モンドの朝は、いつも通りだった。
広場には人が集まり、露店からは朝食の匂いが漂っている。
冒険者たちがギルドへ向かい、街の人々がそれぞれの仕事へ向かっていく。
少なくとも、昨日までは。
「……なんか、騒がしくない?」
俺は歩きながら周囲を見回した。
「そうか?」
隣を歩くおじさんは、いつもと変わらない。
「ほら。あっち」
俺が指を向ける。
街角に数人の市民が集まっていた。
「昨日の風、聞いた?」
「ああ。夜中にすごい音がしたらしい」
「風魔龍じゃないかって話だぞ」
「まさか。そんなこと……」
「でも、騎士団も動いてるらしい」
風魔龍。
その言葉を聞いた瞬間、足が止まりそうになった。
「……」
知っている。
俺は、その名前を知っている。
ゲームの中で何度も聞いた名前だ。
モンドを襲う巨大な龍。
そして、原神の序章で大きな事件になる存在。
ここまでくれば、さすがに偶然とは思えない。
「たかふみ?」
「……いや」
俺は首を振った。
「なんでもない」
ゲームの知識がある。
それは確かだ。
だけど、ここはゲームの画面の中じゃない。
俺たちは実際にこの街で暮らしている。
人が歩いている。
飯を食べている。
仕事をしている。
そして、何かあれば怪我をする。
「風魔龍って、本当にいるのかな」
俺が呟くと、おじさんは少し空を見上げた。
「知らん」
「だよな」
「見ていないからな」
相変わらず淡々としている。
でも、その言葉に妙な安心感があった。
「……ゲームでは、知ってるんだけどな」
「何を?」
「いや、こっちの話」
俺は前を向いた。
ゲームではこうだった。
だから現実でもこうなる。
そんな保証はない。
むしろ、俺たちがいる時点で、すでに何かが変わっている可能性だってある。
「ここはゲームじゃない」
小さく呟く。
「分かってる」
自分に言い聞かせるように、もう一度。
「ここは現実だ」
*
冒険者ギルドへ向かうと、いつもより人が多かった。
「おはようございます」
キャサリンさんが笑顔で迎えてくれる。
「おはようございます」
俺も挨拶を返す。
「今日はずいぶん人が多いですね」
「はい。昨夜の風について確認する冒険者の方が増えています」
「やっぱり……」
俺は掲示板を見る。
普段の魔物討伐や採集依頼に混ざって、街道の安全確認や周辺地域の調査依頼が増えている。
「風魔龍の件ですか?」
「正確には、まだ何も断定されていません」
キャサリンさんは落ち着いた声で答えた。
「ですが、モンド周辺で通常とは異なる風が観測されています」
「なるほど」
おじさんが依頼書を見る。
「これは?」
「街道付近の魔物と周辺の状況確認です」
「受ける」
「おじさん、決めるの早くない?」
「仕事だろ」
「まあ、そうだけど」
結局、その依頼を受けることになった。
最近はこういう生活にも慣れてきた。
朝、ギルドへ行く。
依頼を受ける。
外へ行く。
魔物を倒す。
報酬を受け取る。
最初は日本へ帰る方法を探すための仮の生活だった。
でも今では、これが俺たちの日常になりつつある。
だからこそ。
街に広がっている不安が、妙に気になった。
*
ギルドを出ると、アンバーがこちらへ歩いてきた。
「あ、おじさん! たかふみ!」
「アンバー」
「今日は依頼?」
「ああ」
俺が依頼書を見せる。
「街道の確認なんだ」
「そっか。最近、外がちょっと危ないから気をつけてね」
「アンバーも調査してるの?」
「うん。騎士団でも周辺の警戒を強めてるんだ」
アンバーの表情はいつもより真剣だった。
「何か分かってる?」
「まだはっきりとは」
アンバーは首を振る。
「風が変なんだって。騎士団でも調べてるけど、原因はまだ分からないみたい」
「そうなんだ」
「もし何か変なものを見つけたら、すぐ騎士団に知らせてね」
「分かった」
アンバーはおじさんを見る。
「おじさんも、無茶しないでよ?」
