空の結び目   作:夕花

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 廊下の窓から、庭に朝の光が落ちていた。

 

 千綴は窓の前を通り過ぎ、扉の一つの前で足を止めた。朝食にはまだ少し間がある。先に本館へ向かうこともできたが、その前にエディの様子を確かめておきたかった。

 

 昨夜、風呂から上がったエディは、まだ少し疲れた顔をしていた。ヴァシリオスたちに付き添われて部屋へ向かうのを見送ったあと、千綴自身も長く起きてはいなかった。あの子は、ちゃんと休めただろうか。

 

 扉へ手を伸ばしかけて、少し迷う。まだ眠っているなら、わざわざ起こすことはない。返事がなければ、そのまま戻ろう。

 

 千綴は控えめに扉を叩いた。

 

〔エディ。千綴だけど、起きてる?〕

 

 返事はすぐにはなかった。千綴がもう一度呼ぼうか考えたところで、向こうから声が聞こえた。

 

〔……起きてる〕

 

〔そっか。おはよう〕

 

 扉の向こうでかすかに物音がし、それから扉がゆっくり開いた。

 

 姿を見せたエディは、千綴を見上げたまま立っていた。昨日は額に張りつくように落ちていた髪も、今はすっかり乾いている。近くで見ると顔にはまだ疲れが残っていたが、街で出会った時のように、今にも膝を折りそうな様子ではなかった。

 

〔……おはよう〕

 

 千綴は少し腰をかがめ、目線を合わせた。

 

〔昨日は眠れた?〕

 

〔……うん〕

 

 もう一つ尋ねようとして、千綴は少し口を閉じた。具合はどうか、と聞きたかったが、言い方がすぐには出てこない。頭の中で言葉を探し、知っている表現に置き換えた。

 

〔痛いところは、ない?〕

 

〔大丈夫〕

 

 昨日も、何度か聞いた返事だった。

 

 それだけで本当に何ともないとは分からない。けれど、今のエディは声をかけられるたびに周囲を探すような動きはせず、千綴の顔を見て答えている。千綴はそれ以上問いを重ねず、頷いた。

 

〔それならよかった〕

 

 エディの視線が、千綴の肩越しに廊下へ移った。何かを探しているのかと思ったが、すぐには言葉が続かない。千綴も振り返ってみる。窓から差し込む光の先に、静かな廊下が続いていた。

 

 千綴が向き直ると、エディはまだ扉のそばにいた。

 

 そろそろ朝食の時間だ。千綴は食堂のある本館の方へ目を向けてから、エディへ声をかけた。

 

〔朝ご飯、食べに行かない?〕

 

〔……朝ご飯〕

 

〔うん。みんなもいるよ〕

 

 もっと説明した方がいいだろうか。千綴が迷っていると、エディは彼女の顔を見て頷いた。

 

〔……行く〕

 

〔じゃあ、行こうか〕

 

 千綴が横へ退くと、エディは扉を閉めて廊下へ出た。足音が二つ、ゆっくりと重なる。

 

 歩き始めたのはいいものの、エディは千綴の少し後ろにいた。廊下の先へ目を向けては、千綴との距離を確かめるように顔を上げる。千綴が速度を緩めると、エディも足を止めかけた。

 

 千綴は立ち止まり、彼の方へ手を差し出した。

 

〔……手、繋ぐ?〕

 

 エディは差し出された手を見た。すぐには動かず、千綴の顔へ視線を上げる。

 

 千綴は手を引かずに待った。無理に握らせるつもりはない。いらなければ、ただ並んで歩けばいい。

 

 やがてエディの指が伸び、千綴の手にそっと触れた。掌を合わせると、小さな手が遠慮がちに握り返してくる。

 

〔行こう〕

 

 今度は、エディも隣へ並んだ。

 

 庭へ出ると、空気は廊下よりずっと冷たかった。千綴は上着の襟元に顎を寄せる。手入れされた木々の間から本館の壁が見え、細い道には朝の光と枝の影がまだらに落ちていた。

 

