魔女が、一歩こちらへ近づいた。
「……嘘」
変身しないと。
もう一度そう思っても、頭上に輪は現れない。翼も出てこない。
今日の活動可能時間は、全部訓練で使い切った。もう今日は、天使にはなれない。
「逃げましょう、コトハちゃん」
「う、うん……!」
ノノカに手を引かれ、魔女に背を向けて走り出す。
周りにいた生徒たちも一斉に逃げ始めた。廊下に悲鳴が響き、何人もの生徒がぶつかり合う。
「押さないで! こっち! 階段の方に――」
先生の声が聞こえた直後、後ろから大きな音がした。
振り返る。
さっきまで私たちがいた場所の壁が、大きく抉れていた。
「……っ」
あんなの、当たったら。
考えたくない。
「コトハちゃん、前を見てください!」
「あ、ご、ごめん!」
走る。とにかく今は逃げるしかない。
廊下の向こうからも、別の魔女が現れた。
「こっちも!?」
「階段は使えませんね。反対側へ行きましょう」
「うん!」
ノノカと一緒に方向を変える。
その時だった。
「いたっ……!」
すぐ後ろで声がした。
女の子が転んでいる。逃げていた生徒たちは、その横を次々と走り抜けていく
魔女が近づいてくる。
「コトハちゃん!」
「でも!」
放っておけない。
すぐに引き返して、女の子の腕を掴んだ。
「立てる?」
「足、くじいた……」
「掴まって! 一緒に行こう!」
肩を貸して立たせる。重い。変身できていれば簡単に運べるのに、今の私はただの15歳だ。
「コトハちゃん、私も持ちます」
「お願いっ」
2人で女の子を支えながら走る。
また悲鳴が聞こえた。今度は近い。
振り向かない。
振り向いたら、何かを見てしまう気がした。
「変身できる先生はいないの!?」
誰かが叫んだ。
「できる者はもう戦ってる! いいから逃げろ!」
別の先生が叫び返す。
窓の外を見る。
校庭の上空で、数人の天使が戦っていた。
少ない。この学校には、もっとたくさん天使がいるはずなのに。
でも当たり前だ。
私たちは今日、訓練をした。活動可能時間が残っている人なんて、ほとんどいない。
「……なんで」
なんで今なの。
なんで、みんなが変身できない今に。
そんな疑問が頭をよぎったけど、考えている暇はなかった。
「こっちだ! 別棟へ避難しろ! この先を右!」
先生が生徒たちを誘導している。
女の子を支えたまま、ノノカと一緒に走る。
校舎のあちこちから、何かが壊れる音が聞こえてくる。窓ガラスが割れ、床には瓦礫が散らばっていた。
そして、その途中。
人が倒れていた。
「……え」
足が止まる。
見覚えがある。
今日の授業中、寝ていて先生に怒られていた子だ。
少し前まで、普通にいた。
「……大丈夫?」
返事がない。
確かめたい。
でも、肩には今も怪我をした女の子の重さがかかっている。
「コトハちゃん。この子を先に」
「でも……」
ノノカが倒れている子を見る。
少しして、小さく首を横に振った。
「……もう、助けられません」
「…………」
分かる。
私にだって分かる。
でも。
さっきまで生きてたのに。
ほんの少し前まで、先生に怒られて、周りのみんなに笑われてたのに。
肩を借りている女の子が、小さく震えている。
また遠くから悲鳴が聞こえた。
「……行こう」
「はい」
もう一度、女の子を支え直す。
今は、生きている人を助けないと。
◇◇
そこからどれくらい走ったのか分からない。
ようやく別棟へ辿り着くと、いくつかの教室が臨時の避難場所として使われていた。
「この子、足を怪我してます!」
「分かった、こっちへ!」
先生に女の子を預ける。
よかった。
ここまで来られた。
安心した途端、足から力が抜けそうになった。
私とノノカも教室の中へ入る。
そこにはすでに大勢の生徒が避難していた。
でも、まだ安全になったわけじゃない。
遠くからは、今も何かが壊れる音が聞こえていた。
