『神結び ~五つの縁と君の恋~』によく似た世界に転生した雨宮湊。
けれど、この世界はゲームそのものではなかった。
原作には存在しなかった主人公の友人。
ゲームでは描かれなかった出来事。
少しずつ原作からずれていく物語。
湊は、自分が救いたい少女を救うため、そして原作主人公・神崎雫を死なせないために、ゲームで唯一彼女が生き残る「True End」を目指して動き始める。
乙女ゲーム転生×和風伝奇ものです。
※本作は、設定整理・文章作成・推敲などに生成AIを利用しており、本文にもAIを利用した文章が含まれています。
※独自設定、シリアス展開、流血等の描写を含みます。
※細かいことを気にせず、なんでも許せる方向けです。
大規模妖魔災害。
それは、
数年前の冬。
全国各地で、妖魔による大規模な被害が発生した。
死者、行方不明者、負傷者。
街が一つ消えた、というニュースまであった。
テレビの画面には、崩れた建物や避難所の映像が流れていた。
両親と一緒に夕食を食べながら、それを見た記憶がある。
「……こんなこと、本当にあるんだね」
母がそう言った。
「……うん。怖いね」
雫も、画面を見たまま答えた。
怖いとは思った。
大変なことが起きているとも思った。
けれど、それ以上深く考えることはなかった。
遠い場所で起きている、自分とは違う世界の出来事だったからだ。
妖魔と戦う人たちがいる。
自分たちを守ってくれる人たちがいる。
そういうものなのだと思っていた。
雫にとって大規模妖魔災害は、ニュースの映像の中にある出来事でしかなかった。
──あの日までは。
✿
災害から数年後。
雫は、神託を受けた。
神社で祈りを捧げていた雫の前に、三柱の神が現れた。
三柱の神から告げられたのは、これから先、妖魔と向き合う者としての役目だった。
「……私が?」
思わず、そう問い返した。
神々は、ただ静かに雫を見つめていた。
何をどこまで求められているのか、そのときの雫にはまだよく分からなかった。
ただ一つ。
自分は、これから戦わなければならないのだと。
そう思った。
その日から、それまでテレビの向こう側にあった世界が、急に自分と無関係ではなくなった。
妖魔のことも。
神々のことも。
戦う人たちのことも。
それからの日々は、少しずつ変わっていった。
友達との会話。
学校での何気ない時間。
以前なら当たり前だったものが、どこか遠くなった。
「雫……その、大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ」
友人の
けれど、結局それ以上は聞かなかった。
何を聞けばいいのか、分からなかったのだと思う。
神託を受けた雫に、これまで通り接していいのか。
どこまで聞いていいのか。
何を言えば、雫を困らせるのか。
小春自身にも、きっと分からなかった。
だから、ほんの少しだけ。
二人の間に、今までなかった距離ができた。
雫にも、それが分かってしまった。
家に帰れば、両親はいつも以上に雫を気にかけた。
「嫌なら、やらなくてもいいんだよ」
母は何度もそう言った。
父も、雫が神託の話をするたびに難しい顔をして。
「無理はするなよ」
それだけを繰り返した。
二人とも、本気でそう思っているのだろう。
雫が「怖い」と言えば、きっと止めてくれる。
戦いたくないと言っても、責めたりはしない。
それが分かっているからこそ。
「……大丈夫」
雫は、そう答えてしまう。
「私、ちゃんとやるから」
そう言うと、母は少しだけ安心したように笑った。
父も、何も言わずに頷いた。
その顔を見てしまうと。
今さら「怖い」とは、言えなかった。
そして、ある雪の日。
雫は一人で、神社を訪れた。
✿
雪が降っていた。
神社の境内には、人の姿がない。
雫は一人、石段に座っていた。
吐いた息が白くほどけていく。
手が冷たい。
足先も、じんじんと冷えていた。
身体が小さく震えている。
止めようとしても、止まらない。
寒いからなのか。
それとも、怖いからなのか。
自分でも、よく分からなかった。
気づけば、頬を涙が伝っていた。
「……怖いな」
誰にも聞こえないくらいの声で呟く。
神託を受けた。
神々に選ばれた。
これから、自分は戦わなければならない。
そう思っている。
ちゃんとやらなければ、とも思っている。
それでも。
怖いものは、怖かった。
誰かに聞かせるつもりなんてなかった。
ただ、ずっと胸の奥に溜め込んでいたものが、ぽつりと零れた。
「……どうしたらいいんだろう」
「どうもしなくていいんじゃない?」
突然、声がした。
「え……?」
雫は顔を上げた。
そこに、同い年くらいの少年が立っていた。
雪の中だというのに、妙に落ち着いている。
泣いている雫を見て、慌てているわけでも。
必要以上に心配そうな顔をしているわけでもない。
ただ、そこに泣いている女の子がいたから、声をかけた。
そんな自然さだった。
「寒いし、とりあえず軒下に入ったほうがいいと思うけど」
少年が境内の奥を指差す。
その先には、雪の積もった古い社殿があった。
「……あなた、誰?」
「僕?」
少年は少しだけ考えてから、答えた。
「雨宮 湊」
「……雨宮、くん?」
「うん」
「どうしてここにいるの?」
「たまたま通りかかっただけ」
あまりにも普通に答えるものだから。
雫は、ほんの少しだけ笑った。
「……変なの」
「よく言われる」
少年──
それから、何も言わなかった。
何があったのかと聞くでもなく。
泣き止ませようとするでもなく。
ただ、隣にいた。
雫は少し迷った。
初対面の人に話すようなことじゃない。
そう思うのに。
なぜか、この人には話してもいいような気がした。
初めて会ったばかりなのに。
どうしてそう思ったのかは、自分でも分からない。
「……私ね」
「うん」
少しだけ息を吸う。
「戦わなきゃいけないんだ」
「そうなんだ」
「神様に、そう言われたの」
「うん」
短い返事だった。
何か気の利いたことを言ってくれるわけでもない。
それなのに。
雫は、もう少しだけ話してみようと思えた。
「……怖い」
口にしてしまった。
言った瞬間。
胸の奥で固まっていたものが、少しだけほどけた気がした。
湊は笑わなかった。
励ましもしなかった。
「そっか」
ただ、それだけだった。
「じゃあ、怖いままでいいんじゃない?」
「……え?」
「怖いのに、怖くないふりをする必要はないでしょ」
雫は黙った。
「戦うかどうかは、そのあと決めればいいし」
「でも……神様が」
「神様が言ったからって、君の気持ちまで神様が決める必要はないと思うよ」
淡々とした声だった。
強く言い聞かせるでもなく。
雫を説得しようとしているようにも聞こえない。
ただ、自分はそう思うと話しているだけだった。
だからなのか。
その言葉が、妙に胸に残った。
「……雨宮くんは、怖くないの?」
「怖いよ」
「え?」
「怖いものは普通に怖い」
湊は、降り続ける雪を眺めながら言った。
「ただ、怖いからどうするかは、別の話かなって」
雫は何も言わなかった。
ただ、その言葉を聞いていた。
雪が、静かに降り続いている。
さっきまでと何も変わっていないはずなのに。
ほんの少しだけ、息がしやすくなった気がした。
そのときは、それ以上のことを言えなかった。
ただ。
その言葉を、雫はその後も何度も思い出すことになる。
✿
神崎 雫と出会った日のことを、僕はよく覚えている。
雪の降る神社。
石段に座って、一人で泣いていた女の子。
肩を少し越した焦げ茶色の髪が、俯いた頬にかかっていた。
顔を上げると、同じように茶色い瞳がこちらを見る。
泣いていたせいで目元は赤く、頬にはまだ涙の跡が残っていた。
綺麗というより、可愛らしい。
どこにでもいそうな女の子だった。
神崎 雫
ゲームの中では、よく笑う女の子だった。
困っている人がいれば放っておけなくて。
少しくらい無茶をしてでも、誰かのために動こうとする。
そんな彼女が、目の前では泣いていた。
「……怖い」
震える声で、そう言った。
そのとき初めて。
僕は、自分が知っているゲームの主人公と、目の前にいる女の子が、少しだけ違って見えた。
まあ、考えてみれば当然なのかもしれない。