 エディの歩幅は小さい。千綴は足元を見ながら、いつもより少しゆっくり歩いた。隣の手が一度だけ動いたので目を向けると、エディは道の先の本館を見上げていた。

 

〔あそこで食べるんだよ〕

 

 千綴が建物の方を示すと、エディは頷いた。

 

 昨日、車を降りて本館の玄関へ向かったときは、エディがちゃんとついてきているか、そればかり気にしていた。今はその子が隣にいて、歩く速さを合わせられる。

 

 そのことに気づいて、千綴はもう一度、繋いだ手へ目を落とした。

 

 握る指にはまだ力が入っている。それでも、離れようとはしていない。

 

 本館の入口が近づく。中から扉の開く音と、誰かの話し声がかすかに聞こえてきた。エディが顔を上げたので、千綴もそちらを見る。

 

〔着いたよ〕

 

 声をかけると、エディは繋いだ手をそのままに、小さく頷いた。

 

 

 

 

 本館へ入ると、外の冷たさがゆっくりと遠のいた。千綴は上着の前を直しながら廊下を進む。隣のエディはまだ手を繋いだままだったが、食堂の入口が見えると歩調を緩めた。

 

 中からヴァシリオスの声がする。

 

「エレディト、蜂蜜取ってくれるか?」

 

「はい、どうぞ」

 

「ありがとう。綾乃も使う?」

 

「私はあとで。……中村くん、それ結構かけるね」

 

「ここの蜂蜜、うまいんだよ」

 

 千綴が入口から顔を覗かせると、ヴァシリオスがヨーグルトの器を前に蜂蜜の瓶を持っていた。その隣にエレディトもいる。綾乃は向かいで笑っていた。少し離れた席ではディミトリオスがカップを手にしている。テーブルにはパンや卵料理、果物の皿も並んでいた。

 

「おはよう」

 

「あ、ちづる。おはよう」

 

 綾乃は笑って手を振り、続けてエディにも顔を向けた。

 

〔おはよう、エディくん〕

 

〔……おはよう〕

 

 ヴァシリオスは蜂蜜の瓶を置くと、椅子から身を起こした。

 

〔おはよう、エディ〕

 

〔……おはよう〕

 

〔みんなもう食べ始めてるぞ〕

 

 千綴が空いた席を示すと、エディはそこで手を離した。椅子に座ってからもしばらく皿を見ていたので、千綴は隣へ腰を下ろす前に、パンの籠を近くへ寄せた。

 

「エディくん、昨日よりは元気そう?」

 

「うん。眠れたって言ってたよ。まだ少し疲れてるみたいだけど」

 

「そっか。朝ご飯も食べられるといいね」

 

 綾乃はエディの皿をちらりと見てから、自分のカップを持ち上げた。

 

 間もなく祖母が食堂に入ってきた。千綴たちへ挨拶してから、エディの椅子のそばで足を止める。

 

〔おはよう、エディ。お腹は空いた?〕

 

 エディが頷くと、祖母は嬉しそうに笑った。

 

〔じゃあ、好きなものを取ってね。足りなければ持ってくるから〕

 

 祖母がパンの籠を指し示すと、エディはそこを見て頷いた。

 

「何か欲しいものがあったら、遠慮せず言ってね。ちづるちゃんも」

 

「はい、ありがとうございます」

 

 祖母は満足そうに笑って席へ着いた。ヴァシリオスがエディの皿へ料理を取るよう勧め、自分も卵料理を取り分ける。エディはその手元を見てから、パンに手を伸ばした。

 

 千綴もパンをちぎり、口へ運んだ。焼きたての温かさが残っている。向かいではヴァシリオスがヨーグルトを混ぜ、綾乃はエレディトから受け取った果物の皿を千綴の方へ回してくれた。

 

 朝食が進んだところで、千綴のポケットが短く震えた。スマートフォンを取り出すと、画面には朝倉直嗣の名前が表示されていた。

 

「ごめん、ちょっと確認していい?」

 

 千綴はパンを皿に戻し、通知を開いた。昨日の件で照会が進んだこと、少年の身元が確認できたこと。その下にも何行か続いている。読み終えてから、千綴は念のため一度上へ戻った。

