数秒待っても、少年から返事はなかった。
水のボトルを持ったまま、こちらを見ている。千綴が動けばまた距離を取るのではないかと思うと、それ以上近づけなかった。
通りを歩く人が、二人の間を横切っていく。少年の視線がそのたびにわずかに動き、すぐ千綴へ戻った。
「ちづる」
横から小さく呼ばれ、千綴は綾乃を見た。綾乃も少年を気にしているようだったが、先ほどからその場を動いていない。
少し先を歩いていたヴァシリオスとエレディトも、二人がついてこないことに気づいたらしい。ヴァシリオスが戻ってきた。
「どうした?」
「ちょっと……」
千綴は言いかけて、少年へ視線を戻した。
ヴァシリオスもその先へ目を向ける。少し離れたところに立つ少年を見て、千綴より少し前へ出たところで足を止めた。
〔大丈夫か?〕
少年の目がヴァシリオスへ向いた。
返事はすぐにはなかった。けれど、さっき千綴が声をかけたときとは違い、言葉は通じたらしい。
〔……大丈夫〕
小さな声だった。
ヴァシリオスが一度頷く。
〔迷子か?〕
少年は首を横へ振った。
〔誰かと一緒にいる?〕
もう一度、首が横へ動く。
千綴は少年の周りへ目を向けた。通りには人が多く、店先や歩道を行き交う姿が絶えない。けれど、少年へ声を掛けたり、こちらを気にして近づいてくる大人はいなかった。
いつの間にか、自分たち四人が少年の前へ集まる形になっていた。
これでは余計に警戒されても仕方がない。千綴は綾乃と目を合わせ、一歩だけ横へずれた。エレディトも何も言わず、通りを塞がない位置へ寄る。
少年は逃げなかった。
ただ、立っているだけでも疲れているのは分かった。服の乱れはさっき遠くから見た時より目につき、顔色もよくない。手にした水は半分ほど残っている。
ヴァシリオスも同じところを見たのか、少し声を落とした。
〔腹、減ってないか?〕
少年の視線がわずかに下がった。
それだけで返事はなかった。
「……疲れてそうだね」
綾乃が千綴の隣で呟く。
「うん」
千綴もそれ以上は言えなかった。
どうしてここにいるのか。どうして一人なのか。聞きたいことはいくつも浮かぶ。
けれど、今それを全部聞く相手には見えなかった。
ヴァシリオスが通りの先へ目を向けた。少し離れたところに、さっき通り過ぎたカフェがある。
〔あそこで少し休まないか?〕
少年はヴァシリオスの示した方を見た。
〔座って、何か食べよう。話はそれからでいい〕
少年の視線がカフェから戻る。
千綴たちを順に見たあと、また黙った。
ヴァシリオスも急かさなかった。
車の走る音が通りから聞こえ、すぐ近くを二人組が話しながら通り過ぎていく。千綴は少年が握ったままのボトルへ一度目を落とし、もう一度顔を見た。
〔嫌なら、無理にとは言わないよ〕
千綴が言うと、少年がこちらを見た。
自分の言葉がきちんと伝わったのか、一瞬だけ不安になる。
しばらくして、少年は小さく頷いた。
「じゃあ、行こう」
日本語でそう言ってから、千綴は先に歩き出すヴァシリオスの後ろへついた。
綾乃が隣に並ぶ。エレディトは少し遅れて歩き出した。
数歩進んで振り返る。
少年も来ていた。
近くまで寄るわけではなく、少し距離を空けたままついてくる。千綴はそれを確かめると、歩く速さを少し落とした。
カフェまではすぐだった。
扉を開けると、外の話し声と車の音が一段遠くなった。暖かい空気に混じってコーヒーの匂いがする。店内では何人かがテーブルを囲み、奥から食器の触れ合う音が聞こえた。
先に入ったヴァシリオスが人数を伝えると、店員が奥の空いている席を示した。
千綴たちがそちらへ向かう。
少年は入口で一度だけ足を止めた。
千綴も立ち止まりそうになったが、声は掛けずに待つ。
やがて少年は店の中へ入り、千綴たちのところまで歩いてきた。
肩から荷物を下ろして足元へ置く。持っていた水のボトルをテーブルの端へ置いてから、少年はゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
