空の結び目   作:夕花

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 羽音は、頭上から落ちてきた。

 

 枝を埋めていた黒い影が一斉に飛び立ち、霧を巻き込みながら低く旋回する。何十もの翼が空気を叩く音は、雨よりも近く、重かった。街灯の光が明滅し、地面を走る影が幾重にも重なる。

 

 直嗣の左腕が千綴の胸元を横切った。

 

「下がれ」

 

 押されたわけではない。ただ、その腕が作った線を越えてはいけないことだけは分かった。

 

 千綴が一歩退いた時には、直嗣の両手に黒いトンファーが収まっていた。いつ抜いたのか見えなかった。前腕に沿わせた二本をわずかに開き、頭と胴を庇うように構える。

 

 最初の一羽が、嘴ではなく爪を前へ突き出し、正面から来た。

 

 直嗣は振り払わなかった。左のトンファーを斜めに立て、黒い腹をその外側へ滑らせる。羽毛が数枚散り、勢いを逸らされたカラスが濡れた砂地へ落ちた。翼をばたつかせ、すぐにまた身を起こす。

 

 その横を二羽目が抜け、真っ直ぐ千綴の顔へ向かってくる。

 

 視界いっぱいに黒い翼が広がり、千綴は反射的に腕を上げた。衝突より先に鈍い音が鳴る。直嗣の右手が横から差し込まれ、トンファーの長い軸でカラスを打ち落としていた。

 

「顔を伏せろ。俺の背中から出るな」

 

「はい」

 

 返事をした声が、羽音に呑まれた。

 

 カラスは一度に襲ってこなかった。

 

 頭上を大きく回る群れから、二羽、三羽と分かれて高度を落とす。正面から直嗣へ向かうものもいれば、左右へ膨らみ、背後へ回ろうとするものもいる。霧の中で黒い輪が狭まり、そのたびに直嗣は身体の向きを変えた。

 

 千綴も背中を追って動いた。右へ半歩、次は左。直嗣が退けば、自分も退く。

 

 足元の砂は夕立を吸って重く、靴底が僅かに沈んだ。視線を上へ向けると地面が見えず、足元を確かめれば、翼がどこから降りてくるのか分からなくなる。

 

 何かが髪を掠めた。

 

 千綴が息を呑むより早く、直嗣の肩がぶつかるように寄ってくる。押し退けられた場所へ、カラスの爪が空を切って通り過ぎた。

 

「怪我は」

 

「ないです」

 

「後ろに滑り台がある。そこまで下がる」

 

 千綴は振り返らずに頷いた。

 

 公園へ入った時、滑り台は左手にあった。今は霧と羽の向こうで、赤く塗られた支柱だけがぼんやり見えている。あそこまで移れば、少なくとも背後と片側から同時に襲われることはなくなる。

 

 直嗣が一歩退く。

 

 それに合わせようとした時、右の植え込みが大きく揺れた。

 

 低い唸り声が羽音の下を這う。

 

 痩せた犬が、葉を散らして飛び出した。

 

 濡れた毛を逆立て、直嗣ではなく千綴を見ている。開いた口の奥で歯が白く光った。

 

「右!」

 

 直嗣はもう動いていた。

 

 千綴の前へ右脚を引き、身体を半分沈める。噛みつこうとした犬の顎を右のトンファーで下から受け、首を捻るように軌道を外す。左手の一本を胴へ添え、その勢いのまま横へ押し流した。

 

 犬は水たまりへ横倒しになり、濡れた地面を滑った。強く打ち据えたわけではないが、すぐには起き上がれず、爪で砂を掻いている。

 

 直嗣の視線が一瞬だけ犬へ落ちた。

 

 その一瞬を、男は待っていた。

 

 霧の向こうで上げられていた手が、僅かに動く。

 

 白く細いものが、街灯の光を横切った。

 

「朝倉さん!」

 

 針は直嗣の右手へ向かっていた。

 

 右のトンファーが翻り、硬い音が一つ鳴る。針状のものは弾かれ、濡れた砂の上へ落ちる前に輪郭を失った。

 

 防いだと思った直後、直嗣の右腕が不自然に止まった。トンファーを戻しかけた姿勢のまま、肘から先だけが一拍遅れる。

 

 そこへ二羽のカラスが左右から飛び込んだ。

 

 左の一本が片方を受ける。もう片方の爪が直嗣の右肩を掠め、黒い上着に細い裂け目を残した。

 

 直嗣は顔色を変えなかった。止まっていた右手を一度強く握り直すと、遅れを取り戻すようにトンファーを振り抜く。追いすがったカラスが風圧に煽られ、群れの中へ押し戻された。

 

「今の……」

 

「動く」

 

 直嗣は右手を開き、すぐに握った。

 

「完全には取られてない。下がるぞ」

 

 淡々とした声だった。

 

 けれど、千綴は自分の右手を握っていた。

 

 あの日、同じ場所へ針を打ち込まれた。

 

 痛みはほとんどなかった。ただ、そこにあるはずの手が自分のものではなくなった。動かそうとする考えだけが行き場を失い、指一本曲げられなかった。

 

 それでも直嗣の腕は動いている。自分の時と同じではない。その違いを、男も見ていた。

 

 霧の奥で口元から表情が消え、上げたままの指がゆっくり曲がる。

 

「なぜだ」

 

 静かな声が、羽音の切れ間を通った。

 

「なぜ、お前は動く」

 

 直嗣は答えない。

 

