空の結び目   作:夕花

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 目を覚ました時、最初に見えたのは白い天井だった。

 

 見慣れない、という感覚が少し遅れて追いつく。

 

 薄いカーテンの向こうはもう明るい。冷房の低い音に混じって、廊下を誰かが通り過ぎる足音が遠ざかっていく。千綴は枕元の時計へ目を向け、それからもう一度天井を見た。

 

 そこでようやく、昨夜ここへ来たことを思い出した。

 

 警察が用意したホテルだった。

 

 身体を起こすと、部屋の全体が視界へ入る。ベッドと小さな机、壁際のテレビ、入口近くのユニットバス。旅行で泊まるなら、たぶん何も気にしない。狭すぎも広すぎもしない、ごく普通の部屋だった。

 

 ただ、自分の意思で選んだ場所ではない。

 

 ベッドの脇には、昨夜渡された最低限の荷物が置かれている。スマートフォンと財布。椅子の背には、巴から借りた着替えが掛けられていた。

 

 千綴はそのまましばらく動かなかった。

 

 部屋には何もおかしなものはない。

 

 それなのに、ここで眠らなければならなくなった理由だけが、場違いな染みのように残っている。

 

 丘平商店の店内。

 

 床に崩れた巴。

 

 少し離れた場所に立つ男。

 

 そして、入口から駆け込んできた朝倉直嗣。

 

 昨夜の光景は、途中で途切れない。

 

 あの公園とは違う。

 

 思い出せるからこそ、夢だったことにはできなかった。

 

 千綴は布団を押しのけ、ベッドの端へ腰をずらした。

 

 足を下ろす。

 

 カーペットの柔らかい毛足の下から、床の硬さが返ってきた。

 

 立ち上がる。

 

 膝も、足首も、昨日のように誰かへ預けたままにはならない。二歩進んでから、それを確かめるようにもう一度足を出す。

 

「……普通」

 

 声にしてみても、安心より先に昨夜の光景が浮かんだ。

 

 千綴はそのまま洗面台へ向かった。

 

 冷たい水で顔を洗う。

 

 顔を上げると、鏡の中にはいつもの自分がいた。

 

 少し跳ねた髪。

 

 目の下に残る疲れ。

 

 それくらいだ。

 

 殺人犯に二度襲われた人間には見えない。

 

 千綴は濡れた顔をタオルで押さえ、そのまま鏡越しに自分を見た。

 

 何も変わっていないように見えることが、今は少しだけ気持ち悪かった。

 

 借り物のTシャツへ着替え、スマートフォンを手に取る。

 

 画面を点けると、『無事に帰る』の通知が上から並んでいた。

 

 綾乃からは朝の挨拶と体調の確認。

 

 悠司からは、何か必要なものがあれば言えという短いメッセージ。

 

 ヴァシリオスのところだけ数字が多い。昨夜遅くまで何かを書いていたらしい。

 

 その下に、環からの一言があった。

 

『生きてる?』

 

 千綴の口元が少し緩んだ。

 

『生きてる』

 

 送信する。

 

 直後、部屋の扉が二度叩かれた。

 

 乾いた音が、狭い室内へ思ったより大きく響いた。

 

 千綴は顔を上げた。

 

 肩が強張る。

 

 身体の方が先に反応したことに気づき、奥歯を少し噛む。

 

「弥生」

 

 扉の向こうから直嗣の声がした。

 

 千綴は息を吐いた。

 

「今開けます」

 

 すぐに鍵へ手を伸ばしかけて、途中で止める。

 

 ドアスコープを覗く。

 

 廊下の白い照明の下に直嗣が立っていた。

 

 それを確認してから鍵を外した。

 

「おはようございます」

 

「ああ。眠れたか」

 

「一応」

 

「体調は」

 

「普通です」

 

「頭痛、吐き気、めまい」

 

「ありません」

 

 昨日から何度目か分からない確認だった。

 

 千綴は扉へ肩を預ける。

 

「毎朝これやるんですか」

 

「必要な間は」

 

「大変ですね」

 

「仕事だからな」

 

 直嗣は何でもないことのように答える。

 

 その後ろを宿泊客らしい男が通り過ぎ、少し離れた部屋の扉が閉まった。ホテルの日常の真ん中で、二人だけが昨夜の続きを話している。

 

「朝食は」

 

「まだです」

 

「下で取る。食べたら一度、荷物を取りに行く」

 

「私の部屋?」

 

「ああ。その後、署へ向かう」

 

 千綴は頷いた。

 

 昨夜の時点で聞いていた予定だった。

 

 ホテルへ移る時に持ってこられたものは最低限だけだ。ここで数日過ごすなら、着替えも学校のものも、細かな生活用品も必要になる。

 

 それ以上に。

 

 一度、自分の部屋を見ておきたかった。

 

 直嗣が一度だけ廊下の左右へ目を走らせる。

 

「準備できたら出てきてくれ」

 

「朝倉さんは?」

 

「隣」

 

 顎で示された先には、ひとつ隣の扉がある。

 

 本当にすぐそこだった。

 

「近いですね」

 

「近くないと意味がない」

 

「同じ部屋じゃないだけましですけど」

 

 直嗣が一拍置いた。

 

「同じ部屋にする理由がない」

 

「分かってますよ」

 

 千綴は思わず笑った。

 

「じゃあ、五分ください」

 

「分かった」

 

 扉を閉め、鍵を掛ける。

 

 金属音がして、廊下との間に壁が戻った。

 

 そのまま鍵へ指を置いていた千綴は、ふと隣の壁を見た。

 

 すぐ向こうに直嗣がいる。

 

 昨夜は、それだけで少し眠りやすかった。

 

 けれど今は、そうして誰かを隣へ置かなければならない理由まで一緒に見えてしまう。

 

 守られている。

 

 それは、自分がまだ狙われているということでもあった。

 

 

 

 

 ホテルを出る頃には、夏の朝の日差しがすでに道路を白く照らしていた。

 

 自動扉が開いた瞬間、冷房に慣れた腕へ熱気がまとわりつく。

 

「暑……」

 

 思わず声が出る。

 

 車道では通勤の車が途切れず流れ、歩道を自転車が追い越していく。ホテルの前では旅行鞄の車輪が舗装を鳴らし、タクシーのトランクが閉まった。

 

 昨日までと変わらない七月の朝だった。

 

 そこへ混ざって歩いている自分だけが、少し別の場所から戻ってきたような気がする。

 

 直嗣は道路脇の車へ向かった。

 

「乗ってくれ」

 

「はい」

 

 助手席へ乗り込み、シートベルトを締める。

 

 車が動き出すと、ホテルの壁が窓の後ろへ流れていった。

 

 しばらくは知らない建物が続いた。

 

 やがて、見覚えのあるコンビニが交差点の向こうへ現れる。

 

 その角を曲がれば学校へ向かう道だ。

 

 次の信号を直進すれば丘平商店のある方へ抜ける。その一本奥には、綾乃の家へ行く時に使う道がある。

 

 窓の外を流れていく景色そのものは、何度も見てきたものだった。

 