千綴も向かい側に座り、鞄を足元へ置いた。
ヴァシリオスがメニューを開き、少年にも見えるようにテーブルへ置く。綾乃が千綴の隣に座り、エレディトは通路側の椅子を引いた。
「何か食べられるといいんだけど」
綾乃が小声で言った。千綴も頷き、メニューへ目を落とす。文字はすぐには追えなかったが、ヴァシリオスは迷わず少年の方へ向き直った。
〔サンドイッチとか、どうだ? 食べられそうか?〕
少年はメニューを少し見つめてから、小さく頷いた。
〔飲み物は? 温かいものもあるぞ〕
〔……紅茶〕
〔分かった〕
ヴァシリオスは自分たちの分もまとめて注文した。店員がメニューを下げると、少年はまた手元へ視線を落とす。千綴の隣では、綾乃が膝の上で手を組み直していた。
カウンターから食器の音が聞こえ、窓の向こうを歩く人たちの姿がガラス越しに流れていく。外にいた時には気にならなかった店内の音が、席に座るとよく聞こえた。
先に運ばれてきた紅茶を、少年は両手で囲むようにした。湯気を見つめたまましばらく動かなかったが、少ししてカップを口元へ運んだ。
サンドイッチの皿が置かれると、少年は一度ヴァシリオスを見た。
〔遠慮しなくていいぞ。食べよう〕
そう言われて、ようやく手が伸びた。最初の一口は小さかった。けれど、飲み込んでからもう一度口に運ぶまで、それほど間は空かなかった。
千綴は自分のカップを持ち上げた。少年が食べているところをじっと見るのも落ち着かず、窓の外へ目を向ける。目の前を通り過ぎた人影が消えた頃、皿の上のサンドイッチは少し減っていた。
〔そういえば、まだ名前も聞いてなかったな〕
ヴァシリオスがカップを置いた。
〔俺はヴァシリオス。こっちは千綴と綾乃、それからエレディトだ〕
名前を呼ばれた綾乃が小さく手を振る。エレディトも少年に向かって軽く頷いた。
〔君は?〕
少年は食べかけのサンドイッチを皿へ戻し、四人の顔を順番に見た。
〔……エディ〕
〔エディか。よろしくな〕
ヴァシリオスが笑うと、エディは小さく頷いた。
エディがまた食べ始めるのを待って、ヴァシリオスが声をかけた。
〔エディは、この辺に住んでるのか?〕
〔……違う〕
〔どこから来た?〕
〔ロンドン〕
千綴は思わず顔を上げた。綾乃も隣で少し身を乗り出し、ヴァシリオスの方を見る。
「ロンドンって、イギリスの?」
「うん。そう言ってる」
ヴァシリオスが短く答え、またエディへ向き直った。
〔誰か大人と来たのか?〕
エディは首を横に振る。
〔一人で?〕
〔……うん〕
返事を聞いて、千綴はカップを持ったまま手を止めた。あの状態で一人で街を歩いていたことだけでも気になっていたのに、ロンドンから来たと聞くと、なおさら事情が分からない。
〔向こうでは、どこにいたんだ?〕
〔施設〕
〔施設?〕
〔……そこから出てきた〕
エディはそう言って、カップの縁へ目を落とした。ヴァシリオスが少し間を置く。
〔どうして出たんだ?〕
エディの指がカップの取っ手に触れ、離れた。
〔……一緒にいたくない人がいた〕
〔その人と、何かあったのか?〕
〔……分からない〕
エディは視線を上げないまま、もう一度口を開いた。
〔でも、一緒にいたくなかった〕
それきり口を閉じてしまったので、ヴァシリオスも続きを聞かなかった。千綴はエディの前に残ったサンドイッチを見た。話している間に手が止まっていたが、食べかけの分はまだ皿に載っている。
〔分かった。今はそれでいいよ〕
エディがほんの少し顔を上げる。ヴァシリオスは千綴たちへ向き直った。
「ロンドンの施設から出てきたみたいだ。向こうに会いたくない人がいたらしくて、詳しいことは本人もよく分からないって」
「……ちづる」
綾乃が小さな声で呼ぶ。千綴が振り向くと、綾乃はエディの方を一度見てから、ヴァシリオスへ目を向けた。
「中村くん、家の人に相談できないかな。私たちだけじゃ、どうしたらいいか……」
