目を開けると、部屋の中はもう薄明るかった。隣のベッドから布団の擦れる音がする。
「……おはよう」
「おはよう」
綾乃はまだ眠そうに目元をこすっていた。千綴は枕元のスマートフォンで時刻を確かめ、上半身を起こす。ベッド脇には、昨夜のうちにまとめた荷物が置いてあった。
「忘れ物、もう一回見ておこうかな」
「私も見る」
ベッドを下りたところで、千綴はカーテンへ手を伸ばした。
開くと、窓いっぱいに朝の海が見えた。水面の一部だけが白く光り、その上を小さな船がゆっくり横切っていく。
綾乃も隣へ来て、窓の外を見た。
「きれいだね」
「うん」
窓から離れると、千綴は荷物を開き、昨夜まとめた中身をもう一度だけ見直した。隣では綾乃も自分の荷物を確かめている。
中身を一通り見終えると、千綴はファスナーを閉じた。
朝食のあと一階へ下りると同じ学校の生徒がロビーに集まり始め、外ではバスの脇に運ばれた大きな荷物を、係員が開いたトランクへ順に積んでいた。千綴も自分の分を預け、綾乃とロビーへ戻った。
「おはよ」
近くから声がして振り向くと、環がこちらへ歩いてきた。手には昨日買った帽子を持っている。
「おはよう」
環は返事のあと、小さくあくびを噛み殺した。
少し向こうにはヴァシリオスの姿もあった。そのさらに奥では別のクラスの生徒たちが集まり始め、その中に悠司も見える。こちらに気づいた悠司が軽く手を上げたので、千綴も上げ返した。
ほどなくして、クラスごとにバスへ向かうよう教師の案内が入った。
バスがホテルを離れると、窓の外を朝の街が流れていった。
店先を歩く人や、信号待ちで並ぶ車が見える。交差点を曲がるたび景色が入れ替わり、ときどき建物の切れ間から海が覗いた。
千綴は窓際からその景色を眺めていた。
見えていた海が少しずつ近くなり、やがて岸壁が窓の下へ伸びてくる。その先には白い船が停まっていた。
「大きいね」
隣で綾乃が窓へ顔を寄せる。
近づくにつれて、デッキの手すりや船体に並ぶ窓まで見えるようになった。千綴も船を目で追っているうちに、バスはゆっくり速度を落とした。
港へ出ると、頬に風が当たった。目の前では、係員が船へ渡る通路のそばで乗客を案内している。船体は岸壁のすぐ脇にあり、千綴の位置からはデッキを見上げる形になった。
点呼を終えた列について船への通路まで来ると、先が船の動きに合わせてわずかに上下していた。千綴は手すりに触れながら一歩ずつ渡った。船へ足を移すと足の裏にかすかな揺れが伝わり、動かない岸壁に立っていたときとは感覚が違った。
係員に促されて先へ進むと、上へ続く階段が見えた。
「上、行ってみる?」
綾乃が言う。
「行こっか」
階段を上り、デッキへ出る。
周囲を遮るものが少なくなり、風が正面から当たった。千綴は顔にかかった髪を耳へ戻す。
環も帽子を被り、つばへ手を添えた。
柵のそばまで行くと、さっきまで立っていた岸壁がすぐ下に続いている。その向こうには港の施設や道路が見え、さらに先まで街が広がっていた。
「上から見ると広いな」
ヴァシリオスが港の方を見たまま言う。
「ほんとだね」
千綴も同じ方向へ目を向ける。
やがて足元から低い振動が伝わった。
岸壁との間にあった隙間が、ゆっくり広がっていった。
港を離れるにつれて、船の揺れが少し大きくなった。
千綴は柵に手を置き、水面を見下ろす。船の脇には白い泡が続き、少し離れると形が崩れて見えなくなっていった。
「船酔い、大丈夫そう?」
綾乃が隣から聞く。
「今のところは大丈夫」
「私も」
振り返ると、さっきまで近くにあった岸壁が少し遠くなっていた。建物も小さく見え、その手前を別の船が横切っていく。船内放送が流れ、海中観察の案内が始まった。
「行こ」
綾乃と一緒に階段へ向かう。
下へ降りるにつれ、外の風の音が遠くなった。
