モンドでの生活にも、少しずつ慣れてきた。
最初の頃は、街を歩くだけでも妙に緊張した。
モラの価値も分からない。
文字も読めない。
どこへ行けば何があるのかも分からない。
それが今では、冒険者ギルドで依頼を受け、報酬をもらい、宿へ戻る。
そんな生活が、少しずつ当たり前になっていた。
「……慣れるもんだな」
俺は、モンドの街を歩きながら呟いた。
「何がだ?」
隣を歩くおじさんが聞き返す。
「この世界で生活すること」
「そうだな」
「最初は本当にどうなるかと思ったけど」
俺は周囲を見渡した。
行き交う人々。
露店。
西風騎士団の騎士。
冒険者たち。
見慣れてきたモンドの街並み。
「文字だけは、まだ全然だけど」
「前より読めるようになっただろ」
「簡単なものならね」
俺は少しだけ胸を張った。
「だから今日は図書館」
「本を読むのか?」
「勉強するんだよ」
「俺は必要ないぞ」
「おじさんはね」
二人は西風騎士団の図書館へ向かった。
目的は単純だった。
テイワットの文字を覚えること。
そして、もう一つ。
日本へ帰る方法につながる情報を探すことだった。
◆
「まあ、いらっしゃい」
図書館に入った二人を出迎えたのは、聞き覚えのある声だった。
俺が顔を上げる。
「リサさん」
「あら、たかふみ。ちゃんと覚えていたのね」
「いや、さすがに覚えてますよ」
「ふふっ」
リサさんは楽しそうに笑った。
「今日は何をしに来たのかしら?」
「文字の勉強です」
「文字?」
「この世界の文字、まだ完全には読めなくて」
「あら。それなら私に任せてちょうだい」
リサさんは本棚から一冊の本を取り出した。
「まずは簡単な文章からね」
「お願いします」
俺は机に座った。
リサさんが本を開く。
「これは読めるかしら?」
「えーっと……」
俺は文字を睨んだ。
一文字ずつ追っていく。
「……モンド?」
「惜しいわね」
「違う?」
「文字の形は似ているけれど、ここは別の単語よ」
「マジか……」
俺は頭を抱えた。
「ゲームで聞いてた名前と、実際の文字が違うのが地味に難しい……」
「ゲーム?」
リサさんが首を傾げる。
「あ」
俺は固まった。
「……いえ、なんでもないです」
「そう?」
リサさんはそれ以上追及しなかった。
「じゃあ、もう一度読んでみましょう」
「はい」
俺は再び文字を追う。
「……これは?」
「その単語は――」
リサさんが読み方を教えてくれる。
俺は何度か繰り返した。
最初は分からなかった文字が、少しずつ意味を持って見えてくる。
「……なるほど」
「どう?」
「前より分かるようになってきました」
「いい調子ね」
リサさんが微笑んだ。
俺は少し嬉しくなる。
この世界に来てから、何をするにも誰かの助けが必要だった。
モラのことも。
街のことも。
依頼のことも。
そして文字も。
だからこそ、自分で読めるようになることには意味がある。
「……よし」
俺はもう一度、本に目を落とした。
◆
その少し離れた場所では、おじさんが別の本を眺めていた。
「おじさんは勉強しないの?」
「俺は読めなくても困らん」
「いや、困るだろ」
「たかふみが読めばいい」
「俺だけに押し付けるなよ」
リサさんが小さく笑った。
「あなたたちは本当に仲がいいのね」
「そう見えます?」
「ええ」
リサさんは二人を見比べた。
「それにしても……」
視線がおじさんへ移る。
「あなたの魔法について、少し聞いてもいいかしら?」
俺は一瞬だけおじさんを見る。
以前から、おじさんの力には周囲が興味を示している。
元素とは違う。
アビスの力でもない。
精霊との契約によって使う、異世界由来の魔法。
ただ、それを毎回詳しく説明する必要もない。
「精霊魔法か?」
「そう」
「精霊と契約して、その力を借りる」
「なるほど」
「俺が使っている魔法は、元素とは少し違う」
「ええ。以前見た時にも、それは感じたわ」
リサさんは頷いた。
「でも、今日は詳しく聞くつもりはないわ」
「そうなんですか?」
俺が尋ねる。
「ええ。あなたたちが話したくなった時に聞けばいいでしょう?」
俺は少し意外に思った。
「……ありがとうございます」
「ふふっ。そんなに警戒しなくてもいいのよ」
リサさんは本を閉じた。
「それより、今日は別のことを調べたいのでしょう?」
「あ」
俺は思い出した。
「そうでした」
文字の勉強だけが目的ではない。
俺は姿勢を正した。
◆
「日本に帰る方法について、何か古い記録とかありませんか?」
「日本……ね」
リサさんは少し考えた。
「あなたたちの故郷のことね」
「はい」
「今のところ、具体的な方法は分からないわ」
「そうですか……」
俺の肩が少し落ちる。
やはり簡単には見つからない。
そんなことは分かっている。
分かっているが、期待してしまう。
「ただ」
リサさんが続けた。
俺は顔を上げた。
「古い記録なら、何か手掛かりがあるかもしれないわ」
「古い記録?」
