異世界おじさん、原神の世界へ 全面改稿版   作:ところてんの

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第3話「騎士団の顔見知り」

 モンドで生活を始めて、少しずつ分かってきたことがある。

 

 この街では、冒険者ギルドだけが仕事の窓口じゃない。

 

 街を守っているのは、西風騎士団。

 

 魔物が出れば討伐に向かい、街の治安を守り、困っている住民がいれば対応する。

 

 そして俺たちは、その騎士団ともすでに何度か顔を合わせている。

 

 最初にモンドへ来たとき。

 

 アンバーに拾われて、事情を説明したとき。

 

 そのときに会ったのが、騎士団の団長代理――ジンさんだった。

 

 その後も何度か顔を合わせている。

 

 だから今日、騎士団へ向かうことになっても、最初ほど緊張はしなかった。

 

「依頼の報告だけだよな?」

 

「ああ」

 

「なら、すぐ終わるかな」

 

「終わる」

 

「おじさん、それフラグみたいで嫌なんだけど」

 

「何の話だ?」

 

「こっちの話」

 

 俺たちは騎士団の建物へ向かって歩いていた。

 

 モンドの朝は、思っていたより騒がしい。

 

 市場では店を開ける準備をしている人たちがいて、街道を行き交う人もいる。

 

 ここに来たばかりの頃は、その一つ一つが妙に新鮮だった。

 

 今では、見慣れた光景になりつつある。

 

 それが少し不思議だった。

 

 数日前まで、日本にいた。

 

 普通に生活していた。

 

 それが突然、知らない世界へ飛ばされた。

 

 最初は帰ることしか考えていなかった。

 

 今だって、それは変わらない。

 

 けれど。

 

 毎日モンドを歩いているうちに、少しずつこの世界の日常が自分の中に入り込んできている。

 

「……慣れてきたな」

 

「何が?」

 

「この街」

 

 俺が言うと、おじさんは周囲を見回した。

 

「そうか?」

 

「そうだよ」

 

「最初から普通に歩いていただろ」

 

「おじさんはな」

 

 俺は苦笑する。

 

 この人は、異世界に来ても大して変わらない。

 

 問題があれば考える。

 

 敵がいれば戦う。

 

 腹が減れば食べる。

 

 そして、ゲーム機がないことを時々気にする。

 

 順応しているのか、していないのか。

 

 いまいち分からない。

 

     ◇

 

「失礼します」

 

 西風騎士団の建物へ入る。

 

 受付の騎士に用件を伝えると、すぐに話が通った。

 

「冒険者ギルドの依頼について、団長代理が確認したいそうです」

 

「分かりました。こちらへどうぞ」

 

「ありがとうございます」

 

 案内されて廊下を歩く。

 

 壁には騎士団に関係するものが飾られている。

 

 俺は何となく周囲を見ながら歩いた。

 

 ゲームで見たことのある場所。

 

 それなのに、実際に歩いてみると印象が違う。

 

 画面越しなら数秒で通り過ぎる場所でも、現実では床を踏む感触がある。

 

 人の声がする。

 

 空気の匂いもする。

 

 ゲームの背景ではなく、ちゃんと誰かが生活している場所なのだと改めて思う。

 

「おや」

 

 前方から声がした。

 

 見慣れた男が立っている。

 

 片目を閉じた男。

 

 軽そうな笑み。

 

 そして、どこか相手を観察しているような雰囲気。

 

「これはこれは。噂の異世界人じゃないか」

 

「……ガイアさん」

 

「覚えていてくれたか。嬉しいね」

 

 ガイアさんが笑う。

 

「今日も元気そうで何よりだ」

 

「まあ」

 

 俺が答える。

 

 隣を見る。

 

 おじさんは無言。

 

「相変わらずだな、おじさん」

 

「そうか?」

 

「いやいや、悪い意味じゃないさ」

 

 ガイアさんは肩をすくめる。

 

「それで、今日は何の用かな?」

 

「依頼の報告です」

 

「なるほど」

 

 ガイアさんが俺を見る。

 

「冒険者としても、ずいぶん馴染んできたみたいじゃないか」

 

「おかげさまで」

 

「モンドの生活には慣れた?」

 

