朝。
モンドの街に、いつもの風が吹いていた。
風車がゆっくりと回っている。
石畳の道には、朝の買い物へ向かう人々。
店を開ける者。
荷物を運ぶ者。
冒険者ギルドへ向かう者。
何も変わらない、いつものモンド。
けれど――。
「……今日か」
宿の窓から街を眺めながら、俺は呟いた。
背後では、おじさんが荷物をまとめている。
「何がだ?」
「旅の準備だよ」
「昨日からしているだろう」
「そうだけどさ」
俺は窓から離れた。
「今日はちゃんと終わらせよう」
「ああ」
俺たちは日本へ帰る方法を探すため、モンドの外へ出る。
次の目的地は璃月。
そのために必要なものを揃えなければならない。
「まずギルドだな」
「分かった」
二人で宿を出た。
◆
冒険者ギルド。
いつもの場所にキャサリンが立っている。
「おはようございます」
「おはよう、キャサリン」
俺が挨拶すると、おじさんも軽く頭を下げた。
「今日は依頼の報告ですか?」
「それもあるけど……」
俺は少し間を置く。
「俺たち、モンドを出ることにしたんだ」
「まあ」
キャサリンが僅かに目を見開いた。
「次の目的地は?」
「璃月」
「璃月ですか」
「うん。日本へ帰る方法を探すために、いろんな場所を見て回ろうと思ってる」
「承知しました」
キャサリンはいつもの落ち着いた態度で頷いた。
「それでは、これまでの依頼について確認しましょう」
依頼の記録を確認していく。
討伐。
護衛。
物資の運搬。
街の外での調査。
小さな困りごとの解決。
最初の頃は、依頼書に書かれた文字すらまともに読めなかった。
今では、簡単な依頼なら自分たちだけで内容を理解できる。
「……こうして見ると、結構やってるな」
俺が記録を見ながら言う。
「最初の頃は、文字を読むのにも苦労していましたね」
「そうだったな」
モラのことも、最初は何も知らなかった。
今では依頼を受け、報酬を受け取り、その金で生活している。
短い間だったような。
長かったような。
不思議な感覚だった。
「お二人とも、最初の頃と比べるとずいぶん変わりました」
キャサリンが微笑む。
「そうかな」
「はい」
俺は少し照れながら笑った。
「まあ、最初は何も分からなかったからね」
おじさんも依頼書を見る。
「世話になった」
「こちらこそ、お世話になりました」
俺も頭を下げる。
キャサリンは二人を見送った。
「璃月への旅が、良いものになることを願っています」
「ありがとう」
「またモンドへ戻ってきた際には、ぜひギルドへお立ち寄りください」
「うん」
俺たちはギルドを出た。
◆
次に向かったのは市場。
保存の利く食料。
水。
薬。
包帯。
簡単な調理道具。
その他、旅に必要な細かなもの。
「結構あるな」
買った荷物を見ながら言う。
「旅だからな」
「宿がある時とは違うね」
「ああ」
これからは、必要なものを自分たちで持ち歩かなければならない。
「モラも残しておかないと」
「分かっている」
「食費も必要だし」
「分かっている」
「宿代も」
「分かっている」
「……ちゃんと聞いてる?」
「聞いている」
「ならいいけど」
俺は笑った。
買い物を終える頃には、荷物がかなり増えていた。
「これ、俺が持つよ」
「俺が持つ」
「いや、二人で分けようよ」
「問題ない」
「おじさんの『問題ない』は信用できないんだよ」
「なぜだ?」
「前に一人で全部持ってたじゃん」
「持てた」
「そういうところだよ」
俺は呆れながら荷物を分けた。
◆
街を歩いていると――。
「たかふみ!」
聞き慣れた声がした。
振り向く。
「アンバー」
アンバーが駆け寄ってくる。
「二人とも、こんなに荷物を持ってどうしたの?」
「旅の準備」
「旅?」
「璃月へ行く」
「えっ?」
アンバーが目を丸くする。
「もう行っちゃうの?」
「うん」
「日本へ帰る方法を探すために、モンド以外の場所も調べることにしたんだ」
「そっか……」
一瞬だけアンバーの表情が曇る。
けれど、すぐに笑顔へ戻った。
「じゃあ、璃月への旅だね!」
「そう」
「気をつけてね!」
「ありがとう」
「璃月はモンドとは全然違うから、困ったことがあったらちゃんと現地の人に聞くんだよ」
「分かってる」
「食事もちゃんと取ること!」
「うん」
「怪我したら無理しない!」
「分かったって」
俺が笑う。
「アンバー、ちょっと心配性じゃない?」
「だって二人とも、異世界から来たばかりなんだから!」
「まあ、それはそうだけど」