 けれど今日は、角や道を見るたび、その先にある場所までが一緒についてくる。

 

 道が道だけで終わらない。

 

 どこへ繋がるかまで、ひとまとまりになって意識へ残る。

 

 千綴は窓へ向けていた顔を少し戻した。

 

「どうした」

 

 直嗣が前を見たまま聞いた。

 

「何でもないです」

 

「気分が悪いなら言え」

 

「本当に何でもない」

 

 そう答えてから、もう一度窓の外を見る。

 

「……道見てただけです」

 

「道?」

 

「前より、先が気になるっていうか」

 

「先?」

 

「あの角なら学校とか、この道なら丘平商店とか。知ってる場所なんですけど、前より繋がって見える」

 

 説明しながら、自分でも変な言い方だと思った。

 

 直嗣は笑わなかった。

 

「署で確認する」

 

「はい」

 

 それだけだった。

 

 もっと説明しろと言われても困る。

 

 今は、説明できないことを説明できないまま渡してもいい相手なのかもしれない。

 

 昨夜、直嗣は犯人を追わなかった。

 

 床に倒れた巴と、自分の方へ来た。

 

 その光景だけは、はっきり覚えている。

 

 だから今のところは、信じることにしていた。

 

 

 

 

 車が見慣れた住宅街へ入る。

 

 道路脇の建物が低くなり、学生向けのアパートが並び始めた。

 

 自分の住む建物が見えた瞬間、千綴は無意識にシートから少し身体を起こした。

 

「あそこです」

 

「分かっている」

 

「そうでした」

 

 警察なら住所くらい知っている。

 

 自分で言ってから気づき、千綴は少しだけ気まずく窓へ目を戻した。

 

 車がアパートの前へ止まる。

 

 シートベルトを外すと、直嗣も同時にドアを開けた。

 

「一人で大丈夫ですけど」

 

「入口までは行く」

 

「部屋の中まで?」

 

「必要がなければ入らない」

 

 千綴は少しだけ安心した。

 

「じゃあ、必要ないです」

 

「分かった」

 

 本当に、それ以上は踏み込まないらしい。

 

 

 

 

 外階段を上る。

 

 靴底が金属の段を踏むたび、小さく音が返ってくる。

 

 二階の廊下へ出ると、自分の部屋はすぐそこだった。

 

 毎日何度も通っていた扉。

 

 その前まで来たところで、足が止まった。

 

 あの日。

 

 巴に見つけられた場所。

 

 自分は、あの公園からここまで戻ってきた。

 

 けれど、その間の景色が一つもない。

 

 目の前の扉は何も変わっていなかった。

 

 表札には自分の名字。

 

 鍵穴の周りには細かな擦り傷。

 

 ドアノブの下には、以前からあった薄い汚れ。

 

 見慣れたものばかりなのに、自分とこの扉の間だけが途切れている。

 

「弥生」

 

 後ろから直嗣の声がした。

 

 千綴は扉から目を離さず答えた。

 

「大丈夫です」

 

 鍵を差し込む。

 

 回す。

 

 かちり、と小さな音がしてロックが外れた。

 

 扉を引くと、閉め切られていた室内の空気がゆっくり廊下へ流れ出す。

 

 自分の部屋の匂いがした。

 

 玄関には、脱いだままの靴。

 

 短い廊下の先に、見慣れた部屋。

 

 千綴は一歩だけ中へ入った。

 

「……ただいま」

 

 誰に言うでもなく口から出た。

 

 返事はない。

 

 それでよかった。

 

 靴を脱ぎ、部屋まで進む。

 

 ローテーブルの上には、出かけた日のままゲームのコントローラーと読みかけの本が置かれている。その横には空になったペットボトル。

 

 冷蔵庫の扉には買い物のメモが貼ったまま。

 

 窓際には、取り込むのを忘れていたタオルが乾ききって固くなっていた。

 

 どれも事件とは何の関係もない。

 

 ただ、自分がここで普通に暮らしていた時だけが、そのまま置き去りになっている。

 

 千綴は部屋の中央で立ち止まった。

 

 ホテルより狭い。

 

 少し散らかっている。

 

 冷房も入っていないから暑い。

 

 それなのに、肩の力がわずかに抜けた。

 

 ここは、自分の場所だ。

 

 そう思えたことが、思っていたより胸へ深く落ちた。

 

 千綴は一度だけ目を閉じる。

 

 それからクローゼットを開けた。

 

 感傷に浸るために戻ってきたわけではない。

 

 着替えを畳む。

 

 洗面道具を袋へ入れる。

 

 机の下から充電器を抜く。

 

 必要なものを鞄へ詰めていく。

 

 その一つ一つが、ホテルへ持っていくための荷物になる。

 

 今日から、自分も事件を追う。

 

 その現実まで、一緒に鞄へ入れているようだった。

 

 

 

 

 警察署へ着いたのは、朝と呼ぶには少し遅い時間だった。

 

 正面玄関を入ると、昨日までに何度か通った場所とは違う廊下へ案内された。

 

 窓口の前では電話が鳴り、奥から書類を揃える乾いた音が聞こえる。制服姿の警察官が人を避けながら行き交い、開いた扉の向こうでは誰かが電話へ頭を下げていた。

 

 直嗣について奥へ進むにつれ、そうした音は一枚ずつ壁の向こうへ遠ざかっていった。

 

「こっちです」

 

 案内されたのは、長机と椅子が置かれた小さな会議室だった。

 

 壁際に棚が一つ。窓にはブラインドが半分ほど下り、細い隙間から差す光が机の端を白くしている。冷房の風が、置かれていた紙の角を一定の間隔で浮かせていた。

 

 取り調べ室か、もっと機械の並んだ部屋を想像していた千綴は、入口で一度立ち止まった。

 

「ここでやるんですか」

 

「ああ」

 

「もっとこう、機械がいっぱいある部屋とか」

 

「必要なら使う」

 

「今日は?」

 

「使わない」

 

 直嗣は鞄を机の脇へ置く。

 

「まず、何ができるか分かっていないからな」

 

「それ、私に言われても」

 

「だから確認する」

 

 返す言葉がなく、千綴は椅子を引いた。

 

 机の上には、透明な袋が三つ並べられている。

 

 中身はどれも同じ形の黒いボールペンだった。

 

「……いきなり地味ですね」

 

「派手な方がいいか」

 

「そういう意味じゃないです」

 

 直嗣も向かいへ座る。

 

「三本とも同じ製品です。一つは未使用。一つはこの署の人間が普段使っている。もう一つは俺が昨日から使っている」

 

「それを当てる?」

 

「分からなければ、分からないでいい」

 

「簡単に言いますね」

 

「当てることが目的じゃない」

 

 千綴は両肘を机へつかないよう少し前へ身を乗り出した。

 

 三本のペンを左から順番に見る。

 

 袋越しでは細かな傷もほとんど分からない。光を反射する黒い軸も、透明な袋の皺も、三つとも似たようなものだった。

 

 何かが光るわけでもない。

 

 文字が浮かぶわけでもない。

 

 当然だ、と思って視線を右へ移しかける。

 

 その途中で、真ん中へ目が戻った。

 

