ヴァシリオスの後について廊下を進むと、ゲオルギオスが追いついてきた。
〔お部屋へご案内します〕
千綴たちは足を止める。ディミトリオスはそこで一度こちらを見て、日本語で言った。
「少し休んでください。夕食は、あとで」
「ありがとうございます」
千綴が答えると、ディミトリオスは頷いた。ヴァシリオスはそのままゲオルギオスの隣へ並ぶ。
〔部屋は別館だよな?〕
〔はい。いつもの方をご用意しています〕
〔じゃあ俺もそっちに行く〕
ヴァシリオスがディミトリオスへ顔を向ける。
〔ばあちゃんは?〕
〔台所です。あなたたちの夕食を作っています〕
〔じゃあ、夕食の時だな〕
短いやり取りのあと、ゲオルギオスが千綴たちへ視線を向けた。
〔こちらです〕
本館の奥まで進み、外へ続く扉を抜ける。
冷たい空気が頬に触れた。
目の前には庭が広がっていて、その向こうに本館より小さな建物が見えた。
小さいといっても、千綴の感覚では十分に大きい。
「……あれも家?」
綾乃が聞く。
「客用の別館。俺たちはあっちに泊まる」
ヴァシリオスが答えた。
石畳のような道を少し歩く。
振り返ると、さっきまでいた本館が庭越しに見えた。
離れて見てもやはり大きい。
別館の扉をゲオルギオスが開け、千綴たちを先へ通す。
中は本館より少し天井が低く、空間もまとまっていた。
正面に短い廊下があり、その先に階段が見える。
壁際には小さなテーブルと椅子が置かれ、窓の向こうには庭が続いていた。
〔皆さまのお荷物は、すでにお部屋へ運んであります〕
「あ、もう運んでくれたんですね」
綾乃が廊下の奥を見ながら言う。
〔はい〕
「ありがとうございます」
ゲオルギオスは軽く頷いた。
ゲオルギオスが階段を上がる。
千綴たちも続いた。
二階の廊下にはいくつか扉が並んでいる。
ゲオルギオスは順に足を止め、それぞれの部屋を示した。
千綴の部屋へ入ると、旅行鞄はすでに壁際に置かれていた。
ベッドと机、椅子、小さなソファ。
窓の外には庭の木々が見える。
机の端には電話が一台置かれていた。
〔何か必要でしたら、こちらからお呼びください〕
ゲオルギオスが電話を示す。
〔本館にも、私どもにもつながります〕
〔分かりました。ありがとうございます〕
千綴は返事をしてから、受話器へ目を落とした。ホテルの部屋にある電話と大きく変わるものではない。それでも、ここが個人の家の中だと思うと少し不思議だった。
全員の部屋を確認したあと、ヴァシリオスが廊下で振り返った。
「まだ寝ないだろ?」
「さすがに今寝たら変な時間に起きそう」
綾乃が言う。
「下に遊べる部屋があるけど、見てく?」
「何があるの?」
「ビリヤードとか。ボードゲームもある」
綾乃がすぐに顔を上げた。
「それなら見たい」
エレディトも少しだけ視線を上げる。
千綴も鞄を部屋へ置き、扉を閉めた。
一階へ戻ると、ヴァシリオスが廊下の途中にある扉を開ける。
「ここ」
中には大きな台が一つ置かれていた。
緑色の布が張られたビリヤード台だった。
壁際にはダーツの的があり、その反対側には丸いテーブルと椅子が並んでいる。
棚には箱がいくつも積まれていた。
「ボードゲーム?」
綾乃が近づく。
「そう。あとカードもある」
ヴァシリオスが棚を覗き込む。
「これまだあるんだ」
いくつかの箱を見てから、今度はビリヤード台の横へ回った。
千綴も少し遅れて部屋へ入る。
新品ばかりが並んでいるわけではなかった。
箱の角が擦れているものもある。
テーブルの表面にも、使った跡が少し残っている。
ヴァシリオスが壁際で足を止めた。
「ん?」
腰を少し屈める。
「ここ、傷ついてる」
千綴たちもそちらを見る。
木の縁に、小さく削れたような跡があった。
後ろからゲオルギオスが覗く。
〔それは、あなたがつけた傷ですよ〕
ヴァシリオスが振り返った。
〔俺が? 全然覚えてないんだけど〕
〔はい〕
〔ビリヤードの球を飛ばしたんですよ〕
「どうやったらそこまで飛ぶの」
綾乃がすぐに言う。
〔知らねえよ。覚えてないんだから〕
〔かなり勢いよく飛びました〕
