千綴は窓の鍵に手を掛け、きちんと閉まっているのを確かめた。
カーテンを閉め、暖房を切る。
それから部屋の中を見回した。
机の上や棚の周りに、持っていくはずのものが残っていないかを確かめる。特に忘れたものはなさそうだった。
玄関へ向かう。
置いてある旅行鞄の前でしゃがみ、もう一度だけ中を確かめた。ファスナーを閉じ、最後にスマートフォンをポケットへ入れる。
昨日の朝まで制服を着て学校へ行っていたのに、今日はこれから国外へ向かう。
そう考えると、まだ少し変な感じがした。
修学旅行から帰ってきて、それほど日も経っていない。今度は学校の行事でもなく、教師もいない。綾乃たちと待ち合わせて、そのまま飛行機に乗る。
時計を見る。
そろそろ出よう。
上着を羽織り、靴を履く。
旅行鞄の持ち手を引き上げると、小さな車輪が玄関の床を転がった。
扉を開ける。
外の空気が頬へ触れた。
道路は乾いていて、冬の日差しが向かいの屋根や塀を明るく照らしている。
千綴は一度だけ部屋の中を振り返った。
照明は消えている。
扉を閉め、鍵を掛ける。
取っ手を引いて施錠を確かめた。
「よし」
小さく呟いて旅行鞄の持ち手を戻し、上の取っ手を握って持ち上げた。階段を下りきったところで地面へ置き、持ち手を引き上げる。
住宅地はいつもの休日と変わらず、遠くで車の音がして、少し先では買い物袋を持った人が歩いていた。千綴はその中を、大きな荷物を引いて進んだ。
千綴が空を見上げると、雲は少なく、青い空が広がっていた。この空のずっと先まで行くのだと思うと、ようやく少しだけ実感が湧いた。
視線を前へ戻すと、鞄の車輪が歩道の継ぎ目を越えて小さく跳ねた。千綴は持ち手を握り直し、駅へ向かって歩いていった。
羽田空港の出発ロビーへ出ると、頭上の案内表示に並ぶ行き先が目に入った。
千綴は旅行鞄を引いたまま、少しだけ足を緩める。
日本語の下に英語が続き、その横には見慣れない都市名がいくつも並んでいる。修学旅行の時にも同じ空港を使ったはずなのに、立っている場所が違うだけで空気まで別の場所に感じられた。
「ちづる」
声の方を見る。
少し先で、綾乃が片手を上げていた。その隣にはエレディトもいる。
「おはよう」
「おはよ」
「おはようございます、千綴先輩」
「おはよう、エレディト」
千綴が二人のところまで行く。
少しして、人の流れの向こうに明るい髪が見えた。
ヴァシリオスは片手で旅行鞄を引きながら、こちらへ歩いてくる。
「おはよう」
「おはよ、中村くん」
「おはようございます」
四人が揃うと、ヴァシリオスは頭上の案内表示へ目を向けた。
「じゃあ行くか。パスポート、すぐ出せるようにしといて」
そのまま歩き出す。
千綴たちも後へ続いた。
ロビーを横切る間にも、周囲から聞こえてくる言葉は一つではなかった。日本語のすぐ近くで英語が聞こえ、その向こうでは千綴には分からない言葉が続いている。
前を歩くヴァシリオスが、人の流れが途切れるところで足を止めた。
千綴たちが追いつくと、何も言わずまた歩き出す。
手続きを済ませ、旅行鞄を預ける。
大きな荷物がベルトの向こうへ流れていくのを見送ると、千綴の手元に残ったのは機内へ持ち込む鞄だけになった。
そのまま先へ進もうとしたところで、ヴァシリオスが足を止めた。
「あ」
視線の先には、土産物店がある。
「じいちゃん家に何か買ってくか」
「今?」
綾乃が店を見る。
「忘れないうちに」
ヴァシリオスはそう言って入口へ向かった。千綴たちも続く。棚には箱入りの菓子や茶、海苔、雑貨が並んでいた。
「おじいさん、甘いもの食べる?」
綾乃が箱を一つ手に取りながら聞く。
「食べる。和菓子も好きだぞ」
「そうなんだ」
