「弟と――地下を、助けてください」
「…………」
深く頭を下げたまま、イチカは動かない。
弟。
その言葉で浮かぶ名前は、一人しかいなかった。
「……弟って、ユウ?」
「うん」
「……なんで?」
「え?」
「ユウを助けてほしいのは……弟だから?」
「うん」
「じゃあ、地下は?」
「どっちも、私にとって一番大事だから」
「どっちも?」
「ユウは、私にとって一番大事な人。地下は、一番大事な場所」
「…………」
「家もあるし、学校もある。知ってる人もいるし、ずっとここで暮らしてきた」
イチカが私を見る。
「どっちかだけ残ればいいとは思えない」
「…………」
「でも……なんで私にお願いするの?」
「コトハが、今の所有者だから」
「…………」
「時間をやり直せるのはコトハでしょ?」
「うん」
「これから何が起きるのか知ってるのも、その先で何を変えるのか決められるのも、コトハ」
イチカの声が少し小さくなる。
「私には、それを止められないから」
「……止める?」
「もしコトハが、ユウを助けない方を選んでも」
「…………」
「地下をなくした方がいいって思っても。時間を戻されたら、私はそのことすら覚えてない」
「…………」
「だから、お願いすることしかできない」
少しだけ間が空く。
お辞儀が、もう少し深くなった。
「身勝手なお願いだっていうのは分かってる。でも――」
「いいよ」
「…………え?」
「いいよ」
イチカが顔を上げる。
「助ける」
「…………」
「私、もともとそのつもりだから」
「そのつもりって」
「地下も地上も、両方助ける」
「…………」
「ユウだって、助けられるなら助けたい」
方法は、まだ分からない。
そもそも、できるのかも分からない。
それでも。
「だから、お願いされなくても大丈夫」
「…………」
「どっちも助けるよ」
イチカが、少し目を見開いた。
「……地上も?」
「うん」
「地下だけじゃなくて?」
「うん。地上にも、助けたい人がいるから」
「…………」
イチカはしばらく私を見ていた。
「そっか」
「うん」
「……ありがとう」
小さくそう言って、少しだけ表情が緩む。
「…………」
ユウも。助ける。
なんだか、壮大になってきちゃったな。
でも、成し遂げるんだ。
「……あれ?」
「何?」
そういえば。
イチカはユウを助けてほしいと言った。
ただ弟だから、というだけなら分かる。
でも。
もし、ユウが何者なのかまで知っているとしたら。
「イチカって、ユウのことどこまで知ってるの?」
「どこまで?」
「その……ユウが本当はどこから来たのか、とか」
「…………」
イチカの表情が少し変わった。
「知ってるよ」
「…………え?」
「地上から来たんでしょ」
「…………」
思わずイチカの顔を見る。
「知ってるの!?」
「うん」
「工作員だってことも!?」
「知ってる」
「え、いつから!?」
「半年くらい前」
「半年!?」
思わず声が大きくなった。
「なんで!?」
「偶然、通信してるところを聞いたの」
「通信?」
「ユウが一人で誰かと話してた。最初は何してるんだろうって思っただけだったんだけど、聞いてたら明らかにおかしくて」
イチカが少しだけ視線を落とす。
「地上の本部と通信してた」
「…………」
「地下で調べたことを報告してた。記憶喪失も嘘だったし、最初から地下へ送り込まれてきたんだって、その時に知った」
「じゃあ……全部?」
「最初はそこまで。何を調べてるのかとか、地上側が何をしようとしてるのかまでは分からなかった」
「最初は?」
「それからも、何度か通信を盗み聞きしたから」
「…………何度も?」
「うん。ユウが通信する場所とか時間を調べて、聞けそうな時は聞いてた」
「バレなかったの?」
「多分」
「多分……」
「全部聞けたわけじゃないよ。でも、地上側が地下のことを調べてるのと、何かを急いでることは分かった」
「急いでる?」
「通信で何度か、時間がないって話をしてたから」
時間がない。
その言葉で、地上にいた時に聞いた話を思い出した。
地下は、灰を大量に使っている。
そのせいで地上に出る灰も増えていて、このまま使う量が増え続ければ、地上の人たちが耐えられる量を超える。
確か、前の周の全校集会で、偉い人たちがそんなことを言っていた。
「なんの時間かまでは、分からなかったけどね」