〔それ聞いても全然ピンとこないな〕
ヴァシリオスは傷をもう一度見た。
〔これ、直してないの?〕
〔特に困りませんでしたので〕
〔そういうもんか〕
それだけ言うと、ヴァシリオスはもう興味を移したらしく、棚から別の箱を引き出した。
「これは昔よく遊んだな」
「そっちは覚えてるんだ」
「それくらいは覚えてる」
綾乃が笑う。
エレディトも棚の方へ寄り、並んでいる箱を眺めていた。
千綴は傷へもう一度目を向ける。
大きな家で、物もきれいに整えられている。
けれど、こういうものまで全部新しくされているわけではないらしい。
「今日はやらないの?」
綾乃が聞いた。
「やってもいいけど、先に休んだ方がいいだろ」
ヴァシリオスが答える。
「夕飯もあるし」
ゲオルギオスも頷いた。
〔夕食の前に、こちらからお知らせします〕
〔分かりました〕
千綴が答える。
部屋を出る前に、綾乃はまだ棚を見ていた。
「あとで戻ってきてもいい?」
「いいだろ。別に」
「じゃああとでね」
誰に言うでもなくそう言って、綾乃はようやく扉から離れた。
再び二階へ上がると、ヴァシリオスが羽田からまとめて持っていた土産の紙袋を差し出した。千綴は自分の買ったものを受け取った。
それぞれの部屋の前で別れ、千綴が扉を閉めると、さっきまで聞こえていた声が遠くなる。紙袋は、部屋へ置いていた鞄に収めた。
旅行鞄から必要なものだけ出してベッドの端へ腰を下ろすと、身体が沈んだ。飛行機でも座っていたはずなのに、ようやく力を抜けた気がした。
窓の外の木々と、その向こうに見える本館の一部をしばらく眺めてから、靴を脱いでベッドへ身体を預けた。スマートフォンで夕食まではまだ少しあると確かめ、そのまま身体の力を抜いた。
枕元で、短く電話が鳴った。
千綴は目を開ける。
いつの間にか少し眠っていたらしい。
身体を起こして机の上の電話を取ると、ヴァシリオスの声が聞こえた。
「飯できたって。準備できたら下な」
「分かった。すぐ行く」
受話器を戻して一度伸びをすると、長く寝たわけではなくても身体の重さは少し軽くなっていた。顔を洗って身支度を整え、羽田で買った紙袋を鞄から取り出して部屋を出ると、綾乃もちょうど廊下で扉を閉めたところだった。
「寝た?」
「ちょっとだけ。綾乃は?」
「寝たら起きられなさそうだったから、荷物整理したりスマホ見たりしてた」
「それなら少しは休めた?」
「うん。だいぶ楽になった」
階段の方から足音がする。
ヴァシリオスとエレディトが上がってきた。
ヴァシリオスの手にも、羽田で買った土産の袋がある。
そのまま四人で別館を出る。
外はもう暗くなり始めていた。
庭の灯りが足元を照らし、本館の窓からは暖かな光が漏れている。
さっき通った道を戻り、扉の前まで来ると、ヴァシリオスが先に手を伸ばした。
千綴たちを中へ通してから、自分も続く。
本館の中には、昼とは違う匂いが漂っていた。
焼いた肉と香草、それに少し甘いような匂いが混じっている。
「いい匂い。急にお腹空いてきた」
綾乃が小さく言う。
ヴァシリオスが少し鼻を動かした。
「これ、ムサカあるな」
「匂いで分かるの?」
「ばあちゃんのなら分かる」
どこか嬉しそうに言って、そのまま廊下を進む。
食事をする部屋の近くまで来たところで、厨房のある方から一人の女性が歩いてきた。
エプロン姿で、いくつもの皿を載せた配膳用のワゴンを押している。
こちらを見るなり、ワゴンを止めた。
「あら、来た来た」
日本語だった。ヴァシリオスの顔が明るくなる。
「ばあちゃん」
「おかえり」
女性はワゴンから手を離すと、ヴァシリオスの前まで来た。
肩や顔を確かめるように見てから、腕を軽く叩く。
「また少し大きくなった?」
「そんな変わってないって」
「そう? 前より肩が広くなった気がするけど」
「それは鍛えてるから」
「はいはい」
返事は軽かったが、口元は笑っていた。それから千綴たちへ向き直る。
「初めまして。ヴァシリオスの祖母です。遠いところまで来てくれてありがとう」
「あ、初めまして。弥生千綴です」
