空の結び目   作:夕花

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 細い道に入ると、クラブハウスの方から聞こえていた話し声が少し遠くなった。道の両側には背の低い植え込みが続き、ところどころに石の縁取りがある。千綴はエディと並び、前を歩くヴァシリオスたちの後についていった。

 

「こっち、少し日陰になってるね」

 

 綾乃が上着の前を合わせた。木々の向こうには明るい芝生が見え、その手前に古い石造りのベンチが置かれている。道は細かな砂利で歩きやすく整えられ、植え込みの間には掃き集めた落ち葉が少し残っていた。

 

 エディがベンチの手前で足を止めた。木の根元に、小さな松ぼっくりが二つ並んでいる。少年がしゃがんで片方を指で触ると、乾いた鱗片がかすかに開いていた。

 

〔持っていく?〕

 

 千綴が尋ねると、エディは首を振り、松ぼっくりを元の場所へ戻した。そのままもう一つと並べ直してから立ち上がる。

 

 ヴァシリオスが少し先で待っていた。エディが追いつくのを見ると、また歩き始める。千綴も一歩踏み出したところで、後ろにいたエレディトの声が聞こえた。

 

「千綴さん」

 

 いつもより低い声だった。振り向くと、エレディトは歩みを止め、植え込みの向こうへ目を向けている。

 

「どうしたの?」

 

「少し、こちらへ来ていただけますか」

 

 千綴が近づくと、エレディトは視線を動かさずに続けた。

 

「向こうに二人います。こちらの動きに合わせて、ずっと同じ方へ歩いているようです」

 

 示された方には、木々の間を横切る別の道があった。千綴の位置からでは枝が重なってよく見えない。少し目を凝らすと、その隙間に暗い色の上着が一瞬映り、すぐに植え込みの陰へ消えた。

 

「クラブの人じゃないの?」

 

「分かりません。少し距離を取った方がよさそうです」

 

 エレディトはそれだけ答えた。慌てた様子はないが、目はまだ木々の向こうに向いている。

 

 千綴はエディへ顔を向けた。少年は少し離れた場所で、ヴァシリオスと綾乃の話を聞いている。ここで不用意に声を張るより、まず近くにいてもらった方がいい。

 

〔エディ、こっちに来てくれる?〕

 

 千綴が手を差し出すと、エディは不思議そうに見上げてから、そばへ寄ってきた。その手に軽く触れ、千綴は自分の隣へ立たせる。

 

「綾乃も、ちょっとこっち」

 

 呼ぶと、綾乃が振り返った。千綴とエレディトの様子を見て、何か聞きかけた顔のまま近づいてくる。

 

「何かあった?」

 

「向こうに人がいるみたい。いったんクラブハウスの方へ戻ろう」

 

 千綴の言葉に、綾乃は小さく頷いた。エディを間にして、三人で来た道へ向き直る。少年の歩幅に合わせて数歩戻ったところで、前を歩いていたヴァシリオスも足を止めた。

 

「どうした?」

 

「少し、あちらを見てください」

 

 エレディトが視線で示すと、ヴァシリオスは植え込みの向こうを確かめ、千綴たちの方へ戻ってきた。エレディトもその隣へ並ぶ。細い道の奥から、靴底が砂利を踏む音が聞こえてきた。

 

 間もなく、曲がり角の向こうに男が二人現れた。

 

 二人とも落ち着いた色のコートを着ていて、見た目だけなら普通の来客と変わらない。だが、先に歩いてきた男はヴァシリオスたちを見つけると迷わず足を向け、その少し後ろをもう一人がついてきた。男たちの視線が千綴の隣へ動く。

 

 エディの手が、千綴の指をぎゅっと握った。

 

「……エディ?」

 

 千綴は少年を見下ろした。さっきまで松ぼっくりを眺めていた顔から表情が消え、男たちをじっと見つめている。

 

 ヴァシリオスが先に口を開いた。

 

〔失礼ですが、どちら様ですか。こちらに何かご用でしょうか〕

 

 男の一人が足を止めた。ヴァシリオスを見てから、その後ろにいるエディへ目をやる。

 

〔エディを迎えに来ました〕

 

 千綴はエディの肩へそっと手を添えた。迎えに来た、という言葉は聞き取れた。直嗣から連絡のあった保護担当者だろうか。だが、予定では一人だったはずだ。

 

〔迎え? どちらからいらしたんですか〕

 

〔ロンドンの施設の関係者です。彼を引き取りに来るよう指示されています〕

 

 ヴァシリオスはすぐに道を譲らなかった。

 

〔こちらでは、エディの知っている担当者が一人で来ると聞いています。お二人とは話が違いますが〕

 

〔担当が変更になりました。我々が引き継いでいます〕

 

 男は淡々と答えた。もう一人は口を挟まず、少し横へずれて道の先を見ている。ヴァシリオスが相手の手元へ視線を落とした。

 

