The Arrow of Silver 銀弓の運命は砕け得るか 作:Delphinus
「……もう朝が来たのか」
大騎士領、カヴァレリエルキ。
ロドス本艦の執務室で、ケルシーは深い疲労を感じながら端末を操作していた。
昨夜から届き続けている報告書と、今朝になって放送されたニュース。その内容を一通り確認し、思わず溜息を吐く。
「征戦騎士がカヴァレリエルキから撤退した。これで大騎士領の秩序を保証する、最後の軍事的な支柱が失われたことになる」
銀弓は、その意味を理解しているのだろうか。
カヴァレリエルキに入港してから、状況は想定を外れ続けていた。
悪化するはずだった感染者との軋轢は緩和され、商業連合会の策動は阻止された。無胄盟との対立も、都市全体を巻き込む破局に至らず収束しつつある。
いずれも望ましい結果だ。
だが、そこへ至る過程が問題だった。
「銀弓め……。お前の行動は、あまりにも予測が難しい」
彼は何かを解決するたびに、別の政治的な状況を作り出してしまう。
しかも、それが必ずしも悪い方向へ進むわけではない。
むしろ、良い結果が出ているからこそ厄介だった。
ロドスは現在、カヴァレリエルキでの医療業務に大半の人員を投入している。
この巨大都市には患者が多過ぎる。感染者医療に限っても、ロドスの規模では到底手が足りない。
その上、商業連合会が雇い入れたサモス・アイランドまで介入してきた。
「そして、肝心のドクターはサルゴンか」
ケルシーは端末を切り替えた。
ドクターはサルゴンで休暇を取っていたはずだが、予定していた帰還時刻を過ぎても連絡がない。
現地のオペレーターには確認を命じている。直ちに危険な状況へ陥るとは考えにくいが、こちらの事情を考えれば、早急に戻ってきてもらいたいところだった。
「……ウォルモンドの件もある」
リターニアでは、大裂孔の発生によってウォルモンドが危機に陥っている。
そして、その救援に向かっているのがチェルノボーグだった。
「よりによって都市ごと救援に向かうとはな……」
現在のチェルノボーグを動かしているのは、かつてのレユニオンを中心とした人員。
タルラ公爵と銀弓伯が築いた新しい体制は、ウルサスの名を掲げ、移動都市そのものをリターニア国境へ向かわせていた。
「認めなければならない。お前たちの行動力は、私の想定を遥かに超えている」
ケルシーは小さく呟いた。
ウォルモンドには既にアントがいる。
だが、彼女一人で対処できる問題ではない。
フォリニックとスズランを派遣する予定ではあるものの、現在のロドスには十分な余剰人員がない。
幸い、チェルノボーグにはGuardが運営するロドスの新しい事務所がある。
新たにオペレーターとなったフロストノヴァも駐在しており、物資供給や医療活動を継続するための拠点として利用できる。
それでも、問題が解決したわけではなかった。
「……考えることが増え過ぎている」
ケルシーは額を押さえた。
ここまで複数の国家と組織の動向を同時に考えなければならないのは、久しぶりだった。
それこそ、カズデルでの戦争以来かもしれない。
かつて、サルカズの復讐を危険視し、複数の国家を動かしてカズデルの城壁を落とした。
今となっては、唾棄すべき過去だ。
そして、取り返しのつかない過去でもある。
「……む、うぅ」
背後から小さな声がした。
「ケルシー先生……?」
「アーミヤか。起きたのか」
振り返ると、まだパジャマ姿のアーミヤが立っていた。
どうやら、昨夜の業務を終えた後、そのまま隣室で休んでいたらしい。
「おはようございます、ケルシー先生」
「ああ。おはよう」
ケルシーはコーヒーを淹れながら、端末を閉じた。
アーミヤは少し眠そうな顔で、机の上の書類を眺めている。
「……銀弓さんって、凄い方ですよね」
「否定はしないでおこう」
「ニアールさんに教えてもらったんです。銀弓さんは、無胄盟のクロガネのせいで、ご家族を失ったって」
「……ああ」
「それなのに、銀弓さんは家族の仇との戦いで、都市に暮らす人たちのことを優先していました」
アーミヤは少し考え込んだ。
「私、気になるんです。銀弓さんは、自分の過去をどう思っているんでしょうか」
「過去か」
