永禄六年二月下旬。美濃国関城。
朝から降り続いていた雨が、昼を過ぎても止む気配を見せなかった。庭先の土は黒く濡れ、軒から落ちる雫が水溜まりを絶えず揺らしている。儂は書院で東美濃の諸将から届いた書状を読みながら、何度目になるか分からぬ溜息を吐いた。春を迎えるまでには軍勢の目処を立てたいというのに、届く返答はどれも思わしくない。これでは龍興様に報告したところで、また不興を買うだけだろう。
稲葉山城を失ってからというもの、一色家に従う国人たちの態度は明らかに変わっていた。以前ならば軍役の催促に不満を漏らしながらも定められた人数を揃えてきた家が、今では自領の守りを理由に兵を出し渋っている。村々の疲弊や兵糧の不足を訴える書状も増えた。無論、すべてが偽りではあるまい。昨年の戦で西美濃を失い、残された東美濃にも大きな負担が掛かっている。それでも一色家のために兵を動かそうという者が減ったことは、認めねばならなかった。
儂は加治田から届いた書状を取り上げた。佐藤紀伊守忠能は加治田城と周辺の街道を守るため、相応の兵を残したいと申し出ている。関城へ出せる兵については明確な人数を示さず、情勢を見ながら相談したいという。昨年の軍議でも似たような話を聞かされたが、今回は以前より慎重な言葉が並んでいた。
紀伊守が六角へ接近しているという噂は、儂の耳にも届いている。西美濃との商いが増え、加治田へ出入りする者の中には稲葉山へ足を運ぶ商人もいるらしい。しかし、それだけで六角へ通じていると決め付けるわけにはいかなかった。疑わしい者を片端から責め立てれば、今は従っている国人まで離れてしまう。
廊下から足音が近付いてきた。顔を上げると、家臣の一人が雨に濡れた裾を気にしながら書院へ入ってきた。
「隼人佐様。御屋形様より、評定にお出ましになるよう仰せ付かりました」
「……今からか」
「はい。東美濃の軍役についてお話があるとのことでございます」
嫌な予感がした。昨夜も龍興様から兵の集まりが悪いことを咎められたばかりである。今朝になって急に考えを改められたとは思えなかった。
「承知した。すぐに参る」
書状を揃えて立ち上がると、家臣が何か言いかけて口を閉ざした。その顔を見れば、評定で何が起きるのか心配していることは分かる。儂とて気が進まぬ。だが、龍興様の前で国人たちの窮状を伝えられる者がほかにどれほどいるだろうか。耳に痛いことほど、誰かが申し上げねばならなかった。
評定の間には、すでに主だった家臣たちが集まっていた。龍興様は上座に腰を下ろし、手元の書状を険しい顔で眺めておられる。儂が席に着くと、待ち構えていたように顔を上げられた。
「隼人佐。国人どもからの返答は揃ったか」
「大方は届いております。ただ、軍役については各家とも厳しい事情を抱えており、求めた人数を揃えるには今しばらく猶予が必要かと存じます」
「またそれか」
龍興様は書状を畳み、脇へ放り出された。
「昨年から同じことばかり申しておる。兵が足りぬ、米が足りぬ、城を守らねばならぬとな。あれほどの所領を与えられながら、主家のために兵も出せぬというのか」
儂はすぐには答えなかった。各家の所領は一色家への奉公と無関係ではない。しかし、実際に兵を出せるかどうかは別の話である。昨年までと同じ軍役を求めれば、国人たちはますます自領へ兵を留めるだろう。
「御不満はもっともにございます。ですが、昨年の戦で兵を失った家もございます。無理に人数を揃えさせれば、城や村を守る者まで失うことになります」
「ならば、いつまで待てと申す」
「まずは各家の兵数と兵糧を改めて確かめ、そのうえで軍役を定め直すべきかと。春の間に守りを整えるのであれば、今からでも間に合いましょう」
「それでは遅い!」
龍興様の声が評定の間に響いた。