 

「朝倉さんから、エディのことで連絡が来た」

 

「何か分かったのか?」

 

 ヴァシリオスがパンを置いた。千綴は画面を見ながら答える。

 

「身元は確認できたって。ロンドンの施設でも、エディがいなくなったことに気づいて、捜してるそうだよ」

 

「そうか……見つかったことは、向こうも知ってるのかな」

 

「うん。今は連絡を取り合ってくれてるみたい」

 

 エディが二人の声に顔を向けた。千綴は一旦口を閉じる。名前が聞こえたからかもしれないが、日本語で話を続けても、少年には伝わらない。

 

「それで、今後はどうなるの?」

 

 綾乃が尋ねる。千綴は画面の下の方を確かめた。

 

「迎えに来る人を手配してるって。日本からロンドンへ行くとき、エディに付き添ってた保護担当の人が来るらしいよ」

 

「エディも知ってる人なんだな?」

 

「うん。迎えは今のところ、その人一人の予定だって」

 

 ヴァシリオスは頷いたものの、すぐには答えなかった。エディの方へ椅子を向け直すと、声を落として話し始める。

 

〔日本からロンドンへ一緒に行った人、覚えてるか?〕

 

〔……覚えてる〕

 

〔今のところ、その人が一人で迎えに来る予定なんだ〕

 

 千綴は二人のやり取りに耳を澄ませた。最初の問いかけは分かったが、続きはところどころしか追えない。それでも、エディがパンを持ったまま動かなくなったのが見えた。

 

〔……その人が?〕

 

〔そう聞いてる。でも、まだ来る日は決まってないよ〕

 

 エディは返事をせず、持っていたパンを皿へ戻した。千綴はスマートフォンを伏せかけた手を止める。知っている相手だとしても、会いたいかどうかまでは分からない。

 

「迎えのことも、今伝えたよ」

 

 ヴァシリオスが千綴たちへ短く説明した。綾乃はエディを見てから、何も言わずにカップへ手を伸ばした。

 

 千綴はディミトリオスの方を向いた。

 

「あの、お家の方にも連絡が行っているそうなんですが……」

 

「はい。こちらにも、知らせがありました」

 

 ディミトリオスはカップを置いた。続けて祖母へ何か短く話しかけると、祖母はエディの方へ向き直る。

 

〔迎えの人が来るまでは、ここでゆっくりしていていいのよ。急ぐことはないからね〕

 

 エディは皿へ目を落としたままだったが、しばらくして祖母へ顔を上げた。

 

〔……ありがとう〕

 

 祖母は笑って、エディの手が届く場所へ果物の皿を寄せた。ヴァシリオスも何事もなかったように自分のパンを手に取る。エディは二人を見てから、皿に置いたパンをまた持ち上げた。

 

 千綴は短くお礼を打ち、スマートフォンを伏せた。迎えの話が進んだことには、ほっとした。けれど、エディがその人と帰りたいのかは、まだ聞いていない。

 

 千綴は隣へ顔を向けかけたが、エディがまたパンを食べ始めたのを見て、そのまま自分のカップを取った。向かいでは、綾乃がエレディトへ果物の皿を回していた。

 

 ヴァシリオスが千綴たちに目を向けた。

 

「今日は、ここでのんびりしようか。昨日はずいぶん歩いたしな」

 

「うん。そうだね」

 

 綾乃が答えると、エレディトも頷いた。

 

 エディが隣でカップを持ち上げる。受け皿へ触れた音が小さく鳴り、千綴は顔を向けた。さっき止まっていた手は、もう動いていた。

 

 

 

 

 朝食のあと、千綴たちは別館へ戻った。庭を渡る間、ヴァシリオスはエディの歩く速さに合わせて隣を進み、時々何か話しかけている。エディの返事は短かったが、朝食の席より顔を上げる回数が増えた気がした。

 

 別館の廊下へ入ると、綾乃が奥を指さした。

 