「鏡峯綾乃です。お招きいただいてありがとうございます」
エレディトも続けて挨拶する。
祖母は一人ずつ顔を見て頷いた。
「話は聞いてます。今日はいっぱい作ったから、遠慮しないで食べてね」
「いっぱいって、どれくらい?」
ヴァシリオスがワゴンを見る。
「あなたがいる時の量」
「ああ、それなら多いな」
「自分で言うのね」
祖母は笑うと、またワゴンの取っ手へ手を掛けた。
「ほら、入って。冷めちゃうから」
部屋へ入ると、大きなテーブルの上にはすでにいくつもの料理が並んでいた。
焼き色のついた肉、大きな器に盛られたサラダ、パン。少し深い皿には、層になった料理が切り分けられている。
綾乃が目を丸くした。
「これ、全部作ったんですか?」
「手伝ってもらったものもあるけど、ほとんどはね。久しぶりに人数が多いから、張り切っちゃった」
祖母はそう言いながら、ワゴンの上の皿を空いている場所へ並べていく。その奥ではゲオルギオスが飲み物の準備をしていた。ディミトリオスも席の近くに立っている。
「よく休めましたか」
千綴たちを見ると、日本語で尋ねた。
「はい。少し休めたので、だいぶ楽になりました」
「それは、よかったです」
ディミトリオスが椅子を引く。千綴が座ろうとしたところで、手に持っていた紙袋を思い出した。
「あ、その前に」
千綴は袋を持ち直す。
「日本から、お土産を持ってきました」
綾乃も「あ、そうだった」と自分の袋を出した。
エレディトも続く。
ヴァシリオスは最後に、羊羹の箱が入った袋を持ち上げた。
「じいちゃん、これ」
ディミトリオスが目を向ける。ヴァシリオスが袋から箱を取り出すと、その表情が少し緩んだ。
「羊羹ですか」
「好きだろ」
「はい。ありがとう」
祖母が横から覗き込む。
「あら、羊羹。よかったわね」
「じいちゃん好きだから」
「今回はちゃんと相手の好みで選んだのね」
「今回はって何だよ」
祖母が笑う。千綴も自分の袋を差し出した。
「これは、みなさんで食べられるものをと思って」
中には個包装の焼き菓子が入っている。祖母が受け取り、袋の中を覗いた。
「ありがとう。こういうの助かるわ。みんなで食べられるし」
そのままディミトリオスにも見せる。
綾乃とエレディトもそれぞれ選んだ土産を渡した。
ディミトリオスは一つずつ受け取り、そのたびに礼を言った。
「来てくれただけで、十分でした。でも、とても嬉しいです」
「俺も一応来てるんだけど」
ヴァシリオスが言う。ディミトリオスは少しだけ間を置いて、孫を見る。
〔もちろん、あなたもですよ〕
〔その間は何だよ〕
祖母が先に笑い出した。
「ほら、いつまでも立ってないで座りましょ。料理が本当に冷めるから」
その一言で、ようやく全員が席についた。
千綴の前にも皿が置かれる。
祖母が大きな耐熱皿から一切れ取り分けた。
「これはムサカ。熱いから気をつけてね」
「ありがとうございます」
皿に置かれた料理から湯気が上がる。
千綴はフォークを入れ、少しだけ口へ運んだ。
柔らかな食感のあとに、肉と野菜の味が重なった。
「おいしい」
思わずそのまま口にすると、祖母が嬉しそうに笑う。
「よかった。まだあるから、好きなだけ食べて」
「最初から飛ばすと後で食えなくなるぞ」
ヴァシリオスが言う。
「それ、誰に言ってるの?」
綾乃が聞く。
「全員。ばあちゃん、どんどん出すから」
「せっかく来てくれたんだから当然でしょ」
「ほらな」
千綴は小さく笑った。
さっきまで、広い玄関や長い廊下を歩くたびに、ここが自分の知っている家とはまるで違う場所に思えていた。
けれど今は、祖母が料理を勧め、ヴァシリオスがそれに返し、ディミトリオスが静かに笑っている。
目の前に並ぶ料理も、広い部屋も、まだ見慣れない。
それでも、ここがヴァシリオスにとって帰ってくる家なのだということだけは、少し分かる気がした。
食事が進むにつれて、テーブルの上の皿は少しずつ空いていった。祖母は誰かの皿が軽くなるたびに、すぐ次を勧めてくる。
「これも食べてみて。こっちはまだでしょ?」
「ありがとうございます」
