「イチカ、待って!」
家を出てからも、イチカは私の手を引いたまま歩いていく。
「待ってってば! まだ話終わってないよ」
返事はない。
振りほどくほど強く掴まれているわけじゃない。でも、止まる気がないことだけは分かった。
「ここじゃ駄目」
「え?」
「まだ家が近いから。聞かれるかもしれない」
振り返ると、イチカの家はまだ見えている。
仕方なく、そのままついていった。
角を二つ曲がって、家が完全に見えなくなる。そこでようやくイチカが足を止め、私の手を離した。
「…………」
「イチカ」
「何?」
「なんで帰ったの?」
「多分、無理だから」
「……何が?」
「ユウを説得するの」
「でも、まだ分かんないじゃん。もっと説明したら――」
「何を?」
「え?」
思わず言葉が止まった。
「コトハが『地上の人も助かる』って言った時、ユウ、否定しなかったでしょ」
「……うん」
そうだった。
無理だとも、できるわけがないとも言わなかった。ただ、協力しないと言った。
「私が死ぬって言った時は、嫌そうだった」
「…………」
あの時だけ。
ユウは明らかに止まって、イチカを見た。
「でも、答えは変わらなかった」
イチカはさっきの会話を一つずつ確かめるように話している。
「地上が助かるかもしれない。地下も助かるかもしれない。私も死ななくて済むかもしれない。それでも、ユウは協力しないって言った」
「でも……」
「それに、条件も出してない」
「条件?」
「『これが証明できたら協力する』とか、『こうしてくれたら考える』とか。そういうの、一回も言わなかったでしょ」
「あ……」
言われて、ようやく気づく。
ユウは私の計画について、ほとんど反論していない。
ただ最後まで。
『僕には、任務があります』
そこだけは変えなかった。
「だから、ユウが断ってる理由って、コトハの計画に納得してないからじゃないと思う」
「じゃあ……」
「任務だから」
「…………」
イチカはユウのことをよく知っている。
でも今の話は、弟だから分かるというだけじゃない。さっき目の前でユウがどう答えたのかを見て、それを一つずつ繋げて出した答えだった。
「だったら、計画がどれだけいいって説明しても、多分意味ないよ」
「…………」
じゃあ。
どうすればいいんだろう。
ユウを説得できなければ、ミカゲのところへ行っても信用してもらえない。
また行き止まりになった。
「それより」
イチカの声が少し変わる。
「もっとまずいことがある」
「え?」
「コトハ、ユウにタイムリープのこと話したよね」
「……うん」
「ユウ、地上に報告すると思う」
「…………」
報告。
何を。
そこまで考えて。
「……あ」
やっと気づいた。
「認知人数……」
今まで完全に忘れていた。
「私とイチカとユウ......。あと1人に知られたら......」
「いや、コトハ。多分、まだユウは入ってない」
「え? なんで?」
「人数制限は、タイムリープの話を聞いただけでは数えられないの」
イチカが少し眉を寄せた。
「じゃあ、どうなったら?」
「その人の中で、『本当にタイムリープが起きてる』って事実として認識した時」
「…………?」
分かりづらい。
「えっとね。今のユウって、私がタイムリープしてるって言ったこと自体は知ってるでしょ?」
「うん」
「でも、信じてなかった」
むしろ途中まで、変な人を見る顔をされていた。
「だから、まだ認知者じゃない。でも、何か証拠を見たりして『コトハは本当に未来から戻ってきてるんだ』って認識したら、その時点で一人として数えられる」
「ああ……なるほど」
「でも、報告されたらユウ一人のところでは止まらないよね」
「…………」
「あ」
ユウ本人が信じていなくても関係ない。
地上の本部に伝われば、そこから誰が知るか分からない。
「全員が信じる必要もない。その中で、本当だって判断する人が何人かいたら?」
「人数を超える……」
「うん」
背中が冷たくなった。
人数を超えたら、どうなるか。
それはもう知っている。
「この周……」
声が少し掠れた。
「もう、あんまり長くないかもしれない?」
「分からない」
イチカは首を振った。
「ユウがいつ報告するか次第だから」
「じゃあ、止めないと!」
反射的に来た道を振り返る。
まだ遠くない。
今戻れば――。
「待って」
「なんで!?」
「どうやって止めるの?」
「どうって……」
足が止まる。
説得する。
それは、さっき失敗した。
捕まえる?
どこに。いつまで。
通信手段を壊す?