ふと疑問に思う。
「イチカさ、ユウが工作員だって分かったんだよね?」
「うん」
「じゃあ……なんで誰にも言わなかったの?」
「…………」
「だって、地下に潜り込んできてたんでしょ?」
「そうだね」
「だったら――」
「弟だから」
「…………」
イチカは迷わなかった。
「血は繋がってないよ。最初は記憶喪失だって言って、うちで保護されただけだから」
「……うん」
「でも、二年一緒に暮らした」
イチカの声は淡々としている。
「毎日顔合わせて、ご飯食べて、どうでもいいことで喧嘩して。家に帰ったらいるのが普通になってた」
「…………」
「私にとって、ユウはすごく大事な弟なの」
「…………」
「工作員だって分かったからって、それがなくなるわけじゃない」
少しだけ。
ミカゲを思い出した。
あの人も。
ユウを探すためだけに、命令を破って地下まで来た。
「でも、だからって何もしなかったわけじゃないよ」
「え?」
「調べてた」
「何を?」
「ユウのこと。何をしに地下へ来たのか。誰と連絡してるのか。地上側が何をしてるのか」
「どうやって?」
「ユウをつけたり、出かけた場所を調べたり。怪しいところがあったら自分で見に行ったり」
「…………」
そこで。
思い当たる。
「もしかして……」
「?」
「学校、よく休んでたのって」
「そうだね。それが理由」
「…………」
そんな理由だったんだ。
「でも、結局あんまり分からなかったよ。地上側の作戦なんて知らないし、ユウが何を調べて本部に送ってるのかも全部は分からない」
「ユウ本人には聞かなかったの?」
「聞いてない」
「なんで?」
「私が知ってるってバレたら、ユウがどうするか分からないから」
「…………」
「逃げるかもしれないし、本部に報告するかもしれない。だから、知らないふりしてた」
「そっか……」
半年。
弟が工作員だと知ったまま、一緒に暮らして。
その裏でずっと調べてた。
「…………」
やっぱり。
この人、私が思ってたよりずっと色々知ってる。
「あのさ」
「何?」
「前の時間でね」
「うん」
「イチカとユウ、二人ともいなくなったの」
「…………」
「12月1日に」
イチカが少しだけ眉を寄せた。
「二人とも?」
「うん。学校にも家にもいなくて、上の人たちも探してた」
「一緒にいるところは見た?」
「あ……それは見てない」
「じゃあ、一緒に消えたとは限らないね」
「そうなんだけど……同じ日に二人ともいなくなったから、多分一緒なんじゃないかなって」
「なるほど」
「イチカ、なんでだと思う?」
「それだけじゃ分からない」
「だよね……」
「その日のこと、もう少し教えて」
「あ、うん」
どこからだろう。
「前の時間でね。私、イチカに避難誘導を手伝ってって頼んだの」
「私に?」
「うん。今日、学校が魔女に襲われるからって」
「…………」
「その時のイチカは、理由とかあんまり聞かないで引き受けてくれた。それで、そのあとユウと一緒にいなくなったの」
イチカが黙る。
ほんの少し考えて。
「……なるほど」
「何?」
「コトハ。その時、もう地上の工作員が地下にいること知ってたでしょ」
「…………え?」
「知ってた?」
「……うん」
「やっぱり」
「…………」
え。
「待って、なんで!?」
「何が?」
「なんで工作員のこと知ってたって分かったの!?」
「多分、前の私もそこまで考えたから」
「いや、なんで!?」
魔女が襲ってくる。
私がイチカに話したのは、それだけだ。
工作員のことなんて一言も言ってない。
「どうやったらそこまで行くの!?」
「順番に考えれば分かるよ」
「分かんないから聞いてるんだけど......」
「じゃあ、順番に説明するね」
イチカは少し考えてから、口を開いた。
「まず、前の私はコトハから『今日、学校が魔女に襲われる』って聞いた」
「うん」
「魔女が地下を襲うこと自体は、そこまで不思議じゃない」
「なんで?」
「私はユウが地上から来た工作員だって知ってるから、地上側が地下に何かしててもおかしくないと思えるから」
「あ……」
「でも、おかしいのはコトハ」
「私?」
「なんで、これから起きることを知ってるの? って思うと思う」
「…………」
「しかもその頃の私は、このノートを探してる」