「ばあちゃんが日本人だから、昔から結構食べてる」
ヴァシリオスは棚を見ながら進み、一つの箱を手に取った。
「これにするかな」
綾乃が覗き込む。
「羊羹?」
「うん」
「なんか渋いね」
「じいちゃん好きだから」
ヴァシリオスはそう言って箱を持ったまま、別の棚へ目を向けた。
千綴も並んだ菓子を眺める。
「これ、人数多くても分けやすそう」
個包装の焼き菓子を手に取る。
ヴァシリオスが横から見た。
「いいと思う。家の人にも渡せるし」
「じゃあこれにしようかな」
エレディトも少し離れた棚を見ていたが、やがて小さな箱を持って戻ってきた。
「これも、大丈夫ですか?」
「うん。それなら喜ぶと思う」
ヴァシリオスが答える。
それぞれ選んだものを持って会計へ向かった。
店を出ると、ヴァシリオスが紙袋をまとめて持つ。
「俺持つよ」
「持てる?」
「これくらいなら」
綾乃が一度だけ紙袋を見てから、そのまま任せた。
保安検査と出国の手続きを抜ける。
千綴は返された旅券を手にしたまま、少しだけ表紙を見る。
国内線では使わなかったものを、今は何度も出している。
それだけでも、修学旅行の時とは違っていた。
旅券を鞄へ戻し、四人で搭乗口の方へ歩く。
大きな窓の向こうには、何機もの飛行機が並んでいた。
綾乃が頭上の表示を見上げる。
「あれだ」
千綴も同じ方を見る。行き先の欄には、イスタンブールの文字が出ていた。
「まずそこまで行って、乗り換えだよね」
「うん」
ヴァシリオスが答える。綾乃は表示の時刻を見て、少し黙った。
「……長い」
「やっと気づいたか」
「分かってたけど、数字で見ると長いよ」
「途中で飯食って寝てれば着くって」
「そんな簡単に言う?」
綾乃が眉を寄せる。
「俺はだいたいそうしてる」
「慣れてる人の意見じゃん」
その横で、エレディトが表示を見たまま小さく笑った。
「ぼくも、途中で寝ると思います」
「エレディトまで」
「ずっと起きているのは難しいです」
「それはそうなんだけどさ」
綾乃が諦めたように息を吐く。
千綴はもう一度、イスタンブールの文字を見る。
その先で、さらにアテネ行きへ乗り換える。
行き先が表示の中に並んでいるだけなのに、今までよりずっと現実味があった。
搭乗口の近くまで来ると、ヴァシリオスが足を止める。
「ここだな」
窓の向こうには、大きな機体が止まっていた。
千綴も少しだけ顔を上げる。
修学旅行の時にも飛行機には乗った。
けれど、今から乗る便は、そのまま日本の外へ向かう。
「なんか、ここまで来ると本当に行くんだって感じするね」
綾乃が隣で言った。
「うん」
千綴も頷く。
少しして、搭乗開始を知らせる案内が流れた。
周囲にいた人たちが立ち上がり、荷物を持ち直し始める。
ヴァシリオスも紙袋と手荷物を持った。
「行こう」
「うん」
四人は人の流れに加わり、搭乗口へ向かった。
長く座っていたせいか、飛行機を降りて歩き始めると、足の裏に床の硬さが妙に残った。
千綴は肩に掛けた鞄を直し、人の流れに続いて進む。
窓の向こうから差し込む光はまだ明るい。
案内板には、英語と一緒に見慣れない文字が並んでいた。
「これ、ギリシャ語?」
隣を歩いていた綾乃が見上げる。
「そう」
ヴァシリオスが答えた。
千綴も同じ表示を見る。
読めない。
形だけなら見たことのある文字も混じっている気がするのに、並ぶと何も分からなかった。
周囲から聞こえてくる声も、ほとんどが日本語ではない。行き交う人の顔ぶれも、羽田にいた時とはまるで違っていた。
千綴は少しだけ辺りを見回す。
そこでようやく、本当に日本の外へ来たのだという実感が湧いた。
乗り継ぎを挟み、眠って、目を覚まして、またしばらく飛んだ。