 右肩の傷を確かめることもせず、千綴を背にしたまま滑り台へ向けて後退する。急がず、一歩ごとに足場を選んでいた。

 

 男の視線が、その肩越しに千綴へ移った。

 

「お前もそうだった」

 

 ぞっとするほど平らな声だった。

 

「私のものになった。それなのに、動いた」

 

 千綴の指先が冷える。

 

「あなたのものになんて、なってない」

 

 男の眉が微かに寄った。

 

 その変化に呼応するように、周囲の羽音が低くなる。旋回していたカラスが高度を落とし、植え込みの陰では、もう一頭の犬がゆっくり立ち上がった。

 

「なった」

 

 今度の声には、押し殺した熱があった。

 

「右手も、左手も、脚も。最後には息も止まった。お前は、確かに完成した」

 

 あの夜が、言葉にされて戻ってくる。動かなくなった身体。遠ざかる声。地面から伝わった冷たさに、千綴の足が止まりかけた。

 

「弥生」

 

 直嗣は振り返らなかった。

 

「俺の声を聞け」

 

 低く、はっきりした声だった。

 

 千綴は直嗣の背中を見る。

 

 霧に濡れた黒い上着。右肩に走った裂け目。その向こうで、二本のトンファーがまだ揺らがず構えられている。

 

「今、右足を下げろ」

 

 言われた通りにする。

 

 踵が硬いものへ触れた。滑り台を囲う低い柵だった。

 

「左へ二歩。支柱を背にしろ」

 

 千綴は足元を確かめながら動いた。

 

 赤い支柱が背中へ当たる。右側には滑り台の斜面があり、左には直嗣が立っている。完全に囲われたわけではないが、さっきまでより見なければならない方向は少ない。

 

「ここを動くな」

 

「朝倉さんは」

 

「ここで止める」

 

 直嗣が半歩前へ出た。

 

 それまで後退していた動きが止まる。

 

 男との間には、濡れた砂場とベンチが一つ。十数歩ほどの距離がある。上にはカラスの群れ。右の植え込みに犬が一頭、左手の暗がりにも四つ脚の影が見えた。地面近くを走る小さな影は、もう数えられない。

 

 公園の入口は直嗣の左後方にあり、応援の車両はその外で待っているはずだった。

 

 胸元の無線から、ひどく遠い声が漏れた。羽音と唸り声に混じって内容までは聞き取れない。

 

 直嗣は左手をトンファーから離さず、手首だけを返して送信部を押した。

 

「接触した。一般要員は入れるな。外周を封鎖、住民を近づけるな」

 

『了解。応援を――』

 

「それまで持たせる」

 

 通信を切る。

 

 その短いやり取りのあいだ、〈標本家〉は動かなかった。

 

 けれど、待っているようには見えない。千綴には、男を中心に広がっていた何かが、ゆっくり形を変えていくように感じられた。

 

 木々を回っていたカラスが、見えない糸を引き寄せられるように公園の中央へ集まり始める。犬たちも低く身を伏せ、地面の影が植え込みの縁へ寄ってきた。

 

 ばらばらだったものが一つの意思へ揃っていくのを察したのか、直嗣が僅かに腰を落とした。

 

「来るぞ」

 

 カラスの群れが、今度は正面ではなく左右へ割れた。

 

 右から来る群れに直嗣が身体を向ける。その背後を狙うように、左の犬が駆け出した。濡れた土を蹴る音が近づき、同時に足元の植え込みからネズミが何匹も飛び出す。

 

 上と左右、それに足元。どれか一つなら、直嗣は迷わなかったのだと思う。けれど、背後には千綴がいる。

 

 右の群れを追い払えば、犬が抜ける。犬を止めるために踏み込めば、頭上が空く。足元を払えば、その一瞬だけ千綴との間に隙間ができる。

 

 直嗣は踏み込まなかった。

 

 右のトンファーを長く持ち替えてカラスの軌道を外へ払い、左脚で犬の鼻先を牽制する。足元へ来たネズミは蹴り飛ばさず、靴底を滑らせるようにして進路を塞いだ。

 

 すべてを倒す動きではない。一本の線も千綴へ通さないための動きであり、そのぶん、直嗣自身へ向かうものが残る。

 

 犬の爪が脛を掠めた。カラスの嘴が左腕の布を突き、すぐに飛び去る。追う余裕はない。次の一羽を受けたトンファーの向こうで、白い針がまた光った。

 

 今度は左手だった。

 

 直嗣が軸を立てる。針は防いだはずなのに、左腕の戻りが僅かに鈍る。

 

 その遅れへ、男自身が踏み込んできた。

 

 十数歩あった距離を、動物の陰に紛れて半分まで詰めている。霧の中から伸びた手の先に、もう一本の針があった。

 

 狙いは直嗣ではない。肩の横を抜け、千綴へ向いている。

 

「下がれ!」

 

 下がる場所はなかった。

 

 背中には滑り台の支柱がある。

 

 直嗣は止まりかけた左腕を無理に引き戻し、千綴と針の間へ身体を差し入れた。右のトンファーが男の手首を外へ弾く。針の切っ先が逸れ、直嗣の頬を浅く裂いた。

 

 血が一筋、顎へ伝った。

 

 その脇腹へ犬がぶつかる。

 

 直嗣の身体が支柱の前まで押し戻され、千綴は息を呑んだ。背中合わせになるほど近い。けれど直嗣は倒れず、犬の首を左のトンファーで押さえ、右の一本を男へ向けたまま踏み留まっている。

