「ここがクラブ?」
車を降りた綾乃が、目の前の建物を見上げた。
千綴も隣に立ち、その視線を追う。木々に囲まれた建物は横に広く、大きな窓の並ぶ壁が奥まで続いていた。車寄せには何台か車が停まり、入口の前ではスポーツバッグを提げた人が係員と話している。
「そう。子どもの頃、よく来てたんだ」
ヴァシリオスは入口の方へ目を向けた。先に進みかけたところで綾乃が笑う。
「中村くん、なんだか嬉しそうだね」
「久しぶりだからな。早く入ろうぜ」
綾乃が笑って先へ進む。千綴は上着の襟元を直しながら、その後に続いた。車を降りたエディは少し離れて立ち、出入りする人たちを眺めている。エレディトが隣で待っていると、少年も二人の後ろを歩き始めた。
入口に近づいたところで、係員がヴァシリオスを見て笑顔を向けた。
〔お久しぶりです〕
〔ご無沙汰しています。今日は友人たちも一緒なんです。よろしくお願いします〕
ヴァシリオスは相手に軽く頭を下げ、千綴たちを振り返った。係員も皆へ会釈すると、受付の方へ案内してくれる。
中へ入ると、外の冷たさが遠のいた。磨かれた床に靴音が柔らかく響き、奥の大きな窓からは庭の緑が見える。ゆったりした椅子の並ぶ一角では、数人がカップを手に話していた。そこから少し離れた席で新聞を広げている人もいる。
受付で招待客の確認を済ませる間、千綴は壁に掛かった風景画へ目を向けた。隣の綾乃は天井の照明を見上げている。
「落ち着いたところだね」
「うん。ホテルとも、また雰囲気が違うね」
千綴が答えると、綾乃は小さく頷いた。声を張らなくても会話が届くほど静かだが、人の行き来は途切れない。受付を済ませたヴァシリオスが戻り、二人の視線の先を見て笑った。
「じいちゃんはここで知り合いに会うことも多いんだ。俺は昔、遊ぶ方ばっかりだったけど」
「中村くんらしいね」
「そうか?」
笑いながら進んだ先で、ヴァシリオスがふと窓の外へ目を向けた。木立の間に白い線の引かれたコートが見える。ちょうど二人の人がネットを挟んでボールを打ち合っていた。
「ああ、懐かしいな。あそこでよくテニスしてたんだよ」
「中村くん、テニスもやってたの?」
「じいちゃんと来ると、よく付き合ってもらってた。最初は全然狙ったところに飛ばせなかったけど、だんだんラリーが続くようになってさ」
ヴァシリオスは窓の向こうで行き来するボールを目で追った。その横顔は、さっき入口で見せたものより少し楽しそうだった。
「へえ。じゃあ、久しぶりに打ってみたいんじゃない?」
綾乃が言うと、ヴァシリオスはすぐに頷いた。
「それはやりたいな。……そうだ、せっかくだし、みんなでもやってみない?」
「いいね。私もちょっとやってみたい」
綾乃が千綴へ顔を向ける。
「ちづるは?」
「私も。せっかくコートがあるんだし」
エレディトも誘われて、穏やかに頷いた。
「私もご一緒します。ただ、あまり経験はありませんので、教えていただけると助かります」
「だったら、インストラクターもお願いしようか。ちゃんと教わった方が楽しめるだろうし」
ヴァシリオスはエディの方へ身をかがめた。
〔エディ、テニスをやってみる? ボールをラケットで打つんだ〕
少年は窓の外を見た。ちょうど一球がネットを越え、向かい側の人が打ち返す。エディはしばらくその様子を見つめてから、ヴァシリオスへ目を戻した。
〔……僕もできる?〕
〔もちろん。難しかったら見ていてもいいし、できるところだけ一緒にやろう〕
エディが小さく頷くと、ヴァシリオスは嬉しそうに笑った。
ゲオルギオスが係員へ声をかけ、コートと指導員の空き状況を確かめてくれた。何度か言葉を交わしたあと、係員が壁の時計を示す。ヴァシリオスも一緒に話を聞き、千綴たちへ振り返った。