「救援が来たぞ!」
誰かが叫んだ。
避難場所になっていた別棟の教室で、何人もの生徒が一斉に窓を見る。
外には、新しく何人もの天使が飛んでいた。
「……助かった?」
「まだです。ここにいましょう」
「うん……」
ノノカの言う通りだった。
救援が来ても、戦闘は終わらなかった。
遠くで何度も大きな音がする。そのたびに教室の誰かが肩を震わせた。外から新しく怪我人が運ばれてきて、先生たちは休む暇もなく走り回っている。
私たちが助けた女の子も、教室の端で足の手当てを受けていた。
よかった。
あの子は生きてる。
でも。
さっき廊下で見た子は。
「……」
考えないようにしても、浮かんでくる。
どれくらい待ったのか分からない。
やがて外から聞こえていた音が少しずつ減っていき、最後には何も聞こえなくなった。
静かだった。
静かすぎて、逆に怖かった。
◇◇
「名前を呼ばれたら返事をしてください!」
先生が名簿を持って、1人ずつ名前を読み上げていく。
「雨宮コトハ!」
「……はい」
「小鳥遊ノノカ!」
「はい」
次々と名前が呼ばれる。
返事。
返事。
返事。
そして。
「――――!」
誰も答えない。
先生が一度名簿から顔を上げた。
もう一度、同じ名前を呼ぶ。
返事はなかった。
先生は何も言わず、名簿に何かを書き込んだ。
次の名前を呼ぶ。
「…………」
何人か、返事をしない人がいた。
廊下では怪我をした生徒が運ばれていく。顔に布をかけられた人もいた。
その中に、見覚えのある制服があった。
さっきの子だ。
「……あの子」
名前、なんだっけ。
授業中に寝てて。
先生に怒られて。
みんなが笑って。
私も見てた。
なのに、名前が出てこない。
「……コトハちゃん」
「うん」
それしか言えなかった。
魔女が来た。
人が死んだ。
言葉にすると、それだけなのに。
全然、それだけじゃなかった。
◇◇
それからもしばらく、私たちは避難場所から出ることができなかった。
先生たちが校舎を確認し、点呼と怪我人の確認が終わったころには、襲撃が始まってからかなり時間が経っていた。
『安全確認が取れました。怪我のない生徒は、先生の指示に従って帰宅してください』
ようやく、避難場所から出ることを許された。
外へ出る。
「……」
同じ学校なのに、別の場所みたいだった。
壁が崩れている。
窓が割れている。
床には瓦礫が散らばり、ところどころに黒い跡が残っている。
先生たちはまだ走り回っていた。
壊れた場所を確認している人。
怪我人を運ぶ人。
誰かの名前を呼びながら歩いている人。
「……前は」
「はい?」
「前は、こんなのなかった」
12月1日。
前の12月1日は、普通の日だった。
訓練して。
授業を受けて。
普通に寮へ帰った。
こんなことは起きなかった。
「私、本当に30日前に戻ってきたんだよね?」
「少なくとも、私はそう考えています」
「でも……だったら、なんで」
同じ日なのに。
なんで前と違うの。
「……分かりません」
ノノカも答えを持っていなかった。
しばらく、2人で黙って歩いた。
「……コトハちゃん」
「何?」
「朝のお話。やはり、今日のうちに伝えに行きましょう」
30日後のこと。
天井が壊れて、大量の魔女が入ってきたこと。
今日のことと関係があるのかは分からない。
でも。
もう、私たち2人だけで考えていていい話じゃない。
◇◇
ノノカに連れられてやってきたのは、普段の教室が並ぶ校舎とは少し離れた建物だった。
そこへ向かう途中でも、何度か担架とすれ違った。
血のついた制服を着た先生が走っていく。
窓の外には、壊れた校舎が見えた。
「……ノノカ」
「はい?」
「本当に、ここでいいの?」
「はい。話を聞いていただけると思います」
「……そっか」