ゲームでは、泣いたあとの目が赤くなるところまで描かれていなかった。
怖くて声が震えるところなんて、もっとそうだ。
画面の中では見えなかっただけで。
神崎 雫という女の子は、最初からこういう子だったのかもしれない。
そのときの僕は、それくらいに考えていた。
僕には、前世の記憶がある。
そう言うと大げさに聞こえるけれど。
要するに、一度死んで。
気がついたら、別の人間として生まれていた。
いわゆる、転生というやつだ。
それだけなら、まだよかった。
問題は。
転生した先の世界に、僕は見覚えがあったことだった。
妖魔がいる。
神や神霊が実在する。
人間は彼らと『縁』を結び、その力を借りることができる。
そして。
『青龍』
『朱雀』
『白虎』
『玄武』
『黄龍』
五柱の神霊と、それぞれ長い繋がりを持つ五つの名家。
全部、知っていた。
前世で遊んだゲームに出てきたものだったからだ。
──『神結び ~五つの縁と君の恋~』。
通称、『かみむす』。
現代日本を舞台にした、和風ファンタジー系の乙女ゲーム。
神々から力を与えられた一人の少女が、妖魔と戦いながら、人ならざるものたちと『縁』を結んでいく。
乙女ゲームなので、恋愛要素をメインに据えたゲームだった。
攻略対象は五人。
「青龍の加護を受ける
「朱雀の
「白虎の
「玄武の
そして、
「黄龍の
全員、術師社会では知らない者のいない五家の人間だ。
主人公は、そんな彼らとは違う。
特別な家の生まれでもなければ、幼い頃から戦うために育てられたわけでもない。
ごく普通の家庭で育った女の子。
中学三年生のときに神々から神託を受け。
翌春、
そこで五人の攻略対象と出会い。
学校生活を送り。
ダンジョンを攻略し。
神や神霊、妖魔たちと『縁』を結びながら。
高校三年間を戦い抜いていく。
その主人公の名前が──神崎 雫 だった。
つまり。
どうやら僕は、前世で遊んでいた乙女ゲームの世界に転生したらしい。
そして原作が始まるのは、高校一年の春。
つまり、神崎雫が紫苑学園へ編入する、その日からだ。
今はまだ冬。
ゲーム開始までは、もう少し時間がある。
だから。
このときの僕は、まだ何も始まっていないと思っていた。
✿
雨宮 湊は、春先の風みたいな人だった。
初めて会ったのは、まだ雪の降る季節だったけれど。
少し短めの黒髪に、柔らかな色の瞳。
顔立ちは整っているけれど、それ以上に印象に残るのは、よく笑う人だということだった。
楽しそうなときだけではない。
雫が言葉に詰まったときも、困っているときも、急かすことなく、いつものように物腰柔らかく言葉をかけてくれる。
話していて、緊張しない。
沈黙しても、何かを言わなければと焦らなくていい。
あの日から、何度か話すようになった。
妖魔のこと。
神様のこと。
これから、自分がしなければならないこと。
湊は、不思議なくらいその手のことに詳しかった。
どうしてそんなに知っているのかと聞いたこともある。
昔から調べていたから。
返ってきたのは、それだけだった。
だから今日。
雫は、ずっと考えていたことを彼に頼むことにした。
「雨宮くん」
「うん?」
湊がいつものように笑う。
「お願いが、あるんです」
「なに?」
雫は一度だけ息を吸った。
「私に──戦い方を教えてください」
湊が瞬きをした。
ほんの少しだけ、意外そうに。
「戦い方?」
「はい」
口にしてしまえば、もう引っ込める気はなかった。
雫は頷く。
「私、何も知らないんです」
神様から力を与えられた。
人ならざるものと『縁』を結び、その力を借りることができる。
これから妖魔と戦うことになるのだとも聞いている。
そこまでは分かっている。
「でも……戦うって言われても、全然分からなくて」
妖魔を前にしたら、どうすればいいのか。
怖くて動けなくなったら。
自分の力が通じなかったら。
誰かが隣にいたら。
その人を守らなければならなくなったら。
考えようとするほど、自分が何も知らないことばかりが分かった。
「このままじゃ駄目だと思うんです」
雫は自分の手を見る。
神様から与えられた力がある。
だからといって、それだけで戦えるようになるわけではない。
「戦うかどうかは、自分で決めたいです」
あの日の言葉を思い出す。
怖いからどうするのかは、別の話。
なら。
「そのときになってから、怖くて何もできませんでしたっていうのは……嫌だから」
言ってから、雫は顔を上げた。
「だから、教えてほしいんです」
湊は少しだけ黙った。
それから、
「いいよ」
あっさりと答えた。
「……いいんですか?」
「うん」
「もっと……理由とか、聞かないんですか?」
「今、聞いたけど」
「そうじゃなくて……」
雫が言葉に詰まると、湊は少し考えた。
「戦えるようになりたいんでしょ?」
「……はい」
「じゃあ、教えるよ」
それだけだった。
もっといろいろ聞かれると思っていた雫は、少し拍子抜けしてしまう。
「……ありがとうございます」
「うん」
湊はいつものように笑った。
「じゃあ、まず装備を買いに行こうよ」
「……装備?」
予想していなかった言葉に、雫は瞬きをした。
「うん」
「今からですか?」
「時間ある?」
「ありますけど……」
「じゃあ行こう」
「えっ」
話が早い。
雫が何か言うより先に、湊はもう歩き出していた。
「雨宮くん、待ってください」
慌ててその後を追う。
二歩、三歩。
追いついて隣に並んでから、雫は尋ねた。
「……どこに買いに行くんですか?」
「店」
「それは分かります」
湊が笑った。
からかわれた。
たぶん。
「ちゃんとそういう店があるんだよ。武器とか、防具とか、妖魔と戦うのに必要なものを扱ってるところ」
「普通に?」
「普通に」
「……知りませんでした」
「普通に生活してたら行かないからね」
それはそうだ。
雫だって少し前まで、そんな店がどこにあるのかなんて考えたこともなかった。
「武器も買うんですか?」
「そのつもり」
「私、武器なんて持ったことないです」
「うん」
「何が使えるかも分からないです」
「だから、いろいろ持ってみればいいよ」
湊は何でもないことのように言った。
「重さも、長さも違うから。実際に持ってみたほうが分かりやすいし」
「……最初から決まってるわけじゃないんですね」
「神崎さんが使うものだからね」
言われてみれば、当たり前のことだった。
けれど雫は、少しだけ意外に思った。
神様に選ばれてからというもの。
自分が何をするのかは、もうずっと前から決められていたような気がしていたから。
「じゃあ、いろいろ試してもいいんですか?」
「もちろん」
「……ちょっと楽しそうですね」
口にしてから、雫は少しだけ気まずくなった。
これから妖魔と戦うための道具を買いに行くのに。
楽しそう、というのは何か違う気がする。
けれど。
「いいんじゃない?」
湊は気にした様子もなく答えた。
「楽しいなら」
雫は一瞬きょとんとして。
それから、小さく笑った。
二人で歩いている今だけは、不思議なくらい普通だった。
✿
なんだかんだで。
神崎雫が選んだ武器は、薙刀だった。
「これが、一番使いやすかったので」
買ったばかりの薙刀を手に、雫が言う。
戦うための装備も一通り揃えた。
動きを邪魔しない程度の防具に、いくつかの護符や消耗品。
ゲームなら最初から『初期装備』として用意されていたものを、現実ではこうして一つずつ選んで、買わなければならない。
考えてみれば当たり前のことだ。
別に、僕が薙刀を勧めたわけじゃない。
刀も、槍も、他にもいくつか試していた。
その中から、雫が自分で選んだのが薙刀だった。
『かみむす』 でも、神崎雫が使っていた武器は薙刀だ。
「……やっぱり、それになるんだ」
「え?」
「なんでもないよ」
雫が不思議そうにこちらを見る。
なんだかんだ、こういうところは原作と同じらしい。
ゲームでは最初から薙刀を持っていた。
だから、どうして薙刀を使っているのかなんて考えたこともなかった。
現実では、いくつもの武器を実際に手に取って。
重さを確かめて。
振ってみて。
そのうえで、本人がこれを選んだ。
画面の中では省かれていた過程が、ここにはちゃんとある。
でも。