「そういえば、この前の遊戯室、また行かない? エディくんも遊べそうなもの、あるんじゃない?」

 

「ああ、いいな。棚にカードもあったはずだ」

 

 ヴァシリオスが少年へ向き直った。

 

〔この奥に遊べる部屋があるんだ。見に行くか?〕

 

 エディは廊下の先を見てから、頷いた。

 

 ヴァシリオスが扉を開けると、初日の夜に皆で遊んだ緑色のビリヤード台が目に入った。壁にはあの時使ったダーツの的、反対側には箱を重ねた棚と丸いテーブルがある。あの夜はダーツとビリヤードで遊んだので、棚のゲームには手をつけていなかった。

 

「あ、これまだあるんだ」

 

 ヴァシリオスは棚の箱を幾つか引き出し、角が擦れた一つを手に取った。

 

「昔、よくここで遊んでたの?」

 

「うん。負けるともう一回って言い出して、よくじいちゃんに止められた」

 

「中村くんにもそんな時期あったんだ」

 

「今だってあるぞ」

 

「そこは成長してよ」

 

 綾乃が笑う。千綴はヴァシリオスの持った箱を覗き込んだ。

 

「その箱、どんなゲーム?」

 

「メモリーってやつ。神経衰弱だよ」

 

「ああ、それなら知ってる」

 

 ヴァシリオスが蓋を開けると、動物の絵が描かれた正方形のカードが出てきた。角が少し丸くなった厚紙で、ウサギやリスなど、同じ絵が二枚ずつ入っている。千綴は丸いテーブルを見た。あそこなら、皆で囲んでカードを広げられそうだ。綾乃が椅子を寄せ、エレディトも向かいに座った。エディは皆の手元を見ていたが、まだ席には着かない。

 

 ヴァシリオスはカードをエディにも見えるように持ち上げた。

 

〔メモリーって知ってるか?〕

 

〔……うん〕

 

〔よし。じゃあ一緒にやろう。最初は見てるだけでもいいぞ〕

 

 ヴァシリオスが空いた椅子を引いた。エディは一度部屋を見回してから、そこへ腰を下ろす。

 

「じゃあ、並べるね」

 

 綾乃がカードを裏向きに並べ始めた。千綴も端を揃えるのを手伝う。動物の絵が隠れ、同じ模様の裏面ばかりが四角い列になっていく。最後の一枚を置くと、綾乃は両手を引っ込めた。

 

「誰から始める?」

 

「千綴、先にどうぞ。そこから順番に行こう」

 

「私?」

 

「迷ってるなら俺が行くぞ」

 

「いや、やる。どうせ最初は勘だし」

 

 手前の一枚を返す。ウサギの絵だった。続けて端のカードに指を伸ばすと、今度はキツネが出た。

 

「あ、外れた」

 

「最初はそんなもんだって」

 

 ヴァシリオスは笑いながら次の二枚をめくり、こちらも外した。

 

「ヴァシリオスもじゃん」

 

「俺のは場所を覚えるためだから」

 

「今の後付けでしょ」

 

 綾乃に言われ、ヴァシリオスが肩をすくめる。エレディトは伏せたカードを眺めたままだ。

 

「エレディト、今の覚えた?」

 

「ええ。二枚とも」

 

「頼りになるな」

 

「まだ四枚しか見ていませんよ」

 

 千綴が吹き出すと、エレディトは少し不思議そうにこちらを見た。

 

 順番が回り、綾乃が同じ鳥の絵を二枚揃えた。

 

「やった。もう一回だね」

 

 続けてめくった二枚は違う動物だった。綾乃がカードを伏せ直すと、エディはその場所を確かめるように見つめ、それから自分の前の一列に目を移した。

 

〔やってみるか?〕

 

 ヴァシリオスが尋ねると、エディは手を伸ばした。一枚目はリス。二枚目は違う動物だった。

 

〔惜しいな〕

 

 エディは二枚を元の場所へ戻し、またテーブルを見つめた。ヴァシリオスは特に何も言わず、エレディトの方へ顔を向ける。

 

