TSお姉さんの性癖破壊旅   作:トートバッグ

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今回の話は、時系列的にはリュグナー君とのお別れから、数年後の話となっております。

お姉さんは趣味で色んな格好をしながら旅をしています。


第2話 : 医者の息子ルイとヤニカスお姉さん

 

「お前は医者の跡取りなんだ。このような点数で、一体どうするつもりだ」

 

 冷徹な声と同時に、机の上に叩きつけられたのは、無残に赤字の入った採点シートだった。一瞬で息が詰まり、心臓が嫌な音を立てる。完璧でなければ、この家には僕の居場所なんてないのだ。

 逃げ出すように屋敷を飛び出し、無我夢中で夜の街を走った。辿り着いたのは、幼い頃に数回だけ来た記憶がある、街外れの寂れた公園だった。

 

 

「はっ、げほっ、う、あ……」

 

 

 脳裏に焼き付いて離れないお父様の冷たい眼光が、僕の喉を締め上げる。ストレスで気管が収縮し、肺の酸素が完全に枯渇しかけていた。うまく息が吸えない。

 過呼吸で視界がチカチカと明滅する中、縋るように、すがるように、呼吸を整えられる場所を求めて夜の闇に沈むベンチへ目をやった。

 

 

「───ぷはぁ。やっぱりこのお酒は効くねぇ!」

 

 

 深夜の冷気の中に、ひどく場違いで、気だるげな女の人の声が響いた。

 そこにいたのは、僕がこれまでの人生で一度も見たことがないタイプの女性だった。

 だらしなく着崩した外套に、ボサボサの髪。夜の闇の中でも怪しく輝く碧い瞳。彼女はビンのまま強い酒を煽り、短くなったタバコから紫煙をふかしていた。

 退廃的、という言葉がぴったりな若い女の人。

 一瞬、目が合った。それだけで僕はひどく怯えてしまい、その日は大慌てで自宅へ逃げ帰った。

 

 

───けれど、数日後。

 

 

 試験の凡ミスをお父様に激しく叱責され、頬を叩かれた僕は、泣きながらまたあの公園へ走っていた。

 頭が真っ白で、消えてしまいたかった。そして、導かれるようにあのベンチを見ると、やっぱり彼女はそこにいた。また目が合う。今度は逃げる力も残っていなかった。

 

 

「おっ、こないだの少年じゃん!……なんかすっごく辛そうな顔をしてるねぇ」

 

 

 お姉さんはビンに入ったワインを揺らしながら、ゆるく笑って僕を手招きした。

 

 

「隣座りなよ。お姉さん暇だしさ、なんなら悩みでも聞いちゃおうか〜?」

 

 

 最初は怖かった。だけど、お姉さんから漂う安タバコの煙と強い酒の匂いが、僕を縛り付ける息苦しさをすべてかき消してくれる気がした。

 気がつけば、僕は堰を切ったように全部話してしまっていた。お父様たちのこと、完璧を求められる苦しさを。

 

 

「そっかぁ、大変だねぇ。でもさ、そんなに肩肘張って生きなくていーんだよ?完璧じゃなくても世界は回るし、たまには私みたいにだらしなく欲に溺れるのも気持ちいいよぉ?」

 

 お姉さんはケラケラと笑いながら、僕の頭を雑に撫でた。

 優しかった。周りの大人は誰も言ってくれなかった言葉。良くも悪くも無責任で、だけど底抜けに温かいその雰囲気に、僕の壊れかけた心は一瞬で救われてしまったんだ。

 

 それから、僕は何度もその公園に足を運ぶようになった。

 お姉さんとの会話は、本当にどうでもいいことばかりだった。お姉さんがお酒で失敗した話とか、お姉さんが昔好きだった男の子の話とか。

 でも、お姉さんのゆるい口調を聞いているだけで、色んな嫌なことが本当にどうでもよくなっていく。僕にとって、この場所がまともに息ができる聖域になっていくのを感じた。

 

 そんな、いつものようにベンチで話していた、ある日のこと。

 

 

「うわっ、冷た……!あちゃー、降ってきちゃったねぇ」

 