その結果は、僕の知っているものと同じだった。
それが、少し面白かった。
「それじゃあ、行こうか」
「はい」
雫が頷く。
それから、二歩ほど歩いて。
「……どこにですか?」
足を止めた。
「ダンジョン」
「ダンジョン?」
「うん」
「今から?」
「今から」
雫が手元の薙刀を見る。
次に僕を見る。
もう一度、薙刀を見る。
「……これ、さっき買ったばかりなんですけど」
「だからだよ」
「だから?」
「使ってみないと分からないでしょ」
「それは、そうですけど……」
「それに」
戦い方を教えてほしいと言われた。
だったら、武器の振り方だけ教えて終わりというわけにもいかない。
「妖魔と戦うなら、妖魔がいるところに行かないと」
雫の表情が固まった。
「……本物の?」
「本物の」
「今日?」
「今日」
「…………」
分かりやすく黙った。
さっきまで少し楽しそうに薙刀を眺めていたのに、今は両手でぎゅっと握っている。
「いきなり妖魔と戦うんですか?」
「いきなりじゃないよ」
「私にとっては、いきなりです」
「大丈夫。初心者向けのところだから」
「初心者向け……」
雫が何とも言えない顔をした。
「そういうものがあるんですね」
「あるよ」
正確には、原作でそういう扱いだった場所がある、だけれど。
僕たちは電車を乗り継いで、京都の中心部から少し離れた場所へ向かった。
車窓を流れていた建物が少しずつ低くなっていく。
駅を降りてからも、しばらく歩いた。
「雨宮くん」
「うん?」
「さっきから普通の住宅街なんですけど」
「そうだね」
「ダンジョンがあるようには見えません」
「もう少し」
妖魔が現れる場所と聞いて、雫はもっと分かりやすいものを想像していたらしい。
けれど、現実ではそんなものだ。
人が暮らす場所と、人ならざるものが棲む場所。
二つがいつも綺麗に分かれているわけじゃない。
しばらく進むと、住宅の並びが途切れた。
その先に、細い石段がある。
古びた鳥居をくぐり、木々の間を登っていく。
「ここですか?」
「もう少し先」
石段の先にあったのは、小さな社だった。
手入れはされている。
けれど、人の姿はない。
僕はその脇を抜けた。
「そっちなんですか?」
「うん」
社の裏手。
木々の間を少し進んだところで、空気が変わる。
音が遠くなる。
風に揺れていた枝葉の音も、遠くを走る車の音も。
一歩進むごとに薄れていく。
雫も気づいたらしい。
薙刀を抱える手に、少しだけ力が入った。
「……雨宮くん」
「うん」
「ここから、ですか?」
僕は前を見る。
木々の向こう。
景色がわずかに歪んでいた。
見慣れた場所だった。
前世では、何度も通った。
序盤に入れるようになる、低難度のダンジョン。
出てくる妖魔も弱い。
構造も単純で、道に迷うような場所じゃない。
神崎雫が初めて実戦を経験するなら、たぶんここがちょうどいい。
「ここから」
そう答えて、一歩進む。
境界を越える。
雫も少し遅れて、僕の後に続いた。
景色が切り替わった。
「──え」
背後で、小さな声がした。
振り返る。
雫は薙刀を握ったまま、目の前に広がる景色を見ていた。
さっきまでいたはずの社は、もうない。
代わりに広がっているのは、薄暗い森だった。
木々の隙間から差し込む光は弱く、足元には湿った落ち葉が積もっている。
「……ここ、本当に京都なんですか?」
「場所としてはね」
「場所としては」
雫が繰り返す。
納得していないらしい。
「帰れますよね?」
「帰れるよ」
「……よかった」
心の底から安心したような声だった。
僕は少し笑って、前を向く。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
雫がついてくる。
ただ、さっきまでとは歩き方が違った。
薙刀を両手で抱えて、何度も周囲を確認している。
別に悪くない。
むしろ、最初ならそれくらいでいい。
しばらく歩いてから、僕は足を止めた。
「神崎さん」
「はい」
「一つだけ」
雫も立ち止まる。
「妖魔を見たら、まず何を考える?」
「え?」
急に聞かれて、雫は少し考えた。
「……どうやって倒すか?」
「半分正解」
「半分?」
「まず、自分が死なない方法」
雫が目を丸くした。
「妖魔を倒すことより、自分が生き残ることを優先する」
「でも、それじゃ……」
「勝つ方法は、生き残ってから考えればいいよ」
倒せないなら逃げればいい。
一人で無理なら、誰かを呼べばいい。
その場で勝つ必要がないなら、後回しにしたっていい。
ゲームなら、負けてもやり直せる。
ここでは、そうはいかない。
「死んだら、それで終わりだから」
「…………」
「だから、勝つことより先に生き残ることを考える。それだけ覚えておいて」
雫はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……分かりました」
「うん」
歩き出す。
その後ろを、雫がついてくる。
少しして。
足を止めた。
「神崎さん」
「はい」
「いるよ」
雫の身体が強張った。
「……どこに?」
答える代わりに、前を見る。
木々の向こう。
低い茂みが揺れていた。
雫にも見えたらしい。
薙刀を握る手に力が入る。
茂みの奥から、一体の妖魔が姿を現した。
大きさは、人間の子供とそう変わらない。
細長い四肢。
前に突き出した腕の先には、獣のような爪が伸びている。
頭部は犬に似ていた。
尖った耳に、前へ伸びた鼻先。
地面に鼻を近づけ、何かを嗅ぐように小さく首を動かしている。
やがてこちらに気づいたのか、耳がぴくりと動いた。
序盤に出てくる妖魔──『送り犬』だ。
攻撃方法も単純。
距離を詰めて、噛みつく。
それだけ。
僕なら、わざわざ立ち止まるような相手でもない。
けれど。
「…………」
雫は動かなかった。
送り犬がこちらを見る。
雫の肩が、小さく揺れる。
「神崎さん」
「……はい」
「薙刀、構えて」
「はい」
言われて初めて気づいたように、雫が薙刀を持ち上げる。
さっき店で何度か試した構え。
まだ、ぎこちない。
切っ先がわずかに震えていた。
「焦らなくていいよ」
「……はい」
送り犬が一歩、こちらへ近づく。
雫が一歩、下がった。
もう一歩。
また下がる。
それでいい。
まずは、自分と相手の距離を知る。
どのくらい近づかれたら危ないのか。
自分の武器が、どこまで届くのか。
送り犬が地面を蹴った。
「来るよ」
「っ──!」
雫が薙刀を振る。
早い。
刃は送り犬の前を通り過ぎた。
「え──」
振り切った薙刀に身体を持っていかれる。
姿勢が崩れた。
送り犬がそのまま飛び込んでくる。
僕は一歩踏み出しかけて。
止まった。
まだ大丈夫。
「離れて」
雫が反応した。
薙刀を引き戻す余裕はない。
だから、手放した。
「──っ!」
後ろへ飛ぶ。
送り犬の牙が、制服のすぐ前を通り過ぎた。
雫が尻もちをつく。
薙刀が地面を転がった。
送り犬が着地する。
「…………」
雫の顔が強張っていた。
たぶん。
今ので、ようやく分かったのだと思う。
妖魔と戦うということが。
武器を持つことでも。
神様から力を与えられることでもなく。
あの牙が届けば、本当に傷つくということが。
送り犬が身体の向きを変える。
もう一度、雫を見る。
「神崎さん」
呼ぶ。
雫が僕を見た。
「やめる?」
一瞬。
雫の瞳が揺れた。
続ける必要はない。
怖くなったなら、それでいい。
今日やめたって、何も困らない。
雫が送り犬を見る。
地面に落ちた薙刀を見る。
それから。
「……やります」
立ち上がった。
「うん」
それ以上は言わなかった。
雫が薙刀を拾う。
構え直す。
切っ先は、まだ震えていた。
送り犬が動く。
今度は、雫はすぐに振らなかった。
一歩。
もう一歩。
距離が縮まる。
「まだ」
雫が耐える。
送り犬が地面を蹴った。
「今」
薙刀が動いた。
横薙ぎ。
今度は早すぎない。
刃が送り犬の胴体を捉えた。
鈍い感触が、柄を通して伝わったのだろう。
雫の顔が歪む。
それでも、手を離さなかった。
送り犬の身体が横へ弾かれる。
「当たっ──」
「まだ」
雫の表情が引き締まる。
倒れていない。
送り犬が低い声を上げた。
傷ついた腕を垂らしたまま、こちらを睨んでいる。
