淡海乃海 双流の近江   作:はくいろ

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プロローグです。
歴史苦手なので、いろいろ史実調べたり淡海乃海の原作読み返して書いていくので牛歩になりがちです。

私だったら、もし戦国時代に転生したら頭おかしくなっちゃう☆ミ
無理やろ!!生きていけねぇよ!!

本文どうぞ。


序章 六角家に生まれし者
プロローグ


 最初に感じたのは寒さだった。

 

 身体の芯に染み込んでくるような寒さに、思わず布団を引き寄せようとした。だが腕が思うように動かない。いや、動いてはいる。ただ、自分が動かそうとした距離には到底届かなかった。脚も同じだ。力を入れているつもりなのに、手足が勝手に動いてしまう。身体が重いわけではない。むしろ妙に軽いのだが、長年使い慣れた身体とは何もかもが違っていた。

 

 目を開けると、ぼんやりとした視界の向こうに薄暗い天井が見えた。知らない天井だった。そんな使い古された台詞が頭に浮かんだが、笑っていられる状況ではない。ここはどこだ。最後に何をしていたのか思い出そうとしても、記憶は途中から曖昧になっていた。前世の記憶はある。自分が何者で、どんな暮らしをしていたのかも分かる。ただ、自分の人生がどのように終わったのか、その部分だけが思い出せなかった。

 

 声を出そうと口を開いた。

 

「あ……う」

 

 耳に届いた声に思考が止まった。高い。それも子供というには幼すぎる声だった。舌が思うように動かず、言葉にならない。もう一度試してみたが、口から漏れたのは似たような声だけだった。

 

「あぅ……」

 

 身体が動かず、言葉も話せない。事故にでも遭ったのだろうか。だが、痛みはなかったし、身体の感覚が失われているわけでもない。どうにも説明のつかない状況に戸惑っていると、近くで衣擦れの音がした。

 

「まあまあ、どうなされました?」

 

 見慣れない着物姿の女が顔を覗き込み、慣れた手付きで俺を抱き上げた。

 

 抱き上げる?

 

 そこで初めて自分の手が目に入った。掌も指も驚くほど小さい。五本の指を動かしてみると、確かに自分の意思に従っている。女の腕に収まった身体の大きさといい、目の前にある小さな手といい、先ほどから感じていた違和感の理由がようやく分かった気がした。

 

 まさか。

 

 女は何かを話していた。言葉は日本語だが、ところどころ聞き慣れない言い回しが混ざっている。その声を聞きながら、俺は別の可能性を探した。夢ならば、どれほどおかしなことが起きても不思議ではない。妙に現実感のある悪夢を見ているだけかもしれない。

 

 だが、女の腕に抱かれている感覚も、肌に触れる布の感触も消えなかった。やがて乳を飲まされ、眠気に抗えなくなって意識を失い、次に目を覚ました時にも同じ天井があった。

 

 それから何度眠っても、目覚める場所は変わらなかった。

 

 *

 

 自分が置かれた状況を理解するまでには、かなりの時間が必要だった。自由に歩けず、喋ることもできない。首さえ満足に動かせないのだから、情報を集めようにも周囲の人間が話す言葉を聞くくらいしか方法がなかった。それでも眠っては目を覚まし、乳を飲まされてまた眠る生活を続けるうちに、少しずつ分かってきたことがある。

 

 どうやら俺は赤ん坊になっているらしい。

 

 三十年以上も大人として生きてきた人間が、突然赤ん坊になったと納得できるはずもない。だが、自分では立てず、歯もなく、食事は乳だけという有様では、いつまでも否定していられなかった。初めの頃こそ何とか起き上がろうとしていたものの、身体が成長するのを待つ以外に方法はなさそうだった。

 

 それより気になったのは、ここがどこなのかということだ。

 

 周囲で話されているのは日本語だった。しかし、前世で暮らしていた日本とは随分と様子が違う。夜になれば家の中まで暗くなり、灯りには火を使っている。耳を澄ませても自動車の音は聞こえず、人々が身に着けているものも見慣れない。初めのうちは時代劇の撮影場所にでも迷い込んだのかと思ったこともあったが、女たちは朝から晩まで当たり前のように働き、誰もこの暮らしを不思議がっていなかった。

 

 現代ではない。

 

 それを認めたところで、事態が分かったわけではなかった。自分が赤ん坊になった理由も分からなければ、今がいつなのかも知らない。頼りになるのは周囲の会話だけだったが、こちらが聞きたいことを都合よく話してくれる者などいるはずもなかった。