 

 突然、大雨が降り出してきた。激しい雨粒が地面を叩く。普通なら、今すぐ家に帰らなきゃいけない場面だ。

 

 

「ルイ君、これじゃ風邪ひいちゃうよ。早くお家に帰りな?」

「……嫌です。帰りたく、ないです」

 

 

 僕は俯いて、お姉さんの外套の裾をギュッと握りしめた。あの冷たい檻のような家に帰るくらいなら、ここで雨に濡れていた方がマシだった。

 お姉さんは困ったように眉を下げ、それから悪戯っぽく笑った。

 

 

「んー、じゃあさ。お姉さんの家、すぐそこなんだけど……来る?」

 

 

 さすがに少し躊躇した。男の僕が、年上の女性の部屋に上がるなんて。だけど、お姉さんと離れたくなくて、僕は小さく頷いた。

 案内されたのは、レンガ造りの古びた集合住宅の一室。お姉さんの家は、なんというか、僕の予想を裏切らない汚さだった。

 床には空になったワインのビンや強い火酒のボトルが転がり、脱ぎ散らかされた服……それどころか、薄いレースの下着までが平然と椅子に引っかかっている。

 

 

「〜っ!?」

 

 

 心臓が跳ね上がる。目をどこに向ければいいのか分からなくて、顔がカッと熱くなった。

 お姉さんはそんな僕の動揺なんて気にせず、濡れたシャツをその場で脱ぎ捨てると、キャミソール一丁になってベッドに寝転がった。

 

 

「あ、ごめんごめん。ちょっと散らかっててさぁ。ま、くつろいでいってよ!」

 

 

 お姉さんは気にする風でもなく笑っているけれど、僕の心臓はうるさいくらいにドキドキしていた。

 部屋の隅には、まともな食材なんて一つもない。あるのは酒と、干し肉のような乾いたつまみだけ。

 

 

「お姉さん、普段これしか食べてないんですか?ご飯は?」

「え?お酒が主食だよぉ?ご飯なんて作るのめんどくさいじゃん」

 

 

 信じられなかった。この人は、僕がいないと本当に駄目になってしまうんじゃないか。

 家では無能扱いの僕の中に、奇妙な全能感と、歪んだ義務感が湧き上がってくる。

 

 

「……分かりました。じゃあ、明日から僕がここにご飯を作りに来ます」

「お、ルイ君が?それは助かるなぁ。お姉さん、いつでも待ってるよぉ?」

 

 

 お姉さんは嬉しそうに目を細めて、僕の頭をまた雑に撫で回した。この目の前にいる大人の女性は、僕を必要としてくれている。

 ツンと鼻腔をくすぐる安タバコの煙と、お酒の匂い。お姉さんの体を蝕むような退廃の香りに包まれながら、僕の胸の奥には、これまで味わったことのないような甘やかな熱がじわじわと広がっていた。

 

 

 僕がこの人を支えてあげなきゃ。

 

 

 この生活力のないお姉さんのお世話をしている瞬間だけは、あの息苦しい家のことなんて全部忘れて、ただ心地よく溺れていられるような気がしたんだ。

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

「あー……頭痛い。ルイく〜ん、お水ちょうだ〜い」

 

 

 床の上に転がり、昼間からビン入りの安い火酒を煽りながら、私はだらしなく声をあげる。

 レンガ造りのボロアパートの一室。換気扇の回らない部屋には、私が吐き出した安タバコの煙が薄く煙っていた。

 

 

「もう……お姉さん、またそんなお酒ばっかり飲んで。体に悪いですよ」

 

 

 トントン、と小気味よい包丁の音が響く。狭いキッチンに立っているのは、ルイ君だ。

 良家の上品な坊ちゃんだったはずの彼は、今や慣れた手つきでエプロンを締め、私のために不器用ながらも温かい手料理を作ってくれている。

 

「いいじゃん、お酒は百薬の長だよぉ?それに私には、ルイ君のご飯っていう特効薬があるしねぇ、えへへ」

「調子のいいこと言わないで。……はい、お水。タバコはご飯の前に1本だけですからね」

「……」

「返事は?」

「はーい」

 