雫が息を呑む。
送り犬が再び動いた。
今度は速い。
「右」
雫が反応する。
けれど、遅い。
送り犬が薙刀の内側へ潜り込む。
大きく開いた口が、雫の腕へ迫った。
けれど。
その牙が雫に届くことはなかった。
送り犬の身体が、不自然な姿勢のまま止まっていた。
前脚を浮かせ、牙を剥いたまま、ぴくりとも動かない。
僕は雫のほうまで歩いていく。
送り犬と目が合う。
「ねぇ」
そう呟くと──
足元に、一輪の赤い花が咲いた。
その隣に、もう一輪。
また一輪。
季節外れの彼岸花が、地面を埋めていく。
送り犬は、牙を剥いた姿勢のまま動かない。
もう十分だった。
「死んでくれる?」
花が揺れた。
次の瞬間、送り犬の身体が崩れ落ちた。
声を上げる暇もなく。
赤い花の中へ沈むように、その姿が消えていった。
「……なんで?」
後ろで雫の声がした。
少し遅れて、彼岸花も輪郭を失っていく。
振り返ると雫が、呆然としていた。
「大丈夫?」
「え?」
「どこか痛いところある?」
「……ない、です」
「そっか」
ならよかった。
「雨宮くん」
「うん?」
「今の……何ですか?」
「今の?」
「赤い花です」
「ああ」
「それに、妖魔が……」
雫はしばらく言葉を探して。
「雨宮くんって……強いんですか?」
少し考える。
「まあ、それなりに?」
「それなり……」
納得していない顔だった。
「初めてなんだから当たり前だよ」
「でも、雨宮くんは一瞬でした」
「慣れてるからね」
その言葉を聞いて、雫がじっと僕を見る。
「……慣れてるんですか?」
「まあ、それなりに」
「妖魔と戦うのに?」
「うん」
「…………」
「どうしたの?」
「雨宮くんって、何者なんですか?」
僕は笑った。
「次、行こうか」
「誤魔化しましたね?」
「何のこと?」
「今のです」
「神崎さん」
「はい?」
「次、また来るよ」
「え?」
雫が振り返る。
木々の間から、別の送り犬が姿を現した。
さっきと同じ妖魔。
雫の顔から不満そうな表情が消える。
代わりに、緊張が戻った。
「今度は、なるべく手を出さないから」
「危なかったら助けるよ」
雫が妖魔を見る。
薙刀を握る。
「それは……安心していいのか、不安になったほうがいいのか分かりません」
「両方でいいんじゃない?」
「そんなのありですか?」
「ありなんじゃない」
送り犬が近づいてくる。
雫は息を吐いた。
そして、構える。
今度は言われる前に。
✿
二体目も、簡単にはいかなかった。
一度目は距離を取りすぎた。
「下がりすぎ」
「でも、近づかれたら……」
「薙刀のほうが長いんだから、その長さを使って」
二度目は、逆に近づきすぎた。
「近い」
「さっき下がりすぎって言ったじゃないですか!」
「ちょうどいいところがあるんだよ」
「難しいです!」
三度目。
送り犬が飛び込んでくる。
雫は振らなかった。
薙刀の切っ先を向けたまま、待つ。
怖いのだろう。
肩に力が入っている。
それでも、逃げない。
送り犬が間合いへ入る。
雫が一歩踏み込んだ。
薙刀が走る。
刃が、送り犬を捉えた。
送り犬の身体が地面へ落ちる。
雫はすぐに構え直した。
さっき僕に言われたから。
しばらく待つ。
送り犬は、もう動かなかった。
「…………」
雫が構えを解く。
「やったね」
僕が言うと。
ようやく、肩から力が抜けた。
「……終わったんですか」
「うん」
「私が……倒したんですよね」
「そうだね」
雫は倒れた送り犬を見つめた。
笑ってはいなかった。
喜んでもいない。
ただ、自分の手の中にある薙刀を見て。
「どうだった?」
「……怖かったです」
「うん」
「すごく」
「うん」
「でも……」
雫は少し考えた。
「さっきよりは、ちゃんと動けました」
「そうだね」
それで十分だった。
「…………」
そう思って、歩き出そうとして。
足を止める。
「雨宮くん?」
「ちょっと待って」
送り犬が、消えていない。
倒れたまま動かなかったはずの身体が、ゆっくりと輪郭を失っていく。
でも。
これは、討滅された妖魔の消え方じゃない。
淡い光が、雫のほうへ流れている。
「……え?」
雫も気づいた。
光が、その手に触れる。
一瞬だけ。
雫と送り犬の間に、細い糸のようなものが見えた。
そして。
送り犬の姿が消えた。
「…………」
「…………」
雫が僕を見る。
「雨宮くん」
「うん」
「今の、何ですか?」
「たぶん、縁」
「……縁?」
「呼んでみて」
「呼ぶ?」
「さっきの妖魔」
「どうやってですか?」
「来て、って思えばいいんじゃない?」
「そんな適当な……」
言いながらも、雫は恐る恐る手を伸ばした。
「……来て?」
淡い光が集まった。
次の瞬間。
さっき倒した妖魔が、そこにいた。
「…………」
雫が固まる。
送り犬も動かない。
「…………」
「…………」
「雨宮くん」
「うん」
「います」
「いるね」
「なんで!?」
✿
本格和風恋愛シュミレーション『神結び ~五つの縁と君の恋~』。
通称、『かみむす』には、
『
このゲームを攻略するうえで、もっとも重要なシステムの一つだったと言っていい。
神。
神霊。
妖魔。
『かみむす』には、数多くの人ならざるものが登場する。
プレイヤーは彼らと出会い、それぞれに設定された条件を満たすことで『縁』を結ぶことができた。
条件は相手によって違う。
戦闘に勝利する。
特定の方法で倒す。
戦闘中に特定の行動を取る。
依頼を達成する。
会話で正しい選択肢を選ぶ。
単純なものもあれば、攻略情報を知らなければまず気づかないようなものもあった。
条件を満たせば、『縁』が成立する。
そして、一度縁を結んだ相手は、以降の戦闘で『使役』できるようになる。
戦闘中に呼び出してスキルを使う。
特殊な術を発動する。
探索中に力を借りる。
何ができるかは、縁を結んだ相手によって異なる。
当然、強力な相手ほど使える能力も強力だった。
だから、新しい場所へ行けば縁を探す。
新しい妖魔に遭遇すれば、縁を結ぶ条件を探す。
一度倒したボスであっても、条件次第では使役対象になる。
『森羅万象、そのすべてと縁を結べ』
それが、『かみむす』のキャッチコピーだった。
そして、その言葉は、単なる宣伝文句ではなかった。
神でも。
神霊でも。
妖魔でも。
敵として登場する相手だろうと、ボスだろうと、
道端にいる
それは──ラスボスですら例外ではなかった。
普通なら例外となる相手にまで、わざわざ縁を結ぶための条件と、使役したときの能力が用意されている。
「こいつまで縁を結べるのか」
そう思わせるような相手ほど、妙なところまで作り込まれてたりした。
そういう製作陣の遊び心が、『かみむす』にはあった。
まあ。
自動販売機とまで縁を結べたのは、さすがにどうかと思ったけど。
でも、そういうところも含めて前世では人気だったのだと思う。
「こいつもいけるなら、あいつは?」
「じゃあ、あれにも何かあるんじゃないか?」
新しい敵や変わったものを見つけるたびに、試したくなる。
一見するとただの敵にしか見えない妖魔に、妙な縁の条件が隠されていることもあった。
背景の一部にしか見えないものが、実は対象だったことさえある。
攻略情報が出回る前には、誰も気づいていなかった縁を見つけたプレイヤーが話題になることもあった。
そうした作り込みが、前世のプレイヤーたちの収集欲や攻略欲を刺激した。
そして。
そんな『縁』を、いくつも同時に持つことができる。
それが、原作主人公──神崎雫だけに与えられた能力だった。
条件を満たす。
戦闘が終了する。
画面に『縁が結ばれました』と表示される。
使役可能な対象が一つ増える。
だから僕も、原作ゲームの知識としては知っていた。
さっきの様子からして妖魔が、神崎雫と縁を結んだことも。
おそらく、使役できるようになっていることも。
ただし。
ゲームでは、縁を結んだ妖魔がそのあとどうしているのかなんて描かれない。
画面の中では、使役するときに呼び出せばいいだけだった。
どうやって呼び出しているのか。
呼び出していない間、どこにいるのか。
そもそも『使役』される側からすれば、どういう状態なのか。
そんなことまで、ゲームでは説明されていなかった。