〔身分証を拝見できますか。変更の連絡も、こちらには届いていません〕

 

〔ここで確認する必要はありません。施設の方へ問い合わせてください〕

 

 男は上着の前を押さえただけで、何も取り出さなかった。

 

 千綴はエディの顔を覗き込んだ。

 

〔この人たち、知ってる?〕

 

 エディは首を振った。

 

〔……知らない〕

 

 答える声は小さかったが、はっきりしていた。千綴は少年の手を握り返した。

 

「エディ、知らないって」

 

 日本語で伝えると、綾乃が少年へ顔を向けた。エレディトは何も言わず、男たちから目を離さない。

 

 ヴァシリオスが一歩前へ出た。

 

〔本人はお二人を知らないと言っています。施設側からも、担当が変わったという連絡は受けていません〕

 

〔連絡は後から届くはずです。こちらも時間がないので、彼を連れていきます〕

 

〔それはできません。まず確認させてください。お迎えなら受付を通していただけますか〕

 

 ヴァシリオスはクラブハウスの方を示した。正面の道を戻れば人のいる場所へ出られる。男が何かの手違いでここへ来たのなら、受付で話をすれば済むはずだ。

 

 先頭の男はそちらを見ようともしなかった。

 

〔子どもの引き渡しに、あなた方の許可は必要ありません〕

 

 それまで黙っていたもう一人が、初めて口を開いた。穏やかな声だったが、言葉の終わりに合わせて一歩近づいてくる。

 

〔困らせるつもりはありません。こちらへ来てください〕

 

 男がエディへ手を差し出した。少年は千綴の腕の陰へ身を寄せ、首を横に振る。

 

〔いやだ。行かない〕

 

 千綴はその声を聞き、男たちへ視線を戻した。

 

〔本人が嫌がっています〕

 

 短い英語で告げると、先頭の男は初めて千綴を正面から見た。その目がすぐにエディへ戻る。

 

〔少し混乱しているだけです。移動すれば落ち着きます〕

 

「そんなの、勝手に決めないでよ」

 

 思わず日本語が出た。男には通じなかったかもしれない。それでも、エディが行きたくないと言っていることは、目の前で見ているはずだった。

 

 綾乃が隣でエディに声をかけた。

 

〔大丈夫。ここにいていいよ〕

 

 エディは返事をしなかったが、千綴の手を離さずにいた。

 

 ヴァシリオスがポケットへ手を伸ばした。

 

〔家族と施設の方に確認します。それまでは、ここでお待ちください〕

 

 スマートフォンを取り出しかけた彼を見て、先頭の男の口元が固くなった。もう一人が半歩、道の端へ動く。千綴はその動きを目で追った。エレディトも同じ方へ身体を向け、エディたちの前を塞ぐように位置を変える。

 

〔待ってください〕

 

 エレディトの声は落ち着いていた。

 

 男は答えなかった。一度、目の前に立つエレディトへ視線を向けると、その横から腕を伸ばした。

 

 千綴はエディを自分の背中側へ引き寄せた。

 

 

 

 

 伸びてきた腕を、エレディトが横から払いのけた。男の指先はエディに届かず、コートの袖が千綴の視界を横切る。

 

〔エディから離れてください〕

 

 エレディトが静かに告げた。千綴はエディを背後にかばったまま、綾乃と一緒に道の端へ下がった。少年の手が強く握り返してきた。振り返っても、エディは男たちを見ているばかりだった。

 

 先に近づいてきた男が、払いのけられた手をもう一度伸ばす。今度はエレディトの襟元を掴もうとしたらしい。だが、エレディトが一歩身体をずらすと、男の手は空を切った。続けてその手首を押さえ、男が踏み込んだ方向へ腕を流す。靴底が砂利を擦り、男の身体が斜めに傾いた。

 

 男は転ぶ寸前で踏みとどまった。掴まれていた腕を振りほどき、今度は拳を握って向き直る。

 

「エレディト!」

 

「大丈夫です。二人とも、もう少し後ろへ」

 

 返事と同時に、男の拳が動いた。エレディトは腕を上げて受け、押し返すのではなく身体を横へ抜く。男が勢い余って一歩進んだところで、その肩を押さえて向きを変えた。男は植え込みの石縁へ足を掛け、慌てて踏み直す。

 

 千綴には、どこで手が入れ替わったのか見えなかった。気づいたときには男が二歩後ろへ下がり、エレディトだけが元の場所に立っていた。

 

 もう一人が動く。

 

 ヴァシリオスの脇を抜け、千綴たちのいる方へ走ろうとした。ヴァシリオスは咄嗟に前へ回り、肩を引いて進路を塞いだ。二人の身体がぶつかり、彼の靴が砂利を滑る。

 

「ヴァシリオス!」

 

「平気! エディから離れるなよ!」

 

