朝の空気は、頬に触れるたび冷たかった。
千綴は鞄の肩紐を掛け直し、住宅地から学校へ続く坂を上っていく。吐いた息が白くほどけ、すぐに見えなくなる。
坂の上には校舎が見えていた。歩道の先を、同じ制服の生徒が何人か歩いている。少し離れたところを自転車が追い越していき、坂の途中で速度を落とした。
土曜日は、昼近くまで眠っていた。
枕元の時計を見てから身体を起こし、しばらくそのまま座っていた。床にはまだ旅行の荷物が残っていて、起きてからようやく片付けに手をつけた。
服や使ったものを順に戻し、鞄の中が空いていく。その途中でスマートフォンを手に取ると、届いたままになっていた連絡がいくつも並んでいた。
一つずつ返していった。
五人のグループチャットを開けば、写真が増えていた。画面を送っても送っても途切れない。千綴も何度か指を止めながら、それを眺めた。
ほかの連絡へ移る中には、直嗣から届いたものもあった。
ヴァイパーに関する当面の対応は、ひとまず済んだらしい。
短い文面を読み、千綴も返事を送った。それ以上のことまでは書かれていなかった。
店長への土産は、バイトへ行った時に渡し、ちょうど居合わせたエレディトにも用意していた分を渡した。
足元を乾いた葉が横切った。
千綴が視線を落とすと、風に押された葉は靴の脇を抜け、そのまま後ろへ流れていった。
前へ目を戻し、そのまま坂を上っていく。
「ちづる、おはよ」
後ろから声が飛んできた。振り返ると、綾乃が坂を上ってくる。走ってはいないが、千綴へ追いつくまで少しだけ歩調が速い。
「おはよう、綾乃」
綾乃が隣へ並び、鞄を持ち直した。
「寒いね」
「うん、寒い」
言いながら息を吐くと、また白くなる。綾乃も真似するように息を吐き、その白さを目で追った。
「もう冬って感じする」
「すっかり冷え込むようになったしね」
「沖縄から帰ってきたから、余計に寒く感じるのかな」
「それはあるかも」
綾乃が肩をすくめる。首元へ入り込んだ風を避けるように少し顎を引いた。
二人で坂を上っていく。
前を歩いていた生徒が校門へ入り、その向こうから別の話し声が聞こえてきた。千綴たちも坂を上りきる。
校門を抜ける頃には、周囲の生徒も増えていた。
「今日、補習何時からだっけ」
「放課後じゃなかった?」
近くを歩いていた二人の声が耳に入る。
綾乃もそちらへ一瞬目を向けたが、そのまま昇降口へ入った。
外の風が弱まり、代わりに靴音と朝の挨拶が重なる。
千綴は下駄箱を開け、上履きを出した。隣で綾乃も靴を履き替える。
「ちづる、今日補習あった?」
「ないよ」
「私も今日はない」
「今日は、なんだ」
「そこは気にしないで」
綾乃が先に立ち、千綴も靴を下駄箱へ入れてあとに続くと、教室の開いた扉からは何人もの話し声が聞こえた。机に教科書を広げる生徒の横を通って自分の席へ向かい、鞄を机の横へ置いて椅子を引いた。
授業終了のチャイムで教室の空気が緩み、椅子を引く音があちこちでする中、千綴は次の授業までの時間を確かめ、鞄から小さな包みを取り出した。
「どこ行くの?」
近くにいた綾乃が聞いた。
「鈴のところ。お土産渡しておこうかなって」
「あ、そっか」
「いってらっしゃい」
包みを持って教室を出る。
一年生の教室が並ぶ階へ下りると、廊下の空気が少し違って聞こえた。開いた教室の扉から話し声が流れ、廊下を行き来する生徒の間を抜けていく。
目当ての教室まで来て、中を覗く。
鈴は席にいた。
近くにいた生徒が千綴へ気づき、教室の中へ顔を向ける。
「小森、生徒会の先輩来てるよ」
「え?」
鈴がこちらを見る。千綴を見つけると席を立ち、教室の入口まで歩いてきた。
「弥生先輩。どうしたんですか?」
「これ。修学旅行のお土産」
持ってきた包みを差し出す。鈴の目が一度包みへ落ち、すぐに千綴へ戻った。
「ありがとうございます」
両手で受け取る。