「善処する」
「……それ、無茶する人の返事じゃない?」
アンバーが苦笑した。
「たかふみ、ちゃんと見張っててね」
「俺が?」
「だって、おじさん一人だと何するか分からないし」
「それは否定できない……」
おじさんは何も言わない。
アンバーは笑って手を振った。
「じゃあ、またね!」
「また」
その背中を見送る。
「……騎士団も本格的に動いてるんだな」
「そうだな」
おじさんは歩き出した。
「俺たちも行くぞ」
「はいはい」
*
街道へ向かう途中、俺は何度も空を見上げた。
雲は普通。
風も、街の中ではそこまで強くない。
だけど。
森に入った瞬間、空気が変わった。
「……風、強くない?」
「ああ」
木々が揺れている。
葉が一斉に同じ方向へ流れていく。
「昨日もこんな感じだったのかな」
「分からん」
おじさんは周囲を見る。
俺もゲーム知識を頼りに周辺を確認する。
この辺りなら、ヒルチャール。
スライム。
トリックフラワー。
そういう魔物が出るはずだ。
でも。
「……少ないな」
「何が?」
「魔物」
いつもなら何体か見かけてもおかしくない。
なのに今日は妙に静かだ。
「逃げてるのか?」
「分からない」
少し進む。
すると、森の中に倒れた木を見つけた。
「これ……」
近づく。
幹が途中から大きく折れている。
「風だけで折れたのかな」
おじさんが木を見る。
「普通じゃない」
「やっぱり?」
「ああ」
俺は周囲を確認する。
地面にも何かが擦れたような跡がある。
「何か通った?」
「そう見えるな」
「大きい?」
「ああ」
俺は嫌な予感を覚えた。
でも、それ以上は分からない。
だから依頼通り、周辺の状況を確認する。
しばらくして、魔物の集団を発見した。
「ヒルチャール」
俺が小声で言う。
数は五。
盾持ちが一体。
弓が二体。
残りは近接型。
「どうする?」
「倒す」
「だよな」
おじさんが前へ出る。
俺は少し後ろから敵の位置を見る。
「右に二体。左に三体」
「分かった」
「弓がいるから気をつけて」
次の瞬間。
おじさんの手元に光が集まった。
光の剣。
そして。
「ワーグレント・マグナ――疾風操作」
風が走った。
ヒルチャールたちの足元が崩れる。
「今!」
おじさんが一気に距離を詰める。
光の剣が閃く。
盾を持ったヒルチャールが吹き飛び、残った敵が混乱する。
「左!」
「分かってる」
おじさんは振り向きざまに一体を倒す。
残りも数秒。
気づけば戦闘は終わっていた。
「……早」
「何か言ったか?」
「いや」
俺はため息をつく。
「相変わらず強いな」
「普通だ」
「それを普通って言うのやめてくれない?」
おじさんは倒したヒルチャールを確認する。
「依頼の範囲内だ」
「そうだけどさ」
俺は周囲を見る。
やはり、魔物たちは落ち着きがない。
何かを恐れているようにも見える。
「……やっぱり何かある」
「そうだな」
*
依頼を終えてモンドへ戻る途中。
街道で、別の冒険者たちとすれ違った。
「西側はどうだった?」
「ダメだ。風が強すぎる」
「騎士団も調査してるらしいぞ」
「本当に風魔龍なのか?」
その言葉に、俺は足を止めた。
「……」
まただ。
風魔龍。
噂がどんどん広がっている。
そして、噂だけではなく、実際に異変も起きている。
モンドへ戻ると、その空気はさらに強くなっていた。
*
西風騎士団でも、調査が進んでいた。
「街道西側で異常な風と、魔物の移動を確認しました」
騎士の報告を聞きながら、ジンは頷く。
「被害は?」
「今のところ大きなものはありません」
「引き続き警戒を」
「はい」
そこへガイアが入ってくる。
「ずいぶん忙しそうだな」
「ガイア」
「西側の調査結果だ」
ガイアが報告書を置く。
「似たような痕跡が複数ある」
「風の痕跡ですか?」
「ああ」
ジンは報告書を見る。
「原因は?」
「まだ分からない」