 千綴は少年の肩を抱いて、一歩後ろへ退いた。背中のすぐ先は植え込みで、これ以上下がるなら道を戻るしかない。綾乃が反対側へ回ってエディの背に手を添える。

 

 目の前では、ヴァシリオスを押しのけようとした男が急に横へ引かれた。エレディトが一人目から離れて回り込み、その腕を押さえていた。男は自由な手で殴ろうとしたが、エレディトが身体を低くすると、拳は空を切る。次いで腕を持ち上げられ、男は身を捻ってどうにか振りほどいた。

 

 一人目も立て直して近づいてくる。二人が左右に分かれようとしたところで、エレディトは石縁のない方へ一歩動き、先に来た男の進路を塞いだ。男が方向を変える。もう一人もそれに合わせて止まった。どちらもエディの方へ進むには、エレディトの前を通るしかない。

 

 男の一人が短く息を吐いた。

 

〔……面倒な相手だな〕

 

 その声が聞こえたとき、千綴はエディを抱く腕へ力を込めた。男の視線はまだ自分たちに向いていたが、先ほどのように無理やり近づいてこようとはしなかった。

 

 ヴァシリオスがスマートフォンを取り出す。

 

〔クラブの警備を呼びます。もう近づかないでください〕

 

〔おおごとにする必要はないでしょう〕

 

〔十分おおごとです〕

 

 ヴァシリオスは言い返し、そのまま電話をかけた。呼び出し音の間にも男たちは互いの顔を見たが、足を踏み出さない。エレディトは二人の間に目を配り、千綴たちの前から動かずにいた。

 

〔ゲオルギオス? 庭の奥だ。知らない男が二人、エディを連れていこうとしてる。警備の人を頼む!〕

 

 返事を聞いて通話を切ると、ヴァシリオスがエレディトの少し後ろへ並んだ。千綴はエディの顔を覗いた。少年は唇を結び、目を伏せずにいる。

 

 遠くで笛の音がした。

 

 木々の向こうから人の声が重なり、続いて砂利を踏む足音が近づいてくる。ヴァシリオスがそちらへ顔を向けた。

 

「警備の人だ!」

 

 男たちも音のした方を見る。一人がエディへ目を向け直したが、エレディトが動かずにいるのを見て、隣の男へ何か短く告げた。二人は後退し、来た道とは別の細い通路へ入っていった。

 

〔待ちなさい!〕

 

 ヴァシリオスが呼び止めても、男たちは振り向かなかった。コートの裾が植え込みの間に消え、足音も少しずつ遠ざかる。エレディトは追いかけず、その方を見つめたまま待っていた。

 

 千綴もすぐには足を動かせなかった。手を緩めると、エディがまだ握っていることに気づく。少年の指先が冷たい。

 

〔もう行ったよ〕

 

 声をかけると、エディは一度だけ千綴を見上げた。それから男たちが消えた方を確かめ、また千綴のそばへ身体を寄せた。

 

 庭の奥から、警備員らしい二人が駆けてきた。一人は無線機を口元へ寄せ、もう一人がヴァシリオスへ話しかける。ヴァシリオスは息を整えながら、男たちが去った方向を示した。

 

 千綴はエレディトへ近寄り、彼の肩から腕にかけて目を走らせた。上着には少し皺が寄っていたが、目立った汚れはなかった。

 

「どこか痛めてない?」

 

「大丈夫です。千綴さんたちは?」

 

「私たちは平気。エディも、怪我はしてないと思う」

 

 千綴は少年へ目を向けた。エディは小さく頷いたものの、口を開かなかった。綾乃が腰を落として少年の顔を覗き込み、ゆっくり声をかける。

 

〔少し、中へ戻ろうか〕

 

 エディが千綴を見る。千綴も頷くと、少年はようやく握る力を緩めた。

 

 

 

 

 

 クラブハウスへ戻る頃には、玄関付近に何人かの職員が集まっていた。すれ違う会員たちも足を止め、係員へ何かを尋ねている。千綴たちは人の少ない部屋へ通され、水を用意してもらった。

 

 エディは椅子へ腰を下ろしても上着を脱がなかった。千綴が隣に座ると、少年は膝の上へ両手を置いたまま、扉の方を見ている。

 

 廊下で足音がすると、そのたびに顔が上がった。

 

 綾乃が持ってきたグラスを少年の前へ置いた。

 

〔お水、ここに置くね〕

 

〔……ありがとう〕

 

 エディは小さな声で答え、しばらくしてからグラスへ手を伸ばした。千綴も自分の水を飲む。喉を通る冷たさを感じて、ようやく口の中が乾いていたことに気づいた。

 

 ゲオルギオスが部屋へ入ってきたのは、それから少ししてのことだった。ヴァシリオスが立ち上がり、彼と二、三言交わす。ゲオルギオスはエディの様子を確かめるように目を向けてから、千綴たちへ向き直った。

 