 

 そんな生活の中で、ある日、聞き覚えのある名前が耳に入った。

 

「六角」

 

 初めは気にしなかった。六角という名字が珍しいとしても、それだけで何かが分かるわけではない。ただ、前世の知識で思い浮かぶのは戦国時代の六角氏だった。近江国南部を中心に勢力を持った守護大名で、近江源氏佐々木氏の流れを汲む名門だったはずだ。

 

 俺は歴史の専門家ではない。前世では数学教師をしていたし、日本史については同僚の歴史教師の方が遥かに詳しかった。それでも戦国時代は嫌いではなく、書物を読んだり大河ドラマを見たりしていた。歴史を題材にした小説やゲームに触れることもあったから、六角氏の名前にも馴染みがあった。

 

 もっとも、六角という名字だけなら偶然で済む。

 

 ところが、その後の会話で「近江」という地名を聞いた。さらに別の日には「観音寺」という言葉まで出てきた。近江の六角氏、観音寺城。聞き覚えのある名前が重なるにつれ、女たちが話をしている間も、つい耳をそちらへ向けるようになった。

 

 そして、決定的な名前を聞いた。

 

「義賢様」

 

 その時は、思わず身体を動かしてしまった。

 

 六角義賢。後に承禎と号する南近江の戦国大名だ。六角氏の当主であり、俺の知る戦国史にも登場する人物だった。

 

 ここが戦国時代の近江であるという考えが、急に現実味を帯びてきた。

 

 だが、まだ分からないことがある。仮にここが六角家の屋敷だとして、俺は一体誰なのか。女たちからは若様と呼ばれているが、それだけでは六角家の誰に生まれたのか判断できなかった。

 

 前世で数学を教えていた頃、生徒には思い込みで答えを決めるなと繰り返し言っていた。条件が足りなければ、分かるところまでしか答えは出せない。今の俺にできるのも、新しい手掛かりが出てくるまで待つことだけだった。

 

 その機会は、ある日何気なく交わされていた女たちの会話から訪れた。

 

「若様には、亀松丸という御名が──」

 

 亀松丸。

 

 聞いた瞬間には誰のことか分からなかった。だが、六角義賢の子という条件を加えると、記憶の奥に引っ掛かるものがある。

 

 六角義治。

 

 確か義賢の嫡男であり、後に六角家の当主となった人物だ。幼名が亀松丸だったと、何かの本で見た覚えがあった。

 

 あまりのことに、しばらく女たちの声が耳に入らなかった。

 

 俺は六角義治なのか。

 

 目の前で笑っている女が、いつものように若様と呼び掛けてくる。これまでは自分に向けられている言葉というだけで聞いていたが、その呼び名に込められた意味が急に重く感じられた。

 

 六角義賢の嫡男。近江六角氏の跡取り。そして、このまま歴史が進めば織田信長に敗れる側の人間である。

 

 自分が六角義治だと理解した時、最初に浮かんだのは喜びでも驚きでもなかった。

 

 冗談じゃない。

 

 戦国時代というだけでも十分に厄介なのに、よりによって六角義治とは。病気や怪我で命を落とす者も珍しくなく、戦になれば大勢の人間が死ぬ。前世では歴史の本に記された数行の出来事が、今の俺には自分や家族の生死に関わる問題になるのだ。

 

 前世の俺は三十代半ばの数学教師だった。毎朝学校へ通い、授業をして、生徒の提出物を集める。試験が近付けば問題を作り、放課後には採点や翌日の準備に追われる。休みの日には釣りへ行くこともあった。水面を眺めながら魚が掛かるのを待つ時間が好きだったし、弓道や合気道にも随分と時間を使った。どちらも長く続け、合気道では段位も取っている。

 

 だが、弓道を習っていたからといって戦場で弓を扱えるわけではない。合気道の経験があっても、槍や刀を持った武士を相手にできるとは思えなかった。身体の使い方や間合いを知っていることが、多少の助けにはなるかもしれない。その程度に考えておくべきだろう。

 

 何より俺は、人を殺したことがない。

 

 教師として生徒を叱ったこともあれば、喧嘩を止めたこともある。武道の稽古では相手と向き合ってきたが、そこには互いに守るべき決まりがあった。戦場で命を奪い合うこととは、何もかも違うはずだ。今は赤ん坊だから考えずに済むとしても、いずれ武士として生きる以上、その現実から逃れることはできないだろう。

 