 エレディトは迷わず同じ絵を二枚めくって揃えた。続けてもう二枚選んだが、今度は違う動物が出て、静かに裏返した。

 

「おお、さすが」

 

 ヴァシリオスが身を乗り出す。

 

「一度見たところだったので」

 

「それができないんだって」

 

 千綴が言うと、エレディトは並んだカードへもう一度目を向けた。

 

 次に千綴の番が回った。ひとつ前に見た動物の絵があった場所を覚えたつもりだったが、めくったカードには別の動物が描かれていた。

 

「あれ?」

 

「ちづる、そこじゃないよ」

 

「めくってから言わないでよ」

 

「先に教えたらゲームにならないでしょ」

 

 綾乃は悪びれずに笑っている。エディは二人の顔を見比べ、カードへ目を戻した。意味は通じなくても、少なくとも怒っているわけではないのは伝わっただろうか。千綴は自分の二枚を戻した。

 

 ヴァシリオスも綾乃も次の二枚を外し、エディに順番が回った。千綴は一枚の位置に心当たりがあったが、黙って見ていた。エディが最初のカードをめくり、それから少し離れた一枚を返す。

 

 同じウサギの絵が二つ並んだ。

 

「あ、揃った!」

 

 千綴の声に、ヴァシリオスが笑顔を向ける。

 

〔やったな。二枚ともエディのだぞ〕

 

 エディは自分の前に二枚を寄せ、ウサギの絵を一度確かめると、続けて別のカードをめくった。今度は絵が揃わなかったが、先ほどより迷わず二枚を伏せ直した。

 

 千綴は笑ってエディへ顔を向けた。すぐに言葉が浮かび、短く声をかける。

 

〔すごいね〕

 

 エディは千綴を見上げると、手元の二枚へ目を戻した。口元がわずかに緩んだように見えた。

 

 そこからはエディも順番が来るたび自分でカードを選んだ。ヴァシリオスが前に見たカードと違う場所をめくって悔しがれば、綾乃が「覚えてないじゃん」と笑う。千綴も一組揃えたが、続けてめくった二枚は別の動物だった。

 

 エレディトが三組目を取ると、ヴァシリオスが身を乗り出した。

 

「もう三組か。エレディト、強いな」

 

「ありがとうございます」

 

 エレディトは集めたカードをきれいに重ねた。綾乃もその手元を覗き込み、千綴は自分の前の組を数え直した。

 

 最後の二枚が揃うと、テーブルの上には裏向きのカードが残らなかった。綾乃がそれぞれの組を数え、ヴァシリオスが身を寄せて覗き込む。

 

「エレディト、一番多いね」

 

「そうみたいですね」

 

「次やったら勝つからな」

 

「ほんとに、負けるともう一回なんだね」

 

 綾乃が言うと、ヴァシリオスは笑って箱の蓋を取った。エディも自分のカードを持ち上げ、皆が片付け始めるのを見て箱へ差し出す。

 

〔ありがとう。楽しかったか?〕

 

 ヴァシリオスの問いに、エディは小さく頷いた。

 

 千綴も椅子から立ち上がり、肩を軽く回した。ヴァシリオスがカードを箱へ収めかけると、エディがその束へ手を伸ばした。

 

〔……もう一回〕

 

〔お、やる気だな。もちろん〕

 

 ヴァシリオスがカードを戻し、綾乃がまた裏向きに並べ始めた。千綴も再び椅子を引く。二回目にはエディが自分から最初のカードを選び、さっきより早く手を動かしていた。

 

 もう一度カードを片付けた頃、遊戯室の扉が控えめに叩かれた。顔を出したゲオルギオスが、昼食の準備ができたことを告げる。

 

「もうそんな時間か」

 

 ヴァシリオスが時計を見て、椅子を立った。エディも自分のカードを箱に収め、皆と一緒に部屋を出た。

 

 

 

 

 昼食を終えて別館へ戻ると、綾乃がテラスへ続く扉の前で足を止めた。

 

「さっきまでずっと座ってたし、ちょっと外の空気を吸いたいな」

 