ケルシーはコーヒーを一口飲んだ。
「恐らく、彼は過去を現在の判断に持ち込もうとしないのだろう」
「……過去を、ですか?」
「ああ。家族を殺されたことと、現在のカヴァレリエルキで何をするべきかは、彼にとって別の問題なのだと思う」
「でも、それは……」
アーミヤは戸惑ったようにケルシーを見つめた。
「ご家族のことを、忘れたわけではありませんよね?」
「当然だ。忘れることと、判断の理由にしないことは違う」
「それなら、過去を乗り越えたということではないんでしょうか」
「そうとも限らない。そもそも、乗り越える必要があると彼自身が考えているかも分からない」
ケルシーは窓の外へ視線を向けた。
「過去に囚われない者は、過去のしがらみを断ち切ることができる。だが、同時に過去に対して負うべき責任まで切り捨ててしまう可能性もある」
「銀弓さんも、そうなんでしょうか」
「分からない。少なくとも、今の彼はそうしていない」
「……そうですか」
「彼は過去を忘れているわけではない。恐らく、必要なものは今でも使っているのだろう」
「必要なもの……」
「ああ。技術、知識、経験。そうしたものだ」
ケルシーは静かに続けた。
「だからこそ、私は彼を評価している。そして、警戒もしている」
アーミヤはしばらく考え込んでいた。
やがて、小さく微笑む。
「私、一度ご本人に聞いてみたいです」
「何をだ?」
「ご家族のことを、今でもどう思っているのか」
ケルシーは答えなかった。
その質問に銀弓がどう答えるのか、彼女にも想像がつかなかったからだ。
「……それより、アーミヤ」
「はい?」
「今日も業務は多い。今のうちに、もう少し休んでおくように」
「はい、ケルシー先生」
その時だった。
「そうだわ、ケルシー」
執務室の扉が開いた。
寝起きのスカジが、何事もないような顔で入ってくる。
「言ってなかったけど、私、騎士競技に出るから」
「…………」
ケルシーは動きを止めた。
「待て。何故お前が騎士競技に出場するんだ」
「銀弓の彼が次の試合に出るでしょう?」
「ああ」
「だから、私も出るの」
「……理由になっていないぞ」
「これで完璧ね」
「全然完璧じゃない」
ケルシーは頭を抱えた。
「スカジ。お前は騎士競技がどういうものか理解しているのか?」
「戦えばいいのでしょう?」
「……そういう問題ではない」
「大丈夫よ。手加減はするから」
「その発言が一番心配なんだ!」
アーミヤは困ったように笑っていた。
ケルシーは深い溜息を吐く。
そして、思わず呟いた。
「……ドクターは、サルゴンで何をやっているんだ」
⸻
「トミミ! 急にどうしたんだよ!」
「私は絶対に、ガヴィルさんを行かせませんから!」
サルゴンの奥地、アカフラの密林。
ドクターの目の前では、ガヴィルとトミミが激しく言い争っていた。
「ビッグ・アグリーとの戦いで、皆さんも消耗したはずです! これでもう、私には勝てませんよ!」
「いや、お前な……」
「ガヴィルさんは、絶対に帰しません!」
ドクターはその様子を見つめ、目頭を押さえた。
「うう……なんて感動的な友情なんだ……!」
「いや、全然感動的じゃないから」
隣にいたウタゲが、冷静に突っ込んだ。
「何言ってんの、ドクター?」
「いや、こういうのに弱くてな……」
「どういうの?」
「友情とか、別れとか」
「これ、ただの引き留め工作だと思うけど」
ウタゲの指摘を無視して、ドクターは頷いた。
「青春だなあ……」
「話聞いてる?」
そして、トミミが叫んだ。
「ヌール! ペータ!」
その声に応じて、ロドスの飛行士ディランとLancet-2が拘束される。
「助けてくれ、ドクター!」
「ドクター様、怖いですううぅ!」
「安心しろ! 今助ける!」
「ドクター様あああっ!」
「Lancet-2!」
「ドクター様あああっ!」
「……何だか妙にメロドラマだね」
ウタゲは何とも言えない顔をした。
もっとも、その芝居は長く続かなかった。
ディランとLancet-2が一芝居打っていたことが発覚し、騒動はあっさり収束したのである。
「……まったく、何だったんだ」
ガヴィルが呆れたように呟く。
ドクターは、そんな彼女たちを見回した。
