永禄六年一月中旬。近江国観音寺城。
丹羽長秀との会談を終え、父上の書院へ向かった。
すでに日は西へ傾き、廊下を吹き抜ける風には身を縮めたくなるほどの冷たさがあった。近習に取り次ぎを頼むと父上はすぐに通してくださった。書院には畿内から届いた書状が幾通も広げられており、父上はその一つに目を通しておられたが、俺が座ると手元の紙を脇へ寄せられた。
「丹羽との話は終わったか」
「はい。ただ、明日も続きを話すことになりました。国境の安定だけではなく、今後は互いに協力できる関係を築きたいとのことです」
父上は少し意外そうな顔をされた。信長の書状には両家の協調について触れられていたものの、どこまで本気なのかは分からなかったのだろう。長秀が同盟の可能性まで示してきたことを伝えると、父上はしばらく考えた後、東美濃について織田がどのような考えを持っているのか尋ねられた。
長秀は遠山一族との縁を重んじており、東美濃への関心を失っていないことも明言している。その一方で六角と争うことは得策ではないと考えているらしい。俺がそう報告すると、父上は呆れたように笑われた。
「それで六角とも手を結びたいか。欲張りな男だ」
俺も似たような感想を抱いていた。信長が東美濃への野心を失っていないことは分かっている。それでも外交によって争いを避けようとするのだから、何か別の利益を見込んでいるのだろう。単にこちらの動きを封じたいだけなら、同盟という話まで持ち出す必要はないはずだ。
もっとも、長秀が信長の考えをどこまで明かすつもりなのかは分からない。俺も今日のところは国境での取り決めを優先し、無理に話を進めることはしなかった。
父上は国人の帰属を巡る問題についても確かめられた。俺が争いが起きた時の扱いから話を進めるつもりだと答えると、納得されたようだった。ただし、救援を求められた時まで兵を動かせぬという約束はするなと釘を刺された。
「使者を遣わしている間に味方が討たれたのでは話にならぬ。美濃のことはそなたに任せておるが、無理な約束だけはするな」
「承知しております。国人の帰属まで今すぐ決めるつもりはありません。まずは六角と織田が直接争わぬための取り決めを考えます」
父上は頷かれたが、同盟となれば話は別だと仰せになった。六角と織田が正式に盟約を結ぶのであれば、近江や美濃だけでなく畿内にも関わってくる。その判断まで俺一人で行うわけにはいかないことは、最初から承知していた。
ただ、父上自身も織田との協調には関心を持たれたらしい。こちらに利があるなら話を進めることに異存はないと告げられ、明日の会談についても任せていただくことになった。
書院を辞した後、自室へ戻ると弥太郎が書付を揃えていた。稲葉山からの報告も届いており、進藤山城守の名が記された封が目に留まった。
俺は先に報告を読むことにした。
書状には東美濃の国人たちの動きが記されていた。一色家はなお諸将への働きかけを続けており、関方面でも情勢が落ち着いたとは言い難い。加治田の佐藤忠能についても、六角へ近付く姿勢は見せているものの、まだ明確な返答は得られていなかった。
織田との交渉が始まったからといって、こうした動きを止めるわけにはいかない。
俺は報告を読み終えると、弥太郎に明日の会談で使う書付を揃えるよう命じた。木曽川沿いの警固に関するものと、西美濃で六角が実際に押さえている城や村を記したものだ。帰属の定まらぬ国人まで六角の支配下にあると主張すれば、織田との交渉はまとまらないだろう。しかし、すでに押さえている土地についてまで曖昧にするつもりもなかった。
弥太郎は丹羽との会談がまとまりそうなのか気になるらしく、書付を揃えながらそれとなく尋ねてきた。俺がまだ分からないと答えると、少し残念そうな顔をした。
「織田も六角と戦いたくはないらしい。だが、それだけで東美濃が落ち着くわけではない。向こうも欲しいものがある。こちらも同じだ」
弥太郎は納得したように頷いたが、どこか腑に落ちない様子だった。俺自身、争わずに済むならその方がよいと思っている。しかし、こちらの都合だけで相手が動いてくれるわけではない。まして信長が相手となれば、安易に譲歩を期待するのは危険だろう。
俺は翌日の準備を弥太郎へ任せ、稲葉山から届いたほかの書状へ目を通し始めた。
*
翌朝、長秀を迎えたのは昨日と同じ書院だった。
火鉢の炭はよく熾っていたが、障子の向こうでは冷たい風が吹いている。長秀も寒かったらしく、勧めた茶を口にすると少し表情を緩めた。互いに簡単な挨拶を交わした後、俺が書付を広げると長秀も懐から紙を取り出した。