ようやく着いたのだと思う。
預けていた荷物を受け取る。
ベルトの上を流れてきた旅行鞄を引き寄せたところで、綾乃が小さく息を吐いた。
「やっと戻ってきた」
「荷物が?」
「違う。立って歩ける時間」
そう言いながら、綾乃は自分の鞄の持ち手を伸ばした。
エレディトも荷物を受け取り、その横でヴァシリオスが周囲を見回す。
「行こう。迎え来てるはず」
出口へ向かう。
人の流れに混じって歩き、自動扉の先へ出ると、待っている人の数が一気に増えた。
名前を書いた紙や端末を掲げている人もいる。
千綴はその中を見ながら歩いた。
少し先で、一人の男性がこちらを見ていた。
五十代か、もう少し上だろうか。
濃い色のスーツを着ている。目立つ格好ではないのに、立ち姿が妙に整っていた。
男性は千綴たちではなく、まずヴァシリオスを見た。
表情がわずかに緩む。
ヴァシリオスもすぐに気づいた。
〔ゲオルギオス〕
そのまま男性のところへ歩いていく。
二人の間で、千綴には聞き取れない言葉が交わされた。
ヴァシリオスの口から、学校では聞いたことのない音が迷いなく続いていく。
短いやり取りのあと、ゲオルギオスが千綴たちへ向き直った。
今度は英語だった。
〔ようこそ。長い旅、お疲れさまでした〕
ゆっくりした話し方で、千綴にも意味を追うことができた。
〔ありがとうございます〕
千綴が返すと、綾乃とエレディトも続いた。
ゲオルギオスは軽く頭を下げる。
〔私はゲオルギオス・パパダキスです。ディミトリオス様のお宅で、皆さまのお世話をしています〕
言葉遣いは丁寧だったが、必要以上に堅い感じはしなかった。そのまま彼はヴァシリオスの横へ置かれていた旅行鞄へ手を伸ばす。
〔自分で持てるよ〕
ヴァシリオスが言う。
ゲオルギオスは何かを短く返した。
またギリシャ語だった。
ヴァシリオスが少し笑って、手を離す。
「何て?」
綾乃が聞く。
「客がいる時くらい仕事させろって」
「へえ」
「昔からこんな感じ」
ゲオルギオスはその会話を気にした様子もなく、千綴たちの荷物へ視線を移した。
千綴が持ち手を握ったままでいると、手を差し出す。
〔お預かりします〕
〔あ、お願いします〕
千綴が持ち手から手を離すと、ゲオルギオスが旅行鞄を引き取った。エレディトの分も受け取り、荷物をまとめて出口へ進んでいく。ヴァシリオスに続いて、千綴たちも歩き出した。
建物を出ると、日本を出たときとは少し違う乾いた冷たさが頬へ触れた。息を吸って周囲を見ると、車寄せの向こうには低い建物や道路が続き、当たり前なのに改めて知らない場所だと思った。
「寒い?」
ヴァシリオスが振り返る。
「思ってたよりは」
「言っただろ。冬は普通に寒いって」
「聞いてたけど、ギリシャってもう少し暖かいイメージあった」
綾乃も上着の前を寄せながら言う。
「夏の印象強すぎるんだよ」
ヴァシリオスが笑う。
少し先で、黒い大きな車の横に立っていた男性がこちらに気づいた。
ゲオルギオスが近づくと、その男性が後部の扉を開ける。
千綴は一瞬だけ足を止めた。
外から見ても大きかったが、中はさらに広く見えた。
向かい合うように配置された座席の間にも余裕があり、照明も落ち着いている。
「これ?」
綾乃が小さく聞く。
「うん」
ヴァシリオスは特に気にした様子もなく答えた。
先にエレディトを通し、続いて綾乃へ手で乗るよう促す。
千綴が乗ろうとしたところで、ヴァシリオスが車道側へ少し身体をずらした。
何か言うでもなく、そのまま千綴が乗り込むまで外側に立っている。
座席へ腰を下ろしてから、千綴は奥へ詰めた。
最後にヴァシリオスが乗り込む。
ゲオルギオスも前方の席へ座り、扉が閉まった。
車が静かに動き出す。