「よし。では、仲直りの昼食にしよう」
「……昼食?」
「Lancet-2! お湯を沸かしてくれ!」
「はい、ドクター様!」
「いや、ちょっと待てよ」
ガヴィルの制止も聞かず、Lancet-2は手際よく湯を沸かした。
ドクターは水筒に熱湯を注ぎ、片手にカップ麺を構える。
「うおおおおおっ!」
「……何やってんだ?」
ドクターは乾燥した麺を口へ放り込み、その上から熱湯を流し込んだ。
「ゴクッ、ゴクッ…… よし、今日も美味い!」
「…………」
その場に沈黙が広がった。
「ドクター、それ絶対おかしいから」
ウタゲが言った。
「そうか?」
「そうだよ」
「まあいい。トミミ、君も食べるんだ!」
「え、えええ──ーっ!?」
「美味いカップ麺で和解しよう! カップ麺に乾杯!」
「いや、何でそうなるんだよ」
ガヴィルの突っ込みも虚しく、トミミはカップ麺を受け取った。
ただし、ドクターの食べ方を真似する必要はない。
そう説明するより早く、トミミは麺を口へ入れてしまった。
「な、何とかなれー!」
「だから何で真似するんだよ!」
ガヴィルが叫んだ。
結局、トミミは大変な思いをしてカップ麺を食べ終えた。
「……美味しくないです」
「何だって!?」
ドクターは衝撃を受けた。
「カップ麺が美味しくないだと!?」
「変な味がします……」
自然の食材に慣れたトミミの舌には、加工食品の濃い味付けが合わなかったらしい。
「……まあ、そういうこともあるよね」
ウタゲは肩をすくめた。
その時、ドクターの通信端末が鳴った。
「……ん?」
画面を確認したドクターの表情が変わる。
「ロングスプリングのセーフハウスから救援要請?」
「何があった?」
ズゥママが尋ねた。
「詳しい状況は分からない。だが、現地で何か異常が起きているらしい」
「……そうか」
ドクターは端末を操作した。
「ディラン。飛行ユニットでロングスプリングに向かう。航路は算定できるか?」
「おう、すぐにでもな」
「頼む」
「ところで、本艦には帰らないのか?」
「ああ。帰る前に、もう一仕事だ」
ガヴィルは腕を組んだ。
「……嫌な予感がするな」
「何か気になることでもあるのかの?」
大祭司が尋ねた。
「いや、何となくだよ」
「ふむ……」
「でも、私たちも一緒に行かせて下さい!」
トミミが声を上げた。
「私も興味があるな。飛行する機械など、初めて見る」
ズゥママも頷く。
「ビッグ・アグリーは持っていけないだろうが」
「歓迎するよ」
ドクターは笑った。
「今度こそ、平和に昼食を食べたいものだな」
「……もうカップ麺は嫌です」
トミミが小さく呟いた。
「何だって!?」
「だから、そういうところだよ」
ウタゲは呆れたように言った。
こうして、ドクターたちはロングスプリングへ向かうことになった。
カヴァレリエルキへの帰還は、さらに遠のいたようだった。
「所で、陛下は靴紐を結んだ事はおありでしょうか?」
「靴紐か……。結んだ事は無いな、銀の弓」
サンクトグリファーベルクの皇帝宮。
忠誠の誓いを立てた後、僕は騎士礼を崩さないまま、皇帝フョードル一世陛下にそう尋ねた。
「それでは、料理や洗濯、掃除などの家事をなさった事は?」
「無いな。カジミエーシュの銀の弓は、私に家事をせよと言うのか?」
「いいえ。皇帝陛下がわざわざ家事をする必要はありません。ただ、出来るようにはなっておくべきだと思います」
「……どう言う意味だ?」
隣にはヴィッテ議長。四方には武装した衛兵が控えている。
言葉は選ばなければならない。何しろ、皇帝陛下に靴紐の結び方を教えようとしているのだから。
「陛下がその立場によって、生きる力を奪われているのでは無いかと心配なのです」
「私が、生きる力を失っていると?」
「はい。身の回りの仕事を自らこなせる事は、それだけで力になります。国外への外遊や、辺境での活動にも役立つでしょう」
僕は続けた。
「陛下が宮殿を出る必要があるとは申しません。ただ、皇帝として宮殿を出る選択肢も持っておくべきです」
皇帝陛下は少し考え込んだ。
「……ヴィッテ。どう思う?」
「一考する価値はあるかと。ただし、ウルサスに時間がある訳ではありません」