〔皆さん、お怪我はありませんか〕

 

 丁寧な英語だった。ヴァシリオスが質問の意味を千綴と綾乃に伝えると、二人は怪我がないと答えた。エレディトとエディも無事だと分かり、ゲオルギオスは一度頷いた。

 

 ヴァシリオスが日本語で続けた。

 

「さっきクラブの人が、別の通路で倒れている警備員を見つけたらしい。意識を失ってたって」

 

「え……」

 

 綾乃が顔を上げる。千綴も思わず息を呑んだ。少し前まで普通に歩いていた庭のどこかで、警備の人が倒れていたという。あの二人は、いつから敷地にいたのだろう。

 

「もう手当ては受けてるそうだ。今のところ、あの二人との関係も含めて確認してるって」

 

 ヴァシリオスが付け加えた。誰が倒したのかは、まだ分かっていないということだった。

 

 廊下の向こうでまた無線の音が聞こえた。ゲオルギオスは扉を閉める前に足を止め、ヴァシリオスへ何か話しかける。ヴァシリオスは頷き、皆の方へ向き直った。

 

「じいちゃんの家に戻ろう。こっちはクラブの人たちが対応してくれる。必要な話は俺たちもしたし、何かあったら後で連絡をもらうことになった」

 

 千綴はエディへ顔を向けた。ヴァシリオスがそばへ来て手を差し出すと、少年は少し間を置いて椅子から立ち上がった。

 

 クラブハウスを出ると、車寄せには朝と同じように人が行き交っていた。入口の近くでは、スポーツバッグを提げた会員が係員と話している。千綴は一度だけ建物の奥へ目を向けたが、さっきまで歩いていた道は、ここからでは見えなかった。

 

 

 

 

 

 邸宅に戻ると、ディミトリオスが玄関で出迎えた。いつもの穏やかな表情は残っていたが、ヴァシリオスの話を聞く間はほとんど口を挟まなかった。ゲオルギオスも隣に立ち、クラブで何が分かっているのかを補っている。

 

 千綴はエディと一緒に少し離れたところで待った。少年が自分の上着の袖を握り、玄関の奥に視線を向ける。そこから祖母が姿を見せると、エディはわずかに身体を動かした。

 

 祖母はすぐに事情を聞こうとはせず、少年のそばへ来て肩の高さまで身をかがめた。

 

〔戻ってきたのね。寒かったでしょう〕

 

 エディは返事をしなかった。それでも、差し出された手にはそっと触れた。

 

〔温かいものを用意してあるから、少し休みましょう〕

 

 千綴は祖母の言葉を聞きながら、直嗣に連絡しなければと思った。迎えの予定について確かめたばかりなのに、その名を使って近づく人間が現れた。単なる行き違いで済ませられることではない。

 

 応接室へ通され、エディが祖母の隣で温かい飲み物を受け取るのを見届けてから、千綴はスマートフォンを取り出した。

 

『朝倉さん、エディのことで連絡です。今日、みんなで外出していたんですが、そこでロンドンの施設の関係者だと名乗る男が二人現れて、エディを連れていこうとしました。本人は知らない人だと言って拒否しています。今は全員、ヴァシリオスの祖父母の家に戻っています』

 

 打ち終えて読み返すと、まだ伝えていないことがあった。相手が身分証を見せなかったこと。それに、エレディトが止めようとして実際に殴りかかられたこと。

 

 千綴はその二点と、警備が来て男たちが逃げたことをもう一通のメッセージにまとめて送った。画面を閉じようとしたところで、着信が入る。

 

「朝倉さん?」

 

『千綴か。無事か?』

 

 聞き慣れた声だった。千綴は椅子から少し離れ、窓際へ移動する。

 

「はい。エディも含めて全員、怪我はありません。エレディトが止めてくれました」

 

『まずはよかった。今いる家の人たちには話してあるか』

 

「はい。家の方もクラブの職員さんと話してくれています。それと、警備の方が一人、意識を失っているのが見つかったそうなんです。あの男たちと関係があるかは、まだ分からないみたいで……」

 

 電話の向こうで、短く何かを書き留める音がした。

 

『警備員まで倒れていたのか。現地の警察にも、きちんと報告してもらってくれ』

 

「はい」

 

『迎えの担当が変更されたという連絡は、こちらには来ていない。ロンドン側にも改めて確認する。それまでは、誰が来てもエディを引き渡さないでくれ』

 

「分かりました」

 

『千綴たちも無理に動くな。現地の対応はそちらの大人に任せていい。何か分かれば、また連絡する』

 

 千綴は礼を言って通話を終えた。スマートフォンを持ったまま、窓の外を見る。庭の木々はクラブで見たものと似ていたが、こちらの道には誰もいなかった。

 

 戻ると、ヴァシリオスが祖父のそばで何かを話していた。千綴が直嗣から聞いたことを伝えると、彼は真剣な顔で頷いた。

 