まず話し合ったのは、双方の兵が直接争わぬための取り決めについてだった。
木曽川沿いの警固については、互いに現在の支配地を侵さぬことを基本とする。ただし、それを東美濃全体へ広げるとなれば事情が違う。東美濃には一色家へ従う者もいれば、織田や六角へ近付く者もいる。正式な帰属が定まっていない土地まで互いの支配地として扱えば、どちらも譲れなくなるだろう。
俺はその点を指摘し、織田と縁があるというだけで、その国人の所領まで織田の支配地と見なすわけにはいかないと伝えた。
長秀も区別が必要なことは認めたものの、信長と長く付き合いのある者が六角へ従った場合、織田としても何も言わずに済ませるわけにはいかないと答えた。もっともな話であり、こちらとしても同じ立場なら黙ってはいられないだろう。
「異を唱えることと、兵を出すことは別でしょう。まずはそこを分けて考えたいのです」
長秀はすぐに答えず、書付へ目を落とした。
俺は西美濃の報告を示し、まず現に双方が守っている城や村については互いに兵を入れないことを提案した。そのうえで帰属の定まらぬ国人を巡って問題が起きた場合には、軍勢を動かす前に使者を通じて事情を確かめる。少なくとも双方の兵が直接ぶつかる事態は避けやすくなるはずだ。
しかし、長秀はその案にすぐ賛成しなかった。
「右衛門督様。国人が急ぎの救援を求めてきた場合はいかがいたしましょう。返答を待つ間に城が落ちるようでは、こちらへ従おうとする者も納得いたしますまい」
俺もその点は気にしていた。
国人の帰属を巡って争わぬための取り決めなのに、その国人が危機に陥った時に兵を動かせぬとなれば意味がない。救援を求めた者を見捨てたと思われれば、今後こちらへ従おうとする者も減るだろう。
ただ、救援という名目さえあれば自由に兵を動かせることにしてしまえば、取り決めを結ぶ意味がなくなる。現地の事情によっては、一方が救援と考えた行動を、もう一方が侵攻と受け取ることもあり得る。
俺はしばらく考え、緊急の場合には使者を出すと同時に兵を動かすことも認めてはどうかと提案した。ただし、救援を理由に相手の支配地へ踏み込まないことを条件とする。帰属が定まらぬ国人への救援については、その都度事情を確かめる必要があるだろう。
長秀はその考えを聞いてもなお慎重だった。どこまでを救援と認めるのか、事前に知らせることさえ難しい場合をどう扱うのかについても確かめてきた。
確かに使者を出す余裕もないほど差し迫った事態はあるだろう。そのような場合まで事前の連絡を義務付ければ、かえって現地の者を困らせることになる。
「急を要する場合には、事後の報告でも構いません。何が起きたのかを知らせずに兵を動かし続けることが問題なのです。救援を名目に相手の城を攻めるようなことまで認めれば、約束そのものが無意味になりますから」
長秀はしばらく考えた後、ようやく頷いた。
もちろん、今回の取り決めだけですべての争いを防げるとは思っていない。現地の指揮官が判断を誤ることもあれば、都合の悪いことを隠す者もいるだろう。それでも両家が互いに問いただす先を決めておけば、小競り合いが大きな戦へ発展する前に手を打てる可能性はある。
俺たちは現地で連絡を受け持つ者についても話し合った。六角側の窓口は稲葉山城の進藤山城守とし、織田側については長秀が信長へ確認することになった。正式な取り決めを交わすのは双方の当主が内容を認めてからになるが、少なくとも持ち帰る案としては形になっただろう。
続いて商人の通行について確認した。
木曽川沿いの渡しや街道で、理由もなく荷を差し押さえたり通行を妨げたりしないこと。怪しい荷を調べる必要がある場合には理由を明らかにし、問題があれば双方の役人を通じて処理すること。近江と美濃の商いが滞れば、得たばかりの西美濃にも影響が出るため、こちらとしても重視しているところだった。
長秀も商いが滞れば領内へ入る銭が減ると述べ、無用な争いで街道を閉ざすことは信長も望んでいないと伝えてきた。この点については大きな異論もなく、細かな扱いを双方が確認する方向でまとまった。
話が一段落したところで、長秀が少し意外な話を始めた。
「実は昨日、こちらへ参る途中で茶屋に立ち寄りましてな。そこの主人から、近江の商いについて幾つか話を聞きました」
道中で耳にした話によれば、以前より人の往来が増え、傷んでいた道も直されて商いがしやすくなったらしい。しかも、その茶屋の主人は以前に俺が現地を見に行った時のことまで覚えていたという。