そもそも、何を使って通信しているのか私は詳しく知らない。
「…………」
何も浮かばない。
「私が見るよ」
「え?」
「ユウは私が見ておく。できるだけ報告させない」
「できるの?」
「通信してた場所はいくつか知ってるし、ユウの行動もある程度は分かるから」
少しだけ希望が見えた。
でも、イチカの表情は変わらない。
「ただ、ずっとは無理だと思う」
「……なんで?」
「もうユウは、私が通信場所を知ってるって分かってる。次も同じところを使うとは思えないから」
「あ……」
そうだった。
さっきイチカ自身が、何度も通信を盗み聞きしていたことまで全部話している。
「ユウだって馬鹿じゃない」
イチカは淡々と言う。
「私が邪魔してるって分かったら、どうにかして報告しようとすると思う。別の場所を探すかもしれないし、私の知らない方法を使うかもしれない」
「…………」
「それでも私が止めたら」
そこで少しだけ言葉が途切れた。
「必要なら、私を殺そうとすると思う」
「…………え?」
意味が頭に入るまで、一瞬かかった。
「いや、待って」
「うん」
「それ駄目じゃん」
「駄目だね」
「じゃあ見張っちゃ駄目じゃん!」
さっきだってユウは、正体が完全にバレたと分かった瞬間、私を殺そうとした。
イチカは姉だから大丈夫。
そんな保証はどこにもない。
「他の方法考えようよ。ユウを見張らなくても、何か――」
「コトハ」
「何?」
「どっちにしても、この周で私とコトハは死ぬよ」
「…………」
言葉が止まった。
「ユウが報告して、認知者が増えたら終わりなんでしょ?」
「……そうだけど」
「私が何もしなくても同じ」
「でも、だからって殺されるかもしれないことする必要ないじゃん」
「あるよ」
「なんで?」
「時間を稼げるから」
「…………」
「私が何もしなかったら、ユウは今日にでも報告するかもしれない。でも私が邪魔すれば、その時間を少し遅らせられるかもしれない」
「でも……」
「この周で私がずっと生き残る方法を考えてるんじゃないよ」
イチカは静かに言った。
「コトハが次の周に持って帰れる情報を、一個でも増やすための時間を作りたいの」
「…………」
嫌だ。
言ってることは分かる。
でも。
どうせ死ぬから、危ないことをしていい。
そんなふうには思えない。
「……それでも嫌だよ」
「私も嫌だよ」
「…………」
「でも、何もしなくても終わるなら、その前にできることやった方がいい」
返せなかった。
イチカは少しだけ視線を落としてから、続けた。
「多分、何日かは何とかできると思う。でも保証はできない。今日中に報告されるかもしれない」
「…………」
急に、時間がなくなった。
今までは12月31日までの日数を考えていた。
でも今は違う。
今日かもしれない。
明日かもしれない。
いつ終わるか分からない時間の中にいる。
「じゃあ、どうするの……?」
「この周で全部成功させるのは諦めよう」
「…………」
その言葉に、引っかかった。
「この周で?」
「うん。次の時間のために使う」
「…………あ」
思い出した。
『最初から成功させようとするな』
『まず失敗しろ』
エルに言われたこと。
一周目で、何ができないのかを調べる。
どこで詰まるのかを知って、ノートに残す。
次は、その問題を最初から潰す。
「……エルも言ってた」
「何て?」
「最初から成功させようとしないで、まず失敗しろって。そこで分かったことを次に持って帰れって」
「じゃあ、同じことすればいい」
「…………」
「電気を地下で使えるようにするまで、まだ分からないこといっぱいあるんでしょ?」
「……うん」
発電方法も。
設備も。
地下へどう持ってくるのかも。
何一つ分かっていない。
「だったら、この周で調べて」
「でも……」
「成功させなくていい」
イチカははっきり言った。
「できるところまで進めればいい。どこで詰まったのか、何に時間がかかったのか、誰の協力が必要だったのか。それを全部ノートに残す」
「…………」
「次に戻った時、12月1日からその分を飛ばして始められるようにする」
三日かけて調べた地下の灰。
あれも同じだった。
この時間では三日使った。
でも次は、12月1日の時点で全部知っている。
だったら。
この周で一週間かけて知ったことも、次の周では最初から知っている。
「…………」
終わる時間が早くなったんじゃない。
残された時間の使い方が変わったんだ。
「でも」
「何?」
「ミカゲに会えない」
そこだけは、まだ解決していない。
「ユウが来てくれないなら、私一人で行っても信用してもらえないよ」
「…………」
イチカはしばらく考えていた。
「そのミカゲって人、ユウのことすごく大事なんだよね?」
「……うん」
「命令を破って地下まで探しに来るくらい?」
「うん」
「じゃあ、ユウを使えばいい」
「……どういうこと?」