「六角が稲葉山を押さえておるのだぞ。あやつらが東へ兵を進めてきた時、国人どもが揃ってから戦うつもりか。そのような悠長なことを申しておるから、いつまで経っても兵が集まらぬのだ!」
儂は唇を引き結んだ。龍興様が焦られる気持ちは分かる。稲葉山を失い、西美濃の諸将が六角へ従ったことで、一色家の威勢は大きく損なわれた。今のままでは六角が東へ進んできた際、十分な兵を揃えられぬ恐れがある。
しかし、その危機を招いた原因の一つが、国人たちに無理な軍役を求め続けてきたことにあるのも事実だった。
「隼人佐。兵を出さぬ者どもには、相応の咎を負わせよ」
「咎、にございますか」
「所領を取り上げるのだ。主家への奉公を怠る者に、土地を持たせておく道理があるか」
思わず顔を上げた。
「お待ちくだされ。それはあまりに性急にございます」
「何だと?」
「軍役を果たせぬ家にも、それぞれ事情がございます。所領を取り上げるとなれば、国人たちは一色家に従うどころか、六角や織田へ走るやもしれませぬ」
龍興様の眉がつり上がった。
「ならば、従う者だけを残せばよかろう。背く者に情けを掛ける必要などない」
「しかし、国人たちが一斉に背けば、その所領を取り上げるための兵さえ足りませぬ。まずは従わせることをお考えくだされ」
儂の言葉に周囲の家臣たちがわずかに身じろぎした。誰もが同じ危惧を抱いているのだろうが、口を開こうとはしない。
龍興様はしばらく儂を睨んでおられたが、やがて口元を歪められた。
「では、子を差し出させよ」
「……何と仰せにございますか」
「忠誠に疑いのある家には、子や近しい者を人質として差し出させる。それならば勝手に六角へ通じることもできまい」
背筋が冷たくなった。
人質を取ること自体は珍しい話ではない。国人たちを従わせるために、子弟を城へ預けさせることもある。しかし今の一色家がそれを強く求めれば、話は違ってくる。西美濃の国人たちは六角へ帰属し、所領の安堵を受けている。その六角と比べられる立場にありながら、こちらが所領没収と人質の差し出しを命じれば、国人たちがどう受け取るかは明らかだった。
「殿。どうかお考え直しくだされ」
儂は身を乗り出した。
「人質を求めることそのものを否定するつもりはございませぬ。ですが、今は時期が悪うございます。西美濃では六角が帰属した者の所領を安堵し、従来の家中も残しております。そのような折に我らが国人たちの土地を取り上げ、子を差し出させると命じれば、どちらへ従うべきか迷っている者の背を押すことになりましょう」
「六角の真似をしろと申すのか!」
「そうではございませぬ。今の一色家に必要なのは、国人たちをつなぎ留めることでございます。所領を守るために従っている者まで追い詰めれば、兵を集めるどころではなくなります」
言葉を重ねるほど、龍興様の顔から血の気が引いていくように見えた。怒りを堪えておられるのだと気付いたが、ここで口を閉ざすわけにはいかなかった。
儂が諫めなければ、誰が申し上げるというのか。
「隼人佐。そなたは誰の家臣だ」
低い声だった。それまで声を荒らげておられたこともあり、かえって胸に迫るものがあった。
「無論、一色家の家臣にございます」
「ならば何故、儂の命にことごとく異を唱える。先ほどから聞いておれば、国人どもの事情ばかり並べ、儂の言葉には耳を貸さぬではないか」
「そのようなつもりはございませぬ。ただ、殿が誤った御判断をなされば、一色家そのものが危うくなります。御家を守るためにも、どうか今一度お考えを……」
「黙れ!」
龍興様が立ち上がられた。
次の瞬間、手にしておられた扇が儂の頬を打った。
乾いた音が響き、顔が横へ弾かれた。思いがけぬ一撃に息が詰まる。まだ痛みを確かめる間もなく、今度は額の辺りを打たれた。扇の硬い部分が皮膚を擦り、熱いものが眉の脇を伝ってくる。
