玄関の扉を開けると、冷たい空気が頬に触れた。吐いた息がうっすら白く映る。
千綴は鍵をかけ、鞄を肩へ掛け直す。休みが明けて、今日から期末試験だ。
学校へ向かう道を進み、坂へ差しかかったところで、横から声がした。
「ちづる、おはよ」
「おはよう、綾乃」
綾乃が隣へ並ぶ。
「今日からだね」
「うん」
「私は明日の数学の方が嫌だけど」
綾乃が苦笑する。
「昨日見たところ、ちゃんとできるかなって」
「始まる前に気になるところだけ確認したら?」
「そうする」
二人で坂を上っていく。前後には同じ制服の生徒が増え、友人同士で話している者もいれば、手に持ったノートへ目を落としている者もいた。
校門を抜けて昇降口へ入ると、靴を履き替えながらノートを見ている生徒もいた。千綴も上履きへ履き替え、綾乃と教室へ向かった。
戸を開けると、話し声の間に紙をめくる音が混じっていた。千綴は自分の机へ鞄を置く。
環はいつもと変わらない様子で教科書を開き、一通り目を通しては次のページへ進んでいた。その前のヴァシリオスも国語の本文を読み返しながら、ときどき欄外の語句へ目を移し、机の端には社会の教材も置いていた。
「中村くん、朝から真剣だね」
綾乃が自分の席へ鞄を置きながら言う。
「細かいとこ確認してんだよ」
ヴァシリオスはそれだけ返すと、また教科書へ視線を戻した。綾乃が環を見る。
「環はいつも通りだね」
「何が?」
「落ち着いてる」
「焦っても仕方ないし」
「ヴァシリオスに聞かせたい」
「聞こえてるぞ」
前から声が返ってくる。
「じゃあちょうどいいじゃん」
「余計なお世話だ」
ヴァシリオスは教科書から目を離さない。千綴も椅子を引き、筆箱とノートを机へ出した。社会のノートを開き、昨日印をつけておいたところへ目を通す。曖昧だったところの前後を読み直すと、引っかかっていた部分もつながる。
前の席では、綾乃も国語のノートを開いていた。教室のあちこちで、小声の確認や紙をめくる音が続いている。普段の朝より少し静かだが、張り詰めているというほどでもない。廊下から足音が近づき、前の扉が開いた。
「はい、そろそろしまえー」
山田先生が試験用紙の束を持って入ってくる。開いていた教科書やノートが次々に閉じられた。
「机の上は筆記用具だけ。中も確認しとけよ」
千綴もノートを閉じて鞄へ入れ、シャープペンシルと消しゴムを出して机の中を確かめた。前の綾乃も教材を片づけており、環はすでに準備を終えていた。
「中村、もう終わりな」
「はい」
ヴァシリオスも国語の教科書を閉じ、鞄へしまう。山田先生が前列へ試験用紙を配り始めた。
「後ろに回せ。まだ裏返すなよ」
順に後ろへ送られてきた試験用紙の束から、千綴も一枚取って机に置き、残りを後ろへ渡した。
さっきまでの話し声が止まって教室が静かになり、千綴がシャープペンシルを持ち直したところで、チャイムが鳴った。
「始め」
山田先生の声と同時に、教室中で紙が返った。
最初の試験が終わると、答案が前から順に回収されていった。最後の一枚を受け取った山田先生が教室を出ると、綾乃が椅子の背にもたれた。
「思ったよりできたかも」
「ならよかったじゃん」
綾乃は少し笑って、次の教科の教材を机に出す。環も教科書を開き直していた。その前では、ヴァシリオスが社会の教材を広げている。
「次、ここもう一回見とくか」
小さく呟きながらページをめくる。
「まだ見てるの?」
環が前へ声をかける。
「最後に見といた方がいいだろ」
「そう」
ヴァシリオスはまた教材へ目を落とした。千綴も自分のノートを開く。
休み時間が終われば教材をしまい、また次の試験が始まる。
試験が続くあいだ、休み時間の教室で繰り返されることは大きく変わらなかった。数学を終えた綾乃は、机に両腕を置き、その上へ額を伏せた。
「数学、やっぱり微妙だった」
「次の準備しないの?」
環に言われ、綾乃は少ししてから起き上がった。
「する」
鞄から次の教材を取り出す。