 

 〈標本家〉は数歩先で止まった。

 

 直嗣の頬を流れる血を見て、ようやく口元を歪める。

 

「守るから、動けない」

 

 周囲を回る黒い翼の向こうで、その顔だけが白く浮いていた。

 

「強い者も、弱いものを抱えれば弱くなる」

 

 直嗣は返事をしなかった。

 

 押さえていた犬を前へ押し離し、〈標本家〉との間へ戻す。すぐに体勢を立て直したが、もう自分から距離を詰められる位置ではない。

 

 右にも左にも、頭上にも影があり、背後には千綴がいる。

 

 直嗣の二本のトンファーは、そのすべてを受け止める角度へ静かに開かれた。

 

 攻めるためではなく、ここから一歩も通さないために。

 

 

 

 

「強い者も、弱いものを抱えれば弱くなる」

 

 直嗣は返事をしなかった。

 

 二本のトンファーを開いたまま、右足を半歩引く。背後の千綴を支柱との間へ収めるように立ち位置をずらし、それからようやく、頬を伝っていた血を肩口で拭った。

 

 先ほど押し離した犬が、〈標本家〉との間で低く唸っている。

 

 その動きを隙と見たのか、〈標本家〉の指が上がった。

 

 頭上の羽音が膨らむ。

 

 左右へ散っていたカラスが再び高度を落とし、右の植え込みでは別の犬が地面を蹴る。足元のネズミも濡れた砂を細かく跳ね上げながら、直嗣の靴を回り込もうとしていた。

 

 さっきと同じだった。

 

 上と左右、それに足元。どれかへ意識を向けた瞬間、別の何かが千綴へ抜ける。

 

 直嗣の右腕には針の遅れが残っている。左腕も、先ほどから動きの戻りが僅かに鈍い。今度こそ受けきれない。そう思った千綴の目の前で、直嗣は構えを変えた。

 

 二本のトンファーを前腕に沿わせていた形から、右だけを長く持ち替える。左は脇を締め、身体の近くに残した。正面を広く庇っていた姿勢が、片側を捨てたように見えた。

 

「朝倉さん」

 

「支柱から離れるな」

 

 それだけ告げて、直嗣は上を見なかった。

 

 最初のカラスが右上から降りてくる。

 

 直嗣は羽音が肩口へ迫るまで動かず、長く持ったトンファーを後ろから前へ振り抜いた。翼ではなく、その下から踏み込んできた犬の鼻先を打つ。犬が怯んで足を止めたところへカラスが重なり、降下しかけた黒い影が互いを避けて軌道を乱した。

 

 その隙間へ右足を踏み入れる。

 

 靴底がネズミの進路を塞ぎ、逃げた小さな身体が犬の前脚へぶつかる。犬が跳ねるように横へ退き、遅れて降りたカラスの爪は、もうそこにいない直嗣の肩を掠めていった。

 

 すべてを一つずつ受けていた先ほどとは違う。

 

 一つを捌いた動きが、そのまま次に来るものの道を塞いでいる。

 

 直嗣は振り抜いた右手を無理に戻そうとしなかった。針に触れて遅れるなら、戻るまで待つ。左のトンファーだけを短く突き出し、反対側から回り込んだ一羽の胸元へ軸を当てた。

 

 鈍い衝突音とともに、カラスが霧の中へ押し返される。

 

 直嗣の右手が戻った時には、周囲にいた動物たちはいったん距離を取っていた。

 

 〈標本家〉の口元から笑みが消える。

 

「覚えたのか」

 

 返事の代わりに、直嗣が右のトンファーを握り直した。

 

 頬から顎へ落ちた血は止まっていない。上着の両腕には裂け目が増え、犬にぶつかられた脇腹のせいか、呼吸も浅い。それでも、千綴の前に立つ背中は、追い詰められるほど小さくなるのではなく、むしろ足元から輪郭を取り戻していた。

 

 千綴は赤い支柱へ背をつけたまま、その動きを見つめた。

 

 直嗣が速くなったわけではない。

 

 カラスがどこから来るのか。犬がいつ地面を蹴るのか。白い針が、何を見せた後に放たれるのか。さっきまで攻撃が始まってから動いていた直嗣は、今はその一つ前を見ている。

 

 〈標本家〉が左手を僅かに開く。

 

 頭上の群れが右へ膨らんだ。

 

 直嗣の重心は、その前に左へ移っていた。

 

 次の瞬間、植え込みの陰から犬が飛び出した。狙いはやはり千綴だったが、直嗣は正面から受け止めない。半身になって鼻先を外へ流し、すれ違いざまにトンファーの横軸を前脚へ絡める。勢いを失った犬の身体が砂の上を滑り、その先へ降りてきたカラスを巻き込んだ。

 

 黒い羽が濡れた地面へ散る。

 

 そこへ白い針が走った。

 

 今度は右脚を狙っている。

 

 直嗣はトンファーで弾かなかった。

 

 踏み出しかけた足を引き、針を砂地へ通す。白い切っ先が靴先の前を過ぎ、輪郭を失う。その間も、左手は千綴へ向く線を塞いだままだった。

 

「なぜ……」

 

 男の声に、初めて焦りが混じった。

 

「なぜ、分かる」

 

「同じ手を見せすぎた」

 

 直嗣の答えは短かったが、呼吸は乱れていた。

 

 余裕があるわけではない。

 

