pixivでかなり前に公開していましたが、シリーズの更新が遅れていますのでこちらでも投稿します。
私はある男を密かにじっと想いを寄せていた。真面目で誠実で時々冗談かわからないような冗談を嘯いて後々笑いが込み上げてくる。そんな彼の人間性から惚れていた。T大法学部を受験し、法科大学院導入前の旧司法試験などの様々な難関試験をストレートで通過したから注目していたわけではない。
私は過去、彼に救われた。OLとして働き詰めになっていた頃、当時は入社して2年目だったか。朝のオフィスはいつも同じ温度だった。冷えすぎた空調と白すぎる蛍光灯。それらが、ここで流れる時間から「人間らしさ」を削ぎ落としていく。2年目ともなればその空気に慣れているはずだったが、無理に合わせていたのは身体だけで心は何処かに置き去りのままで…要するにギャップにやられていた。
不規則にカタカタとキーボードの音が連なる。電話の呼び出し音に、コピー機の駆動音。無機質に繰り返されている。
『まだ終わってないの?』
何度目だろうか、この温度を持たない肩まで貫いてくるような声の雫は。振り返るよりも先に全身が強張ってしまう。やらかしてしまったという感情が先導して、息を吸おうとするのも忘れて軽く踠いてしまう。
『すみません、もう少しで———』
『“もう少し”って、何回目?』
言い終わる前に、遮るようにため息が重ねられる。別に鋭くもない言葉の刃物がじわじわと皮膚の内側に染み込んで食い破っていく。確かにそうだな、“もう少し”って何回までなら使っていいんだろうか。痺れを切らすのもそりゃそうだよなと余計なことばかりで思考が脳内を埋め尽くしてフリーズする。
謝る。とにかく謝るんだ。私はそれ以外の選択肢を持ち合わせてなどいない。端の揃えられていない束ねられた資料も、パソコンの液晶に映る文字の羅列も上手く読めないくらい霞んでいて、焦燥に追われるほど指の自由が効かない。時間は私を突き放していって、周囲の視線は逆に凍てつくような冷たさを内包している。
『それでさ〜!あははッ!』
昼休み。誰かの笑い声が遠くで弾けている。だけれどその輪の中に、自分が入ることは決してない。コンビニで買ったパンをデスクでかじる。味はほとんどしない。ただ、何かを口に入れているという事実だけが残る。食欲がどうのとかではなくて、生きる為に今を凌ぐ為に無理矢理口に詰め込んで、小さな紙パックの牛乳で胃へと流し込む。午後は、午前と同じことの繰り返し。
『それ、前も言ったよね?』
『なんでこんな簡単なこともできないの?』
言葉は積み重なり、いつの間にか上司の“指摘”ではなく、人間からの“否定”として胸に残る。気づけば定時はとっくに過ぎている。窓の外は暗く、オフィスの光だけがやけに白い。終わらない仕事。終わらせられない自分。そのどちらが悪いのか、もう分からなくなっていた。迷うことすら許されない境地に立たされていたのだろう。
———帰り道。夜の空気は少しだけやわらかい。それでも胸の奥に溜まった重さは全く軽くならない。電車の窓に映る自分の顔。どこか他人のようで、目だけがやけに疲れている。隈は醜くて、大学生活を謳歌していたあの頃を想起しても取り戻せない青春であって、“大人”を貫いて生き抜くのは私には難しかった。
