異世界に来てから、数日が経った。
数日前まで、俺は日本にいた。
学校を卒業して、普通に生活して。
おじさんと一緒にいた。
それが突然、見知らぬ世界に放り出された。
最初は何が何だか分からなかった。
モンスターがいる。
魔法がある。
剣で戦う人間がいる。
空には見たこともない生き物が飛んでいる。
そして何より――。
ここは俺が知っているゲームの世界だった。
原神。
その世界に、俺たちはいる。
……ただし。
ゲームと現実は、思っていた以上に違った。
「たかふみ」
「ん?」
「飯だ」
「分かってるよ」
朝。
俺たちは宿の食堂にいた。
目の前にはパンとスープ、それから簡単な料理。
モンドで食べる朝食にも、少しずつ慣れてきた。
最初はかなり違和感があった。
日本の朝食とは全然違う。
味付けも違う。
食器も違う。
食材も違う。
それでも数日も食べていれば、人間というのは慣れるものらしい。
「……うん」
スープを一口飲む。
普通に美味しい。
「慣れたな」
向かいに座るおじさんが言った。
「何が?」
「飯」
「まあね」
俺はパンをちぎる。
「最初は日本に帰ることしか考えてなかったけど」
「今も帰るぞ」
「分かってる」
そこは勘違いしていない。
俺たちの目的は、日本へ帰ること。
これは変わっていない。
ただ――。
帰る方法が分からない。
だから今は、この世界で生きていくしかない。
「で」
俺はおじさんを見る。
「今日どうする?」
「依頼」
「やっぱり?」
「生活費が必要だ」
「だよな」
俺は懐に入れているモラを確認する。
昨日の依頼でもらった報酬。
まだ残っている。
でも、使えば減る。
当たり前だ。
「宿代も食費もかかるし」
「そうだな」
「日本円が使えないのが地味に痛い」
「モラを稼げばいい」
「それが簡単にできる世界なのがすごいんだよ」
日本なら、働いて給料をもらう。
ここでは冒険者として依頼を受ける。
魔物を倒したり、荷物を運んだり、人を探したり。
それで生活費を稼ぐ。
考えてみれば、ものすごくファンタジーな生活だ。
なのに。
「……慣れてきたな」
「そうだな」
おじさんも頷いた。
そのとき。
「おじさん!」
食堂の店員が声をかけてきた。
「パンのおかわり、いる?」
「いる」
「即答かよ」
「腹が減っている」
「朝からどんだけ食うんだよ……」
俺は頭を抱えた。
おじさんは気にせずパンを受け取る。
異世界に来ても、この人は変わらない。
そこだけは妙に安心できる。
◇
食事を終える。
俺たちは宿を出た。
モンドの街を歩く。
朝の街は、昨日までとは少し違って見えた。
店が開き始めている。
人が行き交っている。
荷物を運んでいる人もいる。
騎士たちが街の中を歩いている。
平和な街。
ゲームで見ていた景色。
それが今は現実として目の前にある。
「……やっぱ変な感じだな」
「何が?」
「この街」
「モンドか?」
「うん」
俺は周囲を見る。
ゲーム画面で見ていた景色と、実際に歩く景色では全然違う。
風が吹いている。
人の声が聞こえる。
パンの焼ける匂いがする。
馬車が通る。
剣を持った人が歩いている。
ゲームでは再現されていなかった細かい部分が、現実にはいくらでも存在している。
「……これが現実なんだよな」
「そうだ」
おじさんはあっさり答える。
「おじさん、もう慣れすぎじゃない?」
「そうか?」
「異世界だよ?」
「異世界だな」
「もっと驚けよ」
「最初に驚いた」
「今は?」
「飯が食える」
「そこなのかよ」
俺はため息をついた。
◇
途中で、俺は街の看板に目を向けた。
テイワットの文字。
当然、日本語ではない。
「……」
足を止める。
「どうした?」
「いや、これ」
看板を指差す。
「少し分かるようになった」
「読めるのか?」
「……一部だけ」
キャサリンさんに教えてもらってから、俺も少しずつ文字を覚えている。
会話については、転移した直後から問題なくできた。
だが、文字は別だった。
言葉を話せるからといって、文字まで読めるわけじゃない。
これが地味に困る。
「ここは……店?」
「そうみたいだな」