それには少し驚いた。
確かに以前、街道の傷みについて報告を受け、現地を見に行ったことがある。その時には商人や村の者からも話を聞いたが、どこまで改善できるか分からなかったため、すぐに直すとは約束しなかった。後になって工事を進められたのは、現地の役人が必要な人手や費用を調べてくれたからだ。
その道を利用する者たちが喜んでいると聞けば、悪い気はしない。
長秀は主人が俺を高く評価していたと伝え、領民の暮らしまで気に掛けてくれる誠実な方だと話していたという。そこまで褒められると、さすがに気恥ずかしかった。
「それは少々買い被られていますな。私一人で何かできるわけではありません」
俺がそう答えると、長秀は笑った。だが、すぐに気になる話が続いた。
「それと、六角の直轄地では四公六民を進めるという話も聞きました」
思わず顔を上げた。
年貢の見直しについては確かに進めている。しかし、まだ調べるべきことは多く、すべての土地で今すぐ始められるわけではない。それが茶屋の主人にまで伝わっているとは思わなかった。
長秀は俺の反応を不思議に思ったらしく、何か問題でもあるのかと尋ねてきた。
「方針としては間違っていません。ただ、すべての土地で今すぐ始められるわけではないのです。村によってこれまでの取り決めも違いますから」
実際、同じ直轄地でも村ごとに事情は異なる。田畑の出来不出来だけでなく、年貢以外に求められている負担も調べなければならない。四公六民にしたところで、別の名目で銭や米を取られるようでは百姓の暮らしは変わらない。
それに家臣や寺社の所領まで一度に改めることはできない。そうした土地には古くからの権利があり、無理に手を入れれば余計な争いを招くことになる。
期待だけが先に広まれば、実際の見直しが始まった時に不満が出るかもしれなかった。
長秀によれば、茶屋の主人もすべてが決まったわけではないと理解していたらしい。ただ、百姓たちの間では随分と期待が高まっているようだという。
その話には有り難さと同時に、少々気の重いものを感じた。
政を進めるにしても俺一人で何もかも決められるわけではない。調べる役人も必要なら、実際に村々の事情を確かめる者も必要になる。帳面に記された数字だけでは分からぬこともあり、どこまで改められるかはまだ判断のつかないところもあった。
長秀は領民から期待されるのであれば政を進める甲斐もあるだろうと笑ったが、俺としては期待に応えられるかどうかの方が気になっていた。
それでも道を利用する者たちが喜んでいたと聞いたことは、素直に嬉しかった。
俺は長秀へ礼を述べ、商人たちが今後も安心して往来できるよう、両家で話を進めたいと伝えた。長秀も異存はないらしく、改めて取り決めの内容を確かめてくれた。
もっとも、他国の使者から自分の領内の評判を聞かされるとは思っていなかった。どのような話が広まっているのか、後で弥太郎に確かめさせた方がよさそうだ。
*
取り決めについて一通り話を終えると、長秀は書付を畳んだ。
今回まとめた内容は信長へ持ち帰り、改めて判断を仰ぐという。こちらも父上へ報告する必要があり、正式な約束を交わすのは双方の返答を確かめてからになる。
これで今回の交渉は一区切りだろう。
そう思ったところで、長秀が少し言葉を選ぶようにして口を開いた。
「右衛門督様。もう一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
俺が先を促すと、長秀は六角が今後、美濃の先へも目を向けるつもりなのか尋ねてきた。
東美濃については昨日から話している。しかし、今の問いはそれより先のことを知りたがっているように聞こえた。
「美濃の先となれば、信濃でしょうか」
「そうした土地も含めて、ということでございます」
長秀は慎重に答えた。
信長が何を考えているのか、少し見えてきた気がした。
織田は松平と盟約を結んでいる。元康が今川から離れた以上、今後は三河を巡る争いが続くことになるだろう。元康が領内を固めた先で遠江へ目を向ければ、今川との衝突は避けられない。
しかも今川の背後には武田と北条がいる。
信長が東国へ勢力を広げたいのであれば、武田の存在は無視できないはずだ。美濃から信濃へ通じる道を押さえる六角と争っていては、そちらへ十分な力を向けられなくなる。
とはいえ、長秀が信長の考えをすべて明かしているとは限らない。単にこちらの将来の動きを確かめたいだけかもしれなかった。