 

 眉をひそめながらも、ルイ君は甲斐甲斐しく冷えた水を運んできてくれた。

 その顔は、初めて夜の公園で出会った時のような悲壮感に満ちたものではなかった。

 私という、自分が面倒を見てあげなきゃいけない存在を見つけたことで、彼は心地のよい居場所を手に入れたのだろう。かわいい。本当に健気で可愛い。

 

 親からの重圧で息もしづらくなっていた小さな彼を包み込んで、逃げ場所を作ってあげられた。

 彼を苦しめる呪縛から、私は本気でこの子を救ってあげたいと思っている。こんな小さな男の子はもっと元気溌剌に、なにも考えずに幸せを享受すべきなのだ。これは嘘偽りのない、私の本心である。

 

───だけど、それと同時に。

 

(あはっ♡見て、あの嬉しそうな手つき。もうすっかり私のお世話なしじゃいられない身体になっちゃってる。あんなに育ちの良い男の子の頭の中が、じわじわと私で染まっていくの、たまんないなぁっ!)

 

 背筋を駆け上がる極上の快感に、私はタバコの煙を深く吸い込み、脳汁を溢れさせる。

 

 

───ヤニうっっっま

 

 

 彼を救ってあげたい気持ちは本物。だけど、彼の中に私という存在を刻みつけるこの感覚が、どうしても癖になってしまうのだ。我ながら業が深い女だとは思う。

 

 

「あー……スープにお塩入れたいけど、切らしちゃってるなぁ。めんどうくさいけど、下の市場まで行ってこようかなぁ……」

 

 

 私が気だるげに財布を引っ張り出そうとすると、すかさずルイ君が調理中の手を止めて、私の前に回り込んできた。

 

 

「ダメですよ、酔っ払いのお姉さんはそこで大人しくしててください!お塩なら僕がすぐに買ってきますから!」

「お、本当?ルイ君は気が利くねぇ。じゃあお願いしちゃおっかなぁ」

 

 

 私が手渡した数枚の銅貨を握りしめ、ルイ君は部屋から出ていった。パタン、と古びた木製のドアが閉まり、静寂が戻る。

 

 私はベッドの上に座り直すと、手のひらから淡い光───『治癒魔法』を放ち、自分の胸へと向けた。

 

 

「ふぅ……やっぱり安タバコは肺にすすが溜まりやすいなぁ」

 

 

 魔法の光が肉体に溶け込むと、タバコの煙で真っ黒に汚れていた肺が、一瞬で元のピンク色の健康な臓器へとリセットされる。

 タバコも酒も、治癒魔法のスペシャリストである私には何のリスクもない。ただの、だらしないお姉さんを演じるための小道具だ。でも最近はちょっとだけタバコの味が分かるようになってきた。こりゃうめぇ。

 

 

「ただいま戻りました、お姉さん」

 

 

 予想より早く、ルイ君が息を切らせて戻ってきた。

 

 

「おかえりー。ルイ君早ーい。よしよし、偉いねぇ可愛いねぇ」

 

 

 私はベッドから起き上がると、帰ってきたルイ君に後ろから遠慮なく、背中に思いきり抱きついた。生活力のないだらしなさに任せた、ただの甘えん坊のスキンシップ。

 

 

「あ、え、お、お姉さん!?」

 

 

 ルイ君の身体が、彫刻のようにカチコチに固まった。至近距離で重なる、お姉さんの感触。普段は能力でボサボサ髪のだらしない姿をしているけれど、ベースは美女だ。抱きついた拍子に、ボサボサの髪が少しだけ整って、その隙間から覗く肌の圧倒的な綺麗さ、そして隠しきれない美貌の片鱗が、至近距離でルイ君の網膜に焼き付いてしまう。

 

 

「〜っ!?」

 

 

 ルイ君の呼吸が、一瞬で浅くなる。耳まで真っ赤にして、ゴクリと喉を鳴らす音が狭い部屋に響いた。

 その瞳の奥にある光が、パチリと音を立てて切り替わる。それは、ただ母親の温もりを求めるような子供のそれではなく、この恐ろしいほどに美しい1人の女を、男として独占したいという歪んだ執着への変質。