 一度受けたから、次は変える。それでも初めて来る組み合わせまでは防ぎきれず、針に触れた両腕の遅れも消えてはいない。現に右手が戻るまでの間、直嗣は左肩だけを前へ出し、千綴へ届く道を身体で塞いでいた。

 

 それを見て、〈標本家〉の視線が細くなる。

 

 男が両腕を広げた。

 

 公園の奥にいたカラスまでが一斉に枝を離れ、黒い群れが街灯の周囲を覆う。光が羽の向こうで細切れになり、滑り台の下へ濃い影が落ちた。

 

 犬たちも動きを止め、低く身を伏せる。

 

 その静止が、かえって千綴の耳を圧迫した。

 

 次は、さっきまでより多い。

 

 そう思ったのに、直嗣は群れではなく男を見ていた。

 

「弥生。見える範囲だけでいい。動物が動く前に、あいつが何をしているか教えろ」

 

「何をって……」

 

「指、目線、身体の向き。何でもいい」

 

 千綴は霧の向こうへ目を凝らした。

 

 男との距離は先ほどより近い。それでも旋回するカラスが何度も間を横切り、全身を一度に見ることはできなかった。白い顔。上げられた右手。濡れた上着の裾。その一部だけが、黒い翼の隙間に現れては消える。

 

 〈標本家〉の右手が直嗣へ向く。

 

「右手、朝倉さんの方です」

 

 直嗣が左のトンファーを立てた。

 

 白い針が霧を裂き、硬い軸の表面を滑る。まともに受けず、角度をつけて外へ逃がしたためか、左腕は止まらなかった。

 

 直後、男の目が千綴へ移る。

 

「こっちを見た」

 

 直嗣が身体を半歩ずらす。

 

 頭上から三羽が降りた。いずれも直嗣ではなく、肩越しに千綴へ向かっている。右のトンファーが円を描き、二羽をまとめて外へ払う。残った一羽は左肩で受け、爪を布地へ食い込ませたまま前へ踏み出した。

 

 千綴との距離が、初めて開く。

 

「朝倉さん!」

 

「そこにいろ」

 

 直嗣は肩に取りついたカラスを左手で掴み、地面へ叩きつけず、そのまま正面へ放った。

 

 飛ばされた黒い身体に、〈標本家〉の視線が反射的に向く。

 

 犬は動かなかった。

 

 足元のネズミも、植え込みの縁で止まっている。

 

 ほんの一瞬だった。

 

 けれど千綴には、その止まり方がひどく不自然に見えた。

 

 これだけの動物が、男の怒りに合わせて一斉に襲っているのだと思っていた。けれど違う。カラスが来る時、犬は待っている。犬が駆ける時、頭上の輪は僅かに遠ざかる。針が放たれる直前には、動物たちの動きが単純になる。

 

 全部が同時に襲っているように見えていただけで、男はすべてへ同じだけ意識を向けているわけではない。

 

「朝倉さん、今です!」

 

 何が今なのか、自分でもまだ説明できなかった。

 

 それでも直嗣は迷わなかった。

 

 濡れた砂を蹴り、〈標本家〉との間にあった距離を詰める。男の右手が上がるより先に、左のトンファーがその手首を外側から打った。

 

 乾いた音が霧の中へ抜ける。

 

 男の腕が跳ね、形になりかけていた白い針が崩れた。

 

 直嗣は止まらない。右の一本を短く持ち替え、脇腹へ軸の先端を打ち込む。〈標本家〉の身体が折れ、肺から押し出された息が掠れた声になった。

 

 そこから顎を狙わず、肩へ掌底を入れる。

 

 男の足が砂の上を滑り、ベンチの縁へ背中からぶつかった。濡れた木板が大きく軋む。

 

 初めて、〈標本家〉と直嗣の間から動物が消えた。

 

 カラスは頭上で旋回を乱し、犬たちは立ち上がった場所から動けずにいる。男の意識が直嗣だけへ寄ったのか、千綴を取り囲んでいた気配まで一度遠のいた。

 

 直嗣が踏み込み、右のトンファーを男の喉元へ突きつける。

 

「終わりだ」

 

 荒い呼吸の合間から、男が笑った。

 

 勝ち誇ったものではなかった。痛みに顔を歪めながら、それでも何かを確かめたような笑いだった。

 

「違う」

 

 ベンチの背へ預けていた左手が、ゆっくり持ち上がる。

 

 その指先は直嗣ではなく、赤い支柱の前に残された千綴を向いていた。

 

 直嗣が振り返る。

 

 頭上を回っていた黒い群れのうち、一羽だけが輪から外れていた。

 

 街灯の届かない滑り台の上から、音もなく翼を畳む。

 

 千綴の視界に、黒い影が落ちてきた。

 

 

 

 

 翼を畳んだカラスは、霧を切り裂くように真っ直ぐ顔へ向かってくる。避けようにも、背中は赤い支柱へ触れたままだった。千綴は咄嗟に顎を引き、頭を庇って両腕を上げた。

 

 衝突はなかった。

 

 数歩先で砂を蹴る音がし、直嗣の身体が割り込む。振り上げた左のトンファーがカラスの胸を下から捉え、黒い影を滑り台の斜面より高く弾き返した。

 

 その瞬間、ベンチの前にいた男の右手が動いた。

 

「朝倉さん、後ろ――」

 

 直嗣は振り返らない。

 

 右手のトンファーを背後へ回し、脇腹を庇うように軸を立てる。そこへ白い針が触れ、金属とも木とも違う、硬く澄んだ音が鳴った。

 

