振り返ると、公園の入口近くに一人の男が立っていた。
二十代の後半くらいだろうか。背は高い。薄手の上着に動きやすそうなパンツという、ひどく実用本位な格好をしている。休日に散歩へ来たようには見えないが、制服姿でもない。
千綴が男を見ている間に、隣の巴が半歩だけ前へ出た。
ほんの僅かな動きだった。
けれど、千綴と男の間へ自然に身体を入れたことにはすぐ気づいた。
「何か?」
巴が先に訊く。
男は足を止めたまま、二人を一度見た。
顔から手元へ、手元から足元へ。視線の動きは短く、必要なものだけを拾っていくようだった。そのあと、公園の奥へ目を向ける。
「失礼しました」
低い声だった。落ち着いていて、妙な圧はない。
「ここは先日の事件に関係する場所です。まだ確認が終わっていない箇所があります。できれば、長居はしない方がいい」
巴の表情が少し硬くなる。
「警察の方ですか?」
「ええ。広域の特殊事案を担当しています」
答えは簡潔だった。
千綴は、もう一度男を見る。
警察だと言われれば、そうなのかもしれない。
それでも、どこか引っかかった。
男が見ているものが、公園そのものではない気がした。
ベンチ。植え込み。濡れた地面。外へ続く道。
その一つ一つではなく、そこを誰かがどう通り、どこから入り、どこへ抜けたのか。そんなものを順に確かめているように見える。
その感覚に気づいて、千綴はわずかに眉を寄せた。
まただ。
最近、こういうことが増えた。
道を見ると、その先が気になる。人を見ると、どこから来たのかが妙に目につく。物を見ると、それがそこへ置かれるまでの動きが、以前より自然に意識へ入り込んでくる。
疲れているせいだ。
そう思うことにしていた。
男の視線が千綴へ戻った。
「体調は?」
唐突な問いに、千綴は一瞬答えを遅らせた。
「……私のこと、知ってるんですか」
「事件の関係者については、ある程度」
それ以上は言わなかった。
千綴も、すぐには聞き返さなかった。
公園へ来てから胸の奥に居座っていた重さが、少しだけ形を変える。
この男は、自分がここで何かに巻き込まれたことを知っている。
なら、何を知っているのか。
あの日、自分に何が起きたのか。
聞けば、何か分かるのかもしれない。
けれど、言葉はすぐには出なかった。
代わりに巴が訊いた。
「この子、まだ事件のことをほとんど思い出せてないんです。何か分かってるなら――」
「店長」
千綴は小さく呼んだ。
巴が振り返る。
責めるつもりはなかった。ただ、今ここで知らないことを一気に聞かされるのが、少し怖かった。
男も急かさなかった。
「無理に思い出す必要はありません」
淡々とした言い方だった。
慰めるような響きではない。
だからこそ、千綴には少し楽だった。
「今は、この場所から離れてください。必要な確認があれば、こちらから正式に連絡します」
「正式に、ね」
巴はまだ納得していない顔をしていたが、それ以上は食い下がらなかった。
千綴も頷く。
「分かりました」
男は短く頭を下げた。
そのまま二人の横を通り過ぎ、公園の奥へ向かっていく。
すれ違った瞬間、千綴は妙な感覚を覚えた。
男の足取りには迷いがない。
公園の中を知っているからではなく、見る場所が最初から決まっているような歩き方だった。
千綴は数歩進んでから、もう一度だけ振り返った。
男は植え込みの脇で足を止め、地面を見ていた。
何を探しているのかまでは分からない。
けれど。
あの人は、事件を見に来たんじゃない。
事件のあとに残った何かを、追っている。
そんな気がした。
公園を出てからもしばらく、千綴は後ろを振り返らなかった。
見ようと思えば、入口の向こうにあの男の姿がまだ見えたかもしれない。けれど、確かめる気にはならなかった。
代わりに意識へ入ってきたのは、隣を歩く巴の足音だった。
公園へ来るまでより、少しだけ速い。
「店長」
「ん?」
「怒ってます?」
「誰に」
「……あの人に」
巴はすぐには答えなかった。
住宅街へ続く道を曲がり、日差しの残る歩道へ出る。夏の午後はまだ明るかったが、建物の影は朝よりずっと長くなっていた。
「警察だって言うなら、もう少し警察らしくしてほしいとは思ってる」
「それはちょっと分かります」
「でしょ」
そこで巴は息を吐いた。
「まあ、あんたに無理やり何か聞こうとしなかっただけマシかな」
千綴は小さく頷く。
聞きたいことはあった。
あの男が事件をどこまで知っているのか。自分が公園で何に遭ったのか。どうして鞄も傘も置き去りにしたまま帰宅できたのか。
今までなら、分からないものをそのままにしておく方が落ち着かなかったはずだ。
それなのに今は、知りたい気持ちと同じくらい、知るのが怖い。
そのことが、千綴には少し悔しかった。
「……店長」
「今度は何」
「私、面倒くさいですね」
「知ってる」
「即答します?」
「十代なんて大体そんなもんでしょ」
巴の口調はいつも通りだった。
それだけで、胸の奥に引っかかっていたものが少し緩む。
公園から離れるほど、街は普通の顔へ戻っていった。
自転車で通り過ぎる学生。軒先へ打ち水をする家。買い物袋を提げて歩く人。遠くで鳴く蝉。交差点を曲がっていく車。
誰も、千綴が二日前にあの公園で何を失ったのか知らない。
千綴自身ですら、まだ知らない。
それでも道は続いていて、人はそれぞれの場所へ帰っていく。
その当たり前の流れを眺めながら歩いているうちに、千綴はようやく肩の力を抜いた。
*
巴の家へ戻ると、玄関を上がるなり腹が鳴った。
自分でも驚くほど分かりやすい音だった。
巴が振り返る。
千綴は目を逸らした。
「……聞かなかったことにしてください」
「無理」
「ですよね」
「そういえば、まともに昼食べてなかったわ」
警察署へ行き、そのまま公園へ寄った。途中で何か口に入れるという話も出なかったわけではないが、千綴自身があまり食欲を感じていなかった。
