鞄の肩紐を直そうとポケットから手を出すと、すぐ指先へ冷気がまとわりつき、掛け直してすぐに戻した。いつもの通学路なのに、今朝は頬の空気まで一段冷たく、吐いた息が白く残る。
薄い雲を通す光が弱く、途中の家々や歩道も暗く沈んで見え、晴れていれば朝日が当たる場所にもはっきりした影はなかった。反対から下る自転車のタイヤが路面を細く鳴らして通り過ぎ、視線を上げると校舎の上も同じ灰色がかった空だった。この冷え方なら、雪が降ってもおかしくなさそうだ。
校門の周囲に生徒が増えて朝の挨拶や靴音が重なる中、昇降口へ入ると外より寒さが和らいだ。靴を履き替えて教室へ向かい、扉を開けると、今度は暖房の空気が頬に触れた。
「おはよ、ちづる」
綾乃はすでに席にいて、鞄から教科書を出していた。
「おはよう」
「今日、寒すぎない?」
「寒い。歩いてても全然あったまらなかった」
「分かる。曇ってて日も出てないしね」
「雪でも降りそうだね」
千綴が言うと、机の間を歩いてくる足音がした。
「ギリシャも冬は普通に寒いぞ」
顔を上げると、ヴァシリオスがこちらへ来ていた。
「そうなの?」
綾乃が聞く。
「ああ。暖かいイメージあるかもしれないけどな」
ヴァシリオスは綾乃の机の横で足を止めた。
「アテネでも朝晩は冷えるし、海の近くは風もある。二人とも、冬服はちゃんと持ってこいよ」
「ギリシャって、もうちょっと暖かいのかと思ってた」
綾乃が言う。
「昼はそこまででもない時もあるけどな。朝晩は別」
「じゃあ、ちゃんと持っていく」
千綴が返すと、ヴァシリオスが頷いた。
「そういえば、向こうの予定ってもう決めてるの?」
「だいたいはな」
「結構決まってるんだ」
「せっかくだから、普通に観光しただけじゃ行けないところも入れたいと思ってる」
「普通じゃ行けないところ?」
「そう。楽しみにしとけ」
ヴァシリオスが笑う。
「ただ、まだ向こうで確認してるところもあるから、全部決まったわけじゃない」
「余計気になるんだけど」
綾乃も笑った。
「あと、移動は詰めすぎないようにしてる。せっかく行ったのに、時間ばっかり気にして走り回るのも嫌だろ」
「修学旅行の時もそんな感じだったね」
「沖縄で学んだからな」
「最初の予定、結構詰め込んでたもんね」
「最後はちゃんと直しただろ」
「うん、それはそう」
二人のやり取りに耳を向けたまま、千綴は机の端の筆箱を取った。
「それで――」
ヴァシリオスの言葉に重なるように、教室の前の扉が開いた。山田先生が出席簿を持って入ってくる。
「ほら、席つけ。始めるぞ」
教室のあちこちで椅子を引く音がした。
「続きはあとでな」
ヴァシリオスはそう言って、窓側の最前列へ戻っていく。
綾乃も身体を前へ向けた。千綴は筆箱を開き、机の上へノートを出した。
朝のホームルームを終えて授業が始まると、千綴はノートへ板書を写していった。
授業終了のチャイムが鳴った。
教師が教室を出ていくと、教科書を閉じる音や椅子を引く音が重なり、あちこちで話し声が戻ってきた。
千綴もノートを閉じ、次の授業の教科書と入れ替える。
「さっきの続きだけど」
綾乃が椅子ごと少しこちらへ向いた。
「私、遺跡は見てみたいな」
その声を聞いて、ヴァシリオスが窓側の席からこちらへやってくる。
「遺跡はいくつか候補に入れてるぞ」
「やっぱり行くんだ」
「そりゃ行くだろ。せっかく行くんだし」
ヴァシリオスは千綴の机の横で足を止めた。
「中村くん、そういうの詳しいの?」
「親の影響で少しは知ってる。二人とも考古学者だからな」