「父上の代から仕えておることをよいことに、儂を侮っておるのであろう!」
「……そのようなことは、決して」
「では何故、儂の申すことに従わぬ!」
さらに扇が振り下ろされた。儂は身を引かず、膝をついたまま頭を下げた。ここで立ち上がれば、周囲の者たちがどのように受け取るか分からない。腹の底から怒りが湧き上がってきたが、それを表に出せば龍興様の怒りに応じることになる。
儂とて人間だ。家臣たちの前で顔を打たれ、何も感じぬはずがない。屈辱に胸が焼けるようだった。それでも、この場で儂が怒鳴り返して何になる。今守らねばならぬのは儂の面目ではなく、一色家の行く末なのだ。
「殿。隼人佐様は御家のことを思って申し上げておられます。どうか……」
近くにいた家臣がたまりかねたように声を上げた。
「そなたまで儂に逆らうのか!」
怒声を浴びせられた家臣は言葉を失った。儂は額から流れた血を袖で拭い、改めて頭を下げた。
「殿。お怒りは儂一人へお向けくだされ。ですが、国人たちへの御処分については、どうかお待ちいただきたい。今ここで所領を取り上げ、人質を求めれば、取り返しのつかぬことになりましょう」
「まだ申すか!」
龍興様が扇を握り直されたのが見えた。
しかし、今度は打たれなかった。しばらく儂を睨み付けておられたが、やがて扇を脇へ投げ捨てられた。
「もうよい。隼人佐、下がれ。そなたの顔など見とうない」
「……御意」
儂が頭を下げても、龍興様はすでにこちらを見ておられなかった。評定の間には重苦しい沈黙が流れている。誰も口を開かず、儂が立ち上がると近くの家臣が慌てて道を空けた。
背後からは龍興様がほかの家臣たちに何か命じておられる声が聞こえた。しかし、その言葉を一つずつ確かめる気にはなれなかった。頬の痛みよりも、先ほど見た家臣たちの顔が頭から離れない。
誰もが怯えていた。龍興様に対してだけではない。これから一色家がどうなるのか、その先行きを恐れているように見えた。
書院へ戻ると、若い家臣が慌てて駆け寄ってきた。評定の間の外で待っていた者で、儂の顔を見るなり血相を変えた。
「隼人佐様! そのお顔は……」
「騒ぐな。少し扇で打たれただけだ」
「少しなどと……。血が出ております!」
男は儂の返事も待たずに水と布を用意させた。普段は落ち着いて仕事をする者だが、今ばかりは手元が覚束ないらしい。水に浸した布を絞る際にも何度か指を滑らせ、ようやく儂の前へ戻ってきた。
「お顔を拭わせていただきます」
「ああ、頼む」
頬へ布が触れた途端、鋭い痛みが走った。思わず顔をしかめると、家臣は慌てて手を引いた。
「申し訳ございませぬ」
「そなたが謝ることではない。続けてくれ」
家臣は小さく頷いたものの、再び布を当てる手は震えていた。額の傷を確かめようとした時、男の目から涙が零れた。
「……何故でございますか」
声が震えていた。
「隼人佐様ほど御家のために尽くしておられる方が、何故あのような目に遭わねばならぬのでございますか」
「声を落とせ」
「ですが!」
男は顔を上げた。目には涙が溜まり、歯を食いしばっている。儂が何か言うより早く、堪えきれなくなったように言葉を続けた。
「皆の前でお顔を打たれるなど、あまりにも酷うございます。隼人佐様が何を思って諫めておられるか、御屋形様には分からぬのでしょうか。私は……私は、悔しゅうございます」
言葉の終わりには涙声になっていた。
儂はしばらく黙って男を見ていた。若い頃から仕えてくれている家臣の一人であり、普段は滅多なことでは感情を表に出さない。その男が今は子供のように涙を流している。儂が打たれたことを、我がことのように悔しがっているのだ。
「……私は、御屋形様が許せませぬ」
その言葉には思わず胸を突かれた。