それが家へ戻った途端に思い出したらしい。
「何か作る?」
「いや、軽くでいいです。私やりますよ」
「あんたは座ってなさい」
「もうだいぶ平気ですって」
「病院で安静にしろって言われた人間の『平気』は信用しないことにしてる」
「それ昨日の話ですよね」
「昨日でも一昨日でも同じ」
押し問答の末、千綴が湯を沸かし、巴が冷蔵庫から残り物を出すことで決着した。
食卓へ並んだのは、冷やしてあった麦茶と、小さめのおにぎり、それに昨夜の惣菜を温め直したものだった。
遅い昼食というより、早すぎる間食に近い。
それでも空腹だった身体には十分だった。
千綴は二つ目のおにぎりへ手を伸ばしながら、向かいの巴を見る。
「店、今日はどうするんです?」
巴の箸が止まった。
「……閉めたままでもいいんだけどね」
そう言いながらも、声音には迷いがあった。
丘平商店は大きな店ではない。
だからこそ、毎日そこを頼りにしている客がいる。飲み物や食品だけなら他でも買えるが、年配の客の中には歩いて行ける場所がそこしかない人もいた。
「夕方から少しだけ開けようかと思ってる」
「じゃあ手伝います」
「そう言うと思った」
「一人にする気ないでしょう」
「ないね」
「なら同じじゃないですか」
巴はしばらく千綴を見たあと、諦めたように肩を落とした。
「無理したら即上がりだから」
「了解です」
「重い物は持たない」
「はい」
「店番中に勝手にどっか行かない」
「子ども扱いしてません?」
「今のあんたは保護対象」
「高校二年なんですけど」
「事件に巻き込まれて二日で一人前扱いに戻してもらえると思うな」
反論しようとして、千綴は口を閉じた。
そこまで言われると分が悪い。
巴は満足そうに麦茶を飲んだ。
*
丘平商店は、巴の家からそう離れていない。
二人で店へ向かう頃には、陽射しの色がわずかに柔らかくなっていた。
閉じたシャッターの前に立つと、千綴は妙な懐かしさを覚えた。
ほんの数日前まで、ここで普通に働いていた。
レジを打って、飲料を補充して、顔なじみの客に声を掛けられて。
その時間が、ずっと昔のことのようにも思える。
「開けるよ」
巴の声で、千綴は我に返った。
「はい」
二人で店頭を整えていく。
シャッターを上げ、営業札を表へ返す。入口脇へ出していた商品の位置を確認し、冷蔵ケースの温度を見る。
千綴はいつもの癖で飲料棚へ向かいかけ、巴に肩を掴まれた。
「重いの禁止って言ったよね」
「まだ何も持ってないです」
「持つ顔してた」
「どんな顔ですか、それ」
「いつもの顔」
仕方なく、千綴はレジ周りの整理へ回った。
釣銭。袋。レシート用紙。カウンター脇の小さな菓子棚。
どこに何があるか、身体が覚えている。
ひとつずつ確認していくうちに、胸の奥へ残っていた公園のざらつきが、店の手順に少しずつ押し流されていった。
店の奥では、巴が冷蔵庫の扉を開け閉めしている。
ラジオの電源を入れると、少し古い夏の曲が流れ始めた。
聞き覚えのあるイントロに、千綴は思わず笑う。
「これ、またですか」
「夏なんだからいいでしょ」
「先週も聞きましたよ」
「名曲は何回流れても名曲なの」
いつものやり取りだった。
店先の向こうには、まだ明るい丘平の街がある。
公園も、あの男も、思い出せない記憶も消えたわけではない。
それでも今は、レジ台の上へ差し込む西日と、ラジオから流れる歌と、奥で作業をする巴の気配の方が近かった。
千綴はエプロンの紐を結び直す。
「店長、こっち準備できました」
「じゃあ開けるよ」
「はい」
入口の向こうで、人の足音が近づいてきた。
見つけた。
公園の中に、あの日、自分が殺したはずの少女がいる。
立ち、歩き、隣の女と言葉を交わしている。遠目にも分かるほど、その動きには生きている人間の重さがあった。
男の胃の奥が冷えた。
指先が冷える。
あの夜と同じだった。
理解できない。
その感覚を、二日のあいだ違う言葉で塗り替えようとしていた。
驚いただけだ。
状況を整理するため、距離を取っただけだ。
だが違う。
逃げた。
自分は、あの少女から逃げた。
屈辱だった。
それだけなら、別の相手を探せばよかった。
なのに、次を探す気になれない。
あの少女が残っている。
それが、どうしても気に入らない。
完成したはずのものが、勝手に元へ戻った。
そんなはずはない。
ならば、もう一度やればいい。
今度は途中で目を離さない。呼吸が止まった程度では終わりにしない。
男は手を握った。
爪が掌へ食い込むまで。
「違う」
声に出した途端、震えが少しだけ収まった。
身体の奥には、渇きも戻っていた。
新しい誰かでは駄目だった。
まず、あれを終わらせる。
男の中では、いつの間にかそう決まっていた。
男自身は、公園のすぐそばにはいなかった。
近くの電線には、一羽のカラスが止まっている。
先ほどから同じ場所を離れず、時折、公園の中へ首を向けていた。餌を探し、周囲を警戒する。その単純な動きへ少しだけ方向を与えておけば、離れた場所からでも少女たちの位置を確かめる助けにはなる。
それで十分だった。
少女の隣には、年上の女がいる。あの日のあと、少女を保護した人間だろう。
二人だけなら問題はない。
だが、もう一人いた。
公園の入口近くに立つ男。
薄手の上着。無駄のない姿勢。周囲を見る目。
男は少女たちへ声を掛け、しばらく話したあと、公園の外へ送り出した。
そして一人で奥へ戻ってくる。
歩き方に迷いがない。
何かを探している。
男は植え込みの脇で一度しゃがみ、地面を確認した。それから立ち上がり、視線を巡らせる。
ふと、その目が電線で止まった。
カラスがいる場所だった。
こちらを見たわけではない。
そう思ったのに、背中を冷たいものが走る。
長い。
視線が、ほんの少し長すぎた。
男はすぐにカラスへの干渉を切った。