だから──。
「……えっと」
雫が困ったように僕を見る。
その隣には、さっきまで彼女に襲いかかっていた送り犬が、お座りの姿勢で座っている。
「これ、どうしたらいいんですか?」
それは僕も知らなかった。
✿
目の前の光景に意識を戻す。
「たぶん、縁が結ばれたんだと思う」
「縁……」
「神様から何か聞いてない?」
「人ならざるものと縁を結んで、力を借りられるとは……でも」
雫が送り犬を見る。
「妖魔とも?」
「みたいだね」
「雨宮くん、どうして縁のことを知ってるんですか?」
「昔から調べてたから」
「……それ、調べたらわかるんですか? 」
「まあ、いろいろ」
じっと見られる。
「……ちょっと怪しいです」
「初めて言われたかも」
「本当ですか?」
「たぶん」
「また、たぶんって言いました」
僕は送り犬を見る。
縁が結ばれたなら、使役できるはずだ。
問題は。
「これ、どうやって戻すんだろうね」
「雨宮くんも知らないんですか?」
「ゲームなら──」
危ない。
「……なんですか?」
「なんでもないよ」
ゲームなら、ボタン一つだった。
「神崎さん、なんとなく分からない?」
「そんな無茶な……」
そう言いながら、雫は送り犬を見る。
「……戻って?」
送り犬の姿が淡い光へ変わり、雫の胸元へ吸い込まれるように消えた。
「…………」
雫が自分の胸を見る。
「入りました」
「入ったね」
「大丈夫なんですか、これ」
「たぶん」
「その『たぶん』は、信用していいんですよね?」
「たぶん」
「雨宮くん」
思わず笑った。
✿
あのあと、縁を結んだ送り犬を使ってみた。
最初こそ戸惑っていたけれど、一度呼び出せてしまえば、あとは早かった。
送り犬の力を借りながら、もう何体かの妖魔と戦う。
薙刀の扱いはまだ危なっかしいし、戦い方だってこれからだ。
それでも、最初に妖魔を前にしたときよりは、ずっと動けるようになっていた。
今日は、それで十分だろう。
「帰ろうか」
「……はい」
疲れたように、それでも少し満足そうに、雫は頷いた。
境界を抜ける。
一瞬だけ視界が揺れて。
次に目を開けたときには、あの小さな社があった。
風の音。
木々のざわめき。
遠くを走る車の音。
ほんの少し前まで聞こえなかったものが、一度に戻ってくる。
「……帰ってきた」
隣で、雫が呟いた。
「おかえり」
「雨宮くんも一緒にいたじゃないですか」
「そうだった」
「もう……」
雫が呆れたように言う。
けれど、少し笑っていた。
石段を下りる。
夕方が近い。
来たときよりも空が低くなっていた。
雫は薙刀を持つ位置を何度も変えている。
「重い?」
「……ちょっと」
「明日、筋肉痛になるかもね」
「え」
雫の顔が曇る。
「明日、学校で体育の授業があるんですけど」
「頑張って」
「他人事ですね!」
「僕は筋肉痛にならないし」
「そういう意味じゃないです!」
そんなことを話しながら、駅へ向かう。
来たときとは違って。
雫はもう、緊張や不安にかられた顔をしていなかった。
駅が見えてきたところで。
「雨宮くん」
「うん?」
「今日は、本当にありがとうございました」
と、雫が頭を下げた。
「どういたしまして」
「その……」
何か言おうとして、迷っている。
待っていると。
「また、連れていってくれませんか?」
「いいよ」
「本当ですか?」
「うん」
「……よかった」
雫は、ほっとしたように小さく息を吐いた。
改札口に向かって、また歩き出す。
もうすぐ春になる。
『かみむす』本編が開始するまで、あと少し。
それまでに、できることはまだあるのかもしれない。
けれど。
今日のところは、これでいい。
怖くても、彼女は自らの意思で薙刀を握った。
それだけで十分だった。
✿
翌朝。
「痛っ……」
教科書を机から出そうとして。
雫は小さく声を上げた。
腕が痛い。
肩も痛い。
というより。
昨日、薙刀を振るのに使ったらしいところが、だいたい全部痛い。
──明日、筋肉痛になるかもね。
昨日の湊の言葉を思い出す。
当たっていた。悔しいくらいに。
「雫?」
横から声がしたから、顔を上げると。
「どうしたの?」
早瀬小春が、不思議そうにこちらを見ていた。
雫は。
少しだけ迷ってから。
「……筋肉痛」
そう答えた。
「なんで?」
「えっと……」
昨日のことを思い出す。
薙刀。
妖魔。
ダンジョン。
赤い彼岸花。
いつものように笑っていた、雨宮 湊。
「……ちょっと、いろいろあって」
「そっか」
小春は、それ以上聞かなかった。
前なら、もう少し聞いてきた気がする。
最近は、こういうことが少し増えた。
「……小春」
「ん?」
「今日、一緒に帰ろう」
小春が少しだけ目を丸くする。
それから。
「うん」
いつものように笑った。
雫もつられて笑った。
いままでと同じ教室で。
いつも通り授業が始まる。
いまは、それが妙に嬉しかった。
✿
昼休み。
「雫、明日はどうする?」
「え?」
「昨日の帰りに、休日は一緒に遊ぼうって言ったでしょ」
「あ、うん。どうしようか」
小春は少し怒ったように。
「忘れてた?」
「忘れてないよ」
「今の間は怪しいなあ」
「忘れてないって!」
そんな話をしながら、二人で昼食を食べる。
前と何も変わらない。
少なくとも、こうして話している間は。
神託のことがあってからは、小春に話せないことが増えた。
小春も、無理に聞こうとはしなかった。
それでいいと思っていた。
「そういえば、なんで昨日、筋肉痛だったの?」
「……聞かないで」
「え~、いいじゃん」
「もう」
笑う。
こういう時間まで変わったわけじゃない。
それが、雫には少し嬉しかった。
「明日は、駅前に新しくできたお店、行ってみない?」
「あ、行きたいかも」
「じゃあ決まりね」
明日は久しぶりに、小春と二人で出かける。
そう思うと、少し楽しみだった。
✿
その日の夜。
小春は、明日の待ち合わせ時間を確認してからベッドに入った。
雫と出かけるのは久しぶりだ。
最近は少しだけ話せないことも増えたけれど。
明日は、前みたいに過ごせたらいい。
そんなことを考えながら目を閉じて。
しばらくして。
小春は、夢を見ていた。
夢だと気づいたのは、空を見たからだった。
夜なのに、妙に明るく、月が近い。
手を伸ばせば届きそうなくらい、大きな月が浮かんでいる。
「……なに、ここ」
知らない場所だった。
道のようなものはある。
けれど、その先がどこへ続いているのか分からない。
振り返っても同じだった。
「変な夢……」
そう呟いて、歩き出す。
夢なのだから、そのうち目が覚める。
そう思ってしばらく歩いていたら、人影を見つけた。
月明かりの下に、一人だけ立っている。
男なのか、女なのか。
幼いのか、それともずっと年上なのか。
よく分からない。
ただ、ひどく浮世離れした綺麗な人だった。
「あの」
声をかける。
人影がこちらを向いた。
そして。
「…………」
小春を見る。
少しだけ首を傾げた。
「……誰、この子」
✿
「──っ」
はっと、目が覚めた。
冷たい。
最初に感じたのは、それだった。
背中には硬い石の感触。
身体を起こして、辺りを見る。
古びた石段。
苔むした石灯籠。
その先には、大きな鳥居が立っていた。
どこにでもある神社のように見える。
なのに。
「……なに、ここ」
入ってはいけない。
理由なんて分からないのに、そう思った。
空気が重い。
音が遠い。
鳥の声も、車の音も、人の気配もしない。
まるで、この鳥居の向こうだけが、普段暮らしている世界から切り離されているようだった。
小春は知らない。
そこが、かつて大妖魔災害によって人の住めない土地となった場所を閉ざす、境界の一つであることを。
そして、自分がすでに──その内側にいることも。
✿
翌日。
雫は、駅前で小春を待っていた。
待ち合わせの時間は、十時。
携帯を見る。
十時七分。
「……遅いな」
小春が遅刻すること自体は、ないわけじゃない。
けれど、遅れるなら一言くらい連絡をくれる。
雫はメッセージを送った。
『今どこ?』
返事はない。
もう少し待つ。
十時十五分。
今度は電話をかけた。
呼び出し音だけが続く。
「…………」
何かあったのかな。