「十時半から十二時までなら、コートもインストラクターも空いてるって。道具も貸してもらえるそうだよ」
「じゃあ、ちょうどいいね」
千綴が答えると、ヴァシリオスは頷いた。係員の案内で着替えと用具の準備を済ませ、五人はコートへ向かった。
外へ出ると、ひんやりした空気が頬に触れた。日差しは明るく、風もほとんどない。隣のコートからはボールを打つ乾いた音が響いてくる。千綴はラケットを持ち直し、ネットの向こうを眺めた。
コートでは、先ほど窓から見えた二人がまだラリーを続けていた。球が弾んでから次の一打までが速く、打つ人の足が絶えず細かく動いている。ヴァシリオスはその様子を眺めながら、自分のラケットを軽く振ってみせた。
「うわ、久しぶりだな。この感じ」
「身体が覚えてたりする?」
綾乃が尋ねる。
「どうだろうな。打ってみないと分からないけど、ちょっと楽しみだ」
案内されたコートでは、インストラクターがボールの入った籠を脇へ置いて待っていた。エディには短くて軽いラケットと、柔らかいボールが用意されている。千綴たちはそれぞれラケットを受け取り、ネットの手前に並んだ。
インストラクターはラケットの握り方から、足を置く位置、振り終わるまでの動きを順に見せてくれた。千綴も同じように身体を横へ向け、ゆっくり腕を振ってみる。先ほど見ていたラリーと違って、一つずつ動きを確かめると、どこに力を入れるのかが少しずつ分かってきた。
「肘を固めすぎないで、だって」
ヴァシリオスがインストラクターの言葉を補う。
「こう?」
「うん。そのくらいでいいと思う」
インストラクターも頷き、次は近い距離からボールを送ってくれた。
千綴の前でボールが弾む。ラケットを合わせると、ぱん、と手元に衝撃が伝わり、球はネットの向こうへ飛んでいった。けれど、狙った場所よりずっと奥で弾み、ラインを越えて転がっていく。
「あ、飛びすぎた」
「結構いい音だったのにね」
綾乃が笑う。千綴はラケットの面を見下ろした。
「当てるだけならできるけど、どこに落とすかが難しいね」
「私もやってみる」
次に綾乃がボールを受けた。大きく振らずに打ち返すと、球はネットを越えてサービスラインの近くに落ちた。
「お、いい感じじゃない?」
「今のはね。でも、もう少し右を狙ったつもりだったんだけど」
綾乃がもう一球打つと、今度は反対側へ流れていった。自分でもおかしかったのか、笑いながらラケットを構え直す。
千綴も何球か続けて打った。ボールが落ちる位置へ動くことは苦にならない。それでも、追いついた勢いのまま振ると打つ方向がずれ、早く止まりすぎると身体が窮屈になる。インストラクターに足の向きを直され、次の球を打つと、今度は狙ったあたりで弾んだ。
「よし、今のはいいかも」
「うん、きれいに入った!」
綾乃に言われ、千綴はもう一度ラケットを握り直した。同じように打とうとしても、次の球は少し長い。どうやら、毎回同じ動きをする方が難しいらしい。
ヴァシリオスが打つ番になると、千綴たちは少し下がって様子を見た。最初の二球は軽くネットを越え、ほぼ同じ場所で弾む。足の運びにも迷いがなく、ラケットを振る姿はずいぶん自然だった。
「やっぱり、やってただけあるね」
千綴が言うと、ヴァシリオスは笑って肩をすくめた。
「まだ覚えてたみたいだ。じゃあ、次はもうちょっと強く――」
次に来た球へ踏み込み、勢いよくラケットを振る。鋭い音がしたが、ボールはネットの上端に当たり、こちら側へ落ちた。
「あー、力んだ!」
「急に張り切るから」
綾乃が言うと、ヴァシリオスは苦笑しながら一歩下がった。
「今のは欲張ったな。もう一回、普通に打つよ」
次の球はきれいにネットを越え、相手のコートへ収まった。その違いが面白くて、千綴もつい笑ってしまう。
