空の結び目   作:夕花

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 列車が大きく揺れ、エディは目を覚ました。

 

 背もたれに預けていた身体を起こすと、首のあたりに鈍い痛みが残っていた。いつの間に眠っていたのか分からない。窓の外では線路沿いの壁や低い建物が流れており、その上に広がる空は、すでに薄暗くなり始めていた。

 

 向かいの席では男が新聞を読んでいた。少し離れた席からは、乗客同士の話し声が聞こえてくる。

 

 エディは足元に置いた鞄へ目を落とし、背もたれへ身体を預け直した。

 

 まだ眠かった。少し目を閉じた程度では、疲れは取れそうになかった。

 

 窓から入る弱い光を眺めているうちに、瞼がまた重くなってくる。車輪がレールの継ぎ目を越えるたび、身体が小さく揺れた。その振動に身を任せていると、周囲の話し声が次第に遠くなっていった。

 

 白い壁。

 

 消毒液の匂い。

 

 閉じた扉。

 

 エディは目を開けた。

 

 目の前には、さっきと変わらない列車の座席があった。通路を挟んだ向こうでは、乗客が隣の人と何かを話している。窓には車内の照明が映り込み、その奥を暗くなり始めた景色が流れていた。

 

 施設にいた頃は、こんなふうに眠りかけて目を覚ますことなど、ほとんどなかった。

 

 検査があった日も、何もない日も、部屋へ戻って夜になれば眠れた。誰かに起こされるまで、そのまま眠っていたこともある。

 

 それなのに、あの人が来てからは違った。

 

 顔を見ただけだった。話をしたわけでも、何かをされたわけでもない。相手が自分に気づいたのかさえ、よく分からなかった。

 

 ただ、その姿を見た瞬間、身体の奥が冷たくなった。

 

 近づいてはいけない。

 

 ここにいてはいけない。

 

 そう思った理由を、今も説明できなかった。

 

 エディは膝の上で握り締めていた手を開いた。掌には爪の跡が残っていた。

 

 もう施設にはいない。列車は走っていて、窓の外には知らない町が続いている。ここまで来れば、あそこからはずいぶん離れたはずだった。

 

 それでも、戻って確かめたいとは思わなかった。

 

 不意に車体が揺れ、肩が窓枠に当たった。

 

 エディは顔を上げた。窓に映った自分の顔が、車内の明かりでさっきよりはっきり見える。外はもうかなり暗く、建物の窓や道路沿いの灯りが、流れる景色の中に点々と浮かんでいた。

 

 背もたれに寄りかかったまま、車輪の音に耳を傾けた。

 

 しばらくすると、一定の間隔で続いていた音が変わり、身体を前へ押すような感覚が伝わってきた。列車が速度を落とし始めている。

 

 向かいの男が新聞を鞄へしまい、席を立った。通路にも人が増え、上着を着たり荷物を肩へ掛けたりする姿が目に入る。

 

 窓の外には線路がいくつも並び、少し先に明るいホームが見えていた。列車はゆっくりとそこへ入り、最後に小さく揺れて止まった。

 

 扉が開くと、通路にいた人たちが動き出した。

 

 エディも鞄を持って立ち上がり、前の人との間を空けすぎないように歩いた。列車を降りた途端、冷たい空気が頬に触れる。車内より少し湿った空気の中に、人の声や足音、遠くの車内放送が重なっていた。

 

 ホームには降りた人だけでなく、これから乗ろうとしている人もいた。エディは邪魔にならないよう列車から離れ、頭上の案内表示を見上げる。

 

 ここから先は、もう列車ではない。

 

 出口を示す表示を見つけると、エディはそちらへ歩き出した。階段へ向かう人たちの後ろにつき、そのまま駅の中へ進んでいった。

 

 

 

 

 駅の出口へ向かう人の流れに混ざり、エディは階段を下りた。改札を抜けて外へ出ると、冷たい風が頬に当たり、思わず上着の前を寄せる。駅前には車が何台も停まっており、行き交う人の声にエンジンの音が混ざっていた。

 

