風が止んだ。
正確には、止まったように感じた。
つい先ほどまで風龍廃墟を荒らしていた猛烈な風が、嘘のように静かになっている。
崩れかけた遺跡。
砕けた石柱。
戦いの跡。
その中心に、巨大な風龍――トワリンがいた。
青い身体を横たえ、荒い呼吸を繰り返している。
だが、先ほどまでとは明らかに違っていた。
苦しそうに暴れることもない。
身体を蝕んでいた黒い力も、もう見えない。
「……終わったのか?」
たかふみが呟いた。
「うん」
蛍が頷く。
パイモンもトワリンを見上げた。
「もう苦しそうじゃないな」
「ああ」
おじさんも光の剣を下ろす。
その表情はいつも通りだった。
「助かったようだ」
「……おじさん」
「何だ?」
「さっきの魔法」
「うん」
「もうちょっとでトワリンごと吹き飛ばすところだったからな」
「加減した」
「それはもう聞いた!」
たかふみが頭を抱える。
「でも……」
たかふみはトワリンを見る。
「結果的には助かった」
「そうだな」
おじさんは短く答えた。
そのときだった。
「トワリン」
ウェンティが前へ出た。
その声は、今までとは違っていた。
軽さも。
冗談もない。
ただ静かだった。
「聞こえるかい?」
トワリンがゆっくりと顔を上げる。
「……バルバトス」
低い声が響いた。
たかふみは思わず息を止める。
巨大な風龍が、ウェンティを見つめていた。
「久しいな」
「うん」
ウェンティが微笑む。
「本当に久しぶりだね」
「我は……」
トワリンが目を閉じる。
「長い間、何かに蝕まれていた」
「分かってる」
「怒りが消えなかった」
その声には苦しみが残っていた。
「空を飛んでも、風を受けても、心が晴れなかった」
ウェンティは黙って聞いている。
「何故だ」
トワリンが問いかける。
「なぜ我は、あれほど苦しんでいた」
「……君が弱かったからじゃないよ」
ウェンティが答える。
「君はずっと戦っていたんだ」
「戦っていた?」
「自分自身とね」
トワリンは黙った。
しばらくして。
「そうか」
短い言葉だった。
だが。
どこか納得したようにも聞こえた。
少し離れたところで、ジンが二人の様子を見守っている。
「……話ができる状態には戻ったようですね」
アンバーが頷く。
「うん」
「騎士団としては、周囲の安全を確認します」
ジンが周囲を見回した。
「アンバー、周囲の確認をお願いします」
「了解!」
「ノエルは負傷者の確認を」
「はい!」
「ガイアはアビス教団の痕跡を」
「分かった」
それぞれが動き始める。
戦いが終わったからといって、やることがなくなったわけではない。
むしろ、ここからが騎士団の仕事だった。
瓦礫の確認。
敵の痕跡。
負傷者。
そして、この場所が再び危険にならないか。
ジンは一つずつ確認していく。
「蛍」
ジンが呼ぶ。
「はい」
「怪我はありませんか?」
「大丈夫です」
「そうですか」
ジンは頷いた。
「おじさんも?」
「問題ない」
「たかふみは?」
「俺も大丈夫です」
たかふみが答える。
ジンは少しだけ表情を緩めた。
「それなら安心しました」
「……団長」
アンバーが戻ってきた。
「周囲に大きな危険はありません。敵の姿もありませんでした」
「分かりました」
ガイアも戻ってくる。
「こっちも同じだ。アビス教団が残っている様子はない」
「ありがとう」
ジンは頷いた。
そして空を見る。
トワリンがいる。
その巨大な姿を見ても、もう恐怖は感じなかった。
「……これで、モンドに戻れますね」
アンバーが言う。
「ええ」
ジンが答えた。
「今回の騒動は終わりました」
その言葉を聞いたたかふみは、ようやく実感した。
本当に終わったのだ。
風龍との戦いが。
「……疲れた」
たかふみが座り込む。
「たかふみ、大丈夫?」
蛍が声をかける。
「大丈夫。ただ、力が抜けた」
パイモンが近くへ降りてくる。
「オイラも疲れたぞ」
「お前は飛んでただけだろ」
「応援してた!」
「はいはい」
たかふみは笑った。
その様子を見ていたおじさんが言う。
「帰るか」
「そうだな」
たかふみは立ち上がる。
「モンドに帰ろう」
その言葉に、蛍も頷いた。
「うん」
ウェンティはまだトワリンと話していた。
「これからどうする?」
ウェンティが聞く。
「分からぬ」
トワリンは答えた。
「長き眠りから目覚めたばかりだ」