「少しずつ」

 

「それはよかった」

 

 軽い会話。

 

 けれど。

 

 俺には分かる。

 

 ガイアさんはただ雑談しているわけじゃない。

 

 俺たちのことを探っている。

 

 もちろん、当然だと思う。

 

 俺だって逆の立場ならそうする。

 

 突然現れた二人組。

 

 片方は奇妙な魔法を使う。

 

 もう片方は、その魔法について詳しい。

 

 しかも、二人ともこの世界の人間ではない。

 

 警戒するなというほうが無理だ。

 

「ところで」

 

 やっぱり来た。

 

「君たちは、本当に遠い国から来たのかい?」

 

「そうです」

 

「国の名前は?」

 

「日本」

 

「日本……聞いたことのない国だな」

 

「そうでしょうね」

 

「どんな国なんだ?」

 

「普通の国ですよ」

 

「普通?」

 

「俺たちみたいな一般人が生活してる国です」

 

「へえ」

 

 ガイアさんが笑う。

 

「魔法は?」

 

「普通の人は使いません」

 

「剣術は?」

 

「人によります」

 

「魔物は?」

 

「基本的にはいません」

 

「ほう」

 

 ガイアさんの目が少し細くなる。

 

「ずいぶん平和な国なんだな」

 

「まあ……そうですね」

 

 俺は答えながら、少しだけ警戒する。

 

 質問自体は普通だ。

 

 でも。

 

 全部答える必要もない。

 

 俺たちが日本について話せることには限界がある。

 

 そもそも、この世界の住人に日本を説明しろと言われても難しい。

 

 国の大きさ。

 

 人口。

 

 文化。

 

 技術。

 

 インターネット。

 

 ゲーム。

 

 電車。

 

 コンビニ。

 

 説明し始めたら、きりがない。

 

 そして、説明したところで帰れるわけでもない。

 

「それじゃあ、おじさんは?」

 

「何がだ?」

 

「日本ではどんな仕事をしていたんだ?」

 

「YouTuber」

 

「?」

 

 ガイアさんの笑顔が一瞬だけ止まった。

 

「そうだ」

 

「……なるほど」

 

 何がなるほどなのか、俺には分からない。

 

 ガイアさんが笑う。

 

「それで、あの戦闘能力か」

 

「……」

 

 おじさんは何も答えない。

 

 俺は心の中でため息をついた。

 

 説明する気がなさすぎる。

 

 もう少し何か言ってくれ。

 

 いや。

 

 むしろ余計なことを言わないだけマシなのかもしれない。

 

 おじさんの場合、変な方向に説明を始めると、ゲームの話まで広がる可能性がある。

 

 それはそれで面倒だ。

 

「まあ、いいさ」

 

 ガイアさんはそれ以上追及しなかった。

 

「無理に聞き出すつもりはない」

 

「……ありがとうございます」

 

「ただ」

 

 笑顔のまま、ガイアさんが言う。

 

「モンドで騒ぎを起こすつもりがないなら、俺たちも君たちを敵として扱う理由はないからね」

 

「ああ」

 

 俺は頷いた。

 

 その言葉には少し安心した。

 

 完全に信用されたわけではない。

 

 でも、敵扱いされているわけでもない。

 

 今の俺たちにとっては、それだけでも十分だった。

 

「それなら結構」

 

 ガイアさんは一歩横へ退いた。

 

「団長代理が待っている。行ってきな」

 

「はい」

 

 俺たちはその場を離れた。

 

 少し歩いてから、俺は小声で言う。

 

「……ガイアさんって、やっぱり鋭いな」

 

「そうか?」

 

「そうだよ」

 

「普通に話していただけだ」

 

「おじさんの普通と俺の普通を一緒にしないでくれ」

 

「そうか?」

 

「そうだよ」

 

 いつもの会話だった。

 

     ◇

 

 案内された部屋に入る。

 

「来ましたか」

 

 ジンさんが立ち上がる。

 

「こんにちは」

 

「こんにちは、ジンさん」

 

 俺が挨拶する。

 

 おじさんも軽く頭を下げる。

 

「先日の依頼について、報告を確認したいと思いまして」

 

「問題ありませんでした」

 

「そうですか」

 