千綴が受け取ると、祖母はまた嬉しそうに笑った。
さっきからずっと機嫌がいい。
目の錯覚か、その周りに花でも咲いているように見えるくらいだった。
「ばあちゃん、楽しそうだな」
ヴァシリオスが言う。
「だって楽しいもの。久しぶりにこんなに作ったし、みんなちゃんと食べてくれるし」
「作りすぎなんだって」
「あなたがいるからでしょ」
「俺だけのせいにするなよ」
祖母は聞いているのかいないのか、今度はエレディトの皿を見ていた。
「エレディトくん、これも食べる?」
「はい。いただきます」
「よし」
短く満足そうに頷く。その様子を見て、ディミトリオスが静かに笑った。
「昔から、変わりません」
「何が?」
祖母がすぐに振り返る。
「人が食べていると、嬉しそうにするところです」
「いいじゃない。食べてもらうために作ってるんだから」
「悪いとは言っていません」
「ならよし」
祖母が言い切ると、ディミトリオスは困るでもなく静かに笑った。千綴は二人を見てから、また自分の皿へ視線を戻す。
「明日はどうするの?」
祖母がヴァシリオスへ聞く。
「朝見て決める。初日だし、詰めすぎない」
「その方がいいわね。せっかく来たのに、疲れて終わったらもったいないもの」
「じゃあ、その時のお楽しみだね」
綾乃が笑う。
「まあな」
千綴もつられて口元を緩めた。
そのあとも、料理のことや明日のことを話しながら食事は続いた。
気づけば、最初に並んでいた皿のいくつかはほとんど空になっている。
千綴は最後の一口を飲み込んで、そっと息をついた。
「お腹いっぱい……」
「私も」
綾乃も椅子にもたれかかる。祖母はその二人を見て、またにこにこしていた。
「ちゃんと食べたね」
「食べました」
「よかった」
その一言だけで、本当に満足しているらしい。ヴァシリオスが水を飲みながら祖母を見る。
「これ以上出すなよ」
「もう出さないわよ」
「その言い方、まだ何かあるだろ」
「デザートは別でしょ?」
「あるじゃん」
綾乃が思わず笑う。祖母も悪びれずに笑った。
「無理ならあとで食べればいいのよ。別館に持っていってもいいし」
「それならあとで」
ヴァシリオスが即答する。
「賛成」
綾乃も続いた。
千綴も頷く。
ディミトリオスはそんなやり取りを眺めながら、静かにカップへ手を伸ばした。
食事を終えて本館を出ると、外の空気が少し冷たく感じた。
庭を渡る間、綾乃が小さく息を吐く。
「食べすぎた」
「そりゃあれだけ食べればな」
ヴァシリオスが言う。
「でも止まらなかった」
「それは分かる」
エレディトも小さく頷いた。
四人で別館へ戻る。
玄関を入ったところで、ヴァシリオスが階段ではなく遊戯室の方へ目を向けた。
「すぐ寝る?」
「今は無理かも」
綾乃が自分のお腹を軽く押さえる。
「じゃあ、ちょっと遊ぶか。腹ごなし」
「賛成」
遊戯室へ入ると、昼に見たままのビリヤード台やダーツ、棚に並んだゲームが迎えた。ヴァシリオスはビリヤード台の横へ回り、キューを一本取る。
「軽くやる?」
綾乃が台の上を覗き込む。
「ビリヤード?」
「それでもいいし、ダーツでもいいぞ」
エレディトはすでにダーツの方を見ていた。
「ぼくは、こちらをやってみたいです」
「じゃあ先にそっちやるか」
ヴァシリオスがキューを戻す。
千綴はソファへ腰を下ろした。
食後すぐに動く気にはなれなかった。
ヴァシリオスがダーツを何本か手に取り、エレディトへ渡す。
「こう持って、あとは投げるだけ」
「簡単そうに言いますね」
「簡単だぞ。真ん中に当てるだけだから」
「それが難しいのでは?」
「やれば分かる」
エレディトが一本目を投げる。
矢は的には刺さったが、中心からはかなり離れた。
ヴァシリオスが笑う。
「最初ならそんなもん」
「ヴァシリオス先輩は?」
「見てろ」
一本投げる。
中心ではないが、エレディトよりかなり内側に刺さった。
「おお」
綾乃が少しだけ身を乗り出す。
「今のはちょっと上手い」
「ちょっとって何だよ」
「すごく、ではないかな」
「厳しいな」
