冒険者ギルドの掲示板の前で、俺は依頼書を眺めていた。
モンドで暮らし始めて、少しずつではあるが、この世界での生活にも慣れてきた。
文字はまだ完全には読めない。
モラの扱いにも慣れてきたとはいえ、日本円の感覚とはまるで違う。
それでも、冒険者ギルドから依頼を受けて、報酬をもらう。
そんな生活の流れは、かなり自然になってきていた。
「これにするか」
隣から、おじさんが一枚の依頼書を指差した。
「森の調査?」
「そうだ」
俺は依頼書を受け取る。
「ヒルチャールの目撃情報が増えてるから、原因を調べてほしいって話だ」
「倒せばいいんじゃないのか?」
「書いてあるでしょ。原因を調べてほしいって」
「そうか」
「ちゃんと読んでよ……」
俺は苦笑した。
おじさんは依頼書を覗き込み、それから何事もなかったように頷いた。
「調査か」
「うん。討伐依頼じゃないから、無理に全部倒す必要はないと思う」
「分かった」
「まあ、ヒルチャールが襲ってきたら戦うことにはなるだろうけど」
「それなら問題ない」
「そこは問題にしてほしいんだけどな……」
俺は依頼書を受付へ持っていった。
手続きを済ませる。
こうして二人は、モンド近郊の森へ向かうことになった。
◆
街を出てしばらく歩く。
風は穏やかだった。
空も青い。
森へ向かう道には、何人かの冒険者の姿もあった。
「最近、森の依頼が増えたな」
俺が言う。
「風魔龍の影響か?」
「それもあると思う」
俺は周囲を見る。
モンドの街では日常が戻りつつある。
しかし、街の外まで完全に平穏になったわけではない。
魔物の活動が活発になっている。
冒険者ギルドにも、その影響が出ていた。
「ヒルチャールって、そんなに増えるものなのかな」
「知らん」
「即答だな」
「ヒルチャールだろう」
「まあ、そうなんだけど」
二人はそのまま森へ入っていった。
木々の間から差し込む光。
鳥の声。
風で揺れる葉。
一見すると、いつもの森だった。
だが。
「……あれ?」
俺が足を止めた。
「どうした?」
「ちょっと見て」
地面に、いくつかの足跡が残っている。
ヒルチャールのものだ。
ただ、それだけなら珍しくない。
「ヒルチャールの足跡だな」
「うん。でも……」
俺はしゃがみ込む。
「この方向に集中してる」
「何かあるのか?」
「分からない」
俺は周囲を見渡した。
木の幹には、何かで削られたような跡。
地面には引きずったような痕跡。
さらに奥には、何かが燃えた跡まである。
「普通に歩き回ってる感じじゃないな」
「誰かが集めた?」
「それも分からないけど……」
俺は立ち上がる。
「少なくとも、依頼にあった『原因』っていうのが、この辺にある可能性は高そう」
「行くか」
「うん」
二人は慎重に森の奥へ進んだ。
◆
しばらく進むと、ヒルチャールが一体現れた。
「いた」
俺が小声で言う。
ヒルチャールは二人を見ると、武器を構えた。
「おじさん」
「分かっている」
おじさんが前へ出る。
ヒルチャールが突進してきた。
だが。
おじさんは一歩横へ避けた。
振り下ろされた武器をかわし、そのまま相手の懐へ入る。
一撃。
ヒルチャールが吹き飛んだ。
「……相変わらず速いな」
「一体だけか?」
「たぶん」
俺が周囲を確認する。
「待って」
「どうした?」
「変だ」
「何がだ?」
「今のヒルチャール、俺たちを見て襲ってきたんじゃない」
「同じだろう」
「いや」
俺は倒れたヒルチャールを見る。
「逃げようとしてたように見えた」
「……」
おじさんも周囲を見た。
その時だった。
森の奥から、何かが動く音がした。
「誰かいる」
俺が身構える。
木々の間。
紫色の光が見えた。
「……あれは」
俺は息を呑んだ。
見覚えがある。
人型。
仮面。
紫色の光。
宙に浮かぶような姿。
「アビスの魔術師……」
おじさんが前へ出る。