「じいちゃんにも話しておく。エディは、ちゃんと分かる人が迎えに来るまでここにいてもらおう」

 

 千綴はエディの方を見た。少年は祖母の隣に座り、両手でカップを包んでいる。こちらの会話が終わったのに気づいたのか、顔を上げて千綴を見た。

 

〔……ここにいてもいい?〕

 

 小さく尋ねられ、千綴はすぐに頷いた。

 

〔うん。大丈夫だよ〕

 

 その返事を聞くと、エディはカップへ視線を戻した。膝の上で揃えた足はまだ落ち着かない様子だったが、温かい飲み物を一口、ゆっくり飲んだ。

 

 千綴も向かいの椅子に座った。外から聞こえるのは、庭木を揺らす風の音だけだった。

 

 

 

 

 夕食に出された温かいスープをすくうと、湯気が千綴の頬に触れた。食卓にはパンや野菜の皿も並んでいる。いつもなら祖母が次々に勧めてくれるところだが、今夜はエディの皿を気にかけながら、ゆっくり食べていた。

 

 エディは少しずつスープを飲んでいた。隣に座るヴァシリオスがパンの籠を寄せると、少年は一つ取って小さくちぎる。千綴はその様子に目を向けてから、自分の皿へ戻った。

 

 食事の途中でゲオルギオスが入ってきた。ディミトリオスのそばへ寄り、声を落として何かを伝える。祖父が頷くと、ヴァシリオスが二人を見上げた。

 

〔何か分かった?〕

 

 ゲオルギオスの返事を聞き、ヴァシリオスは千綴たちへ向き直った。

 

「クラブの方から連絡があった。警備員の人は手当てを受けてるって。詳しい状況は警察にも伝えて、出入りの記録も確認してるらしい」

 

「じゃあ、あの人たちのことも調べてもらえるんだね」

 

「うん。まだ見つかってはいないけど、クラブだけで済ませる話にはしないって」

 

 綾乃が息を吐いた。千綴もスプーンを置き、エディの方を見る。少年は日本語の会話には加わらず、手元のパンをちぎっていた。

 

 ディミトリオスはゲオルギオスともう一度話し、千綴たちへ穏やかな声で言った。

 

「この家でも、訪ねてくる人は……しっかり確認します。何かあれば、私たちが対応します。今夜は休んでください」

 

「ありがとうございます」

 

 千綴が答えると、祖父は頷いた。男たちがどこへ行ったのかも、誰の指示で来たのかもまだ分からない。けれど、クラブで起きたことは警察にも伝わり、この家でも勝手に誰かを通すことはないと分かった。千綴は少し冷めたスープをもう一口飲んだ。

 

 食事が終わって席を離れる前に、千綴はヴァシリオスへ声をかけた。

 

「明日のこと、エディにも話しておきたいんだけど」

 

「そうだな。ちゃんと伝えよう」

 

 ヴァシリオスが少年へ向き直り、声を和らげる。

 

〔千綴たちは明日、日本に帰るんだ。飛行機の時間があるから、朝になったら出発するよ〕

 

 エディの手が止まった。千綴を見て、隣の綾乃とエレディトにも目を向ける。

 

〔……みんな?〕

 

〔俺はまだこっちにいる。じいちゃんたちもいるから、大丈夫だよ〕

 

 ヴァシリオスが答えると、エディは彼を見上げた。返事はすぐにはなく、少年はまた千綴の方へ顔を向けた。

 

〔明日の朝、ちゃんと挨拶しようね〕

 

 千綴が言うと、エディは少し間を置いて頷いた。祖母が少年のそばへ来て手を差し出し、エディもそれを見て椅子から下りた。

 

 千綴は皆と一緒に食堂を出た。廊下には、庭に面した窓から夜の暗さが見えていた。

 

 客用別館の部屋へ戻り、千綴はベッドの上に旅行鞄を広げた。

 

 畳んだ服を片側へ詰め、空いたところに洗面道具の袋を収める。帰国した日は一度アパートへ戻り、翌日に実家へ向かう予定だ。移動中に必要なものは手荷物へ分けておく。ファスナーを閉めかけ、まだ机に置いたままだった充電器に気づいて手を伸ばした。

 

 扉が控えめに叩かれた。

 

「ちづる、まだ起きてる?」

 

「うん。入っていいよ」

 

 綾乃が顔を覗かせた。自分の部屋でも荷造りをしていたらしく、片手に小さな袋を持っている。

 

「これ、ちづるのじゃない?」

 

 中には千綴が借りていたヘアゴムが入っていた。旅行中、綾乃の部屋に置き忘れていたらしい。

 

「あ、そうだった。ありがとう」

 

「どういたしまして。……あれ、まだ結構残ってる?」

 

「もう大体終わり。あとは明日の朝使うものくらい」

 