アンバーがおじさんを見る。
「おじさんも!」
「俺?」
「たかふみだけじゃなくて、おじさんもちゃんと気をつけてよ」
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
「……ならいいけど」
アンバーは安心したように笑った。
「モンドを出ても、困ったら戻ってきていいからね」
「戻ってきてもいいの?」
「もちろん!」
「俺たち異世界人だよ?」
「だから何?」
アンバーは首を傾げた。
「モンドで一緒に戦った仲間でしょ?」
「……」
その言葉に、少しだけ胸が詰まった。
仲間。
この世界に来たばかりの頃なら、そんな言葉を素直に受け入れられなかっただろう。
でも今は――。
「……ありがとう」
「こちらこそ!」
アンバーは笑った。
おじさんもアンバーを見る。
「世話になった」
「え?」
「最初に助けてもらった」
おじさんが続ける。
「礼を言っていなかった」
アンバーは少し驚いた。
そして、笑う。
「どういたしまして!」
「また帰ってきてね!」
「ああ」
「約束だよ!」
「分かった」
アンバーは大きく手を振った。
「璃月でも元気でね!」
二人も手を振り返す。
歩き出してから、俺は振り返った。
アンバーはまだ手を振っている。
「……いい子だな」
「そうだな」
「おじさんが素直に褒めるの珍しいね」
「そうか?」
「そうだよ」
◆
次に向かったのは、西風騎士団本部だった。
ジンさんの執務室。
「入りなさい」
「失礼します」
俺たちが入ると、ジンさんは荷物を見た。
「旅の準備を進めているようですね」
「はい」
「璃月へ向かうと聞いています」
「そうです」
俺は頷いた。
「日本へ帰る方法を探すためにも、いろんな場所を見てみようと思って」
「分かりました」
ジンさんは穏やかに頷いた。
「モンドでの生活は、あなた方にとって決して容易なものではなかったでしょう」
「最初は何も分からなかったです」
「今でも分からないことは多いですけど」
「それでも、二人は自分たちの力でここまで来ました」
ジンさんは微笑んだ。
「私は、それを評価しています」
「ありがとうございます」
俺が頭を下げる。
おじさんも続けた。
「世話になった」
「こちらこそ」
ジンさんは頷いた。
「困った時には、いつでもモンドを頼ってください」
「分かりました」
「無事を祈っています」
「はい」
俺たちは執務室を出た。
「ジンさん、最後まで真面目だったな」
「そうだな」
「そこがおじさんの評価ポイントだったりして」
「そうか?」
「知らないけど」
◆
廊下を歩いていると、壁際から声がした。
「おや」
「ガイアさん」
「旅立つって聞いたからな」
ガイアさんがこちらを見る。
「ずいぶん準備したじゃないか」
「璃月へ行きます」
「そうらしいな」
ガイアさんは荷物を見る。
「モンドを出るとなると、少し寂しいか?」
「まあ……多少は」
「正直だな」
「ガイアさんは寂しくないんですか?」
「俺か?」
ガイアさんは笑った。
「また会えるだろう?」
「そういうものですか?」
「旅人同士なんて、どこかでまた顔を合わせるものさ」
「なるほど」
ガイアさんはおじさんを見る。
「おじさん」
「何だ?」
「璃月では、モンドとは違うことがいろいろある」
「分かっている」
「本当に?」
「ああ」
「ならいい」
ガイアさんは一瞬だけ真剣な顔になる。
「それと、その力」
「精霊魔法か」
「そう」
ガイアさんはおじさんを見る。
「珍しい力だからな。必要以上に人前で使わないほうがいい」
「分かった」
「君たちが思っている以上に、珍しいものには人が集まる」
「……気をつけます」
俺も頷いた。
「ありがとう」
「礼はいいさ」
ガイアさんは肩をすくめる。
「それより、璃月で面倒事に巻き込まれたら、俺の名前でも出しておくといい」
「それ、逆に面倒にならない?」
「さてね」
「ガイアさん……」
「ははっ」
いつもの軽い笑い。
「まあ、気をつけて行ってこい」
「ああ」
「また会おう」
「はい」
二人はその場を離れた。
◆
図書室。
リサさんは俺たちを見ると、すぐに事情を察した。
「あら」
「こんにちは、リサさん」
「旅の準備をしているのね?」
「はい」
「璃月へ?」
「そうです」
リサさんは本棚へ向かった。
「それなら、これを持っていきなさい」
一冊の本を取り出す。
「これは?」
「旅先で役に立つ知識が書かれているわ」