別の試験が終われば、教室のあちこちで答えを確かめ合う声が上がる。環はそこへ加わらず、机の上を片づけて次の教科書を開いていた。千綴も次の試験の教材を取り出し、最後の確認をした。
教科が変わるたび、机の上の教材も入れ替わる。最後に残ったのは英語だった。
千綴は問題用紙を表にし、順番に解いていった。長文では分からない単語があったが、前後の流れを追いながら先を読む。以前よりも文章全体を理解しやすかった。最後まで解き終え、残った時間で見直す。
終了を告げるチャイムが鳴った。
「そこまで」
監督の教師の声でシャープペンシルを置くと、答案が回収されていく間、教室のあちこちから小さな息が漏れた。最後の一枚が集められたところで、綾乃が振り返る。
「終わった」
「終わったね」
綾乃が笑う。環は筆箱を閉じ、ヴァシリオスは椅子にもたれて腕を伸ばした。
「これで今日はもういいだろ」
「明日からは戻るんでしょ」
環が返す。
「それは明日考える」
千綴も筆箱を鞄へしまった。教室のあちこちで、試験前とは違う調子の話し声が戻り始めていた。
答案がすべて回収されてから少しして、山田先生が薄い冊子の束を手に教室へ戻ってきた。
「はい、まだ帰るなよ。最後にLHRやるから」
すでに鞄を閉じかけていた生徒が何人か手を止める。山田先生は教卓へ冊子を置いた。
「試験終わったばっかで悪いけど、修学旅行もう来週だからな」
教室のあちこちから声が上がった。
「もう来週?」
「早くない?」
「前から言ってただろ」
山田先生が返しながら、冊子を前列へ渡していく。
「栞。後ろ回して。なくすなよ」
回ってきた冊子の表紙をめくると、行程や集合についての項目が並んでいた。千綴が持ち物の欄をざっと見ていると、前の方から声がした。
「班ってまだですか?」
「まだ調整中。もう少し待て」
それだけ答えて、山田先生は次の連絡へ移った。
「あと、試験終わったからって気抜くなよ。提出物、忘れ物、体調管理。直前に風邪ひいて行けませんでした、は笑えないからな」
さっきまで浮ついていた声が少し落ち着く。
「それと、結果次第じゃ旅行前に先生と仲良く勉強するやつが出るかもしれないから」
今度は別の意味でざわついた。
「先生、それ今言う?」
「今だから言うんだよ」
山田先生が笑う。
そのまま提出期限や持ち物についての確認が続いた。どれも一度は聞いている内容で、千綴は必要なところだけ栞の端へ印をつける。
「じゃあ今日はここまで。忘れ物して帰るなよ」
山田先生の声で、教室の空気が一気に動いた。
椅子が引かれ、鞄のファスナーが閉じられていく。
千綴も栞を鞄へ入れた。
「ほんとに来週なんだね」
綾乃が立ち上がりながら言う。
「試験中はそれどころじゃなかったけどね」
「終わったら急に近く感じる」
環も鞄を肩へ掛ける。
「準備まだしてない」
「俺も」
ヴァシリオスが立ち上がった。
「今日からやればいいでしょ」
「今日くらい休ませろよ」
「試験終わっただけでしょ」
「何日も試験だったんだぞ」
「みんな同じ」
いつもの調子のやり取りを聞きながら、千綴も席を立ち、鞄を肩へ掛けた。
昇降口まで下りると、外から入ってくる冷たい空気が足元を抜けた。
「腹減った」
靴を履き替えたヴァシリオスが言う。
「このまま何か食べて帰る?」
綾乃が言うと、ヴァシリオスはすぐに頷いた。
「いいな」
環がスマートフォンを取り出す。
「昼、友達と食べて帰るって送っとく」
「私も」
綾乃も画面を開いた。千綴が二人を待っていると、廊下の向こうから悠司が歩いてきた。
「悠司も昼、行く?」
「どこだ?」
「喫茶店はどう?」
悠司は少し考え、スマートフォンを取り出した。
「分かった」
それで五人そろって校舎を出た。
店へ入ると、暖房の空気が頬へ触れた。昼時で席はいくらか埋まっていたが、奥に五人で座れる場所が空いている。注文を済ませると、綾乃が小さく息を吐いた。
「やっと終わった」
「数学は?」
ヴァシリオスが聞く。
「……微妙」
綾乃が少しだけ顔をしかめる。
「中村くんは?」
「国語は前より書けた。社会もまあまあ」
「私は英語、前よりは手が止まらなかったかな」