「では、三日間で如何でしょう。成果が出なければ、教育係を解任して頂いて構いません」
「ふむ、それは厳しいな……」
皇帝陛下は苦笑した。
「だが、面白い。実は其方には聞きたい事が沢山あるのだ。カジミエーシュの事、ウルサス辺境の実態、そして感染者がどう扱われているのか」
「はい。喜んで」
僕は頭を下げた。
「私はウルサスの伯爵です。如何様にもご命じ下さい」
「はい、そうです。お上手ですよ、陛下」
「こ、こうか? なかなか難しいな……」
皇帝陛下は椅子に腰掛け、靴紐と格闘していた。
左右の紐を交差させ、輪を作り、結び目を締める。
何度か失敗した後、ようやく一足の靴を履き終えた。
「これでどうだ、銀の弓!」
「はい。素晴らしい仕上がりです」
嬉しそうな皇帝陛下を見ていると、幼い頃を思い出す。
銀弓家では、靴紐の結び方から料理、洗濯、道具の整備、戦争学や戦術訓練に至るまで、徹底的に教え込まれた。
銀弓の騎士は、そうやって製造されるのだ。
「そなたの実家でも、こうした教育をしていたのか?」
「ええ。まず生きる力を養い、自立して活動する能力を与える。それから戦争にまつわる訓練を行うのが、銀弓家の教育方針でした」
「なるほど……」
「もっとも、少々スパルタ的でしたが」
古代ミノスの都市スパルタでは、軍事国家に相応しい過酷な教育が行われていたという。
銀弓家も、それに負けず劣らずだった。
「そうか。大変だったのだな……」
皇帝陛下は、何故か気遣わしそうな表情を見せた。
⸻
「陛下。少々、剥き過ぎです」
「む?」
「それではジャガイモがなくなってしまいます」
翌日、皇帝宮の厨房。
皇帝陛下は包丁を握り、ジャガイモの皮を剥いていた。
隣では宮廷料理長が青ざめている。
「銀弓伯! 本当に陛下に包丁を持たせるおつもりですか!?」
「はい。料理を覚えて頂きますから」
「ですが、陛下のお手に傷でもついたら……!」
「その時は治療しましょう」
「そ、そんな簡単に!」
料理長の悲鳴を聞き流し、僕は皇帝陛下の手元を確認した。
「今日は簡単な煮込み料理です。ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、それから肉を使います」
「香辛料は使わぬのか?」
「そこまでは必要ありません。まずは手に入りやすい材料だけで作りましょう」
僕は、剥き過ぎたジャガイモの皮を料理長へ渡した。
「こちらは捨てずに、使える部分を出汁に回して下さい」
「皮まで、ですか?」
「食べられる物を捨てる理由はありません」
皇帝陛下は少し考え込んだ。
「感染者たちも、そうした仕事をしていたのだな」
「ええ。感染者だからといって、料理ができなくなる訳ではありません。ただ、感染者という理由だけで働く機会を奪われる事があります」
「……知っている」
皇帝陛下の表情が曇った。
「私は、その状況を変えたいと思っている。だが、貴族たちは感染者を恐れ、地方の官僚は排除しようとする」
「ええ」
「法を改めようとしても、反対する者が──」
「あの、陛下」
「何だ?」
「鍋が煮立っています」
「熱っ!」
「布を使って下さい。政治の話は煮込みながらでもできますから」
皇帝陛下は苦笑した。
「君は料理を教えているのか、政治を教えているのか分からぬな」
「料理です。今は」
やがて、煮込み料理が完成した。
皇帝陛下は慎重に塩を加え、味を確かめる。
「……美味い!」
「はい。初めてにしては十分な出来栄えです」
「皆にも食べてもらおう!」
「ですが、四人分しかありません」
「……む?」
「では、人数に合わせてもう一度作りましょう。今度は最初から最後まで、お一人で」
皇帝陛下の笑顔が固まった。
「銀の弓よ。君は随分と厳しい教師だな」
「実家に比べれば優しい方です。失敗しても食事を抜きませんので」
「……君の実家については、後で詳しく聞こう」
三日目。
皇帝陛下は自ら外套を羽織り、靴紐を結び、宮殿の門をくぐった。
護衛は少し離れた場所に配置してある。
「銀の弓。今日はどこへ向かうのだ?」
「陛下に決めて頂きます」
「……私が?」
「はい。行き先を決めるのも実習です」
皇帝陛下は少し考えた。
「では、市場へ行ってみたい」