俺は長秀へ、織田が松平との関係を重んじていることについて触れ、今川との争いが長引けば武田や北条の動きも無視できなくなるだろうと伝えた。
長秀は少し表情を改めたものの、今のところは松平が三河を固めることが先決だと答えた。それ以上のことについては言葉を濁しており、やはり詳しいところまでは明かすつもりがないようだった。
もっとも、こちらも今すぐ信濃へ兵を進めるような話をするつもりはない。
美濃の統治は始まったばかりであり、畿内の情勢も落ち着いているわけではない。越前の動きにも目を配る必要がある。六角がどのような形で東国へ関わることになるにせよ、まずは美濃を確かに押さえておく必要があった。
俺はその考えを長秀へ伝え、将来のことについては今の段階で約束できないと答えた。
長秀はそれ以上追及してこなかったが、俺の返事を慎重に受け止めている様子だった。
そこで今度はこちらから尋ねることにした。
「丹羽殿。仮に六角と織田が同盟を結ぶとして、織田殿は何を望まれるのでしょう。国境の安定だけなら、今回の取り決めを進めれば済む話です」
長秀はすぐには答えなかった。
こちらの問いが信長の考えに踏み込んだものであることは分かっている。長秀もすべてを話せる立場ではないだろう。それでも同盟を結ぶというのであれば、双方が何を得ようとしているのか確かめておく必要がある。
しばらく考えた後、長秀は信長が今後さらに領国を広げることを考えており、その際に六角と争わず協力できるのであれば、互いに得るものも大きいと答えた。
なるほど。やはり美濃だけの話ではないらしい。
俺が美濃を巡って争うより、その先へ目を向けたいということなのかと尋ねると、長秀はそのような道もあると答えた。ただし、東美濃を諦めたわけではないという言葉だけは、はっきりと付け加えてきた。
そこは譲れないということか。
俺は思わず苦笑した。
「そこは六角も同じです。簡単には譲れません」
「承知しております。ですからこそ、互いに争わずに済む道を探したいのでございます」
長秀の言葉には、使者としての慎重さだけでなく、何としても交渉を進めたいという気持ちが感じられた。
信長は東美濃を欲している。それでも六角と手を結びたいと考え始めているのであれば、こちらにも利用できるところはあるだろう。
ただ、信長が将来どこまで勢力を伸ばすつもりなのかは分からない。今は互いに利益があっても、十年先まで同じ方向を向いていられる保証はない。
だからといって、将来争うかもしれないという理由だけで今の協力を拒むのも愚かな話だ。
俺は正式な盟約については父上と話す必要があることを伝え、まずは今回の取り決めを進めたうえで、その先について改めて話し合うことを提案した。長秀も異存はないらしく、信長へそのように伝えると約束してくれた。
これで今回の会談は一区切りとなった。
東美濃の帰属について結論が出たわけではない。両家の同盟も、まだ話し合いを始めることが決まったに過ぎない。それでも国境での衝突を避けるための具体的な案をまとめ、互いに協力できる余地を探るところまでは進めることができた。
長秀は翌朝、尾張へ帰ることになった。
*
翌日、長秀は供の者たちを連れて観音寺城を発った。
俺は父上からの返書を渡し、城の出入口まで見送った。冬の空は澄んでいたが、山から吹き下ろす風は冷たく、供の者たちも襟元を押さえている。
長秀は此度の会談で十分に話を進めることができたと礼を述べ、信長へ報告すると約束してくれた。俺も織田殿へよろしく伝えてほしいと頼み、馬に跨がる長秀を見送った。
供の者たちがそれに続き、一行はゆっくりと城を離れていく。
以前の稲葉山城での会談とは違い、今回は互いに具体的な条件について話すことができた。もちろん同盟が成立したわけではないし、国境での取り決めについても信長の返答を待つ必要がある。それでも織田が何を求めているのか、以前よりは分かった気がしていた。
長秀の姿が見えなくなるまで見送った後、俺は冷たい風に肩を縮め、書院へ戻ることにした。
父上はすでに返書の内容を承知しておられたため、今度は同盟について長秀とどこまで話したのかを尋ねられた。俺は信長が美濃の先へも目を向けているらしいこと、松平との関係を考えれば今川との争いを見据えている可能性があることを報告した。
父上はしばらく考えておられたが、信長ならばそのようなことも考えそうだと仰せになった。ただ、六角に何を求めるつもりなのかが明らかになっていない以上、こちらから話を急ぐ必要はないという。