空港の建物が窓の外へ流れていく。
千綴はしばらく外を見ていた。
道路標識も、建物も、走っている車も、一つ一つだけなら特別珍しいものではない。
それでも、文字が違う。
街路樹の形が違う。
遠くに見える建物の色も、空の見え方も、どこか違っていた。
「ちづる、ずっと外見てるね」
綾乃の声で、千綴は窓から目を離した。
「だって初めてだし」
「私もだけど」
そう言いながら、綾乃もすぐ窓へ顔を戻す。向かいでヴァシリオスが笑った。
「まだ空港出たばっかだぞ」
「それでも違うものは違うでしょ」
「まあな」
車は大きな道路へ入った。しばらくして、綾乃が座席へ背を預ける。
「着いたら、すぐご飯?」
「いや、たぶん少し休める」
ヴァシリオスが答える。
「晩飯、こっちだと日本より遅いこと多いから」
「よかった。今すぐちゃんと食べろって言われたら無理かも」
「じいちゃんもそこまで急かさないって」
そこでヴァシリオスは少し考えてから続ける。
「ただ、出されたの全部食べようとしなくていいぞ」
「そんなに出るの?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「じいちゃんより、周りが出す」
綾乃が少しだけ嫌な予感でもしたような顔をした。
「断ってもいい?」
「いいよ。無理して食べる方が怒られる」
「それなら安心した」
エレディトが窓の外を見たまま口を開く。
「ヴァシリオス先輩は、いつも全部食べるんですか?」
「食べる」
即答だった。綾乃が笑う。
「参考にならないじゃん」
「俺は食えるからいいんだよ」
会話が途切れる。
車内に、低い走行音だけが残った。
千綴はもう一度窓へ目を向けた。
傾き始めた光が、建物の壁を明るく照らしている。
少し前まで、教科書の地図の中にあった場所だった。
その中を、今は車で走っている。
道路の先に広がる景色を見ながら、千綴は背もたれへ身体を預けた。
車はしばらく大きな道を走ったあと、少しずつ静かな通りへ入っていった。
窓の外には店も住宅もある。
それでも、進むにつれて建物の間隔は少しずつ広くなり、道沿いの緑も増えていった。
「この辺?」
綾乃が窓の外を見ながら聞く。
「もう少し」
ヴァシリオスが答えた。
千綴も外を見る。
不便そうな場所には見えなかった。通りには店の看板もあり、少し先には人の姿もある。
それでも、通りを一本曲がるたびに周囲は静かになっていった。
やがて車が速度を落とす。
千綴は前方へ視線を向けた。
高い塀の切れ目に、大きな門がある。
車が近づくと、門がゆっくり開いた。
そのまま中へ入る。
千綴は思わず窓の外へ顔を向けた。
門を抜けても、すぐには建物が見えなかった。
左右に木々と手入れされた植え込みが続き、その間を道が伸びている。
「……まだ着かないの?」
綾乃が小さく言う。
「着いてる」
「これ敷地?」
「そう」
ヴァシリオスは平然と答えた。
少し進んだ先で、木々の向こうから建物が見えてくる。
白に近い明るい壁と、落ち着いた色の屋根。
横へ広く、正面だけでも千綴が普段目にする家とは比べものにならない。
建物の前には円を描くような車寄せがあり、その向こうには庭が続いていた。
「……大きいね」
千綴が言う。
「そう?」
ヴァシリオスが窓の外を見る。
「そうでしょ」
綾乃がすぐに返した。
車が正面玄関前で止まる。
運転席の男性が先に降り、外から扉を開けた。
ヴァシリオスが立ち上がる。
「着いた」
そう言って先に外へ出た。
千綴も鞄を持って立ち上がる。
外へ出ると、さっきより風が少し冷たく感じた。
正面から建物を見上げる。
車の中から見た時より、ずっと大きい。