イチカが、私の持っているノートを見る。
「だったら、まず考える。この子が今の所有者なんじゃないかって」
「…………」
「…………」
「所有者なら、一度その襲撃を経験して、時間を戻ってきた可能性がある」
「……うん」
「それに、コトハが本当に所有者なら、襲撃が来ることだけ知って終わりにはしないと思う」
「どういうこと?」
「何度もやり直せるんだから、なんで魔女が来たのか調べるでしょ」
「…………」
調べた。
何周も使って。
ノノカと。
エルと。
「…………」
「それに、私は地上側が地下へ工作員を送り込んでることを知ってる」
「あ」
「だから前の私は、コトハたちはもう工作員まで辿り着いてるかもしれない、って考えたんだと思う」
「…………」
説明されれば。
分からなくはない。
分からなくはないけど。
「それで、ここからはもう少し推測になるけど」
「まだあるの?」
「うん」
「…………」
「コトハたちが未来の魔女襲撃を知って、事前に対策したとする。地上側から見たら、本来知らないはずの作戦を地下側が知ってたように見えるよね」
エルが言ってたことと同じだ。
「情報が漏れてるって疑うと思う」
「うん」
「普通なら、一度作戦を止めて次を考えるかもしれない。でも私は、ユウの通信を聞いて、地上側が何かを急いでることを知ってる」
「時間がないって話?」
「そう。何に時間がないのかまでは分からないけど、余裕がない状態で作戦が失敗して、情報まで漏れてるかもしれないってなったら、もっと強引な手段に出る可能性もある」
「…………」
「それで、コトハがノートの所有者なら、そういう強硬策が起きた未来まで経験してる可能性もある」
「…………」
そこは。
合ってる。
「実際、あった」
「やっぱり」
「でも、ちょっと違う」
「何が?」
「魔女の襲撃を完璧に止めた直後に、大きな攻撃が来たわけじゃない」
「そうなの?」
「うん。大きな攻撃が始まったのは、別の時間」
「そうなんだ」
「地下にね、魔女がいっぱい閉じ込められてる施設があったの」
「地下に魔女が?」
「うん。それを見つけた」
「…………」
イチカが少し考える。
「もしかして、学校を襲った魔女もそこから?」
「そう」
「ああ……」
「?」
「魔女襲撃って、そういうことだったんだ」
「知ってたの?」
「地上側が何かしてる可能性は考えてたけど、方法までは知らなかった」
「そっか」
「それで、その施設を見つけたあと?」
「地上の工作員がいたから、捕まえたの。でもその人が、施設が見つかったって地上に連絡して……」
「地上側にバレたんだ」
「うん。その直後に、いきなり大きな作戦が始まった」
「どんな作戦?」
「本当は12月31日にやる予定だったみたいなんだけど……地下の天井を何ヶ所も壊して、そこから魔女をいっぱい落としてきた」
「…………」
イチカが黙る。
「……なるほど」
「何?」
「地上側は、情報が漏れたと分かったら予定を変えるんだ」
「あ……」
「しかも、一か月近く前倒ししてでも」
イチカが少し考える。
「じゃあ、きっかけは魔女襲撃を防いだことじゃなくて、施設が見つかったこと?」
「多分。エル……その時捕まえた工作員も、『もう始めたのか』って言ってたから」
「なるほど……」
イチカはしばらく黙っていた。
「でも、前の私が考えたことは、多分そんなに変わらない」
「え?」
「前の私は、その施設のことも、大規模攻撃が実際に起きたことも知らない。でも、地上側に情報が漏れたと気づかれたら、強硬策に出るかもしれないってところまでは考えられる」
「あ……」
「それに、コトハがノートの所有者なら」
イチカが私を見る。
「私の知らない時間で、そういう強硬策まで経験してる可能性がある」
「…………」
それなら。
前のイチカは、作戦の中身までは知らなくても。
私がその先まで知っているかもしれない、とは考えられる。
「コトハが強硬策まで経験して戻ってきてるなら、次はそれも止めようとする」
「うん」
「でも、魔女を迎撃するだけじゃ駄目。また別の方法で攻撃されたら同じだから」
「…………」
「なら、地上側が次の行動を取るために必要なものも止めようとするはず」
「必要なもの?」
「地下から地上へ情報を送る人」
「…………あ」
「工作員」
イチカはほとんど間を置かなかった。