叱りつけるべきだろうか。主君を許せぬなど、家臣が口にしてよい言葉ではない。まして一色家の重臣である儂が、そのような思いを認めるわけにはいかなかった。
だが、男の涙を見ているうちに咎める気持ちは薄れていった。
「儂とて腹が立たぬわけではない」
そう告げると、家臣は驚いたように顔を上げた。
「皆の前であれほど打たれたのだ。悔しくないと言えば嘘になろう。儂にも面目がある。腹の立つことくらいあるわ」
「それでは、何故……」
「怒りに任せて殿へ言い返せば何が残る。儂が怒鳴り、殿がさらにお怒りになれば、家臣たちはますます何も申せなくなる。それでは今日の諫言が何のためだったのか分からぬではないか」
家臣は俯いたまま袖で涙を拭った。
儂はまだ痛む頬へ手を当てた。こうして落ち着いた口を利いていても、龍興様の言葉を思い出せば怒りが込み上げてくる。長く一色家に仕えてきたことを理由に、主君を侮っているとまで言われた。あの言葉は扇で打たれた傷よりも深く胸に残っていた。
「儂が殿をお諫めするのは、長く御家に仕えてきたからだ。先代から預かったものを、みすみす失いたくはない。たとえ殿に疎まれようと、誤った御判断を見過ごすことはできぬ」
「しかし、この先も同じことをなさるのでは……」
「そうかもしれぬな」
言いながら、儂は苦笑した。
家臣は納得できぬ様子だった。無理もない。儂自身、今日のことを忘れられるとは思っていない。龍興様がこれからも同じように振る舞われるのであれば、いずれ諫言を申し上げる者はいなくなるだろう。
それだけは避けたかった。
「そなたが儂のために怒ってくれたことは嬉しく思う。だが、その怒りをほかの者へぶつけてはならぬ。殿の御振る舞いを責めるあまり、我らまで同じことをしては意味がない」
「……承知いたしました」
家臣はそう答えたが、まだ涙は止まっていなかった。
儂はそれ以上言葉を重ねず、傷の手当てを任せた。布を取り替えるうちに男の手の震えも幾分収まったが、時折俯いて涙を拭う姿を見ると、こちらまで胸が苦しくなった。儂一人が打たれただけなら耐えれば済む。しかし、長く一色家に仕えてきた者たちの心まで傷つけられては、簡単に元へ戻すことはできない。
手当てを終えた頃、別の家臣が評定の間から戻ってきた。儂の顔を見て一瞬言葉を失ったが、すぐに姿勢を正した。
「隼人佐様。先ほどの御評定について、ご報告がございます」
「申せ」
「御屋形様は、軍役を果たさぬ国人への処分を改めてお命じになりました。所領の没収と人質の差し出しについても、お考えを変えておられませぬ」
予想していたとはいえ、落胆を隠せなかった。
「各家へは、もう書状を遣わしたのか」
「いえ。まずは国人たちの軍役について書付を整えるよう仰せ付けられました。処分の対象については、改めて御判断なさるとのことでございます」
儂は少し考えた。
まだ正式な書状が出されていないのであれば、手を打つ余地は残っている。軍役を果たさぬ者といっても、その事情は家ごとに異なる。まずは兵数と兵糧を改めて調べ、その結果を揃えなければ処分の対象を定めることもできまい。
「各家から届いた返答を集めよ。以前の軍役と照らし合わせ、兵を出せぬ理由も書き出しておきたい。加治田だけでなく、ほかの国人についても同じように調べるのだ」
「御屋形様には、いかが申し上げますか」
「処分を定めるために必要な調べだと申し上げる。偽りではあるまい」
龍興様の命令を勝手に取り消すつもりはない。それをする権限も儂にはなかった。しかし、何も確かめぬまま国人たちへ処分を申し渡すわけにもいかない。今は少しでも時間を稼ぎ、再びお諫めする機会を作るしかなかった。
家臣たちを下がらせると、儂は手元に残された書状を開いた。加治田の紀伊守から届いた返答も、その中にある。六角へ接近しているという疑いはあるが、確かなことはまだ分からない。今ここで紀伊守を疑わしい者として名指しすれば、取り返しのつかぬことになりかねなかった。