最初に浮かんだのは、その程度だった。
寝坊した。
携帯をどこかに置いたままにしている。
そんなところだろうと思った。
それでも。
十時半を過ぎても、小春は来なかった。
メッセージにも既読がつかない。
「……おかしい」
昨日まで、あんなに楽しそうにしていたのに。
約束を忘れているとは思えなかった。
雫は少し迷ってから、小春の家へ電話をかけた。
出たのは、小春のお母さんだった。
「あの、神崎です。小春、まだ家にいますか?」
『え?』
返ってきた声に、雫は眉を寄せる。
『小春なら、もう出たんじゃないの?』
「……え?」
『朝から部屋にいないから、てっきり雫ちゃんとの約束に出かけたんだと思ってたんだけど』
雫の指が、携帯を強く握った。
「何時に出たか、分かりますか?」
『それが……見てないの。昨日の夜は普通に家にいたんだけど』
昨日の夜まではいた。
朝にはいない。
でも、待ち合わせ場所には来ていない。
「……分かりました。私も探してみます」
電話を切る。
さっきまでただの遅刻だと思っていた。
もう、そうは思えなかった。
✿
それから、雫は小春を必死に探した。
駅の周り。
待ち合わせ場所までの道。
二人でよく立ち寄る店にも行った。
けれど、どこにもいない。
電話も繋がらないままだった。
最後に、雫は小春の家へ向かった。
「あれ、雫?」
家の前で声をかけてきたのは、小春の弟だった。
「小春、まだ帰ってないの?」
「うん。母さんも警察と探しに行ってる」
「そっか……」
「小春、なんか言ってなかった?」
「昨日は普通だったよ。今日も一緒に出かけるんだって楽しみにしてたし」
「じゃあ、なんで……」
そう答えた、そのときだった。
ふいに、空気が揺れた。
「え?」
雫のすぐそばに、送り犬が現れた。
「な、なんで──」
呼んでいない。
それなのに送り犬は雫を見ようともせず、小春の弟へ近づいていく。
「うわっ!?」
「待って! 送り犬!」
そんな抑止も聞かずに送り犬は弟の足元へ鼻先を近づけていた。
すん、と鼻を鳴らす。
もう一度。
それから急に顔を上げ、今度は雫の方へ向かってきた。
「え、なに?」
思わず一歩下がる。
次の瞬間。
「えっ」
制服の裾を咥えられた。
「ちょ、ちょっと!」
ぐい、と引っ張られる。
「なに!?」
送り犬は離さない。
それどころか、雫を引っ張ったまま歩き出そうとする。
「もしかして……」
小春の弟を見る。
送り犬が嗅いでいたのは、彼だった。
犬に似た妖魔。
「……小春の匂い、分かるの?」
送り犬の耳が、ぴくりと動いた。
そして、また強く裾を引っ張った。
「ちょ、ちょっと!」
ぐい、と引っ張られる。
「分かった、分かったから! 離して!」
送り犬は離さない。
そのまま雫の裾を引っ張って、歩き出そうとする。
「どこに行くの?」
当然、返事はない。
代わりに、また強く引かれた。
「もう……!」
仕方なく、その後をついていく。
送り犬はやっと裾を離した。
そして地面へ鼻先を近づけると、そのまま走り出す。
「待って!」
雫も慌てて追いかけた。
途中で何度か立ち止まっては、地面の匂いを嗅ぐ。
それからまた走る。
✿
どれくらい歩いただろう。
人通りの多かった道は、いつの間にか細くなっていた。
家も減り、周囲には木々が目立つようになる。
「本当に、こっちなの……?」
小春がこんなところへ来る理由が思いつかない。
それでも送り犬は迷わなかった。
やがて、道の途中で足を止める。
「……?」
送り犬が低く唸った。
その視線の先に、古びた鳥居が立っていた。
苔のついた石段。
その先には、木々に挟まれた細い参道が続いている。
送り犬が一歩進む。
そして、吠えた。
「どうしたの?」
もう一度。
今度は、鳥居の向こうへ向かって。
雫は送り犬の横を通り、石段へ足をかけた。
一段。
二段。
鳥居へ向かって歩いていく。
「…………?」
足を止めた。
おかしい。
もう一度歩く。
五歩。
十歩。
それでも。
「……近づいてない?」
鳥居は、さっきと同じ場所に立っていた。
雫は走った。
石段を駆け上がる。
けれど、どれだけ進んでも距離が縮まらない。
「なに、これ……」
足を止める。
送り犬が追いついてきた。
そして雫の隣で、鳥居の向こうへ激しく吠え始める。
「……この先なの?」
送り犬は吠え続ける。
小春がいる。
本当にそうなのかは分からない。
けれど、ここに何かがある。
それだけは間違いなかった。
どうするべきか、少し迷って。
雫は携帯を取り出した。
今、頼れる人は一人しか思い浮かばなかった。
✿
神崎さんから電話がかかってきた。
『雨宮くん』
声はひどい焦っていた。
「どうしたの?」
『友達が、いなくなりました』
「……いつから?」
『昨日の夜からです。昨日までは普通に家にいたそうです。でも、朝になったらいなくて』
「警察には?」
『もう連絡したそうです。私も探しました。でも、見つからなくて』
そこで、少し間があった。
『それで──たぶん、見つけました』
「見つけた?」
『鳥居です』
雫が息を呑む。
『そこから先に、進めないんです』
✿
雫から送られてきた場所へ向かう。
人の気配が少なくなっていくにつれて、見覚えのある景色が増えていった。
山道。
古びた石段。
苔むした石灯籠。
そして、その先に立つ大きな鳥居。
「……雨宮くん!」
石段の手前に雫がいた。
その隣には、送り犬もいる。
「すみません、急に呼んで」
「それはいいよ。お友達は?」
雫が鳥居を見る。
「分かんないけど、ここにいるかもしれなくて」
「?」
「この子が、ここまで連れてきてくれたんです」
さっきから唸っている送り犬を見る。
昨日、雫が縁を結んだ妖魔だ。
「友達、小春の弟くんの匂いを嗅いだあと、急に走り出して。それについてきたら、ここに」
「なるほど」
「でも……」
雫が石段へ向かう。
一段。
二段。
そのまま歩いているはずなのに、鳥居との距離が縮まらない。
「さっきから、ずっとこうなんです」
送り犬も鳥居へ向かって吠える。
けれど、先へは進まない。
「雨宮くん。ここ、何なんですか?」
「…………」
僕は鳥居の向こうを見る。
見覚えがあった。
正確には、よく似た場所を知っている。
原作ゲーム『神結び ~五つの縁と君の恋~』。通称、『かみむす』。
その終盤で訪れることになる場所。
旧都へと続く、特殊な領域。
そこにいるはずなのは──
「……雨宮くん?」
「ごめん。ちょっと考えてた」
おかしい。
ゲームなら、ここへ来るのはもっとずっと後だ。
それも物語の終盤で来るようなダンジョンだ。
それに。
雫の友人がここへ迷い込むなんて展開なんて、僕は知らない。
『かみむす』にはなかったはずだ。
「小春は、この先にいるんですか」
「送り犬が正しいならね」
雫が鳥居を見る。
「……どうすればいいの」
「やってみようか」
石段を上がる。
雫も不安げに後ろからついてくる。
さっきまで縮まらなかったはずの鳥居が、今度は少しずつ近づいてきた。
「……進める」
雫が小さく呟く。
理由は分からない。
僕がいるからなのか。
それとも、別の条件を満たしたのか。
分からないけど、今は進むしかない。
雫の友人を見つける方が先だ。
鳥居の前まで辿り着く。
「離れないで」
「はい」
二人で、その下をくぐった。
✿
鳥居をくぐった瞬間。
景色が変わった。
「……え?」
雫が足を止める。
空には、月が浮かんでいた。
ついさっきまで昼間だったはずなのに、頭上に広がっているのは濃紺の夜空だ。
白い月だけが、異様なほど明るい。
振り返る。
鳥居はある。
けれど、その向こうにあったはずの石段も、山道も見えない。
ただ暗い参道が、反対側にも続いている。
「……戻れますよね?」
「分からない」
「けど、まずは小春さんを探そう」
「……はい」
送り犬が僕たちの横を抜けた。
地面に鼻先を近づける。
しばらく辺りを嗅いでから、参道の奥へ向かって歩き出した。
「行こう」
僕たちも後を追う。
古びた石灯籠が並ぶ参道を進んでいく。
風はない。
虫の声もしない。
聞こえるのは、僕たちの足音だけだった。
見えてる風景が原作のダンジョンと、よく似ている。
けれど、本当に同じなのかは分からない。