鳥は我に返ったように翼を広げ、慌ただしく電線を離れていく。
公園の男は追わなかった。
ただ、その飛び去る方向を一度だけ目で追った。
それだけで十分だった。
気づいた。
どこまでかは分からない。
だが、ただの警察ではない。
男は舌打ちした。
今ここで仕掛ける必要はない。欲望に従うことと、愚かになることは別だ。強い者と正面から争う理由もない。
弱い者を支配し、自分の下へ置く。
それが自然だ。
それが正しい。
ならば、待てばいい。
*
少女たちを追うこと自体は難しくなかった。
一羽を長く使う必要はない。住宅街には鳥もいれば、路地へ入り込む犬もいる。少女たちが進む先を確かめるだけなら、それで足りる。
交差点の手前で一羽を離す。
少し先で、別の鳥の動きを借りる。
地上では、道端にいた野良犬が少女たちの残した匂いへ鼻を向けた。少しだけ興味をそちらへ寄せると、犬は自然に歩き出す。
人間より扱いやすい。
それだけだった。
人間は、同じ恐怖を与えても同じ動きをしない。
逃げる者もいる。
怒る者もいる。
死にたくないはずなのに、他人を庇う者もいる。
あの少女のように。
男はそこで思考を切った。
その記憶は、まだ不愉快だった。
*
やがて、少女たちは一軒の建物へ入った。
住宅街の中にある、古い商店だった。
しばらくすると、閉じていたシャッターが上がる。
年上の女が店先へ出て、そのあとに少女も続いた。商品を動かし、レジ周りを整え、互いに言葉を交わしている。
迷いのない動きだった。
何度も繰り返してきたのだろう。
学校でも、自宅でもない。
それでも、少女が自然に振る舞える場所。
あの少女の日常。
男は遠くから店の出入りを見た。
良い。
ここなら逃げにくい。
しかも、あの女がいる。
先に女を止めればいい。
少女の前で、自分が何をできるのかもう一度見せる。それから、最初からやり直す。
手。
足。
胴。
頭。
順番は変えない。
一つ前が自分のものになったことを確かめてから、次へ進む。急ぐ必要はない。むしろ急げば、余計な抵抗を残す。
あの夜は最後まで終えたはずだった。
だからこそ、今度はその「はず」を残さない。
少女が何も返せなくなるまで。
自分の理解の外へ、二度と戻ってこられなくなるまで。
男は店へ近づかなかった。
まだ早い。
人の出入りがある。
一般人がいること自体は障害にならない。だが、余計な目が多ければ動きにくい。何より、公園にいた男が近くを警戒している可能性も残っている。
急ぐ必要はない。
少女がここにいる。
生活圏も分かった。
なら、待てばいい。
客が一人、また一人と店へ入っていく。
普通の店だった。
普通の時間だった。
だからこそ、そこへ自分が入ったとき、何が壊れるのかも分かりやすい。
男は静かに待った。
陽が落ちるまで。
客が減るまで。
店が閉まるまで。
今度こそ、自分が恐れる必要などなかったのだと証明するために。
営業を始めてしまえば、店は思ったよりもいつも通りだった。
最初に来たのは、近所に住む年配の女性だった。
「あら、今日は開いてたのね」
「夕方だけね」
巴がそう返すと、女性は棚から牛乳と食パンを取り、ついでのように千綴を見た。
「ちづるちゃん、もう大丈夫なの?」
千綴は一瞬だけ言葉に詰まった。
事件のことが、どこまでこの辺りに伝わっているのか分からない。
「はい。だいぶ」
「無理しちゃ駄目よ」
「ありがとうございます」
それ以上は聞かれなかった。
女性は会計を済ませると、巴に「ちゃんと休ませなさいよ」と念を押して帰っていった。
「ほらね」
巴が言う。
「何がです?」
「地域の監視網」
「店長含めてですよね、それ」
「私は管理側」
「一番厳しいやつじゃないですか」
そんなやり取りをしているうちに、次の客が来た。
飲み物だけを買っていく人。
夕食用の調味料を探す人。
いつもの菓子を一つだけ買っていく学生。
短時間営業だと知って立ち寄ったのか、思っていたより人の出入りはあった。
千綴はレジに立ち、袋を開き、釣銭を渡す。
身体は覚えている。
声を掛けられれば返し、商品を探している人がいれば場所を案内する。
その一つ一つを繰り返しているうちに、公園で感じていた重さは少しずつ遠のいていった。
誰かが店へ入ってくる。
必要なものを選び、代金を払い、それぞれの家へ帰っていく。
当たり前の流れだった。
以前なら、ただの仕事として見ていたはずなのに。
今日は妙に、客と手に取った物の組み合わせが意識へ残る。
いつも牛乳を買う女性は、今日も同じ棚へ迷わず手を伸ばした。菓子を一つだけ買った学生は、会計を終えると見慣れた住宅街の方へ歩いていく。調味料を探していた客も、棚の前を二度行き来したあと、ようやく目当ての一本を選んだ。
人と物。
店と客。
そこへ来るまでの道と、帰っていく方向。
以前なら背景へ流れていたはずのものが、今日は妙にひとまとまりに感じられる。
千綴は一度だけ首を振った。
まただ。
疲れているだけだ。
そういうことにしておく。
「ぼーっとしてるなら上がる?」
奥から巴の声が飛んできた。
「してません」
「今してた」
「考え事です」
「余計駄目じゃない」
「なんでですか」
巴は笑いながら、空いた棚へ商品を補充していく。
千綴もつられて笑った。
ラジオからは、さっきとは別の曲が流れていた。
どこかで聞いたことのある歌だったが、題名までは思い出せない。
店の外はまだ明るい。
けれど、陽は確実に傾いていた。
ガラス越しに差し込む光が、少しずつ床の奥へ伸びていく。
*
客足が落ち着き始めた頃、巴が時計を見た。
「そろそろ閉めようか」
「もうです?」
「短時間営業って言ったでしょ」
「まだ全然働いた感じしないです」
「それでいいの」
巴は迷いなく言った。
「今日は店を開けられた。それで十分」
千綴は少しだけ黙った。
店を開けられた。