 綾乃が空いている椅子へ腰を下ろした。千綴はヘアゴムを手荷物に入れ、服の端を直してから鞄を閉じる。

 

「帰るんだね」

 

 綾乃の声に、千綴は顔を上げた。

 

「うん」

 

「なんか、あっという間だったな。アクロポリスとか見に行ったの、もっと前みたい」

 

「あれからいろいろあったもんね」

 

「……そうだね」

 

 綾乃は膝の上の袋を指先で折り畳んだ。千綴もその続きを口にしかけたが、窓に映る二人の姿を見て、ひとまず机の上を片づけることにした。

 

「エディ、大丈夫かな」

 

 綾乃が小さく言った。

 

「分からない。さっきはご飯も食べてたけど」

 

「うん。無理して元気にしようとしてた感じでもなかったし」

 

 千綴は机の端に残った小さな紙袋を鞄へ入れた。今日の庭でエディが見つけた松ぼっくりを思い出す。持って帰るか聞いたときは首を振ったのに、二つの向きだけ丁寧に揃えていた。

 

「明日、ちゃんと挨拶しよう」

 

「そうだね」

 

 綾乃は椅子から立ち上がったが、扉へ向かいかけて足を止めた。

 

「中村くん、残るのがちょっと羨ましいな」

 

「綾乃、もう少し観光したかった?」

 

「それもあるけど。エディと、もうちょっと遊びたかったかな」

 

 千綴は頷いた。昼間、低いテーブルを挟んでエレディトと卓球をしていたエディは、球が横へ飛ぶたびに目を動かしていた。あんなふうに遊んでいたところから、まだ一日も経っていない。

 

「また会えたらいいね」

 

「うん」

 

 綾乃は笑って、それから部屋を出ていった。

 

 扉が閉まると、千綴は鞄の持ち手を倒し、ベッドの横へ寄せた。スマートフォンにはまだ新しい連絡は来ていない。画面を伏せて充電につなぎ、明日着る服だけを椅子の背に掛けた。

 

「そっちの鞄も、車に積んでいい?」

 

 玄関に並べた荷物を見て、ヴァシリオスが尋ねた。

 

「うん、お願い。重い方は気をつけてね」

 

「任せろ」

 

 ヴァシリオスが取っ手を引き上げると、車輪が石の床を滑った。玄関前にはすでに送迎車が停まり、運転手が荷物を受け取るために近づいてくる。ゲオルギオスもそばで、預ける鞄の数を確かめていた。

 

 千綴は上着の袖を通し、玄関の奥へ振り返った。エディが祖母の隣に立っている。朝食のあとからずっと一緒だったわけではないが、鞄を運ぶ音が聞こえたのか、皆を見送りに出てきたらしい。

 

 祖母が千綴へ歩み寄った。

 

「長い移動になるから、気をつけて帰ってね。またいつでもいらっしゃい」

 

「はい。本当にお世話になりました」

 

 千綴が頭を下げると、綾乃も隣で礼を言った。ディミトリオスはエレディトと握手を交わし、それから千綴たちへ穏やかに頷いた。

 

「せっかく来てくれたのに……最後に、怖い思いをさせましたね」

 

「そんなこと……。クラブでも、皆さんに助けていただきました」

 

 千綴が答えると、祖父は静かに頷いた。近くではゲオルギオスが車の方へ歩き、運転手に何か声をかけている。

 

 エディが一歩、祖母のそばを離れた。

 

〔……もう行くの?〕

 

 千綴へ向けられた問いだった。昨夜も出発する話はしたが、玄関に並ぶ鞄を見たエディは、今ようやくそのことを確かめているようだった。

 

〔うん。これから空港に行くんだ〕

 

 少年の目が玄関先の鞄へ移る。

 

〔ヴァシリオスも?〕

 

〔俺はまだこっちにいるよ〕

 

 ヴァシリオスが横から答えると、エディはそちらを見た。

 

〔じいちゃんたちの家にいるから、何かあったら呼んでくれ〕

 

 エディは少し考えてから、ヴァシリオスへ頷いた。祖母がその肩に軽く手を添えると、少年はもう一度千綴を見上げた。

 

〔……僕も、日本に戻りたい〕

 

 エディは言い終えても、千綴から目を離さなかった。千綴がしゃがもうとしたところで、ヴァシリオスが先に少年と目を合わせた。

 

〔分かった。そのことも、じいちゃんたちに伝えよう。迎えに来る人のことは、ちゃんと確かめてからにしような〕

 

〔……うん〕

 

 エディは頷いたものの、その場を動かなかった。

 

〔千綴に、また会える?〕

 

 千綴もしゃがんで、少年の顔を見た。

 

〔うん。また会おう〕

 

 エディは口を開きかけ、少し間を置いてから頷いた。

 

 綾乃が隣へしゃがんだ。

 

〔今度会ったら、また一緒に遊ぼうね〕

 