送り犬が足を止めた。
「どうしたの?」
雫が声をかける。
送り犬は答えず、低く唸った。
その先。
木々の間に、大きな石造りの門が見えた。
「……あ」
雫が声を漏らす。
門の向こうに、人がいた。
石床の上に、一人の少女が横たわっている。
「小春!」
雫が走り出した。
「神崎さん、待って」
聞こえていない。
「小春!」
門まで、あと少し。
そのとき。
雷鳴が轟いた。
「──っ!」
雫が足を止める。
青白い雷が、目の前の地面を走った。
一歩でも進んでいれば、まともに受けていた。
「退け」
低い声が響く。
雷の向こうに、男が立っていた。
長身。
武人を思わせる佇まい。
手には一振りの剣。
その姿を見た瞬間、さっきまでの疑問が一つだけ消えた。
やっぱり、ここだった。
原作ゲーム『かみむす』で、この場所を守っていた神。
そして──
物語の終盤、この場所で戦うことになるボスの一柱。
──
✿
その相手が今、僕たちの前に立っていた。
「退け」
低い声が響く。
雫の足が止まる。
それでも、視線は門の向こうへ向いたままだった。
「お願いします」
雫が一歩、前へ出る。
「向こうに友達がいるんです。通してください」
「ならぬ」
「でも──」
「退け」
取りつく島もない。
雫が唇を結ぶ。
「……小春がいることは、分かってるんですか?」
「知っている」
雫の表情が変わった。
「だったら!」
「それでも通すなと仰せだ」
「……え?」
「誰が、そんなことを……」
「──日の御方だ」
雫が息を呑んだ。
日の御方。
それが誰を指しているのか、考えるまでもない。
雫に神託を与えた、三柱の神の一柱。
「……どうして」
ただ、剣を構える。
「退け、神崎雫」
名前まで知られている。
雫の肩が僅かに揺れた。
無理もない。
神託を与え、自分に役目を託した神。
その神が今度は、友達を助けるなと言っている。
「…………」
雫は俯いた。
門の向こうを見る。
倒れている小春を見る。
そして。
「……嫌です」
顔を上げた。
「何?」
「退きません」
声は震えていた。
それでも、雫はもう一歩前へ出た。
「力の差が分からぬか」
「分かってます!」
「ならば退け」
「嫌です!」
「何故だ」
雫は一度だけ、小春を見る。
「大事な友達だからです」
神託も。
与えられた役目も。
世界を救うだとか、そんな大きな話も関係ない。
目の前に助けたい友達がいるから、立ち向かう。
神に退けと言われようが関係ない。
その眉間に皺を寄せ、何かをこらえるように目を閉じる。
だが、それも一瞬だった。
再び目を開いたとき、その手の剣に青白い雷が走った。
「ならば──力をもって退けてみよ」
空気が震える。
雫が薙刀を握り締めた。
震えていた手に力を込め、
どうやら、本気で戦うつもりらしい。
僕は小さく息を吐いて、その隣まで歩いた。
「雨宮くん?」
「ここからは任せて」
「でも──」
「大丈夫」
振り返る。
雫は何か言いたそうにしていた。
それでも、僕と
雫自身も、目の前の神との格の違いは痛いほど分かっている。
「……分かりました」
絞り出すようにそう言って、雫は薙刀を下ろした。
「うん」
僕は、
その視線が、雫から僕へ移った。
「お前が相手をするのか」
「そうなりますね」
「なぜだ」
「その方が、二人とも助けられそうなので」
「……世迷言を」
その瞬間、大地が震え、空気が張り詰める。
剣に纏わりついていた雷が、音を立てて弾けた。
物語の終盤のボスとして 立ちはだかる強敵。
そして、倒し方によっては縁を結ぶことのできる相手だった。
問題は──
僕が勝てるかどうかじゃない。
雫に、その縁を結ばせられるかどうか。
原作では、
そのすべてを、今の状況で再現できるかは分からない。
けれど、試す価値はある。
雷光が視界を焼いた。
剣が迫る。
半歩だけ身体をずらす。
切っ先が頬を掠めた。
そのまま剣が返る。
二撃目。
身を沈めて躱す。
速い。
けれど、追えないほどじゃない。
一輪。
二輪。
瞬く間に増えた赤い花から、無数の花弁が舞い上がる。
それらが刃となって、
雷が弾ける。
赤い花弁が焼かれ、光となって散った。
その奥へ踏み込む。
掌を胸元へ。
赤い光が爆ぜた。
「──ぬ」
けれど、倒れない。
剣を地面へ突き立て、その勢いを殺していた。
「……なるほど」
ゆっくりと顔を上げる。
その口元が、僅かに吊り上がった。
「それほどの力を持ちながら、何故出し惜しむ」
「…………」
気づかれたらしい。
普通に倒すだけなら、もっとやりようはある。
けれど、それでは意味がない。
相手の力を削がず。
正面から退かず。
そして──
仲間へ向けられた刃を、その身で引き受ける。
原作では、それが特殊な成立条件になっていた。
ゲームの条件が、この世界でも同じ意味を持つ保証はない。
それでも、試してみる価値はある。
「答えぬか」
「説明しても、たぶん納得してもらえないので」
「戯けが」
雷が地を這う。
飛び越える。
空中で赤い花弁を散らす。
花弁が燃える。
着地と同時に踏み込んだ。
剣戟。
雷と赤いお花弁が何度もぶつかり、そのたびに境内の空気が震える。
さすが、今なお現世に名を残す神だ。
そこらの妖魔や神霊とは、格からして違う。
けれど、こちらも押されてはいない。
一撃を躱し──
懐へ入る。
掌を突き出す。
赤い光が弾け、その身体が大きく後退する。
そのときだった。
「……しず、く……?」
小さな声がした。
「小春!」
門の向こう。
倒れていた小春が、僅かに身体を動かしている。
「小春!」
雫が駆け出した。
「通さぬ」
剣が雫へ向いた。
青白い雷が走る。
考えるより先に、身体が動いた。
間へ入る。
雷が肩を貫いた。
「──っ」
焼けるような衝撃が、肩から背中へ抜ける。
血が散った。
「……え?」
雫の足が止まった。
「雨宮くん!」
痛い。
けれど、動く。
「下がってて」
「でも、怪我が……!」
「大丈夫」
まだ終わっていない。
雫は傷を見たまま動かなかった。
「……ごめんなさい」
「謝るのはあとでいいよ」
「だけど──」
「小春さんを助けるんでしょ」
雫が息を呑む。
それから、門の向こうを見る。
「……はい」
「なら、今はそれだけ考えて」
肩から血が伝っている。
動かすと痛むけれど、支障が出るほどじゃない。
それに。
今ので、一つ。
さっきまでとは少し違う目で。
「……奇妙な男だ」
「よく言われます」
「そうであろうな」
剣が構えられる。
また来る。
それから幾度となく、雷と赤い花がぶつかり合った。
✿
どれだけ打ち合っただろう。
時間にすれば、それほど長くはなかったと思う。
雷を抜ける。
赤い花弁が舞う。
互いに決定打はない。
正確には──僕が決めていない。
だからこそ、攻撃は少しずつ苛烈になっていた。
雷を躱す。
返された剣を、身体を捻ってかわす。
そのまま
不意に、
距離が開く。
「…………」
剣先が向いた。
僕ではない。
後ろにいる雫へ。
雫が息を呑む。
雫を、この先へ通さないことだ。
雷が迸った。
「──っ」
間へ入る。
避けるという選択肢は、最初からなかった。
今度は脇腹。
鈍い衝撃に息が詰まる。
「雨宮くん!」
雫は動かない。
動けば、また僕が庇うと分かっているからだ。
それでも、薙刀を握る手が震えていた。
「もういいです! これ以上、私のために──」
「雫」
呼ぶと、言葉が止まる。
「小春さんを助けるんでしょ」
「……っ」
「なら、まだ終われないよ」
雫が唇を噛んだ。
それ以上は言わなかった。
その目に、さっきまでとは違う何かがあった。
二度。
原作で必要だった条件は、これで満たした。
なら。
もう長引かせる必要はない。
ゆっくりと息を吐く。
「ようやく、その気になったか」
足元に、一輪の彼岸花が咲いた。
その隣に、もう一輪。
また一輪。
赤が広がっていく。
参道を。
石段を。
門の前を。
季節も場所も関係なく、無数の彼岸花が咲き誇る。
「── 彼岸葬華」
声色は、普段と何も変わらなかった。
対する
青白い雷が、その全身を包む。
空気が震えた。
「── 参る」
「はい」
赤い花弁が舞い上がる。
同時に、
雷光が天を裂く。
赤と青白い光がぶつかった。
轟音。
