モンドの朝は、いつもと変わらないように見えた。
風車が回り、街路には人が行き交う。
商人たちは店を開き、冒険者たちは今日の依頼について話し合っている。
風神の都。
自由の国。
少なくとも、昨日までの俺にとっては、そんな印象の街だった。
――だが。
「……なんか、風強くない?」
街を歩いていた俺が、空を見上げた。
隣を歩いていたおじさんも足を止める。
「そうか?」
「昨日からずっとだよ」
「風の街なんだから、これくらい普通なんじゃないのか?」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
俺は空を見た。
雲の動きがおかしい。
風が一定ではない。
強く吹いたかと思えば、一瞬だけ風が止まり、次の瞬間には建物の間を突き抜けるような突風が吹く。
「……嫌な感じがする」
俺が呟いた。
その直後だった。
空の彼方から、低い音が響いた。
「……何?」
俺が顔を上げる。
ゴォォォォ……。
風の音。
だが、それだけではない。
まるで巨大な何かが、雲の向こうで唸っているような音だった。
「おじさん」
「分かっている」
おじさんも空を見ている。
街の人々も異変に気づき始めていた。
「なんだ?」
「空が……」
「雲が集まってるぞ」
上空の雲が、急速に渦を巻き始める。
そして。
巨大な影が、その向こうから現れた。
「…………」
誰も言葉を発しなかった。
最初に見えたのは翼だった。
あまりにも巨大な翼。
続いて長い身体が現れ、青白い鱗が太陽の光を反射する。
巨大な龍。
風をまとった、その姿。
俺の顔から血の気が引いた。
「……トワリン」
「たかふみ?」
「……風魔龍」
知っている。
ゲームで何度も見た。
モンド編の重要な存在。
そして、この後に起こる事件も知っている。
――はずだった。
「でか……」
実物を目の前にすると、そんな言葉しか出てこなかった。
画面の中で見るのとは、まるで違う。
大きさも。
存在感も。
何より――怖さが。
トワリンが翼を広げる。
「――――ッ!」
咆哮。
次の瞬間。
街を暴風が襲った。
「うわあああああっ!」
「きゃあああ!」
「逃げろ!」
人々が一斉に走り出す。
店の看板が吹き飛び、屋台が倒れる。
窓ガラスが震え、風に巻き上げられた木箱が宙を飛んだ。
「たかふみ!」
「うわっ!」
おじさんが俺の腕を掴んだ。
二人は建物の壁際まで移動する。
直後、巨大な風圧が街を駆け抜けた。
「な、なんだよこれ……!」
俺が目を細める。
風が強すぎて、立っていることすら難しい。
そのとき。
「全員、落ち着いてください!」
凛とした声が響いた。
ジンさんだった。
「騎士団は住民の避難を最優先! 負傷者の確認も同時に行ってください!」
「はい!」
騎士たちが走り出す。
「アンバー!」
「はい!」
「東側の住民をお願いします!」
「任せて!」
アンバーはすぐさま駆け出した。
「皆さん、こっちです!」
逃げ惑う人々に声をかける。
「大丈夫! 騎士団が避難を誘導します!」
「でも、あれは何なの!?」
「今は説明してる暇がないよ! まず安全な場所へ!」
アンバーは小さな子供の手を取った。
「ほら、こっち!」
「う、うん……!」
一方。
ガイアさんは街の中央から空を見上げていた。
「さて……」
いつもの軽い笑みは浮かべている。
しかし、目は鋭い。
「どういうつもりなのかね、あの風魔龍は」
トワリンはただ旋回しているわけではない。
何度か街の上空を通過しながら、特定の場所へ風を叩きつけている。
「……妙だな」
ガイアさんは小さく呟いた。
その隣でリサさんが杖を構える。
「まあ、大きなお客様だこと」
「余裕だな、リサ」
「余裕があるように見せているだけよ」
リサさんが魔法を放つ。
飛んできた瓦礫が空中で弾かれ、地面へ落ちる。
「街の被害を減らさないとね」
「助かるよ」
ガイアさんは再び空を見る。
「どうやら、まだ終わりじゃないらしい」
その言葉通り。
トワリンが再び翼を広げた。
風が集まる。
「まずいな」
ガイアさんが呟く。
「ジン!」
「分かっています!」
ジンさんが騎士たちへ叫ぶ。
「防御を!」
その直後。
巨大な風が街へ叩きつけられた。
建物の一部が崩れる。
「きゃあっ!」
「助けて!」
悲鳴が上がった。
俺が振り向く。
「おじさん!」
「分かっている」
二人は崩れた建物へ向かった。
「誰かいますか!」