「へえ、そうなんだ」
「見るのは昔から好きだぞ」
「説明する方は?」
「それは別」
「そこは別なんだ」
綾乃が笑う。
「見るのと説明するのは違うだろ」
ヴァシリオスも笑いながら肩をすくめた。千綴は机の上の教科書に手を添えたまま、二人のやり取りを聞いていた。その時、少し離れたところから環がこちらを見た。
「食べ物は?」
「猫はそこか」
「大事」
環はそれだけ言って、こちらへ歩いてくる。
「その辺も考えてる。着いてから決めてもいいしな」
「甘いものある?」
「ある」
「じゃあいい」
「何がいいんだよ」
ヴァシリオスが呆れたように言う。環は気にした様子もなくヴァシリオスを見る。
「じゃあ、お土産よろしくね」
「分かってるよ」
「悠司の分もね」
「なんで俺が――」
チャイムが鳴り、言い切る前に前の扉から次の教師が入ってきたので、環は何事もなかったように自分の席へ戻った。
「おい、猫」
ヴァシリオスが小声で呼んでも、環は振り返らない。
千綴は笑いを堪えながら教科書を開いた。前では綾乃も肩を揺らしている。ヴァシリオスは何か言いたそうな顔のまま、窓側の席へ戻っていった。
午後の社会の授業では、ヨーロッパの地域区分を扱っていた。
教師の説明を聞きながら、千綴は教科書の地図へ目を落とす。国境線の中には、見慣れた国名がいくつも並んでいた。
イギリス、フランス、ドイツ、イタリア。
説明に合わせて視線を動かしているうちに、少し下の方で目が止まる。
ギリシャ。
さらにその近くには、アテネの文字もあった。
朝、ヴァシリオスが話していた場所だ。
明後日には、ここへ行くんだ。
教科書の中では小さな文字でしかない場所へ、自分が実際に向かう。そう考えると、さっきまでただの地図だったものが少し違って見えた。
海外へ行くのは初めてだ。
飛行機に乗って、国を越えて、今見ているこの場所へ行く。
楽しみだな。
そう思っているうちに、教師の声が耳に入った。
千綴は顔を上げる。教師の説明はすでに次へ進んでいて、黒板にも新しい言葉が書き足されている。
慌ててノートへ目を戻し、抜けていたところを書き足す。
ペンを動かしながらも、さっき見つけたギリシャの文字が、しばらく頭の片隅に残っていた。
放課後になると、教室のあちこちで帰り支度が始まった。
終業式を明日に控えているせいか、机の中を整理する生徒や、持ち帰る教科書を鞄へ詰める生徒がいつもより多い。
千綴も机の中を確認する。残っていた教科書を何冊か抜き出し、鞄の中へ順番に収めた。
前では綾乃も机の中を覗き込みながら、プリントの束をまとめている。
それを鞄へ入れたあと、机の奥から一冊の教科書を引き出した。
「これ、持って帰るの忘れそうだった」
「明日まとめて持って帰るの大変だもんね」
「そう。できるだけ今日持って帰っときたい」
綾乃が言いながら、その一冊も鞄へ押し込んだ。千綴も最後に机の中を覗き、忘れ物がないことを確認してから鞄を閉じる。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
綾乃と別れ、千綴は昇降口へ向かった。
外へ出ると、朝と変わらず空は薄い雲に覆われていた。日が傾いたぶん、灰色の空が少し近く見える。
校門を出て、駅の方へ歩く。
昼間より冷えた空気が頬に触れた。
ポケットへ手を入れようとしたところで、視界の端を白いものが横切る。
千綴は足を止めた。
「……雪?」
もう一つ、小さな白い粒が目の前を落ちていく。朝のことを思い出して空を見ると、雲の下から細かな雪がゆっくり落ちはじめていた。