 窓の向こうはよく晴れている。千綴も頷き、皆と一緒にテラスへ出た。

 

 庭に面した椅子は建物の陰に入っていて、風は思ったより穏やかだった。それでも腰を下ろすと、冬の冷気が上着の隙間から入ってくる。千綴は手渡された温かいカップを両手で包んだ。

 

「うわ、やっぱり冷えるね」

 

 綾乃が肩をすくめる。

 

「言い出したの綾乃だろ」

 

「少し外に出たいって言っただけで、寒くないとは言ってないよ」

 

「じゃあ中に戻るか?」

 

「まだいい。せっかくお茶も持ってきたし」

 

 ヴァシリオスは笑いながら椅子へ腰を下ろした。エレディトはカップを手にしたまま、庭の向こうへ目を向けている。

 

 朝、千綴とエディが歩いた道には、あの時よりはっきりと日が当たっていた。石の縁に沿って影が伸び、木の枝が風を受けるたび形を変える。エディもその道を見ていたが、何かが動いたのか、ふいに庭木の根元へ視線を落とした。

 

 千綴も同じ方を見る。低い枝の間で、小鳥が跳ねるように動いていた。土の上を幾度かつつくと、すぐに生け垣の陰へ隠れてしまう。

 

「何かいた?」

 

 綾乃が身を乗り出す。

 

「あそこに鳥。もう見えなくなっちゃったけど」

 

「この辺、よく来るんだよな。朝だともっといるぞ」

 

 ヴァシリオスが庭を指さす。千綴はエディへ顔を向け、同じ方を示した。

 

〔鳥、見えた?〕

 

〔……うん〕

 

 エディはカップを膝に置き、生け垣のあたりを指で示した。千綴は頷いて、もう一度そちらを見た。

 

 しばらくして、エディが自分から口を開いた。

 

〔……また来る?〕

 

 千綴は最初、誰のことか分からなかった。エディの指が庭木へ向いているのを見て、ようやく小鳥のことだと気づく。

 

〔また来るといいね〕

 

 エディは生け垣の方へ目を戻した。千綴もしばらく一緒に枝の間を眺めていたが、小鳥は姿を見せなかった。

 

 ヴァシリオスがカップの縁に息を吹きかける。

 

「こうして鳥を眺めるのも久しぶりだな」

 

「中村くん、帰ってきてから何回も庭を通ってるのにね」

 

「通るときはだいたい急いでるからな。朝飯とか、出かける支度とか」

 

「それは中村くんだけじゃない?」

 

 綾乃の言葉にヴァシリオスが笑った。千綴も庭へ目を向ける。今日は外へ出かけていないからこそ、朝歩いた道や木の陰を、こうして落ち着いて眺めていられる。

 

 エレディトが手を伸ばしてカップを持ち直した。その音を聞いて、エディも自分の飲み物へ目を戻した。朝より迷わず口をつけているが、飲む速度は相変わらずゆっくりだ。

 

 日差しが少し傾いてきた頃、綾乃が椅子から立ち上がった。

 

「やっぱり中に戻ろうかな。指が冷たくなってきた」

 

「だから言っただろ」

 

「はいはい。中村くんの言うとおり」

 

 ヴァシリオスは何か言い返しかけたが、先にエディへ声をかけた。

 

〔寒くないか? 中に戻ろうか〕

 

 エディは少し考えて、カップを両手で持ち上げた。千綴は残りを飲み終えるまで急かさずに待った。

 

 部屋へ戻ると、窓越しに庭の木々が見えた。小鳥はもういなかったが、エディは通りがかりに一度だけそちらへ顔を向けた。

 

 

 

 

 夕方、別館の部屋で一息ついてから、千綴たちは本館へ向かった。食堂には温かな料理の匂いが漂っていて、祖母がいつものように皿を勧めてくれる。朝はなかなか手を伸ばせなかったエディも、祖母から英語で何が食べたいか聞かれると、テーブルを見渡してから一つを指さした。

 

 祖母は嬉しそうに皿を寄せ、その料理を取ってやる。エディは受け取った皿を前へ引いた。

 