「知っているのか?」
「ゲームで……じゃなくて」
俺は一瞬言葉に詰まった。
「前に見たことがあるタイプだ」
「そうか」
おじさんは深く追及しなかった。
アビスの魔術師がこちらへ手を向ける。
「異界の者よ」
低い声が響いた。
「この地にて、何をしている?」
「依頼だよ」
俺が思わず答えた。
「……」
おじさんが横目で見る。
「たかふみ」
「え?」
「話すのか?」
「いや、なんとなく……」
アビスの魔術師は杖を掲げた。
「ならば、ここより去れ」
「断る」
おじさんが即答した。
「でしょうね」
俺が小さく呟く。
次の瞬間。
魔術師の周囲に紫色の力が集まった。
「来る!」
俺が叫ぶ。
魔法が放たれた。
おじさんが横へ跳ぶ。
地面が爆ぜた。
「右!」
俺が叫ぶ。
続けて放たれた攻撃を、おじさんが避ける。
「後ろ!」
おじさんが振り向く。
別の魔法が飛んできていた。
光の剣を出現させる。
おじさんは剣で魔法を弾いた。
「……なるほど」
俺は少し離れた場所から敵を見る。
「攻撃を連続で撃ってくるけど、動きそのものはそんなに速くない」
「そうか」
「ただ、あの盾が厄介だと思う」
アビスの魔術師の前に、紫色の障壁が展開されている。
「正面から斬っても、簡単には届かない」
「なら、崩す」
「うん」
おじさんが走る。
魔術師が障壁を構えた。
その瞬間。
「ワーグレント・マグナ――疾風操作」
風が巻き起こる。
精霊魔法によって生まれた風が、魔術師の周囲を乱す。
障壁そのものを破壊するわけではない。
だが、魔術師の姿勢がわずかに崩れた。
「今!」
俺が叫ぶ。
おじさんが一気に距離を詰めた。
光の剣が閃く。
障壁が大きく揺らいだ。
「まだだ!」
魔術師が反撃する。
紫色の魔法が周囲へ広がった。
おじさんは後ろへ下がる。
「無理に行かないで!」
「分かっている」
おじさんは冷静だった。
いつものように、相手の動きを見ている。
「左から来る!」
俺が伝える。
おじさんがかわす。
「次、上!」
魔法が頭上を通り過ぎる。
「……よく見ているな」
「ゲームで見てたから……いや、動きが分かりやすいんだよ」
俺は少し誤魔化した。
魔術師が再び攻撃を放つ。
しかし、その動きには明らかな焦りがあった。
「おじさん!」
「ああ」
おじさんが踏み込む。
風が走る。
魔術師の動きが一瞬だけ止まった。
光の剣が障壁を打ち抜く。
「ぐっ……!」
魔術師が後退した。
「逃げる!」
俺が叫ぶ。
魔術師は森の奥へ向かって飛び去ろうとした。
「追う?」
おじさんが尋ねる。
俺は一瞬考えた。
「……いや」
「いいのか?」
「今はいいと思う」
俺は周囲を見る。
「俺たちの依頼は原因調査だし、あいつを追いかけることじゃない」
「そうだな」
おじさんは剣を消した。
「それに、あいつが何をしていたのか調べた方がいい」
「うん」
二人は魔術師がいた場所へ戻った。
◆
そこには、奇妙な痕跡が残されていた。
地面に描かれた模様。
壊された木箱。
そして、ヒルチャールが集められていたと思われる場所。
「……やっぱり」
俺は周囲を見る。
「ヒルチャールが増えたんじゃない」
「集められていた?」
「たぶん」
おじさんが地面の跡を見る。
「何かを運んでいたようだな」
「うん」
俺は壊れた木箱の中を覗いた。
中には何もない。
ただ、箱の側面には奇妙な印が残っていた。
「これ……アビス教団のものかな」
「分かるのか?」
「見覚えがある」
俺は慎重に木箱から離れた。
「でも、何をしてたんだろう」
「調べるか?」
「できる範囲でね」
二人は周囲を調べた。
いくつかの足跡。
魔法を使った痕跡。
そして、ヒルチャールが集められていた場所。
それだけだった。
「これ以上は分からないな」
「そうだな」
「一度、モンドに戻ろう」
「ジンに報告するか?」