「うん。俺もそう思ってた」
ヴァシリオスは頷き、エディに向き直る。
〔エディ。俺の祖父の家がこの近くにあるんだ。家の人に相談してみてもいいか?〕
エディは千綴たちを見渡した。
〔そこへ行くの?〕
〔まだ決めてないよ。まず、休める場所がないか聞いてみる〕
しばらくして、エディが頷いた。ヴァシリオスは席を立ち、少し離れたところでスマートフォンを耳に当てた。
ギリシャ語の会話が小さく聞こえてくる。千綴には内容までは分からなかったが、最初に事情を説明しているらしいことは、ヴァシリオスの声の調子から何となく伝わってきた。
エディはまたサンドイッチへ手を伸ばしていた。向かいでエレディトが自分の飲み物を口に運び、綾乃もようやく椅子の背へ体を預ける。
「……少し食べられて、よかったね」
「うん」
千綴が答えると、綾乃は頷いた。エディは二人の会話を気にした様子もなく、手元の皿を見ている。
電話を終えたヴァシリオスが戻ってきた。
「ゲオルギオスに話した。迎えの車を回してくれるって。まず家に戻って、詳しいことは向こうで聞こうってさ」
「よかった。ありがとう」
「いや、俺たちだけで決められることでもないからな」
ヴァシリオスは椅子へ戻る前に、エディの顔が見える位置で少しかがんだ。
〔家に連絡したよ。車で迎えに来てくれる。そこで休めるけど、一緒に来るか?〕
エディはすぐには答えなかった。千綴はカップを置き、少年が口を開くのを待った。
〔……行ってもいい?〕
〔もちろん〕
ヴァシリオスの返事を聞いて、エディは小さく頷いた。
迎えを待つあいだ、エディは残っていたサンドイッチをゆっくりと食べ、紅茶も少しずつ飲んだ。千綴も冷めかけた飲み物を口にしながら、ときおり向かいの席へ目を向ける。エディが食べ終えても、誰も急いで席を立とうとはしなかった。
窓際に座っていた二人組が帰り、店員が空いたテーブルを片付けていく。しばらくして入ってきた客がその席へ案内され、また新しい会話が始まった。千綴はカップの底に残った飲み物を飲み干し、窓の外へ目を向けた。
そのとき、ヴァシリオスのスマートフォンが短く震えた。
「着いたって。行こうか」
ヴァシリオスが席を立つと、エディも空になったカップをテーブルへ置き、足元の荷物を持ち上げた。テーブルの端に置いていた水のボトルも手に取り、千綴たちの後ろへ続く。
店の扉が開くと、車の音と人の話し声が再び近くなった。千綴は先に外へ出た綾乃の隣へ並び、少し後ろを歩くエディを振り返る。
少年は通りへ一度目を向けたあと、ヴァシリオスの待つ車へ歩いていった。
全員が乗り込むとドアが閉まり、窓の向こうの人波がゆっくりと動き出した。千綴の斜め前で、エディは流れていく街並みを見つめていた。
窓の外に並んでいた店の看板が減り、道沿いに木々が増えてきた。車は静かな住宅街へ入り、何度か角を曲がっていく。
やがて車は門を抜け、玄関へ向かう道に入った。
斜め前の席で、エディが窓の外へ目を向けた。木々の向こうに大きな建物が見えてくると、少し身を乗り出した。
〔もうすぐ着くぞ〕
ヴァシリオスが声をかける。エディは一度彼を見て、小さく頷いた。
車が正面玄関の前で止まった。先に降りたヴァシリオスが扉の脇へ回り、エディが外へ出るのを待つ。エディは荷物を手にしたまま建物を見上げ、少し遅れて車から降りた。
外の空気は、カフェへ入る前より冷たく感じた。千綴が上着の前を押さえたところで、玄関からゲオルギオスが姿を見せた。
〔お帰りなさいませ〕
〔迎え、ありがとう〕
ヴァシリオスが答えると、ゲオルギオスは軽く頭を下げた。その視線がエディへ移る。荷物を持ち替えた少年を見てから、少し横へ寄って玄関への道を空けた。
〔中へどうぞ。皆さま、お待ちしております〕
千綴たちはその後について玄関へ向かった。エディはヴァシリオスの少し後ろを歩いている。千綴が振り返ると、少年の目が一瞬こちらへ向いたが、すぐに足元へ戻った。