その言い方が、妙に胸に残った。
いつもなら、開いていて当たり前の店。
自分もここに立っていて当たり前だった。
けれど今は、それが少し違って見える。
「……はい」
千綴は短く答えた。
最後に入ってきた二人組の客が、飲み物を買って帰っていく。
入れ替わるように、外の音が少なくなった。
昼間より蝉の声も遠い。
店の前を通る車の数も減っている。
「店長、外やります?」
「お願い。私は中見るから」
「了解です」
千綴は店先へ出た。
営業札を裏返す。
店頭へ出していた小さな籠や箱を中へ戻し、入口脇を軽く整える。
シャッターはまだ下ろさない。
客が残っていないか確認してからだ。
店内へ戻ると、巴はレジ周りを片づけていた。
「こっち終わりました」
「じゃあ、奥の段ボールまとめてもらえる?」
「はい」
千綴は店の奥へ向かう。
畳んであった段ボールを重ね、紐を探す。
いつもの閉店作業。
手を動かしていれば、余計なことを考えずに済む。
背後では巴が店内を回っている。
棚の位置を確認し、消し忘れがないかを見る。
入口近くで足音が止まった。
「すみません」
巴の声がした。
客がまだいたらしい。
千綴は段ボールを持ち上げかけて、やめた。
重い物は禁止。
言われたばかりだ。
仕方なく一枚ずつ運ぶことにする。
「もう閉めるところなんですけど」
巴の声が続く。
返事は聞こえなかった。
千綴は手を止めた。
少しだけ間が空く。
「お客さん?」
今度は、さっきより近い声だった。
やはり返事がない。
千綴は顔を上げた。
店内は静かだった。
ラジオだけが、変わらず音楽を流している。
それまで気にならなかった音が、急に大きく感じられた。
「店長?」
千綴は奥から声を掛けた。
返事はない。
胸の奥が、わずかにざわついた。
千綴は手にしていた段ボールを置いた。
店頭の方へ、一歩踏み出した。
店頭へ顔を出した瞬間、千綴は足を止めた。
巴がレジ脇に立っている。
ただ、立っているのではなかった。
片腕をわずかに持ち上げたまま、身体のどこにも次の動作が続いていない。呼吸はしている。目も開いている。意識を失っているわけでもない。それなのに、まるで身体だけが途中で切り離されたように、そこから先へ進めずにいた。
その向こうに、一人の男が立っていた。
客として店に入ってきたはずの男。
いつからいたのか、千綴には分からない。どんな服を着ていたのかも、どこを歩いていたのかも、今までまったく意識に残っていなかった。
けれど、その顔を見た瞬間。
胸の奥で、何かがほどけるより先に、身体が強く縮こまった。
濡れた空気。
雨に冷えた地面。
視界の端に沈む黒い影。
指が動かない。
足が動かない。
息を吸おうとしているのに、胸が途中で止まる。
声を出そうとしても、喉の奥で何かにつかえて、音にならない。
記憶ではなかった。
公園で何が起きたのかを思い出したわけでもない。男に何をされたのか、一連の出来事として繋がったわけでもない。
それでも身体は覚えていた。
肩が強張り、指先が冷え、呼吸が浅くなる。理由を考えるより先に、逃げたいという感情だけが身体の奥から突き上がった。
あの男だ。
自分を襲ったのは、この男だ。
そう確信した途端、記憶の中に空いた黒い部分へ触れた気がした。そこに何があるのかは分からない。分からないまま、身体だけがその先を拒んでいる。
けれど。
「店長」
千綴の声は、自分でも分かるほど掠れていた。
巴の目だけが、ほんの僅かに動いた。
こちらを見る。
それだけだった。
助けて、と言ったわけではない。
それでも、千綴には十分だった。
恐怖は消えない。
身体も震えている。
だが、自分が怖いという感情より先に、巴が動けないという事実が前へ出た。
千綴は一歩踏み出した。
男の口元が、僅かに歪んだ。
「やはり、覚えていたか」
千綴は答えなかった。
何を覚えていると言われているのか分からない。
ただ、巴から目を離せなかった。
どうすれば助けられる。
近づけばいいのか。触れれば動けるようになるのか。それとも、今の状態で触る方が危険なのか。
何一つ分からない。
それでも、何もしないという選択だけは浮かばなかった。
「その人を離して」
男が少し首を傾けた。
「その人?」
そこで初めて思い出したように、巴へ視線を向ける。
人を見る目ではなかった。
道具でも確認するような、興味の薄い視線。
その瞬間、千綴の腹の奥に、恐怖とは別の熱が生まれた。
「店長に何したって聞いてるの」
「何もしていない」
男は穏やかに答えた。
「少し、動かないでもらっているだけだ」
巴の肩が、ごく僅かに震えた。
息を吸おうとしている。
苦しそうだった。
千綴は考えるより先に動いた。
「店長!」
床を蹴ろうとして、千綴は異変に気づいた。
先に、右手の指が動かなかった。
棚から離そうとしたはずなのに、指先から手首まで、自分の命令だけが抜け落ちている。
遅れて、左手まで同じ感覚に沈んだ。
両手が使えない。
そう理解するより早く、右脚が止まった。
「っ――」
前へ出したはずの足が、床へ縫い付けられたように動かない。
勢いだけが残り、身体が前へ傾く。手をつくこともできず、千綴は肩から棚へぶつかって、どうにか転倒を免れた。
その感覚が、また身体の奥にある記憶を掻き回した。
動けない。
自分の脚なのに。
動け、と命じているのに。
そこへ繋がっているはずの何かが、自分ではない誰かに握られている。
息が浅くなる。
指先が震える。
背中に冷たい汗が浮いた。
男の視線が、完全に千綴へ向いた。
巴にはもう興味がない。
そう分かるほど露骨だった。
「二度目だ」
声は静かだった。
「今度は、順番を間違えない」
右手。
左手。
男の目が、動かなくなった千綴の両手を順に確かめる。
それから視線が脚へ落ちた。
右脚。
続いて左脚。
一つ前が止まったことを確かめてから、次へ進む。