エレディトはインストラクターの手本をじっと見ていた。最初の球を打つ前にも一度ゆっくり素振りをし、身体の向きを確かめている。実際に打つと球はネットを越えたが、狙っていた位置より横へ落ちた。
「もう少し真っすぐ飛ぶと思ったのですが」
「面がちょっと外側を向いてたのかな」
千綴が答えると、エレディトはラケットを立てて角度を確かめた。インストラクターが手本を見せ直すと、次の球ではほぼ正面へ打ち返す。
「おお、今のいいじゃん!」
ヴァシリオスが声を上げる。
「ありがとうございます。ですが、思ったより加減が要りますね」
「そうなんだよな。強く打てばいいってもんでもないし」
さっきネットに引っかけた本人が言うので、綾乃が笑った。エレディトもわずかに口元を緩め、次の球に備えた。
しばらくして、インストラクターがエディを手招きした。少年はベンチから立ち上がると、千綴とヴァシリオスの顔を交互に見た。千綴が頷くと、ラケットを持ってインストラクターの方へ歩いていく。
最初はネットから離れた場所で、柔らかいボールをゆっくり送ってもらった。エディは両手でラケットを持ち、目の前で弾んだ球へそっと面を合わせる。ボールは軽く前へ飛び、コートの上を二度跳ねて止まった。
「お、打てたね」
綾乃が声を上げる。エディは顔を上げ、皆の方を見た。
〔今の、ちゃんと当たったよ〕
千綴が声をかけると、エディは小さく頷いた。インストラクターがもう一球用意するのを見て、自分からラケットを構える。
二球目は斜めへ飛んだが、三球目はインストラクターの足元近くへ返せた。相手が笑顔でボールを拾うと、エディは少しだけラケットを持ち上げた。
〔……もう一回〕
千綴はその声を聞き、思わずヴァシリオスの方を見た。彼も嬉しそうに頷いて、インストラクターへ何かを伝える。エディは次の球が来る方を見て待っていた。
途中で水を飲み、少し休んでから、四人は短い距離で打ち合う練習に移った。最初は二往復ほどで終わっていたラリーも、力を抑えて返すと少しずつ続くようになる。千綴は綾乃の打った球を返し、その次がまたこちらへ戻ってくるのを見て、自然と足を動かした。
「いける、いける!」
向こう側から綾乃が声を上げる。千綴はもう一球返したが、次は少し長く打ちすぎた。
「あー、続いてたのに」
「でも、結構できたね」
綾乃は笑ってボールを拾う。数えてみれば大した回数ではない。それでも、最初に一球ずつ打っていたときとは違って、相手と続けて返し合う楽しさがあった。
ヴァシリオスはエレディトと向かい合い、最初はゆっくり打ち合っていた。調子が出てきたのか、ヴァシリオスが少し速い球を送る。エレディトは一歩横へ動いて打ち返したが、次の球はコートの外へ逸れた。
「お、いい球だったな」
「返せはしましたが、まだ方向が安定しませんね」
「十分だって。次はもうちょっと続けよう」
エディは疲れたところでラケットを置き、ベンチから四人の様子を見ていた。千綴が水を飲みに戻ると、少年はコートへ向けていた顔を上げる。千綴は隣に腰を下ろし、次の組が打ち合う音を一緒に聞いた。
それから何度か組み合わせを変え、練習を続けた。打ち方を少し教わっただけなのに、初めよりボールの行き先を考える余裕ができている。千綴は額に浮いた汗を袖で拭い、息を整えた。
やがてインストラクターが時計を確かめ、皆へ声をかけた。
〔お疲れさまでした。今日はここまでにしましょう〕
千綴もコート脇の時計へ目を向けた。針はちょうど十二時を指すところだった。ラケットを返して両腕を伸ばすと、肩から背中にかけて少し張っている。動いている間は気づかなかったが、随分と身体を使ったらしい。
「一時間半って、結構あっという間だったね」
綾乃が髪を直しながら言う。
「うん。最後の方、もう少し続けたかったな」