「この文字は?」
「知らない」
「じゃあ俺に聞くなよ」
「読めると思った」
「俺だって勉強中だよ」
俺は看板を見上げる。
ゲームなら、表示される文字を読むだけだった。
でも現実ではそうはいかない。
「ゲームの知識で地名とか人名は分かるんだけどな……」
「便利だな」
「便利なのか不便なのか分からないけど」
知っている名前だけは分かる。
でも街の人が書いた普通の文章は読めない。
ゲームの知識と現実の知識。
その差が、意外と大きい。
「まあ、覚えるしかないか」
「そうだな」
俺たちは再び歩き始めた。
◇
「たかふみ!」
聞き覚えのある声がした。
振り返る。
「アンバー」
「やっぱり!」
赤い服。
弓。
見慣れた姿。
アンバーが笑顔で駆け寄ってくる。
「二人とも元気そうだね!」
「まあね」
「モンドの生活には慣れた?」
「少しずつ」
「よかった!」
アンバーは嬉しそうに笑った。
「最初はどうなることかと思ったんだから」
「俺もそう思ってた」
「ちゃんと宿もある?」
「ある」
「食事は?」
「食べてる」
「仕事は?」
「冒険者ギルドで依頼を受けてる」
「それなら安心だね!」
アンバーが胸を撫で下ろす。
「モラも稼げてる?」
「なんとか」
俺は財布を見せる。
モラが入っている。
「おお……!」
アンバーが興味深そうに見る。
「もうモラにも慣れたんだ」
「慣れたというか……」
俺は苦笑する。
「使わないと生活できないから」
「そうだよね」
アンバーは頷いた。
「文字のほうは?」
「それがまだ……」
「難しい?」
「かなり」
「そっかぁ」
アンバーは少し考える。
「私でよければ、分からない文字があったら教えるよ」
「本当に?」
「もちろん!」
「助かる」
こういうところは、本当にありがたい。
この世界で俺たちを最初に拾ってくれたのもアンバーだった。
右も左も分からない俺たちに、モンドのことを教えてくれた。
今でも気にかけてくれている。
「でも」
アンバーがおじさんを見る。
「おじさんは、相変わらず無口だね」
「必要なことは話している」
「そうかな?」
「そうだ」
「たかふみがほとんど説明してる気がするけど」
「そうだな」
「認めるんだ……」
俺は苦笑する。
おじさんは、自分から積極的に事情を説明するタイプではない。
異世界に来たこと。
日本という国から来たこと。
帰る方法を探していること。
必要なこと以外は、あまり話したがらない。
だから自然と俺が説明役になる。
「まあ、でも」
アンバーが笑う。
「二人とも悪い人じゃないって分かってるから」
「ありがとう」
「困ったことがあったら、遠慮なく言ってね!」
「うん」
アンバーが手を振る。
「じゃあ、私は仕事があるから!」
「またね」
「またね、たかふみ! おじさん!」
アンバーは街の奥へ走っていった。
俺はその背中を見送る。
「……いい人だよな」
「そうだな」
「最初にアンバーに会えたのは運がよかった」
「ああ」
おじさんも短く答える。
◇
冒険者ギルドへ向かう。
今日も依頼を探す。
掲示板を見る。
「……」
文字。
「……」
俺は固まる。
「たかふみ」
「分かってる」
「読めないのか?」
「読めない」
「昨日より進歩してないな」
「うるさい」
キャサリンさんに依頼内容を確認してもらう。
今日の依頼は、モンド近郊の道の確認と魔物の討伐。
昨日と似ている。
「これなら大丈夫そうだな」
「そうだな」
報酬も悪くない。
「受けよう」
俺たちは依頼を受けた。
◇
街の外へ出る。
昨日と同じような道。
でも今日は、少しだけ違う感覚があった。
「この先、森だな」
「そうだ」
「昨日の道より分かる」
「慣れてきたな」
「うん」
俺は周囲を見る。
風。
草。
木々。
遠くに見える山。
ゲームで見たことのある風景。
それでも、実際に歩くと違う。
俺たちの足音。
鳥の声。
風の音。
全部が現実だ。
「……」
少し考える。
俺は、本当にこの世界に慣れてきている。
それが少し怖かった。
日本に帰りたい。
その気持ちは変わっていない。
でも。
この世界で生活することにも慣れてきている。