俺が声を張る。
「ここ! ここです!」
瓦礫の向こうから声が返ってきた。
「おじさん、いる!」
「どこだ?」
「この下!」
瓦礫は複雑に積み重なっていた。
無理に動かせば、さらに崩れる可能性がある。
俺は周囲を見る。
「上の梁を先に動かせる?」
「やってみよう」
おじさんが手を伸ばす。
風が集まった。
「ワーグレント・マグナ――疾風操作」
風が瓦礫の隙間へ入り込む。
重い梁が、ゆっくりと浮き上がった。
「今!」
俺が中へ入る。
「大丈夫です! もう少しです!」
女性を一人。
続いて子供を一人。
俺が外へ運び出す。
「ありがとうございます!」
「まだ危険です! あっちへ避難してください!」
俺は避難場所を指差した。
そのとき。
「たかふみ!」
「何?」
「向こうにも人がいる」
おじさんが別の建物を指差した。
「……行こう!」
二人は走り出した。
街のいたるところで救助活動が始まっていた。
騎士たちは負傷者を運び、アンバーは避難誘導を続ける。
リサさんは魔法で崩壊しかけた建物を支え、ガイアさんはトワリンの動きを見ながら次の攻撃を予測していた。
そして。
「蛍!」
「分かってる!」
別の場所では、蛍とパイモンも住民を助けていた。
「パイモン、こっち!」
「分かったぞ!」
二人も瓦礫を避けながら、人々を安全な場所へ誘導していく。
街の中を、風が荒れ狂う。
その中心にいるのは、一匹の巨大な龍。
「……トワリン」
俺は再び空を見上げた。
知っている。
あれはゲームのキャラクターだった。
モンド編で戦うことになる存在。
でも、今は違う。
あれは本物だ。
空を飛び、咆哮し、風を巻き起こしている。
街の人間を傷つけている。
「……本当にいるんだ」
「たかふみ!」
「え?」
「上だ!」
おじさんの声。
俺が見上げる。
トワリンがこちらへ向かってきていた。
「うそだろ……」
巨大な影が街を覆う。
翼が動く。
風が膨れ上がる。
「伏せろ!」
おじさんが俺を引っ張った。
次の瞬間。
轟音とともに風が通り過ぎる。
「くっ……!」
俺は地面に手をついた。
風が収まる。
「……おじさん?」
「無事か?」
「うん」
おじさんは空を見上げていた。
その顔から、いつもの無表情に近いものが消えている。
何かを考えている。
「どうしたの?」
「……あれは」
トワリンが空を旋回する。
巨大な身体。
荒々しい風。
敵意。
それだけなら、ただの襲撃者に見える。
だが。
「……苦しんでいる」
「え?」
俺が聞き返す。
「何言ってるの?」
「あの龍だ」
おじさんは静かに言った。
「怒っているだけではない」
「……」
「苦しんでいる」
俺は黙った。
もう一度、トワリンを見る。
確かに。
どこかおかしい。
暴れている。
苦しそうに咆哮している。
まるで、自分でも止められない何かに突き動かされているような。
「……ゲームじゃ、そこまで考えなかった」
「ゲーム?」
「……いや」
俺は首を振る。
「でも……」
ゲームの中なら。
敵を倒せばいい。
イベントを進めればいい。
目的地へ行けばいい。
でも、ここは違う。
あの龍にも意思がある。
苦しんでいるなら。
「……助けられるのかな」
俺が呟いた。
「調べてみなければ分からない」
おじさんが答える。
「なら、調べよう」
「……うん」
そのとき。
『――――――ッ!!』
再びトワリンが咆哮した。
空気が震える。
街の人々が怯える。
ジンさんが顔を上げた。
「また来ます!」
「全員、住民から離れないで!」
騎士たちが動く。
アンバーも弓を構える。
「ジンさん!」
「分かっています!」
だが。
トワリンは街へ向かって急降下したかと思うと、途中で大きく旋回した。
そのまま上空へ戻っていく。
「……?」
俺が目を細める。
「攻撃しない?」
ガイアさんも同じことを考えていた。
「妙だな」
トワリンはモンドを襲いながらも、完全に街を破壊しようとしているようには見えない。
何かを探しているようにも見える。
「ガイアさん」
ジンさんが声をかける。
「何か気づきましたか?」
「まだ推測だがね」
ガイアさんは空を見上げる。
「あの龍には、何か別の目的があるのかもしれない」
「……私もそう思います」
ジンさんが答える。
「まずは住民の安全を確保します。その後、原因を調査しましょう」
「了解」
トワリンがさらに高度を上げる。
そして。
モンドの街から離れていった。
「……行っちゃった」