「承知しました」
サンクトグリファーベルクの街路には雪が積もり、人々は厚い外套に身を包んでいる。
市場には野菜や肉、衣服、日用品が並んでいた。
皇帝陛下は、焼き菓子を売る店の前で足を止めた。
「美味そうだな」
「では、買ってみましょう」
「うむ!」
しかし、皇帝陛下は財布を持っていなかった。
僕が少額の硬貨を渡すと、陛下は店主に声を掛け、菓子を二つ買った。
「銀の弓。これで足りるか?」
「はい。ただし、お釣りが出ます」
「……お釣り?」
「支払った金額と商品の値段の差額です」
「なるほど……」
店主から菓子と硬貨を受け取り、皇帝陛下は嬉しそうに笑った。
「買えたぞ!」
「はい。お見事です」
皇帝陛下は菓子を一つ、僕に差し出した。
「ほら、君の分だ」
「ありがとうございます」
二人で菓子を食べながら、市場を歩く。
「銀の弓。この市場にも感染者はいるのだろうか?」
「ええ。中には感染者である事を隠して働いている人もいるでしょう」
「……帝都でも、そうなのだな」
皇帝陛下は周囲を見回した。
荷車を押す労働者。雪を掻き分けて歩く子供たち。店先で客を呼ぶ商人。
「私は、この街の事さえ十分に知らなかったのだな」
「そうかもしれません。ですが、足りない物は補えば良いのです」
僕は姿勢を正した。
「陛下。ここがあなたの国、ウルサスです」
皇帝陛下は僕を見た。
「この国の多くの人々は、陛下の一言で動きます。陛下にはその力があるのです。しかし、それには責任も伴います」
僕は続けた。
「陛下の国を良くする為の方法を、僕も、ヴィッテ議長も、それこそタルラ公爵も考えるでしょう。ですが、最後には陛下の決断が必要です」
「……それは厳しいな」
皇帝陛下は少々険しい表情を見せた。
僕は頷いた。
「ええ。厳しい事だと思います」
そして、静かに告げた。
「ウルサスへようこそ。あなたの国は、あなたを歓迎します」
皇帝陛下は、しばらく街並みを見つめていた。
やがて、小さく頷いた。
「……ありがとう、銀の弓」
夕方。
宮殿へ戻ると、ヴィッテ議長が待っていた。
「陛下。お帰りなさいませ」
「うむ。ただいま戻った」
「……随分とお疲れのようですが」
「少し歩き過ぎた。だが、楽しかったぞ」
ヴィッテ議長は僕を見た。
「銀弓伯。三日間の成果は?」
「はい。陛下はご自身で身支度を整え、料理を作り、市場で買い物を行い、徒歩で移動する事ができました」
「……それだけか?」
「はい」
ヴィッテ議長は眉をひそめた。
しかし、皇帝陛下が口を開いた。
「ヴィッテ。私は十分な成果があったと思っている」
「……陛下?」
「私は今日、自分で行き先を決め、自分で歩き、自分で買い物をした。そして、自分で帰ってきた」
皇帝陛下は穏やかに笑った。
「それだけの事だ。だが、私にとっては初めての経験だった」
「……なるほど」
「銀の弓は、私に宮殿を出る選択肢を与えてくれたのだ」
ヴィッテ議長はしばらく考え込み、やがて頷いた。
「承知しました。三日間の成果を認めましょう」
「ありがとうございます」
「もっとも、陛下が自ら市場で買い物をなさるなど、宮廷の者たちが聞けば卒倒するでしょうが」
皇帝陛下は楽しそうに笑った。
「では、ヴィッテ。次は君も一緒に行こうではないか」
「……私も、でございますか?」
「うむ。市場には美味い菓子があったぞ」
ヴィッテ議長は深く息を吐いた。
「……日程を調整いたしましょう」
その夜。
ヴィッテ議長は、執務室で報告書を読んでいた。
皇帝陛下の生活実習は、確かに成功した。
靴紐を結び、料理を作り、街を歩く。
どれも、皇帝の権力を強めるようなものではない。
だが、皇帝自身が行動できる範囲は広がった。
「彼は、本当に妙な事を考える」
ヴィッテは小さく笑った。
机の上には、もう一つの書類が置かれていた。
カジミエーシュとの交渉に関する報告書。
西部国境に展開するウルサス軍の維持費、補給物資、軍需品の生産量。そして、カジミエーシュとの関係改善によって削減できる軍事支出の試算。
ヴィッテは書類に目を落とした。
「カジミエーシュとの取引が成れば、我々は西部軍に割いている国力を大幅に縮小できる」