「だろ? ラリーが続くと楽しいんだよ」
ヴァシリオスは満足そうに頷き、インストラクターへ礼を伝えた。エレディトも借りたラケットを揃えて返す。エディは自分の小さなラケットを両手で持ち、インストラクターに渡した。
〔楽しかった?〕
ヴァシリオスが尋ねると、エディは少し考えてから頷いた。
〔……うん〕
千綴は上着を羽織り、ベンチに置いていた鞄を手に取った。エディがそばへ歩いてきたので、二人でコートを離れる。振り返ると、インストラクターが籠へボールを集めていた。隣のコートからは、まだ乾いた打球音が響いている。
クラブハウスへ戻り、更衣室で汗を拭いて着替えた。髪を整えて廊下へ出ると、綾乃も少し遅れてやってくる。ヴァシリオスとエレディトはもう待っていて、エディは二人のそばで窓の外を眺めていた。
「みんな揃ったな。レストランの席、用意できてるって」
「よかった。お腹空いてきちゃった」
綾乃が笑う。千綴も鞄を持ち直し、皆と一緒にレストランへ向かった。
レストランの入口で上着を預けると、千綴は肩を小さく回した。ラケットを振っていた右腕に、まだ少し重さが残っている。
「腕、結構使ったね」
「ね。足は平気だけど、こっちはちょっと疲れたかも」
綾乃が肘のあたりをさすってみせる。千綴も自分の腕を見た。普段、走ったり物を運んだりするのとは違う動きだったせいだろうか。汗はもう引いているのに、手のひらにはラケットの握りの感触が残っていた。
係員に案内された席は、大きな窓のすぐそばだった。庭に向かって低い木々が並び、その向こうには芝生の広がる場所も見える。室内は暖かく、控えめな話し声の間に、ときおり食器の触れ合う音がした。
千綴が席に着くと、エディは隣の椅子を引いた。ヴァシリオスがメニューを受け取り、少年にも一冊渡す。エディは開いたページに目を落とし、料理の写真を順に眺めていた。
「私、お魚にしようかな。今日はさっぱりしたものが食べたいし」
綾乃がメニューの一角を指で押さえる。
「じゃあ私は、こっちの鶏肉にしようかな」
「ちづる、それもおいしそう。迷うなあ」
「綾乃、お魚にするんじゃなかったの?」
「うん。だから迷ってる」
綾乃が真剣な顔で二つの料理を見比べるので、千綴は笑って自分のメニューへ目を戻した。どちらもよさそうだが、レモンと香草を使った鶏肉の方に惹かれる。朝はしっかり食べてきたものの、席に着いて料理を眺めていると、少しずつ食欲が湧いてきた。
エレディトは係員へ料理について一つ質問してから、メニューの端を押さえた。隣のエディがその声に顔を上げると、彼は少年の方へも目を向ける。
〔決まった?〕
エディはすぐには答えず、ヴァシリオスが持つメニューと自分のものを見比べた。ヴァシリオスが身を寄せ、少年の指した写真を覗き込む。
〔これは鶏肉だよ。じゃがいもも一緒に来る〕
〔……それがいい〕
〔分かった〕
注文を取りに来た係員へ、ヴァシリオスがエディと自分の分を伝えた。千綴と綾乃も順に頼み、最後にエレディトがメニューを閉じる。エディは自分の料理の名前が聞こえると、テーブルに置いたメニューをそっと閉じた。
グラスに注がれた水を一口飲んだところで、綾乃が椅子の背にもたれた。
「ねえ、帰ったらさ、新辺のあの施設でもテニスしてみない?」
「あ、コートあったよね。前はボウリングとか卓球ばっかりだったけど」
千綴が答えると、綾乃が頷く。
「そうそう。今度は使ってみたいなって」
「だったら悠司たちも誘おうぜ。人数がいればダブルスもできるし」
ヴァシリオスが言うと、綾乃は水のグラスを置いて首を傾げた。
「でも、いきなり試合は無理じゃない?」
「まず打ち合うところからでいいだろ。今日の練習も面白かったし」
「中村くん、途中から結構張り切ってたもんね」