一瞬だけ。
世界から、すべての音が消えた。
そして。
乾いた音を立てて。
✿
静寂の中で、
消えてはいない。
僕は一度息を整える。
肩と脇腹が痛む。
まあ、この程度なら問題ない。
振り返る。
雫も無事だった。
「雨宮くん……」
僕の傷を見ている。
心配そうな顔をしているが、まだ終わってはいない。
僕は、
「一つ、お願いしてもいいですか」
「……何だ」
「彼女では駄目ですか」
その視線が僕を射抜いた。
「我を降したのは、お前だ」
「そうですね」
「ならば、なぜこの娘に譲る」
「僕には必要ありませんから」
しばらく僕を見ている。
それから。
その視線が、雫へ移った。
「神崎 雫」
突然呼ばれて、雫の肩が揺れる。
「……はい」
「前へ出ろ」
雫が僕を見る。
僕は頷いた。
恐る恐る、雫が前へ出る。
「我は退けと命じたな」
「……はい」
「それでも、お前は退かなかった」
「はい」
「何故だ」
雫は少しだけ俯いた。
答えを探しているように見えた。
けれど。
やがて顔を上げる。
「小春を、助けたかったからです」
それだけだった。
雫も目を逸らさない。
長い沈黙。
やがて。
「……そうか」
「ならば、忘れるな」
「え?」
「今、お前が我が前に立ち向かった理由を」
雫が目を見開く。
その身体を、青白い光が包む。
「神崎雫」
「はい」
「手を出せ」
雫が戸惑いながら、右手を差し出した。
指先が触れる。
雷が弾けた。
「──っ」
雫が目を閉じる。
けれど、雷はその身体を傷つけなかった。
細い光となって、雫の中へ吸い込まれていく。
見覚えのある現象だった。
昨日、送り犬との間に起きたものと同じ。
縁。
やがて最後の雷が消える。
雫がゆっくりと目を開けた。
「……これ」
自分の手を見る。
「縁が結ばれたんだと思う」
「神様と……?」
「たぶんね」
雫が
「行け」
背後で音がする。
閉ざされていた石造りの門が、ゆっくりと開いていく。
「……いいんですか?」
「二度は言わぬ」
雫の顔が明るくなった。
「ありがとうございます!」
深く頭を下げる。
ただ、開いた門の脇へ退いた。
「小春!」
雫が走り出す。
僕もその後を追おうとして。
「待て」
呼び止められて、足を止めた。
振り返る。
「何でしょう」
「穢れを受け容れし者」
……やっぱり、神々にはバレてるのか。
「己が何を抱えたのか、努々忘れるな」
「……はい」
「行け」
一礼して、雫の後を追った。
その背後では、空間そのものが軋み、砕けるような音が響いていた。
この音の意味を知りながら、僕は振り返えらなかった。
✿
「小春!」
雫は門をくぐるなり、小春のところへ駆け寄った。
石床の上に横たわる身体を抱き起こす。
「小春、小春!」
「……ん……」
瞼が僅かに動いた。
ゆっくりと目が開く。
「しずく……?」
「小春!」
雫がその手を握った。
「よかった……」
声が震えていた。
「え……あれ……ここって……」
「大丈夫。もう大丈夫だから」
「私……」
小春がぼんやりと周囲を見る。
「夢、見てて……」
「夢?」
「うん……」
まだ意識がはっきりしていないらしい。
「なんか……すごく綺麗な人がいて……」
「綺麗な人……?」
「そのあと……」
そこで、また目を閉じた。
雫の顔が強張る。
「小春!」
焦っている雫に僕は声をかけた。
「大丈夫、眠っただけだよ」
「……本当ですか?」
「うん。目立った怪我もないし」
雫の肩から、一気に力が抜けた。
「……よかった」
そのまま、小春の手を握り締める。
僕も周囲を確認する。
砕けるような音は続いている。
その影響なのか、神気のようなものもが辺りを包んでいる。
けれど、小春自身を侵している様子はない。
少なくとも、今すぐどうにかしなければならない状態ではなさそうだった。
「ひとまず、帰ろうか」
「……はい」
小春を運ぼうと手を伸ばす。
「待ってください」
「ん?」
「それより、傷……!」
雫の視線が僕の肩へ向いている。
服が裂けていた。
その下から、血が滲んでいる。
「ああ、これ?」
「これって……私を庇ったときの……」
「そうみたい」
「見せてください」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃありません!」
思ったより強い声だった。
「……分かった」
小春の隣に座る。
雫がすぐに僕の前へ来た。
肩の傷を見る。
それから、脇腹。
「……二つも」
「何ともないよ」
「何ともないわけ、ないじゃないですか!」
怒られた。
雫は持っていたハンカチを取り出した。
肩の傷へ押し当てる。
白い布に、じわりと赤が滲んだ。
その指が震えている。
「……ごめんなさい」
「なんで謝るの?」
「小春さんを助けたかったからでしょう」
「でも、そのせいで雨宮くんが」
「神崎さん」
顔を上げる。
「あのとき、
「……はい」
「勝てないことも、分かってたと思う」
雫は何も言わなかった。
「それでも、小春さんが目の前にいたから」
「…………」
「退けなかったんでしょ」
雫の視線が、少しだけ下がる。
「あのとき」
一度、言葉を切る。
「ほんとは、怖かったんでしょ」
「……え?」
雫の手が止まった。
少しだけ俯く。
「……はい」
小さな声だった。
「すごく」
「うん」
「怖かったです」
「そっか」
それでも、小春を助けるために、
勝てないと分かっている神の前から一歩も退かなかった。
「だったら、それでいいと思うよ」
「……?」
「怖かったのに、それでも助けたいと思ったんでしょ」
「…………」
「なら、それでいいと思うよ」
雫の指が止まった。
雪の日も、彼女は怖いと自分の気持ちを口にしていた。
けど、あのときと違うのは。
今度は、その気持ちのまま自分で立ち向かったことだった。
「……どうして」
「ん?」
「どうして、そこまでしてくれたんですか」
「そこまで?」
雫の視線が、肩の傷へ落ちる。
「私を庇って」
今度は脇腹。
「怪我までして」
それから、開いた門の向こうを見る。
「神様と戦って」
少し間を置いて。
「……どうしてですか」
「助けられたから」
「……それだけですか?」
「うん」
他に理由が必要なんだろうか。
助けられる。
それで、小春が助かる。
雫も死なずに済む。
なら、やらない理由はなかった。
「…………」
雫が黙っている。
「神崎さん?」
「……なんでもないです」
俯いた。
耳が少し赤い。
「傷、もう少し見せてください」
何故か敬語が強くなった。
そのとき。
「……雫?」
小さな声がした。
二人で振り返ると。
小春が薄く目を開けていた。
「小春……!」
「どうしたの……?」
「え?」
小春の視線が僕と雫を行き来する。
それから。
「……顔、赤いけど」
「えっ」
雫が反射的に頬を押さえた。
「赤くない!」
「赤いよ……?」
「赤くないから!」
「でも──」
「なんでもないってば──!」
✿
それを見て、僕は立ち上がった。
「それだけ元気なら、帰れそうだね」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「うん?」
「まだ傷の手当てが終わってません!」
「ああ、そっち」
「そっちって何ですか!」
雫は、もう一度僕の傷へ目をやる。
「……えっ」
見てみれば、傷はもう塞がっていた。
「もう大丈夫みたい」
「…………」
雫が黙って僕の顔を見る。
「……雨宮くん」
「なに?」
「あとで、ちゃんと説明してください」
「何を?」
「ぜんぶです──!」
また、怒られた。
小春が、それを見て可笑しそうに笑っていた。
✿
予定とは、ずいぶん違った。
原作が始まる前に、本来なら終盤で出会うはずの
その結果、
それだけじゃない。
雫は、本来なら物語の終盤になってようやく力を借りられるようになる神と、既に縁を結んでいる。
ゲームで言えば、序盤どころか、まだ始まってすらいない時期に伝説のポ〇モンを手に入れたようなものだ。
どうしてこんなことが起きたのか。
まあ、こうなってしまったものは仕方がない。
少なくとも、これから先も原作通りに進むとは思わない方がよさそうだった。
──閉幕──
ここまで読んでいただきありがとうございました。