広い玄関ホールへ入ると、外の風が遠のいた。奥の方から近づいてきたのはディミトリオスだった。ヴァシリオスと短くギリシャ語を交わしたあと、千綴たちへ目を向ける。
「お帰りなさい。何か、あったと聞きました」
「はい。急に戻ることになってしまって、すみません」
千綴が答えると、ディミトリオスは首を横に振った。
「気にしなくて、いいですよ」
それからエディの方へ向き直り、少し腰をかがめた。
〔こんにちは。私はディミトリオスです。ここは私の家ですよ〕
エディはすぐには返事をせず、ヴァシリオスを見た。ヴァシリオスが頷くと、ようやく小さな声で挨拶を返した。
ディミトリオスはそれ以上問いかけず、廊下の方を手で示した。通されたのは、低いテーブルを囲んでソファが並ぶ部屋だった。窓の向こうには庭が見え、暖房の効いた室内は上着を着たままだと少し暖かすぎるくらいだった。
ヴァシリオスがエディに席を勧める。少年はソファの端へ腰を下ろし、荷物を足元へ置いた。千綴は綾乃と並んで向かいに座る。
飲み物が運ばれてくるあいだに、ヴァシリオスがカフェで聞いた話を伝え始めた。ロンドンから一人で来たこと。向こうにいた施設を出てきたこと。途中、エディにも確かめながら話していたが、少年は短く頷くことが多かった。
ゲオルギオスは話を聞きながら、一度だけ手元のメモへ目を落とした。ディミトリオスも相槌を打ったあと、エディの顔を見た。
〔今、痛いところや、具合の悪いところはありませんか?〕
〔……大丈夫〕
エディはそう答えたものの、背もたれに体を預けると、少し肩が下がった。千綴にはそれが、立っている時よりも疲れて見えた。
ゲオルギオスが何か言いかけたところで、廊下から足音が近づいてきた。
「あら、帰ってきたのね」
扉のところに立っていたのは、ヴァシリオスの祖母だった。千綴たちを見て笑いかけたが、ソファに座るエディに気づくと、表情が変わった。
「……あら。この子?」
「そう。さっき聞いた子だよ」
ヴァシリオスが言う。祖母はエディの顔を覗き込むようにして、少し眉を寄せた。
「ずいぶん疲れてるじゃない。ちゃんと休めてるの?」
「カフェで少し食べてきた。今、じいちゃんたちと話してたところ」
「話は後でもできるでしょ。まず休ませてあげないと」
祖母はそう言って、エディから少し離れた椅子へ腰を下ろした。いきなり手を伸ばすことはせず、笑顔を向けてからヴァシリオスを見る。
「この子、エディくんっていうのね?」
「うん」
「そう。じゃあ、ここではゆっくりしてもらいましょ」
「ばあちゃん、まだ詳しいことが分からないんだよ」
「だからって、疲れてる子をいつまでも座らせておくことないでしょ」
返事が早かった。ヴァシリオスが何か言おうとして口を開き、結局小さく笑う。
ディミトリオスも祖母の方を見て、静かに頷いた。
「そうですね。まず、休んでもらいましょう。必要なことは……あとで、確認します」
ゲオルギオスが立ち上がった。ディミトリオスと短く言葉を交わしたあと、エディへ向き直る。
〔休める部屋を用意します。温かいお風呂も使えますが、どうですか?〕
エディは少し考えるようにして、ヴァシリオスへ目を向けた。
〔大丈夫だよ。嫌なら、今すぐ入らなくてもいい〕
〔……入りたい〕
〔分かった〕
ゲオルギオスが頷き、部屋とタオルの用意を頼みに廊下へ出ていった。
「着替えもいるわね。何か合いそうな服、あったかしら」
「俺のならあるけど、ちょっと大きいぞ」
「それは見れば分かるわよ」
祖母が言うと、綾乃が思わず口元を押さえた。ヴァシリオスも笑いながら肩をすくめる。
「一応言ってみただけだって」
「足りなかったら後で考えましょ。まずは着替えられればいいんだから」
祖母は立ち上がりかけて、エディの前に置かれたカップへ目を向けた。
「お腹は? 何か温かいもの、まだ食べられる?」