 千綴は眉を寄せた。

 

 見た目は同じだ。

 

 なのに、そこへ置かれていることだけが少し落ち着かない。

 

 本来なら別の机か、誰かの胸ポケットにあるものを、わざわざここへ連れてきたような。

 

「これ」

 

 指先で真ん中の袋を示す。

 

「何だと思う」

 

「誰かが普段使ってる方」

 

 直嗣はすぐには答えず、袋を持ち上げて裏返した。

 

 小さく振られた番号が見える。

 

「合ってる」

 

「……ほんとに?」

 

「一つだけなら偶然もある」

 

「ですよね」

 

 千綴は残った二本へ視線を移した。

 

 今度は何も引っ掛からない。

 

 左を見て、右を見る。

 

 もう一度左へ戻る。

 

 同じだ。

 

「分からない」

 

「それでいい」

 

「でも朝倉さんのがあるんですよね」

 

「ああ」

 

「じゃあ、もう少し」

 

 千綴は右の袋へ顔を近づける。

 

 黒い軸を見る。

 

 そこから、昨日の丘平商店を思い出す。

 

 入口。

 

 床に倒れた巴。

 

 店へ駆け込んできた直嗣。

 

 その手元。

 

 何かを掴んでいたはずだ。

 

 形までは思い出せない。

 

 けれど、視線を外そうとした時、右の袋だけがわずかに残った。

 

「……右」

 

「理由は」

 

「分かりません」

 

「見覚えがある?」

 

「ないです」

 

「傷や汚れ」

 

「そこまで見てない」

 

 直嗣が袋を裏返す。

 

「俺のです」

 

 千綴は反射的に背もたれへ少し身体を引いた。

 

「二回続いた」

 

「ああ」

 

「何か嫌ですね」

 

「嫌?」

 

「自分で分かってないのに、合ってるのが」

 

 直嗣はペンを取り、その言葉を紙へ書いた。

 

「どう分かった」

 

「だから、それが説明できないんですって」

 

「見えるものは」

 

「ないです」

 

「線、色、光」

 

「何も」

 

「音は」

 

「聞こえない」

 

「頭に答えが浮かぶ」

 

「それとも違う」

 

 質問のたび、直嗣のペン先だけが止まり、千綴の答えが終わるとまた紙の上を走る。

 

「じゃあ、近い表現は」

 

 千綴は三本の袋を見直した。

 

「……違和感」

 

「違和感?」

 

「いつもそこにあるものが、違うところに置いてあったら気づくことあるじゃないですか」

 

「見慣れた場所なら」

 

「そう。でも、見慣れてないのに近い感じがする」

 

 真ん中のペンを指で示す。

 

「その物だけ見たら普通なんです。でも、誰かが使ってるとか、いつもどこかに置かれてるとか……そういうのまで一緒についてる感じ」

 

「一緒に見える?」

 

「見えるんじゃない」

 

 千綴は首を振った。

 

「分かる、でもない。気になる、が近いかも」

 

 直嗣は少し考えてから、そのまま記録へ書き込んだ。

 

「次をやる」

 

「もう?」

 

「疲れたか」

 

「そこまでは」

 

「なら続ける。無理なら言え」

 

 三本の袋が机の端へ寄せられる。

 

 代わりに白い封筒が一つ置かれ、その横へ警察署周辺の簡単な地図が広げられた。

 

 紙が擦れる音がする。

 

 地図には赤い丸が四つ。

 

「今朝、この封筒を職員に持って歩いてもらった」

 

「この四か所を?」

 

「三か所だけ」

 

「一か所は通ってない」

 

「ああ」

 

「どこを通ったか当てる?」

 

「可能なら」

 

 千綴は封筒へ目を落とし、それから地図を見る。

 

「さっきより無茶じゃないですか」

 

「物と人の関係だけなのか、場所との関係も拾うのかを見たい」

 

「言われると急に実験っぽい」

 

「実験だからな」

 

 直嗣は真顔だった。

 

 千綴は地図を自分の方へ少し引き寄せた。

 

 玄関側。

 

 駐車場。

 

 廊下の奥。

 

 別棟へ続く通路。

 

 赤い丸を一つずつ目で追う。

 

 何もない。

 

 今度は封筒を見る。

 

 白い紙の表面には宛名も印もない。

 

 もう一度地図へ戻る。

 

 一周。

 

 二周。

 

 三周目で、駐車場側の赤丸を通り過ぎた指が止まった。

 

 千綴は少し戻す。

 

「……ここ」

 

 指先を置く。

 

「通ってる」

 

 直嗣の声だけが返る。

 

 千綴は答えを聞いた勢いで次へ行かず、一度封筒へ視線を戻した。

 

 そこから地図へ。

 

 今度は別棟へ続く通路で、同じように指が止まる。

 

「じゃあ……こっち」

 

「そこも」

 

 二つ。

 

 千綴は三つ目を探した。

 

 右上の丸を見る。

 

 左下を見る。

 

 一度当たった二つを除いて、残りを何度も見比べる。

 

 さっきまであった引っ掛かりがない。

 

 どこへ指を置いても、ただ赤い丸に触れているだけだった。

 

「……駄目」

 

「何が」

 

「もう分からない」

 

「三つ目は」

 

「分からないって言ってるでしょう」

 

 少し強く返し、千綴は指を地図から離した。

 

 直嗣は気にした様子もなく、その反応まで見るように一度千綴の手元へ視線を落とす。

 

「順番は」

 

「もっと分かりません」

 

「最初と最後だけでも」

 

「無理」

 

「分かった」

 

 そこで直嗣は地図を自分の方へ戻した。

 

 あまりにあっさり終わったので、千綴の方が戸惑う。

 

「いいんですか」

 

「いい」

 

「半分くらいしか分かってないですよ」

 

「全部分かる前提でやってない」

 

 直嗣は地図の裏へ何かを書き込む。

 

「接触時間か、場所との結びつきの強さか、距離か。条件はまだ分からない。ただ、経路の一部を拾える可能性はある」

 

「可能性」

 

「ああ。断定はしない」

 

 千綴は椅子へ背を預けた。

 

 机の上には、当てられなかった二つの赤丸もそのまま残っている。

 

 それを隠されないことが、少し安心した。

 

「もう一つ」

 

 直嗣が言った。

 

「まだあるんですか」

 

「これで一旦終わりだ」

 

 今度は何も置かなかった。

 

 封筒も地図も、そのまま机にある。

 

「何するの」

 

「その封筒を、このあと俺がどこへ持っていくか分かるか」

 

 千綴は瞬きをした。

 

「……は?」

 

「どの部屋へ持っていくか」

 

「知らないですよ」

 

「何となくでも」

 

 千綴は封筒を見る。

 

 さっきまで過去の経路を拾っていた白い紙。

 

 今度はそこから先を探すつもりで眺めてみる。

 

 何もない。

 

 地図へ目を移す。

 

 右の廊下。

 

 左の廊下。

 

 どちらにも、さっきのような引っ掛かりは生まれなかった。

 

「全然」

 

「地図を見ても?」

 

「見ても分かりません」

 

「今から右へ行くか左へ行くか」

 