「水族館で選んだやつ」
「嬉しいです」
鈴が包みを見て、それから大事そうに持ち直した。
「沖縄、楽しかったですか?」
「うん、楽しかったよ」
「いいですね。今度、写真見せてください」
「いいよ」
「約束ですよ」
「忘れないよ」
鈴が笑う。
教室の中から、次の授業の準備をする音が聞こえ始めていた。
「じゃあ、そろそろ戻るね」
「はい。ありがとうございました、弥生先輩」
「じゃあね」
手を上げ、教室を離れる。数歩進んだところで、背後から声が聞こえた。
「小森、何もらったの?」
「お土産?」
「修学旅行のお土産です」
「いいなー」
千綴は少しだけ振り返る。教室の入口の向こうで、鈴がクラスメイトと話していた。千綴は前へ向き直り、階段へ向かった。
午前最後の授業が終わるチャイムが鳴った。教科書を閉じる音に混じって、教室のあちこちから声が上がる。千綴も机の上を片付けた。
「ちづる、行こ」
綾乃が椅子から立つ。
環も席を立ち、ヴァシリオスも通路へ出た。
四人で教室を出る。
昼休みの廊下には、食堂や購買へ向かう生徒が増えていた。階段へ向かう途中、別の廊下から悠司が来る。
「千綴」
「悠司」
「今から昼か?」
「うん。食堂」
「俺も行く」
そのまま五人で階段を下りる。
食堂へ近づくにつれ、話し声が大きくなっていった。入口をくぐると、食器の触れ合う音と椅子を引く音が重なる。
壁のメニューへ目を向ける。
列はすでにできていたが、まだ大きく伸びてはいない。
千綴たちもそれぞれ並ぶ。
前の生徒がトレーを受け取り、列が少しずつ進んでいく。千綴も自分の番になると、ご飯とみそ汁、小鉢、主菜の載ったトレーを受け取った。
列から外れ、先へ進む。
少し離れた受け取り口には、九頭龍の姿もあった。
ヴァシリオスは列を離れ、千綴たちの方へ来る。
環が空いているテーブルを見つけた。
五人でそちらへ向かい、トレーを置く。
「いただきます」
千綴は箸を取り、最初にみそ汁へ口をつけた。
温かさが喉を通る。
向かいでは綾乃が小鉢を覗き、その隣で環が黙々と箸を動かしている。悠司も食べ始め、ヴァシリオスは主菜へ箸を伸ばした。
しばらく食べてから、ヴァシリオスが顔を上げる。
「九頭龍さん、最近見なかったけど、今日はこっちにいるんだな」
「いたね」
千綴は主菜へ箸を伸ばす。その時、ヴァシリオスが小さく声を上げた。
「あれ」
「何?」
綾乃が聞く。
ヴァシリオスはトレーの端を見ていた。
「ゼリーついてる」
「デザートついてたっけ?」
「いや。頼んでない」
透明な容器を持ち上げ、少し眺める。
「じゃあ、おまけ?」
綾乃が言う。
「かな」
ヴァシリオスは容器を置き、蓋の端へ指を掛けた。ぺり、と薄い蓋が剥がれる。
テケリ・リ テケリ・リ。
千綴の箸が止まった。向かいで綾乃も顔を上げる。
「……今、何か聞こえなかった?」
「聞こえた」
悠司が周囲を見る。
環も箸を止めていた。
「何の音?」
綾乃が聞く。
「分からない」
千綴も食堂の中へ目を向けた。
周囲では変わらず話し声が続いている。食器の音も、椅子が床を擦る音もする。
さっきの音だけが、どこから聞こえたのか分からない。
ヴァシリオスは手元のゼリーを見る。
「これ?」
「ゼリーから聞こえたってこと?」
綾乃が言う。
「分かんない」
ヴァシリオスは少しだけ容器を傾けた。何も聞こえない。
環が先に箸を動かし始める。
「食べれば」
「そうする」
ヴァシリオスもスプーンを取った。一口食べ、少し味わう。
「どう?」
「ゼリーだな」
「それは見れば分かるよ」
綾乃が笑う。
千綴も止めていた箸を動かした。
それきり、変わった音は聞こえなかった。
食事が進み、皿の上が少しずつ空いていく。
ヴァシリオスがみそ汁の椀を置いた。
「そういや、じいちゃんに土産送ったって電話したら、冬休みは帰ってこいって言われた」
「冬休み?」
綾乃が聞く。
