広場で話した日から、五週間が過ぎていた。
何日もかけて増えた名前が、ようやく、隊の名簿になり始めた。
途中の町まで運ぶ人と、最後まで同行する人を分ける。王都に残って準備を引き受けた人は、遠征の人数へ入れない。軍の志願者は、別に確認を進める。
決めたあとで、事情が変わって取りやめる者もいた。その名前には線を引き、必要な役目をもう一度確かめた。
待っている間も、支度は進んだ。
届いた食料を数え、荷車を動かし、担架を運ぶ者を入れ替えた。前へ出る組も決まり、テオと兵士たちは、魔法を使う合図と下がる場所を確かめた。エリナも一緒に動き、隣で返事をする声を覚えていった。
国王の返事を待つ項目が減るたびに、出発できる日が近づいてきた。
最後の会議の日、卓に広げられた地図は、最初に見たときより幾つもの線が増えていた。各地へ残す兵と、遠征へ出る隊が、それぞれ違う色で記されている。町ごとに分かれていた巡回は、隣の隊とつなぎ直され、手の足りぬ持ち場には、別の町から交代する者が決まっていた。
国王が一つの隊を動かすたび、その先にいる者の務めも変わった。交代の間に守りが途切れると報告が来れば、移る日をずらし、出発の支度も組み直した。地図の上には、そのやり取りを経て残った線があった。国王は指揮官に引き継ぎを確かめ、補給を担う者からは、帰路へ残す食料の置き場を聞いた。
エリナの前にも、自分たちで書いた紙があった。門をくぐれなかった場合の道と、怪我をした人を運ぶ役目。初めは空いていた欄に、今は、相談を重ねた人の名が並んでいた。
「返事を待っている持ち場は」
「ございません。すべて、引き継ぐ者が決まりました」
指揮官の答えを聞き、国王は最後の報告を置いた。少しのあいだ地図を見たあと、卓を囲む者たちへ顔を上げた。
「遠征を認める。各隊へ伝えよ」
国王が言ったとき、エリナはすぐには頷けなかった。
卓の上には、何度も線を引き直した地図があった。必要な物資と、守備の引き継ぎ。敵の状況を確かめる手順と、予定を変えて戻る場合の道。
最初に千人を貸してほしいと頼んだときには、知らなかったことばかりだった。
「……はい」
ようやく返事をすると、国王は指揮官へ顔を向けた。
「戦場で各隊を動かすのは、お前だ。私は補給と、全体を進ませるか退かせるかの判断を引き受ける。前線で持ちこたえられぬと見たなら、私の返事を待たず退け。そこは任せる」
指揮官は、胸へ手を当てた。もう一度尋ね返すことはなかった。国王は、彼が指していた退路へ目を落とし、報告をどこで受けるかを確かめた。
エリナは顔を上げた。
「国王様も、行くんですか」
国王は頷いた。
指揮官は驚いていなかった。留守の政務と守備を引き継ぐ者について、もう話が交わされているのだと、その後の説明で分かった。国王は、城へ残る者にも順に役目を確かめた。任された者は書類を受け取り、それぞれの持ち場へ戻っていった。
「現地で足りぬものが分かったとき、誰に何を求めるか、私が決める。先へ進めぬときにも、王都へ返事を取りに戻らせはせぬ」
国王はエリナを見た。
「お前が望んだからと、すべてをお前に預けることはせぬ」
エリナは、彼の手元を見た。
出兵を認める書類に、自分で名前を書いた手だった。
「……お願いします」
国王は書類を指揮官へ渡した。
指揮官が扉の外へ声をかけると、伝令が走っていった。それぞれが受け持つ紙を取り、席を立つ。エリナも地図を畳もうとして、指先に少し力が入らないことに気づいた。何度も願った出発が、王の言葉を受けて、実際に人を動かし始めていた。
扉の外では、今日も準備の音がしていた。
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出発前の顔合わせは、王城の門の外で行うことになった。
朝、中庭を片づけながら、ミアが最後の名簿を読み上げた。
「三百四十二名です」
エリナは手を止めた。
「こちらで受け付けた、遠征に同行する方の人数です。軍の方は、含めていません」
紙を受け取った。
最初の頁には、ベルタの名があった。何度も話した人の名前が続き、次の頁には、まだ顔を思い出すのに少し時間のかかる名前もあった。
「……三百四十二人」
口にしてから、エリナは名簿を胸へ寄せた。
十一人しか戦える人がいないと、机の前で俯いた日を覚えていた。
足りないと思うことが申し訳なくて、紙を見られなかった。
「来てくれたんだね」
ミアが頷いた。
テオは机の脚を畳みながら、出発までに全部覚えなくてもいいですからね、と言った。
「でも、覚えたい」
「道中にも時間はあります」
エリナは、そうだね、と笑った。
やどかりが最後の荷を肩へ上げ、門へ行こうぜと声をかけた。
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広場には、人と荷が集まっていた。
槍を持つ者の隣に、鍋を載せた荷車がある。布を巻いた薬箱を確かめる者がいて、馬を落ち着かせるために首を撫でている者がいた。
ベルタは、同じ食堂で働く男と何かを言い合っていた。
「塩は、その袋で最後じゃないよ。棚の奥にもあるから」
「昨日も聞いた」
「忘れるから言ってるんだよ」
男は呆れた顔で、覚えてる、と答えた。
エリナがそばを通ると、ベルタは急に真面目な顔をした。
「戻ったら、一緒に食べにおいで。私、その日は客だからね」
「はい」
店へ残る男が、二人分か、と頭の中で何か数えるように呟いた。
もう、帰ってからの支度を始めている人がいた。
鐘が鳴った。
エリナは顔を上げた。
王城の門が、内側から開いていく。
その向こうに、兵士が並んでいた。
朝の光が槍の先へ当たり、歩き出した者の肩から、奥の者の肩へと移った。