海中展望室へ入ると、左右の壁に窓が並んでいる。窓の向こうでは、水の中へ差し込んだ光がゆっくり揺れていた。
千綴は空いていた窓へ近づく。
「あ、いた」
隣から綾乃の声がした。
「どこ?」
「右。青いの」
言われた方へ視線を向けると、枝のように広がった珊瑚の間を、小さな青い魚が抜けていくところだった。身体をひるがえすたびに色が明るく見え、やがて岩の陰へ隠れる。そのまま窓の外を追っていると、船の動きに合わせて珊瑚がゆっくり横へずれていった。背の低いものの向こうから丸みのある岩場が現れ、その上を別の魚が二匹続けて横切る。
少し離れたところから環の声がした。
「こっち、群れになってる」
千綴がそちらを見ると、環が別の窓の前に立っている。
綾乃と近くまで行き、千綴もその窓を覗き込んだ。
小さな魚の群れが窓の右から左へ流れていた。まとまっていた形が珊瑚の上でほどけ、何匹かは岩の隙間へ入り、残った魚は向きを変えて窓の奥へ抜けていく。
「結構いるね」
綾乃が窓へ顔を寄せる。
反対側では、ヴァシリオスが身を屈めて窓を覗き込んでいた。環もそちらへ移る。
千綴はもう少し今の窓を見ていた。水の中を通った光が珊瑚の表面で揺れ、船が進むにつれて見えている岩場も少しずつ入れ替わっていく。
「あ、黄色いの」
綾乃の声に目を向けると、窓の下の方から黄色い魚が一匹現れた。珊瑚の上を横切り、岩の陰へ入る直前に向きを変えて、そのまま窓の端へ抜けていった。
やがて係員の声が聞こえ、前の方から生徒たちが少しずつ階段へ戻り始める。綾乃が名残惜しそうに窓へ目を戻した。
「もう少し見ていたかったな」
「うん」
千綴も最後にもう一度だけ窓の外を見る。
さっきまで見ていた珊瑚が、船の動きに合わせてゆっくり窓の端へ流れていった。
デッキへ戻ると、外の光に目が慣れるまで少し眩しかった。
風の音が耳へ戻ってくる。
千綴は柵のそばまで行き、海を見下ろした。光を返す水面の下に、さっきまで窓越しに見ていたものはもう見つけられない。
綾乃も隣へ来て、しばらく同じ海を見ていた。
千綴は海から顔を上げた。
遠くに、港の建物がまた見え始めていた。
国際通りへ着くと、歩道のすぐ脇まで店の看板が並んでいた。
菓子や泡盛、雑貨を置いた店が続き、軒先から店内まで土産物が見えている。少し先には、見覚えのない制服を着た生徒の集団も歩いていた。
集合場所と時刻を確認すると、生徒たちはそれぞれ通りへ散っていく。
千綴たちも歩き出したが、最初の店先で早くも足並みが分かれた。ヴァシリオスは向かいの食品店へ入り、環も少し先の雑貨店へ向かう。綾乃は千綴と同じ土産物店へ入った。
店内には菓子の箱が棚いっぱいに積まれていた。紅芋や黒糖、島の塩と書かれたものが並び、通路の途中では小さな試食皿も置かれている。
「これ、もらっていいみたい」
綾乃が一つ取り、千綴にも勧める。
千綴も小さな焼き菓子を口に入れた。さくっとした生地のあとに、黒糖の甘さが残る。
「おいしい」
「ね。私これにしようかな」
綾乃はすぐ近くに積まれていた箱を手に取った。
千綴も同じ棚を見ていく。試したものとは別に、紅芋を使った焼き菓子が目に留まった。箱を裏返して中身を確かめ、少し考えてから籠へ入れる。
そこから先の棚には、小さな袋に入った菓子が並んでいた。色の違う包みをいくつか見比べているうちに、島の塩を使ったクッキーに目が止まる。
巴への土産なら、店の休憩中にもつまめるこういう小袋の方が渡しやすそうだった。
千綴は一袋取って、籠へ入れた。
会計を済ませて外へ出ると、綾乃の手にも紙袋が一つ増えていた。
「次、どうする?」
「もう少し歩いてみたい」
「私も」