そのあと綾乃も投げ、千綴も参加した。何度か順番に投げるうちに、最初よりは的の内側へ集まるようになってきた。
「ちょっと慣れてきたかも」
「でしょ?」
綾乃が嬉しそうに言う。
「なんで綾乃が嬉しそうなの」
「最初、私だけ下手だったみたいだったから」
千綴は笑った。そのままビリヤードにも移り、誰かが外せば笑って、たまたまうまく入れば少し騒ぐ。しばらく遊んでいるうちに、綾乃がキューを持ったまま小さくあくびをした。
「あ、ごめん」
ヴァシリオスが時計を見る。
「結構いい時間だな」
「じゃあ、そろそろ寝る?」
千綴が聞く。
「そうだね」
綾乃がキューを戻す。
エレディトも頷いた。
四人で遊戯室を出る。
二階へ上がり、それぞれの部屋の前で立ち止まった。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
千綴も挨拶を返し、自分の部屋へ入る。
扉を閉めると、別館の中は急に静かになった。
ベッドへ腰を下ろし、窓の外を見る。
庭の向こうに、本館の明かりがまだ残っている。
長かった一日を思い返すより先に、身体の方が休みたがっていた。
千綴はカーテンを閉め、明かりを落とした。
目を開けたとき、最初に見えたのは見慣れない天井だった。千綴は数秒そのまま瞬きをしてから、昨夜のことを思い出す。ギリシャ。アテネ。ヴァシリオスの祖父母の家。
身体を起こし、スマートフォンで時刻を確かめてからベッドを下りた。カーテンを開けると、窓の向こうには昨日見た庭が広がっていた。朝の光の中で見ると、夜よりもずっと広く感じる。
顔を洗って髪を整え、着替えた。外は思ったより明るくても、窓を少し開けると空気は冷たかったので、椅子の背から上着を忘れずに取って部屋を出た。
一階へ降りると、すでに綾乃がいた。
「おはよう」
「おはよう。ちゃんと寝られた?」
「うん。綾乃は?」
「昨日は寝たらすぐだった」
そこへ階段を下りてくる足音が重なる。
「おはようございます」
エレディトが姿を見せる。ヴァシリオスはまだ降りてきていなかった。
「中村くん、まだ寝てるのかな」
「久しぶりの実家だしいいんじゃない?」
三人は先に本館へ向かった。
昨夜とは違って、庭の様子もよく見えた。
細い道の脇には手入れされた木々が並び、その向こうに本館の明るい壁が見える。
朝食の席には、パンや卵料理、果物、ヨーグルトが並んでいた。
祖母は千綴たちの顔を見るなり、昨日と変わらない笑顔を浮かべる。
「よく眠れた?」
「はい。ぐっすりでした」
「それならよかった」
千綴が答えると、祖母は満足そうに頷いた。
少しして、ヴァシリオスも食堂へ入ってきた。
「おはよう」
「遅かったね」
綾乃が笑う。
「久しぶりにここで寝たら、思ったより寝た」
ヴァシリオスは空いている席へ座った。食事をしながら、今日の予定を軽く確認する。
「最初はアクロポリスでいいよな?」
ヴァシリオスが千綴たちを見る。
「うん」
それだけ決めて食事へ戻り、食べ終えて上着を着て外へ出ると、車の前ではゲオルギオスが待っていた。四人が乗ると、静かな住宅街を抜けて市街地へ走り出した。
最初に見上げた石の丘は写真よりずっと大きく、階段を上って風に吹かれながら進むと、白い石と柱の向こうに街が広がった。何度も足を止めそうになる千綴の少し先で綾乃がスマートフォンを構え、エレディトも周囲を見回していた。
「ちづる、こっち」
呼ばれて振り向く。
綾乃が笑いながら手を振っていた。
そのまま写真を撮り、次へ進む。
午前のうちに丘を下り、その周辺を歩く。
石畳の道。
建物の間に続く細い通り。
店先に並んだ土産物や菓子。
歩くたびに景色が変わる。
昼にはプラカの一角で席に着いた。
温かい料理が並ぶと、綾乃がすぐにスマートフォンを向ける。
「撮るの?」
「食べる前に一枚だけ」
「一枚で済む?」
「済むよ」
ヴァシリオスが少し笑う。
午後はまた街へ出た。
大理石の観客席を見上げたあと、広場ではちょうど衛兵が入れ替わるところだった。
千綴には見慣れない動きばかりで、最後まで目で追ってしまう。