「テイワットには長い歴史があるもの」
リサさんは本棚を指差した。
「異世界や異邦人について触れた記録が残っている可能性はあるわ」
「本当に?」
「可能性がある、というだけよ」
「それでも十分です」
俺はすぐにメモを取った。
「古い記録……異邦人……」
「焦らなくてもいいわ」
「でも、帰る方法につながるなら調べたい」
「そうね」
リサさんは優しく微笑んだ。
「あなたたちにとっては、大切なことだものね」
「はい」
おじさんも本棚へ視線を向けた。
「古い記録か」
「おじさんも探す?」
「ああ」
「珍しいな」
「帰るためなら調べる価値はある」
「……だな」
二人はそれぞれ本棚を見て回ることになった。
◆
「これは……」
俺は一冊の古い本を手に取った。
表紙はかなり傷んでいる。
文字も今まで見ていたものとは少し違う。
「リサさん、これ読めますか?」
「見せてちょうだい」
リサさんが本を受け取る。
「これはかなり古いわね」
「何か書いてあります?」
「古い地方の記録みたいね。異邦人についての記述も少しあるわ」
「異邦人……?」
俺は身を乗り出した。
「ただし、あなたたちのような意味かは分からないわ」
「そうですか」
「過去にも、遠い土地から来た人間はいたでしょうから」
「なるほど……」
俺は少し考える。
テイワットには、自分が知らない歴史がある。
ゲームで知っている情報だけでは、すべてを判断できない。
当たり前のことだ。
けれど、ここへ来てからそれを何度も実感していた。
「……ゲームの知識だけじゃ足りないな」
小さく呟く。
「何か言った?」
「いえ」
俺は首を振った。
「もっと勉強しないとなって」
「その意気込みは大切ね」
リサさんが微笑む。
◆
しばらくして。
俺は別の本を開いた。
「……これ」
「どうしたの?」
「読める」
自分でも驚いた。
以前なら意味の分からなかった文字。
それが今は、ゆっくりなら読める。
「これは……記録……」
一文字ずつ確認する。
「……旅人?」
俺が顔を上げる。
「合ってます?」
「ええ」
「やった」
思わず笑みがこぼれる。
「少しずつだけど、読めるようになってる」
「ええ。ちゃんと進歩しているわ」
「ありがとうございます」
「勉強は積み重ねが大事よ」
おじさんが横から口を挟む。
「たかふみは真面目だな」
「おじさんに言われると微妙だな」
「なぜだ?」
「普段の行動を考えてみてよ」
「俺は真面目だ」
「はいはい」
リサさんが楽しそうに笑う。
「ふふっ。二人とも、本当に面白いわね」
◆
時間は思ったより早く過ぎていた。
結局、二人が日本へ帰るための決定的な情報は見つからなかった。
それでも。
何もなかったわけではない。
文字を覚えた。
古い記録の存在を知った。
そして、異邦人について調べるという新しい方向性も見えてきた。
「今日はここまでにしましょう」
リサさんが言う。
「ありがとうございました」
俺が頭を下げる。
「またいつでも来てちょうだい」
「はい」
「古い記録について何か見つかったら、教えるわ」
「お願いします」
おじさんも軽く頭を下げる。
「世話になった」
「こちらこそ」
リサさんは二人を見送った。
「……異世界から来た二人、ね」
小さく呟く。
そして図書館の奥へ戻っていった。
◆
外へ出ると、モンドの街には夕方の空気が流れていた。
俺は、今日覚えた文字を小さな紙に書いている。
「これが……こうで」
「まだ勉強しているのか?」
「忘れないうちに覚える」
「真面目だな」
「帰るためにも必要だからね」
俺は紙を見ながら歩く。
「それに、この世界で生きていくなら、いつまでも文字が読めないままじゃ困る」
「そうだな」
おじさんが頷く。
二人は並んで歩いた。
モンドの街には、今日も人々の声が響いている。
大きな事件が起きている一方で。
こうした何気ない日常も続いている。
文字を覚える。
依頼を受ける。
モラを稼ぐ。
人と知り合う。
そして――。
帰る方法を探す。
「……少しずつだな」
俺が呟いた。
「何がだ?」
「全部」
俺は空を見上げた。
「いきなり帰る方法が見つかるわけじゃないなら、今できることをやるしかない」
「そうだな」
おじさんが頷く。
青い空の向こう。
風が静かに吹いている。
「さて、次は冒険者ギルドだな」
「また依頼?」
「ああ」
「今日は勉強だけじゃ駄目?」
「モラが必要だ」
「ですよね」
俺は苦笑した。
二人は冒険者ギルドへ向かって歩き出す。
小さな手掛かりを胸に。
まだ見えない帰還への道を探しながら。
その背後。
図書館の窓から、リサさんが二人の姿を見ていた。
「……面白い子たちね」
そして彼女は、二人が読んでいた古い本へ視線を落とした。
まだ何か分かったわけではない。
ただ――。
この世界には、二人の知らない記録が確かに残されている。
それがいつか。
二人の旅に、何かをもたらすのかもしれなかった。