 防いだ。

 

 そう思った直後、直嗣の右手から力が抜けた。

 

 トンファーが指を離れ、濡れた砂地へ落ちる。重い音を立てて一度だけ跳ね、そのまま水たまりの縁で止まった。

 

 直嗣は空になった手を見なかった。左の一本を正面へ戻しながら、千綴を庇う位置まで下がる。けれど右腕は、走った勢いのまま身体の脇で揺れているだけだった。

 

「右手が……」

 

「分かってる」

 

 直嗣は肩を引いた。腕そのものを持ち上げようとしたのだと、千綴には分かった。

 

 それでも指先は動かない。

 

 男がベンチから背を離す。脇腹を押さえていた左手を下ろし、湿った息を吐きながら砂地へ一歩踏み出した。

 

「覚えても、同じだ」

 

 先ほどまで浮かんでいた焦りは、その声から消えていた。

 

「どれほど上手く動けても、その手が、お前の手でなくなればいい」

 

 直嗣は左のトンファーを構えたまま、動かない右手を背中側へ回した。千綴との間に挟み込み、攻撃に巻き込まれないようにしたのだろう。

 

 片腕を奪われても、立つ位置は変わらない。

 

 そのことが、千綴にはかえって怖かった。

 

 二日前、自分の右手も同じように落ちた。感覚が消えたわけではない。指が地面へ触れた冷たさも、爪が砂を擦った感触も残っていた。ただ、動かそうとする意思だけが、そこへ届かなくなった。

 

 直嗣の右手も、まだ彼の身体についている。

 

 血も通い、重さもある。それなのに、彼の命令を聞かない。

 

「〈標本化〉」

 

 男が、自らの力を慈しむように口にした。

 

「右手。左手。次に右脚、左脚。胴を整え、最後に頭を静かにする。順に留めれば、誰も抗わない。誰も私の手を離れない」

 

 言葉に合わせ、男の指先へ白い輪郭が集まっていく。

 

 細い針だった。

 

 けれど今度は、街灯を横切る一瞬だけではない。霧の中で形を保ったまま、男の親指と人差し指の間に留まっている。縫い針より長く、根元から先端まで濁りのない白で、その周囲だけ夜の色が薄く見えた。

 

 千綴の脇腹が疼いた。

 

 傷は残っていない。それでも、あれが身体へ入ってきた時の冷たさを、皮膚の内側が覚えている。

 

「次は左手か」

 

 男の視線が、直嗣の残った腕へ向く。

 

 直嗣は僅かに腰を落とした。

 

 頭上を乱れていたカラスが、再び輪を作り始める。植え込みの前で止まっていた犬たちも、男へ顔を向けたあと、濡れた地面を踏み直した。

 

 動物が先に来る。

 

 その陰から、針が左手を狙う。

 

 同じ手順なら、直嗣も分かっているはずだった。

 

 最初の犬が地面を蹴る。直嗣は左足を軸に身体を開き、突き出された鼻先をトンファーの短い軸で外へ逸らした。右から降りたカラスには肩を入れ、翼の下へ潜り込むようにしてかわす。

 

 片腕になっても、動きは崩れていない。

 

 むしろ守る範囲を狭めたことで、足の置き方は先ほどより迷いがなかった。犬の勢いを次の一羽へぶつけ、空いた方向へ千綴を背中で押し込む。攻撃を受けるたびに直嗣の立つ場所が変わり、男との間にあった線も絶えずずれていく。

 

 白い針が放たれた。

 

 左手ではない。

 

 直嗣が踏み出そうとした右脚へ、低く走る。

 

 直嗣は寸前で軸足を入れ替えた。

 

 避けきれない。

 

 白い切っ先が右腿の外側を掠めた。

 

 直嗣の右脚が一拍だけ沈む。

 

 だが、膝は落ちなかった。

 

 足裏はまだ砂を捉え、次の瞬間にはもう重心を左へ移している。

 

 二日前とは違う。

 

 千綴の時は、一つ奪われるたび、その部位は完全に自分から遠ざかった。

 

 今の直嗣の脚には、遅れはある。それでも動いている。

 

「順番を……飛ばした」

 

 千綴の呟きに、男の目が動く。

 

 右手。

 

 左手。

 

 右脚。

 

 左脚。

 

 今、男自身がそう言った。

 

 それなのに左手を残したまま、右脚へ進んだ。

 

 できないわけではない。

 

 けれど、同じではない。

 

 直嗣の脚が止まりきらなかったことが、その違いを示している。

 

「朝倉さん」

 

「ああ」

 

「たぶん、順番を飛ばすと浅くなります。私の時は……もっと、完全に止まりました」

 

 直嗣は右脚を一度踏み直した。

 

「動けるなら十分だ」

 

 男の口元が歪む。

 

 図星を刺されたのか、それとも自分の手順を崩したこと自体が気に入らないのか、千綴には分からなかった。

 

 ただ、右手に浮かぶ次の針は、先ほどより早く形を結んだ。

 

 同時に三羽のカラスが高度を落とす。正面と左右から直嗣へ迫り、その足元を縫うようにネズミの群れが走る。どれも千綴へは向かっていない。直嗣をその場から動かし、次にどこを狙うのか悟らせないための動きに見えた。

 

 直嗣は下がった。

 

 左足を引くと見せ、砂を擦るだけで止める。身体は右へ傾けながら、重心を中央へ残していた。

 