額の傷が疼いた。袖口には拭いきれなかった血が小さく残っている。
儂はそれを見つめ、しばらく筆を取れずにいた。
龍興様が儂の諫言を聞き入れてくださらぬことは、これまでにもあった。だが、今日のように家臣たちの前で打たれたのは初めてだった。先ほど涙を流した若い家臣の顔が思い浮かぶ。あの男だけではない。評定の間にいた者たちも、同じような思いを抱いているのかもしれなかった。
それでも一色家を支えようとする者がいるうちは、儂が先に投げ出すわけにはいかぬ。
そう考えて筆を取ったものの、胸の内に残る苦々しさは消えなかった。
*
評定を終えて自室へ戻ると、儂は後ろに控えていた近習へ酒を持ってくるよう命じた。まだ日も高い時分ではあったが、今は何かを口にせずにはいられなかった。近習は一瞬だけ戸惑った顔を見せたものの、すぐに頭を下げて退出した。
まったく、忌々しい。
評定での隼人佐の言葉が、いつまでも頭から離れなかった。国人どもに所領の没収を命じれば離反を招く。人質を求めれば六角へ走る者が出る。何を命じても危ういと申し、結局は儂の考えを退けようとする。あの男は一色家の重臣でありながら、国人どもの言い分ばかりを並べ立てるのだ。
しかも、ほかの家臣たちが居並ぶ前である。
儂が一色家の当主であることを忘れたわけではあるまい。それなのに隼人佐は何度制しても口を閉ざさなかった。まるで儂だけが道理を知らぬと言わんばかりの態度だった。
近習が酒を運んできた。儂は盃を取ると、注がれた酒を一息に飲み干した。喉を通る熱さが腹へ落ちていく。空になった盃を差し出すと、近習は黙って酒を注いだ。
「どいつもこいつも、勝手なことばかり申しおって」
思わず口から零れた言葉に、近習の手が止まった。
「儂が兵を出せと命じれば、米が足りぬ、働き手が足りぬと申す。所領を取り上げると言えば、それでは国人が離れると騒ぐ。では、どうすればよいというのだ」
近習は答えなかった。答えられるはずもない。儂自身、返答を求めているわけではなかった。
再び盃を空けたが、胸の内に渦巻く苛立ちは少しも和らがなかった。
西美濃を失ってからというもの、家臣たちは以前にも増して慎重なことばかり口にするようになった。何かを命じれば、まず難しい理由を並べる。兵を動かそうとすれば国人の事情を訴え、所領の扱いを改めようとすれば家中が揺らぐと申す。儂とて無闇に国人どもを苦しめたいわけではない。六角に奪われた土地を取り戻し、一色家を立て直すために兵が必要なのだ。
そのための命令さえ思うように通らぬ。
稲葉山城にいた頃ならば、ここまで露骨に軍役を渋る者はいなかった。無論、不満を漏らす者はいたが、最後にはそれぞれの役目を果たしていた。ところが今では書状を出しても返答を延ばし、兵数を尋ねれば自領の守りを理由に人数を減らそうとする。儂が何も申さずにいれば、そのうち誰も兵を出さなくなるのではないか。
そうなれば、一色家はどうなる。
「もう一杯だ」
「はっ」
差し出された酒を飲み干し、盃を膝元へ置いた。
六角が西美濃を得た後、国人たちの所領を安堵したことは儂も聞いている。氏家や安藤、稲葉まで六角へ従ったのだから、その処遇が悪いものでなかったことは分かる。だが、それは六角へ帰属した者への話であろう。儂のもとに残っている国人たちが、主家への軍役を果たさずに済む理由にはならぬ。
隼人佐はそこを分かっておるのか。
いや、分かっておらぬはずがない。あの男は儂よりも長く一色家に仕え、兵を動かすことにも国人の扱いにも通じている。だからこそ余計に腹立たしかった。国人どもの事情を知っているなら、儂が何故兵を求めているのかも理解しているはずだ。