 建物の前に並ぶ案内表示を見上げる。何度か視線を動かして港へ向かう方向を確かめると、エディは歩き出した。

 

 同じ方向へ進む人たちの中には、大きな旅行鞄を引いている者もいた。家族らしい一団が話しながら歩いていき、その後ろを、肩にバッグを掛けた男が追い越していく。エディも周囲の流れに合わせて歩いたが、人が横を通るたびに、少しだけそちらへ目を向けた。

 

 駅から離れるにつれ、通りを走る車が少なくなっていった。建物の間を抜けてくる風には、それまでとは違う匂いが混ざっている。エディが顔を上げると、少し先に明かりのついた船が見えた。

 

 思っていたよりも大きい。

 

 建物の向こうに見えていた船体は、近づくほど高くなり、窓の明かりがいくつも並んでいるのが分かった。エディは少しだけ歩く速度を落としたが、前を行く人たちがそのまま進んでいくのを見て、また足を動かした。

 

 入口の近くには案内板が立ち、何人かが順番を待っていた。エディは表示を確かめてから列の最後につく。前の人が進むたびに少しずつ場所を移し、荷物を持つ手を替えながら自分の番を待った。

 

 やがてカウンターの前が空いた。

 

 エディは用意していた書類を差し出す。係員はそれを受け取って画面へ視線を移し、何かを操作してからエディの顔を見た。

 

〔一人?〕

 

 エディは頷いた。

 

 係員は書類を置き、エディを見た。

 

〔保護者は?〕

 

〔いない〕

 

 そう答えると、係員の手が止まった。

 

 係員は隣にいた職員へ声をかけ、二人で何かを確かめ始めた。小声で交わされる言葉は聞き取れない。エディが待つ間にも、後ろでは次の客が荷物を置き直す音がした。

 

 エディは顔を動かさず、視線だけを入口の方へ向けた。大きな鞄を引いた人が入ってきて、その後ろから別の客が続いている。誰もこちらを気にしている様子はない。

 

 戻れと言われたら、どうすればいい。

 

 さっき通ってきた入口は、まだ見えている。係員の後ろへ回ることはできないが、来た方へ戻ることならできそうだった。

 

 そこまで考えたところで、係員の一人が顔を上げた。

 

〔少し確認させてね〕

 

 エディは頷く。

 

 身分証に書かれているものを指で示され、いくつか質問された。聞かれたことには答えたが、余計なことは言わなかった。

 

 係員が隣の職員と短く言葉を交わす。エディは手元の荷物を握り直した。

 

 列車の中では、何度も目を閉じていた。ここへ来る途中も眠くて仕方がなかった。それなのに、今は係員の手が動くたびに目で追ってしまう。

 

 しばらくして、二人のうち一人が小さく頷いた。

 

 最初の係員が身分証をカウンターへ戻し、続けて乗船に必要なものを差し出してきた。

 

〔確認できたよ。これを持って、あちらから入ってね〕

 

 エディは受け取ったものを見下ろし、それから係員の顔を見た。

 

 係員は入口から続く通路の方を示していた。エディが荷物を持ち直して離れると、すぐに次の客へ声をかける。

 

 通路を進みながら、エディは一度だけ振り返った。係員はすでに次の客の対応をしていた。

 

 途中でもう一度確認を受けたが、今度は差し出したものを見せると、すぐに先へ進むよう促された。

 

 そのまま人の流れについていく。

 

 船へ入る通路は思ったより長く、歩いているうちに足元の感触が変わった。入口を抜けると、外の冷たい空気が遠ざかり、代わりに人の話し声と機械の低い音が聞こえてきた。

 

 エディは邪魔にならない場所を探しながら奥へ進んだ。何人かが座っている一角を見つけ、少し離れた空席へ腰を下ろすと、立っている間は気にならなかった脚の疲れが一度に押し寄せてきた。背もたれに身体を預けたが、落ち着いて休む間もなく、周囲では人の行き来が続いていた。

 

 やがて、足元から低い振動が伝わってきた。

 

 最初は小さかったそれが、少しずつはっきりしてくる。船内の音にも変化があり、どこか遠くで機械が動いているような音が続き始めた。

 