「ばあちゃん、食べてきたって言っただろ」
「あとでお腹が空くかもしれないじゃない」
エディには二人の日本語が分からないのか、交互に顔を見ていた。ヴァシリオスがその様子に気づいて、短く英語で説明する。
〔食べ物も用意してくれるって。今すぐじゃなくていいからな〕
エディは祖母の方を見て、ためらいがちに頷いた。祖母も頷き返すと、今度こそ部屋を出ていった。
その後ろ姿を見送ってから、千綴は自分の膝の上へ目を落とした。カフェで名前を聞いてからまだそれほど経っていないのに、エディのために部屋を整え、湯を用意し、着替えを探す人たちが動いている。ついさっきまで街の中で一人だった少年が、今は暖かな部屋のソファに座っていた。
少ししてゲオルギオスが戻り、準備ができたと告げた。エディは荷物を抱えて立ち上がる。ヴァシリオスも一緒に立ち、行き先を英語で伝えながら扉へ向かった。
出口の手前で、エディが振り返った。
〔……ありがとう〕
誰に向けた言葉なのかは分からなかった。千綴が頷くと、エディも小さく頭を下げ、ヴァシリオスの後ろについていった。
部屋に残った千綴は、二人の足音が遠ざかるのを聞いていた。ソファの端には、エディが座っていた時にできた小さなくぼみが残っている。
ロンドンの施設から一人で出てきたという話が、ふと頭に戻ってきた。千綴が知っている施設とは関係がないのかもしれない。それでも、日本で見かけた少年とこうして再会した以上、何もなかったことにはできない。
朝倉さんに、一度連絡してみようか。
千綴は鞄の中に入れたスマートフォンへ目を向けた。
千綴は鞄からスマートフォンを取り出した。画面を開き、直嗣とのメッセージを表示する。最後に並んでいたのは、ギリシャへ出発する前に交わした短いやり取りだった。
千綴は少し迷ってから、メッセージの入力欄を開いた。
文章を打ちかけ、途中で指を止めた。日本で見かけたことと、ヴァシリオスから聞いたエディの話。今分かっているのは、そのくらいだ。
『ギリシャのアテネで、以前検査の時に施設で見かけた少年に会いました。名前はエディというそうです。今は友人の祖父母の家で休んでいます。少し相談したいことがあります。お時間のあるときに連絡をいただけますか』
読み返してから送信し、スマートフォンをテーブルへ置いた。綾乃たちの話に耳を傾けていると、しばらくしてスマートフォンが短く震えた。
画面には直嗣からの着信が表示されていた。千綴がスマートフォンを手に立ち上がると、隣の綾乃が顔を上げた。
「ちづる、どうしたの?」
「ちょっと連絡が来たから、席外すね」
「うん。分かった」
千綴は部屋を出て、廊下を少し進んだ。足元の絨毯が靴音を吸い、奥の方から食器を片付ける小さな音が聞こえる。壁際の窓には、暗くなり始めた庭が映っていた。
窓の近くで立ち止まり、電話に出た。
「もしもし、朝倉さん」
『千綴か。メッセージを見た。今、話せるか』
「はい、大丈夫です。お忙しいところ、すみません」
『構わない。まず、今いる場所は安全なんだな』
「はい。ヴァシリオスの祖父母の家です。家の方も事情を聞いてくださって、エディの部屋やお風呂も用意してもらいました」
『本人の様子は?』
「疲れているみたいです。街で会った時は顔色もよくなかったんですけど、カフェで食事は取れました。今は休む準備をしてもらっています」
『怪我はしていないか』
「見たところ、大きな怪我はなさそうです。ただ、ちゃんと診てもらったわけではありません」
『分かった。そこは大人の方にも気にかけてもらってくれ』
「はい」
千綴は窓へ目を向けた。庭の向こうでは、建物の明かりが一つずつ目立つようになっていた。
『以前は、その少年と話したことがあったのか』
「いえ。検査の時は廊下の向こうから見ただけです。沖縄でも見かけたんですけど、話したのは今日が初めてで」
『それで、本人からは何を聞いた』
「ロンドンから一人で来たそうです。向こうでは施設にいたみたいですけど、そこを出てきたそうで……」