それなのに何故あれほど逆らうのだ。
ふと評定の間にいた家臣たちの顔が思い浮かんだ。
隼人佐が所領没収に異を唱えた時、誰一人として儂を支持する者はいなかった。皆が黙って俯き、儂と隼人佐のやり取りを聞いていた。あの沈黙を思い出すだけで腹の底が熱くなる。
儂が間違っているとでも言いたかったのか。
そのような考えが浮かぶと、また酒が欲しくなった。
「注げ」
近習は酒を注ぎながら、恐る恐る儂の顔を窺った。
「御屋形様。少しお休みになられてはいかがでしょうか」
「休んで何になる」
「いえ、その……。先ほどから随分とお飲みになっておられますので」
「酔うほど飲んではおらぬ」
そう答えて盃を傾けた。
実際、不思議なほど酔いが回らなかった。いつもならばこれだけ飲めば多少は気が大きくなり、嫌なことも忘れられる。ところが今日は頭ばかりが冴え、評定で交わした言葉が次々と思い出される。
儂は近習へ下がるよう命じた。男は酒の入った徳利を残し、ほっとしたような顔で部屋を出ていった。
一人になると、急に部屋が静かになった。
庭から聞こえる雨音も、いつの間にか弱くなっている。儂は徳利を手に取り、自ら盃へ酒を注いだ。先ほどまで腹立たしさに任せて飲んでいたせいか、改めて口に含むと酒の味が妙に苦く感じられた。
何をしておるのだ、儂は。
朝から家臣どもの働きに腹を立て、評定では隼人佐を打ち据えた。こうして昼間から酒を飲んでいる間にも、六角は東美濃の国人たちへ手を伸ばしているかもしれぬ。
そう思うと、さすがに盃を重ねる気が薄れた。
儂は膝元へ目を落とした。
盃にはまだ酒が残っていた。わずかに揺れる酒の面を眺めていると、評定の間で見た光景が不意に蘇った。
隼人佐が膝をつき、頭を下げていた姿である。
儂が扇で頬を打っても、あの男は立ち上がらなかった。額から血を流しながら、それでも国人たちへの処分を思い直すよう求めてきた。
思い出した途端、再び苛立ちが込み上げてきた。
あれほど申しても、まだ儂に逆らうか。
儂は盃を握る手に力を込めた。隼人佐の態度はどう考えても度が過ぎていた。主君から打たれてなお自分の考えを曲げぬなど、儂の命を何だと思っているのか。
しかし、そこでふと別の考えが浮かんだ。
……あれなりに、一色家のことを考えておるのか。
隼人佐は先代の頃から仕えている重臣である。儂が家督を継いでからも、国人との交渉や軍勢の取りまとめを任せてきた。稲葉山を失った後も関城で儂を迎え、東美濃の諸将をつなぎ留めようと働いている。
そのことまで否定するつもりはなかった。
評定で口にしたことも、すべてが間違っているとは思わぬ。西美濃を失った今、国人たちが自領の守りを優先したがることは儂にも分かる。無理な軍役を命じれば反発する者が出るだろうし、所領を取り上げれば六角へ逃れる者もいるかもしれない。
だからこそ儂とて、昨年の冬には軍役の負担を緩めることを認めたのだ。
隼人佐の申し出を受け入れ、国人たちには春までに兵数と兵糧を確かめさせた。自領の守りを固めることも許した。あれほど譲歩したというのに、届いた返答はどうだったか。兵を出せぬ理由ばかりが並び、いざという時に何人動かせるのかさえ明らかにせぬ家がある。
儂は隼人佐の言葉に耳を貸さなかったわけではない。
それなのに、あの男は今日も儂に我慢を求めた。
国人どもが従わぬから処分しようとすれば、それも待てと申す。では、いつまで待てばよいのだ。六角が関城へ攻め寄せるまでか。それとも東美濃の国人たちが一人残らず六角へ従うまでか。
盃の中で酒が揺れた。
隼人佐が儂のために働いてきたことは疑いようがない。だが、それは今も変わらぬのだろうか。
ふと、そのような考えが胸をよぎった。