二人で通りを進む。店先にはシーサーの置物や色鮮やかな布小物が並び、少し先では菓子の試食を勧める声も聞こえた。立ち止まるたびに人の流れが横を抜けていく。千綴は何度か店を覗いたが、手に取って見たものをそのまま戻すことの方が多かった。
途中、小物を並べた店から環が出てきた。手には小さな袋を持っている。
「あ、ちづる」
環もこちらに気づき、袋を手提げへ入れた。
「中村くんは?」
綾乃が聞く。
「さっき向こうにいた」
環が通りの先へ目をやる。見える範囲にはいなかった。
三人で少し歩いたあと、環はまた別の店先で足を止めた。千綴と綾乃はそのまま先へ進み、時間を見てから集合場所へ戻った。
バスの近くまで戻ると、ほかの生徒たちも少しずつ集まり始めていた。先に戻っていた環が、バスの横で帽子を手にしている。その少しあとに、ヴァシリオスも紙袋を二つ提げて戻ってきた。
「結構買ったね」
綾乃が袋を見る。
「見てたら増えた」
「誰の分?」
「家と、じいちゃん」
ヴァシリオスは紙袋を持ち直した。
そこへ別のクラスの列が戻ってきた。
その中に悠司を見つけ、千綴が手を上げる。悠司もこちらへ寄ってきた。手には土産物店の袋がある。
「守屋くんも買ったんだ」
綾乃が悠司の手元を見る。
「ああ。家の分」
そこで教師が人数を確認する声が聞こえた。
悠司は自分のクラスへ戻り、千綴たちも呼ばれた方へ向かう。
昼食は、集合場所から少し歩いた店で取ることになった。
千綴は沖縄そばを選んだ。
運ばれてきた器から湯気が上がり、出汁の匂いが近くまで届く。
千綴は箸で麺を持ち上げ、口に運んだ。
「ちづる、それおいしい?」
綾乃が千綴の器を見る。
「うん。出汁が好きかも」
「そっちにすればよかったな」
綾乃が自分の昼食へ目を戻す。千綴はもう一口、出汁を飲んだ。
温かさが喉を通り、朝から外にいた身体が少し緩む。
向かいでは、ヴァシリオスも箸を動かしていた。足元には、さっきまで持っていた二つの紙袋がまとめて置かれている。
「これ食ったら、もう空港か」
ヴァシリオスが言う。
「早いね」
綾乃が顔を上げた。
「三日あったのに」
「ずっと動いてたからじゃない」
環が淡々と返し、また自分の昼食へ目を戻す。
「それはあるかも」
千綴も少し笑った。
しばらく四人で食べ進める。店の外を通る人の声が聞こえ、開いた扉の向こうを何人かの観光客が横切っていった。
環は足元に置いた袋を一度だけ確かめ、また箸を動かした。
千綴は残った出汁を一口飲み、時計を見る。
そろそろ空港へ向かう時間だった。
那覇空港へ着き、バスを降りる。
車体の下でトランクが開き、朝に積んだ大きな荷物が次々と降ろされていた。千綴は人の間から自分のものを見つけ、手元へ引き寄せる。
自分の荷物を受け取ると、千綴はクラスの列へ加わった。
列は大きな荷物を引きながら、空港の中をゆっくり進んでいく。
案内されたカウンターまで来ると、前の生徒から順に荷物を預けていった。千綴も自分の番で持ち手を離し、係員へ渡す。
さっきまで引いていた荷物がなくなると、手元に残るのは手荷物と土産の袋だけになった。
クラスの列へ戻り、そのまま保安検査へ向かう。
保安検査を終えて搭乗口まで来ると、案内表示には羽田の文字が出ていた。
千綴はその文字を見てから、窓の向こうへ目を移す。駐機している機体の奥に、午後の空が広がっている。
近くの椅子には同じ学校の生徒が何人も座り、スマートフォンを見たり、友人同士で話したりしていた。綾乃は千綴の隣で、国際通りで買った袋を足元へ置いている。
千綴も手荷物を膝の上へ置いた。
しばらくして搭乗案内が流れた。
立ち上がる生徒が増え、千綴も手荷物を持つ。さっきまで見えていた羽田の文字が、人の肩に隠れた。
機内では綾乃が窓側へ座り、千綴はその隣でシートベルトを締めた。
離陸してしばらくすると、綾乃が窓へ顔を寄せた。千綴の位置からも、窓の端に海と雲が見える。