身体の内側へ、目に見えない何かが少しずつ入り込んでくる。
嫌だ。
また、この先へ連れていかれる。
何があったのかは思い出せない。それでも、身体だけが「ここから先」を知っている。
その空白の縁へ近づくだけで、喉の奥がひどく冷えた。
千綴は奥歯を噛んだ。
逃げたい。
その感情は、まだ消えていない。
けれど、視界の端には巴がいる。
自分を保護してくれた。
病院へ連れていってくれた。
警察署にも付き添ってくれた。
思い出せない自分に、無理に聞かなかった。
その人が今、自分を狙ってきた男のせいで動けなくなっている。
「……店長から、離れろ」
千綴は右足を引こうとした。
動かない。
それでも力を込める。
動かない手にまで力を込めようとして、肩が震えた。
男の眉が僅かに動いた。
「まだ、自分のものだと思っているのか」
意味は分からない。
だが、その声には初めて明確な苛立ちが混じった。
その瞬間。
店の外から、鈍い音がした。
何かが落ちたような音。
男の視線が、一瞬だけ入口へ向く。
ほんの一瞬。
それだけだった。
けれど、千綴の右脚を押さえつけていた重さが僅かに緩んだ。
同時に、左手の指先にも感覚が戻る。
千綴は考えるより先に、その隙へ身体をねじ込んだ。
一歩。
たった一歩だけ前へ出る。
男の表情が崩れた。
「お前――」
「そこまでだ」
低い声が、店内へ割り込んだ。
入口に、昼間の男が立っていた。
公園を離れたあとも、この周辺を警戒していたのだろうか。なぜここへ来られたのかまでは、千綴には分からない。
昼間、公園で声を掛けてきた男だった。
千綴はまだ名前を知らない。
だが、その姿を見た瞬間、目の前の男の表情が変わった。
怒りでも、驚きでもない。
警戒。
明らかな警戒だった。
昼間、公園で何かがあった。
千綴にはその中身までは分からない。
ただ一つだけ分かる。
目の前の男は、昼間の男を危険な相手として見ている。
入口の男は走らなかった。
大声も出さない。
それなのに、一歩店内へ入っただけで空気が変わった。
「その二人から離れろ」
返事はない。
代わりに、千綴の左脚がさらに重くなり、巴の身体も僅かに傾いた。
昼間の男の視線が動く。
まず巴。
次に千綴。
最後に、目の前の男。
敵を見るより先に、二人の状態を確認した。
その順番だけが、千綴の意識に妙にはっきり残った。
「動けるか」
男が千綴へ聞く。
「右足が……少し」
「十分だ。榊さんのところへ」
なぜ名前を知っているのか。
今は考える余裕がない。
男が一歩踏み込んだ。
目の前の男の腕が動く。
何が飛んだわけでもない。
それでも、昼間の男の身体が一瞬だけ止まった。
本当に一瞬だった。
次の瞬間には、もう前へ出ている。
今度は、目の前の男が下がった。
「……効かない?」
「効いてる」
昼間の男は平然と答えた。
「足りないだけだ」
感情ではなく、事実を確認するような言い方だった。
その一言で、目の前の男の余裕が消える。
店の外で羽音がした。
一羽。
続けてもう一羽。
何かがガラスへぶつかり、すぐ近くで犬の吠える声が上がった。
それでも昼間の男は振り返らない。
「弥生」
初めて名前を呼ばれた。
「榊さんを支えろ」
「はい!」
千綴は動く右脚へ力を込め、感覚の戻った左手で棚から身体を離した。
左脚を引きずる。
一歩。
また一歩。
巴まで、あと少し。
その間にも、〈標本家〉は昼間の男から距離を取っていく。
戦うつもりがない。
千綴にも分かった。
逃げる。
そう判断したのだ。
「待っ――」
「追うな」
短い声が飛んだ。
千綴は止まった。
男は入口へ向かう。
外で鳥が騒ぎ、犬の声が重なり、その向こうから人の驚いた声も聞こえた。
その混乱へ紛れるように、男の姿が店の外へ消える。
入口に残った男は追わなかった。
千綴も、すぐに巴へ向き直る。
その瞬間、巴の膝から一気に力が抜けた。
「店長!」
支配が切れたのか。
倒れる身体を支えようとする。
けれど、千綴一人では受け止めきれない。
床へ倒れる。
そう思った瞬間、横から腕が入った。
横から伸びた腕が、巴の身体を受け止める。
「床へ。ゆっくり」
短い指示だった。
千綴も頷き、二人で巴を床へ下ろす。
「呼吸は」
「あります」
「意識は」
「店長、聞こえます?」
巴のまぶたが動いた。
苦しそうに息を吸い、それでも最初に千綴を見た。
「……いる」
「います。ここにいます」
「そうじゃ……なくて」
声は掠れていた。
「怪我……」
こんな時まで。
胸の奥が熱くなり、千綴は泣きそうになる。
「私は大丈夫です」
公園で会った男は、すでに巴の脈を取っていた。
呼吸。
瞳孔。
身体の状態。
必要なところだけを迷いなく確認していく。
店の外では、まだ騒ぎが続いている。
犯人は逃げた。
追えば、まだ間に合ったかもしれない。
それでも男は一度も入口を見なかった。
巴を見ている。
千綴を見ている。
今ここに残った二人を。
「救急を呼ぶ」
男はそう言って通信端末へ手を伸ばした。
千綴は巴の手を握る。
冷たい。
けれど。
弱く、確かに握り返してくる。
その感触を確かめて、千綴はようやく長く息を吐いた。
救急車の赤い光が、丘平商店のガラスへ一定の間隔で映り込んでいた。
騒ぎが起きる前の店内は、まだところどころに残っている。
途中で止まったレジの表示。片づけかけの段ボール。床へ落ちたままの小さな菓子袋。ラジオだけはいつの間にか消されていて、さっきまで当たり前に流れていた音楽の代わりに、外から人の声と無線の音が薄く入ってくる。
巴は、店の奥へ出された椅子に座っていた。
救急隊員の確認は一通り終わっている。受け答えもでき、呼吸も落ち着いてきていた。それでも立ち上がろうとすると脚へ力が入りきらず、結局、もう一度椅子へ戻されていた。
千綴はその少し離れたところに立って、自分の右脚へそっと体重を掛けた。