 千綴はその隣で、自分の皿へ料理を取り分けた。ヴァシリオスが向かいから「それおいしいぞ」と勧めるので、一口食べてみる。香りが先に広がり、後から穏やかな塩気が来た。

 

「うん、おいしい」

 

「だろ?」

 

「中村くん、自分で作ったみたいな顔してる」

 

「ばあちゃんの料理なんだから、自慢していいだろ」

 

 祖母が笑いながら、ヴァシリオスの皿へもう少し料理を足した。

 

「そんなに言うなら、ちゃんと食べなさい」

 

「食べてるって」

 

 千綴は笑い、ディミトリオスの方へ目を向けた。祖父は二人のやり取りを眺めてから、落ち着いた様子で自分のカップを置いた。

 

 食事が進んだ頃、祖母がヴァシリオスに声をかけた。

 

「そういえば、明日はクラブへ行くんだったわね」

 

 ヴァシリオスが祖父へ向き直った。

 

〔じいちゃん、予定どおりでいいんだよな?〕

 

 ディミトリオスは頷いて、短く答えた。ヴァシリオスは千綴たちへ向き直った。

 

「大丈夫だって。あそこも久しぶりだな」

 

「そういえば、明日行くクラブって、どんなところなの?」

 

 千綴が尋ねると、ヴァシリオスは手にしていたフォークを置いた。

 

「じいちゃんが出資してる会員制のところでさ。テニスができたり、食事したり。俺も子どもの頃はよく遊びに行ってたんだ」

 

「へえ、そういう場所なんだ」

 

「庭も広いし、寒かったら建物の中で過ごせるぞ」

 

 綾乃が窓の外をちらりと見た。千綴も明日の天気を思い浮かべる。今日くらい晴れてくれれば、庭を歩くのも気持ちがよさそうだった。

 

 ヴァシリオスはエディを一度見てから、祖父の方へ向き直った。

 

〔じいちゃん、エディも一緒に連れていっていい?〕

 

 ディミトリオスはエディを見てから、穏やかに答えた。ヴァシリオスはその返事を聞いて頷く。

 

「いいって。クラブの方にも伝えてくれるそうだ」

 

 祖母はエディの方へ身体を向けた。

 

〔明日はみんなで出かけるのよ。エディも一緒に行かない?〕

 

 エディは祖母を見上げ、続けてヴァシリオスへ目を移した。

 

〔……僕も?〕

 

〔もちろん。じいちゃんが昔から行ってるクラブなんだ。庭も広いし、ゆっくりできるよ〕

 

 エディは少し考えてから、千綴たちの顔を見渡した。千綴と目が合うと、そのまま見上げてくる。千綴は頷き、知っている短い言葉で声をかけた。

 

〔一緒に行こう〕

 

 エディは千綴を見て、それから祖母へ向き直った。

 

〔……行きたい〕

 

 祖母は嬉しそうに手を合わせた。

 

「みんな一緒なら、明日は賑やかになりそうね」

 

「俺も久しぶりだから楽しみだよ」

 

「ふふ。あなたが一番楽しみにしているんじゃない?」

 

「かもしれないな」

 

 ヴァシリオスが笑うと、綾乃もつられて笑った。祖母はエディへも笑顔を向けた。

 

〔明日が楽しみね〕

 

 エディは小さく頷き、自分の皿へ目を戻した。

 

 食事を終え、窓の外を見ると、庭の向こうに別館の明かりが見えていた。朝、エディと歩いた道はもう暗くなっている。そこを今夜も一緒に戻るのだと思いながら、千綴は椅子から立ち上がった。

 

 エディはヴァシリオスに声をかけられると、椅子を引いて立ち上がる。千綴たちの後ろについて入口へ向かいかけてから、ふと祖母の方へ振り返った。

 

〔……おやすみ〕

 

 祖母が少し驚いた顔をして、それから笑った。

 

〔ええ、おやすみ。また明日ね〕

 

 エディはその返事を聞いてから、千綴たちの後へ続いた。

 

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