「ちづる、まだ見えるよ」
少し身を寄せると、雲の切れ間に海岸線が残っていた。
「ほんとだ」
やがて雲が重なり、見えなくなる。
千綴は座席へ背を戻した。
機内の音を聞いているうちに、綾乃の頭が少しずつ窓から離れる。
「眠い?」
「ちょっと。寝るかも」
「着く前に起こすよ」
「お願い」
綾乃は座席へもたれ、目を閉じた。千綴も少しして目を閉じる。
目を開けると、機内が少し暗くなっていた。窓側では綾乃も起きていて、外を見ている。
「もう着きそう」
窓の向こうには、夕方の街が広がっていた。道路に並ぶ車の光が細く続き、建物の屋根が近づいてくる。
機内放送が入り、千綴も座席を起こした。
高度が下がるにつれて、街の形が大きくなる。
車輪が滑走路へ触れ、機体が一度大きく揺れた。
そのまま速度が落ちていく。
「着いたね」
「うん」
綾乃が窓の外を見たまま笑った。
飛行機を降り、預けていた荷物を受け取る。
到着ロビーではクラスごとに集まり、最後の点呼が始まっていた。教師の話が終わるころには、近くで待っていた生徒たちが少しずつ動き始める。
千綴も大きな荷物の持ち手を握った。
「千綴」
別のクラスから悠司が来る。
「悠司」
綾乃と環、ヴァシリオスも近くにいる。五人で駅へ向かう人の流れに入った。建物を出る手前で冷たい空気が入り込み、千綴は上着の前を合わせる。
「寒っ」
綾乃も肩をすくめた。
「思ったより冷えてるね」
外へ出ると、空はもう暗くなっていた。
電車へ乗ると、窓には車内の明かりが映った。大きな荷物を邪魔にならない位置へ寄せ、それぞれ空いた席に座る。
「船、どうだった?」
悠司が聞く。
「魚、見えたよ。珊瑚も結構近かった」
「へえ」
「港出てからは少し揺れたけど、私は平気だった」
綾乃がそう続けると、悠司は頷いた。
いくつか駅を過ぎ、やがて鏡峰に着く。
「じゃあ、ここだ」
悠司が立ち上がり、綾乃も荷物を引き寄せる。
「ちづる、着いたら連絡してね」
「綾乃もね」
「うん」
悠司が千綴を見る。
「またな」
「また学校で」
二人がホームへ降り、扉が閉まる。
少し広くなった車内で、環が空いた席へずれる。
次に丘平へ着く。千綴が荷物を持って立つと、環も隣で腰を上げた。
ヴァシリオスは座ったまま、二人へ手を上げる。
「じゃあな」
「ヴァシリオスも気をつけてね」
「写真、忘れないで」
環が言う。
「忘れないって」
千綴と環がホームへ降りる。扉が閉まり、電車が動き出すと、ヴァシリオスの姿も窓の向こうへ流れていった。
改札へ向かう途中で、環とは帰る方向が分かれた。
「じゃあね、ちづる」
「うん。またね」
環を見送り、千綴は一人で改札を出る。
丘平駅を出ると、見慣れた駅前の灯りが広がっていた。
商店街にはまだ開いている店があり、通りを自転車が一台抜けていく。千綴は大きな荷物を持って、いつもの店先を通り過ぎた。
スマートフォンが震えた。
綾乃から、家に着いたという連絡が入っている。その下には悠司の短いメッセージもあった。
千綴は道の端で一度立ち止まり、返信する。
『丘平着いた。今から帰る』
送ってから、また歩き出した。
アパートへ着き、階段を上る。
鍵を開けると、暗い部屋がそのまま待っていた。
灯りをつけ、大きな荷物を中へ入れる。
靴を脱いで扉を閉めると、廊下から聞こえていた音も遠くなった。
千綴はしばらく玄関に立ったまま、静かな部屋を見る。
大きな荷物を壁際へ寄せ、手荷物もその横へ置いた。
髪や肌には、潮風に当たったあとのべたつきがまだ少し残っている。
千綴は荷物から着替えだけを取り出し、先に風呂を済ませることにした。
風呂から上がり、髪を乾かす。
大きな荷物は壁際に置いたままだった。
机の上で、スマートフォンが短く震えた。
千綴はそちらへ目を向ける。
荷物も、確認も、明日でいい。