 ジンさんが書類を見る。

 

「魔物の討伐数、場所、被害状況……報告内容も一致しています」

 

「よかった」

 

「ありがとうございます」

 

 ジンさんがこちらを見る。

 

「以前は異世界から来たということで、こちらも慎重になっていました」

 

「はい」

 

「ですが、これまでの行動を見る限り、モンドに危害を加える意思はないようですね」

 

 俺は少し安心する。

 

「俺たちも、できるだけ迷惑をかけないようにします」

 

「助かります」

 

 ジンさんは真面目な表情で頷く。

 

「異世界人である以上、分からないことも多いでしょう」

 

「はい」

 

「困ったことがあれば、騎士団に相談してください」

 

「ありがとうございます」

 

 横を見る。

 

 おじさんは相変わらず無表情。

 

「……」

 

 俺は小声で言う。

 

「おじさんも何か言って」

 

「助かる」

 

「それだけ?」

 

「十分だろ」

 

「まあ……いいけど」

 

 ジンさんが少しだけ微笑んだ。

 

「おじさんらしいですね」

 

「そうですか?」

 

「ええ」

 

 どうやら、ジンさんにもおじさんの性格はだいぶ理解されてきたらしい。

 

 最初の頃なら、もっと警戒されたと思う。

 

 でも今は違う。

 

 短い言葉しか返さなくても、敵意がないことは伝わっている。

 

 それだけでも大きな変化だった。

 

「冒険者ギルドからの報告も確認しています」

 

 ジンさんが続ける。

 

「依頼にも真面目に取り組んでいるようですね」

 

「生活費が必要なので」

 

「それも理由の一つでしょう」

 

 ジンさんが少し笑う。

 

「ですが、結果としてモンドの安全にも貢献してくれています」

 

「それならよかったです」

 

 俺が答える。

 

 生活費を稼ぐため。

 

 日本へ帰る方法を探すため。

 

 そのために依頼を受けている。

 

 けれど。

 

 こうして誰かの役に立っていると言われると、悪い気はしない。

 

「ところで」

 

 ジンさんが続ける。

 

「最近、モンド周辺では魔物の動きに少し変化があります」

 

「変化?」

 

「まだ大きな被害にはなっていません」

 

 ジンさんは地図を広げる。

 

 モンド周辺。

 

 森。

 

 街道。

 

 いくつか印がついている。

 

「ですが、魔物の出現場所が以前とは少し違うようです」

 

 俺は地図を見る。

 

「原因は分かっているんですか?」

 

「まだ何とも」

 

 ジンさんは首を横に振る。

 

「ですから、しばらくは注意してほしいと思っています」

 

「分かりました」

 

「依頼を受ける際も、危険な場所には近づかないようにしてください」

 

「はい」

 

 俺は頷いた。

 

 ゲーム知識から考えても、モンド周辺で何かが起き始めている可能性はある。

 

 でも、まだ確定ではない。

 

 ここで「ゲームではこうなります」なんて言うつもりもない。

 

 必要なときに使えばいい。

 

 それで十分だ。

 

 そのとき。

 

「失礼します」

 

 部屋にノエルが入ってきた。

 

「ジンさん、こちらの書類を――」

 

 俺たちを見る。

 

「あ、おじさん。たかふみさん」

 

「こんにちは」

 

「こんにちは」

 

 ノエルが丁寧に頭を下げる。

 

「お二人とも、モンドでの生活には慣れましたか?」

 

「少しずつ」

 

「よかったです」

 

 ノエルは安心したように微笑んだ。

 

「何か困っていることがあれば、私にも言ってくださいね」

 

「ありがとう」

 

「はい!」

 

 ノエルは笑顔で答えた。

 

 そして、俺たちの服装を見る。

 

「お二人とも、ちゃんと食事は取れていますか?」

 

「……」

 

 なぜそこを確認されるんだ。

 

「大丈夫です」

 

「本当ですか?」

 

「はい」

 

 俺はおじさんを見る。

 

「おじさんも?」

 

「問題ない」

 

「そうですか」

 

 ノエルは納得したように頷く。

 

「では、何かあれば遠慮なく言ってください」

 

「分かりました」

 

 ノエルが部屋を出ていく。

 