アンバーが呟く。
風が徐々に弱くなる。
街に静けさが戻ってくる。
だが。
そこに残されたものは大きかった。
倒壊した建物。
壊れた店。
負傷した住民。
そして、恐怖に震える人々。
「負傷者の確認を!」
ジンさんが指示を出す。
「建物の被害状況も調べてください!」
「はい!」
騎士たちが動き始める。
アンバーも住民の様子を確認して回る。
「大丈夫ですか?」
「はい……ありがとうございます」
「よかった」
アンバーは笑顔を見せた。
だが、空を見上げると、その表情は少し曇った。
「……あの龍、また来るのかな」
「その可能性はあるでしょうね」
ジンさんが答える。
「だからこそ、原因を調べる必要があります」
その少し離れた場所。
俺は、壊れた建物を見ていた。
「……すごい被害だな」
「そうだな」
おじさんも答える。
「ゲームで見たときは、こんな感じじゃなかった」
「そうなのか?」
「いや……」
俺は言葉を止める。
「ゲームだと、もっと簡単だったんだ」
敵が出て。
戦って。
倒して。
次へ進む。
それだけだった。
でも。
実際には違う。
人がいる。
生活がある。
街がある。
壊れた建物の中には、そこに住んでいた人の生活があった。
「……俺たちが知っている物語とは違う」
俺が呟く。
「なら、今まで以上に慎重にならないとな」
おじさんが言った。
「うん」
そこへ。
「おじさん! たかふみ!」
アンバーが駆けてきた。
「二人とも大丈夫?」
「俺たちは平気だ」
「たかふみは?」
「大丈夫」
「よかった!」
アンバーは胸を撫で下ろした。
「二人とも、さっき住民を助けてくれたんだよね?」
「できることをしただけだ」
「それでも助かった人がいるんだから、十分だよ!」
アンバーは笑った。
俺は少し照れくさそうに目を逸らす。
「……どうも」
「ふふっ」
そのとき。
「アンバー」
ジンさんが呼んだ。
「はい!」
「救助状況を報告してください」
「はい。大きな負傷者は今のところ――」
アンバーが報告を始める。
その光景を、ガイアさんが少し離れた場所から見ていた。
そして。
「さて……」
ガイアさんが俺へ近づいてくる。
「たかふみ」
「はい?」
「君、風魔龍について妙に詳しいね」
「……!」
俺の肩が固まる。
「そうですか?」
「そうだな」
ガイアさんは笑っている。
「名前を聞いたとき、ずいぶん驚いていた」
「それは……」
俺は言葉を探す。
しかし。
「異世界人だから、とでも言うのかな?」
「……」
「まあ、いいさ」
ガイアさんはそれ以上追及しなかった。
「それより、今回の事件について気になることがある」
「何ですか?」
「アビス教団だ」
俺の表情が変わった。
「……!」
「何か知ってる?」
「いや……」
ガイアさんの目が細くなる。
「そうかい」
軽い声。
だが、視線は鋭い。
「今回の風魔龍の襲撃。その裏にアビス教団が関わっている可能性がある」
俺は黙った。
知っている。
この名前も。
そして。
この事件が、単なる龍の襲撃ではないことも。
「アビス教団……」
おじさんが呟く。
「敵なのか?」
「少なくとも、騎士団にとって友好的な相手ではないな」
ガイアさんが答える。
「詳しいことは、これから調べる」
そのとき。
「ガイア」
ジンさんが声をかける。
「はい?」
「報告を」
「分かっています」
ガイアさんはジンさんへ向き直った。
「風魔龍の動きには不自然な点があります。街を破壊するだけが目的ではないようです」
「やはり……」
「それと」
ガイアさんの表情が変わる。
「アビス教団の関与についても調べる必要があります」
「分かりました」
ジンさんは頷いた。
「騎士団として調査を開始します」
モンドの街では。
風魔龍による襲撃の後始末が続いていた。
だが。
本当の事件は、まだ始まったばかりだった。
俺は空を見上げた。
トワリンが消えた方向。
「……あいつ、本当に苦しんでいたのかな」
「俺にはそう見えた」
おじさんが答える。
「だったら……」
俺は拳を握った。
「調べよう」
日本へ帰る方法。
この世界に来た理由。
そして。
風魔龍が苦しんでいる理由。
全部が別々の問題に見えて。
もしかしたら、どこかで繋がっているのかもしれない。
「まずはアビス教団だな」
「そうだね」
俺が頷く。
モンドの風は、再び穏やかに吹き始めていた。
だが。
その風の向こうでは。
次の事件が、すでに動き始めていた。