千綴は少しだけ空を見上げてから、また歩き出した。制服の袖に落ちた一粒が、すぐに溶けて消えた。
丘平商店へ着く頃には、降り始めた時よりも雪の粒が少し増えていた。
店の軒先へ入ってから肩を軽く払う。肩に残っていた白い粒は、指で触れる前にほとんど溶けていた。
「お、降ってきたね」
店の奥から巴が顔を出した。
「学校を出て少ししてからです」
「そうか」
千綴は鞄をいつもの場所へ置き、エプロンを身につけて店に出た。少しして、上着の肩に雪を残した客が入ってくる。
「いらっしゃいませ」
千綴がレジへ入ると、客は飲み物と菓子をいくつか籠に入れて持ってきた。
商品を通して袋へ入れ、代金を受け取る。客が出ていく時に扉が開くと、外の冷たい空気が一瞬だけ足元を抜けていった。
その後も何人か続き、しばらくはレジを離れる暇がなかった。
客足が落ち着いた頃、千綴は菓子棚の商品を並べ直し始める。店内ではラジオから少し古い曲が流れていた。
「そういや、海外行くの初めてなんだっけ」
レジ横で伝票をまとめていた巴が、不意に聞いた。
「初めてです」
「観光地はスリもあるからね。スマホとか財布は、日本にいる時より気をつけな」
「やっぱり、日本より多いんですか?」
「場所にもよるけどね。日本と同じつもりでいるよりは警戒しといた方がいいよ。人の多いところで鞄開けっぱなしにしないとかさ」
「分かりました」
千綴は手元の商品を一つずつ前へ揃えながら頷いた。
「一緒に行く友人が向こうのこと詳しいので、その辺は少し安心ですけど」
「それなら、動きやすくはありそうだね」
巴は伝票へ目を戻した。千綴も作業へ戻り、棚の端に寄っていた商品を整える。
「店長にも、お土産何か買ってきます」
「いいよ、そんな気使わなくて」
「でも、せっかくなので」
「エレディトも同じこと言ってたよ」
千綴は手を止めて振り返る。
「エレディトも?」
「うん。だから二人とも、お土産は気にしなくていい。自分たちが楽しんできな」
「……分かりました」
そう答えてから、千綴も少し笑った。
そのあと一度レジへ戻り、また客を見送る。
しばらくして店内が静かになったところで、窓の外へ目を向けた。
さっきより雪の粒が増えていた。
街灯の明かりを横切るたび、白い点がいくつも浮かんでは消えていく。道路はまだ濡れているだけで、積もる気配はない。
「帰る頃にはもう少し強くなるかもね」
巴の声に、千綴は外を見たまま頷いた。少しの間その雪を眺めてから、入口へ視線を戻し、次の客を待った。
勤務を終えて店の外へ出ると、雪はさらに増えていた。昼間から続いていた雲の下を、白い粒が途切れず落ちてくる。道路や歩道に積もるほどではなく、地面へ触れた端から濡れた跡に変わっていた。
「千綴、足元気をつけて帰りなよ」
店の中から巴の声が飛んでくる。
「はい。お疲れさまでした」
「お疲れ」
扉を閉めると、店内の音が少し遠くなった。
千綴は鞄を肩へ掛け直し、家の方へ歩き出す。
歩き出すと、白い粒が視界の前を次々と横切った。風に流されるものもあれば、まっすぐ落ちてくるものもある。
吐いた息が白く広がる。
足元へ目を落とすと、濡れたアスファルトに街灯の光が細く映っていた。
信号待ちで足を止め、千綴はもう一度空を見上げた。
明日は終業式。その次の日には出発だ。
雪の中でそう考えると、朝よりもずっと近くまで来たように感じる。
信号が青に変わる。
千綴は横断歩道を渡り、また家へ向かって歩き出した。
肩へ落ちた一粒を払う。
雪は静かに降り続いていた。