「いいんですか?」
「ええ」
俺は本を受け取った。
「ありがとうございます」
「文字もずいぶん読めるようになったわね」
「最初は本当に何も読めなかったですから」
「努力したのね」
「キャサリンに教えてもらったので」
「それでも覚えたのはあなたでしょう?」
リサさんが微笑む。
「分からないことを覚えるのは、旅をするうえで大切なことよ」
「はい」
リサさんがおじさんを見る。
「それから――あなたも」
「俺?」
「自分が知らないことを知る努力はしたほうがいいわよ」
「……」
おじさんは本を見る。
「分かった」
「ふふっ」
「何だ?」
「素直なのね」
「必要なことだからな」
リサさんは笑った。
「それなら安心ね」
「本当にありがとうございます」
「旅先でも役立つでしょう」
「大切にします」
「そうしてちょうだい」
◆
夕方。
街の中を歩いていると、小さな足音が聞こえた。
「おじさん!」
「クレー」
クレーが走ってくる。
「旅に行くの?」
「ああ」
「どこに?」
「璃月」
「璃月!」
クレーの目が輝いた。
「クレーも行きたい!」
「駄目だ」
「えー!」
「危険だ」
「クレー、強いよ!」
「それでも駄目だ」
「むー……」
クレーが頬を膨らませる。
俺は笑った。
「クレー、モンドで待ってたほうがいいよ」
「でも、おじさんたち帰ってくる?」
「分からないけど……」
日本へ帰る方法が見つかるかどうか。
それは誰にも分からない。
「でも、できるだけまた戻ってくるよ」
「本当?」
「ああ」
おじさんが答える。
クレーは顔を上げた。
「じゃあ、約束!」
小さな指を差し出す。
「こうするんだよ!」
おじさんが少し困った顔をする。
「……小指か」
「そう!」
クレーとおじさんが小指を絡める。
「約束!」
「分かった」
「たかふみも!」
「俺も?」
「うん!」
俺も小指を絡めた。
「約束」
「えへへ!」
クレーは嬉しそうに笑った。
「璃月のお土産、待ってるね!」
「分かった」
「いっぱい!」
「いっぱいは無理かも」
「じゃあ、一個!」
「それなら考える」
「やった!」
クレーは笑いながら手を振る。
「気をつけてねー!」
「クレーも元気で」
「またね!」
二人も手を振り返す。
クレーの姿が見えなくなってから、俺は呟いた。
「……最後にクレーは反則だろ」
「何がだ?」
「別れが重くなる」
「そうか?」
「そうだよ」
おじさんは少し考える。
「また会える」
「……うん」
俺は頷いた。
◆
宿へ戻る頃には、空が夕焼け色になっていた。
部屋に入る。
買ってきた食料を整理する。
道具を確認する。
モラを数える。
「……よし」
俺は荷物を閉じた。
「これでだいたい終わった」
おじさんも自分の荷物を確認している。
「問題ない」
「ほんと?」
「ああ」
俺は椅子に座った。
今日は一日、準備ばかりだった。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
「今日はいっぱい会ったな」
「ああ」
「アンバーに、ジンさん、ガイアさん、リサさん、クレー……」
名前を一つずつ思い出す。
「みんな、普通に『また帰ってこい』って言ってくれた」
「そうだな」
「最初は異世界人ってことで警戒されてたのに」
「当然だ」
「うん」
俺は窓の外を見る。
夜のモンド。
街灯が灯っている。
風車の音が聞こえる。
「俺たち、結構ここに馴染んだんだな」
「そうかもしれない」
「……ちょっと寂しいな」
「そうか?」
「うん」
少しだけ間を置いて答える。
「ここに来たばかりの頃は、早く帰りたいって思ってたのに」
「今も帰る」
「分かってる」
「目的は変わっていない」
「うん」
俺は笑った。
「でも、モンドを嫌いになったわけじゃない」
「そうだな」
おじさんはそれ以上言わなかった。
俺も、しばらく黙っていた。
やがて、もう一度荷物を確認する。
食料。
水。
薬。
道具。
モラ。
そして、リサさんからもらった本。
「これで大丈夫」
「ああ」
「じゃあ、今日はもう休もう」
「そうだな」
二人はそれぞれの場所へ戻る。
明日もまだ、モンドにいる。
その先には、璃月への道が待っている。
俺は眠る前に、もう一度だけ窓の外を見た。
風車が夜風を受けて回っている。
見慣れた景色。
聞き慣れた音。
ここで出会った人たち。
そして――今日交わした約束。
「……おやすみ、モンド」
返事はない。
ただ、夜の風が静かに吹いていた。