軍隊を維持するためには、膨大な物資が必要になる。
そして、軍事支出を減らせれば、その分を民生部門に転用出来るのだ。より多くのパン、より多くの医薬品を生産出来る。それがこの国にとってどれほど貴重な事か。
ヴィッテは窓の外を見た。
サンクトグリファーベルクには、静かに雪が降っていた。
「一グラムでも多くのパンを、一人でも多くの人々に食べさせる事ができるはずだ」
彼は、机の上の書類へ視線を戻した。カジミエーシュとの交渉を担う、ウルサス伯爵。銀の弓。それがよりによってカジミエーシュの出身なのは、大いに皮肉な事だ。
「……頼んだぞ、我々の新しい伯爵」
(……そういえば、そんなこともありましたね)
銀弓は、ゆっくりと目を開けた。
ニアール家の客間。
柔らかな朝日が、窓から差し込んでいる。
サンクトグリファーベルクで伯爵位を授かった当初。
自分はフョードル陛下に、日常生活の技術と、これからのウルサスに必要だと思うことを教えた。
あの三日間が、直接カジミエーシュでの活動を決めたわけではない。
だが、皇帝から一定の信任を得られたことは、その後の行動の自由につながっている。
今こうして大騎士領にいるのも、突き詰めればあの時の選択の延長にあるのだろう。
(……それにしても、懐かしいですね)
銀弓は寝返りを打とうとした。
そして、すぐ隣に人影があることに気付いた。
「起きたか、お前」
「ニアールッ!?」
そこには、マーガレット・ニアールがいた。
「な、何でそんな近くに……!」
「別に、お前が起きるのを待っていただけだが」
「そ、そうですか……」
銀弓は少しだけ安堵した。
しかし、その直後。
「ふふ。おはようございます、銀弓様」
別の方向から声がした。
「ヴィ、ヴィヴィアナさんまで!?」
ヴィヴィアナ・ドロステ。
燭騎士として知られる彼女が、優雅な笑みを浮かべて立っていた。
「おはようございます」
「お、おはようございます……」
僕は思わず視線を逸らした。
ニアールだけでも十分に落ち着かないというのに、ヴィヴィアナまでいると、朝から顔面偏差値が高過ぎるんです。
(……何なんですか、この状況は)
そんなことを考えていると、ヴィヴィアナがベッドの脇に腰を下ろした。
「実は、少し考えていたんです」
「……何をですか?」
「もし、あなたの生まれがカジミエーシュではなかったら、どうなっていたのかと」
「……?」
僕はは首を傾げました。
カジミエーシュ以外で生まれる可能性など、考えたこともなかったですから。
「例えば、あなたがリターニアに生まれたエラフィアだったとしたら」
ヴィヴィアナは微笑んだ。
「今頃、双子の女帝陛下から大層可愛がられていたのではないでしょうか」
「……それは、どうでしょう」
僕は困惑しました。
自分がリターニアに生まれていたとして、何をしていたのか。技師か、軍人か、それとも宮廷の官僚か。考えてみても、あまり想像がつきませんから。
「否定はできないが……ヴィヴィアナ?」
ニアールが怪訝そうに尋ねた。
しかし、ヴィヴィアナは構わず続ける。
「そして、もしあなたの家が選帝侯家ではなかったとしたら」
「……はい?」
「あなたは、私の夫になっていたかもしれない」
「…………」
銀弓は固まった。
「……え?」
「そう思うんです」
ヴィヴィアナは、穏やかに微笑んでいた。
「……え? え?」
何を言われたのか、理解できない。
いや、言葉の意味は分かる。
分かるのだが、どう返事をすればいいのか分からない。
国家の政治制度について思考する方が、まだ簡単だった。
「……ヴィヴィアナ」
ニアールが、低い声で呼び掛けた。
「はい?」
「お前は、何を言っているんだ?」
「可能性のお話ですよ、マーガレット」
「……可能性?」
「ええ。生まれた国や家が違えば、人の人生は大きく変わりますから」
ヴィヴィアナの目は僕を見ていました。逃さずに、じっと。
「銀弓様も、そうでしょう?」
「……そ、それは、そうかもしれませんが」
「ふふ」
どうしましょう、酷く混乱して来ました。何しろ、自分の結婚相手について、本人の目の前で仮定の話をされている。しかも、その相手がヴィヴィアナなのだ。
(……どうして、こうなるんですか!?)