『施設の名前は分かるか』
「そこまでは、聞いていません」
『そうか。無理に聞き出す必要はない。それで、出てきた理由は?』
「施設に会いたくない人がいたみたいなんです。ヴァシリオスが聞いてくれたんですけど、詳しいことは本人にもよく分からないらしくて……」
電話の向こうが少し静かになった。千綴はスマートフォンを耳へ押し当て直す。
『分かった。ロンドン側のことは、こちらで確認してみる。ただ、その子がいた場所も事情も、今の話だけではまだ分からない』
「はい」
『確認には少し時間がかかるかもしれない。本人が休めるなら、まずは休ませてやってくれ。何か変わったことがあれば連絡してほしい』
「分かりました。あの……」
『どうした』
「エディは、施設へ戻ることになるんでしょうか」
『今すぐ決めなくていい。少なくとも、事情が分からないまま戻す話はしない。家の方にも、今後のことは確認してから考えると伝えてくれ』
千綴は肩の力を少し抜いた。
「ありがとうございます。伝えます」
『千綴も一人で抱え込むな。そちらには大人がいるんだろう』
「はい。みなさん、よくしてくださっています」
『なら、頼っていい。何か分かれば連絡する』
「はい。よろしくお願いします」
通話が終わっても、千綴はすぐには動かなかった。画面が暗くなるのを見てからスマートフォンを下ろし、廊下の奥へ目を向ける。さっきよりも食器の音は遠くなっていた。
部屋へ戻ると、ヴァシリオスも帰ってきていた。綾乃はソファに座り、エレディトと何か話していたらしい。千綴が入ると、二人ともこちらを見た。
「おかえり。連絡できた?」
「うん。電話もできたよ」
千綴が綾乃の隣へ腰を下ろすと、エレディトが口を開いた。
「朝倉さんですか?」
「うん、朝倉さん」
「え、誰?」
綾乃が二人を交互に見た。
「あ、そうか。綾乃には話してなかったね。前に事件に巻き込まれた時、私を助けてくれた人だよ。警察の関係の方で、そのあともいろいろ相談に乗ってもらってるの」
「そうだったんだ。……エレディトくんも知ってるの?」
「はい。以前、お世話になりました」
エレディトはそれだけ答えた。綾乃は納得したように頷いたが、今度は少し首を傾げた。
「でも、その人は日本の警察の人なんだよね? ロンドンから来たエディくんのこと、何か分かるの?」
「うん。修学旅行より前、警察の人にお世話になったときにエディを見かけたことがあって。それで、何か分かるかなって」
「そうだったんだ」
「まだ分からないけど、朝倉さんも調べてくれるって」
綾乃は小さく頷いた。
それまで黙って聞いていたヴァシリオスが、ソファの背から身体を起こした。
「じいちゃんたちにも伝えておくよ。調べてくれる人がいるなら、その方が話は早いかもしれないし」
「うん、お願い。あと、朝倉さんも今すぐ何か決めなくていいって。まずはエディに休んでもらおうって言ってた」
「それなら、ばあちゃんと同じだな」
ヴァシリオスが少し笑った。
「ほんとだね」
綾乃も笑い、ソファの背にもたれた。千綴はテーブルに置かれていた飲み物へ手を伸ばす。カップはまだほんのり温かかった。
廊下から足音が聞こえたのは、それから少ししてのことだった。
「あら、みんないたのね」
祖母の声に続いて、ゲオルギオスに案内されてきたエディが姿を見せた。さっきまでの乱れた服ではなく、清潔なシャツとズボンに着替えている。袖は少し長いらしく、指先を出すように何度か引き上げていた。
「ほら、やっぱり少し大きかったでしょ」
「俺の服なんだから仕方ないだろ」
「別に怒ってないわよ。着られるものがあってよかったって話」
祖母が笑って答える。ヴァシリオスも言い返すのをやめて、エディの方を向いた。
〔どうだ? きついところはないか?〕
〔……大丈夫〕
〔ならよかった〕