 千綴は直嗣を見る。

 

 直嗣は椅子へ座ったまま、どちらへ動く素振りもない。

 

「それも分からない」

 

 直嗣は小さく頷いた。

 

「ならいい」

 

「何がいいんですか」

 

「未来を見ているわけではなさそうだ」

 

 千綴は言われてから、もう一度封筒を見た。

 

 実際に通った場所には、何かが残っていた。

 

 まだどこにも運ばれていない先には、何もない。

 

「……未来は、分からない」

 

「今のところは」

 

「それ、ちょっと安心しました」

 

「なぜ」

 

「だって嫌でしょう」

 

「未来が分かることが?」

 

「全部分かったら、です」

 

 千綴は地図の赤丸を指先で軽く押さえた。

 

「明日どうなるとか、誰がどこに行くとか。知らなくていいことまで勝手に入ってきたら、普通に生活できないじゃないですか」

 

 直嗣は返事をしなかった。

 

 ただ、その言葉も記録へ加えた。

 

「次は休憩」

 

「さっき一旦終わりって言ったでしょう」

 

「だから休憩だ」

 

「まだ全然やってない気がするんですけど」

 

「集中してる時間は短い方がいい」

 

「私、平気です」

 

「そう言うと思った」

 

 直嗣が机の下へ手を伸ばす。

 

 出てきたのは、冷えたペットボトルの水だった。

 

「飲め」

 

「準備よすぎません?」

 

「水分不足で精度が変わったら面倒だ」

 

「そこまで?」

 

「条件が分からない時は、余計な条件を減らす」

 

 千綴は受け取った。

 

 手のひらが冷える。

 

 蓋を開け、一口飲む。

 

 冷たい水が喉を落ちていくのを感じたところで、肩が少し下がった。

 

 その時になって初めて、ずっと身体へ力が入っていたことに気づく。

 

「……ちょっと疲れてたかも」

 

「顔に出てた」

 

「なら先に言ってください」

 

「言ったら続けただろ」

 

 千綴は口を閉じた。

 

 否定できない。

 

 直嗣は三本のペンと封筒を片づける。

 

「今ので分かったことは少ない」

 

「少ないんですか」

 

「十分だ。少ないことが分かった」

 

 意味が分からず、千綴は眉を寄せた。

 

「何でも見えるわけじゃない。未来も分からない。関係があっても全部拾えるわけじゃない。逆に、実際に人が使った物や、物が通った場所の一部は拾える」

 

「そう聞くと、かなり限定的ですね」

 

「現時点ではな」

 

「使えない?」

 

「誰がそんなことを言った」

 

 直嗣が机の端へ置いていた厚いファイルへ手を伸ばす。

 

 さっきまでの事務用品とは違い、表紙には事件番号がいくつも並んでいた。

 

「むしろ、次はそこを使う」

 

 千綴の視線がファイルへ落ちる。

 

 直嗣が先に口を開いた。

 

「〈標本家〉の資料です」

 

 千綴は持ったままだった水を机へ置いた。

 

 ペットボトルの底が、小さく音を立てる。

 

「今までの事件?」

 

「ああ。現場、被害者、移動経路、写真。確認できている範囲だけ」

 

「それを私が見る」

 

「全部読む必要はない」

 

「でも、見るんでしょう」

 

「君が何を拾うか確認する。ただし」

 

 直嗣はファイルの上へ手を置いたまま千綴を見る。

 

「分からないものを、分かったことにするな」

 

「しません」

 

「気になるだけなら、気になると言え」

 

「はい」

 

「理由が説明できなくても構わない」

 

「……はい」

 

「それと、無理に見ようとするな」

 

 最後だけ、声が少し強くなった。

 

 千綴は一瞬黙り、それから頷く。

 

「分かりました」

 

 直嗣がファイルを開く。

 

 一枚目の現場写真が、机の上へ現れた。

 

 見覚えのない夜の街だった。

 

 千綴は椅子へ座り直し、写真へ顔を向けた。

 

 

 

 

 直嗣が開いた一枚目の写真には、夜の歩道が写っていた。

 

 街灯の下に規制線が張られ、その奥の一部がブルーシートで隠されている。写真の端には建物の壁が入り込んでいるが、人影はほとんどない。

 

 千綴は写真へ顔を寄せた。

 

 歩道。

 

 街灯。

 

 建物の入口。

 

 目につくものを順番に追ってみる。

 

 何も引っ掛からない。

 

「……分かりません」

 

「それでいい」

 

 直嗣がページをめくる。

 

 次の写真は、住宅街の細い路地だった。

 

 黄色い街灯の下に駐車場の白線が見え、その奥へ家々の塀が続いている。

 

 千綴はしばらく見たが、やはり何も感じない。

 

 さらに一枚。

 

 川沿いの遊歩道。

 

 水面は暗く、対岸の灯りだけが細く伸びている。手前には大きなケヤキがあり、枝の一部が写真の上端を覆っていた。

 

 そこへ視線を移した瞬間、千綴の指が止まった。

 

「どうした」

 

「……ここ」

 

 写真の端を指す。

 

「この木」

 

 直嗣が身を寄せる。

 

 葉の間に黒い影がいくつも並んでいた。

 

「カラス?」

 

「たぶん」

 

 直嗣は返事の代わりに、ファイルから別の写真を何枚か抜き出した。

 

 一枚ずつ机へ並べていく。

 

 古い住宅街。

 

 遊具のある公園。

 

 草の伸びた河川敷。

 

 夜の工場裏。

 

 場所も時間もばらばらだ。

 

 千綴は左端から順番に写真を見る。

 

 一枚目の電線。

 

 二枚目の木の枝。

 

 三枚目のフェンス。

 

 四枚目の屋根。

 

 そこで初めて、同じ黒い形が何度も視界へ入っていることに気づいた。

 

「……多い」

 

「何が」

 

「鳥」

 

 直嗣は何も言わず、もう一枚を差し出した。

 

 規制線の向こう、道路脇に首輪をした中型犬が立っている。散歩中に偶然写り込んだようにも見える。

 

「これも?」

 

「動物が写っている例の一つだ」

 

 千綴は写真を持ち上げ、犬の顔を見る。

 

 犬はカメラではなく、その奥にある何かを見ていた。

 

「偶然じゃない?」

 

 自分でも半信半疑だった。

 

「そう考える方が自然だ」

 

 直嗣は否定しない。

 

「だから当初は誰も気にしなかった」

 

 次の写真が机へ滑ってくる。

 

 古い商店街の路地裏。

 

 ゴミ置き場の脇に、小さな影が半分だけ写っている。

 

「猫?」

 

 千綴は写真を少し傾けた。

 

 耳の形が違う。

 

 長い尾が地面へ伸びている。

 

「……ネズミ」

 

「鑑識も最初は気づいていない」

 

 直嗣は並べた写真を指先で軽く揃える。

 

「現場写真を改めて整理した時、動物が映り込んでいる割合が高いことが分かった」

 

「でも、それだけじゃ」

 

「ああ。証拠にはならない」

 

 窓の外から遠く車の音が聞こえた。

 