 エディは立ち上がり、窓のある方へ向かった。

 

 外には港の灯りが広がっていた。明るい建物の前を人が行き交い、岸壁にはいくつもの照明が並んでいる。

 

 しばらく見ていると、その位置がゆっくりと変わり始めた。

 

 船が動いている。

 

 窓から見える岸壁が少しずつ遠ざかり、先ほど歩いてきた港の建物も小さくなっていった。海の方へ進むにつれ、窓に映る船内の明かりが濃くなり、外の景色が見えにくくなる。

 

 エディは少し顔を近づけた。

 

 建物の灯りが少しずつ小さくなり、やがて一つずつ見分けることも難しくなった。エディは窓に片手を添え、遠ざかっていく陸を見つめていた。

 

 エディは窓から手を離した。暗いガラスに映る自分の顔の向こうには、もう港の灯りが見えなかった。

 

 

 

 

 エディは先ほどまで座っていた席へ戻った。空席のままだったそこに腰を下ろし、背もたれに身体を預ける。

 

 周囲では、まだ何人かが話をしていた。通路を挟んだ向こうでは男が荷物の中から何かを取り出し、少し離れたところでは家族らしい一団が座る場所を整えている。船内の照明は明るく、目を閉じても周囲の気配がなくなるわけではなかった。

 

 低い振動が座席を通して伝わってきた。

 

 列車とは違う低い機械音が、途切れることなく続いている。ときおり床もわずかに揺れたが、最初のうちは気にならなかった。むしろ、その単調な音を聞いているうちに瞼が重くなってくる。

 

 どこかで扉が開いた。

 

 エディは目を開けた。

 

 通路の先から二人連れが歩いてきて、話をしながら通り過ぎていく。こちらへ目を向けることもなく、二人はそのまま別の席へ向かった。

 

 しばらく後ろ姿を見送ってから、もう一度目を閉じる。

 

 今度は人の笑い声が聞こえた。

 

 それも遠ざかると、また船の振動だけが残った。

 

 眠りたいのに、なかなか眠れない。

 

 誰かが近くを通るたびに気になり、目を開けてしまう。そうして周囲を確かめても、何かが起きているわけではなかった。

 

 しばらくして喉の渇きを覚え、エディは席を立った。船内を少し歩いたところで水を買い、ひと口飲むと口の中の乾きが和らいだ。

 

 席へ戻る途中、周囲の様子が先ほどとは変わっていることに気づいた。

 

 椅子にもたれて目を閉じている人が増えていた。上着を身体に掛けている者もいれば、鞄を枕代わりにして横を向いている者もいる。さっきまで話していた家族らしい一団も、今は声を落としていた。

 

 席へ戻ると、通路は先ほどより静かになっていた。エディも背もたれに身体を預けたが、列車と違い、途中で降りることのできない船の中では、なかなか気が休まらなかった。

 

 目を閉じている間も、船の振動は続いていた。

 

 近くを歩く足音が聞こえた気がして目を開けたが、通路には誰もいなかった。もう一度目を閉じると、今度は何も聞こえなくなる。

 

 いつしか、そのまま意識が途切れていた。

 

 

 

 

 

 目を覚ましたとき、最初に気づいたのは船内の明るさだった。

 

 昨夜と照明は変わらないはずなのに、窓の向こうから入ってくる光が違う。エディは何度か瞬きをしてから身体を起こした。

 

 首のあたりが痛い。背もたれに寄りかかったまま眠っていたせいか、肩にも鈍い重さが残っていた。

 

 周囲ではすでに起きている人が多かった。鞄を開いて荷物を確かめる人や、スマートフォンを見ながら話している人がいる。椅子に掛けていた上着を着直している者もいた。

 

 エディは立ち上がった。

 

 窓のある方へ歩いていくと、外には灰色がかった海が広がっていた。昨夜見ていた暗い海とは違い、遠くまで波の様子が分かる。

 

 その向こうに、陸が見えた。

 

 初めは低く続いているだけだった輪郭が、船が進むにつれて少しずつはっきりしてくる。建物らしいものも見え始め、その手前には港へ続く岸壁が伸びていた。

 