稲葉山を失ってから、隼人佐は以前にも増して国人たちの扱いを気にするようになった。軍役を減らし、所領を守らせ、無理に人質を求めぬよう申し出る。どれも国人どもにとっては有り難い話だろう。
しかし、それによって得をするのは誰だ。
国人たちは兵を温存できる。一色家は軍勢を集められなくなる。もし六角が東へ進んでくれば、国人どもは自領の兵を残したまま、どちらへ従うかを選ぶことができる。
儂は眉をひそめた。
六角へ従う者たちが所領を安堵されていることは知っている。隼人佐もその話を幾度となく口にしていた。先ほどの評定でも、六角のやり方を引き合いに出して儂を諫めた。
何故、あれほど六角のことを気に掛ける。
六角がどのような条件で国人を従わせているのか、儂とて知らぬわけではない。だが、隼人佐はまるで六角の方が正しいとでも言いたげだった。
……もしや。
儂は盃を置いた。
隼人佐が六角と通じているのではないか。
その考えが浮かんだ時、自分でも少し驚いた。
まさか、あの隼人佐が。
先代から仕え、一色家のために働いてきた男である。稲葉山を失った際にも儂を見捨てず、関城へ迎え入れた。もし六角へ寝返るつもりなら、あの時に儂を受け入れずともよかったはずだ。
それに隼人佐が六角へ使者を遣わしたという報告を受けたこともない。
儂はしばらく考え込んだ。
だが、何も知らぬからといって何も起きていないとは限らぬ。西美濃の氏家らが六角へ従った時も、こちらがすべての動きを掴んでいたわけではなかった。気付いた時には帰属の話が進み、稲葉山を支えるはずだった国人たちが次々と離れていった。
あの時のことを思い出すと、胸の奥が冷たくなった。
隼人佐は関城にいる。東美濃の国人たちとも深く関わっており、各家の兵数や兵糧についても調べさせている。こちらの事情を六角へ伝えようと思えば、いくらでも機会があるのではないか。
いや、そこまで考えるのは早計だろう。
儂は一度首を振った。
隼人佐が国人たちの事情を調べているのは、儂が命じたからである。軍役を緩めたことも儂自身が認めた。その結果が思わしくないからといって、すべてを隼人佐の責にするわけにはいかぬ。
だが、今日の評定での態度はどうだ。
儂が所領を取り上げようとすれば反対し、人質を求めればそれも止めようとした。六角への離反を防ぐためだと申していたが、もし隼人佐自身が六角へ近付いているのなら、あの言葉には別の意味が生まれる。国人どもが兵を出さぬことを認めさせ、一色家の軍勢を弱めようとしているのではないか。
そのように考え始めると、先ほどまで忠言だと思っていた言葉さえ疑わしくなってきた。
儂は立ち上がり、部屋の中を歩いた。
隼人佐は長く一色家に仕えてきた。儂よりも多くの家臣を知り、国人たちにも顔が利く。関城へ来てからは、兵を集めることも城の守りを整えることも、あの男に任せることが多かった。
それほどの者が敵へ通じていたとすれば、儂は一体何を信じればよい。
思わず足を止めた。
まだ何の証もない。隼人佐が六角へ通じていると聞いたわけでもなく、怪しい使者を捕らえたわけでもない。儂が勝手に疑いを抱いているだけだ。
分かってはいた。
それでも一度浮かんだ疑念は容易に消えなかった。
近習を呼ぶと、先ほど酒を運んできた男が姿を見せた。
「お呼びにございますか」
「隼人佐は今、何をしておる」
「はっ。書院にて、諸家から届いた軍役の書付を調べておられると伺っております」
「……そうか」
評定であれほど打たれたというのに、もう仕事へ戻っているらしい。そのことを聞いた時、僅かに胸が痛んだ。儂が評定から下がれと命じたのだから、今日は休んでいてもよかったはずだ。顔から血まで流していたのだから、手当てを済ませた後は寝所へ戻っているものと思っていた。
それでも書付を調べているという。
やはり、あれなりに一色家を守ろうとしておるのかとそう考えたところで、また疑いが顔を出した。