 それでも、六角家の嫡男に生まれたことは不運ばかりではなかった。衣食住に困ることはなく、周囲には俺の世話をするために働いてくれる人間がいる。成長すれば武芸も学問も教わる機会があるはずだし、領国を持つ家に生まれたというのは、この時代を生きるうえで大きな利点になる。

 

 ただ、その立場を失った時には何もかもが変わる。

 

 六角家が戦えば俺も無関係ではいられない。家中が争えば、その中心に置かれることもあるだろう。今は皆に守られているが、いずれは自分が家臣や領民を守る側になる。前世では考えたこともなかった責任が、生まれた時から俺には付いているのだ。

 

 俺は記憶に残っている六角氏の歴史を思い返した。

 

 六角家は近江源氏佐々木氏の流れを汲む名門であり、室町幕府とも深い関係を持っていた。後世では織田信長に敗れた大名という印象が強いものの、今はまだ近江に大きな勢力を持っている。京へ進出するだけの力もあり、周辺の諸大名に対して決して弱い立場ではないはずだった。

 

 問題は、その六角家が信長の侵攻を受けるよりも前に、大きく揺らいでしまうことである。

 

 北には浅井がいる。京には三好と足利将軍家がおり、近江の寺社勢力も無視できない。その先には尾張から勢力を広げてくる織田信長がいる。俺の覚えている歴史では、信長が美濃を得て足利義昭を奉じて上洛した際、六角はその進路を阻もうとして敗れた。義賢と義治は観音寺城を捨てて甲賀へ逃れ、その後も抵抗を続けるものの、かつての勢力を取り戻すことはできなかったはずだ。

 

 だが、信長との戦よりも気掛かりなことがあった。

 

 後藤氏を殺害した一件だ。

 

 確か、俺──六角義治は、重臣だった後藤氏を殺している。それをきっかけに家臣たちが反発し、六角家の支配が大きく揺らいだ。後に六角氏式目が定められるのも、その争いと無関係ではなかったはずだ。細かな経緯までは覚えていないが、当主と家臣団の関係がそれほど悪化したという事実は忘れようがなかった。

 

 父の義賢との関係も気になる。史実では父が隠居した後も家中に大きな影響力を持ち続け、当主となった義治との間には複雑な事情があったらしい。親子がどのように役目を分け、互いをどう考えていたのかは詳しく知らない。しかし、家中の者たちがどちらの言葉に従うべきか迷うような状況は、避けたいところだった。

 

 少なくとも後藤を殺すような真似はするまい。

 

 そう思ったが、すぐに考え直した。

 

 そもそも、俺は後藤氏の人間を誰一人知らない。殺害に至るまでに何があったのかも分からず、どのような争いが起こるのかさえ曖昧だ。今の段階でできるのは、後藤という家が重要な存在であることを覚えておくくらいだろう。

 

 父についても同じだった。歴史上の六角義賢と、これから俺が接する父上がどのような人物なのかは別の話である。まだ顔を見分けることさえ満足にできないのだから、前世で読んだわずかな知識だけで決め付けるべきではなかった。

 

 もっとも、そうした事情を知ったところで安心できるわけでもない。

 

 織田信長の近江侵攻を避けるために、今から何をすればよいのか。後藤氏との争いを防ぐには、どのような関係を築くべきなのか。考え始めると気になることは幾らでも出てきたが、赤ん坊の身体では何一つ確かめられなかった。

 

 まして、前世の知識で六角家を一変させられるとも思えない。

 

 鉄砲が重要になることは知っている。だからといって自分で作れるわけではないし、火薬の材料についても名前を知っている程度だ。農業や医療についても、現代の暮らしを知っていることと実際に役立つ技術を持っていることは違う。何か思い付いたとして、それを形にできる職人や農民たちの助けがなければ、どうにもならないだろう。

 

 前世で俺が教えていたのは数学であって、鍛冶でも農業でもなかった。教壇に立っていた経験が役立つ場面はあるかもしれないが、それも相手の話を理解できてこそだ。

 

 まずは、この時代のことを知らなければならない。

 

 六角家にはどのような家臣がいて、それぞれがどんな役目を果たしているのか。近江にはどれほどの田畑があり、年貢はどのように集められているのか。父上が何を大切にし、どのような考えで家を治めているのか。前世で習った歴史よりも、今ここで暮らしている人々から教わることの方が遥かに多いはずだった。

 

 未来の知識についても、そのまま当てにしてよいとは思わなかった。

 

 俺自身が史実の六角義治とは違う行動を取るつもりでいる。その結果、家臣との関係が変われば、六角家を取り巻く事情にも影響が出るだろう。本来起こるはずだった争いが避けられるかもしれないし、逆に知らないところで別の問題が生まれることもある。