「『ユウを殺されたくなければ、私の話を聞いて』って言って」
「…………」
何を言われたのか分からなかった。
「え?」
「だから――」
「いやいやいやいや」
「何?」
「嫌だよ!」
思わず声が大きくなる。
「本当に殺すわけじゃないよ」
「でも脅すじゃん!」
「うん」
「嫌だよ!」
嫌に決まってる。
ミカゲに会って、最初に言うことが。
『親友を殺されたくなければ話を聞いて』
なんて。
「私、そんなこと言いたくない」
「じゃあ、どうやってミカゲって人に話を聞いてもらうの?」
「それは……」
「コトハ一人じゃ信用してもらえない。ユウは協力しない。この周がいつ終わるかも分からない」
「…………」
「他に方法があるなら、私もそっちがいいよ」
「…………」
考える。
ユウを説得するのは無理だった。
私一人でミカゲに会っても、信用してもらえるか分からない。
じゃあ、他に。
「…………」
出てこない。
「それに、ユウを本当に殺すわけじゃない」
イチカの声が少し強くなる。
「絶対に何もしない。私がさせない」
「でも、ミカゲからしたら本当に殺されるかもしれないって思うんでしょ?」
「うん」
「それで無理やり話を聞かせるんでしょ?」
「そう」
「…………」
やっぱり嫌だ。
嘘でも、相手が一番大事にしている人を使って脅すことに変わりはない。
「私、そんなことしたくない」
「分かってる」
「…………」
「でも、今は綺麗な方法を探してる時間がない」
「だからって……」
「ユウには何もしない」
それでも、嫌なものは嫌だった。
でも、他の方法を考えようとしても、さっきから同じところを回るだけだった。
「…………」
しばらく黙ってから、ようやく頷く。
「……分かった」
全然納得はしてない。
「やる」
「うん」
イチカが頷いた。
「じゃあ、今すぐ地上に行って」
「……今から?」
「今から」
思わず時間を確認する。
「でも、まだ何を調べればいいか全部分かってないし――」
「分からないから調べるの」
「…………」
「地上で今どうやって発電してるのか。どんな設備が必要なのか。地下に持ってこられるものは何か。大型設備を電気で動かすには何を変えればいいのか。誰の協力が必要で、どこに時間がかかるのか」
次々と出てくる。
「全部分からなくてもいい。分かるところまででいいから、できるだけ調べて」
「…………」
「この周で電気を普及させなくていい。次の周で、12月1日から迷わず動けるようにする」
「でも……」
分かってる。
イチカの言ってることは、分かる。
今から一時間調べれば、次の時間ではその一時間を別のことに使える。二時間なら二時間。一日なら一日。
全部、次へ持っていける。
でも。
「この周は?」
「…………」
「次の周のために使うってことは、この周はもう助けないってことでしょ?」
口に出した途端、胸の奥が気持ち悪くなった。
「今この時間にいる人たちは?」
「コトハ」
「助けられるかもしれないのに。まだ何か方法あるかもしれないのに、それを探さないで次に行くの?」
次がある。
私には。
でも、この時間にいる人たちにとっては違う。
目の前にいるイチカも、さっきまで話していたユウも、今何も知らずに地下で生活している人たちも。
この時間が終わったら、それで終わりだ。
「それって、見捨てるってことじゃないの?」
「…………」
「……嫌だよ。この周だって助けたい。次があるからって、今いる人たちを諦めたくない」
「私も」
「…………」
「私だって死にたくないし、ユウにも死んでほしくない」
イチカは少しだけ黙った。
「でも、時間がない」
確かにそうだ。
ユウが今日報告するかもしれない。明日かもしれない。イチカが止めても、何日もつか分からない。
この時間そのものが、いつ終わるのか分からなくなっている。
「この周を助ける方法が見つかるかもしれないって探し続けて、結局何も分からないまま終わったら?」
「…………」
「次の周でも、また同じところから始まる」
何も言えなかった。
「だから、諦めろって言ってるんじゃない」
イチカが私を見る。
「次に助けるために、今できることをしてって言ってるの」
「…………」
納得なんてできない。
この時間にいる人たちを「次のため」にするなんて、やっぱり嫌だった。
でも、嫌だと言っている間にも時間は減っていく。
「今一時間使って分かったことは、次の時間では最初から知ってる」
「……うん」
「だから、急いで」
「…………」
ノートを強く握った。
「本当に、これでいいのかな」
「分からない」
イチカはすぐに答えた。
「…………」
「でも、今はこれが一番できることが多いと思う」
正しいとは言ってくれなかった。
それが少しだけ救いだった。
「…………」
行きたくない。
ここにイチカを残したくない。
この周を、もう終わるものとして扱いたくない。
それでも。
足を動かした。