「その話はもういいって」
ヴァシリオスが苦笑するので、千綴も笑った。自分たちだけで打ったら、今日ほど続かないかもしれない。それでも、また皆でコートに立つところは想像できた。
話しているうちに、温かいパンと前菜が運ばれてきた。
籠に入ったパンからは焼きたての匂いがした。千綴は一つ手に取ってちぎり、皿の端に添える。前菜には焼いた野菜が盛られ、香草とオリーブオイルの香りが広がっていた。
エディはパンの籠に手を伸ばしかけ、ヴァシリオスが話している方を一度見た。千綴が籠をそばへ寄せると、少年は小さなパンを選んで自分の皿へ移した。
向かいのエレディトが水差しを持ち上げる。
〔お水、もう少しいる?〕
エディはグラスを見てから頷いた。エレディトが半分ほど注ぐと、短く礼を言ってグラスを引き寄せる。その様子を見ていた綾乃も、少年の方へ顔を向けた。
〔さっきのラケット、重くなかった?〕
綾乃が自分の腕をさすってみせると、エディも手のひらをちらりと見た。
〔……ちょっと〕
〔そっか。私も腕が少し疲れたよ〕
綾乃が笑うと、エディは自分の手を一度握ってから、ちぎったパンを口へ運んだ。千綴は野菜を一口食べ、口に残る香草の香りを水で流した。
やがて主菜の皿が並ぶと、テーブルの上が一段と賑やかになった。千綴の鶏肉には焼き色がつき、周りに添えられたじゃがいもにも香ばしい匂いが移っている。ナイフを入れると肉は柔らかく、口に含むとレモンの酸味が後から広がった。
綾乃は魚を一口食べ、しばらく噛んでから満足そうに頷いた。
「こっちにしてよかった。さっぱりしてておいしい」
「私のもおいしいよ。外側がちょっと香ばしい」
「そっちも良さそうだな」
ヴァシリオスが言いながら自分の皿へ手を伸ばす。千綴は付け合わせのじゃがいもを一つ切り、鶏肉と一緒に口へ運んだ。
隣では、エディがじゃがいもをフォークで押さえ、少しずつ切り分けていた。綾乃が笑い声を立てると顔を上げたが、すぐに皿へ戻る。しばらくして、千綴の袖を控えめに引いた。
〔……これ、おいしい〕
少年は自分の皿のじゃがいもを指していた。
〔そうなんだ。よかったね〕
エディは頷き、また一切れを口に運んだ。自分から味の感想を伝えてくれたことが嬉しくて、千綴はつい顔を緩める。けれど、少年はもう料理に夢中のようだったので、千綴も自分の皿へ視線を戻した。
食後の飲み物が届く頃には、窓から入る光がテーブルの縁へ少しずつ移っていた。綾乃はカップを持ち、庭の方へ顔を向ける。木立の間を、上着を着た人たちがゆっくり歩いていた。
「外、気持ちよさそうだね」
「あとで歩いてみようか。奥の方まで道が続いてるんだ」
ヴァシリオスが答えると、綾乃は頷いた。すぐ立ち上がる者はおらず、千綴もカップに残った飲み物をゆっくり口へ運ぶ。食事を終えたエディは窓際の木々を眺めていた。
廊下へ出ると、奥の方から、小さな球が弾むような音が聞こえた。綾乃がそちらへ顔を向ける。
「あ、遊べる部屋って、あっちかな?」
「そうそう。寄ってみる?」
ヴァシリオスが答えると、綾乃は頷いて先へ歩き出した。千綴もエディと一緒に、その後へ続いた。
レストランから少し離れた部屋には、低いテーブルと椅子が幾つも並び、壁際には本棚が設けられていた。その横の棚にはラケットとボール、それに小さな卓上用のネットも置かれている。窓辺では年配の男性二人が卓球台の脇へラケットを戻し、短く言葉を交わしていた。片方がヴァシリオスに気づくと軽く会釈し、二人揃って部屋を出ていった。
「あ、空いたね」
綾乃が卓球台へ向かいかけ、振り向いて笑う。
「中村くん、前みたいに速い球ばっかり打つのはなしだからね」
「分かってるって。今日は普通に打ち合おう」
「ほんとに?」
「ほんとだって」