「なら、少し休むといい」
「休む?」
「そう」
ウェンティが笑う。
「急ぐ必要なんてないんだから」
トワリンは空を見上げる。
「……そうだな」
翼を広げる。
巨大な風が巻き起こる。
たかふみは思わず目を細めた。
「うわっ」
パイモンが飛ばされそうになる。
「パイモン!」
蛍が手を伸ばす。
「大丈夫!」
おじさんが風を押さえる。
精霊魔法によって、周囲の風が少しだけ弱まった。
トワリンがそれを見る。
「その力……」
おじさんが顔を上げる。
「どうした?」
「いや」
トワリンは首を振った。
「異なる風だと思っただけだ」
「そうか」
それ以上、おじさんは説明しなかった。
トワリンは空へ上昇する。
「また会おう」
ウェンティが手を振る。
「次はもっと穏やかな空でね」
トワリンは一度だけ大きく翼を羽ばたかせた。
そして。
青い空の向こうへ消えていった。
「……行っちゃったな」
アンバーが呟く。
「ええ」
ジンが答える。
「ですが、もう大丈夫でしょう」
ウェンティはトワリンが消えた空を見つめていた。
その表情には、少しだけ寂しさがあった。
だが。
同時に、安堵もあった。
「さて」
ウェンティが振り返る。
「僕たちも帰ろうか」
「そうだな」
たかふみが答える。
こうして一行は、風龍廃墟を後にした。
◆
帰り道。
行きとは違い、誰も急いでいなかった。
敵の姿もない。
風も穏やかだ。
たかふみは歩きながら、何度も後ろを見る。
「どうした?」
おじさんが聞いた。
「いや」
たかふみは首を振る。
「本当に終わったんだなって思って」
「そうだな」
「……おじさん」
「何だ?」
「怖くなかったの?」
「何が?」
「トワリン」
おじさんは少し考えた。
「怖いかどうかより、どうすれば止められるかを考えていた」
「そっか」
たかふみは苦笑する。
「やっぱりそういうところだよな」
「何がだ?」
「おじさんらしい」
おじさんは首を傾げた。
「そうか?」
「そうだよ」
少し前を歩いていた蛍が振り返る。
「二人とも、何を話してるの?」
「戦いの反省会」
たかふみが答える。
「おじさんが反省してない」
「反省する必要があるのか?」
「そこ!」
パイモンが笑った。
「やっぱりおじさんは変だな!」
「そうか?」
「そうだぞ!」
アンバーも笑う。
「でも、助かったよ」
「何が?」
「おじさんがいたから」
アンバーが真面目な顔になる。
「私たちだけだったら、もっと苦戦してたと思う」
おじさんは少し考える。
「蛍も戦っていた」
「うん」
「騎士団もいた」
「そうだね」
「たかふみもいた」
「俺?」
「状況を見ていた」
「まあ……」
たかふみは頭を掻いた。
「役に立ってたならよかったけど」
ジンが後ろから声をかける。
「たかふみ」
「はい?」
「あなたの判断は助けになりました」
「……ありがとうございます」
たかふみは少し照れた。
「俺、戦えないから」
「戦えることだけが役割ではありません」
ジンは穏やかに言う。
「状況を見ることも、仲間に伝えることも、大切なことです」
「……はい」
たかふみは頷いた。
モンドの城壁が近づいてきた。
その姿を見た瞬間。
たかふみは大きく息を吐いた。
「帰ってきた」
蛍も笑う。
「うん」
門を抜ける。
そこには。
いつものモンドがあった。
人々が歩いている。
店が開いている。
子供たちが走っている。
風車が回っている。
風龍の脅威に怯えていた街が、少しずつ日常を取り戻している。
「……よかった」
アンバーが呟いた。
街の人々も騎士団の姿に気づく。
「騎士団が戻ってきた!」
「風龍は?」
「どうなったんだ?」
ジンが前へ出る。
「皆さん、安心してください」
街が静かになる。
「今回の脅威は去りました」
ざわめきが広がる。
「風龍は?」
「もう暴れていません」
ジンは続ける。
「騎士団としても、今後の安全確認を続けます。ですが、ひとまず安心して生活してください」
街から歓声が上がった。
アンバーが笑う。
「よかったね」
蛍も頷いた。
「うん」
パイモンは胸を張る。
「オイラたちが助けたんだからな!」
「パイモンも頑張ったよ」
蛍が言う。
「だろ?」
パイモンが嬉しそうにする。
たかふみは笑った。
「そこだけは素直に褒められるんだな」
「当然だ!」
◆
騎士団へ戻ると、ジンたちはすぐに事後処理へ入った。