 男の手が左へ振れる。

 

「左手!」

 

 千綴が叫ぶ。

 

 白い針が走る。

 

 直嗣は残った左腕を引き、トンファーの軸を立てた。針は黒い表面を滑り、外へ逸れる。

 

 その瞬間、男の視線が下がった。

 

「脚も来ます!」

 

 直嗣は迷わず右足を引く。

 

 二本目の白い線が、さっき掠めた腿の前を通り過ぎた。

 

 正規の順番へ戻そうとしている。

 

 けれど、動物を動かしながら、左手と右脚の両方を狙っている。

 

 男自身が、もう一つの手順だけに集中できていない。

 

 千綴の胸の奥に、小さな違和感が残った。

 

 順番はある。

 

 守れば強い。

 

 飛ばすこともできる。

 

 けれど、その分だけ浅くなる。

 

 そして今の男は、その順番すら守り切れないほど急いでいる。

 

 直嗣はその間に男へ二歩迫っていた。

 

 片腕だけでは、先ほどのように手首を弾いて身体まで打ち込むことはできない。男もそれを分かっている。針を作っていた手を引き、直嗣のトンファーを外側へ受け流すと、すぐに距離を取った。

 

 けれど、退いた顔にはもう余裕がなかった。

 

 直嗣の右手は動かないままだ。

 

 右脚にも僅かな遅れが残っている。

 

 それでも完全には奪われていない。

 

 男は針をすぐには放たず、直嗣と千綴を交互に見ている。

 

 千綴は息を整えながら、その視線を追った。

 

 男が直嗣を見る。

 

 白い針の輪郭が濃くなる。

 

 千綴へ目を向ける。

 

 頭上のカラスが旋回を狭める。

 

 もう一度直嗣へ戻ると、犬が地面を蹴った。

 

 針も、カラスも、犬も、男が選んだ相手へ向かってくる。操っているのが男なら、当然のことに思える。

 

 なのに、何かが引っかかった。

 

 男が見ている間だけ動くわけではない。

 

 命令を声にしているわけでもない。

 

 視線を外したあとも、カラスは決められた相手を追い続ける。犬は直嗣に弾かれても逃げず、また同じ方向へ身体を向ける。

 

 動物自身が襲う相手を選び直しているようには見えなかった。

 

 千綴は地面へ落ちたトンファーを見る。

 

 そのすぐ近くに、直嗣の右手が垂れている。

 

 手そのものは傷ついていない。針も刺さったままではない。ただ、直嗣が動かそうとしても応えず、男の言葉どおり、余計な動きを失っている。

 

 動物たちも、似たことをされているのではないか。

 

 身体を直接操っているのではなく、先に何かを狭めている。

 

 どこへ行くか。何を見るか。誰を恐れるか。

 

 本来ならその身体が自分で選ぶはずのものを削り、男が望む一つへ寄せている。

 

 そう考えた瞬間、ばらばらだった光景が一つに重なった。

 

 動かない直嗣の右手。

 

 僅かに遅れながらも動く右脚。

 

 何度打たれても襲いかかる犬。

 

 空を埋め尽くすカラス。

 

 そして二日前、地面へ倒れた自分を見下ろしながら、男が繰り返した言葉。

 

 ――私のものだ。

 

 胸の奥が強く脈打った。

 

 男と動物のあいだに、何かがある。

 

 目には見えない。それでも、男が指を向けるより先に、細い何かに引かれるように動物たちの意識が揃う。その中心だけが、周囲の霧より深く沈んで感じられた。

 

 千綴は瞬きを忘れ、その感覚を追った。

 

 見ようとするほど遠ざかる。

 

 目で捉えるものではないのかもしれない。

 

 視線を外しても、胸の奥には微かな引っ掛かりだけが残った。二つのものが、どこかで無理に繋がれているような感触。

 

「弥生!」

 

 直嗣の声で、千綴は息を吸った。

 

 犬が一頭、正面から迫っている。

 

 けれど千綴の意識は、その牙ではなく、犬と男のあいだに残る違和感へ向いていた。

 

 

 

 

 見えない。

 

 それでも、そこに何かがある。

 

 犬は濡れた砂を蹴り、真っ直ぐ千綴へ向かってくる。自分からこちらを選んだようには見えなかった。逃げることも、怯むことも許されず、一本だけ残された道を走らされている。

 

 ――違う。

 

 走らされている、でもない。

 

 もっと手前だ。

 

 この犬が、自分で別の道を選ぶことを奪われている。

 

「弥生、伏せろ!」

 

 直嗣の声が飛ぶ。

 

 千綴は反射的に身を沈めた。

 

 直嗣が左のトンファーを横へ振る。犬の鼻先へ当てるのではなく、肩口へ軸を添えて進路だけを外すつもりだった。

 

 だが、右手が使えない。

 

 右脚にも、ほんの僅かな遅れが残っている。

 

 それでも、順番を飛ばして受けた支配は完全ではない。

 

 直嗣は沈みかけた右脚を踏み直し、身体を捻った。

 

 その分だけ千綴との間が開き、その隙間へ頭上から二羽のカラスが降りてきた。

 

 一羽を左肩で受ける。

 

 爪が上着を裂き、直嗣の身体が僅かに沈んだ。

 

 もう一羽が千綴へ向かう。

 

 逃げなければ。

 

 そう思ったのに、足がすぐには動かなかった。

 

 千綴の意識はまだ、犬と男のあいだへ引かれている。

 