「……」

 

「いい子だな」

 

 おじさんが言った。

 

「そうだな」

 

 俺も頷く。

 

「でも、なんで食事を聞かれたんだろう」

 

「痩せて見えるんじゃないか?」

 

「俺?」

 

「二人とも」

 

「おじさんはともかく、俺は普通だろ」

 

「そうか?」

 

「そうだよ」

 

 どうでもいい話をしながら、俺たちは少し笑った。

 

 こういう何気ない会話ができるようになったことも、モンドでの生活に慣れてきた証拠なのかもしれない。

 

     ◇

 

 そのとき。

 

「まあ」

 

 別の声が聞こえた。

 

「今日はずいぶん珍しいお客さんが来ているのねぇ」

 

「リサさん」

 

 部屋の入口に、リサさんが立っていた。

 

「こんにちは、たかふみちゃん」

 

「こんにちは」

 

「おじさんも元気そうね」

 

「ああ」

 

 リサさんは俺たちを見る。

 

 そして少しだけ笑った。

 

「そういえば、まだ聞いていなかったわね」

 

「何をですか?」

 

「あなたたちの魔法について」

 

 来た。

 

 俺は少し身構える。

 

 リサさんは興味深そうにおじさんを見る。

 

「精霊魔法、だったかしら?」

 

「そうだ」

 

「どんな仕組みなの?」

 

「精霊と契約して使う」

 

「なるほど」

 

 リサさんは頷く。

 

「元素とは違うのね?」

 

「違う」

 

「興味深いわねぇ」

 

 それだけ。

 

 もっと質問が来ると思った。

 

 でもリサさんは、それ以上踏み込まなかった。

 

「詳しいことは?」

 

「説明するほどでもない」

 

「ふふっ」

 

 リサさんが笑う。

 

「ずいぶん秘密主義なのね」

 

「そういうわけじゃない」

 

「じゃあ、今度ゆっくり聞かせてもらおうかしら」

 

「気が向いたら」

 

「まあ」

 

 リサさんが楽しそうに笑う。

 

「それは楽しみね」

 

 俺は心の中で思った。

 

 絶対に気が向かないだろ、それ。

 

 というか。

 

 おじさんに説明を任せると、十中八九話が変な方向へ進む。

 

 俺は話題を変えることにした。

 

「リサさんは、俺たちの魔法についてそんなに気になるんですか?」

 

「ええ」

 

 即答だった。

 

「この世界で見たことのない魔法ですもの」

 

「研究対象?」

 

「そうねぇ」

 

 リサさんは少し考える。

 

「それもあるけれど」

 

 俺を見る。

 

「異世界というもの自体が興味深いのよ」

 

「……なるほど」

 

「あなたたちの世界には、こちらにはない知識がたくさんあるのでしょう?」

 

「まあ」

 

 ゲームやネットがある世界だ。

 

 確かに知識だけなら山ほどある。

 

 ただ。

 

「俺たちも知らないことのほうが多いですよ」

 

「そうなの?」

 

「異世界人だからって、何でも知ってるわけじゃないです」

 

「ふふっ」

 

 リサさんが笑う。

 

「それは分かっているわ」

 

 思ったより、話しやすい。

 

 もっと研究者らしく質問攻めにされるかと思った。

 

「それじゃあ、また今度」

 

「はい」

 

「ゆっくり話しましょうね」

 

 リサさんはそう言って去っていった。

 

「……」

 

「逃げたな」

 

 おじさんが言う。

 

「逃げてない」

 

「そうか?」

 

「そうだよ」

 

 俺はため息をついた。

 

     ◇

 

 騎士団での用事を終える。

 

 建物を出る。

 

 俺は大きく息を吐いた。

 

「疲れた」

 

「そうか?」

 

「ガイアさんの質問が地味に怖い」

 

「普通だった」

 

「おじさんはそう思うの?」

 

「ああ」

 

「……警戒心なさすぎない?」

 

「必要なことは答えた」

 

「いや、そうだけど」

 

 俺は歩きながら考える。

 

 ガイアさんは俺たちを完全に信用したわけじゃない。

 

 でも、敵とも見ていない。

 

 ジンさんも同じだ。

 