その二つが同時に存在している。
「たかふみ」
「ん?」
「敵だ」
「!」
俺は前を見る。
草むら。
「……いた」
ヒルチャール。
数体。
「三体」
「分かった」
「右にも一体」
「了解」
俺は周囲を見る。
「木の裏にもいる」
「何体だ?」
「二体」
おじさんが頷く。
「任せろ」
その瞬間。
おじさんが動いた。
精霊魔法によって風が走る。
敵の動きが崩れる。
そこへ光の剣。
接近。
一撃。
また一撃。
戦闘は短かった。
「……終わった」
「そうだな」
俺は周囲を見る。
敵がいない。
「昨日より早くなかった?」
「そうか?」
「うん」
俺は少し笑う。
「俺たち、連携できるようになってきたな」
「そうだな」
「俺が敵を見つける」
「ああ」
「位置を伝える」
「ああ」
「おじさんが倒す」
「ああ」
「……俺の役割、敵発見だけじゃない?」
「重要だ」
「まあ、そうだけど」
自分でも笑ってしまう。
でも。
最初の頃とは違う。
俺たちは少しずつ、この世界で生きる方法を覚えている。
◇
依頼を終える。
ギルドへ戻る。
報酬を受け取る。
モラ。
これにも慣れてきた。
「いくら残ってる?」
「確認する」
俺は財布を開く。
今日の報酬を加える。
「……これなら、しばらく大丈夫」
「飯は?」
「ちゃんと含めてる」
「ならいい」
「そこだけは譲らないんだな」
「食事は重要だ」
「はいはい」
俺は笑った。
ギルドを出る。
夕方のモンド。
街は昼間とは違う表情を見せている。
人々が帰っていく。
店には明かりが灯り始める。
酒場から声が聞こえる。
俺は立ち止まった。
「……」
「どうした?」
「いや」
街を見る。
数日前まで、ここは知らない世界だった。
今では。
宿が分かる。
ギルドが分かる。
食事をする場所も分かる。
モラの価値も少し分かる。
街の人たちの顔も覚えてきた。
アンバー。
キャサリンさん。
騎士団の人たち。
少しずつ知り合いが増えている。
「……俺、慣れてきてるな」
「そうだな」
「なんか変な感じ」
「何が?」
「異世界なのに、普通に生活してる」
「生活するしかないからな」
「まあ、それはそうだけど」
俺は苦笑した。
◇
夜。
宿の部屋。
窓の外にはモンドの街。
月明かり。
静かな風。
俺はベッドに座りながら考える。
「日本……どうなってるかな」
「分からない」
「家族も心配してるだろうな」
「ああ」
「突然いなくなったわけだし」
「そうだな」
俺は黙る。
帰りたい。
でも。
方法が分からない。
「……おじさん」
「何だ?」
「本当に帰れると思う?」
「帰る」
「質問の答えになってない」
「帰る方法を探す」
おじさんはいつものように短く答えた。
「焦っても仕方ない」
「うん」
「情報を集める」
「うん」
「この世界には、俺たちが知らない場所がある」
「そうだな」
「なら、探せばいい」
俺はしばらく黙った。
「……そうだな」
それしかない。
今は。
この世界で生活しながら、帰る方法を探す。
冒険者として依頼を受ける。
人と話す。
街を知る。
世界を知る。
その先に、何か手掛かりがあるかもしれない。
「明日も依頼か」
「ああ」
「休みたいんだけど」
「必要か?」
「必要だよ」
「そうか」
「でも明日も行くんだろ?」
「ああ」
「……俺も行くけど」
おじさんが少しだけ笑った。
俺も笑う。
日本に帰る方法は、まだ見つからない。
この世界についても、知らないことばかりだ。
それでも。
少なくとも今日一日は、無事に過ごせた。
朝起きて。
飯を食って。
街を歩いて。
アンバーと話して。
依頼を受けて。
魔物と戦って。
モラを稼いで。
夜になれば、帰る方法について考える。
そんな一日。
数日前までなら、こんな生活を「日常」と呼ぶなんて考えもしなかった。
でも今は――。
「……おやすみ、おじさん」
「ああ。おやすみ」
明日もまた、朝が来る。
そして俺たちは、冒険者ギルドへ向かう。
日本へ帰るために。
そして。
この異世界で生きていくために。
モンドでの生活は、少しずつ俺たちの日常になり始めていた。