 胸の奥に残っていた微かな引っ掛かりを、今度は逃さないように追った。

 

 男。

 

 犬。

 

 二つを結ぶ何か。

 

 それを切るのではない。

 

 壊すのでもない。

 

 ただ――これは違う、と感じた。

 

 犬が男だけを選ぶ必要はない。

 

 この犬の身体は、この犬のものだ。

 

 その考えが形になるより早く、胸の奥で何かがほどけた。

 

 音はなかった。

 

 光も見えない。

 

 ただ、千綴へ飛びかかろうとしていた犬の前脚が、不意に地面を滑った。

 

 身体が横へ流れ、勢いのまま砂の上を転がる。

 

 直嗣が作った軌道ではない。

 

 犬自身が、最後の一歩で踏み込みを躊躇したように見えた。

 

 同時に頭上の一羽も羽ばたきを乱し、千綴の髪を掠めるだけで横へ抜けていった。

 

 〈標本家〉の顔が強張る。

 

「何をした」

 

 千綴にも分からない。

 

 答えられず、転がった犬を見た。

 

 犬はすぐには起き上がらなかった。濡れた砂の上で荒く息をし、首を振っている。視線が〈標本家〉へ向きかけ、途中で止まる。

 

 そして初めて、周囲を見るように目を動かした。

 

「朝倉さん」

 

 千綴の声が震えた。

 

「今、この子……」

 

「見えてる」

 

 直嗣は短く答えた。

 

 その声にも、僅かな変化があった。

 

 千綴が顔を上げる。

 

 直嗣の右手が動いていた。

 

 完全ではない。

 

 脇に垂れていた腕が、ほんの少しだけ肘から曲がっている。指先も、さっきまで力なく開いていたのに、今は二本だけ僅かに内側へ寄っていた。

 

「手……」

 

「まだ戻ってない」

 

 直嗣は右手を見ずに言った。

 

「でも、さっきより通る」

 

 千綴は息を呑む。

 

 犬だけではない。

 

 直嗣と男のあいだにも、同じような違和感があった。

 

 右手を奪われた瞬間から、男の側へ引かれていた何か。

 

 それが今、少しだけ薄くなっている。

 

 何をしたのかは分からない。

 

 犬へ向けたつもりだった。

 

 けれど、自分と直嗣は近い。

 

 直嗣を助けたいと思っていた。

 

 その二つが重なった瞬間、別の何かにまで触れてしまったのかもしれない。

 

 考えようとすると、胸の奥が強く脈打った。

 

 感覚が揺らぐ。

 

 犬と男のあいだに感じていたものも、直嗣の右手へ繋がる違和感も、一度に遠くなる。

 

「無理に追うな」

 

 直嗣が言った。

 

「でも」

 

「今ので十分だ」

 

 〈標本家〉の指が動く。

 

 直嗣はすぐに千綴の前へ戻った。

 

 右手はまだ武器を握れない。

 

 右脚の遅れも消えてはいない。

 

 それでも先ほどより肩が動き、肘が身体の内側へ寄る。その僅かな差だけで、構えの形が変わった。

 

 男の右手に白い針が生まれる。

 

 同時にカラスが三羽、左右へ散った。

 

「朝倉さん、犬の方が薄いです」

 

「何が」

 

「上手く言えません。でも、今は犬より針の方が……強い」

 

 直嗣は問い返さなかった。

 

 右足を半歩引き、左のトンファーを針へ向ける。

 

 その判断を見た瞬間、千綴にも分かった。

 

 伝わっている。

 

 自分が何を見ているのかは説明できない。

 

 それでも「どこへ力が寄っているか」だけなら、直嗣は戦い方へ変えられる。

 

 白い針が放たれた。

 

 直嗣は正面から弾かず、軸を斜めに立てて外へ滑らせる。

 

 左腕の動きが僅かに鈍る。

 

 その瞬間、犬が一頭だけ駆けた。

 

「左!」

 

 千綴が叫ぶ。

 

 直嗣は振り返らず、左脚を半歩引いた。

 

 犬の鼻先が空を切る。

 

 そこへトンファーの短軸を首筋へ添え、身体を捻る。犬の勢いを殺さず、そのまま直嗣の右側へ流した。

 

 犬は転ばない。

 

 数歩よろめいてから立ち止まり、〈標本家〉へ顔を向ける。

 

 すぐには戻ってこなかった。

 

 男の眉が歪む。

 

「なぜ」

 

 右手の指が強く曲がる。

 

 犬の身体がびくりと震えた。

 

 千綴の胸の奥にも、同じ瞬間、鋭い引っ掛かりが生まれる。

 

 男がもう一度、犬の向きを一つへ絞ろうとしている。

 

「そこです」

 

 千綴は思わず一歩前へ出た。

 

「弥生」

 

「今、強くなりました。犬のところ」

 

 直嗣の視線が一瞬だけ犬へ落ちる。

 

 〈標本家〉は針を作る手を止めていない。

 

 犬を戻そうとしている。

 

 針も維持している。

 

 頭上ではカラスも回っている。

 

 全部を同じ強さでは持てない。

 

 順番を飛ばせば支配が浅くなる。

 

 複数へ力を散らせば、一つひとつも弱くなる。

 

 別々に見えていた綻びが、千綴の中で一つの形へ寄り始めた。

 

「朝倉さん」

 

「ああ」

 

「一つに強くすると、他が弱くなります」

 

 直嗣は男を見たまま答えた。

 