 エディは窓の前で立ち止まり、しばらくその景色を眺めていた。

 

 イタリアを離れてから、どれくらい眠れただろう。

 

 少しは眠ったはずなのに、頭はまだぼんやりしていた。目を閉じればまた眠れそうだったが、周囲の人たちが荷物をまとめ始めているのを見て、席へ戻ることにした。

 

 荷物を肩へ掛け、周囲の乗客に合わせて移動し、下船を待つ人たちの近くに立つ。すぐには進まず、何度か列が止まったり動いたりしたあと、ようやく船の出口へ向かう流れができた。

 

 外へ出ると、冷たい風が頬に当たった。

 

 海から吹いてくる風は思ったより強く、エディは上着の前を押さえた。船内にいた間はあまり気にならなかった足の疲れも、歩き始めるとはっきり感じる。

 

 それでも、ここで休むわけにはいかなかった。

 

 港の建物へ続く通路には、降りたばかりの乗客が列を作っていた。迎えの人と合流する者もいれば、大きな鞄を引いて先を急ぐ者もいる。エディはその間を進みながら、頭上に並ぶ案内を見比べた。

 

 建物を出ると、道がいくつかに分かれていた。どちらへ進むべきか迷い、近くにいた人に駅へ行きたいと尋ねる。相手が指した先を確かめてから、エディはそちらへ歩いた。

 

 歩いているうちに脚が重くなり、道端に腰を下ろせそうな場所が目に入った。少しだけ休もうかと思ったが、座ってしまえば立ち上がるのが嫌になりそうで、そのまま通り過ぎた。

 

 駅へ着くと、まず案内表示を確かめた。切符と見比べ、乗る列車の表示を探す。何度か見直しても分からない部分があり、近くにいた係員へ尋ねた。

 

〔この列車は、どこから乗れますか〕

 

 係員は切符を見て、少し離れた案内板を指した。

 

〔あちらのホームだよ〕

 

 エディは示された方へ顔を向け、短く礼を言った。

 

 案内板をもう一度確かめてから歩き出す。

 

 駅には大きな荷物を持った人もいたが、港より人の流れはばらばらだった。急ぎ足で通り過ぎる人を避けながら進み、目的のホームを見つけると、ようやく少し肩の力が抜けた。

 

 列車が来るまでの間、エディは壁際に寄って待った。

 

 行き交う乗客の足音に混じって、遠くから列車の近づく音が聞こえてきた。

 

 列車がホームへ入り、扉が開いた。

 

 エディは降りてくる人を避けてから乗り込んだ。

 

 窓際に空いている席を見つけ、腰を下ろす。座った途端、脚から力が抜けるような気がした。

 

 列車が動き出しても、しばらくは背もたれから身体を起こせなかった。

 

 窓の外では、さっきまで歩いていた港とは違う街並みが流れ始めていた。知らない建物が過ぎていき、やがて車窓の景色も変わっていく。

 

 エディはそれをぼんやり眺めた。

 

 行き先は分かっている。

 

 そこへ着いたあと、どうするかはまだ決めていなかった。

 

 どこかで休めるだろうか。食べるものは買えるだろうか。

 

 考えようとしても、すぐにはまとまらなかった。

 

 エディは窓から視線を外し、背もたれへ頭を預けた。

 

 とにかく、今はそこまで行こう。

 

 列車の揺れに身体を任せながら、エディは再び目を閉じた。

 

 

 

 

 列車を降りた頃には、昼をとうに過ぎていた。

 

 ホームへ出たエディは、車内で少し目を閉じていたはずなのに、立ち上がると脚が重かった。降りた人たちは出口へ向かって歩き始めており、エディもその後ろについていった。

 

 駅の中は人が多かった。行き先を示す表示を確かめながら進んでも、横から来る人を避けたり、急ぐ人に道を譲ったりしているうちに、何度か足が止まりそうになる。ようやく外へ出ると、車の音と人の話し声が一度に耳へ入ってきた。

 

