の問題集を開いても、今度は同じ文を読み直すことがない。午後の残りは、新しい範囲へ手を広げるより、午前から引っかかっていたところを潰す時間になった。綾乃は途中式を丁寧に書き直し、ヴァシリオスも国語の記述へ戻る。環と悠司もそれぞれ自分の範囲を進めていた。
少し経つと、部屋の中は再び静かになった。シャープペンシルの音に、紙をめくる音や、ときどき菓子の袋が鳴る音が混じる。時間だけがゆっくり進んでいった。
千綴は一つ問題を解き終え、答えを確認した。答えは合っていたが、次へ進もうとして、窓の外が暗くなっていることに気づいた。
「もうこんな暗いんだ」
その声で、綾乃も顔を上げる。
「ほんとだ」
環が時計を見る。
「結構やったね」
「何時?」
ヴァシリオスが聞く。
「もう五時半近い」
「マジか」
悠司も時計を見る。
「そろそろ切るか」
千綴も問題集へ目を落とした。今解き終えたところで、ちょうど区切りがついていた。
「私も、今日はここまででいいかな」
「賛成」
綾乃がすぐにノートを閉じた。
「早い」
環が言う。
「でも環も閉じてるじゃん」
「今閉じた」
「同じでしょ」
ヴァシリオスもペンを置く。
「腹減った」
「それもある」
千綴が笑う。
四人がテーブルに広げていた教材を鞄へ戻していく。千綴も自分の教材を重ねて端へ寄せると、今度は菓子の袋が目立った。
「これ、どうするの?」
千綴が聞く。
ヴァシリオスは残った菓子の袋を見る。
「置いてっていいか? ここで食うために持ってきたし、次来たときでも食えるだろ」
「次っていつ?」
「そのうち」
「もう次来る前提なんだ」
「だめ?」
「だめとは言ってないけど」
ヴァシリオスは残った菓子をいくつかまとめる。
「これ、どこ置く?」
「その辺でいいよ」
「じゃあ、さっき飲み物入れたときに見えた棚、借りていいか?」
千綴は台所側を見る。
「空いてるところならいいよ」
「了解」
ヴァシリオスは戸棚を開け、空いているところへ菓子を収めた。妙に収まりがいい。
「これなら邪魔にならないだろ」
「うん。それなら大丈夫」
綾乃が笑う。
「でも、これなら次来たとき食べられるね」
「そうだな」
ヴァシリオスが戸棚を閉める。千綴は空いたペットボトルや小袋だけをまとめた。片づけが終わる頃には、テーブルの上も朝に近い状態まで戻っていた。四人分の鞄と上着だけが、壁際に残っている。
「じゃ、帰るか」
悠司が立ち上がる。
「うん」
環も上着を取った。
「外、寒そう」
綾乃が言う。
「昼より寒いだろうな」
ヴァシリオスが答える。
「今度はちゃんと言ったね」
「何が?」
「寒いって」
「それ昼の話まだ引っ張るのかよ」
「覚えてたから」
上着を着た四人が鞄を持ち、順に靴を履いて外へ出ていく。千綴も見送りに玄関へ向かった。
「じゃあまた明日」
綾乃が振り返る。
「うん。また学校で」
「寝坊すんなよ」
ヴァシリオスが環に言う。
「明日は起きる」
「今日も起きろよ」
「起きたから来た」
「遅かっただろ」
「でも来た」
「またそれかよ」
千綴は笑いながら扉を押さえた。
「気をつけて帰ってね」
「おう」
「またね」
「じゃあな」
最後に悠司が軽く手を上げ、四人が廊下を離れていくのを見送ってから、千綴は扉を閉めて鍵をかけた。急に静かになった部屋は、さっきまで五人いたせいか、少し広く見える。
テーブルへ戻ってコップを集め、ゴミをまとめていると、テレビの前には使ったコントローラーがまだ一つだけ出たままだった。
「あ」
それを元の場所へ戻して台所へ行くと、戸棚にはヴァシリオスがしまったラムネやグミ、小袋のせんべいが見えた。
「ほんとに置いてった」
小さく笑って、戸棚を閉める。
テーブルに残った英語の問題集を机へ戻す。今日はもう、開き直す気にはならなかった。
部屋には暖房の音だけが残っている。千綴は空のコップを流しへ運びながら、少し前まで聞こえていた声を思い出した。