 

 数学ならば与えられた条件から答えを求められる。だが、今の俺には知らない条件が多すぎた。覚えている歴史も細部となると心許ない。十年先の出来事を知っているつもりで準備を進めても、その頃には情勢がまるで変わっていることだって考えられた。

 

 だからといって、何もせずに史実どおりの結末を迎えるつもりはなかった。

 

 六角家に残り、家臣たちと良好な関係を築く。父上から学び、近江について知る。成長して自分の意見を述べられるようになった時、何をするべきか判断できるだけの知識を身に付けておく。

 

 少なくとも、自分から六角家を壊すような真似だけは避けたかった。

 

 そんなことを考えている間にも、周囲では女たちが忙しそうに働いていた。俺が泣けば誰かが駆け寄ってくるし、寒そうにしていれば布を掛け直してくれる。まだ名前も知らない人たちだが、彼女たちにとって俺は六角家の若様なのだろう。

 

 この人たちにも家族があり、暮らしがあるはずだ。これから成長するにつれ、顔と名前を覚え、親しくなる者も出てくるだろう。そんな人々が家の争いに巻き込まれることを考えると、史実の六角家の結末は一層気に掛かった。

 

 今は守られるだけの存在でも、いつかはそうではなくなる。

 

 ただし、そのために赤ん坊のうちから無理をするつもりもなかった。突然大人のように喋り始めたり、周囲の者が理解できないことを口にしたりすれば、どのような騒ぎになるか分からない。幸い、今の俺には自由に使える時間がある。言葉を覚え、文字を覚え、武家の子供として求められることを学べばよい。

 

 織田信長が近江へ攻め込んでくるのは明日のことではない。それまでに六角家が抱える問題もあるだろうが、今から身構えても仕方のないことは多い。

 

 俺は目の前で働いている女たちの話に耳を傾けた。

 

 前世では当たり前に使っていた言葉でも、この時代では違う意味で用いられるものがある。聞き慣れない呼び名も多く、誰が誰に仕えているのかを知るだけでも相応の時間が掛かりそうだった。時折こちらへ顔を向けて笑い掛けてくる女たちに、俺も声を返そうとしたが、相変わらず意味のある言葉にはならなかった。

 

「あぅ……」

 

「まあ、亀松丸様。御機嫌でございますね」

 

 女は嬉しそうに笑い、俺の身体を抱き直した。

 

 こちらとしては少々複雑だったが、今はそれでよいのだろう。周囲から不思議に思われることなく育ち、この家で何が起きているのかを自分の目で確かめられるようになればよい。

 

 そうしているうちに、ふと前世で同僚から言われた言葉を思い出した。

 

 普段は穏やかなのに、勝負になると人が変わる。

 

 否定はできなかった。釣りで隣の人間に大きな魚を釣られれば悔しかったし、弓道でも思うように射が決まらなければ納得できるまで稽古を続けた。合気道でも、できなかった技をそのままにしておくのは嫌だった。数学の問題に至っては、授業の準備中に難問へ引っ掛かり、気付けば夜遅くまで考え込んでいたことさえある。

 

 負けず嫌いなのだろう。

 

 そんな俺が、六角義治として生まれた。

 

 史実というものが既に一つの結末を示しているとしても、同じ道を辿らなければならない理由はない。俺の知っている義治と今ここにいる俺は、少なくとも中身が違っているのだから。

 

 天下を取るなどという大それたことは、まだ考えられなかった。今の六角家がどれほどの力を持ち、自分が将来どこまで関われるのかさえ分かっていない。だが、家臣との関係を壊さず、避けられる争いを避けることなら、努力する余地はあるはずだった。

 

 その積み重ねが、いずれ史実とは違う結果につながるかもしれない。

 

 腕の中で寝返りを打とうとしても、まだ身体は思うように動いてくれなかった。俺は諦めて力を抜き、女が聞かせてくれる言葉に耳を傾けた。

 

 まずは一人で歩けるようになるところからだ。

 

 六角義治として何ができるのかを考えるのは、それからでも遅くないだろう。

 

 *

 

 そうして月日は流れた。

 

 昨日までできなかったことが、いつの間にかできるようになっていた。首が据わり、身体を起こせるようになり、やがて自分の足で歩けるようにもなった。周囲の人間が話す言葉も少しずつ聞き分けられるようになり、自分の口から思ったことを伝えられるようになると、ようやく赤ん坊の頃の窮屈さから解放された気がした。