エディの髪はまだ少し湿っていて、額に細い束が落ちていた。洗い立ての服の裾を指でつまみ、近くの椅子へ目を向けている。顔はさっきよりきれいになっていたが、立ったままの姿勢にはまだ疲れが残っているようだった。
祖母はその視線を追うと、エディへ笑いかけた。
「もう今日は休んだ方がいいわね」
日本語だったが、ヴァシリオスがすぐに言葉を添えた。
〔今日はもう休もう。部屋へ案内するよ〕
エディが頷く。千綴たちも立ち上がり、出口へ向かう少年を見送った。
〔エディ、おやすみ〕
千綴が声をかけると、エディは足を止めて振り返った。
〔……おやすみ〕
小さな返事を残し、エディはヴァシリオスたちについて廊下へ出ていった。
扉の向こうで足音がゆっくり遠ざかる。千綴は手にしたカップをテーブルへ戻した。今夜はもう、誰もあの子を急がせなくていい。そう思いながら、誰もいなくなった扉の方をもう一度見た。
窓ガラスを細い雨が伝っていた。
ロンドンの施設の応接室で、天原は机の上の書類をめくった。向かいに座る責任者は、先ほどから背筋を伸ばしたまま、ほとんど姿勢を変えていない。
〔エディの姿が消えたと分かったのは、昨日ですか〕
〔はい。部屋に戻っておらず、施設内を捜しましたが、見つかりませんでした〕
天原は書類の一枚へ目を落とした。最後に姿を確認した場所と、その後に職員が調べた場所が並んでいる。ページをめくると、同じ廊下や部屋の名前が何度か出てきた。
〔外へ出た経路は分かっていますか〕
〔いいえ。出入りの記録も確認していますが、まだ経路を特定できておりません〕
〔そうですか〕
天原は短く返して、書類を机へ戻した。
責任者が身を乗り出す。
〔大変申し訳ありません。我々の管理が行き届かず、このような事態に……〕
責任者が深く頭を下げた。天原は開いたままの書類を指先で揃え、相手が顔を上げるのを待った。
〔捜索は続けているんですよね〕
〔もちろんです。関係する記録も、引き続き調べております〕
〔では、何か分かれば教えてください〕
責任者はすぐに頷いた。隣に控えていた職員も、手にしていたメモへ何か書き込む。
〔本日は、直接お会いいただく予定でしたが……〕
〔本人がいないのなら、今日はここまでにしましょう〕
天原は立ち上がった。
責任者も慌てて腰を上げ、扉の方へ回った。廊下へ出ると、換気装置の低い音が聞こえた。壁に沿って並ぶ照明は白く、窓の外は雨のせいで薄暗い。
職員が先に歩き、出入口まで案内した。途中で何度か謝罪の言葉を聞いたが、天原はそのたびに軽く頷いただけだった。
外へ出ると、雨はまだ細かく降っていた。車寄せには黒い車が停まり、そばで待っていた男が天原を見て姿勢を正した。
施設の職員が扉を閉めるのを待ってから、男が近づいてくる。
〔いかがでしたか〕
〔いませんでした〕
〔そうですか。施設側で捜索を?〕
〔しているそうです。ただ、どこへ行ったのかは分からないようですね〕
男は一度だけ建物へ目を向けた。濡れた石畳の上に、玄関の明かりがぼんやり映っている。
〔では、こちらからも探しますか〕
〔ええ。二人ほど付けておいてください〕
天原がそう言うと、男は上着の内側から端末を取り出した。
〔所在の確認が優先ですか〕
〔まずはそれで。見つけて、連れてこられそうなら連れてきてもらいましょう〕
〔難しい場合は?〕
〔深追いは不要です。無理をするほどのことではありませんから〕
〔承知しました〕
男は端末を操作し、少し離れたところで電話をかけ始めた。天原は車の扉を開け、先に後部座席へ乗り込んだ。
窓には雨粒がいくつも残っている。外の男が短く何かを告げ、相手の返事を待つ間、天原は膝の上へ置いた鞄から別の書類を取り出した。
ほどなくして男が電話を終え、車へ戻ってきた。
〔二人とも、すぐに動けるそうです〕
〔お願いします〕
それだけ答えて、天原は書類の続きを開いた。
ドアが閉まり、車がゆっくりと走り出す。窓の向こうでは、雨に濡れた施設の門が少しずつ遠ざかっていった。