 街に鳥がいる。

 

 犬が散歩している。

 

 路地に猫やネズミがいる。

 

 どれも、それだけなら珍しくない。

 

「だから放置されていた」

 

 直嗣は写真を脇へ寄せ、市内地図を机いっぱいに広げた。

 

 紙が千綴の前まで滑ってくる。

 

 地図の上には、赤い印が点々と打たれていた。

 

「事件現場?」

 

「ああ」

 

 直嗣はその上へ透明なシートを一枚重ねる。

 

 透明な面を通して赤い点が残り、その間へ青い線が加わった。

 

「監視カメラと目撃証言から推定した移動経路だ」

 

 青線は一本ではなかった。

 

 途中で途切れ、別の道へ移り、また赤い点の近くへ現れる。

 

 千綴は顔を近づける。

 

 直嗣がさらにもう一枚、透明シートを取り出した。

 

「これは?」

 

「動物の目撃地点」

 

 それが地図へ重なる。

 

 小さな記号が一気に増えた。

 

 カラス。

 

 犬。

 

 猫。

 

 ネズミ。

 

 種類ごとに形を変えた印が、赤い事件地点と青い移動線の上へ散らばっている。

 

 さっきまで別々だった写真と証言が、一枚の地図の上で急に同じ街になった。

 

 千綴は思わず身を乗り出した。

 

「……重なる」

 

「全部ではない」

 

「でも」

 

 指先で青線を追う。

 

 赤い事件地点へ近づく。

 

 その直前で、動物の印が増えていた。

 

 千綴の指が止まる。

 

「事件現場そのものより、こっちの方が多い」

 

 直嗣が地図へ視線を落とす。

 

 千綴は今度は事件地点を通り過ぎ、その先の青線を追った。

 

 少し離れた交差点。

 

 細い道。

 

 そこにも印が集まっている。

 

「あと……逃げた後の道にも」

 

 直嗣の視線が、その指先へ移る。

 

「そこまでは見ていなかった」

 

「現場に集まってるんじゃなくて」

 

 千綴は一つ前の事件へ指を戻す。

 

 同じように、現場の少し手前。

 

 そして通過後。

 

「前と後にいる?」

 

「そう見えるな」

 

 その形を見た瞬間、昨日の音が戻ってきた。

 

 丘平商店の外で重なった羽音。

 

 ガラスへ何かがぶつかった音。

 

 すぐ近くから聞こえた犬の声。

 

 あの時は、逃げるために周囲を騒がせているだけだと思っていた。

 

 けれど、もしその前からいたのなら。

 

「朝倉さん」

 

「何だ」

 

「あいつ……見てたんですよね」

 

「誰を」

 

「私たちを」

 

 直嗣は少しだけ黙った。

 

「可能性は高い」

 

「人じゃなくて」

 

「動物を通して」

 

 千綴の指が地図の上で止まった。

 

 冷房の風が透明シートの端をわずかに持ち上げ、重なった印が揺れる。

 

 公園で襲われる前から。

 

 昨日、巴と丘平商店へ戻る途中も。

 

 自分たちが誰もいないと思っていた場所に、鳥や犬はいたかもしれない。

 

 その目が全部、あの男へ繋がっていたとしたら。

 

「じゃあ」

 

 千綴は青い線を見る。

 

「この印は、犯人が歩いた道じゃなくて」

 

「監視に使った場所も混じっているかもしれない」

 

 直嗣が静かに答えた。

 

 会議室が急に静かになったように感じた。

 

 聞こえるのは冷房の風と、どこか遠くで閉まった扉の音だけだった。

 

 千綴は赤い事件地点から視線を外した。

 

 その周囲へ目を動かす。

 

 公園の横を抜ける道。

 

 川沿いの細い遊歩道。

 

 住宅と住宅の間を通る路地。

 

 大きな道路から少し外れた駐車場。

 

 どれも人目から少し外れ、別の場所へ抜けられるところばかりだ。

 

 指で一つを追う。

 

 その先に別の印。

 

 さらに先に青線。

 

 ばらばらだった場所が、途切れながらも一つの流れに見え始める。

 

「現場だけ見てたら、分からなかったかも」

 

 千綴が呟く。

 

「前から見て、後ろも見てた」

 

「ああ」

 

 直嗣は地図へ視線を落としたまま頷いた。

 

「犯行の時だけ動物を使ったわけじゃない。少なくとも、そう考えた方が筋は通る」

 

 千綴はもう一度、赤い点と青い線、その周囲に散った印を見た。

 

 机の上にはまだ何枚もの写真と、見終えていない資料が残っている。

 

 その向こうには窓があり、ブラインドの隙間から街の明るさが細く差し込んでいた。

 

 紙の上にしかなかった線と点が、少しずつその外の街へ繋がっていく。

 

 今なら、その感覚が前より少しだけ分かる気がした。

 

 

 

 

 地図を見終えたからといって、すぐに席を立つことにはならなかった。

 

 直嗣は残っていた資料を閉じなかった。

 

「まだ見るんですか」

 

「見る」

 

「もう十分見た気がするんですけど」

 

「見落としがないとは限らない」

 

 直嗣は次の資料を開いた。

 

「今ある記録を確認できるうちに確認する」

 

 千綴は少しだけ口を尖らせたが、反論はできなかった。

 

 机の上には、まだ写真も地図も残っている。

 

 動物の目撃地点と犯人の移動経路が重なることは分かった。けれど、それだけで犯人の居場所まで分かったわけではない。

 

 焦ったところで、見えていないものが見えるようになるわけでもない。

 

 それくらいは分かる。

 

「分かりました」

 

 椅子へ座り直す。

 

「でも、ホテル戻るの遅くなりません?」

 

「状況次第だ」

 

「そういう返事、一番信用できないんですけど」

 

 直嗣は聞き流した。

 

 千綴はため息をつき、次の写真へ目を落とした。

 

 

 

 

 それから、どれだけ時間が経ったのか。

 

 途中で一度休み、飲み物を買い、また資料へ戻った。

 

 最初は整然と並んでいた写真が、少しずつ机いっぱいへ広がっていく。

 

 見終えた一枚を右へ置く。

 

 次の一枚を取る。

 

 また右へ置こうとして、手が止まった。

 

 理由は分からない。それでも千綴は、その一枚だけを少し離れた場所へ置いた。

 

「何かあったか」

 

「……分からない」

 

 直嗣はそれ以上聞かなかった。

 

 次の写真。

 

 その次。

 

 ペットボトルの水は、いつの間にか半分近くまで減っている。ブラインドの隙間から差し込む光の角度も、座った時よりだいぶ低くなっていた。

 

 気づけば、理由の分からない数枚だけが、机の端に小さな山を作っていた。

 

 直嗣はその山を崩さなかった。

 

 多いとも少ないとも言わず、千綴が避けたものだけを、そのつど静かに脇へ寄せていく。

 

 分からないなら、それでいい。

 

 理由がないなら、作るな。

 

 気になるだけなら、そう言え。

 

 最初のうちは、山が増えないたびに少し焦った。今は、増えても増えなくても、手を止めずにいられる。

 