動く。
左脚も、もう動く。
歩こうと思えば歩ける。
けれど、自分の意志が身体へ届かなかった感覚だけが、皮膚の内側へ薄く残っていた。
「弥生」
呼ばれて、千綴は顔を上げた。
昼間、公園で会った男が入口近くに立っていた。
やはり名前を知っている。
店長のことも、さっきは「榊さん」と呼んだ。
救助の最中には考えないようにしていた疑問が、ようやく戻ってくる。
男は急かさなかった。
救急隊員が一人、外へ出ていく。開いた扉から夜気が入り、店の床に落ちていたレシートの端を僅かに揺らした。
扉が閉まる。
店内がまた少し静かになってから、男が言った。
「少し話せるか」
千綴は巴を見る。
巴も男を見ていた。
「私も聞く」
「もちろんです」
それ以上、男は言葉を重ねなかった。
三人は商品棚から少し離れた場所へ移った。巴は椅子に座ったまま。千綴はその横に立ち、男は向かい側へ立つ。
外の赤い光が一度、男の横顔を染めた。
消える。
次の光が来るまでに、男はようやく口を開いた。
「先に名乗ります。
巴が眉を寄せた。
「表向き?」
「はい」
直嗣はそこで言葉を切った。
説明を続ける前に、巴がどう受け取ったかを見ているようだった。
千綴は昼間の公園を思い返す。
事件関係者については、ある程度知っている。
あの時、直嗣はそう言った。
「だから私たちの名前も知ってたんですか」
「ああ」
「公園にいた時から?」
「事件の関係者として確認していた」
それだけだった。
勝手に調べたことを誤魔化すでもなく、必要以上に説明するでもない。
巴が小さく息を吐いた。
「なるほどね」
完全に納得した顔ではない。
それでも、ひとまず名前の話はそこで終わった。
直嗣は少し間を置いてから続ける。
「今日、榊さんが経験したことは、錯覚でも薬物でもありません」
巴の指が、膝の上で僅かに止まった。
千綴も黙った。
外から担架を片づける金属音が聞こえた。誰かが低い声で返事をし、それからまた店内が静かになる。
「人間の中には、通常では説明できない現象を起こす者がいます。今回の犯人も、その一人です」
巴はすぐには質問しなかった。
自分の手を一度開き、握る。
まだ動くことを確かめるような仕草だった。
「……人を動けなくする?」
ようやく出た声は、さっきより低かった。
「そうです。正確には、身体へ干渉して動きを奪っている」
「さっきの、あれが」
「はい」
直嗣は頷いた。
「通常の警察だけでは扱えない事件を、俺たちが担当しています」
それ以上は続けなかった。
巴が黙り、千綴も黙る。
すぐ隣にいる巴の呼吸が、少しずつ普段の速さへ戻っていくのが分かった。
千綴は自分の脚を見る。
二日前の公園でも、同じことが起きたのだろうか。
そう考えた瞬間、身体の奥に冷たい感覚が戻った。
「じゃあ」
千綴はゆっくり口を開いた。
「二日前の公園も、同じだったんですか」
直嗣はすぐには答えなかった。
千綴の顔を見て、それから一度だけ巴へ視線を移す。
「可能性は高い」
「私が襲われたのも」
「ああ」
「でも、私……何も覚えてない」
「今はそれでいい」
声は強くなかった。
「思い出すことを優先する必要はない。無理に掘り返して、状態を悪くする方が問題だ」
慰めではない。
けれど、突き放しているわけでもなかった。
千綴は小さく息を吐いた。
巴も隣で肩を落とす。
少しだけ安心したのかもしれない。
「犯人は?」
巴が聞いた。
「逃げました」
返事のあと、短い沈黙が落ちた。
「追えたんじゃないの」
責める声音ではなかった。
ただ、本当に知りたいのだと分かる問いだった。
直嗣も急いで否定しない。
「追えた可能性はあります」
「じゃあ、なんで」
巴の問いに、直嗣は一度店内を見た。
床。
椅子。
千綴。
そして巴。
「榊さんが倒れたからです」
巴が言葉を止める。
「弥生も完全には動けていなかった。あの場で犯人を追えば、二人を置いていくことになる」
それだけ言って、直嗣は黙った。
自分の判断を正当化する言葉を重ねようとはしない。
千綴は、さっきの場面を思い出した。
逃げる犯人。
追わなかった直嗣。
先に巴を見た。
次に自分を見た。
敵より先に。
「……あいつ、私を狙ってた」
千綴が言うと、直嗣は少しだけ間を置いた。
「その可能性は高い」
「二日前も」
「おそらく」
「今日も」
「ああ」
そこで初めて、直嗣ははっきり頷いた。
「少なくとも、今日は弥生を目的に来ていた」
店の外で車のドアが閉まった。
赤い光が一度だけ大きく揺れ、やがて店先から少し遠ざかっていく。
救急車が移動したらしい。
千綴は巴の手を見る。
もう震えはほとんどない。
自分のせいだ。
そう考えかけて、やめた。
襲ったのは、あの男だ。
それでも、自分を狙って来た結果として巴が巻き込まれた。その事実だけは、消えない。
「朝倉さん」
千綴は初めて名前を呼んだ。
「犯人に、名前はあるんですか」
直嗣は僅かに目を細めた。
「通称ならあります」
千綴は待った。
直嗣も一度、間を置いた。
「〈
聞いた瞬間、背中へ冷たいものが落ちた。
「……コレクター」
「複数の事件で同じ特徴が確認されています。俺たちはそう呼んでいる」
「連続犯?」
「はい」
巴が小さく息を吐いた。
誰もすぐには次の言葉を出さなかった。
店の外から聞こえていた声も、いつの間にか減っている。
襲撃は終わった。
店も閉まっている。
それなのに、千綴には今日がまだ終わっていないように感じられた。
怖さは残っている。
ただ、その怖さを急いで押し込めるより、今はそこにあるものとして認めた方が楽だった。
直嗣も何も急かさなかった。
救急隊員が最後の確認を終え、巴には翌日あらためて受診するよう念を押して帰っていった。
店内に残る人も少なくなった。
入口の外にはまだ警察関係者がいるが、さっきまで絶えず聞こえていた無線の声も、もう時折耳へ届く程度だった。