千綴もラケットを手に取り、台の反対側へ回った。新辺で遊んだときは、ヴァシリオスの鋭い球を追いかけるだけで精一杯だった。今日は急がず続けて打つつもりらしく、彼も軽くラケットを持っている。
最初は千綴と綾乃で打ち合った。球は台の上を低く跳ね、乾いた小さな音を立てて行き来する。綾乃が少し横へ送ってきたので、千綴は一歩動いて返した。次は中央へ戻り、続けて打ち返す。
「ちづる、今のいいね」
「綾乃も、前より上手くなったんじゃない?」
「少しはね」
そう言いながら綾乃が打った球は台の端をかすめ、床へ転がった。二人で笑っていると、ヴァシリオスが拾い上げ、綾乃へ渡してくれる。
交代したヴァシリオスは、言ったとおり強い球を控え、綾乃と何度も打ち合った。千綴が壁際へ退くと、エディがその隣に立つ。ボールの行方を追う目だけが、台の左右へ忙しく動いていた。
「エレディトもやってみる?」
千綴が尋ねると、彼は頷いてラケットを受け取った。ヴァシリオスと向かい合い、二、三球を軽く返す。だんだん球の往復が速くなっても、エレディトの足取りは落ち着いていた。最後はヴァシリオスの球がわずかに台を越え、二人ともラケットを下ろす。
「おお、今の続いたな」
「そうですね。テニスとはまた違う感覚でした」
エレディトがラケットを置くと、エディが卓球台へ近づいた。台の縁に両手を掛けて向こうを覗こうとするが、顔のすぐ前に高い台があるせいで、反対側が見えにくそうだった。
〔ちょっと高いね〕
エレディトが言うと、綾乃が壁際の低いテーブルへ目を向けた。
「ねえ、あっちのテーブルならどうかな。小さいネットもあったよ」
「それ、いいな」
ヴァシリオスが卓上用のネットを取り、綾乃と一緒に低いテーブルの中央へ取り付けた。椅子を脇へ寄せると、エディは今度は無理なく向こう側まで見渡せる。千綴がラケットを渡すと、少年は立ったまま軽く握った。
エレディトは反対側へ回り、腰を落としてボールを一つ弾ませた。広い卓球台とは違い、少し転がるだけで端から落ちてしまう。最初の球はエディが構える前にテーブルを飛び出し、綾乃の足元へ転がった。
〔あ、行っちゃった〕
綾乃が拾って戻すと、エディは球が跳ねたところを指さした。
〔……速い〕
〔そうだね。ゆっくりやってみようか〕
エレディトが今度はそっと球を送る。エディがラケットを差し出すと、球は面の縁に当たって横へ飛んだ。千綴が拾い、テーブルへ戻す。球が小さな台の上をあちこちへ跳ねるたびに、エディは目を動かして追いかけた。
何球か遊んだところで、エディがボールを拾い上げ、エレディトへ差し出した。
〔……今度は僕から打ってもいい?〕
〔もちろん〕
エレディトがラケットを構えると、少年はボールをテーブルへ落とした。跳ねた球をそっと押すように打つと、ネットの手前で止まってしまう。エディは一瞬首を傾げ、それからまた球を取った。綾乃が椅子へ腰掛けて、次はどっちへ飛ぶかな、と笑っていた。
そのあとも何球か打ってから、エディは自分でラケットを下ろした。エレディトが声をかけると、少年は頷き、ラケットを返す。ヴァシリオスが小さなネットを外し、綾乃も転がったボールを拾って棚へ戻した。
低いテーブルから離れた千綴は、奥にある木製の盤へ目を留めた。黒と白の駒が箱に収められ、盤の四角い模様が窓からの光を受けている。
「チェスだ」
綾乃が箱を覗き込む。
「これ、ちゃんとした盤だね。駒も木でできてる」
「昔、じいちゃんとここでも遊んだな」
ヴァシリオスが駒を一つ取り出し、懐かしそうに眺めた。
「中村くん、チェスもできるの?」
「うん。強いわけじゃないけど。エレディト、一局どう?」
「ええ。お願いします」