先頭の一列が門を出た。
その後ろから、次の列が出た。
エリナは、来る人たちを見ていた。
まだ続いていた。
「あ……」
レオンがいた。
こちらに気づき、ほんの少し顎を引いた。中庭で返事をしてくれたときと同じ、まっすぐな姿勢だった。
その横にも、出発までに何度も顔を合わせた兵士がいた。
「あの人も」
声にすると、ミアが隣へ来た。
エリナは、列の奥を見た。
妻と説明を聞きに来た兵士がいた。
広場の端に立つ妻を見つけ、一度だけ目を向けた。女は籠を持っていなかった。両手を前で重ね、夫が通り過ぎるのを見ていた。
彼が視線を戻すまで、エリナも黙って見ていた。
知らない顔の方が多かった。
それでも、その人たちも、どこかで話を聞き、考えて、ここへ来たのだと分かった。
眠れない夜があったかもしれない。誰かと言い合ったかもしれない。今朝、家を出る前に、いつもより長く扉の前に立っていた人もいるかもしれなかった。
列は、まだ門を出ていた。
エリナは名簿を持つ手に力を入れた。
「……こんなに」
その先を言おうとして、息が詰まった。
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指揮官が広場の中央へ進み、各隊の報告を受けた。
人数を確かめる声が重なる。隊の列が整い、後ろの荷車が動く。
最後に、指揮官が国王へ向き直った。
「王国軍より、遠征参加者、八百七十三名。全員、集結しております」
エリナは、その数字を頭の中で繰り返した。
八百七十三。
胸に抱えている紙には、三百四十二。
「千二百十五人ですね」
テオが言った。
エリナは彼を見て、もう一度、広場へ顔を戻した。
「……千人、超えた」
ミアが頷いた。
「はい」
嬉しい、と言おうとした。
けれど、その言葉だけでは足りなかった。
ここに来てほしいと頼んだ。
断られた。待った。分からないことを尋ねられ、答えられず、教えてもらった。
それでも、もう一度頼んだ。
目の前に、その返事があった。
レオンが列を離れ、近づいてきた。
「どうしました」
エリナは首を振った。
「……来てくれたから」
「来ると、言ったでしょう」
そうだった。
その返事を聞いて、嬉しくて、何度も礼を言った。
けれど、旅の装備を整えて、本当に門を出てくる姿を見るのは、違った。
「本当に、来てくれた」
レオンは少し困った顔をし、それから広場を見た。
「返事をしに来たんです。皆」
エリナは、とうとう目元を押さえた。
泣いている場合ではないと思うのに、息をするたびに、別の顔が見えた。
自分のお願いを聞いてくれた人たちだった。
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国王が近づいてきたとき、エリナは急いで手を下ろした。
彼は何も言わず、隣に立って広場を見た。
「私が集めた千人ではない」
国王が言った。
「それぞれ、お前の願いに答えた者たちだ」
エリナは頷いた。
門の内側には、城へ残る兵士も立っていた。レオンと留守の巡回を確かめていた男と目が合うと、彼は盾を少し持ち上げた。
こちらのことはやっておく。
そう言った声を、エリナは覚えていた。
「残ってくれる人も、いますね」
「ああ。その者たちにも、帰った報告をせねばならぬ」
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顔合わせの最後に、エリナは広場の前へ呼ばれた。
演説をした日より、ずっと多くの人がいた。
あのときは、何を言えば来てもらえるのかと考えた。今日は、もう、ここにいる人たちだった。
皆が静かになるのを待った。
紙は持っていなかった。
「……来てくれて、ありがとうございます」
言うと、また喉が詰まりかけた。
エリナは息をし直し、顔を上げた。
「私、皆さんに聞いてみたいことがあります」
前の方で、戸棚の修理を頼まれていた兵士が顔を上げた。
「帰ってきたら、何をしたいですか」
少し間があった。
それから、広場の中ほどで、一人が手を上げた。
「屋根を直す!」
隣の者が、出る前に直せよ、と言った。
笑いが広がった。
「子供に、釣りを教える約束をした」
「俺は寝る。起こされるまでじゃなくて、起きるまで」
ミアが、いいですね、と小さく言った。
ベルタが、自分の店で飯を食うよと声を上げた。後ろから、そこは俺も行っていいのかと返事が飛んだ。
遠くで酒だという声がして、やどかりが満足そうに頷いた。
エリナは笑った。
次々に聞こえてくる声を、全部は覚えられなかった。
でも、聞こえていた。
「……帰ってきたら、私もベルタさんのお店へ行きます」
エリナは、笑っているベルタの方へ顔を向けた。それから、もう一度、集まった人たちを見た。
「明日から、よろしくお願いします」
頭を下げると、今度はすぐに声が返った。
こちらこそ、と。
頼むぞ、と。
広場の後ろからも、返事が届いた。
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広場が再び動き始めたあと、やどかりは一人、門の脇に残った。
エリナは、ベルタたちに呼ばれて荷車の方へ行っている。テオとミアも、それぞれの持ち場へ向かった。
誰もが、明日の出発の話をしていた。
やどかりは、腰の剣へ手を置いた。
帰ってきたら何をするか。
さっきまで笑って聞いていた言葉を、口の中で繰り返した。
魔王城へ続く道が、広場の向こうへ伸びていた。
「……今度こそ」
誰にも聞こえない声で言った。
握った手は、すぐには緩まなかった。
「俺は、選べるかね」
向こうでエリナが彼を呼んだ。
やどかりは顔を上げ、いつものように片手を振った。