千綴が言うと、環が水を一口飲んだ。
「もういいだろ、試験は」
ヴァシリオスが言う。
「それより修学旅行だ」
綾乃が「あ」と声を漏らし、鞄からさっき配られた栞を取り出した。環も自分の栞を出す。
「誰と同じ班になるかな」
綾乃が栞をめくる。
「ちづるたちと一緒だといいんだけど」
料理が運ばれてくると、広げていた栞をいったん端へ寄せる。湯気の立つ皿を前にしても、話題はそのまま修学旅行から離れなかった。
「自由行動、どこ行く?」
綾乃が聞く。
「食えるところ」
ヴァシリオスが即答する。
「それ場所じゃないでしょ」
「向こうでしか食えないものあるだろ」
「また全部食べるつもり?」
環が聞く。
「できるだけ」
悠司が少し笑う。
「前よりは現実的になったな」
「そうだ」
ヴァシリオスが何か思い出したように鞄へ手を伸ばし、ノートを取り出した。黒い表紙いっぱいを金色の線が走り、中央には文字とも模様ともつかない形が描かれている。千綴は、そのノートを見てすぐに分かった。
「まだそれ使ってるんだ」
「当たり前だろ」
ヴァシリオスがノートをテーブルへ置くと、綾乃がその表紙を見た。
「久しぶりに見てもすごいね」
「いいだろ」
「中身は?」
環が聞く。
「増えた」
「減らす話してなかった?」
「整理した」
ヴァシリオスがノートを開くと、以前見た場所や食べ物の名前が隙間なく並んでいた。その横や次のページには書き込みが増えている。項目のいくつかには丸や小さな印がつき、端には移動にかかる時間らしい数字まで書かれていた。
「ほんとに調べたんだ」
千綴が言う。
「調べるって言っただろ」
環がノートを覗き込む。
「距離も?」
「見た」
「全部?」
「だいたい」
「だいたいなんだ」
「細かいのは班決まってからでいい」
ヴァシリオスがページを指で押さえる。
「ここは絶対。こっちは時間あったら。これは他のやつが行きたいなら一緒に行ける」
綾乃が目を丸くした。
「ちゃんと分けてる」
「前は全部行くって言ってたからね」
千綴が言う。
「全部行けるなら行きたいぞ」
「そこは変わってないんだ」
「行けないから分けた」
ヴァシリオスがめくった次のページには、前より増えた食べ物の名前が並んでいた。
「こっちは増えてるじゃん」
綾乃が笑う。
「食う方は別だ」
「何が別なの?」
「場所は移動がいる。食うのは近くにあればいける」
環がページを見たまま言う。
「胃にも限界あるよ」
「そこはなんとかする」
「できないと思う」
「やってみないと分からないだろ」
「分かるよ」
悠司が短く返した。千綴もノートへ目を落とす。前に見たときは、とにかく思いついたものを並べている印象だったが、横に書かれた時間や印を見ると、あのあと本当に一つずつ調べたのだと分かった。
「帰る時間も入れてる」
千綴がページの端を指した。
「ああ。前に言われたからな」
悠司が見ているノートのページを、ヴァシリオスがめくった。
「班決まったらまた書き直すの?」
千綴が聞く。
「他のやつの希望もあるからな」
「減る可能性は?」
環が聞く。
「ある」
少し間が空いた。
「たぶん」
「今足したでしょ」
綾乃が笑うが、ヴァシリオスは気にせず、今度は栞を自分の方へ寄せた。料理を食べながら、五人で栞とノートを見比べる。
「お土産も書いとくか」
ヴァシリオスが言う。
「誰に買うかまで?」
綾乃が聞く。
「忘れるよりいいだろ」
「そこまでいったら完全に計画帳だね」
「最初からそうだ」
「最初は食べたいもの一覧だったでしょ」
「場所もあった」
環が水を一口飲む。
「そこじゃない」
「帰ったら準備しようかな」
千綴が言うと、綾乃も頷いた。
「私も。何持ってくか見ないと」
「私もやる」
環が言う。視線が自然とヴァシリオスへ向いた。
「何だよ」
「ヴァシリオスは?」
「荷物はまだいい」
「ノートはこんなにやってるのに」
綾乃が笑う。
「これは準備じゃない」
「じゃあ何?」
ヴァシリオスは少し考えた。
「計画だ」
「準備じゃん」
「違う」
すぐに返した声に、また笑いが起きた。