毎日が億劫で、生きる為には稼ぐ為には働かなければならない。社会人の全てが労働であると勝手に決めつけて身を滅ぼしていた。もう限界だったのだろう、駅に着いてホームからノロノロと出ていくと歩道橋への一歩一歩と踏み締めて階段を登る。私の人生は実に空虚で実に惨めだったと言い伝えられるだろう。言い伝えられることもないか、母は父は悲しんでくれるだろうか。思えば頼ることもしなかったけれど、頼ったところで昭和思考なので無駄だった。足りない筋力で足を掛けて歩道橋のアンバランスな部分で息を吐く。傾きが宙へと向いた時に私は無理矢理引き戻された。
『君…!君!…大丈夫か?』
瞬間、なぜだか声にもならない喚きを垂れ流した。幸いにも通行人はその人だけで、私はその人のスーツを沢山濡らしてしまった。特段クセもない香水か、柔軟剤の匂いが鼻をくすぐり、やっと落ち着いて見上げると三白眼が私をじっと視界に捉えている。この人が私を助けてくれたのだ。オールバックの男、黒のスーツにバッジをつけた男だ。この男こそが私が恋焦がれた人、日車寛見だった。
『…何があったか、聞かせてくれないか。もしかすると君の力になってやれるかもしれん』
もう分かりきっていることかもしれないけれど、日車寛見は弁護士だった。落ち着いた口調で私に語りかけて本当に力になってもらった。どうすれば私が過ごしやすくなるか、どうやって世間と戦うか、裁判だけが全てではないし、他にも君だけの武器があると私のことを第一に思い遣ってくれた。その結果が身を結び、上司は大人しくなった。
元々、私以外にもパワハラ気質だったらしく、私は自分のことで精一杯で気付けていなかったが周りも相当困っていたらしい。今思えば、少し不自然な点もあったが私が上司との会話を録音したり出来事を日記に書き留めたりなど、この程度のことでしか動けなかったというのに上司が大人しくなったのは彼が裏で何かをしてくれたからじゃないのかと思い始めた。それでも、私はその方法を彼に聞かない。聞いたところではぐらかすだろうし、暗黙の了解ってやつだと思った。
『ありがとうございました。日車さん』
『礼はいい、もちろん金もだ。俺はただ道行く通行人として君を見かけ、仕事としてではなく私情で君を手助けしたいという想いに従っただけだ』
『それでも…お茶くらいはご馳走させてくれませんか?』
『………ふむ…君は結構強情なんだな』
頑なに退けようとしない私に根負けしたのは日車さんだった。日を改めて喫茶店に行くと真っ黒なコーヒーを優雅に口へ運ぶ彼の姿に感心していた。私はコーヒーがあまり好きではなかったからだ。意地を張ってコーヒーを選んだ私は愚か者だったかもしれない。それを察してか、セットになっていたミルクを差し出してくる。彼はやっぱりできる男なんだと思う。
『………俺だけスーツで申し訳ない。少々手の込んだ仕事が入っていてな』
『いいんです。こちらこそそんな時に呼びつけて、私服で来ちゃってごめんなさい』
『…いいんだ。それにこういう時は来てくれてありがとうというものじゃないか。嫌な上司を演じているわけでもないのだから』
その言葉に思わず吹き出してしまった。上司のことを彷彿とさせるような発言を申し訳ないと彼は訂正していたが、私はその時に今度こそ「ありがとう」と伝えた。初めて敬語を崩して彼と接した時に日車寛見という男が心底興味の湧く対象になってしまった。
また、休みの日が重なった時は喫茶店はおろか他の料理店でランチやディナー、彼は興味があるのかわからないが映画を嗜むようになった。その時に気づいてしまったことは、これがデートだということだ。私は日車寛見とデートをしているのだと。恋愛的なデートを!