今回の戦闘で破壊された場所。
アビス教団の痕跡。
今後の警戒。
確認すべきことは多い。
ガイアが資料をまとめながら言う。
「これで一件落着……と言いたいところだが」
「まだ何か?」
ジンが聞く。
「アビス教団が今回だけで終わったとは思えない」
「私もそう考えています」
ジンが頷く。
「警戒は続けましょう」
その会話を少し離れた場所で聞いていたたかふみは、黙っていた。
終わった。
だが。
完全に終わったわけではない。
そのことは理解している。
リサが近づいてきた。
「たかふみ」
「はい?」
「疲れているみたいね」
「まあ……」
たかふみは苦笑する。
「今日は色々ありすぎました」
「そうね」
リサが笑う。
「でも、無事でよかったわ」
「ありがとうございます」
リサはおじさんを見る。
「それにしても、あなたのおじさんは相変わらずね」
「何かしました?」
「戦い方が派手なのよ」
「……ですよね」
たかふみは深く頷く。
「本人は加減したって言ってましたけど」
「ふふっ」
リサは楽しそうに笑った。
「それは本人にしか分からないわね」
「ですよね」
おじさん本人は少し離れた場所で、何事もなかったかのように水を飲んでいた。
「おじさん」
「何だ?」
「もう少し周りのこと考えて魔法使ってよ」
「考えている」
「本当に?」
「本当だ」
「……まあ、いいか」
たかふみは諦めた。
◆
夕方。
騒動が落ち着き、一行はようやく休めることになった。
たかふみは窓際に座っていた。
外を見る。
夕暮れのモンド。
風車がゆっくりと回っている。
空は赤く染まっていた。
「……長かったな」
蛍が隣に座る。
「うん」
「モンドに来てから、色々あった」
「そうだね」
「でも」
たかふみは笑う。
「トワリンが助かってよかった」
蛍も頷いた。
「うん」
パイモンが二人の間に割り込んでくる。
「それより飯!」
「また?」
「腹減ったんだ!」
たかふみは笑った。
「じゃあ食べに行くか」
「やった!」
おじさんも立ち上がる。
「俺も行く」
「おじさんも食べるの?」
「当然だ」
「戦ったから?」
「そうだ」
「そこは一貫してるな……」
四人で歩き出す。
その途中。
たかふみは足を止めた。
「……そういえば」
「どうした?」
蛍が振り返る。
「俺たち、まだ帰る方法を見つけてないんだよな」
空気が少しだけ変わった。
モンドでの生活。
仲間との時間。
今回の戦い。
それらに気を取られていた。
けれど。
目的は変わっていない。
日本へ帰ること。
おじさんも空を見る。
「そうだな」
「これからどうする?」
たかふみが聞く。
「探す」
おじさんは即答した。
「帰る方法を」
たかふみは頷いた。
「そうだな」
蛍が言う。
「もし手伝えることがあったら、協力するよ」
「ありがとう」
たかふみは笑う。
パイモンも胸を張る。
「オイラも手伝うぞ!」
「頼りにしてる」
「任せろ!」
モンドの風が吹いた。
穏やかな風だった。
風龍が苦しんでいたときの風とは違う。
自由で。
優しい。
たかふみは空を見上げる。
「……これから、どこへ行くんだろうな」
「まだ決めてない」
蛍が答える。
「なら、まずは情報を集めよう」
たかふみが言う。
「日本へ帰る方法について」
「そうだね」
おじさんが頷く。
「それと」
たかふみは少し考える。
「この世界についても、もっと知ったほうがいい」
「異世界だからな」
「うん」
モンドでの出来事は終わった。
しかし。
旅そのものは、まだ終わっていない。
むしろ。
ここから先が、本当の旅なのかもしれない。
風が吹く。
モンドの街を通り抜け。
遠くへ流れていく。
その先には。
まだ知らない土地がある。
まだ知らない人々がいる。
そして。
まだ知らない出来事が待っている。
たかふみは歩き出した。
「とりあえず飯だな」
「そうだ!」
パイモンが嬉しそうに叫ぶ。
「飯だ!」
「おじさんもそれでいい?」
「いい」
「蛍は?」
「私も」
「じゃあ決まり」
四人はモンドの街へ歩いていく。
その背中を、穏やかな風が追いかけていた。
風龍の戦いは終わった。
モンドに平穏が戻った。
けれど。
彼らの旅は、まだ終わらない。
日本へ帰るために。
そして。
この世界で生きていくために。
次の目的地へ向かう準備が、静かに始まろうとしていた。