今は、いつもの「どんなつて持ってるの?」なんて聞く気にはならなかった。
ある部屋の前で、ノノカが足を止める。
扉の横には、見たことのない役職名が書かれていた。
ノノカが扉を叩く。
「失礼します」
中から、少し待つように返事があった。
しばらくして扉が開く。
部屋の中では、1人の女性が誰かと通信していた。
「……死者数はまだ確定していない? 分かった。負傷者を優先してくれ。こちらもすぐ向かう」
通信を切る。
机の上には、書類が何枚も広がっていた。
「……ノノカ?すまない今は忙しくてな。要件はなんだ?」
ノノカが私を見る。
「コトハちゃん」
「う、うん」
緊張する。
でも。
話さないと。
「私、30日後から戻ってきた……みたいなんです」
女性の眉が動いた。
「30日後?」
「はい。12月31日に学校にいて、そしたら地下の天井が壊れて、そこから魔女がいっぱい入ってきて……」
できるだけ順番に話す。
途中で言葉に詰まると、ノノカが横から補ってくれた。
「コトハちゃんの話では、地下世界の天井が破壊され、そこから大量の魔女が侵入したそうです」
「それで、私……死んだんです。多分。で、起きたら今日になってて……」
鞄からノートを取り出す。
「これが、机の上にありました」
女性がノートを受け取り、表紙の裏側を読む。
「この文章は?」
「私の筆跡です」
ノノカが答えた。
「ですが、私には書いた記憶がありません」
女性は黙ってノートを見る。
途中、机の上に置かれた端末が鳴った。
「……すまない」
短く応答する。
「分かった。そちらは任せる」
通信を切り、もう一度私を見る。
「……すべてを事実だと判断したわけではない」
「はい……」
「だが、今日実際に魔女が地下へ侵入した。今まで起きたことのない事態だ」
女性がノートを机に置く。
「無視できる話でもない。こちらでも調べる。今日の襲撃との関連も含めてな」
「あ……」
少しだけ、肩の力が抜けた。
「ありがとうございます」
「この情報は関係者にも共有しておく。もし本当に30日後に今日以上のことが起きるなら、早めに動く必要がある」
「……はい」
これで。
何とかなる、とはまだ思えなかった。
でも。
今日みたいなことを、もう一度起こさないために動いてくれる人がいる。
それだけで、少しだけ息がしやすくなった。
◇◇
部屋を出る。
「……話せた」
「はい」
廊下を並んで歩く。
さっきまでより、ほんの少しだけ足が軽い。
「……これで、今日みたいなこと、もう起きないかな」
「そうなるよう、動いていただけると思います」
「……そっか」
全部解決したわけじゃない。
死んだ人が戻ってくるわけでもない。
でも。
私1人で全部どうにかしなくていい。
ノノカと2人だけで、答えを出さなくてもいい。
分からないなら、分かる人に頼ればいい。
「これから、ちゃんと――」
ドサッ。
「……え?」
隣から音がした。
ノノカが、床に倒れている。
「ノノカ?」
返事がない。
「え、どうしたの?」
しゃがみ込もうとした。
その瞬間。
ぐしゃり、と音がした。
「…………え?」
ノノカの体が、不自然にねじれた。
腕がありえない方向へ曲がる。
脚が折れ、胴体まで何かに絞られるように歪んでいく。
一瞬だった。
さっきまで隣を歩いていたノノカが、もうどう見ても生きているはずのない姿で床に転がっていた。
「……ノノカ?」
何が起きたのか分からない。
「誰か……!」
立ち上がる。
「誰か来て! ノノカが――」
その時、右腕が勝手に後ろへねじれた。
「……え?」
痛みを感じるより先に、今度は左脚がおかしな方向へ曲がる。
何。
これ。
さっきのノノカと、同じ――。
「あ……」
そこで、私の意識は途切れた。
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