ニアールは小さく咳払いした。
「……と、とにかく!」
「は、はい!」
「お前の次の試合の相手が決まったぞ」
「……次の試合?」
「ああ」
ニアールは、手元の資料を差し出した。
「今大会で初出場となる、無名の騎士だ」
銀弓は資料を受け取った。
そして、そこに記された名前を見た。
「……スカジ?」
思わず声が漏れた。
「……は?」
「知っているのか?」
「知っているも何も……」
銀弓は目を見開いた。
滴水村で出会った、やたらと強い賞金稼ぎ。
あのスカジが、何故こんなところにいるのか。
しかも、騎士競技に出場する?
「どうして、スカジさんが……?」
ニアールは首を傾げた。
「お前の知り合いなのか?」
「ええ。知り合いと言えば知り合いですが……」
「強いのか?」
銀弓は黙った。
強い。
それは間違いない。
しかし、強いという言葉だけで説明していい相手なのか。
少し考えた後、銀弓は答えた。
「……とても強いです」
「そうか」
ニアールは頷いた。
「ならば、気を引き締めなければならないな」
「……はい」
銀弓は資料を見つめた。
スカジ。
一体、何を考えて騎士競技に出場したのだろう。
そして、何故よりによって自分の対戦相手なのか。
考えても、答えは出なかった。
その時。
「頑張って下さいね、銀弓さん?」
ヴィヴィアナが、楽しそうに声を掛けた。
「は、はい……!」
銀弓は慌てて頷いた。
「が、頑張ります……!」
ヴィヴィアナは満足そうに微笑んだ。
ニアールは、そんな二人を何とも言えない表情で見つめている。
(……どうして、こうなるんですか)
皇帝陛下に靴紐の結び方を教えていた頃は、もう少し物事が簡単だった気がする。
少なくとも、あの時は何をすればいいのか分かっていた。
しかし、今は違う。
ヴィヴィアナの発言にも、スカジの出場にも、どう対処すればいいのか分からない。
(……困りましたね)
深く息を吐いた。
そして、手元に渡された資料をもう一度見た。
次の対戦相手。
スカジ。
どうやら、大騎士領での騒動は、まだまだ終わりそうになかった。
「お兄ちゃぁぁぁんっっっ!」
「うぐええぇっ!」
そう思っていたら、客間にマリアが走り込んで来た。そのままベッドにダイブして来る。その後ろには、ニヤニヤしたWが起爆装置付きの爆薬を持っている。
「お腹空いた、朝ごはん作って。お兄ちゃんの伝統的なレシピ、大騎士領の高級ホテル並みなんだもん」
「う、うぅ、すぐに作ります、マリア」
「銀ピカ」
マリアのせいでぐちゃぐちゃになった僕に、Wが更に追撃する。
「お腹空いたの、早くしなさい。でないとこれ、爆破するわよ?」
「爆薬でご飯を催促しないでくださいぃ…」
「うふふ、銀弓さんはいいお嫁さんになれそうですね」
「僕はお婿さんですうぅ……」
そう言ったヴィヴィアナさんの言葉が、全然冗談に聞こえなかった。
この作品のR-18需要はありますか?もしあるなら、ヒロインは誰が良い?
-
ニアール
-
W
-
マリア
-
プラチナ
-
タルラ!?
-
その他(感想やメッセージで伝えて下さい)