「うん」
俺は頷いた。
「アビスの魔術師がいたっていうだけでも、かなり重要だと思う」
「そうだな」
二人は森を後にした。
◆
モンドへ戻る頃には、空が少し赤くなっていた。
冒険者ギルドへ依頼完了の報告を済ませ、そのまま西風騎士団へ向かう。
しばらくして、二人はジンさんの前にいた。
「森でアビスの魔術師と遭遇した?」
ジンさんの表情が変わった。
「はい」
俺が答える。
「ヒルチャールの目撃情報が増えていた件を調べていたら、森の中に不自然な痕跡がありました」
「それからアビスの魔術師が現れた」
おじさんが続ける。
「交戦しましたが、逃げられました」
「追わなかったのですか?」
「依頼は原因調査だったので」
俺が答える。
「それに、周囲に残されていたものを調べた方が重要だと思いました」
ジンさんは頷いた。
「なるほど。冷静な判断です」
俺は少しだけ安心した。
ジンさんは報告された内容を確認する。
「ヒルチャールを集めていた痕跡……そしてアビスの魔術師」
「はい」
「風魔龍の事件以降、アビス教団の動きが活発になっていることは確認されています」
ジンさんは静かに言った。
「今回の件も、無関係とは考えにくいでしょう」
俺は黙った。
ここまで来ると、偶然とは思えない。
風魔龍。
アビス教団。
そして、トワリン。
「……トワリンも関係してるのかな」
思わず口から出た。
ジンさんが俺を見る。
「そう考えているのですか?」
「あ、いや……」
俺は少し考える。
「風魔龍が突然モンドを襲った理由が、まだ全部分かってないから」
「その通りです」
ジンさんは答えた。
「トワリンが何故あのような状態になったのか。騎士団でも調査を続けています」
「そうですか」
「今回の情報も、調査の助けになるでしょう」
ジンさんは報告書をまとめる。
「協力に感謝します」
「いえ」
俺が頭を下げる。
おじさんも軽く頷いた。
「それと」
ジンさんが二人を見る。
「無理はしないでください」
「はい」
「分かった」
「未知の敵と遭遇した場合は、まず生還することを優先してください」
「分かりました」
俺が答える。
おじさんも頷いた。
◆
騎士団を出た二人は、夕方の街を歩いていた。
「……大きな話になってきたな」
俺が言う。
「ああ」
「最初はヒルチャールの目撃情報を調べるだけだったのに」
「アビスが出てきた」
「うん」
俺は空を見る。
夕暮れの空。
モンドの風車がゆっくり回っている。
「風魔龍の事件も、まだ終わってない」
「そうだな」
「俺たちがこの世界に来た理由も分からない」
「日本へ帰る方法もだな」
「うん」
二人の間に少しだけ沈黙が落ちる。
だが。
「まあ、少しずつだな」
おじさんが言った。
「……そうだね」
俺は苦笑した。
「焦っても仕方ないし」
「ああ」
「まずは目の前のことから」
「そういうことだ」
俺は歩きながら、ふと森の方向を見る。
あの奥にいたアビスの魔術師。
あいつは何をしていたのか。
何のためにヒルチャールを集めていたのか。
そして――。
トワリンの暴走と、どこまで繋がっているのか。
まだ分からない。
「……でも」
俺が呟く。
「そろそろ、あの風魔龍のことも調べないとな」
「そうだな」
おじさんが頷く。
二人はそのまま冒険者ギルドへ向かって歩き出した。
モンドの街には、いつものように人々の声が響いている。
穏やかな日常。
その裏側で、何かが動いている。
風魔龍事件は、まだ終わっていない。
そして二人は知らない。
これから始まる出来事が、モンド全体を巻き込むことになるということを。
ただ今は――。
「今日の夕飯、どうする?」
俺が尋ねた。
「肉」
「即答だな」
「腹が減った」
「……まあ、俺もだけど」
二人は街の中へ消えていった。
その背後。
夕暮れの空を、冷たい風が一陣だけ吹き抜けた。