いや、何を調べている。
国人どもの兵数を確かめているのは、儂が命じた処分を遅らせるためではないのか。あるいは、どの家が一色へ従うつもりなのかを探っているのかもしれぬ。
「隼人佐のもとへは、誰が出入りしておる」
近習は少し戸惑ったようだった。
「家臣の者たちが書状を届けておりますが、詳しいことまでは……」
「では、確かめてこい」
「隼人佐様にお尋ねするのでございますか」
「違う。誰が訪ね、何を持ち込んでいるのかを知りたいだけだ。騒ぎ立てる必要はない」
近習は頭を下げたものの、その表情には困惑が浮かんでいた。当然だろう。隼人佐は一色家の重臣であり、儂の命を受けて国人たちの軍役を調べている。その男のもとへ誰が出入りしているかを密かに確かめよと命じれば、何かを疑っていると受け取られても仕方ない。
儂は少し考えてから言葉を継いだ。
「隼人佐を咎めようというのではない。近頃は六角の物見が入り込んでいるという話もある。関城の中へ怪しい者が出入りしておらぬか、それを確かめるのだ」
「承知いたしました」
「それと、このことはほかの者へ申すな」
近習は改めて頭を下げ、静かに退出した。
部屋に一人残されると、儂は先ほどまで飲んでいた酒へ目を向けた。
隼人佐が六角へ通じているという確かな証はない。仮に疑いがあったとしても、今すぐあの男を遠ざけるわけにはいかなかった。関城の守りも国人たちへの対応も、隼人佐に任せている仕事は多い。ほかの家臣へすべてを引き継がせるとなれば、かえって一色家の動きが鈍るだろう。
それに、もし儂の思い違いであったなら。
そこまで考えた時、評定の間で扇を振り下ろした瞬間が蘇った。
隼人佐は打たれても言い返さず、ただ頭を下げていた。儂がさらに打った時も同じだった。それなのに、最後まで国人たちへの処分を思い直すよう求めてきた。
あの男が本当に一色家を裏切るつもりなら、わざわざ儂の怒りを買う必要などあったのだろうか。
そう考えると、先ほどまで確かだと思えた疑いが揺らいだ。
儂は盃へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
これ以上飲んでも、答えが見つかるわけではない。
隼人佐の言葉が正しいのか、それとも儂の考えが正しいのか。今はどちらとも決められなかった。だが、六角が東美濃を狙っている以上、家臣を信じていればそれで済むというわけにもいかぬ。
儂は再び腰を下ろし、机に残されていた書状を手に取った。
国人どもへの処分を取り消すつもりはない。しかし、隼人佐が何を考えているのかを確かめるまでは、あの男の申すことをそのまま受け入れる気にもなれなかった。
先代の頃から仕えてきた重臣である。儂とて疑いたくはない。それでも今日のように儂の命へ異を唱え続けるのであれば、いずれ何らかの決断を下さねばならぬだろう。
盃には、まだ半分ほど酒が残っていた。
儂はそれを飲まずに脇へ押しやり、国人たちから届いた返答を読み始めた。先ほどまで腹立たしさしか感じなかった書状が、今では別の意味を持っているように見える。兵を出せぬと訴える者たちは、本当に困窮しているのか。それとも隼人佐と示し合わせて儂の命に従わぬつもりなのか。
いかん。これでは誰も信じられなくなる。
そう思いながらも疑念を振り払うことはできなかった。近習が何を調べてくるか分からぬ以上、今は待つしかない。儂は書状を読み進め、必要な箇所へ印を付けていった。
隼人佐が一色家のために働いてきたことは知っている。できることなら、これからもそうあってほしい。
だが、あの男が儂に従わぬ理由を、もはや忠義だけでは説明できなくなっていた。
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