玄関までの幅も、その両脇に並ぶ窓の数も多かった。
けれど、金色の飾りや派手な彫刻が並んでいるわけではない。
整っていて、静かだった。
ゲオルギオスが後方へ回り、荷物の確認を始める。
千綴も自分の旅行鞄へ手を伸ばそうとした。
〔こちらは大丈夫です〕
ゲオルギオスが先に言う。
〔中へどうぞ〕
〔ありがとうございます〕
千綴が返したところで、玄関の扉が開いた。
一人の男性が出てくる。
白髪の混じった髪を後ろへ流し、濃い色の上着を着ていた。
急いで出てきたようには見えない。
それでも、その視線はまっすぐヴァシリオスへ向いた。
ヴァシリオスの表情が少し変わる。
〔じいちゃん〕
男性の口元が緩んだ。
二人の間で短くギリシャ語が交わされる。
千綴には内容までは分からなかったが、ヴァシリオスの声は学校で話している時より少しだけ軽かった。
男性――ディミトリオスは、ヴァシリオスの肩へ一度だけ手を置いた。
それから千綴たちへ向き直る。
千綴は反射的に姿勢を正した。
ディミトリオスの視線が、千綴、綾乃、エレディトへ順に移る。
そして、少し間を置いて口を開いた。
「ようこそ。遠いところから、来てくれて……とても嬉しいです」
日本語だった。
千綴は一瞬、返事が遅れた。
「あ、こちらこそ。お招きいただいてありがとうございます」
綾乃も隣で頭を下げる。
「ありがとうございます」
ディミトリオスは二人の返事を聞いて、小さく頷いた。
「ヴァシリオスから、話は……よく聞いています」
途中で少しだけ言葉を探すように間が入る。けれど、声も態度も落ち着いていた。そのままディミトリオスはエレディトへ視線を移した。
〔エレディトさんですね。ようこそ〕
今度は英語だった。
〔ありがとうございます。お会いできて嬉しいです〕
エレディトが答える。
ディミトリオスは軽く笑った。
その横で、ヴァシリオスが何かをギリシャ語で言う。
ディミトリオスが答え、二人で短くやり取りする。
千綴には意味は分からない。
ただ、話している時の空気は、さっきまでの整った挨拶よりずっと近かった。
「中へ、どうぞ」
ディミトリオスが再び日本語で言う。
「長い時間、疲れたでしょう。まず、休んでください」
そう言って、自分が先に入るのではなく、玄関の脇へ一歩寄った。
綾乃が千綴を見る。
千綴も少しだけ目を合わせてから、中へ入る。
その後ろをエレディトが続いた。
ヴァシリオスは最後に入る前、外に残っていたゲオルギオスへ何か短く声を掛けた。
中へ入ると、外の冷たい空気がすぐに遠のいた。
広い玄関ホールだった。
天井は高く、正面には上階へ続く階段が見える。
左右にも廊下が伸びていて、奥の方から人の気配がした。
ただ、広いからといって空っぽには見えない。
壁には絵や写真が掛けられ、低い台の上には花が置かれている。
千綴は視線を動かしながら歩いた。
「荷物は、部屋へ運びます」
ディミトリオスが言う。
「あなたたちは、先に座って。飲み物、すぐ用意します」
「ありがとうございます」
千綴が答える。
ディミトリオスは頷き、近くにいた家の人へ何かギリシャ語で声を掛けた。
その人がすぐに動く。
千綴はその様子を見てから、少し前を歩くヴァシリオスへ目を向けた。
ヴァシリオスは慣れた様子で廊下を進んでいる。
途中、扉を押さえて綾乃とエレディトを先に通した。
その動きに迷いはなかった。
千綴がその横を通った時、ふと後ろを見る。
少し離れたところで、ディミトリオスも扉を押さえていた。
荷物を手にしたゲオルギオスが、その前を通っていく。
ほんの一瞬だけ、千綴は足を緩めた。
「どうした?」
ヴァシリオスが振り返る。
「ううん。何でもない」
千綴はそう答えて、また歩き出した。