「多分、コトハたちは魔女を迎撃するのと同時に、地下にいる工作員をまとめて捕まえようとした」
「…………」
「した」
「やっぱり」
「…………」
「だったら、ユウも捕まる」
そこで初めて。
イチカの声が少し低くなった。
「捕まったら、工作員なんだから当然尋問される。地上について、本部について、知ってることを全部話せって言われる」
「…………」
「どんなことをされるか分からない。最悪、殺されるかもしれない」
「……うん」
「だから逃がす」
「ユウを?」
「うん」
「でも、イチカも一緒にいなくなってたよ」
「そりゃ一緒に行くよ」
「…………」
即答。
「ユウ一人で逃がして終わりにはしない。私にとって、ユウはそれくらい大事だから」
「…………」
そっか。イチカにも、そんなに大切な人がいるんだ。
それにしても。
少し、考える。
私が教えたのは。
前の時間で、今日魔女が学校を襲うと伝えたこと。
避難誘導を手伝ってほしいと頼んだこと。
それくらい。
なのにイチカは、そこから。
前の自分が私をノートの所有者だと疑ったこと。
私たちが魔女襲撃の原因を調べて、工作員まで辿り着いたこと。
襲撃を防いだ結果、地上側がもっと強硬な手段に出たこと。
さらに、その次を止めるために工作員をまとめて捕まえようとしたことまで。
ほとんど一人で繋げた。
「…………」
「どうしたの?」
「……イチカ」
「何?」
「頭、良すぎない?」
「そう?」
「私、今説明聞いてたのに途中で何回か分かんなくなったんだけど……」
「…………」
「前のイチカ、それその場で全部考えたの?」
「多分」
「すご……」
なんでこの人、普段学校休みまくってるんだろう。
いや。
その理由も、さっき分かったんだった。
「でも」
「?」
「一つだけ、まだ分かんない」
「何?」
「ユウをどうやって連れて逃げたの?」
工作員だと知っていることを、イチカは半年も隠していた。
なのに、いきなり。
『今日捕まるから逃げよう』
なんて言って、ユウが素直についてくるんだろうか。
「それは普通に話したんじゃない?」
「普通に?」
「タイムリープのこと以外、全部」
「…………」
「半年前に通信を聞いたこと。工作員だって知ってること。今日、地下側が工作員を捕まえようとしてること」
「それ言ったの!?」
「言わないと逃げてくれないでしょ」
「それはそうだけど……」
「それで、『逃げよう』って言ったんだと思う」
「…………」
イチカなら。
やりそう。
そしてユウも。
捕まれば地上側の情報を吐かされる可能性があるなら、残る理由はない。
「じゃあ……」
やっと。
前の時間でずっと分からなかったものが繋がった。
12月1日。
工作員を一斉に捕まえようとした時。
ユウだけがいなかった。
同じ日に、イチカも消えていた。
二人は偶然、同じ日にいなくなったんじゃない。
イチカが。
ユウを連れて逃げたんだ。
「……そっか」
「何?」
「ううん」
目の前のイチカを見る。
前の時間のイチカは、もういない。
ユウを連れて逃げたことも覚えていない。
それでも、同じことを聞けば、同じように考えて。
多分、同じようにユウを助ける。
「…………」
謎は解けた。
でも。
それで今回も、二人を逃がせばいいのか。
「……あ」
「?」
違う。
そもそも、前と同じところまで進めたら駄目なんだ。
前の時間では、魔女の襲撃を防いだ。
工作員もまとめて捕まえた。
その結果、地上側に地下の状況が知られて、戦争が始まった。
「…………」
「コトハ?」
「今回……どうしよう」
「何が?」
「今日の魔女襲撃」
まだ、起きていない。
この時間では。全部これからだ。
「止めないわけにはいかない」
「うん」
「でも、前と同じように完璧に止めたら、地上側は情報が漏れてるって思う」
「そうだね」
「それで工作員も捕まえたら、もっと確実にバレる」
「うん」
「でも捕まえなかったら、地上に連絡されるかもしれないし……」
どうする。
魔女襲撃は止めたい。
工作員からの通信も止めたい。
でも、前と同じことをしたら、その先に戦争がある。
「…………」
また。
何をすればいいのか分からなくなってきた。
「じゃあ」
「?」
イチカが口を開く。
「工作員、捕まえなければいいんじゃない?」
「…………」
「え?」