二人が向かい合い、駒を並べ始める。千綴は綾乃と一緒に盤の横へ腰を下ろした。動かし方を少しは知っていても、自分ではあまり指したことがない。交互に駒が動き、盤の中央で取り合いが始まると、次にどちらが動くのかを追いかけるだけでも面白かった。
エディは千綴の隣から盤を覗いていたが、馬の頭をした駒が動くのを見て、身を乗り出した。
〔それ、気になる?〕
エレディトが尋ねると、エディは頷いてその駒を指した。ちょうどヴァシリオスの手番だったので、彼は盤の上のナイトに指を添える。
〔ナイトっていうんだ。二つ進んで横に一つ、こういう形に動く。駒が間にあっても飛び越えられるんだぞ〕
ヴァシリオスが行き先を指してから駒を置く。エディはその動きを目で追い、少し考えて別の升目を指した。
〔……こっちにも?〕
〔うん、そっちにも動けるよ。今はこっちにしたけどな〕
千綴も盤を見つめた。将棋の桂馬にも似ているが、こちらは前にも後ろにも動ける。エディが分かったように頷くと、エレディトが次の手を考え始めた。
やがて取られた駒が盤の脇に増え、千綴も時折綾乃と顔を見合わせながら見守った。ヴァシリオスが一手進めた後、エレディトはしばらく盤を眺めてから、白い駒を動かす。
「これで、どうでしょう」
「あ、そっちから来るのか……参ったな。俺の負けだ」
ヴァシリオスは盤をもう一度見て、降参した。エレディトが軽く頭を下げると、綾乃が「二人ともお疲れさま」と笑う。千綴も座りっぱなしだった脚を伸ばした。
駒を箱へ戻す二人を見てから、千綴は窓際へ向かった。食堂の窓から見えた庭より、こちらの方が奥まで見渡せる。植え込みの間を細い道が曲がり、背の高い木々の向こうへ続いていた。
ふと隣に気配がして見ると、エディも窓のそばに立っている。少年はガラスの向こうを眺め、庭の小道を指した。
〔……あそこ、歩ける?〕
〔うん。行ってみる?〕
千綴が尋ねると、エディは頷いた。盤を片付けていたヴァシリオスが二人の方へ振り向く。
「外、行きたいみたい?」
「うん。あの道が気になるって」
「じゃあ行こうか。あの道ならここから回れるよ」
綾乃が箱の蓋を閉じ、エレディトも椅子を戻した。千綴はエディと一緒に皆の後へ続き、預けていた上着を受け取った。
クラブハウスを出ると、室内の暖かさに慣れていた頬へ冷たい空気が触れた。千綴は上着の前を合わせ、日差しのある場所へ歩いていく。低い生け垣の向こうには芝生が広がり、木の間を縫うように小道が続いていた。
「窓から見るより、ずいぶん奥まであるんだね」
綾乃が木立の方を見上げる。
「この先、少し道が曲がってるんだ。昔はもっと大きく感じたけどな」
ヴァシリオスが答える。歩く靴の下で小石がかすかに鳴り、風が葉を揺らす音が続いた。千綴は庭の端に置かれたベンチを横目に、エディの歩調へ合わせて進んだ。
エディは地面に伸びる枝の影を見ていた。細い影を一つ跨ぐと、次もまた影のある場所へ足を置く。千綴が気づいて隣を見ると、少年は少しだけ歩幅を広げて次の影を越えた。
千綴も足元の長い影を一つ跨いでみる。エディが顔を上げたので、何も言わずにもう一つ越えると、少年もその隣で影を跨いだ。二人の足音が重なり、前を歩く綾乃が振り向いた。
「二人とも、何してるの?」
「影、跨いでる」
「ほんとだ。ちょっと楽しそう」
綾乃は笑って足元を見てから、二人の方へ歩く速さを合わせた。エレディトは少し後ろで、時折木々の間に目を向けながら歩いている。
道が二つに分かれる場所で、エディが立ち止まった。木立の中へ続く方を見つめ、ヴァシリオスの袖を軽く引く。彼が振り向くと、少年は細い道を指した。
〔あっちへ行ってもいい?〕
〔もちろん。行ってみよう〕
ヴァシリオスが笑って頷き、細い方の道へ足を向けた。エディもそれに続き、千綴は隣へ並んだ。枝の間から差し込む光が、歩くたびに足元で揺れていた。