 エディは建物の脇へ寄り、通りを見渡した。知らない言葉の看板が並び、店の前では何人かが立ち話をしている。通りの向こうには屋外のテーブルも見えたが、空いている席は見当たらなかった。

 

 喉が渇いていた。朝、何かを口にした覚えはあるものの、それからどれくらい経ったのか、よく分からない。食べ物の匂いが流れてくると腹も空いていることに気づいたが、まずは水が欲しかった。

 

 ポケットから残りの金を出し、手のひらで確かめてから戻す。どこで休めるかもまだ分からない。使いすぎない方がいいと思いながら、エディは歩き出した。

 

 人の流れを避けて進んだ先に、小さな店があった。店先に並んだ飲み物を見て水を一本選び、会計を済ませる。外へ出ると、通行の邪魔にならないところで蓋を開けた。

 

 冷たい水が喉を通った。

 

 何口か続けて飲んでから、エディはボトルを口元から離した。思っていた以上に喉が渇いていたらしい。半分ほど残して蓋を閉めた。

 

 次は座れる場所を探したかった。

 

 通りを進みながら、建物の前や道の端へ目を向ける。けれど、人が腰を下ろせそうなところにはすでに誰かがいた。立ち止まって周囲を見回すだけでも、後ろから来る人の邪魔になる。エディは何度か道の脇へ寄り、そのたびにまた歩き出した。

 

 どこかに座って、それから何か食べよう。そう考えても、空いている場所はなかなか見つからない。

 

 少し先の通りから、笑い声が聞こえた。

 

 何人かの若者が、手に袋を持って歩いている。近くには食べながら話している人もいて、少し離れたところでは誰かが写真を撮っていた。エディはその集まりを避けようと、視線を横へ移した。

 

 そこで、一人の少女と目が合った。

 

 黒い髪の、アジア系に見える少女だった。近くには同じくらいの年頃の者が三人いる。少女は足を止めたまま、こちらを見ていた。

 

 エディも思わず立ち止まった。

 

 知っている相手ではない。何か言われたわけでもないのに、視線を向けられていることが気になった。手に持った水を握り直し、周囲へ目を走らせる。右側は人が多い。左へ進む道は空いているし、来た方へ戻ることもできそうだった。

 

 少女はまだこちらを見ていた。

 

 エディは一歩下がった。逃げようと思えば動ける距離だったが、相手は近づいてこない。何を見ているのだろう。自分の顔か、それとも荷物か。考えても分からなかった。

 

 あの人を見たときのように、理由もなく今すぐ離れなければならないと思うわけではない。ただ、見知らぬ相手が自分に気づいている。それが落ち着かなかった。

 

 エディはその場から動かず、少女の様子を窺った。

 

 

 

 

 千綴は、通りの向こうにいる少年から目を離せなかった。

 

 検査施設で遠目に見かけた子だ。沖縄のアメリカンビレッジでも、人混みの中に同じ顔を見つけたことがある。あのときはすぐに姿を見失って、それきりだった。

 

 こんな遠くの街で、またその顔を見るとは思わなかった。名前も知らず、言葉を交わしたことさえない相手なのに、思わず声が漏れた。

 

「あの子……」

 

「ちづる?」

 

 隣を歩いていた綾乃が足を止めた。千綴はすぐには答えず、少年の方へ視線を向けたままにした。

 

 前に見かけたときより、ずいぶん疲れているように見えた。手には水を持ち、服も少し乱れている。立ち止まった姿にはどこか力がない。

 

 少年は一歩下がったところから、こちらを見ていた。ときおり周囲へ視線を動かす様子が気になり、千綴は声をかけようか迷った。

 

「どうしたの?」

 

 綾乃がもう一度尋ねる。

 

「前に見かけた子がいて……」

 

 そう答えながら、千綴は少年へ視線を戻した。どうしてこんなところに一人でいるのだろう。少年へ近づこうとしたが、周囲を気にするその様子を見て踏みとどまった。

 

「……あの」

 

 少年の表情がわずかに動いた。

 

 返事はなかった。けれど、その場から逃げ出すこともなく、少年は一歩下がった位置から千綴を見ていた。

 

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