モンドで暮らし始めて、少し経った。
最初の頃は、街を歩くだけでも妙に緊張していた。
見慣れない建物。
知らない通貨。
知らない文字。
そして、普通に歩いているだけで遭遇する魔物。
日本で暮らしていた頃なら、まず経験することのない毎日だ。
それでも、人間というのは不思議なもので。
慣れてくる。
「たかふみ、今日の依頼はどうする?」
「まだ決めてない」
冒険者ギルドの前で、おじさんが尋ねてくる。
「昨日みたいな討伐依頼でもいいけど、今日は街の中でできるやつにしない?」
「なぜだ?」
「疲れるから」
「昨日はそれほど疲れていなかっただろう」
「おじさんと一緒にするなよ」
おじさんは首を傾げた。
「そうか?」
「そうだよ」
最近は、こういうやり取りもすっかり日常になっていた。
この世界に来たばかりの頃なら、もっと深刻に考えていただろう。
どうやって帰るのか。
この世界は何なのか。
俺たちはなぜここに来たのか。
考え始めれば、きりがない。
だから今は、できることからやっている。
モラを稼ぐ。
生活する。
冒険者として依頼を受ける。
そして――。
帰る方法を探す。
「……日本に帰る方法、か」
たかふみは小さく呟いた。
「どうした?」
「いや」
俺は首を振る。
「何でもない」
そのときだった。
「――そこにいるのは、あなたたちね」
背後から声がした。
振り返る。
そこにいたのは、一人の少女だった。
大きな帽子。
特徴的な衣装。
そして、自信に満ちた表情。
「……モナ」
たかふみの口から、名前が漏れた。
「知っているのか?」
おじさんが尋ねる。
「まあ……」
たかふみは少し言葉に詰まった。
当然、知っている。
原神の登場人物として。
占星術師。
モナ。
ただし、この世界で会うのは初めてだ。
「あなた、私の名前を知っているの?」
モナがこちらを見る。
「えっ」
たかふみは固まった。
「……えっと」
しまった。
自然に出てしまった。
「前に聞いたんだよ」
「誰から?」
「……」
答えられない。
モナはじっとこちらを見る。
その視線に、たかふみは少し居心地の悪さを感じた。
「たかふみ」
おじさんが口を挟む。
「知らないなら、知らないと言えばいい」
「いや、それだと余計怪しいだろ」
「そうか?」
「そうだよ」
モナが小さくため息をついた。
「……まあ、いいわ」
「いいの?」
「あなたたちについては、前から少し気になっていたもの」
「俺たち?」
「ええ」
モナは腕を組む。
「異国の人間というだけなら珍しくない。でも、あなたたちは少し違う」
たかふみは警戒した。
「何が?」
「言葉遣い」
「……」
「生活習慣」
「……」
「そして、あなたたちがこの世界について知らないことが多すぎること」
鋭い。
たかふみは思わず黙った。
「まあ、異世界人だからな」
おじさんが平然と言った。
「おじさん!」
「事実だろう」
「そうだけど!」
モナが目を見開く。
「……異世界人?」
「そうだ」
「ずいぶん簡単に認めるのね」
「隠す理由もない」
「私はあると思うけど」
モナは呆れたように言った。
それから、少し考える。
「……面白いわね」
「何が?」
「あなたたちの運命」
「運命?」
モナの目が輝いた。
「少し見てみましょうか」
たかふみは嫌な予感がした。
「占い?」
「ええ」
「当たるの?」
「失礼ね」
モナが胸を張る。
「私は占星術師よ。普通の占い師と一緒にしないでちょうだい」
「ご、ごめん」
「謝るくらいなら最初から疑わないことね」
モナは近くのベンチに腰掛けた。
「座って」
「俺も?」
「あなたも」
おじさんは何も考えずに座った。
たかふみも仕方なく隣に座る。
「まずはおじさんから」
「分かった」
モナは水晶玉を取り出した。
「……」
たかふみは黙って見ていた。
モナの表情が少しずつ変わっていく。
最初は余裕があった。
だが。
「……」
「どうした?」
おじさんが尋ねる。
「静かにして」
「分かった」
モナは水晶を見つめ続ける。
しばらくして。
「……妙ね」
小さく呟いた。
「何が?」
たかふみが聞く。
「あなたの運命」
「俺の?」
「ええ」
モナは眉を寄せた。
「ここにあるはずの星の流れと、少し合わない」
「どういう意味?」
「言葉通りよ」
モナは再び水晶を見る。
「あなたの運命は確かにここにある。でも、その流れが……」
そこで言葉を止めた。
「外から来たみたいなの」
「外?」
「ええ」
たかふみは息を呑んだ。
モナは続ける。
「まるで、別の場所からこちらへ流れ込んできたような……」
「それって――」
たかふみが身を乗り出す。
「日本に帰ることと関係ある?」
モナがこちらを見る。
「日本?」
「あ……」
しまった。
また口が滑った。
「それはあなたたちの故郷?」
「そう」
おじさんが答えた。
「俺たちは日本という場所から来た」
「なるほど」
モナは少し考え込む。