 最初は警戒されていた。

 

 当然だと思う。

 

 突然、見知らぬ世界から来た人間が二人。

 

 しかも一人は、普通の人間とは明らかに違う力を使う。

 

 警戒するなというほうが無理だ。

 

 それでも。

 

 冒険者として依頼をこなし。

 

 街で問題を起こさず。

 

 魔物から人を守る。

 

 そういう積み重ねで、少しずつ信用されている。

 

「……まあ」

 

 俺は呟く。

 

「悪くないな」

 

「何が?」

 

「騎士団との関係」

 

「困ったら頼ればいい」

 

「簡単に言うなあ」

 

「頼れる相手がいるなら、頼ればいい」

 

「まあ、それはそうだけど」

 

 おじさんの言うことも分かる。

 

 全部自分たちだけで何とかする必要はない。

 

 ここは日本じゃない。

 

 分からないことだらけだ。

 

 なら。

 

 頼れる人間がいるなら、頼ったほうがいい。

 

「そういえば」

 

 俺は思い出す。

 

「騎士団って、結構忙しそうだったな」

 

「そうだな」

 

「ジンさんも大変そうだった」

 

「仕事だからな」

 

「いや、それで片づけるのもどうなんだよ」

 

 おじさんは何も答えない。

 

 俺は笑った。

 

 こういう会話も、少しずつ普通になっている。

 

     ◇

 

 街へ戻る。

 

 人通りが増えていた。

 

 ただ。

 

「……?」

 

 少し様子がおかしい。

 

 人々が何か話している。

 

「聞いた?」

 

「風龍の話?」

 

「また見たらしいぞ」

 

「本当に?」

 

「昨日も空が――」

 

 俺は足を止めた。

 

「……風龍?」

 

 聞き覚えがある。

 

 いや。

 

 知っている。

 

「おじさん」

 

「何だ?」

 

「今、風龍って聞こえた」

 

「聞こえたな」

 

 街の人たちの会話に耳を傾ける。

 

「最近、空がおかしいって」

 

「遠くで大きな風が起きたらしい」

 

「魔物も増えてるんじゃないか?」

 

「西のほうで見たって話もある」

 

 ざわざわとした声。

 

 俺は黙って聞いていた。

 

 風龍。

 

 それが何を意味するのか。

 

 俺には分かる。

 

 ゲームで知っている。

 

 でも。

 

 今ここで口にする必要はない。

 

 ゲームの知識を、何でもかんでも話す必要はない。

 

 むしろ。

 

 知らないふりをしておいたほうがいいこともある。

 

「……始まるのかな」

 

「何が?」

 

「いや」

 

 俺は首を振る。

 

「まだ分からない」

 

 おじさんは俺を見る。

 

「知っているのか?」

 

「ゲームでは知ってる」

 

「そうか」

 

「でも、現実がゲームと同じになるとは限らない」

 

「ああ」

 

 おじさんもそれ以上聞かなかった。

 

 俺は街の空を見る。

 

 青い空。

 

 白い雲。

 

 いつものモンド。

 

 今までと何も変わらない。

 

 なのに。

 

 どこか空気が違う。

 

 人々の声。

 

 騎士たちの動き。

 

 魔物の増加。

 

 そして――。

 

 風龍の噂。

 

「……」

 

 俺は少しだけ不安になる。

 

 この世界に来てから、まだ数日。

 

 ようやく生活にも慣れてきたところだった。

 

 それなのに。

 

 どうやら、この世界は俺たちがゆっくり生活することを許してくれるほど、平和ではないらしい。

 

「帰る方法を探す」

 

 俺は小さく呟く。

 

「そのためにも、まずは生き残らないとな」

 

「そうだな」

 

 おじさんが答える。

 

 俺たちは再び歩き始めた。

 

     ◇

 

 夕方。

 

 宿へ戻る途中、俺は何度も空を見上げた。

 

 特に変化はない。

 

 ただの空だ。

 

 それなのに、妙に気になる。

 

「たかふみ」

 

「ん?」

 

「腹減った」

 

「……それかよ」

 

「夕食の時間だ」

 

「はいはい」

 

 俺は苦笑する。

 

 世界の危機かもしれない。

 