千綴は閉じたシャッターの前へ視線を向けた。
〈標本家〉が消えた方向。
実際にどこへ逃げたのかは見ていない。
それでも、店から外へ抜けたあと、どちらへ流れていったのか――細い感覚だけが、まだそこに残っている。
足跡が見えるわけではない。
道に印が付いているわけでもない。
さっきまでこの場所にいた男と、店の外へ続く何かが、完全には途切れていない。
そんな気がした。
千綴は入口へ近づく。
「弥生」
直嗣が呼んだ。
「外には出るな」
「出ません」
千綴はガラス越しに通りを見た。
左へ目を向ける。
違う。
右。
そちらの方が、まだ何かが残っている。
「……あっち」
声に出してから、自分でも少し驚いた。
「何がだ」
「逃げた方向です」
直嗣の表情が僅かに変わる。
千綴は右手側の道を指した。
「たぶん、あっち」
「見たのか」
「見てません」
「音は?」
「それも聞いてないです」
直嗣は店の外を見た。
すぐに否定もしなければ、信じたとも言わない。
しばらく道を見たあと、千綴へ視線を戻す。
「どこまで分かる」
「分かりません」
千綴は苦笑した。
「今のも、なんでそう思ったのか説明できないです。ただ……あっちだって感じる」
「公園でも似たことはあったか」
千綴はすぐに答えず、昼間を思い返した。
道。
人が通った場所。
朝倉が何を見ているのか、なぜか自分にも少しだけ分かったこと。
「たぶん、ありました」
直嗣は小さく頷いた。
その沈黙へ、巴の声が入る。
「待って」
二人が振り向く。
巴は椅子から立ち上がろうとして、すぐに顔をしかめた。
千綴が近づく。
「店長、まだ座ってて」
「それより、今の何」
巴は千綴と直嗣を交互に見た。
「犯人を追えるかもしれない、って話?」
「まだ、そこまでは」
「その顔はもう追う気でしょ」
千綴は言葉を止めた。
巴は昔からよく見ている。
千綴自身がまだ決め切れていないことまで、先に気づく。
だから、誤魔化しても仕方がない。
千綴は巴の前へ座った。
「店長」
少しだけ間を置く。
「私、協力したい」
「駄目」
返事は早かった。
けれど、さっきまでの勢いとは違った。
声を荒げたわけではない。ただ、その言葉だけは最初から決まっていたのだと分かる。
千綴はすぐには言い返さなかった。
巴の手を見る。
もう震えてはいない。
それでも、動かなくなった時の感覚が消えたわけではないはずだ。
「今日、店長が襲われた」
「だからこそよ」
「私を狙って来たから」
「それは、あんたの責任じゃない」
「分かってる」
千綴は頷いた。
「それは本当に分かってる。襲ったのはあいつだし、私が悪いわけじゃない」
そこで一度、息を整える。
「でも、次も同じとは限らない」
巴は何も言わない。
「私が逃げれば終わるなら、逃げます。隠れて済むなら、そうする」
千綴は自分の言葉を確かめながら続けた。
「でも、あいつは公園からここまで追って来た。私がどこかへ行けば、そこまで来るかもしれない。故郷へ帰れば家族がいるし、友達のところへ行けば友達がいる」
綾乃。
悠司。
環。
ヴァシリオス。
名前と顔が一人ずつ浮かぶ。
「守られてるだけで、その人たちまで巻き込まれるのは嫌です」
「だからって、あんたが前に出る必要はないでしょ」
巴の声は低かった。
「前に出たいわけじゃない」
「同じようなものよ」
「違うよ」
千綴は首を振った。
「私、戦えないです。さっきだって、店長のところまで行くので精一杯だった」
その事実を口にすると、悔しさはあった。
けれど、隠す気にはならなかった。
「でも、逃げた方向は分かった。公園でも、道とか、人が通った場所とか、前より気になるようになってる」
直嗣を見る。
「それが役に立つなら、使ってください」
巴が息を呑む。
直嗣はすぐには答えなかった。
千綴を見て、そのあと閉じたシャッターへ目を向ける。
少し考える時間を取ってから、ようやく口を開いた。
「今の段階では、連れていけない」
千綴の眉が上がる。
「なんで」
「一般人だからだ」
直嗣は落ち着いていた。
「訓練もない。犯人の能力も分かっていない。今日の状態で現場へ出せば、守る対象が一人増える」
正しい。
だからこそ、すぐには反論しづらい。
千綴は少し黙ってから聞いた。
「じゃあ、どうするんですか」
「こちらで追う」
「見つからなかったら?」
「その時は手段を増やす」
前のように即座に「見つける」と言い切らなかった。
直嗣は千綴の話を聞いたうえで考えている。
そのことが分かった。
「私の方が先に見つけられるかもしれない」
「その可能性はある」
千綴は少し驚いた。
直嗣は否定しなかった。
「だからこそ、今すぐ使うとは言えない」
千綴は黙った。
直嗣も急かさない。
店の奥で冷蔵庫の機械音だけが続いている。
やがて千綴は巴を見る。
「何も知らないまま待つ方が、私は怖い」
巴の表情が僅かに動いた。
「自分が何に狙われてるのか、何ができるのか。それくらいは知りたい」
直嗣は答えなかった。
ただ千綴を見ていた。
何を言うかではなく、どこまで本気で言っているのかを確かめるように。
千綴も、今度は目を逸らさなかった。
しばらく誰も口を開かなかった。
店の外を車が一台通り過ぎる。
閉じたシャッターの隙間から光が細く差し込み、床を横切って消えた。
直嗣はその光がなくなるまで待ってから、千綴を見る。
「一つ確認する」
「はい」
「戦いたいのか」
千綴は首を振った。
「違います。犯人を殴りたいとか、仕返ししたいとか、そういうのじゃない」
「怖くないのか」
今度は、すぐには答えられなかった。
脚が動かなくなった感覚。
男の顔を見ただけで、身体が先に逃げようとしたこと。
喉の奥には、まだその時の冷たさが残っている。
「怖いです」
千綴は認めた。
「すごく怖い。でも、何も知らないままなのも嫌です」