「その日本という場所は、テイワットのどこにあるの?」
「どこにもない」
おじさんが答える。
「この世界には存在しない」
「……そう」
モナは黙った。
そして。
「それなら、やっぱりおかしいわ」
「何が?」
「星があなたたちを完全には読めない」
たかふみは目を見開いた。
「読めない?」
「正確には、読めないというより……」
モナは言葉を探す。
「この世界だけを基準にすると、途中から計算が合わなくなるの」
「……」
「あなたたちの未来そのものが存在しないわけじゃない。でも、その一部がこちらの星の法則から外れている」
「つまり?」
「あなたたちは、この世界だけで完結していない」
たかふみは黙った。
胸の奥が、少しだけ熱くなった。
もしかしたら。
帰れるかもしれない。
そんな期待が生まれる。
「じゃあ、帰る方法も――」
「分からないわ」
モナは即答した。
「……そっか」
期待が少しだけ萎む。
「ただ」
「ただ?」
「帰還の可能性そのものが否定されたわけじゃない」
たかふみは顔を上げた。
「本当?」
「ええ」
モナは頷いた。
「少なくとも、私の占星術ではあなたたちの未来を完全に閉じることはできなかった」
「……」
「それは、この世界では珍しいことよ」
おじさんは静かに聞いていた。
「帰れる可能性はあるのか?」
「可能性だけならね」
「そうか」
おじさんはそれだけ言った。
「……おじさん」
「何だ?」
「もう少し何か言えよ」
「可能性があるなら、それでいい」
「……まあ、そうだけど」
おじさんらしい。
変に期待しすぎない。
変に落ち込みもしない。
ただ、目の前のことを受け止める。
モナは二人を交互に見た。
「あなたたち、ずいぶん変わった関係ね」
「そう?」
「普通ならもっと焦るでしょう」
「焦っても帰れないからな」
おじさんが答える。
「それに、帰る方法を探すには、この世界について知らなければならない」
モナは少し驚いた顔をした。
「……意外とまともなことを言うのね」
「意外ってなんだ」
たかふみが笑う。
「俺もそう思う」
「おい」
おじさんがこちらを見る。
「冗談だよ」
モナが小さく笑った。
「なるほどね」
そして水晶をしまう。
「だったら、しばらく旅を続けなさい」
「旅?」
「ええ」
モナは立ち上がった。
「いろいろな場所を見て、いろいろな人に会うこと。あなたたちがここへ来た理由も、帰る方法も、今の私には分からない」
「……」
「でも、あなたたちの運命は止まっていない」
その言葉が、妙に印象に残った。
「進んでいる限り、何かを見つける可能性もあるわ」
たかふみは空を見上げた。
モンドの青空。
日本とは違う空。
それでも、同じように雲が流れている。
「……ありがとう」
おじさんが言った。
「え?」
モナが少し驚く。
「参考になった」
「そ、そう」
「ありがとう」
「……どういたしまして」
たかふみも頭を下げた。
「ありがとう、モナ」
「ええ」
モナは帽子を直す。
「それじゃあ、私は用事があるから」
「また会える?」
たかふみが聞く。
「モンドにいる限り、どこかで会うでしょう」
「そっか」
「それと」
モナが振り返る。
「あなた」
「俺?」
「自分が知っていることを、何でも口にしないほうがいいわよ」
「……」
たかふみの動きが止まる。
「あなた、時々妙なことを知っているでしょう?」
「……気のせいじゃない?」
「そういうことにしておくわ」
モナは意味ありげに笑った。
「じゃあね」
そう言って、モナは街の中へ歩いていった。
「……バレてた?」
たかふみが呟く。
「何が?」
「俺が原神のこと知ってるの」
「少しだけな」
「おじさんも気づいてたの?」
「最初から知っている」
「言ってよ!」
「必要だったか?」
「いや……まあ……」
たかふみは頭を掻いた。
この世界に来てから、自分が知っている情報は役に立つ。
でも。
知っていることを全部話せばいいわけじゃない。
そのことは、改めて実感した。
「……それにしても」
「何だ?」
「帰れる可能性があるって言われたの、ちょっと嬉しいな」
「ああ」
「具体的な方法は何も分からなかったけど」
「それでも前進だ」
「うん」
二人は冒険者ギルドへ向かって歩き出す。
今日の予定はまだ決まっていない。
何か簡単な依頼を受けるかもしれない。
街で食事をするかもしれない。
宿へ戻って休むかもしれない。
特別なことは何もない。
けれど。
ほんの少しだけ。
帰るための道が見えた気がした。
「たかふみ」
「何?」
「次はどこへ行く?」
「まだ分からない」
「そうか」
「でも……」
たかふみは空を見上げる。
「とりあえず、目の前の旅を続けよう」
「そうだな」
二人はそのまま歩いていった。
モンドの街に風が吹く。
旗が揺れる。
遠くで誰かの笑い声が聞こえる。
いつもの日常。
いつもの冒険。
その中に――。
星空でも読み切れない、小さな謎だけが残っていた。