そのあとも通りを歩き、店を覗き、途中で甘いものを買った。
エレディトが選んだものをヴァシリオスが見て、
「それ結構甘いぞ」
「大丈夫です」
「言ったからな」
そんなやり取りをしながら、四人で少しずつ味見する。
日が傾く頃には、街の色も朝とは違って見えた。
高い場所から見下ろすと、建物が遠くまで続いている。
その向こうに、朝見た遺跡も小さく見えた。
「広いね」
千綴が言う。
「だろ」
ヴァシリオスが答える。
風が少し冷たくなり、千綴は上着の前を閉じた。夕方の街をしばらく眺めてから、四人は帰路についた。
邸宅へ戻る頃には、足に一日分の疲れが残っていた。夕食を済ませたあと、千綴は綾乃と一緒に風呂へ入った。
「今日、結構歩いたね」
「うん。足、ちょっと重い」
湯に肩まで沈むと、昼間から残っていた疲れが少しずつほどけていく。
「でも楽しかった」
「私も」
綾乃がそう言って、湯の中で脚を伸ばした。
「中村くん、こっちだとちょっと違うね」
「違う?」
「なんか、いつもより気が抜けてる感じ」
千綴は今朝、少し遅れて食堂へ来たヴァシリオスを思い出す。
「ああ……それはあるかも」
風呂から上がって髪を乾かし、二人で共用スペースへ向かうと、エレディトとヴァシリオスはすでに来ていた。綾乃はソファに座り、今日撮った写真を見返している。
「これ、結構きれいに撮れてる」
画面を千綴へ向ける。
朝のアクロポリス。
四人で並んだ写真。
昼に食べた料理。
高い場所から見た夕方の街。
「いっぱい撮ったね」
「まだあるよ」
「まだあるんだ」
「あるよ」
エレディトも隣から画面を覗き込む。
「これは、ぼくが撮ったものですね」
「そうそう。ちゃんと撮れてた」
「よかったです」
ヴァシリオスは少し離れた椅子に座り、飲み物を手にしていた。
「明日は今日ほど歩かないようにするか」
「それがいいかも」
綾乃が画面を指で送りながら答える。
「でも、今日だけでも結構撮れた」
「まだ撮る気かよ」
「もちろん」
綾乃が笑う。
それからも、写真を見ながら今日のことを話した。
どこがよかったか。
何が美味しかったか。
誰が何を見落としたか。
同じ一日を過ごしていたはずなのに、覚えているところは少しずつ違う。
会話が途切れたとき、千綴は何となく窓の方を見た。
庭の向こうはもう暗い。
その上に、夜の空が広がっている。
日本で見る空と同じはずなのに、ここから見ると少し違って感じた。
知らない街の上にある空。
昼間歩いた場所も、今はその暗さの向こうにある。
半年前なら、こんな場所にいる自分なんて想像もしなかった。
夏休み前。
学校へ通って、生徒会の仕事をして、バイトをして。
そのまま同じような日々が続くものだと思っていた。
けれど、そうはならなかった。
最初に浮かんだのは、異能へ触れたあの日だった。
そこへ、教室に立つエレディトの姿が重なる。
体育祭の歓声。文化祭の教室。
検査施設の廊下と、左腕に残った傷。
沖縄で見た海まで、短い場面が途切れ途切れに続いていく。
ひとつずつなら、どれも少し前の出来事のはずだった。
それなのに、こうして続けて思い返すと、ずいぶん遠くまで来たように感じる。
事件だけではない。
昼休みに交わした会話も、放課後の生徒会室も、雨の日も、騒がしかった行事も、その間に混ざっていた。
千綴は窓の外を見たまま、ゆっくり息を吐いた。
気づけば、隣では綾乃がまた写真を見せながらエレディトと話している。
ヴァシリオスもそこへ何か言い返していた。
いろいろあった。
それでも、その声を聞いているうちに、千綴の口元が少し緩んだ。
「ちづる?」
綾乃に呼ばれて、千綴は視線を戻す。
「何?」
「これ見て。中村くん、完全に横向いてる」
「おい、それ撮るタイミング悪かっただけだろ」
「でもこれ、ちょっと面白いから残しとく」
「そこは消してくれてもいいだろ」
「やだ。記念だから」
千綴も画面を覗き込む。
思わず笑いがこぼれた。
少し前まで見ていた夜空のことは、そのまま胸の中へ戻しておく。
今日はもう、それでよかった。