 部屋の明るさが変わった。

 

 千綴は資料から顔を上げた。

 

「……暗くないですか」

 

 ブラインドの隙間から見える空が、さっきまでとはまるで違っていた。

 

 白かった夏空が、重い灰色に覆われている。

 

 雲は低く、窓の向こうの建物まで少しくすんで見えた。

 

 直嗣も窓へ視線を向ける。

 

「来るな」

 

「何が」

 

 遠くで、低い音がした。

 

 腹の底へ響くような雷鳴だった。

 

「ああ」

 

 千綴は椅子の背へ身体を預ける。

 

「夕立」

 

 言い終わるより先に、窓へ大きな雨粒が一つ当たった。

 

 続けて二つ。

 

 三つ。

 

 次の瞬間には、数える意味がなくなった。

 

 雨が窓を叩く。

 

 細かな音ではない。

 

 まとまった水が、建物ごと押し流そうとするように降ってくる。

 

 さっきまで見えていた駐車場の白線が、みるみる滲んでいった。

 

 向かいの建物も霞む。

 

「すご……」

 

 千綴は窓際まで寄った。

 

 道路を歩いていた人が、鞄を頭へ乗せて軒下へ駆け込んでいく。

 

 自転車が一台、慌てて速度を落とした。

 

 排水溝へ水が集まり、路面の低いところへ茶色い流れができている。

 

「これじゃ帰るのも面倒ですね」

 

「ああ」

 

「止むまで待ちます?」

 

「その方がいい」

 

 直嗣はあっさり言った。

 

「やっぱりそうなるか」

 

「急いで出る理由もない」

 

「それはそうだけど」

 

「だから焦るな」

 

 また同じことを言われた。

 

 千綴は窓の外を見る。

 

 雨はさらに強くなっている。

 

 ガラス越しでも、地面から跳ね返る水が白く見えた。

 

 仕方がない。

 

 そう思って席へ戻る。

 

 直嗣はもう資料を開いていた。

 

「……まだやるんですか」

 

「雨が止むまで時間がある」

 

「この人、本当に休まないな」

 

「さっき休んだ」

 

「あれ休憩っていうほど休んでないでしょう」

 

「水は飲んだ」

 

「そういう問題じゃないです」

 

 返事はなかった。

 

 千綴は諦めて資料へ手を伸ばした。

 

 

 

 

 夕立は、始まった時と同じように唐突に弱くなった。

 

 窓を叩いていた音が少しずつ細くなり、やがて軒から落ちる水の音の方が目立つようになる。

 

 雲の向こうにはまだ明るさが残っていた。

 

 けれど、雨が時間を一気に押し進めてしまったように感じた。

 

「止みました?」

 

「ほぼな」

 

 直嗣が窓を見る。

 

 千綴も立ち上がった。

 

 雨上がりなら、少しくらい涼しくなっていると思った。

 

 窓を少し開けた瞬間、その期待は外れた。

 

「……暑」

 

 入ってきた空気は、涼しいどころか重かった。

 

 水をたっぷり含んだような湿気が、冷房で乾いた室内へまとわりつく。

 

「何これ」

 

 千綴は眉を寄せる。

 

「雨降ったのに」

 

「気温があまり下がっていない」

 

「普通、もうちょっと涼しくなりません?」

 

「風も弱い」

 

 直嗣が短く答える。

 

 窓の外では、濡れたアスファルトがまだ薄く光っている。

 

 建物の屋根から水が落ちる。

 

 木々の葉も濡れている。

 

 それなのに、空気だけが動かない。

 

 湿気が地面から戻ってくるようだった。

 

 千綴は窓を閉めた。

 

「外出たくなくなってきた」

 

「さっきまで早く出たがってただろ」

 

「それとこれとは別です」

 

「そうか」

 

「そうです」

 

 千綴は机の上を片づけ始めた。

 

 窓の外は、少しずつ夕方から夜の色へ変わっていく。

 

 雨雲が残っているせいか、暗くなるのが早く感じた。

 

 街灯が一つずつ灯る。

 

 車のヘッドライトが濡れた道路へ長く伸びる。

 

 それでも、直嗣はすぐには出なかった。

 

 資料を元の順番へ戻し、記録したメモを確認し、地図を畳む。

 

 千綴はその様子を見ながら待った。

 

「こういうところ、細かいですよね」

 

「何が」

 

「全部元に戻してからじゃないと動かないところ」

 

「必要な資料が分からなくなる方が問題だ」

 

「分かってますけど」

 

「ならいい」

 

 やはり会話が続かない。

 

 千綴は肩をすくめ、スマートフォンを見る。

 

 外へ出れば、巴にも一度連絡しておいた方がいい。

 

 今日はもうホテルへ戻るだけだ。

 

 これ以上遅くなる理由もない。

 

 画面を閉じたところで、直嗣が鞄を持ち上げた。

 

「行くぞ」

 

「はい」

 

 ようやく立ち上がる。

 

 部屋の照明を落とし、廊下へ出た。

 

 

 

 

 警察署の自動扉が開く。

 

 外へ一歩出た千綴は、すぐに足を止めた。

 

 暑い。

 

 昼間のように日差しがあるわけではない。

 

 もう空にはほとんど明るさが残っていない。

 

 それなのに、熱が逃げていなかった。

 

 濡れた道路。

 

 雨を吸った土。

 

 壁。

 

 屋根。

 

 昼間に溜め込んだ熱を、それぞれが湿気と一緒に吐き出しているようだった。

 

 Tシャツの背中へ空気が張りつく。

 

「夜なのに……」

 

 千綴は首元を少し引っ張った。

 

「蒸しますね」

 

「ああ」

 

 直嗣は周囲へ目を向けている。

 

 署の駐車場。

 

 道路。

 

 向かいの建物。

 

 特に変わったものはない。

 

 ただ、遠くが少し白い。

 

「朝倉さん」

 

「何だ」

 

「あれ」

 

 千綴は道路の先を指した。

 

 街灯の周囲がぼんやりと滲んでいる。

 

 雨が残っているのかと思った。

 

 だが降ってはいない。

 

 白いものは、地面の近くから薄く広がっていた。

 

「霧?」

 

「そうみたいだな」

 

「この時期に?」

 

「雨のあとの条件次第では出る」

 

 直嗣はそう答えたが、視線は霧の方へ向いたままだった。

 

 千綴も見る。

 

 まだ薄い。

 

 向こう側の建物も見えている。

 

 車も走っている。

 

 けれど、少し先の街灯は輪郭が柔らかくなっていた。

 

 光が空気の中へ溶けている。

 

 風がほとんどないせいか、その白さは流れていかない。

 

 時間が経つほど、地面から少しずつ増えているように見えた。

 

「……嫌な天気」

 

 千綴が呟く。

 

「天気だけならな」

 

「そういう言い方やめてくださいよ」

 

「警戒はしておけ」

 

「してます」

 

 即座に返す。

 

 それでも、さっきまで資料を見ていた部屋とは空気が違う。

 

 鳥。

 

 犬。

 

 ネズミ。

 

 事件現場の周囲へ残っていた、小さな存在。

 