「上総介が六角との同盟を本気で望んでいるのであれば、また使いを寄越すであろう。その時は儂も話に加わることになるな」
「はい。美濃のことだけでは済まなくなりますから」
父上は頷かれ、これまでどおり美濃に力を注ぐよう命じられた。織田との交渉が進むからといって、東美濃の国人たちへの働きかけを止める必要はないという。
その点については俺も最初から考えを変えるつもりはなかった。織田との取り決めが正式に成立するまでは、何も約束していないのと同じだ。仮に盟約を結ぶことになったとしても、東美濃の帰属が自動的に決まるわけではない。
父上の書院を辞した後、俺は弥太郎を呼び、稲葉山城へ送る書状を用意させた。
今回の交渉については進藤山城守にも知らせておく必要がある。国境での取り決めはまだ正式なものではないため、現地で勝手に話を進めぬよう伝えなければならない。それまでは従来の警固を維持し、無用な争いを起こさぬよう注意させることにした。
東美濃への働きかけについても、従来の方針を続けるよう命じるつもりだった。佐藤忠能への接触を慎重に進め、一色家の動きについても引き続き報告を求める。織田が遠山一族との縁を保とうとしている以上、こちらも東美濃で動きを止めるわけにはいかなかった。
書状を書き終えたところで、道中の茶屋について長秀から聞いた話を思い出した。
「そうだ。弥太郎、もう一つ頼みたいことがある」
弥太郎が顔を上げるのを待ち、四公六民の話がどの程度まで領内に広まっているのか確かめるよう命じた。まだ改める途中だというのに、すでに決まったことだと思っている者もいるらしいと伝えると、弥太郎も少し驚いた様子だった。
長秀が道中の茶屋で聞いた話だと説明し、目賀田のところにも確認するよう頼んだ。今のうちに何を伝えておくべきか考えておいた方がよいだろう。
領民が政に期待してくれることは有り難い。しかし、期待が大きくなりすぎれば、思うように進まなかった時の不満も大きくなる。年貢の見直しは慎重に進めなければならないし、役人たちの仕事も増えるだろう。
道を直す時もそうだったが、実際に動くのは現地の者たちだ。俺が方針を示すだけで何もかも変わるわけではない。
それでも茶屋の主人が喜んでいたと聞いたことは、少し嬉しかった。
弥太郎へ書状を渡して片付けを進めさせていると、丹羽殿は以前の会談とは違った様子だったかと尋ねられた。どうやら前回、長秀が俺の考えを掴みきれなかったという話を聞いていたらしい。
俺は思わず笑った。
「今回は随分と話が進んだ。だが、丹羽殿も織田のことをすべて話してくれたわけではないだろうな」
弥太郎は少し困ったような顔をしたが、こちらも同じことだと付け加えると、ようやく納得したらしい。それ以上は尋ねず、書状を持って退出していった。
俺は美濃の絵図を広げ、稲葉山から東へ目を向けた。
信長が六角との同盟を考え始めたことは意外だったが、話を聞いてみれば理解できないことではない。美濃を巡って争うより、別の場所で利益を得られるのであれば、その道を選ぼうとするのも当然だろう。
ただし、信長が何を望むのかを知ることと、それを受け入れることは別だ。
織田が東へ進むのであれば、六角にも機会が生まれるかもしれない。だが、いずれ互いの望みがぶつかることもあるだろう。その時に備えるためにも、今は美濃を確かに押さえておく必要がある。
俺は絵図の端に置いていた書状を取り上げ、もう一度目を通した。
西美濃では国人たちが新たな支配に従い始めているが、まだ落ち着いたとは言い難い。東美濃では一色家が勢力を保ち、織田や武田との関係を気にする者も少なくない。信長が長秀の報告をどう受け止めるかは分からないが、返答が届くまで何もせずにいるつもりはなかった。
机の上には、まだ目を通していない書状が残っている。
外では相変わらず冬の風が吹いていたが、書院には午後の日差しが差し込んでいた。廊下から近習たちの声が聞こえ、やがて新しい報告を抱えた者が姿を見せた。
織田との交渉は始まったばかりだ。だからといって、ほかの仕事が減るわけではない。
俺は次の書状を受け取り、そこに記された内容を読み始めた。
一話の文字数はどのぐらいが読みやすいですか?
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このまま
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1~5000文字