 エディが小さく頷く。エレディトも少年へ軽く身をかがめ、挨拶した。

 

〔元気でね〕

 

 エディはエレディトの袖へ視線を落とし、それから顔を上げた。

 

〔……昨日、助けてくれてありがとう〕

 

 エレディトは少し目を見開き、すぐに柔らかく微笑んだ。

 

〔どういたしまして〕

 

 千綴が立ち上がると、エディは一歩下がって祖母の隣へ戻った。ヴァシリオスが残りの手荷物を取り、玄関から外へ出る。千綴たちも続いた。

 

 車へ乗り込む前に振り返ると、エディが玄関の敷居に立っていた。祖母に急かされるでもなく、片手を胸のあたりまで上げる。

 

 千綴も手を振った。綾乃がその横から大きく振り、エレディトも軽く手を上げる。

 

 車が動き出すと、玄関の二人はゆっくり遠ざかっていった。エディの小さな手がまだ上がっているのが見えたが、車が木立の間を曲がると姿は隠れた。

 

 空港へ向かう車の中で、綾乃は何枚かの写真を見返していた。

 

「見て。アクロポリスで撮ったやつ、結構きれいに写ってる」

 

 画面には、白い石の建物を背に立つ四人の姿が映っていた。千綴は綾乃の手元を覗き込み、自分の髪が風で乱れているのを見つけた。

 

「あ、このとき結構風が強かったよね」

 

「そうそう。あとで写真まとめて送るね」

 

「俺にも頼む。じいちゃんたちに見せたいし」

 

「うん。ちゃんと送るよ」

 

 千綴は二人のやり取りを聞きながら、窓の外へ目を向けた。郊外の落ち着いた道を抜けると、店や車の数が少しずつ増えてくる。来たときも同じ道を通ったのだろうが、あのときは窓の景色を見る余裕があまりなかった。

 

 前の席ではゲオルギオスが運転手と短く言葉を交わしていた。車内に響く会話も、荷物が揺れる小さな音も、しばらくすると当たり前のように耳へ馴染んでくる。

 

 空港に着いてからは、預ける荷物や搭乗手続きの確認で慌ただしかった。ヴァシリオスが手伝ってくれたおかげで、千綴たちは大きな鞄を預け、身軽になって出発口へ向かうことができた。

 

 保安検査場の手前で、ヴァシリオスが立ち止まった。

 

「じゃあ、ここまでだな」

 

「うん。案内、ありがとう」

 

「中村くん、また学校でね」

 

 綾乃が言うと、ヴァシリオスは笑って頷いた。

 

「うん、また学校で!」

 

 千綴は小さく笑い、彼の顔を見た。普段は教室で顔を合わせているのに、こうして国をまたいで別れるのは妙な気分だった。

 

「ヴァシリオスも、ちゃんと休んでね。エディのこと、気になるだろうけど」

 

「うん。俺にできることはやるよ。あとはじいちゃんたちとも相談する」

 

 ヴァシリオスはそう答えてから、エレディトへ顔を向けた。

 

「昨日は助かった。あのままだったら、どうなってたか分からなかった」

 

「いえ。皆さんに怪我がなくてよかったです」

 

 エレディトは少し照れたように視線を下げ、持っていた手荷物の持ち手を握り直した。

 

「そっちも、気をつけて帰って」

 

「うん。向こうに着いたら連絡するね」

 

 千綴が言うと、ヴァシリオスは手を挙げた。

 

 綾乃が先に列へ進み、エレディトが続く。千綴は数歩歩いてから振り返った。ヴァシリオスはまだ同じ場所にいて、こちらに気づくともう一度手を振った。

 

 千綴は軽く振り返し、二人の後を追った。

 

 イスタンブールで乗り継ぎ、再び飛行機に乗る頃には、千綴の身体はすっかり座席に慣れていた。

 

 窓の外には滑走路の明かりが並んでいる。機体が動き始めると、座席に伝わる振動が少しずつ強くなった。千綴はベルトを確かめ、背もたれへ身体を預ける。

 

 隣の綾乃は毛布を膝に広げ、小さく欠伸をした。

 

「帰ったら、まず何しようかな」

 

「寝る?」

 

「それは絶対する。でも、帰ったって感じがするもの食べたい」

 

「何?」

 

「お味噌汁とか。あとおにぎり」

 

「ああ、分かる」

 

 千綴は笑った。旅行中に食べた料理はどれも印象に残っている。それでも、帰ると聞いて思い浮かぶのは、いつも食べているものだった。

 

「ちづるは帰ったら実家だっけ?」

 

「うん。でも一度部屋に戻って、次の日に帰るつもり」

 

「そっか。実家に帰るの、夏休み以来だっけ?」

 

「うん。帰ったら多分、まず荷物の多さに驚かれるかな」

 

「ふふ、確かに。お土産もあるもんね」

 