 

 もっとも、言葉を話せるようになったからといって、何でも好きにできるわけではなかった。子供には子供の扱いがあり、屋敷の中を自由に歩き回れば誰かが付き添ってくる。興味を持ったことを尋ねても、まだ早いと笑われることもあった。それでも以前に比べれば、分かることは格段に増えていた。

 

 父上とも顔を合わせるようになった。

 

 前世では歴史上の人物でしかなかった六角義賢が、今では俺の父親である。父上が家臣へ何かを命じる姿を見たり、時には俺へ言葉を掛けてくださることもあった。屋敷に出入りする者たちの態度を見れば、父上がどのような立場にあるのかは嫌でも分かる。それでも幼い俺に接する時の様子は、前世で想像していた戦国大名の姿とは違って見えることがあった。

 

 家臣たちについても同じだった。

 

 最初は名前と役目を覚えるだけで精一杯だったが、顔を合わせる機会が増えると、それぞれに違いがあることも分かってくる。俺が尋ねたことに詳しく答えてくれる者もいれば、まだ難しい話は早いと笑う者もいる。父上の前では言葉を慎む者が、家臣同士では随分と気さくに話しているのを見掛けたこともあった。

 

 六角家について書物から知っていたことは、まだほんの一部だったのだろう。

 

 近江の地名も以前より多く耳にするようになった。観音寺城の周囲だけでなく、坂田や浅井、高島など、父上のもとへ届く報告には様々な土地の名が出てくる。知らない地名を聞けば後で尋ねることもあったし、教えてもらった場所を覚えておこうとした。

 

 前世の記憶と照らし合わせても、今のところ大きな食い違いは見つかっていなかった。ただ、俺が知らないだけということもあるので、以前ほど簡単に史実と一致しているとは考えなくなっていた。

 

 そんなある日、父上のもとへ出入りする家臣たちの話を聞いていた時だった。

 

 高島のことが話題に上り、田中という名に続いて、もう一つ聞き覚えのある名前が出てきた。

 

 朽木。

 

 その名を聞いた途端、俺は思わず話をしている者たちの方へ顔を向けた。

 

 近江の国人で、足利将軍家とも縁が深い家だったはずだ。朽木谷という地名にも聞き覚えがある。前世では戦国時代の書物を読んでいたのだから、その程度の知識が残っていても不思議ではない。

 

 だが、何故だろう。

 

 ほかの地名や武将の名を聞いた時とは、少し違うものが引っ掛かっていた。

 

「朽木……」

 

 誰にも聞かれないよう小さく口にしてみた。

 

 声に出したところで、特別なことを思い出せたわけではなかった。高島の朽木氏。足利将軍家との関わり。そこまでは分かるのだが、もう少し身近なところでその名前を見聞きしたような気がしてならなかった。

 

 歴史書だっただろうか。

 

 それとも、前世で読んだ小説に登場していたのかもしれない。

 

 戦国時代を舞台にした作品なら、史実の人物が登場するのは当然だ。読んだ時には何とも思わなかった名前が、実際にこの時代へ来たことで気になり始めたとしてもおかしくはないだろう。

 

 そう考えれば納得できるはずだった。

 

 ところが、父上のもとで再び高島の話が出た時も、俺は自然と朽木という名を探していた。田中やほかの国人の話を聞いている間も、その名前が出てこないか気になってしまう。

 

 何かを思い出せそうな気がするのだが、そこから先へ進まない。

 

 ある時、家臣の一人に朽木とはどのような家なのか尋ねてみた。相手は少し意外そうな顔をしたものの、高島に所領を持ち、古くから将軍家との関わりがある家だと教えてくれた。朽木谷が山深い土地であることも聞いたが、それ以上の話にはならなかった。

 

 俺は礼を言い、ほかの話題へ移った。

 

 別に朽木氏と何かをしたいわけではない。今すぐその土地を訪ねるつもりもなかったし、父上へ詳しいことを聞くほどの理由もなかった。

 

 それでも、妙に気になる。

 

 その後も家臣たちの会話に耳を傾けていると、以前なら聞き流していた高島の話がいつの間にか頭に残るようになっていた。誰がどの土地を治めているのか、どのような事情で父上のもとへ報告が届くのか。そうした話の中に朽木の名が混ざっていないか、つい確かめてしまうのである。

 

 理由はまだ分からなかった。

 

 ただ、近江の北西にあるその土地のことを、俺はほかのどの国人よりも気に掛けるようになっていた。

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