 風龍がどうとか。

 

 魔物がどうとか。

 

 帰る方法がどうとか。

 

 いろいろ考えていた。

 

 でも。

 

 腹が減る。

 

 それは俺も同じだった。

 

「今日は何食べる?」

 

「肉」

 

「昨日も肉だっただろ」

 

「今日も肉だ」

 

「……異世界に来ても食生活変わらないな」

 

「肉は肉だ」

 

「名言っぽく言うな」

 

 俺たちはそんなくだらない会話をしながら歩く。

 

 モンドの街は、いつも通りだった。

 

 人々は笑っている。

 

 店は営業している。

 

 酒場から声も聞こえる。

 

 子供たちが走っている。

 

 風が吹いている。

 

 平和だ。

 

 少なくとも、今は。

 

 俺はその光景を見ながら思った。

 

 こういう時間が、いつまでも続けばいい。

 

 そんなことを考える自分が少し意外だった。

 

 最初は帰ることしか考えていなかった。

 

 それなのに。

 

 今は、この街の日常が壊れることを少しだけ怖いと思っている。

 

 モンドに住み始めて、まだ数日。

 

 それでも。

 

 ここで出会った人たちは、もう俺たちにとって無関係な人たちではなくなっていた。

 

 アンバー。

 

 ジンさん。

 

 ガイアさん。

 

 リサさん。

 

 ノエル。

 

 そして、冒険者ギルドのキャサリンさん。

 

 まだ知り合ったばかりの人たちばかりだ。

 

 それでも。

 

 少しずつ、この世界での人間関係ができ始めている。

 

「……変な感じだな」

 

「何が?」

 

「いや」

 

 俺は首を振る。

 

「何でもない」

 

     ◇

 

 宿に戻る。

 

 夕食を終える。

 

 部屋に戻ると、窓の外はすっかり暗くなっていた。

 

 俺はベッドに座る。

 

 今日一日のことを思い返す。

 

 冒険者ギルド。

 

 騎士団。

 

 ガイアさん。

 

 ジンさん。

 

 リサさん。

 

 ノエル。

 

 そして。

 

 風龍の噂。

 

「……」

 

 ゲームなら。

 

 ここから先に起きることを、俺は知っている。

 

 でも。

 

 これはゲームじゃない。

 

 目の前にいる人たちは、ゲームのキャラクターじゃない。

 

 アンバーも。

 

 ジンさんも。

 

 ガイアさんも。

 

 リサさんも。

 

 みんな、この世界で生きている。

 

 だから。

 

 知識があるからといって、何もかも思い通りになるとは限らない。

 

 むしろ。

 

 俺が余計なことをしたせいで、何かが変わる可能性だってある。

 

「たかふみ」

 

「ん?」

 

「何か考えているのか?」

 

「ちょっとな」

 

「そうか」

 

 おじさんは、それ以上聞かなかった。

 

 俺も無理に話そうとは思わなかった。

 

 今はまだ。

 

 確かなことが少なすぎる。

 

 ただ一つだけ。

 

 俺たちは日本へ帰らなければならない。

 

 そのためには、この世界で生きていく必要がある。

 

 冒険者として依頼を受ける。

 

 モラを稼ぐ。

 

 情報を集める。

 

 そして。

 

 帰還方法を探す。

 

 それだけだ。

 

「明日も依頼探すか」

 

「ああ」

 

「文字も勉強しないとな」

 

「ああ」

 

「あとモラの計算も」

 

「ああ」

 

「……おじさん」

 

「何だ?」

 

「本当に帰れると思う?」

 

 少しだけ間があった。

 

「探すしかない」

 

 短い答えだった。

 

 でも。

 

 それで十分だった。

 

「……そうだな」

 

 俺は頷く。

 

「探すしかないか」

 

 窓の外を見る。

 

 夜のモンド。

 

 静かな街。

 

 風が吹いている。

 

 その風の向こう側で、何か大きなものが動き始めている。

 

 まだ俺たちは、その姿を見ていない。

 

 まだ何も起きていない。

 

 それでも――。

 

 平穏だったモンドに、大きな事件の気配が近づいていた。

 

 俺は窓を閉めた。

 

 そして、明日のことを考え始めた。

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