「俺もそう見てる」

 

 それだけで、胸の奥にあった不安が少しだけ薄くなった。

 

 自分だけが感じているものではない。

 

 直嗣も、戦いの中で同じ綻びを見つけている。

 

 男の指が犬へ向く。

 

 千綴はそこへ意識を向けた。

 

 さっきと同じように、「違う」と思う。

 

 犬には別の向きがある。

 

 男だけが決めるものではない。

 

 今度は、胸の奥が痛むほど強く脈打った。

 

 視界が一瞬白くなる。

 

 それでも千綴は感覚を離さなかった。

 

 犬の身体が前へ出る。

 

 一歩。

 

 二歩。

 

 三歩目で足が止まった。

 

 男の指がさらに曲がる。

 

 犬は前へ出ようとして、出られない。

 

 同時に、直嗣の右手が動いた。

 

 人差し指が曲がる。

 

 次に中指。

 

 それだけだった。

 

 完全には戻っていない。地面へ落ちた右のトンファーを拾えるほどでもない。

 

 それでも、肩から先を自分の意思で引き寄せられる。その僅かな戻りを、直嗣は逃さなかった。

 

 左手の一本だけを構え直す。

 

 それでも直嗣の足運びが変わった。

 

 今まで千綴を中心に円を描くように動いていた身体が、初めて男へ向かって真っ直ぐ線を作る。

 

 〈標本家〉もそれに気づいた。

 

 犬へ向けていた指を直嗣へ返す。

 

 その瞬間、犬の身体から力が抜けた。

 

「今です!」

 

 直嗣が踏み込んだ。

 

 一歩目で犬の横を抜ける。

 

 二歩目でカラスの降下をトンファーの軸で外へ払う。

 

 三歩目。

 

 男との距離が、一気に近づく。

 

 白い針が直嗣の左脚へ走る。

 

 千綴には、その瞬間だけはっきり分かった。

 

 犬が弱い。

 

 カラスも遅い。

 

 男の力が、針へ集まっている。

 

「針だけです!」

 

 直嗣は左脚を止めなかった。

 

 針が届く直前、足首だけを外へ返す。

 

 白い線が靴の側面を掠める。

 

 同時にトンファーが男の右手首へ届いた。

 

 硬い音。

 

 白い針が消える。

 

 〈標本家〉の身体が大きく後ろへ傾いた。

 

 直嗣は追う。

 

 けれど、その瞬間。

 

 千綴の胸の奥で張り詰めていたものが、一気に途切れた。

 

 呼吸が浅くなる。

 

 視界の端が暗くなり、膝から力が抜けた。

 

「……っ」

 

 千綴が支柱へ手をつく。

 

 同時に、止まっていた犬が動いた。

 

 頭上のカラスも一斉に羽ばたく。

 

 直嗣は男へ伸ばしかけていた左手を止め、すぐに千綴の側へ身体を返した。

 

 〈標本家〉はその隙に距離を取る。

 

 数歩。

 

 さらに数歩。

 

 霧の向こうへ下がりながら、自分の右手首を押さえた。

 

 今度は直嗣が追わない。

 

 千綴の前へ戻り、左のトンファーを構える。

 

「弥生」

 

「大丈夫、です」

 

「嘘つけ」

 

 短く言いながら、直嗣は視線を男から外さなかった。

 

 千綴は乱れた呼吸を整える。

 

 さっきまで感じていたものは薄くなっている。

 

 それでも消えてはいない。

 

 男と動物。

 

 男と直嗣の右手。

 

 それぞれの間に、無理に向きを決められたような違和感が残っている。

 

 全部を消す必要はないのかもしれない。

 

 一瞬だけ緩めればいい。

 

 直嗣が動けるだけの隙を作る。

 

 直嗣なら、その一瞬を使える。

 

「朝倉さん」

 

「何だ」

 

「たぶん、勝てます」

 

 直嗣の眉が僅かに動いた。

 

 千綴は男を見たまま続ける。

 

「全部は無理です。でも、一つなら……少しだけ、弱くできるかもしれません」

 

 自分でも、何を弱くするのかは正確に説明できない。

 

 それでも直嗣は笑わなかった。

 

「何秒だ」

 

「分かりません」

 

「一秒あるか」

 

 千綴は犬が止まった瞬間を思い出す。

 

「たぶん」

 

「十分だ」

 

 直嗣が答えた。

 

 霧の向こうで、〈標本家〉が再び両腕を上げる。

 

 カラスが集まり始める。

 

 犬たちも、男の周囲へ戻っていく。

 

 けれど、さっきまでと同じには見えなかった。

 

 どこか一つを強く握れば、別のどこかが緩む。

 

 そして緩んだ場所へ、自分たちは触れられる。

 

 千綴は支柱から背を離した。

 

 直嗣が横目でそれを見る。

 

「離れるなよ」

 

「はい」

 

 今度は守られるためだけの返事ではなかった。

 

 千綴は直嗣のすぐ後ろへ一歩寄る。

 

 その距離で、胸の奥に残った違和感が僅かに濃くなった。

 

 直嗣の足が動く。

 

 速くなったわけではない。

 

 ただ、それまで一つずつ選び取っていたはずの足場や角度が、今は迷いなく次の動きへ繋がっているように見えた。一度受けた攻撃への答えが、考えるより先に身体へ落ちている。

 

 千綴には、それが自分と関係しているのかどうかまでは分からなかった。

 

 直嗣自身も、気づいた様子はない。

 

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