直嗣は小さく頷いた。
それ以上、怖さについて掘り下げることはしなかった。
「もう一つ」
「はい」
「現場で俺の指示に従えるか」
千綴は少し考える。
「内容によります」
巴が額へ手を当てた。
「そこで迷うの……」
「だって、何でも聞きますって言う方が怖くないですか」
千綴が返すと、直嗣はほんの僅かに息を吐いた。
「そう答えると思った」
「じゃあ聞かないでください」
「必要な確認だ」
そこで空気が少しだけ緩んだ。
直嗣はすぐに続きを言わず、巴の方を見る。
巴も黙って待っている。
「条件を決める」
千綴が姿勢を直した。
「戦闘には出さない。単独行動もしない。現場では俺から離れない」
「分かりました」
「危険だと判断したら、その場で離脱させる。その判断だけは俺に任せてもらう」
千綴は少しだけ迷った。
何でも従うつもりはない。
けれど、自分が戦えないことも、さっき十分に分かった。
「……そこは分かりました」
「十分だ」
直嗣はそう言ってから、巴へ向き直った。
「榊さん」
巴の表情が硬くなる。
「私はまだ認めてない」
「分かっています」
「本当に?」
「はい」
直嗣は急いで説得しようとはしなかった。
巴の言葉が続くのを待つ。
「この子は高校生です」
「はい」
「事件に巻き込まれて、まだ二日しか経ってない。今日だって、また襲われたばかり」
「はい」
「それでも連れていくって言うの?」
直嗣は少し考えた。
一度千綴を見てから答える。
「通常なら、連れていきません」
「なら――」
「ただ、今の状況では遠ざけることが安全とも言い切れない」
巴が黙る。
「犯人は弥生へ執着している。行き先を変えても、そこまで追われる可能性がある。そうなれば、周囲へ危険が移る」
千綴がさっき口にしたことと同じだった。
「それに、弥生自身も今の感覚を理解できていない」
「だから危ないんでしょ」
「そうです」
直嗣は否定しなかった。
「だから、放っておく方が危ない」
巴の目が細くなる。
「放っておくって」
「一人で抱えさせる、という意味です」
少しだけ言葉を選び直した。
「俺のそばなら、少なくとも何か起きた時には対応できる。それに、弥生の感覚が本当に犯人を追う助けになるなら、事件を長引かせずに済む可能性もある」
直嗣はそこで言葉を止めた。
「ただし、使えるから連れていくわけではありません」
千綴が顔を上げる。
「守れる範囲に置く。そのうえで、必要なら力を借りる。それが条件です」
巴は何も言わなかった。
店の外では、もう警察関係者の声もほとんど聞こえない。
丘平商店はようやく、本当に閉店した店の静けさへ戻りつつあった。
「店長」
千綴が呼ぶ。
巴は千綴を見る。
「私、行きたい」
「……そういう顔してる」
「ごめんなさい」
「謝るならやめてほしいんだけどね」
巴はそう言って、長く息を吐いた。
怒っている。
困っている。
怖がっている。
千綴には全部分かった。
だからこそ、視線を逸らさなかった。
「私、何も分からないまま店長が倒れてるのを見るの、もう嫌です」
声は少し震えた。
「次が誰かも分からないし。できることがあるなら、やりたい」
巴は長いあいだ答えなかった。
その沈黙の中で、千綴も何も足さなかった。
説得するための言葉を重ねれば、かえって違う気がした。
やがて巴が直嗣を見る。
「朝倉さん」
「はい」
「この子が危なくなったら?」
「守ります」
返事は早かった。
けれど、勢いで言ったようには聞こえない。
巴はさらに聞く。
「犯人を捕まえるのと、この子を守るのが同時にできなかったら?」
直嗣は一度だけ千綴を見た。
それから、まっすぐ巴へ答える。
「弥生を優先します」
巴の表情が僅かに変わった。
「言い切るのね」
「今日もそうしました」
千綴は、逃げた犯人を追わなかった直嗣を思い出す。
巴も同じ場面を思い出したのだろう。
言葉より前に、すでに一度選んでいる。
それが一番大きかった。
巴はしばらく黙ったあと、椅子の背へ身体を預けた。
「……条件付き」
千綴が顔を上げる。
「店長」
「賛成したわけじゃないからね」
「はい」
「無茶したら即やめる」
「はい」
「朝倉さんの言うことも、ちゃんと聞く」
千綴は一瞬だけ直嗣を見る。
「内容によります」
「そこは今だけでも『はい』って言いなさい!」
久しぶりに、巴のいつもの声が店内へ響いた。
千綴は思わず笑う。
直嗣も、ほんの僅かに口元を緩めたように見えた。
それが笑ったのかどうか、千綴にはまだ判断できなかった。
少し空気が戻ってから、直嗣が改めて千綴を見る。
「今回の〈標本家〉事件に限って、捜査へ協力してもらう」
言葉にすると、急に重みが出た。
千綴は一度、店の中を見る。
閉じたシャッター。
片づけ途中の棚。
騒ぎのあとも残ったままのレジ。
少し離れたところには巴がいる。
どれも昨日までと同じ場所にある。
なのに、もう同じ景色には見えなかった。
千綴は直嗣へ視線を戻す。
「分かりました。よろしくお願いします、朝倉さん」
直嗣は短く頷いた。
「朝倉直嗣だ」
「それはもう知ってます」
「そうだったな」
「弥生千綴です」
「それも知ってる」
「じゃあ、お互い様ですね」
直嗣は一瞬だけ千綴を見る。
今度は、さっきより分かりやすく息を吐いた。
「明日、こちらから連絡する」
「はい」
「今日は休め」
「……それ、みんな言うんですね」
「必要だから言う」
千綴は返す言葉を失って、肩を落とした。
その横で、巴がようやく小さく笑った。
店の外では、夜の気配がすっかり濃くなっていた。
いつの間にか、周囲の騒がしさもほとんど消えている。
千綴はエプロンの紐へ手を触れた。店を開ける前、自分で結び直したままだった。
奥では、冷蔵ケースの機械音だけが一定の調子で続いている。
明日。
その言葉が、昨日までとは少し違う重さで胸に残った。