「……そうですか」
ガイアは窓の外を見る。
「だが、少なくとも普通の風じゃない」
*
別の場所では、リサも調査を続けていた。
「これは……」
地面に残った魔力の痕跡を確認する。
「妙ね」
元素反応だけでは説明しきれない。
風そのものに何か別の力が加わっている。
「まだ断定するには早いわね」
リサは立ち上がった。
「もう少し調べてみましょう」
*
ディルックもまた、街の外にいた。
倒れた木を確認し、周囲を見渡す。
「……」
炎元素を使うまでもない。
ただの暴風なら、ここまで不自然な痕跡は残らない。
「何かがいる」
ディルックは空を見上げた。
*
俺たちは夕方、ギルドへ戻った。
「おかえりなさいませ」
キャサリンさんに依頼の報告をする。
「周辺の魔物については問題ありませんでした。ただ……」
俺は風の異常について話した。
「倒木や、地面に大きな傷がありました」
「分かりました」
キャサリンさんは記録する。
「騎士団にも報告しておきます」
「お願いします」
報告を終える。
外へ出ると、空が赤く染まっていた。
「今日は疲れたな」
「そうか?」
「俺は疲れたよ」
「飯を食えば治る」
「それ、おじさん基準だろ」
「重要なことだ」
「はいはい」
俺は笑った。
こういうやり取りも、最近は普通になっている。
日本へ帰れない。
異世界にいる。
それなのに、こうして一日の終わりに腹が減って、飯の話をしている。
不思議なものだった。
*
その夜。
宿の部屋で、俺は窓の外を見ていた。
モンドの街には明かりが灯っている。
いつもなら穏やかな夜だ。
でも今日は違う。
街のあちこちで、人々が空を見上げている。
「たかふみ」
「ん?」
「どうする」
「何が?」
「風魔龍」
俺は黙った。
「調べる」
「危険だぞ」
「分かってる」
それでも。
ここまで異変が大きくなった以上、無視するわけにはいかない。
「もしかしたら、日本に帰る方法につながるかもしれない」
「そうかもしれんな」
「もちろん、何も関係ない可能性もあるけど」
「なら調べればいい」
おじさんらしい答えだった。
「……そうだな」
俺は頷く。
「調べよう」
*
その時だった。
ゴォォォォッ――!
突然、強烈な風が吹いた。
「うわっ!」
窓が大きく揺れる。
街から悲鳴が上がった。
俺は反射的に窓へ駆け寄る。
「何だ……?」
空。
雲の向こうに、何かがいる。
巨大な影。
長い翼。
そして。
月明かりに照らされた青い身体。
「……」
声が出なかった。
ゲームで見た。
何度も見た。
けれど。
実際に見るのは、まったく違う。
「おじさん……」
「ああ」
「いる」
「そうだな」
巨大な存在が、モンドの上空を通り過ぎる。
その姿を見た瞬間、街中から叫び声が上がった。
「風魔龍だ!」
誰かが叫ぶ。
騎士たちが動き出す。
街の人々が建物へ逃げ込む。
俺は空を見上げたまま動けなかった。
「……本当に、いる」
ゲームのイベントじゃない。
画面の向こうでもない。
今、俺たちのいる世界の空を飛んでいる。
「たかふみ」
「分かってる」
俺は拳を握る。
「行こう」
「どこへ?」
「情報を集める」
戦うとは言わない。
まだ何が起きているのか分からない。
ただ。
この事件を放っておくことはできない。
「モンドで何が起きてるのか、ちゃんと知りたい」
おじさんは頷いた。
「ああ」
窓の外。
巨大な龍が夜空を飛び去っていく。
その姿が見えなくなっても、風だけは残っていた。
モンドの平穏は、もう以前と同じではない。
そして俺たちも。
この世界で生きていく以上、この事件から完全に離れていることはできなくなっていた。
風魔龍。
その背後に何があるのか。
まだ俺には分からない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
――モンドの物語が、大きく動き始めた。