 

 

(いい顔!一瞬で男の目つきになっちゃった!男が女を見る目!チビの分際で可愛い♡)

 

 

 私は何食わぬ顔で彼から身体を離し、再び布団をごろごろと転がる。大慌てでキッチンに逃げ込んでいくルイ君の背中を見つめながら、私はふと、少しだけ冷静になった。

 

 やがて、ルイ君の手によって美味しいスープとご飯が完成し、2人で食べた。

 

「ふぅー、ごちそうさま。美味しかったぁ。……ねえ、ルイ君、ちょっとこっちにおいで?」

「あ、はい。お片付けの前に、タバコですか?」

「んーん、違うよ。ほらここ」

 

 

 私は床の上に座り直し、自分の太ももをポンポンと叩いた。ルイ君は一瞬ぎょっとした後、また顔を真っ赤に染めながら、恐る恐る私の膝の上に頭を乗せてくる。 

 

 

「いつも偉いねぇ~。ルイ君はお勉強を頑張ってて、私の面倒も見てくれて、本当に良い子だね〜」

 

 

 私の膝の上で、ルイ君は心地よさそうに目を細めている。細くて柔らかい彼の髪に指を差し入れ、優しく、何度も何度も撫でてあげる。お家での厳しいプレッシャーを全部忘れさせてあげるように。

 

「そんなことないですよ……。僕、いつもお父様達に怒られてばかりで……」

「んーん、こんな良い子はいない!お姉さんが保証してあげる!」

 

 

 ルイ君の身体から完全に力が抜け、トロンとした目で私を見上げてくる。

 

 

(……でも、そろそろ引き際、かな)

 

 

 これ以上彼を依存させ続けたら、彼は本当に医者になる未来を捨ててしまうかもしれない。それは私に本当に微かに残っている良心が痛む。

 私との思い出は、大人になってふとした時に蘇る、幼少期を彩る素敵な記憶、くらいの立ち位置にいてくれれば良いのだ。

 彼の未来のために、私は消えなければならない。だけど───ただ消えるのはつまらない。せっかく身を引くなら、最高に美しくて、最高に彼の脳を焼きつくすお別れの演出をしてあげよう。

 

『タバコのせいで病気になって、もう長くない哀れなお姉さん』

 

 そんな嘘の台本を思い描きながら、私はタバコの火を見つめ、彼への愛おしさと愉悦を混ぜ合わせた、歪んだ笑みを唇に浮かべた。

 

 

 

 

◇◇◇

 

 最近はずっと、僕の頭の中はお姉さんのことでいっぱいだった。

 ある朝、いつものように鍵の開いた古びたドアを開けて、お姉さんの部屋に入った時のことだ。

 

 

「お姉さん、朝ご飯作りに───」

 

 

 言葉が、喉の奥で氷ついた。そこには、信じられない光景が広がっていた。

 昨晩、水浴びでもしたのだろうか。いつもボサボサだった髪はしっとりと美しく整えられ、床の上でお姉さんは一切の衣服を纏わずに眠っていた。

 

 

「あ……」

 

 

 窓から差し込む朝日に照らされた肌は、見たこともないほど白く、キメ細やかで、まるで極上の磁器のよう。

 だらしなくて、生活力のないお姉さん。そのフィルターが完全に剥ぎ取られた素顔は、世界を狂わせるために存在しているとしか思えないほどに神聖で、圧倒的に美しかった。

 

 僕は買い物袋を落としそうになりながら、大慌てで部屋を飛び出した。心臓が壊れそうなほどバクバクと鳴り響き、顔が破裂しそうに熱い。

 その日から、僕の毎日は地獄のような悶々とした日々に変わった。教科書を開いても、目を閉じても、あの美しすぎるお姉さんの裸体と、滑らかな肌の感触が脳裏に焼き付いて離れない。子供としての依存は、完全に1人の男としての狂気へと変質していた。

 そんな風に、ずっとお姉さんのことしか考えられなくなってしまったのに───その数日後。

 