 それらを何時間も見続けたあとでは、ただの夜道まで違って見えた。

 

 電線へ目が行く。

 

 植え込みへ目が行く。

 

 路地の奥へ目が行く。

 

 何もいない。

 

 それが普通のはずなのに、今日はかえって気になった。

 

 直嗣が車の鍵を取り出す。

 

「戻るぞ」

 

「はい」

 

 千綴は小さく息を吐き、車へ向かいながらもう一度道路の先を見る。

 

 霧は、さっきより少しだけ濃くなっていた。

 

 街灯の白い光が、その中で丸く滲んでいる。

 

 雨は上がった。

 

 夜にもなった。

 

 本来なら、一日の熱が少しずつほどけていく時間のはずだった。

 

 けれど、この夜は違った。

 

 空気は重く。

 

 湿っていて。

 

 どこにも逃げていかない。

 

 千綴は助手席の扉へ手を掛けた。

 

 

 

 

 車が警察署を離れてからも、霧は薄くならなかった。

 

 むしろ住宅街へ入るにつれて、街灯の光が白く膨らみ、フロントガラスの向こうを流れていく家々の輪郭まで曖昧になっていく。

 

 雨はもう完全に止んでいる。ワイパーも動いていない。それでも路面は黒く濡れたままで、街灯や信号の色を長く引き延ばしていた。

 

「……思ったより濃いですね」

 

「ああ」

 

 直嗣は前を見たまま答え、いつもより少し速度を落としている。

 

 千綴は助手席で、窓の外を流れていく景色を眺めていた。

 

 見覚えのある交差点が、霧の向こうから現れる。

 

 その先にある場所を思い出した瞬間、胸の奥がわずかに縮んだ。

 

 自分が襲われた小さな公園。

 

 昨日も巴と一緒に足を運び、直嗣と出会った場所だった。

 

 ホテルへ戻るなら、その近くを通る。

 

 千綴はしばらく黙っていた。

 

 わざわざ寄る必要はない。

 

 そう思う一方で、このまま通り過ぎることにも妙な引っ掛かりが残った。

 

「朝倉さん」

 

「何だ」

 

「少しだけ、寄ってもいいですか」

 

 直嗣は前を見たまま答えなかった。

 

「公園に?」

 

「はい」

 

「理由は」

 

 千綴は少し考える。

 

「……見ておきたいです」

 

「何を」

 

「分かりません」

 

 言ってから、自分でも曖昧だと思った。

 

 直嗣は数秒黙り、前方の霧と道路を確認する。

 

「長居はしない」

 

「はい」

 

 ウインカーが出た。

 

 車が公園のある方角へ曲がる。

 

 千綴は小さく息を吐いた。

 

 濡れた塀。植え込み。細い路地。

 

 どこも見慣れた住宅街のはずなのに、霧のせいで距離感が曖昧になっている。

 

 公園の入口までは、もう少しだった。

 

 その時、胸の奥に別の引っ掛かりが生まれた。

 

「朝倉さん」

 

「何だ」

 

「ちょっと……ゆっくり」

 

 直嗣は何も聞き返さず、さらに速度を落とした。

 

 千綴は窓へ顔を近づける。

 

 右手に古い住宅が並び、その向こうへ細い道が伸びている。

 

「こっち」

 

「公園の入口は先だ」

 

「分かってます」

 

「理由は」

 

「……気になる」

 

 直嗣は一瞬だけ千綴を見る。

 

「それだけか」

 

「それだけです」

 

 しばらく沈黙したあと、もう一度ウインカーが出た。

 

「確認する」

 

 車が細い道へ入る。

 

 千綴は小さく頷いた。

 

 道は車一台が通れる程度の幅だった。

 

 左右には低い塀と古い家が並び、霧のせいでその先がどこまで続いているのか掴みにくい。街灯も少なく、濡れた路面だけがぼんやりと光を返していた。

 

「何が気になる」

 

「まだ分かりません」

 

「見えるものは」

 

「何も」

 

「音」

 

 千綴は耳を澄ませた。

 

 遠くを走る車。どこかの家の室外機。軒先か樋から、水滴が落ちる音。

 

 それくらいしか聞こえない。

 

「……静かすぎる」

 

「何が」

 

「動物」

 

 千綴は周囲を見回した。

 

 鳥も、猫もいない。犬の鳴き声さえ聞こえない。

 

 さっきまで資料の中で、あれほど何度も見たものが、今は一つもない。

 

「普通じゃないですか」

 

 自分で言ってから、また首を傾げる。

 

 夜で、霧があり、夕立のあとでもある。動物が見えないこと自体は、それほどおかしくない。

 

 それでも、何かがいる気がした。

 

「でも」

 

 千綴は前を見る。

 

「何かいる」

 

 直嗣の手がハンドルの位置を少し変えた。

 

「どこだ」

 

「分からない」

 

「数は」

 

「……それも」

 

 視界では捉えられない。

 

 けれど、どこかから見られているような感覚だけが、皮膚の内側へ薄くまとわりついてくる。

 

「停める」

 

 直嗣は道の端へ車を寄せた。

 

 エンジンを切る前に、胸元の無線へ手を伸ばす。

 

「朝倉。現在地を送る。昨日の事案と同様、動物を使った監視の可能性あり。これから周辺を確認する」

 

 短い応答が返った。

 

「近い車両をこっちへ回してくれ。公園の外周で待機。こちらから連絡するまでは入れるな」

 

 無線を戻し、直嗣が千綴を見る。

 

「降りるぞ」

 

「はい」

 

「俺より前へ出るな」

 

「分かってます」

 

 扉を開けた瞬間、湿った空気がまとわりついた。

 

 車内よりさらに重い。

 

 濡れた土と葉の匂い。雨水の残った側溝。その奥へ、わずかに獣のような臭いが混じっている。

 

 千綴は足を止めた。

 

「これ」

 

「分かるか」

 

「匂い」

 

 直嗣も周囲へ視線を走らせる。

 

「犬か」

 

「分からない」

 

 霧の中で何かが動いた。

 

 低い塀の上に、一瞬だけ黒い影が走る。

 

「今」

 

「ああ」

 

 直嗣も見ていた。

 

 影はすぐに消えた。

 

「猫?」

 

「違う気がする」

 

 今度は反対側だった。

 

 電線の上、白い霧の中に黒い点が一つ浮いている。

 

 カラス。

 

 少し離れた電線にも、屋根にもいる。気づけば何羽もの黒い影が、鳴きもせず、羽ばたきもせず、こちらを見ていた。

 

 千綴の背中へ汗が流れる。

 

「朝倉さん」

 

「見えてる」

 

 直嗣の声が低くなり、右手が腰へ下がった。

 

 まだ武器には触れていない。けれど、警戒の仕方は明らかに変わっている。

 

「戻るか」

 

 千綴は一瞬迷った。

 

 本来なら、ここで帰るべきなのだと思う。

 

 その時、道路脇の植え込みで別の影が動いた。

 

 小さなネズミが姿を見せ、そのさらに向こうには、首輪のない痩せた犬が一頭立っている。

 

 どちらも逃げない。

 

「……囲まれてる」

 