「友達も連れてきていいってさ。それで、みんな予定あるか?」
綾乃が目を瞬いた。
「修学旅行から帰ってきたばっかりなのに、もう次の旅行?」
「冬休み、もうそんな遠くないだろ」
「それはそうだけど」
綾乃が箸を置く。
「それで、私たちもギリシャに?」
「うん。どうかな?」
あっさり返され、綾乃は少しだけ目を丸くした。千綴も箸を止める。
「ギリシャって、けっこう遠いよね?」
「遠いな。飛行機だけでも結構かかるし、乗り継ぎもある」
「じゃあ、あんまり短い日程にはできないね」
「そうだな。冬休み入ってからで、日にちはみんなの予定見て決めればいいかなって」
ヴァシリオスが悠司を見る。
「悠司は?」
「俺は厳しいな」
悠司はすぐに答えた。
「年末年始は神社の方がある」
「ああ、そっか」
「準備もあるし、何日も空けるのは難しい」
ヴァシリオスが少し考え、頷く。
「じゃあ悠司は無理か」
「たぶんな」
「綾乃は?」
「私は大きい予定はないよ。家には聞いてみるけど」
「じゃあ、行けそうではあるんだな」
「たぶんね」
次にヴァシリオスの視線が環へ向く。
「タマは?」
「部活」
「冬休みも?」
「練習ある」
環はそれだけ言って、みそ汁へ口をつける。
「ずっと?」
「日による」
「じゃあ、合えばって感じか」
「たぶん。でも厳しい」
「そっか」
ヴァシリオスはあっさり引いた。千綴の方へ顔を向ける。
「千綴は?」
「実家には帰るつもり」
「やっぱ帰るか」
「うん。でも日程はずらせると思う」
「じゃあ日程次第か」
「そうなるかな」
綾乃が少し身を乗り出す。
「ヴァシリオスは、そのままギリシャにいるの?」
「俺? 俺はせっかくだし、みんなが帰ったあともしばらく残るかも」
「じゃあ帰りは別になるかもしれないんだ」
「たぶんな。その辺もまだ何も決めてない」
ヴァシリオスはそう言って、残っていたご飯を口へ運ぶ。
ギリシャ。
そう考えるだけでも、ずいぶん遠く感じる。
千綴も残っていたご飯を口へ運んだ。
ヴァシリオスが順に顔を見回し、ふと眉を寄せた。
「これ、男は俺一人になる可能性ないか? 悠司は無理そうだし」
「そこ気にするんだ」
「そりゃ気にするだろ」
少し考えてから、ヴァシリオスが顔を上げた。
「そうだ。エレディトも誘ってみるか」
千綴が箸を置く。
「エレディト?」
「うん。予定なければ一緒に行けるだろ」
「聞いてみたら?」
「今?」
綾乃が言う。
「今」
ヴァシリオスは迷わずポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を操作し、そのまま耳へ当てる。
「行動早いね」
「いつものこと」
環が言う。
数回の呼び出し音のあと、ヴァシリオスが口を開いた。
「もしもし、エレディト? 今大丈夫か?」
向こうから返事があったらしい。
「冬休み、何か予定ある?」
ヴァシリオスが黙り、相手の声を聞く。千綴は食事を続けながら、その様子を見る。
「そっか。じゃあさ、じいちゃんが冬休みに友達連れて遊びに来いって言ってるんだけど、エレディトも来ないか?」
少し間が空いた。
「場所? ギリシャ。どうだ?」
綾乃が小さく笑いそうになり、口元を押さえた。
電話の向こうで何か返ってくる。
「うん。確認してからでいい。まだ日にちも決めてないから」
ヴァシリオスは何度か頷く。
「決まったら連絡して。じゃあ、また」
通話を切り、スマートフォンをテーブルへ置いた。
「どうだった?」
綾乃が聞く。
「予定見てみるって」
「そりゃそうだよ」
悠司が言う。
「国外だしな」
「俺も最初から今決めろとは言ってないだろ」
「電話するのが早いんだよ」
「聞くだけなら早い方がいいだろ」
千綴は残っていたみそ汁を飲んだ。
まだ日にちも、誰が行けるのかも決まっていない。
食事を終える頃、ヴァシリオスがまたスマートフォンへ目を落とした。