 お姉さんが布団の上にうずくまり、口からおびただしい量の血を吐いた。

 

 

「私の肺、タバコのせいでボロボロなんだって……もう長くないから、この街を出て故郷に帰るね」 

 

 

 儚げに微笑むお姉さんを見た瞬間、僕の脳みそは完全に狂ってしまった。

 お父様の本棚で読んだ、大嫌いだったはずの医学書の内容が、恐ろしいほどの明晰さで蘇る。

 

 病気?お姉さんが死ぬ?僕の前から消える?そんなの、僕が絶対に許さない。

 

 

「お姉さん、大丈夫だよ」

 

 

 僕は自分でも驚くほど、歪んだ満面の笑みを浮かべて、お姉さんの両肩を掴んだ。

 

 

「僕、医者の息子だから知ってるんだ。悪くなった臓器はね、移植すれば治るんだよ。だから───お姉さんの肺と肝臓を、僕にください」

「……は?」

 

 

 お姉さんの碧い目が見開かれる。いつもの余裕が、一瞬で消え失せた。

 

 

「お姉さんのボロボロの肺も、お酒で悪くなった肝臓も全部くり抜いて、代わりに僕のこの新しくて健康な肺と肝臓をお姉さんにあげるよ。……あ、でも、それだとお姉さんの臓器が余っちゃうね」

 

 

 僕はクスクスと笑った。素晴らしい名案だ。

 

 

「だから、お姉さんのその病気の肺と肝臓は、僕の身体に移植するね。僕の胸を切り開いて、僕の中に閉じ込めるんだ。そうすれば、僕の臓器でお姉さんは生き続けて、お姉さんの臓器は僕の身体の中で、2人でずっと一緒に生き続けられるでしょ?大丈夫、僕の身体のことは心配しないで。僕、治癒魔法が結構得意なんだ。これから成長すれば治せるようになるはずだから!」

 

 

 お姉さんの顔から、血の気が一気に引いていくのが分かった。

 いつも余裕たっぷりで僕をからかっていたお姉さんが、見たこともないほど顔を真っ青にして、ガタガタと本気で震えていた。

 

 翌朝、僕は最高に弾む足取りで、お姉さんの住むアパートへ向かった。

 お姉さんを安心させてあげなきゃ。お父様達を説得しなくちゃいけないけど、僕が必ずお姉さんを治して、僕のものにしてあげるんだから。

 

 

───けれど

 

 

「……お姉さん?」

 

 

 ガチャリと扉を開けた先には、何もなかった。

 いつも散乱していた酒瓶も、脱ぎ散らかされた服も下着も、綺麗さっぱり消えている。安タバコの匂いだけが微かに残るガランとした部屋。

 お姉さんは、荷物をまとめて文字通り消えていた。

 

 

「あ、あはは……逃げちゃったんだ……」

 

 

 僕はその場に崩れ落ち、お姉さんのいなくなった床を掻きむしった。胸が引き裂かれそうで、涙が止まらない。寂しくて、お姉さんに会いたくて、窒息しそうになる。

 だけど───僕の心は、不思議と折れなかった。むしろ、ドロリとした暗い情念が、僕の背骨をこれまでにないほど強く、真っ直ぐに突き動かした。

 

 

「待っててね、お姉さん」

 

 

 僕は涙を拭い、立ち上がった。お父様やお母様の期待? 我が家の跡継ぎ?そんなもの知ったことか。どうでもいい。僕はもう、彼らの操り人形じゃない。

 だけど、勉強はする。死ぬ気で、誰よりも勉強してやる。すべては、この世界のどこかで病気に苦しんでいる、僕の愛しいお姉さんを見つけ出し、その胸を切り開いて、2人で一緒になるために。

 

 

「僕が絶対に、お姉さんを治してあげるからね!」

 

 

 ボロアパートを飛び出した少年の瞳には、かつての絶望の影はなかった。

 代わりに宿ったのは、1人の美しい毒婦に狂わされ、彼女を捕まえるためだけに医学の道を歩み始めた、底知れない執着の光だった。

 

 





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