『聞いてもいいだろうか』
『はい…?』
『君は俺のことが…気になっていたりするのか?』
『き、気になる…って…』
『もちろん、恋愛的な意味でだ』
『………はい』
今のは肯定だと伝わってしまったのだろうか。私は確かに日車さんに好意を寄せていたが、感情を抑え込むのを失敗した私をタコ殴りにしてやりたいとこの時ほど思ったことはない。沈黙が続いていたが、夜景がぼんやりと浮かぶ海辺で彼は息を吸い込んだ。
『どうやら俺も君が気になっているらしい』
『えっ』
『恋人になってくれないだろうか、俺の』
『っ………はい。なってください』
どちらもムードが真面目すぎるというか、場も相まって完全にプロポーズの雰囲気だったがお付き合いが成立した。私はそれから仕事に明け暮れつつも同僚と楽しくランチを楽しみ、寛見さんとのデートや日々の連絡を満喫しいた。彼の連絡は仕事の都合もあり、少し時間が空くこともあるが私は気にしていない。彼を信頼しているし、かわいいところもある。お昼休憩の時は決まってマメに返信してくるから。
2018年10月31日を境に東京は壊滅した。都内全域を避難命令区域に設定され、その後には立ち入り禁止区域となった。寛見さんもいよいよ裁判が大詰めでピリピリとした緊張感で疲労が溜まりつつも躍起になって働いていた。岩手県盛岡市で発生した強盗殺人事件の容疑者に掛けられたのが大江圭太だった。結構前からその弁護を担当することになっていた。
警官の職務質問中での逃亡や自宅で犯行に使われた刃物が見つかりほぼクロの状況だというのに寛見さんは彼を信用していた。根拠のある信用だと私にはなんとなくわかっていた。彼の無罪を信じ、見事に一審では無罪を勝ち取っていた。世論は寛見さんに酷くバッシングを浴びせていた。
「寛見さん。大丈夫?その…」
「気にしなくていい。俺は俺の信念の基で彼を無罪だと信じている」
「変なところで刺されたりしないでね…?」
「その前に決着はつけるさ」
覚悟の決まり切った男の目をしていた。あまり表情の豊かでない彼ではあるが、今度ばかりは自身の命を決して燃やすことなく大江を無罪にしてやることが自身の使命なのだと真剣に遠くを見据えていた。私は彼の行く末を案じていたが、先の東京壊滅の件といい何故か悪寒が全身を走って仕方がなかった。彼は「天才」だし、何よりも弁護人として一生懸命で、正義感の強い男だと間近で寄り添ってきたからわかる。それでも悪寒は一晩越すごとに増していった。
「嘘……」
控訴審(二審)・有罪無期懲役。傾聴人として参加していた私は思わず声を漏らしてしまった。彼はよく法の女神の像が公平さのために目を閉じていることに対し、「私だけは目を開けていたい」と語る。弱者を守ろうとする精神の持ち主だったのだ。そんな彼はたじろいでいた。私には頭で理解するのはかなり精一杯だが、検察側はいい加減な態度だった気がする。全てが覆った。“行方不明者の犯行と疑う理由はない”それだけ、たった一つの検察側の発言だけで。寛見さんは二審が重要だとよく話してくれていた。三審(最高裁)はかなり手厳しいと。
大江は彼を信じられないものでも見るかのように血走った眼球でその視線で彼を貫いた。なぜそんな目で彼を見るのか、気持ちはわかるが彼は健闘していた。縋った手を手繰り寄せて寄り添っていただけだというのに。寛見さんは放心したように一点を見つめていたかと思えば、法廷に響くほどの深呼吸をして、ヤケになって小槌・ガベルを勢いよく叩いた。その甲高い音は鶴の一声が如く、全員の歩みを止めた。
「日車さん…?」
「全員戻れ!!やり直しだ」
私も彼の部下である清水さんも、立ち上がった寛見さんの変わりように驚愕した。その束の間、弁護士としてではなく裁きを与える者としてそのガベルで裁判を、全てを「やり直し」。裁判官、検察官を何度も何度も何度も何度もガベルで殴打して撲殺した。信じられなくて、悲鳴が沸き立つ中で私は膝から崩れ落ちた。そのまま生気を失ったかのように、嘗ての私を投影してしまうような彼の憔悴した姿を、裁判所から出ていく彼を追いかけた。背中を。
「寛見さん!!」
「ああ……そうだ。伝え忘れていた…君ともこれで終わりだ。元の関係にすらやり直せそうにないけどな」
「ちょっと待って…!勝手に話を進めないで!!今なら間に合うからッ…」
「なあ……気に入らない奴をブチ殺すのは思っていたより、気持ちがいいぞ」
その日から彼は法廷に立たされる側であることには変わらずとも、行方を眩ます。私は今でもこの失恋を引きずっている。いつかまた彼と鉢合わせるのなら「やり直し」たい。日車寛見は今どこで何をしているのだろうか。確かなことは、私は彼の瞳に映るに値しなかった。それでも想い続けるのは本当にこの結末が日車寛見の思い浮かべる「真実」だったのかということ。誰か、お願いだから……彼の根本に凝り固まってしまった原因を溶かして欲しい。