指で画面を送り、途中で止める。
「そうだ。これ見た?」
「何?」
綾乃が聞く。
「科学ニュース。SNSで流れてきた」
ヴァシリオスがスマートフォンをテーブルの中央へ寄せる。綾乃が身体を少しそちらへ向けた。
「太古の化石から、かなり保存状態のいい遺伝情報を取り出せたらしい」
「そんなの残ってるの?」
「条件がよかったんじゃないか。絶滅した生物の特徴とか、もっと詳しく調べられるって」
ヴァシリオスが記事を指で送る。
「将来的には、個体の復元研究にも使えるかもしれないって書いてある」
「復元って、生き返らせるってこと?」
「そこまでできたって話じゃないけどな」
綾乃が画面を見る。
「映画みたい」
「だろ?」
ヴァシリオスが楽しそうに返す。
悠司も横から画面へ目を向けた。
「本当にそこまでできるようになるのか?」
「どうだろうな。でも、こういうの面白くないか?」
「面白いけど、すごい話だね」
千綴も画面を見る。
専門的な部分までは分からない。けれど、ずっと昔に失われたものから情報を拾い上げるという話だけでも、不思議な感じがする。
「こういうの見つけるの早いよね」
「いろいろ見てるからな」
ヴァシリオスがスマートフォンを自分の方へ戻した。環はすでに食べ終わっていて、空になった器をトレーの上へまとめている。周囲では、トレーを持って席を立つ生徒が増えていた。
「そろそろ戻る?」
「戻るか」
悠司も立ち上がる。五人でトレーを持ち、返却口へ向かった。
最後のチャイムが鳴ると、朝よりずっと傾いた光の差す教室で、椅子を引く音があちこちに重なった。千綴も教科書とノートを閉じて鞄へ入れる。
「じゃ、私部室行くね」
綾乃が机の横から鞄を持ち上げる。
「うん。また明日」
「またね、ちづる」
綾乃が手を振り、教室を出ていく。
少し離れたところでは、ヴァシリオスも帰り支度を終えていた。
「俺も行ってくる」
「サッカー?」
「おう」
鞄を肩へ掛け、そのまま教室を出ていく。
環も弓道場へ向かう準備をしていた。荷物を持ち、千綴の机の横を通る。
「じゃあね、ちづる」
「うん。また明日」
環が短く手を上げて教室を出ていくのを見送り、千綴も机の中を確かめた。何も残っていないので、鞄を持って席を立った。
教室を出ると、廊下には部活へ向かう生徒と帰宅する生徒が入り混じっていた。階段の方からも何人かまとまって下りてくる。
千綴は昇降口へ向かい、廊下が交わるところまで来た時、横から名前を呼ばれた。
「千綴」
足を止める。
悠司が別の廊下から歩いてきたところだった。
「悠司」
「今帰り?」
「うん」
「じゃあ、一緒に帰るか?」
「いいよ」
二人で昇降口へ向かう。
下駄箱の前では、部活用の荷物を抱えた生徒が友人を待っていた。千綴はその脇を通り、自分の靴へ履き替える。
校舎を出た瞬間、冷えた風が頬へ当たった。
「寒いな」
悠司が言う。
「朝も寒かったよ」
「もう冬だな」
白くなった息が、二人の前で薄く消える。
校門を出て、坂を下り始めた。
後ろから部活へ向かう生徒の声が聞こえた。グラウンドの方からも声が上がり、しばらく歩くうちに少しずつ遠くなる。
悠司が鞄の位置を直す。
「なんか、もう普通に学校来てるの変な感じするな」
「そう?」
「ついこの前まで沖縄だった気がする」
「朝は寒い方が気になったけど」
「それは分かる」
悠司が笑う。
坂を下りきり、住宅地へ入る。
道の端には乾いた葉が溜まっていた。風が吹くたび、何枚かが舗装の上を滑っていく。
しばらく並んで歩く。
いつもの分かれ道が見えてきた。
「じゃあ、俺こっちだから」
「うん。また明日」
「またな」
悠司が片手を上げ、歩いていく。
千綴も手を上げた。
その背中が遠ざかってから、自分の帰る方へ向き直る。
夕方の風は朝より冷たかった。
千綴は鞄の肩紐を掛け直し、住宅地の中を歩いていった。