 千綴も笑ってから、窓の外へ目を戻した。滑走路の光がゆっくり横へ流れ、やがて速度を増していく。

 

 長い移動の間、千綴は何度か眠った。目を覚まして飲み物を受け取り、窓の日除けを少し上げると、下には雲が広がっていた。綾乃は隣で映画を見ている。通路を挟んだ席では、エレディトが本を閉じるところだった。

 

 千綴はスマートフォンの機内モードを確かめ、画面を消した。向こうで何か分かっただろうか。気になっても、今は確かめようがない。膝の上に手を置くと、エディが掴んでいた指のあたりに、あのときの力がふと蘇った。

 

 千綴は指をゆっくり握り、それから開いた。窓の外の雲は途切れず、機体の影も見えないほど下まで広がっていた。

 

 羽田空港の到着ロビーへ出たとき、千綴は思わず足を止めた。

 

 案内表示に並ぶ日本語、行き交う人たちの声、売店から漂う飲み物の匂い。普段なら気にも留めないようなものが、今は妙に懐かしく感じられた。

 

「帰ってきたね」

 

 綾乃が隣で言った。

 

「うん。ほんとに」

 

 受け取った旅行鞄を引き、三人で駅へ向かう。エスカレーターの手前で綾乃がスマートフォンを取り出し、家へ連絡を入れた。エレディトも到着を知らせる短いメッセージを送っている。

 

 千綴も荷物を壁際へ寄せ、母へメッセージを送った。

 

『羽田に着いたよ。今日は一度部屋に戻って、明日そっちに帰るね。着く時間はまた連絡する』

 

 送信を確かめ、スマートフォンをポケットへ戻した。

 

「ちづる、こっちだよ」

 

 綾乃に呼ばれ、鞄を引き寄せる。三人で電車に乗り、揺られながら乗り換えの案内を見上げた。

 

 乗換駅で降りると、千綴の向かうホームは二人と別の方向だった。階段の手前で足を止める。

 

「じゃあ、ここで別れるね」

 

「うん。私はこのまま部屋に戻るから」

 

「着いたら教えてね」

 

「綾乃もね。エレディトも、気をつけて」

 

「はい。千綴さんも、よいお休みを」

 

 エレディトが丁寧に頭を下げた。綾乃は片手を振り、エレディトと一緒に別の階段へ歩いていく。千綴も二人を見送ってから、自分の乗る電車の案内を見上げた。

 

 千綴はスマートフォンを鞄の外ポケットへしまい、ホームへ向かった。

 

 入ってきた電車の扉が開く。旅行鞄の車輪が床の継ぎ目で小さく跳ね、千綴は取っ手を握り直した。空いている座席へ荷物を寄せると、窓の外には見慣れた冬の街並みが続いている。

 

 やがて扉が閉まり、電車はゆっくりと走り出した。

 

 千綴は座席に落ち着いてから、スマートフォンを取り出した。ヴァシリオスから、少し前にメッセージが届いていた。

 

『そろそろ日本に着いた頃か? みんな無事に帰れた?』

 

 千綴は画面を見て、返信を打った。

 

『うん、無事に着いたよ。今は帰りの電車。旅行、すごく楽しかった。いろいろありがとう!』

 

 少し考えて、もう一通送る。

 

『そっちは大丈夫? エディはどうしてる?』

 

 返事を待つ間、千綴はスマートフォンを膝の上に置き、窓の外へ目を向けた。

 

 いくつか駅を過ぎた頃、画面に新しい通知が表示された。

 

『無事に着いてよかった! 俺も楽しかったよ! こっちは大丈夫。エディもばあちゃんと一緒にいるよ』

 

 千綴は画面を見つめ、少しだけ息を吐いた。男たちが何者だったのかは分からず、エディの迎えについても、まだ確かな答えは届いていない。けれど、あの家で祖母と一緒に過ごしていると聞いて、玄関で手を振っていた少年の姿が浮かんだ。

 

 千綴はスマートフォンを鞄の外ポケットへしまった。

 

 丘平駅に着く頃には、外はすっかり暗くなっていた。千綴は旅行鞄を引いて駅を出た。商店街を抜け、いつもの道を歩く。鞄の車輪が舗装の継ぎ目を越えるたびに、持ち手が小さく震えた。

 

 アパートの鍵を開けて中へ入る。閉め切っていた部屋はひんやりとしていた。千綴は照明と暖房をつけ、玄関脇に鞄を寄せた。机も棚も、出発したときと変わっていない。

 

 スマートフォンを取り出すと、母から返事が届いていた。

 

『おかえり。長旅お疲れさま。部屋に着いたら連絡してね』

 

 千綴は画面に短く打ち返した。

 

『今、部屋に着いたよ。明日の電車が決まったら、また連絡するね』

 

 上着を脱いで椅子に掛けると、思わず欠伸が出た。千綴は鞄のファスナーを開き、今夜使うものだけを取り出した。

 

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