「まだだ」

 

 直嗣が否定する。

 

「配置を見ろ」

 

 言われて、千綴は改めて周囲を見る。

 

 カラス。犬。ネズミ。さっきの猫らしい影。

 

 どれも一定の距離を空け、ばらばらにいるようで、逃げも近づきもしない。

 

 そして、自分たちを中心にしているわけでもなかった。

 

「違う」

 

 千綴は道の奥を見る。

 

「私たちじゃない」

 

「何が」

 

「あの動物。こっちを見てるけど、中心は私たちじゃない」

 

 直嗣も同じ方向へ視線を向けた。

 

 霧の向こうで、道は細い遊歩道へ続いている。

 

「公園」

 

 千綴が言った。

 

「この先」

 

 直嗣はすぐには動かなかった。

 

 数秒、道と周囲の建物を見てから首を振る。

 

「車で回る」

 

「でも」

 

「徒歩で入る理由がない」

 

 正論だった。

 

 二人は一度車へ戻った。

 

 

 

 

 公園の入口近くへ回り込むまで、数分もかからなかった。

 

 それでも、その短い間に霧はさらに濃くなっていた。街灯が白い球のように浮かび、公園の看板も近づかなければ読めない。

 

 直嗣は車を止めると、もう一度無線を取った。

 

「入口到着。外周待機の車両は」

 

『あと数分です』

 

「了解。到着したら連絡しろ」

 

 通信を切っても、直嗣はすぐには車を降りなかった。

 

 エンジンを切ったまま周囲へ目を配り、公園の入口と霧の向こうを交互に確認する。千綴も窓の外を見たが、黒い影が時折動く以外、人の姿は見えない。

 

 数分もしないうちに無線が鳴った。

 

『到着しました。外周につきます』

 

 直嗣は応答する。

 

「了解。位置は共有したままにしろ。こちらが応答しなければ入れ」

 

 通信を切る。

 

 それから直嗣が先に車を降り、周囲を確認してから千綴へ合図した。

 

「ここからは俺の後ろ」

 

「はい」

 

「勝手に離れるな。何か感じても、先に言え」

 

「分かってます」

 

 念を押され、千綴は素直に返した。

 

 二人は公園へ入る。

 

 昨日までならどこにでもあると思えた、ごく普通の小さな公園だった。

 

 ベンチ。滑り台。ブランコ。低い植え込み。夕立で濡れた砂場。

 

 けれど霧の中では、どれも実際の距離より遠く感じられる。街灯の光は途中で白く滲み、奥までは届かなかった。

 

 足元の小さな水たまりを避けながら進むうち、千綴の呼吸が少しずつ浅くなる。

 

 ここは、自分が襲われた公園だった。

 

 湿った空気と人のいない夜、見通しの悪さまで重なると、考えるより先に身体の方があの日を思い出した。

 

 指が動かなかった。

 

 脚が動かなかった。

 

 息ができなかった。

 

 千綴は右手を握る。

 

 動く。

 

 今は大丈夫だ。

 

「弥生」

 

「大丈夫です」

 

「まだ何も聞いてない」

 

「……顔に出てました?」

 

「ああ」

 

 少しだけ恥ずかしくなったが、それでも足は止めなかった。

 

 公園の中央へ近づいた時、風もないのに頭上の枝が揺れた。

 

 千綴が顔を上げる。

 

 木の上にカラスがいた。

 

 一羽だけではない。枝を追って視線を動かすたびに黒い影が増えていき、数えるのをやめるほどの数が、鳴きもせず同じ方向を向いている。

 

 公園の奥。

 

「朝倉さん」

 

「ああ」

 

 今度は説明する必要がなかった。

 

 植え込みの下で犬が一頭身を起こし、その後ろでもう一頭が動く。地面近くには小さな影がいくつか走った。

 

 周囲の生き物が、まるで合図を待つように一つの場所へ意識を向けている。

 

 監視しているのではない。

 

 待っている。

 

「……いる」

 

 千綴の声が低くなる。

 

「どこだ」

 

「あそこ」

 

 公園の奥。

 

 遊具のさらに先、街灯の光が届かない場所に、人影が一つ立っていた。

 

 最初は木の影に見えた。

 

 それほど動かない。

 

 やがて濡れた地面を踏む音がして、人影が一歩、また一歩と霧の中から現れる。

 

 千綴の身体が先に思い出した。

 

 喉が狭くなり、胸が苦しくなる。手足の感覚が一瞬だけ遠のきそうになって、千綴は指先へ力を入れた。

 

 違う。

 

 今は動く。

 

 直嗣もいる。

 

 目の前の男は昨日も見た。

 

 丘平商店で、最後まで店に残っていた客。

 

 巴を動けなくした男。

 

 そして、あの公園で自分を襲った男。

 

 〈標本家〉。

 

 男は足を止めた。

 

 千綴を見て、次に直嗣を見て、それからまた千綴へ視線を戻す。

 

 笑いもしない。怒鳴りもしない。

 

 ただ、確かめるように眺めていた。

 

「……やはり」

 

 声は静かだった。

 

 ぞっとするほど、普通の声だった。

 

「来た」

 

 千綴の背中へ汗が流れる。

 

「待ってたの?」

 

 自分でも驚くほど、声は出た。

 

 男は僅かに首を傾ける。

 

「待つ?」

 

 言葉の意味を確かめるように繰り返した。

 

「違う」

 

 霧の中で一歩だけ前へ出る。

 

 同時に直嗣が半歩動き、千綴の前を塞いだ。

 

「探していた」

 

 男の視線は、直嗣を越えて千綴へ向いている。

 

 周囲で羽音が一つ鳴り、犬が低く唸った。植え込みの下でも小さな影が動く。

 

 そこで千綴は気づく。

 

 動物たちは、男のいる場所から外へ広がるように配置されている。

 

 そして、その全てがこちらへ向けられていた。

 

 直嗣の声が低く落ちる。

 

「〈標本家〉」

 

 男の眉が僅かに動いた。

 

「その呼び方は嫌いだ」

 

「知っている」

 

「なら、やめろ」

 

「断る」

 

 短いやり取りのあと、男の視線が直嗣の肩、腰、足へ順に移った。

 

 相手を測っている。

 

 昨日は、直嗣が現れた途端に逃げた。

 

 今は動物を周囲へ置き、逃げ道ではなくこちらを見ている。

 

 少なくとも、昨日と同じように逃げるつもりでここにいるようには見えなかった。

 

 男が再び千綴を見る。

 

「今度は」

 

 声に初めて僅かな熱が混じる。

 

「完成させる」

 

 胸の奥で、あの日の冷たさが蘇った。

 

 それでも千綴は目を逸らさない。

 

 直嗣の右手が、ゆっくり武器へ伸びる。

 

「弥生」

 

「はい」

 

「俺から離れるな」

 

「分かってます」

 

 霧の向こうで犬がもう一度唸った。

 

 〈標本家〉が片手を上げる。

 

 その瞬間、頭上の枝という枝で黒い翼が一斉に開いた。

 

 次の瞬間、公園を埋めるほどの羽音が降ってきた。

 

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